桜花妖々録   作:秋風とも

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第74話「人見知り兎と永遠のお姫様」

 

 永遠亭と呼ばれるこの日本屋敷は、どうやら相当複雑な内部構造をしているらしい。

 白玉楼も大概だったが、この永遠亭も中々である。

 特に気になったのは廊下だ。外装から得たイメージと比較しても、明らかに長すぎるような気がする。──いや、“気がする”などという個人的な意識などではなく、実際本当に長いのだろう。当然、進一が持っている常識なんてまるで当てにならぬような力が働いているのだろうけれど、どうやら空間が引き延ばされているらしい。文字通り永遠に続くのではないかと思ってしまうその廊下を歩いていると、流石に気持ちが悪くなりそうだ。迷いの竹林ほどではないにしろ、感覚が大きく狂わされてしまう。

 

 そんな廊下の先にある一室。永琳にウドンゲと呼ばれていた少女に進一が連れてこられたのは、竹の香りが漂う八畳ほどの和室だった。

 どうやら縁側とも隣接した和室のようで、開かれた襖の先には庭の様子も確認できる。枯山水が主であった白玉楼とは違い、こちらはどちらかというと緑が多い印象を受ける。やはり竹林の中に佇むお屋敷なだけあって、竹をメインにデザインされているようだ。竹柵やらししおどしやら、まさに竹尽くしである。

 

 風流な日本庭園が観覧できる部屋なだけあって、座っているだけでも自然と心に安らぎを齎してくれる。ほのかに竹の香りが漂う粛然とした和室は、白玉楼とはまた違った意味で魅力的である。

 落ち着く。昨日に続き今朝も今朝で()()とあった所為で、ここまで静寂に包まれると余計に肩の力が抜ける。何だか逆に妙な感じだが、それでもこの安息感は決して嫌な感じではない。自分は静かな場所が好きなのだろうか。

 

「静かだな……」

 

 そう、静かだ。静かな時間は嫌いじゃない。時間がゆっくりと過ぎていくようなこの感覚だって、心が妙に安心できる。ただぼんやりと庭を眺めているだけでも、文字通り時間を忘れて思い切り寛げてしまいそうである。

 ──この部屋にいる人物が、進一ひとりだけであったのならば。

 

「……なぁ」

 

 庭園から視線を逸らし、進一は部屋の隅へと顔を向ける。そこにいたのは、ちょこんと小さく正座をしている一人の少女。

 

「……おい」

「は、はひっ!? な、ななな何でしょうか!?」

「いや何でしょうって……」

 

 反応がなかったのでもう一度声をかけてみたが、何やら妙に怯えられてしまった。別に驚かすようなつもりなど微塵もなかったのだが、流石にそんな反応をされると進一だって気になってしまう。

 部屋の隅でちょこんと正座を続けていたこの人物。永琳にウドンゲなどと呼ばれていた、頭の上に兎の耳を生やした少女である。永琳と異なり明確に人外としての特徴が見て取れる彼女だが、そんな耳以外の箇所に関しては至って普通な少女のように思える。

 服装は赤いネクタイを着けたブラウスの上に紺色のブレザーを羽織っており、下は薄桃色のスカートといったやけに現代的なものだ。幻想郷の他の住民とはまた違った雰囲気を醸し出している。

 

 そんな兎耳少女だが、進一をこの部屋に通すなりずっとこんな感じなのである。いや、確かにこの部屋に案内されるまでの間も特に会話はなかったのだが、時間経過に比例して気まずい雰囲気が右肩上がりで急上昇しているように思える。流石の進一も居た堪れない。

 

「何をそんなに怯えている?」

「おっ、おおお怯えてなんかない、で、ですよ……? わ、わわ私、は、い、いい至って、せ、正常、でして……!」

「それで正常なら中々にファンキーな奴だな……」

 

 壊れたステレオスピーカーか何かか、彼女は。

 ──冗談はさておき。彼女がいつまで経ってもこんな調子じゃ、こちらとしても心配になってくる。なぜだか涙目になりつつあるし、ひょっとして進一が何かしてしまったのだろうか。だとすればますます放っておけない。

 

「……すまないな、無理に突き合わせちまって。亡霊という立場上、俺は無暗に単独行動する訳にはいかないんでな」

「べ、別に、無理なんて……」

「変に気を遣わなくてもいい。俺の事が苦手というならそれで構わない。ただ、今は少しだけ辛抱してくれないか? 妖夢と永琳さんの話が終わるまでの間だけでいい」

「…………っ」

 

 少女は俯いた上に顔を真っ赤にしてしまって、遂には何も言えなくなってしまった。もじもじと更に身体を縮こませて、むずむずと口元を震わせてしまっている。

 どうやら相当怯えさせてしまったようだ。これは参った。少しでも気を紛らわせるつもりだったのに、まさかますます緊張させてしまうなんて。

 

(むぅ……)

 

 流石に困った。ひょっとしなくても間違いなく彼女は人見知りに分類されるタイプの少女で、初対面の人物を前にすると緊張してガチガチになってしまうらしい。というかここまで拗らせていると、私生活にも影響が出てきてしまうのではないだろうか。そんなに怯える必要はないのだと、進一の口から説明しても効果は期待できないだろう。

 

 どうする。ここはやはり、そっとしておいてあげる方がベストなのだろうか。下手に声をかけてますます怯えさせてしまうくらいなら、いっその事このまま静かにしておいた方が──。

 

「……あ、あの……!」

 

 ──などと思い始めた矢先。意外にも、あちらから進一へと声をかけてきた。

 予想外の展開に進一は一瞬だけ呆気にとられそうになってしまったが、けれどそんな困惑などすぐに払拭して改めて彼女に向き直る。折角あちらから声をかけてきてくれたのだ。邪険に扱うなんてとんでもない。

 

「どうした?」

「え、えっと……。その……」

 

 相も変わらず顔は真っ赤に染まっているが、それでも彼女は絞り出すように言葉を発する。

 

「べ、別に……あ、あなたの事が苦手だとか、怖いだとか、そういうのではなくて……! そ、その、私……。じ、自分で言うのも何ですけど、す、凄い、人見知りでして……」

「……ああ」

「だ、だから、その……」

 

 しどろもどろだ。徐々に声量が少なくなり、最後の方は殆ど音になっていないようにも思える。あまりにももにょもにょとし過ぎていて正直かなり聞き取りずらいが、それでも彼女が抱く気持ちは何となく伝わって来た。

 要するに、決して悪気があった訳ではないのだと。彼女はそう言いたいのだろう。ただ単に人見知りを拗らせているだけで。

 

「えっと……。お前、ウドンゲって言ったっけ? あれ? でも妖夢は鈴仙って呼んでいたような……。どっちが名前で、どっちが苗字なんだ?」

「へっ!? え、ええっと……。み、苗字とか名前とか、あまりそういった区別はないと言いますか……」

「はぁ……。まぁいい。じゃあウドンゲ」

「あ、あの……。できれば鈴仙の方で呼んで頂ければ……」

 

 ぼそぼそと何かを言っていたが、正直まったく聞き取れなかった。

 進一は小首を傾げるが、それでも取り合えず話を続ける事にする。

 

「取り合えず、お前が悪い奴じゃないって事は分かったよ。気を遣わせちまって悪いな」

「そ、そんな……。別に、私……」

「だがお節介を承知で言わせてもらうが……。流石にそこまで人見知りだと、色々と大変なんじゃないか? ここは一応、病院みたいなものなんだろう? だったらそれなりに多様な人が訪れるんじゃないのか?」

「うっ……。それは、そうですけど……」

 

 兎耳少女は再び俯く。けれど暫く黙り込んでしまった先程とは異なり、今度は直ぐに口を開いてくれた。

 

「ち、小さなお子さんとかなら、まだ大丈夫なんですよぅ……。でもあなたくらいの方とか、それよりも年上の方とか……。と、特に、男の人が相手となると、もう……」

「ああ……」

「こ、これでも一応、人里まで赴いてお薬を売ってたりするんですよ、私……? でも全然治らなくて……この人見知り……」

「成る程な……。いや、ちょっと待て」

 

 進一は思わず口を挟む。

 今、彼女は何と言った? 薬を売りに人里まで赴いていると言ったのか?

 

「それでよく薬の販売なんて出来るな……」

「そ、その際は妖怪だってバレないように変装していますし……。目も相手と殆ど合わせないので、ギリギリ……」

 

 つまるところ、こうして素の状態で面と向かって話すとなると、途端に駄目になるという事か。いや、彼女の口調から察するに、その変装とやらをしていてもそこまで饒舌になる訳でもなさそうだが。

 けれどもどうやら詳しく話を聞いてみると、やはりその薬の販売とやらは成果があまり芳しくないようだ。まぁ、人見知り故にコミュニケーションにまで支障をきたしているのなら、果たしてどんな状況なのか想像するのは容易いけれど。

 

「わ、私も……。こ、この人見知りを……、そ、その……。な、何とかしなきゃ、とは、お、思っているんですけど、ね……」

「確かに、その様子じゃ色々と大変そうだよな」

 

 別に進一だってそこまで積極的にコミュニケーションを取る方ではないが、兎耳少女のそれは全くベクトルが違うというか次元が違うというか。兎にも角にも、このままでは彼女はいつまで経っても薬売りのお使いすらまともに完遂できないままなのではないだろうか。それはそれで色々と問題である。

 

「……そうだな」

 

 ここまで話を聞いてしまった手前、何もしない訳にはいかない。折角彼女が勇気を振り絞って話してくれたのだから、進一だって何か力になってやりたい。

 

「よしウドンゲ、この際だ。ここでその人見知りを克服しちまおう」

「ふえ!? こ、克服、ですかぁ!?」

 

 びくりと彼女の身体が跳ねる。そして直後に浮かべるのは、不安と不満が入り混じったような複雑な表情。ちょっと待って、そんな事を急に言われても無理ですよ、と。口に出さずともそんな気持ちがひしひしと伝わってくる。

 まぁ、彼女の気持ちも分かる。自覚する程にここまで人見知りを拗らせているのに、いきなり克服だなんて。確かに、無茶と言えば無茶である。

 

 けれど進一は冗談でそんな事を言ったつもりはない。彼女にその気があるのなら、真剣に協力するつもりなのである。

 

「何だ? 直したいんだろ? 人見知り」

「そ、それは、そうですけどぉ……!」

 

 などと言いつつも、彼女は進一の言葉を真っ向から否定はしない。やはりこの人見知りを何とかしなければという彼女の言葉は、心の底からの本心だったらしい。その気持ちがあれば十分だ。

 

「そうだな……。とにかくまずは、人と会話するのに慣れる事から始めるとしよう。俺が話し相手になってやる。俺くらいの年齢の男と話すのが最も苦手なんだろ? だったらそこから潰していくのが効率的だ」

「あ、あなたとお話って……。そんな、急に言われても……」

「何でも良い……って言おうと思ったが、それだとどうしても困っちまうよな……。そうだな……」

 

 腕を組み、考える。

 人見知りの彼女に、急に何か話してみろと言うのも酷だ。こちらから何か話題を提示してやるべきなのだろうか、果たして何を話すべきか。

 彼女でも話しやすそうな話題。そう考えると、これが中々難しい。──こちらから言い出したのに、情けない話ではあるが。

 

「……まぁ、取り合えず俺に対して敬語を使うのをやめてみたらどうだ? そっちの方が、肩の力も多少は抜けるだろうし」

「け、敬語を止める、ですか……?」

 

 ──苦し紛れである。我ながら卑怯な提案である。

 けれども決して悪い提案ではないはずだ。彼女の場合、幾ら見知らぬ人と話す事が苦手だとは言え少々肩に力が入り過ぎである。だとするのならば、まずはその緊張を少しでも解す所から始めよう。

 あまりにも卑下するからいけない。あくまで自分と相手は対等。そう認識する為に、まずは分かりやすく言葉遣いから入ろうという話なのである。

 

「え、えっと……」

 

 兎耳少女はもじもじとする。相変わらずの仕草だが、けれども今度は多少なりとも意を決したような表情を浮かべていて。

 

「わ、分かったわよ……。敬語は、やめる……。これで、良い……?」

「……ああ。その調子だ」

 

 少々ぎこちなさが気になるが、けれども少女は素直に敬語をやめてくれた。

 進一は思わず関心した表情を浮かべる。ついさっきまでまともに口を効いてくれなかった彼女だが、まさかこうも簡単に敬語をやめてくれるとは。やはり彼女自身も心底人見知りを何とかしたいと望んでおり、これはそんな決意の結果なのだろう。

 良い傾向だ。この調子なら、本当に克服できてしまうかもしれない。

 

「え、えっと……。それで、その……」

「ああ」

「あ、あなたの事は、何て、呼べば……」

「……は?」

「だ、だから……! その……。名前で、呼んでいいのか、というか……。苗字で、呼ぶべきなのか、というか……」

 

 一瞬何を言っているのだろうかとも思ったが、そういえば確かに進一は今まで一度も彼女から名前で呼ばれていない。まさか名前を憶えられていない──訳ではないと思うが、それでも人見知りである彼女にとって気安く名前で呼んでしまうのは憚られるという事なのだろうか。

 ぶっちゃけ進一は何て呼ばれようとあまり気にしない。態々確認を取る必要もないと思うのだが、そこはやはり人見知り故の価値観の差というものだろう。

 

「別に好きに呼んでくれて構わない。岡崎だろうが進一だろうが、呼びやすい方で呼べばいい」

「よ、呼びやすい、方……。じゃ、じゃあ……」

 

 もじもじ、もじもじ。

 最早見慣れた彼女の仕草。ちらちらと進一の表情を窺うように視線を泳がせた後に、彼女はおずおずと尋ねてきた。

 

「し、進一さん、と、呼んでも……?」

「ああ。それでもいいぞ」

「じゃ、じゃあ、そうする……」

 

 やっぱりぎこちない──が、着実に進歩している手応えがある。スローベースではあるものの、少なくとも悪い傾向ではないはずだ。

 何だか少し安心した。このまま会話すらもまともに成立しないままだったら、気まずさやら何やらで進一の方も参っていたかもしれない。

 

「何だ、ちゃんと話せるじゃないか。良い調子だぞ、ウドンゲ」

「そ、そう……? それなら、いいんだけど……」

「ああ、ばっちりだ。お前はやればできる子だな、ウドンゲ」

「…………っ」

 

 気休めなどではない。心に抱いた本音を使って、進一は人見知りな兎耳少女を褒め続ける。彼女が褒めて伸びるタイプなのかどうかは分からないが、辛辣に扱うよりは進一にとっても具合がいい。というか、褒められて悪い思いをする奴なんてそうそういないはずだろう。誰しも称賛されれば、少なからず嬉しい思いを抱く事になるはずだ。

 

 ──なのに。だけれども。

 

「むぅ……」

 

 ウドンゲこと兎耳少女は、なぜだか進一に対してむくれ面を浮かべていた。

 

(……うん?)

 

 あれ、何だろうこの反応。何かまずい事を言ってしまったのだろうか。それとも褒めすぎて逆に嫌味に感じてしまったとか? だとすればしまった。そこまで考慮していなかった。

 いずれにせよ、進一が何か地雷を踏んでしまった事は確実である。ここは早急に謝罪しなければ。

 

「な、何だ? 俺、何か変な事言っちまったか……?」

「変な事と言うか……。まぁ、変な事と言えば変な事だけど……」

「そ、そうか……。すまん、悪気はなかったんだ。俺はただ、本当にウドンゲの事を褒めたかっただけで……」

「……何が悪かったのか、全然分かってないでしょ……?」

「……えっ?」

 

 はぁ、とウドンゲはため息。呆れられているようにも捉えられる。

 いや、まぁ確かに彼女がむくれている具体的な原因は定かではないが、まさかそんなリアクションが返ってくるとは思わなかった。流石にちょっぴりドキリとする。本当に、何か自分はとんでもない事をしてしまったのではないかと。

 そう、進一が密かに不安に思い始めていると。

 

「……鈴仙」

「……何?」

「ウドンゲじゃなくて鈴仙って呼んでって、そう言ったでしょ……? 私、出来ればあんまりそっちの名前で呼んでほしくない、と言うか……」

「あー……」

 

 むくれていた原因はそこだったのか。進一は納得したように声を上げる。

 詳しい事情は知らないが、どうやら彼女は「ウドンゲ」という呼称をあまり好んではいないらしい。苗字やら名前やらといった区別はないと言っていたが、ひょっとして永琳が個人的につけたニックネームか何かなのだろうか。

 というか、いつの間に「鈴仙と呼んで欲しい」等と要求されていたのだろう。あまりにもにょもにょとし過ぎていて、こちらも気づかなかっただけなのかも知れないが。

 

 ともあれ、相手が嫌がる事を進んで続けるほど進一は性悪ではない。「ウドンゲ」と呼んで欲しくないのなら、素直に彼女の要求に従う事にしよう。

 

「本当にすまなかったな。次からは気を付ける事にするよ、()()

「…………っ!」

 

 びくり、と。再び彼女──鈴仙は身体を震わせる。──いや、()()()()()()()と表現した方が正しいか。その様子は、先程進一が声をかけた時と同じ反応である。

 今度は何なんだ。しかもまた顔を真っ赤に染め上げてもじもじとし始める始末。これでは逆戻りじゃないか。

 鈴仙と呼べと言ったのはそっちなのだから、流石に今回ばかりは進一の失態ではないと思うのだが──。

 

「な、何だろう、この感じ……。き、急に、鈴仙って呼ばれると、こう……」

「……何だ? 何をぼそぼそと言っている?」

「な、何でもないわ! 何でもないから、あなたは気にしないで……!」

「そ、そうか……?」

 

 怒鳴られた。流石に訳が分からない。

 結局、一体何だったのだろう。やっぱりまた進一が何かしてしまったのだろうか。名前を呼んだだけなのにまたもやこんな反応をされると、再び不安感に苛まれそうになってしまう。我ながら中々のビビりだ。鈴仙の事をとやかく言える立場ではないのかも知れない。

 

 そんな事を思いつつも、バツが悪そうに頭を掻く進一。

 唐突に()()が現れたのは、その次の瞬間だった。

 

「何だか面白そうな事になってるわねー!」

「っ!」

「うひゃあ!?」

 

 息を呑む進一。素っ頓狂な叫び声を上げる鈴仙。突如として現れた()()()の一声を前にして、二人は揃って飛び上がってしまった。

 いつからそこにいたのだろう。鈴仙との会話に夢中で、気が付かなかったのだろうか。弾かれるように振り返ると、襖が開かれた縁側から、一人の少女がこちらの様子を窺っていた。

 

 腰ほどまで伸ばした艶のある黒髪。桃色と赤を基調とした豪華な衣服。顔つきは若干の幼さを残しており、優雅なその衣服からかどことなく高潔さを感じさせる少女だった。有り体に言えば、お嬢様だとかお姫様だとか、そういった呼称が似合いそうな少女である。

 そんな彼女は何やら心底面白そうな表情を浮かべつつも、縁側から居間へと足を踏み入れてくる。純粋無垢で天真爛漫な第一印象を受ける少女だが、それでもどことなく気圧されしてしまうような雰囲気が彼女にはあった。

 

 お姫様のような恰好をしている、からだろうか。自然と態度が謙りがちになってしまうような、思わずそんな心持ちを抱きそうになってしまう。

 

「……何だ? あんたは」

 

 とはいえ、恐らく彼女も永遠亭の住民。少なくとも、妙な危害を加えようとする事はないはず。若干の困惑を抱く事はあっても、警戒心までも抱く必要はないだろう。

 驚いてやや乱れがちだった呼吸を整えつつも、進一は少女へと声をかける。が──。

 

「あー、ううん、気にしないで! 私の事はいないものだと思って、さあ続けて続けて!」

「いや続けてって……」

 

 座卓を挟んだ向こう側の座布団に彼女がちょこんと腰掛けるが、まさか進一と鈴仙のやり取りをそこで見学するつもりなのだろうか。期待満々の満面の笑み。眩しい。

 いないものだと思って、なんて些か無理がある。これでは気になって気になって仕方がないじゃないか。

 

「ひ、姫様……! ど、どうして、ここに……?」

「んー? 何だか変わった患者さんが来てるって聞いたから、気になって見に来ちゃった」

「……姫様?」

 

 狼狽した様子の鈴仙に、彼女は姫様と呼ばれていた。どうやら進一が抱いた勝手な印象という訳ではなく、彼女は本当にお姫様であるらしい。

 

「あんたはこの屋敷の所有者か何かなのか?」

「ん? まぁ、そんな所かしら。あーでも、イナバは私の事を姫様って呼ぶけど、今は別にそこまで仰々しいものじゃないから安心して」

「イナ、バ……?」

 

 また新しい登場人物か、とも思ったが、話の流れと少女の視線から察するにどうやら鈴仙の事を示しているらしい。

 どういう事だ。自分では鈴仙と呼んで欲しいなどと言っていたのに、永琳にはウドンゲと呼ばれ、そしてこのお姫様にはイナバなどと呼ばれている。流石に頭がこんがらかってきた。

 

「鈴仙なのかウドンゲなのかイナバなのか、一体どれが正解なんだ……」

「そ、その辺はあまり気にしないで……。私の事は、鈴仙って呼んでくれれば……」

「この子の名前は鈴仙・優曇華院・イナバよ! ちなみに優曇華院というのが永琳がつけた名前で、イナバというのが私がつけた名前なの。どう? 中々にイケてるでしょ?」

「れ、れいせん、うどん……な、何だって?」

「ちょ、ちょっと姫様! ややこしくなるからあまりその名前使うのやめてくれません!?」

 

 ──何だ今のは。その鈴仙ナントカという長い名前が、この兎耳少女の本名だとでもいうのだろうか。

 鈴仙のリアクションから察するに、彼女はこの長い名前をあまり気に入ってはいない様子。だから鈴仙と呼んで欲しいなどと要求してきたのだろうか。

 

「まぁ、イケてるかどうかは別として……。何と言うか、こう、確かに個性的な名前ではあるな……」

「でしょー? でもこの子ったら優曇華院もイナバもあまり気に入ってないみたいなのよね……。折角私が丹精込めて考えた唯一無二の名前なのに、イナバ……」

「いや姫様は兎が相手なら誰であろうとイナバって呼んでますよね!? それ兎に対する共通的な呼称みたいなものですよね!?」

 

 ──まぁともあれ、彼女の事はこれからも鈴仙と呼ぶ事にしよう。彼女もそれを望んでいる訳だし、自ら徒に事をややこしくする必要もない。

 

「と・こ・ろ・で! えぇっと……進一君、で合ってるよね?」

「ああ……」

「じゃあ進一君! どう? 鈴仙のこと」

「……どう、とは?」

 

 結局鈴仙と呼ぶのか──などと言う疑問より先に、何やら意味深な彼女の問いかけの方が気になった。

 さっきから終始楽しそうな様子のお姫様だが、今回は更に一段と楽しそうである。ずいっと座卓から身を乗り出して、やたらキラッキラした瞳を進一へと向けると、

 

「この子、結構可愛いでしょ? 好きになっちゃったりしちゃった?」

「……は?」

「ぶふっ!?」

 

 思わず首を傾げる進一。横で鈴仙が噴き出していた。

 何を突然訳の分からない事を言い出すのだろう、このお姫様は。さっきからやたらと目をキラキラと輝かせている辺り、十中八九()()()を期待しているのだろうけれど、生憎進一はそんな期待に応えてやるつもりはない。

 このお姫様は、まともに相手をすると面倒なタイプの少女だ。進一の勘がそう告げている。

 

「……質問の意図がよく分からんのだが」

「別に変な意図がある訳じゃないわ。私はずばり聞いてるのよ! 鈴仙に対して、貴方が恋に落ちてしまったか否かを……!」

「ちょ、ひ、ひひひひ姫様!? 勝手に変な事を聞かないでくれます!? と言うか勝手に変な憶測立てないでくれますか!?」

 

 けれどクールな反応を見せる進一とは対照的に、鈴仙は随分と慌てた様子である。

 まぁ、先程まで進一ともまともに口をきけなかった鈴仙の事である。()()()質問を投げかけられて、()()()リアクションになってしまうのも無理はないとは思うのだけれど。

 

「何よ鈴仙! 貴方だって進一君に名前呼ばれて、妙に赤くなってたじゃない! 貴方の方こそ、変な妄想なんて……」

「し、してませんよ妄想なんて!? 会ったばかりの人に対して、変な感情なんて抱く訳がないじゃないですか! そもそも進一さんには妖夢がいる訳ですし……!」

「え? 妖夢……って、あの半分幽霊の子よね? 進一君って、あの子と何か関係あるの?」

「大ありですよ! だって……!」

 

 そこで鈴仙は、ビシッと進一の方を指さす。

 彼女が示す先は、進一の右手首。そこには手作りのブレスレットが身につけられていて。

 

「ふ、二人はお揃いのブレスレットを身に着けてるんですよ!? だ、だから、な、何と言うか、その……。も、もう既に良い感じの関係性なんですよきっと!!」

「……ふぅん。へぇ……?」

「な、何ですかその反応は……!」

 

 進一が口を挟む暇もなく、話がどんどん進んでゆく。というか、鈴仙は進一と妖夢のブレスレットについて既に気付いていたのか。中々の観察眼である。

 そう。確かに進一は、妖夢と同じブレスレットを身に着けている。亡霊として目覚めた時点で身に着けていた物だが、どうやらこれは生前に妖夢から手渡された物らしい。

 秘封倶楽部の繋がりの証。このブレスレットを身に着けている限り、例えバラバラになってしまったのだとしても皆いつだって一緒なのだと。そんなおまじないが籠められたお守り。

 

 秘封倶楽部。

 覚えのない名前。けれど妖夢と再会した時と同じように、聞いているだけで頭の中がムズムズとしてくるような響き。

 

 まぁ、その件についての詳細は()()省いても良いだろう。

 兎にも角にも、確かにこれは妖夢も身に着けているブレスレットなのである。つまるところペアルックだ。そんな分かりやすい特徴を目の当たりにすれば、二人の関係性をあれこれと察してしまうのも無理はないのかも知れないのだけれども。

 

「どうなの進一君! この子の言っている事って、本当なの?」

 

 お姫様が問いかけてくる。

 さて、どう答えたものか。やたら楽し気な表情を浮かべている事から察するに、どうやらこのお姫様は事態が拗れる事を望んでいるようだ。そうして収拾がつかなくなった状況を見て、楽しもうと思っているに違いない。中々に()()()()のお姫様である。

 

「そうだな……」

 

 ちらりと鈴仙を一瞥すると、顔を真っ赤にしたままで何やらプイッとそっぽを向かれてしまった。

 何だ、この反応は。まさかこのお姫様が言っていた通り、本当に変な妄想でもしていたのだろうか。だとすればこちらとしても中々に気まずい。

 

「……えぇっと」

 

 何だかこちらの歯切れも悪くなってきた。これではお姫様の思う壺じゃないか。ああ、また目をキラキラと輝かせ始めているし。

 

「…………っ」

 

 気を取り直そう。

 そう、事実だけをズバリと言ってしまえば良いじゃないか。何も躊躇う必要ない。別に変な関係という訳ではないのだ。堂々としていればいい。

 

「鈴仙が何をどう思っているのかは知らんが……。少なくとも、俺にとって妖夢(あいつ)は大切な存在だ。あいつの為ならどんな無茶でも乗り越えてみせると、そう心構えている」

「それって……貴方は妖夢に恋してる、って事?」

「それは……」

 

 一瞬、躊躇う。

 進一は記憶喪失だ。生前の事を覚えてないが故に、今の自分が抱く想いの全てが本当に真実なのか、未だに少し自信が持てない時がある。この思いを言葉にして伝えてしまっても本当に良いのかと、分からなくなりそうになってしまう。

 けれどそれでも、進一はすぐさまそんな“迷い”を払拭する。例え記憶を失っていたのだとしても、妖夢へ抱く想いは決して色褪せてはないのだと。そう証明するって、決めたばかりじゃないか。

 

 迷っている場合ではない。躊躇いなんて以ての外だ。

 

「……ああ。そうだ」

 

 想いを言葉という形で伝える。堂々と、してしまえば良い。

 

「あんたの言う通りだ、お姫様。俺は妖夢に惚れている」

 

 凛と、進一は目の前のお姫様にそう告げた。

 あまりにもストレートな物言いだった為か、彼女は呆けたような表情を浮かべる。けれどもポカンとした表情を浮かべていたのも一瞬だけ。すぐに表情を綻ばせると、やっぱり面白そうにケラケラと笑い始めた。

 

「ぷっ……あははっ!」

「な、何を笑っている?」

「ご、ごめんなさい……。気を悪くしたのなら謝るわ。あんまりにも直球だったから、何だかおかしくって」

 

 お姫様らしい上品な立ち振る舞い。その所為か笑われても特段不快感を覚える事はなかったのだが、それでも小恥ずかしいものは小恥ずかしい。

 正直な感情を口にしただけなのに、笑うなんて酷いじゃないか。

 

「でも……そう。その様子じゃあ、どうやら本気みたいね。最早付け入る隙もないわ」

 

 肩を窄めつつも、彼女はそう口にする。すると何やら哀愁が漂うような雰囲気を醸し出し始めると、部屋の隅で縮こまっている鈴仙へと歩み寄って。

 

「……だそうよ鈴仙。残念、だったわね……。貴方の想いが成就される事はなさそうよ……」

「……は、はい?」

「ううっ……でも泣かないで鈴仙。きっと貴方にも、素敵な出会いが待っていると思うから……」

「ちょ、何で私が失恋したみたいな流れになってるんですか!? 私まだ恋愛感情すら抱いていなかったんですけど!?」

「もしも断髪をするつもりなら、私に言って? 私が優しく髪を切ってあげるからね……」

「人の話を聞いてくれませんかねぇ!?」

 

 このお姫様、間違いなく楽しんでいる。慰めるかのようにポンポンと鈴仙の肩を叩いているが、彼女の弁明など完全に無視である。

 ──何となく、永遠亭における鈴仙の立ち位置が色々と分かってきたような気がする。人見知りで恥ずかしがり屋だが、根は至って生真面目。きっと普段から色々といじられているのだろう。そう思うと彼女の気苦労が目に浮かぶようで、進一はちょっぴり同情した。

 

「お前も大変だな、鈴仙……」

「の、呑気な事言ってないで助けてよ!?」

 

 遠い目になりながらもそんな事を呟くと、当然鈴仙が助け船を求めてくる。このまま彼女達の乱痴気騒ぎを眺めているのも──まぁ、悪くはないのかも知れないけれど、しかし流石に鈴仙がかわいそうなのでそれは止めておく。要求通り、助け船を出す事にしよう。

 

「なぁ、お姫様──」

 

 そう、進一が言葉を発し始めた直後。どたどたと、何やら騒がしい物音が進一の耳に流れ込んできた。

 思わず言葉を飲み込む。これは──誰かが廊下を駆ける音だろうか。何やら大層慌てた様子である事が、足音を聞いただけでも伝わってくる。

 どたどた、どたどた。

 そんな足音が、なぜだかどんどん近くなってきて──。

 

「進一さんッ!?」

 

 どたん、と。進一達のいる客間の襖が、物凄い勢いで開け放たれた。

 耳に届くのは聞き覚えのある声。そこにいたのは、なぜだか激しく息を荒げた妖夢の姿で。

 

「……妖夢?」

「し、進、一さん……」

 

 永琳さんとの話は終わったのか──などと尋ねようと思った進一だったが、けれども様子がおかしい妖夢を前にして尋ねるよりも先に首を傾げる。先程聞こえた慌てた様子の足音は彼女のものだったようだが、一体何があったというのだろう。まさか永琳との話とは、そんなにも急を要する程に重要度が高い内容だったのだろうか。

 そんな事を考えつつも、進一は次の言葉を待つ。

 わなわなと震え、状況が呑み込めないとでも言いたげな表情を浮かべて。そんな様子の妖夢の視線が進一やら鈴仙達やらを行ったり来たりするほど十秒弱。プルプルと震えていた彼女が、不意に愕然とした表情を浮かべると。

 

「まさかの両手に花ですかッ!?」

「お前はいきなり何を訳の分からん事を言ってるんだ」

 

 やたらと鬼気迫る表情を浮かべる彼女を前にして、進一は困惑気味にそう返してしまった。

 唐突にも程がある。流石の進一でも理解不能である。やたらと狼狽している様子から只事ではない事は確かなのだろうけれど、それにしても勘違いが些か露骨すぎるのではないだろうか。

 例えば誤解を招くような状況を目撃してしまったのならともかく、今回はただ会話をしていただけなのに。

 

「訳の分からない事じゃないですよ! どう見ても両手に花状態じゃないですか……! 完全にスケコマシのそれじゃないですか……!!」

「取り合えずお前は一旦落ち着けっ。というか人聞きの悪い事を言うんじゃない。何だ、スケコマシって。何で態々そんな古臭い言葉チョイスしたんだよっ」

 

 最早清々しいくらいに的外れの誤解である。

 別に進一は鈴仙達をたぶらかしてなどいない。確かにお姫様は色恋沙汰方面に持っていこうとしていたようだが、それもあくまで冗談のような物である。鈴仙をからかって、彼女が一方的に楽しんでいたに過ぎないのだ。

 それなのになぜだ。なぜ彼女は、ここまで狼狽してしまっている? 考えられる根本的な原因と言えば──。

 

「ふーん……。成る程ぉ……」

 

 ──何やら不穏な声が流れ込んでくる。視線を向けると、そこにはまた何かを企んでいるらしいお姫様の姿が。否が応でも進一は思考を中断せざるを得なくなる。

 嫌な予感。このお姫様、確実に余計な事をするつもりである。

 それを察して何とか対策を講じようとも思ったのだけれども、しかしそのタイミングでは何もかもが遅すぎた。

 

「そうなのよ妖夢ー! 進一君ったら、もう私にメロメロみたいでー!」

「なっ……」

 

 がしっと、何かに腕を掴まれる感覚。ふわりと鼻孔を擽る竹の匂い。

 視線を向けると、真っ先に視界に飛び込んで来たのは艶のある黒髪。案の定、悪巧みをしていたらしいお姫様が、進一の腕に抱きついてきたようで。

 

「でも私、恋愛とかお話を聞く分には良いんだけど、自分がするとなるとあんまり乗り気じゃないのよねぇ……。でもこの子がどうしてもって聞かなくて」

「おい勝手に話を……」

「まぁ進一君も男の子だしね。そういうお年頃なのかもね」

「な、ななななな……!」

 

 うんうんと一人納得した様子のお姫様。再びわなわなと震え始めて何も言えなくなった妖夢。ああ、状況がどんどん拗れてゆく。

 ふとその時、俯いて震える妖夢の背後から、別の女性がこちらの様子覗き込んでいる様子が見て取れた。

 見覚えのある赤と青のツートンカラーの服装。見覚えのある銀髪の三つ編み。先程進一の事を診察してくれた薬師──八意永琳が、じっと事の成り行きを傍観しているようで。

 

「永琳さん……?」

「…………ふっ」

「おい待てコラ何だその失笑は。と言うか何でサムアップなんてしてんだ。さてはあんたの差し金だなこの野郎」

 

 この薬師が妖夢をそそのかしたのか。一体何の話をしていたんだ。まさか進一達を玩具にする為に態々隔離したのか? だとすればあんまりである。

 すると永琳は、何やら片手でハンドサインを送り始める。何を意味しているのかは進一にはまるで理解出来なかったが、どうやらそれは進一に抱き着いているお姫様に送ったものらしく。

 

(良い調子。そのままどんどん拗れさせちゃって)

(りょーかい! 私に任せて!)

「……俺を挟んで妙なハンドサインで会話するのは止めて欲しいんだが」

 

 この二人、息ぴったりである。何なんだ一体。

 

「まったく、進一君にも困ったものだわ。そんなに熱い視線を向けられても、私はそれに答えてあげる事ができないというのに……」

「訳の分からん事を言うな。全くの事実無根だ。さっきの鈴仙と同じような事を言うが、会ったばかりの奴に対していきなり変な感情なんて抱く訳がないじゃないか。そもそも俺はあんたの名前すらまともに聞いてないんだぞ」

「へ? そうだっけ? あー、確かにまだお名前教えてなかったかも」

 

 呑気な様子で、お姫様はそんな反応を見せる。すると進一の腕に抱きついた体勢のまま、改めてこちらに向き直ると。

 

「じゃあここで自己紹介! 私の名前は蓬莱山(ほうらいさん)輝夜(かぐや)。よろしくね、進一君?」

「ああ、よろしく。──じゃなくてだなっ」

 

 輝夜という名前なのか、このお姫様は──などという思考など後回しだ。

 このお姫様、進一達の事をからかおうとしているのは確実なのだろうが、それにしても少々無防備が過ぎるのではないだろうか。さっきから柔らかい感触の何かが進一の腕に押し当てられているのだが、この少女は気にしていないのか。それとも気が付いていないのだろうか。

 

「ん? なーに? 進一君?」

「……いや、何と言うか」

 

 判断しずらい反応だ。向けられる瞳があまりにも純真すぎて、こちらも思わず言葉を飲み込んでしまう。やってる事は全然純真のそれではないのだけれども。

 ──とにもかくにも、このまま輝夜達の狼藉を許す進一ではない。早い所この状況を打開しなければ、後々もっと厄介な事になるような気がする。

 

 ちらりと鈴仙へと視線を向けてみる。先程は助け船を出しそびれてしまったが、今の彼女は顔を真っ赤に染め上げたまま完全に硬直してしまっていた。

 輝夜の大胆で無防備過ぎる暴挙を前にして、愕然やら羞恥やら何やらで動けなくなってしまったのだろうか。

 けれども進一の視線に気が付いたのか、鈴仙はハッと我に返る。ようやく部屋の隅から立ち上がったかと思うと、慌てた様子で進一達のもとへと駆け寄って来て。

 

「ひ、姫様! な、なな何をしているんですか!? お、男の人に、そんな風に抱き着くなんて……!」

「んー? なに鈴仙、ひょっとして嫉妬ー? まぁそうよねー。貴方ついさっきまで進一君にべったりだったもんねー」

「はいっ!? わ、訳の分からない事を言わないでください! そんな事実ありませんから! 全くの事実無根ですから!!」

 

 進一と同じような事を言っている。やはり彼女も完全に輝夜に翻弄されてしまっているようで、この状況を打開するには至らないらしい。

 というかまた何を勝手な事を言っちゃってるんだこのお姫様は。誤解がますます広がるじゃないか。状況が更にぐちゃぐちゃになるじゃないか。

 

「え、えっと……。なぁ、妖夢……?」

「…………っ」

 

 一先ず輝夜達の暴走は諦める事にした。まずは未だに目の前で俯いたままぷるぷると震えている妖夢を何とかする事が先決だ。

 大丈夫、彼女は強い少女だ。今はちょっと気が動転しているだけで、落ち着いてくれればきっと話も分かってくれるはず。

 

「良いか妖夢、よく聞け? お前は永琳さんと輝夜さんに遊ばれているだけだ。全部あの人達の冗談なんだ。だから真に受ける必要なんてないぞ」

「…………ですね」

「……うん?」

 

 ぷるぷると震えるだけだった妖夢だが、不意に何かをボソリと呟いたような気がする。

 まるで聞き取れなかった。首を傾げた進一が改めて聞き直そうとすると、彼女はおもむろに俯いていた顔を持ち上げて。

 

「やっぱり進一さんは、私とのお付き合いに物足りなさを感じていたんですね……!」

「…………は?」

 

 ──また何を言い出しているんだこの少女は。

 

「そりゃそうですよね……。私って地味ですし、奥手ですし……。背も胸も小さいですし……」

「お、おい妖夢?」

「あれですか進一さん……。進一さんは輝夜さんみたいに、優雅で品のある人が好みなんですか……?」

「待て妖夢。取り合えず俺の話を聞いてくれ」

「それとも結局胸ですか……!? やっぱり進一さんも、大きいおっぱいが好きなんですかッ!?」

「いやなぜそうなるんだ」

 

 駄目だ。完全に正気を失っている。

 と言うか優雅なのはともかくとして、いきなり男の腕に抱きつく輝夜に品なんてあるのだろうか。彼女はどちらかと言うと、好奇心が旺盛な子供っぽさの方が目立っていると思うのだが。

 

「……ぐすっ」

 

 そんなやり取りを続けている内に、遂に妖夢の瞳から大粒の涙が零れ始めた。

 悲しさだとか、悔しさだとか。そんな感情が入り混じったような表情を浮かべて、妖夢は嗚咽を漏らす。

 

「うっ、ううう……」

「よ、妖夢……?」

「やっぱり……。やっぱり、私なんかじゃあ……!」

「…………」

 

 ──これは、マジ泣きというヤツである。正真正銘、心の底から彼女は泣いてしまっている。

 ヤバイ。胸が痛すぎる。特に進一は何もしていないはずなのに、底知れぬ罪悪感が凄まじい。いや、何もしていないからこそのこの罪悪感なのだろうか。

 

「あ、あれ……? 嘘……。妖夢、本気で泣いちゃってる……?」

 

 そこでようやく妖夢の様子に気が付いたらしい輝夜が、にわかに慌て始める。

 進一の腕から離れ、妖夢の顔を覗き込んで。彼女の頬に伝う涙を確認した途端、彼女はわたわたと狼狽を始めた。

 

「わ、わわっ! え、えとえと、ご、ごめんなさい妖夢! ちょ、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、まさか泣いちゃうとは思わなかったと言うか……!」

 

 このお姫様、本気で慌てふためいている。そんなに慌てるのなら、最初からおふざけなんてしなければ良かったのに。

 けれど妖夢は泣き止まない。そもそも輝夜の言葉が届いているかどうかも怪しい。

 

「ど、どどどうしよう……? どうしよう永琳!?」

 

 遂には永琳に助けを求め始める始末。最早彼女の力ではどうにも出来ないらしい。

 ──というか、元々妖夢をそそのかしたのは永琳ではなかったのか。だとすればこの騒動の主犯は永琳なのではないだろうか。

 永琳は聡明な頭脳を持つ人物であると聞く。だとすればきっとこの騒動を鎮める術も心得ているはずだ。それでなくとも彼女は主犯なのだから、きっと収拾をつける為の手段を既に考えているはずで──。

 

「…………」

 

 永琳は腕を組む。そして目をつぶり、何かを考え込む事十秒弱。

 おもむろに、彼女は瞳を見開くと。

 

「まずいわね……。まさか私も泣くとは思わなかったわ……」

「おい」

 

 想定外だったらしい。単純にやり過ぎである。

 

 それからは、まぁ。

 永琳と輝夜が妖夢に事情を説明して、ようやく誤解を解いてもらって。何とか事態は収まってくれたのだけれども。

 果たして自分は何の為に永遠亭へと訪れたのだろうと、思わずそんな疑問を抱いてしまう一日なのであった。




新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

ここ最近、更新ペースがだいぶ落ちてしまい申し訳ございません。
何とか前までのペースに戻したい……と思いつつも、中々思い通りにいかないのが現状でございます。もう少し執筆ペースを上げられたらいいんですけどね……。如何せん遅筆でして……。
今後も細々と執筆を続けていきますので、まったりとお付き合い頂ければ幸いです。

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