魔法の森の上空。霊夢が示してくれた方向へと突き進み、その先にある草原へと辿り着いた辺りで。進一の『眼』が、再び奇妙な光を捉えていた。
冥界で妖夢を追いかけていた際にも、認識する事の出来た灯火。けれど今回はあの時とは違い、灯火は複数個確認する事が出来る。
温かい光。
人も妖精も妖怪も、等しく包み込むような。
そんな、優しい焔。
「……また、この光か」
進一はボソリと呟く。
この光は一体何なのか、それは未だに分からない。けれど進一には、この光を見る方法が何となく分かってしまう。
まるで、魂に刻み込まれているかのように。この『能力』は、当たり前のように備わっていて。
(……いや)
この際、この光の正体を考察する事なんて後回しにしてしまっても良い。はっきりとしている事は、この光を辿れば再び妖夢を見つける事が出来るという事だ。今は、その情報だけで十分じゃないか。
(光は、幾つも見える。だが……)
それでも、判る。果たしてどれが、魂魄妖夢のものなのか。不思議と、理解出来てしまう。
不安定な光。今にも消えてしまいそうな、儚すぎる灯火。それを認識した途端、進一は飛行速度を上げていた。
「……見つけたぞ」
そして程なくして、辿り着く事が出来た。
見晴らしの良い草原。その中心にある小高い丘。『眼』に映った光を追いかけて、手繰り寄せて。辿り着いたその先にいたのは、ぐったりと地に突っ伏した一人の少女だった。
──様子がおかしい。白銀色の髪に、緑を基調とした衣服。そして傍らの霊魂という特徴を認識すれば、彼女が魂魄妖夢である事は明らかだ。問題なのは、今の彼女がどんな状態に陥っているのかという事である。
「妖夢……?」
──倒れている。
まるで、あの場で力尽きてしまったかのように。ぐったりと、彼女は意識を失ってしまっている様子で。
「妖夢ッ!!」
地に降りて、弾かれるように進一は妖夢へと駆け寄った。
やはり意識はない。息はあるようだが、浮かべる表情は実に苦し気なものだ。呼吸も不安定で、とてもじゃないが正常な状態には見えない。
そして何より、
「妖夢……!」
名前を呼ぶが、反応はない。今も尚乱れた呼吸を繰り返すだけで、意識が戻るような気配もない。
酷く衰弱してしまっている。一体彼女は、これまでどこで何をしていたのだろう。体力も霊力もここまで酷使しなければならない程、『異変』の解決は難しいのだろうか。
(……いや)
そうじゃないだろう。
きっと彼女がここまで疲弊してしまった根本的な原因は、岡崎進一にある。進一が、知らず知らずの内に妖夢をここまで追い詰めていたのだ。
自らを痛めつけ、霊力を使い切って。
『生命』さえも、可憐に燃やしてしまって──。
「こんな……。こんな、事など……!」
直感する。
この灯火が消えてしまったが最後、きっと取り返しのつかない事になる。根拠も証拠も提示できないが、それでも進一の中の何かが訴え続けている。
これを消してはいけないと。守り通さねばならないと。
『生命』を、繋がなければならないのだと。
(だが……)
どうすればいい? どうすれば彼女を救う事が出来る?
この『生命』を繋ぐ為には──。
「……妖夢。俺にはまだ、お前と話したい事が沢山あるんだ」
息が詰まりそうになりながらも、進一は妖夢に声をかけ続ける。
膨れ上がる想いを言葉にして、彼女へと投げかけ続ける。
「確かに今の俺には、生前の記憶がない。生前の俺が、お前とどんな関係だったのか……。どんな時を過ごして、どんな風景を見て来たのか……。それすらも、忘れてしまっている……」
そう。
進一は、全てを忘れてしまっている。何もかも、一切合切未だに思い出せずにいる。生前の自分の事も、魂魄妖夢という少女の事も。
進一は妖夢の想いを踏み躙ってしまった。絶対に忘れてはならない記憶だったはずなのに、それでも進一はそんな記憶さえもなくしてしまったのだから。
「……今の俺は、お前の知っている俺ではないのかもしれない。何も覚えていない今の俺では、お前の想いに答える事は出来ないのかも知れない……」
分かっている。そんな事など、既に彼は重々承知している。
けれども。
「だが……。それでも俺は……!」
それでも、進一は。
「お前を助けたいんだ、妖夢ッ……!」
例え記憶がなくったって、この気持ちは本物だから。
「これ以上、お前の笑顔を曇らせたくはないんだ……!」
この衝動は、紛れもなく進一の想いそのものだから。
「だから俺は諦めない……! お前を助けられるのなら、俺は……!」
岡崎進一という、青年は。
「どんな理不尽だろうとも、覆してみせる……!」
そう、新たな決意を胸に秘めた時だった。
進一の脳裏に、
「…………っ!」
奇妙な感覚。胸の奥に沈んでいた何かが、突然膨れ上がるかのような。そんな感覚。あまりにも突然な刺激を前にして進一は一瞬狼狽するが、けれども彼は唐突に理解した。
なぜか彼には、分かってしまう。この状況で、自分は何をすればいいのか。どうすれば、妖夢を助ける事が出来るのか。
分からないはずなのに、それでも分かる。そんな矛盾した感覚が、進一の中で燻っている。
それはまるで、初めから自分に備わっていたかのように。さも当然の如く、彼の中で居座っていた。
(こいつは……)
『能力』
今の彼が持つ異端の力の本質は、ただ
それはあくまで一端。これこそが、真の力。
「妖夢……」
無意識の内に、進一は手を伸ばす。
この力で、彼女を救う事が出来るというのなら。
躊躇う理由なんて、どこにもなかった。
*
温かい。
不思議な感覚。優しくて、そしてどこか懐かしい。そんな温もりが、妖夢の身を優しく包んでゆく。
底の見えない暗闇に沈み、混濁した彼女の意識は遂に消えてしまうかのように思われた。肉体的にも、精神的にも蓄積した疲労感に飲み込まれ、妖夢は意識を手放してしまって。そのまま深い眠りに落ちてしまうのだと、彼女は自分でも理解していた。
だって、この結末を選択したのは、他でもない彼女自身なのだから。これから自分がどうなるのかなんて、嫌でも理解できる。
何もかも、終わりだ。このまま自分は、ひっそりと消えてゆくのだと。
そう、思っていたはずなのに。
(……それ、なのに)
暗闇の中に沈んだはずの妖夢の意識は、いつの間にか温かい光に包まれていた。
これは一体何だ? 混濁したはずの意識が徐々に明るくなってゆき、重かったはずの身体も軽くなってゆく。どこか安心できる光に包まれて、蓄積していたはずの疲労感が幾分か和らいできて。枯渇したはずの霊力が、少しずつ溢れてくる。
ついさっきまで息苦しさを覚えていたはずなのに、それも今はすっかりと和らいでいる。今の妖夢が感じているのは、微睡みの中を漂うような心地よい感覚ばかりだ。苦痛さえも、いつの間にか消えてしまっている。
(これ、は……)
これは、一体──。
「ん……」
妖夢は意識を取り戻す。未だに残る気怠さを振り払いつつも、彼女は目を覚ました。
身体が軽い。疲労感は残っているが、それでも先程と比べると身体の調子は雲泥の差だ。まるで、心地よい眠りから目覚めた後のような感覚。道中で倒れて意識を失った後とは思えない。
何なんだ、これは。一体全体、自分の身に何が起きているのだろう。
寝起きの所為か、ぼんやりとした頭の中。上手く働いてくれない思考を無理矢理動かし、妖夢は考えようとする。
けれどやっぱり、いまいち状況を呑み込む事が出来なくて。
その時。
「……妖夢?」
声が、聞こえた。
懐かしい声。それが妖夢の中で響く。ぼんやりとした視界の先に、誰かの顔が見て取れるような気がする。妖夢はごしごしと瞼を擦って、そしてゆっくりと目を開けた。
「良かった。目を覚ましてくれたんだな」
「えっ……?」
彼が、そこにいた。
優し気な表情。優し気な声。そして優し気な温もり。どうやら彼に肩を抱かれているらしい妖夢は、間近で彼という存在を感じる事が出来る。だからこそ、分かる。
──やっぱり、瓜二つだ。偽物なんかじゃない。目の前にいる、この青年は。
「あな、たは……」
「……ああ、進一だ。分かるか?」
岡崎進一。彼が、目の前にいる。
あんなにも、冷たく突き放してしまったはずなのに。それでも彼は、こうして再び妖夢の現れた。──幾ら妖夢が意固地になろうとも、それでも彼は諦めなかった。逃げ出した妖夢を、再び追いかけて来てくれた。
けれど。
(なに、これ……)
判らない。一体全体、周囲に漂うこの光は何なんだ? 魂魄妖夢は、確かに意識を失ったはずなのに。
それなのに、今は。
「まったく、驚かすなよ。お前を追いかけて、冥界を抜けて……。やっと見つけたと思ったら、こんな所で倒れてたんだからな。正直、かなり焦った」
「焦った、って……」
いや。それだけでは、ないはずだろう?
だって、彼の『眼』は──。
「あなたの、その『眼』……」
「……ああ。どうやら俺には、本来視えるはずのないものが視えちまうらしい。これがお前らのいう『能力』ってヤツなのかどうかは、よく分からないが……」
そう。彼には、視えてまっているはずだ。
生きとし生ける者達が、根源的に抱いている力。普遍的に持ち続けている儚き光。
『生命』という、灯火が。
「お前の中にある“光”は、今にも消えてしまいそうだった。……いや、どうやらお前の“光”は、他の奴らとは少し特徴が違うみたいだが……。それでも、何となく分かったんだ。このまま放っておくと、取り返しのつかない事になるって……」
彼の眼差しが、少しだけ鋭くなる。
それは、心の底から強い感情を抱いた者の目だった。
「だから俺は……。お前の『生命』を、絶対に消させはしないって……そう、強く望んだんだ。……多分、その想いがトリガーになったんだろうな」
「それって……」
妖夢は改めて、自らの身体の様子を確認する。
今まで特に気にならなかったはずなのに、神子に斬られた傷がズキズキと痛み始めている。感覚が戻ってきている証拠だ。枯渇していた霊力もいつの間にかだいぶ潤ってきていて、多少空を飛ぶ事くらいなら問題なさそうだ。──体力も、いつの間にか回復を始めている。
活力が、漲り始めている。身体中に霊力が循環してゆくような感覚。
これは、まさか──。
(私の、『生命』が……活性化している……?)
なぜそんな事が──などと言う疑問の答えなど、抱く前から明らかだ。
目の前にいるこの青年。彼が、『生命』を──。
「ま、待って、下さい……!」
理解した途端、妖夢は背筋が凍るような感覚に襲われた。
ドクンと心臓が大きく高鳴って、息が詰まりそうにもなってしまって。瞬間的に、彼女の胸中に焦りの感情が駆け抜ける。
これ以上はいけないと、そんな警鐘が妖夢の中で鳴り響いていた。
「あなたの、『能力』は……ただ、視る事が出来るだけだったはずです……! それなのに、これじゃあ……! あまりにも、変異し過ぎています……!」
そう。確かに二年前に出会った彼も、『生命』を視る事が出来る『眼』を持っていた。
それは、望まず手に入れてしまった『能力』。母親の死の瞬間をその『眼』で視てしまった事が原因で、彼は自分の『能力』に対してあまり良い印象を持っていなかったはずだ。『能力』を使うのがあまり好きではないのだと、そんな話も聞いた事がある。
それなのに、どうだろう。今の彼は、『生命』を視るという定義をも大きく超えた領域にまで足を踏み込んでしまっている。最早『生命』を視るどころの騒ぎではない。
これでは、まるで──。
「それ以上、『能力』を使ってはいけません……! でないと、あなたは……!」
このままでは、彼は。
「
妖夢が迷い込んだあの世界にも『能力』というものは存在するらしいが、それでも幻想郷と比べるとごく限られたものだったはずだ。
本来視えるはずのないものが視えてしまう。少なくとも妖夢の記憶の中では、精々その程度だったはず。
けれど今の彼は違う。“視える”だけに留まらず、最早これは“操る”領域に足を踏み込みつつある。生命力の操作など、そんなの外の世界の人間が持てる『能力』の限界を超えてしまっている。
常識が非常識に飲み込まれてゆく。『能力』の変質を前にして妖夢が胸中に抱くのは、底知れぬ不安感だった。
マエリベリー・ハーンの『能力』が変質しかけた時に覚えた感覚と似ている。妖夢も良く知る人物が、他のナニカに置き換わってしまうかのような感覚。忍び寄る漠然とした恐怖心。不安で不安でいっぱいになって、有る事無い事を色々と考え込んでしまう。
目の前にいるこの青年が──進一が、妖夢の知らない存在へと変貌を遂げてゆく。
常識が非常識に、現実が幻想に塗りつぶされて。
「このままじゃ……!」
やがて。
「進一さんが、本当に進一さんじゃなくなっちゃう……!!」
妖夢は声を張り上げる。膨れ上がる激情を抑え込む事が出来ず、彼女は吐露してしまった。
怖い。底が知れぬ程に、際限なく恐怖心が溢れ出てくる。このままでは本当に取り返しのつかない事になるのではないかと、そんな予感が纏わりついて離れない。
嫌だ。自分の所為で、大切な誰かの人生が滅茶苦茶にされてしまうなど。
そんなの──。
「……心配、してくれてるのか?」
「えっ──?」
優し気な声が、妖夢の荒んだ心に響く。
進一の表情はどこまでも穏やかだった。自分の身に何が起きていて、一体何をすべきなのか。まるでそれら全てを悟り切り、受け入れてしまっているかのような表情だ。
彼にとって、それはさも当然の事であるかのように。
驚く程に、軽口で。
「まぁ、今の俺は亡霊だしな。既に化物みたいなものだし、今更ちょっと踏み込んだって大して変わらんだろ」
「なっ……」
ともすれば楽観的とも捉えられる口調。まるで彼は、自分の身に起きた変化をそれほど重く受け止めていないかのようだ。
けれど。そんな口調とは裏腹に、彼の瞳はどこまでも真っ直ぐだった。
決して楽観的などではない。決死の覚悟をその胸に抱き、進一はこうして妖夢の前に現れたのだろう。彼の目を見れば、それは明確に伝わってくる。
「……もう諦めないって、そう決めたんだ。これ以上、お前を放っておく事なんて出来やしない」
「…………っ」
「俺の『能力』がちょっと変異した程度でお前を助ける事が出来るのなら、安いもんさ」
彼は本気だ。
嘘偽りなど微塵もなく、本当に心の底から妖夢の事を想ってくれている。理不尽にも怒りをぶつけて、一方的に突き放して。そんな暴挙に及んでしまった妖夢の事さえも、彼は信じ切っている。
苦しんでいるのは妖夢だけじゃない。寧ろ彼の方が、余程辛い思いをしてきたはずなのに。
「どう、して……?」
「うん?」
「どう、して……。あなたは……」
そう。
どうして、彼は。
「そこまで、必死になれるんですか……?」
「…………っ」
「……何も、覚えてないんですよね……? 今のあなたの記憶の中では、私は消えてしまったんですよね……? それなのに、どうして……」
「……そう、だな」
進一は一瞬だけ困ったような表情を浮かべて目を逸らすが、けれどすぐに妖夢へと向き直った。
迷いなど、既に断ち切ってしまっているかのような様子で。
「……正直、俺にも分からん」
「……は、はい?」
「確かに俺は、お前の事も忘れてしまっている……。だからなぜと聞かれても、今すぐに具体的な答えを提示する事は難しい」
きっぱりと、彼はそう言い放つ。あまりにも堂々とし過ぎてて、逆に清々しく思えてくる程である。
呆気にとられ、ぽかんとした表情を浮かべる妖夢。けれどそれでも、彼は「だが……」と言葉を繋げる。
「多分、これは理由や理屈で片づけられる感情ではないんだと思う。俺はお前を、放ってはおけなかったんだ。だから俺は、是が非でも助けなければならないんだって……。そう、思って……」
そこで彼は、「いや、違うな……」と首を振るう。
「……
そして彼は吐露する。
彼が抱く、素直で真っ直ぐな感情を。
「それはあくまで、俺自身の個人的で勝手な願望だ。確かに俺には記憶がないし、お前の事も忘れてしまっているが……。だとしても。それでも俺は、お前の事を助けたかった。……たった一度だけでも良い。お前の笑顔が、見てみたいって……。そう、心の中で強く望んでしまっていたんだ」
そう。
それ故に、彼は。
「だから助けに来た。それだけだ」
彼の言葉はどこまでも真っ直ぐだった。嘘や誤魔化しなんてものは、微塵も含まれていない。彼はどこまでも素直に、自らの心が赴くままに行動していたのだろう。──目を逸らす事もなく、自らの心としっかりと向き合っていたのだろう。その上で、彼はこうして妖夢を追いかけてくれた。
──ああ。彼はこんなにも真っ直ぐなのに。
(私は……)
本当に、嫌になる。
「そんな顔しないでくれ。例え俺の『能力』が外の世界での常識とやらから逸脱しちまっているんだとしても、俺が俺である事に変わりはないんだ。だからお前が変に責任を感じる必要はない」
彼は今も尚、妖夢の事を一番に考えてくれている。妖夢の事を気遣って、こうして優しく声をかけてくれている。
それに比べて、自分はどうだ? 変な意地を張って、いつの間にか奇妙な義務感に囚われてしまって。その所為で、沢山の人に迷惑をかけた。大切な人達に余計な心配をかけてしまった。
彼の事が、大好きだったはずなのに。
それなのに、こんな──。
幽々子を守る剣士という道を選択した自分は、岡崎進一への想いを封印しなければならない。
一体いつから、自分はそんな義務感に囚われてしまったのだろうか。
「私……わた、し……」
再び涙が溢れてくる。これ以上、泣くつもりなんてなかったはずなのに。それでも彼女の瞳からは、止めどなく涙が溢れ出て来てしまう。
自分は卑怯者だ。本当に、最後の最後まで迷惑を振りまいてばかりいる。一人で勝手に意固地になって、一人で勝手に苦悩して。それでも結局、妖夢は一人では何も出来ないままだった。
人は一人では強くなれない。何かあったら、誰かの力を頼っても良い。
そう、進一からも教わっていたはずなのに。
「わたし……また、結局……!」
嗚咽混じりに声を発する。そんな妖夢は、気が付くと彼に優しく抱き寄せられていた。
ふわりと鼻孔を擽る、懐かしい香り。妖夢の全てを受け入れてくれるような、温かい包容力。それらに包まれた魂魄妖夢の瞳からは、堰を切ったように涙がますます溢れ出てくる。
様々な感情が渦巻いている。頭の中は既にぐちゃぐちゃだ。緊張の糸が一気に解れて、涙と共に言葉も溢れる。
「怖かったんです……。この時代の住民ではないはずの進一さんが、いきなり目の前に現れて……。今まで抑えていた感情が、途端に溢れてきちゃって……」
「……ああ」
「でも、進一さんは亡霊になってて……。しかも、記憶喪失で……。その事実を認識した途端、まるで進一さんが進一さんじゃなくなっていくような気がしてしまって……!」
「…………」
あの時、妖夢は彼を突き放した。
あなたは進一さんじゃない。進一さんである訳が無い、と。そんな奇妙な意地にも似た感情が、妖夢を支配していた。
「どう、して……!」
魂魄妖夢は泣きじゃくる。
膨れ上がる激情が、自然と言葉を音にする。
「どうしてっ……死んで、しまったんですか……!?」
どうして。
そんな疑問が、彼女の心を支配する。
「あなたには、生きていて欲しかった……! あの世界で……! 普通の人間として、天寿を全うして欲しかったのに……!」
「……ッ。ああ……」
「どうして……。どうしてですか、進一さん……」
──亡霊とは、死して尚死に切れず魂が顕界に縛り付けられた故に生まれてしまう存在。つまりその姿は、共通して死の直前のものになる。故に彼の姿が妖夢の記憶と殆ど変わっていないという事は、妖夢と別れてからそう時間が経たない内に彼は死んでしまった事になる。
あまりにも若すぎる死だ。
一体どうして、彼は死ぬ事になってしまったのだろう。一体どうして、彼はこんな事に巻き込まれてしまったのだろうか。
「どうして……! どう、してッ……!」
どうして。どうして。どうして──。
「──すまない」
泣きじゃくる妖夢の耳に、再び彼の声が響く。
重く、そして深い罪悪感を感じさせる声。
「死んでしまって、すまない……」
今にも泣き出してしまいそうな、震える声。
「お前に辛い思いをさせてしまって……、すまない……」
「……っ。し、進一、さん……」
心臓を鷲掴みにされたかのような感覚。血液が凍え、そして息が詰まる。
またこの感覚だ。どうしようもない後悔と、抗えない罪悪感。道を踏み外してしまったのだと、そう自覚した途端に襲いかかってくる恐怖心。取り返しのつかない状況。
馬鹿か自分は。
ここで彼を責めてどうする。これ以上の理不尽なんて、そんなの──あまりにもあんまりじゃないか。
「ち、違……違、うんです……。私、私……」
縋り付くように、妖夢は首を横に振るう。
このままではいけないと、警鐘が鳴り響く。
「私が、全部悪いんです……。記憶を失い、亡霊としてこの世界に迷い込んでしまって……。そんな進一さんの方が、私なんかより余程不安で辛かったはずなのに……!」
「それは……」
「ごめん、なさい……。ごめんなさい……! 進一さん……」
妖夢は何度も、謝罪の言葉を進一に告げる。最早それくらいしか、言葉を見つける事はできなかった。
今更謝った所で、取ってしまった行動を取り消す事なんて出来やしない。妖夢は彼に見限られてしまってもおかしくはない事をしてしまった。それは重々理解している。
だけれども。それでも、彼は。
「お前が謝る事なんてないさ」
岡崎進一という青年は。
「寧ろ俺の方こそ、悪い事をしたな……」
優しく、妖夢へと寄り添ってくれている。
「本当に、すまなかった。死んでしまった事もそうだが……。それ以上に、お前の事さえも、忘れちまって……」
誰よりも、妖夢の事を想ってくれている。
「確かに俺には生前の記憶がない。そんな俺では、お前が思い描く理想の俺とは成りえないのかも知れない。だが……」
そこでゆっくりと、進一は妖夢から身体を離す。
毅然とした面持ち。彼の想いは揺らぐことなく、魂魄妖夢へと届く。
「約束する。俺は絶対、生前の記憶を取り戻す。そして……」
彼の決意は揺るがない。
「例え記憶を失っていたのだとしても、お前への想いだけは色褪せていなかったんだって……。そう、証明して見せる」
ああ。
やっぱり、そうだったのか。
例え亡霊になっていても、例え記憶を失っていたのだとしても。この瞳は、間違いなく彼のものだ。彼の想いは、決して虚妄などではなかったのだ。
「あなたは……」
涙を拭う。そして妖夢は、改めて進一としっかり向き合う。
彼の表情が、はっきりと見える。それは妖夢の記憶の中と何ら変わらない、紛れもなく岡崎進一の表情だ。
色褪せてなんかない。彼は──。
「やっぱり……」
相も変わらず震える声。けれどその声調には、先程までのような憂いは殆ど感じられない。
自然と、妖夢の表情が綻んだ。
「あなたはやっぱり、進一さんなんですね……」
自然と、胸の奥が温かくなる。
「例え記憶を失っていても」
例え亡霊となってしまっても。
「あなたの本質は、何も変わってなかったんですね……」
そう。
彼は何も変わっていない。残酷な変化なんて、決して訪れていない。確かに死んでしまっているし、生前の記憶を失ってしまっているのだけれども。
それでも、彼は──。
「……やっと、笑ってくれたな」
妖夢につられるような形で、進一の表情も綻ぶ。
「思った通りだ。やっぱり妖夢は、笑顔の方が似合っている」
優しい言葉が、妖夢の中へと響いてゆく。彼の想いが、妖夢を包み込んでゆく。
──ああ、そうだとも。彼は彼だ。
他の誰でもない。この青年は、岡崎進一という人物そのものだ。それは紛れもなく、揺らぐ事のない一つの真実だったのだ。
そんな事さえも、彼女は気付いていなかった。彼に恋をして、彼に特別な想いを抱いて。そして彼の想いも、受け止めたつもりだったのに。
(これじゃあ……)
彼の恋人失格だ。
──でも。
「私は不器用で、要領が悪くて……。どうしようもなく、弱虫です。自分に自信が持てなくて、その癖思い込みは激しくて……。中途半端で半人前で、至らない部分もまだまだ沢山あると思います。でも……」
それでも、妖夢は。
「それでも……。まだ、あなた事を好きでいて良いですか……?」
それは二度目の告白。この二年間彼女の中で消える事はなかった、恋心の再確認。
もう、自分の気持ちに嘘はつかない。これ以上、目を逸らして意固地になったりなんかしない。斜に構える必要はない。想いを押し殺す必要だってない。
もっと素直で良い。一人で抱え込まなくなって、良いのだ。
「妖夢……」
進一の表情はどこまでも誠実だ。真摯になって妖夢と向き合い、そして直向きに妖夢の事を考えてくれている。
進一は破顔する。一点の曇りも見受けられない、晴れやかな表情だった。
「ああ。俺も、お前が──」
この想いは変わらない。
幾ら時間が経とうとも、例え何に巻き込まれようとも。その想いだけは、決して色褪せない。
八十年後の未来の世界で抱いた恋心は、今も尚妖夢の中に存在している。彼に対するこの気持ちは、この二年間ずっと妖夢の心に残っていた。意固地になって目を逸らそうとも、一時も忘れる事は出来なかった。
けれど、そんな意地の張り合いはもう終わりだ。
妖夢は全てを受け入れる。この気持ちも。感情も。想いも。そして、彼の事も。
だから今度は、妖夢が進一を救う番だ。
彼の記憶を取り戻し、タイムトラベルの原因を探して。そして──。
*
ようやく収まるところにおさまったなと、八雲紫は感じていた。
この二年間、彼女はずっと気がかりだった。なぜ、魂魄妖夢は変わってしまったのか。どうして、あそこまで頑なに意地を張り続けていたのか。ある程度の想定は出来ていたものの、けれども彼女にはどうする事も出来なかった。
幽々子からも相談を受けていた。ここ最近、妖夢の様子が変なのだと。けれどそんな相談を受けても尚、紫はただ傍観する事しか出来ずにいたのである。
紫では妖夢を救えない。幽々子でも、本当の意味で彼女を救う事は出来ない。
それなら一体、誰であれば妖夢を救う事が出来るのだろう。どんな想いならば、彼女の心に響くのだろうか。これまでずっと考えていたのだけれども、今日ようやくその答えに辿り着く事が出来たような気がする。
(まったく……。でもこれで、一先ずは一件落着かしらね)
スキマから二人の姿を覗き見つつも、紫は内心安堵する。
ようやく肩の荷が少し下りたような感覚だ。肝心の『異変』に関してはまだまだ不明瞭な部分も多いが、それでも今は妖夢の問題が解決できただけでも十分だろう。本当に、ホッとした。
「……なぁ紫。これってあたいも隠れる必要あったのかい? 覗き見なんて趣味じゃないんだけど」
「覗き見なんて、人聞きの悪い事言わないでくれる? 二人の邪魔をするなんて、それこそ野暮じゃないのよ」
横から口を挟んでくる小野塚小町へと向けて、紫はそう言い返す。
映姫からの仕事だとかで、彼女は進一の引率を任されているらしい。別にその件について紫にとやかく言う気はないが、だからと言ってこの場面までついて来る必要はないだろう。
普通に進一と合流しようとする小町を慌ててスキマへと押し込んだ訳だが、それでも彼女は不満気な様子。一体何が気に食わないのだろうか。
「まったく。貴方にはデリカシーがないの? 今はそっとしておいてあげるべきでしょう?」
「いや隠れてこそこそ覗き見してるお前さんにデリカシー云々なんて言われたくないんだけど」
「だから、覗き見じゃないって言ってるでしょう! これは、ほら、あれよ。見守ってるのよ。進一君達のことを」
「へぇ……。ふぅん……」
ジト目である。これは完全に、半ば呆れてしまった時に浮かべる表情である。
不服だ。なぜこんな表情を向けられなければならないのだろう。
「まぁいいや、そういう事にしておこう。お前さん、意外とお節介で世話焼きみたいだしねぇ」
「随分と鼻につく言い方ね……」
──この死神、さっきから紫の事を馬鹿にしているのではないだろうか。
「それにしても……」
そんな中、小町もチラリとスキマから妖夢達の様子を窺う。
散々文句を言ってた癖に、結局自分も覗くのか──などと思った紫だったが、けれども彼女の横顔を見るとそんな思いも直ぐに薄れてしまう事になる。
柔らかな印象。彼女が浮かべる表情は、先程のジト目から考えられぬ程に優し気な雰囲気が含まれていて。
「本当に、世話のかかる奴らだよねぇ……」
「…………」
──まったく。何が意外とお節介で世話焼きだ。この死神も人の事を言えないじゃないか。
「確かにお前さんの言う通り、ここはあたいらが出る幕じゃあないね。大人しく傍観に徹する事にするよ」
「……そう。賢明な判断ね」
「ま、進一達を連れて帰るまでがあたいの仕事だから、キリの良い所で出ていくつもりではあるけど」
そう。それでも今は、二人きりにさせてあげるべきだ。この雰囲気を意図して壊そうとするほど、紫だって子供じゃない。
今の二人に余計な介入は必要ない。
──本来ならば、ここは大人しく去る事の方が常套なのだろうけれど。
(……まぁでも、そうも言ってられないわよね)
魂魄妖夢と岡崎進一。あの二人は、この『異変』の重要な参考人と成り得る人物だ。
タイムトラベル。別の時間からの干渉。それが今回の神霊騒動とどう結びつくのかはまだ定かではないが、それでも無関係ではないはずだ。
どちらの『異変』にも、その根底には一人の女性が関与している。
邪仙とも称される謎多き存在。
(霍青娥、ねぇ……)
八雲紫は思案する。
霍青娥という名前の人物について、実は紫もあまり情報を持っていない。いつからこの幻想郷にいたのか、今までどこで何をやっていたのか。幻想郷の管理者である八雲紫でさえも、その足取りは掴み切れていないのである。
あまりにも奇妙過ぎる要素。幾ら全てを受け入れる幻想郷といえど、この状況では。
(……私も、動かざるを得なくなるかもね)
管理者たる八雲紫は、基本的には静観する立場だ。彼女ほどの妖怪が徒に干渉すれば、パワーバランスが乱れる危険性がある。故に彼女は、表立って動く事はできないのだけれども。
しかしそうも言っていられない状況に陥る危険性もある。もしも、八雲紫が介入する以前にバランスうが乱れ始めるような事があれば、その時は──。
(……いや)
止めよう。そこまで深く考え込むのは後回しでも良い。
直面していた問題の一つが解決したのである。今はそれで十分じゃないか。
──ああ、そうだ。あれこれ色々と迷うなんて、そんなの全然らしくない。
そんなの全然、
胡散臭くて、掴み所がなくて、何を考えているのか分からない神出鬼没なスキマ妖怪。
それこそが八雲紫の本質だ。揺らぐ事はなく、曲がる事もなく、迷う事もない。幻想郷の管理者である八雲紫という大妖怪は、その本質を常に保ち続けなければならない。
そう。
八雲紫は、幻想郷の行く先を見届けなければならないのだから。