死者の世界である冥界と生者の世界である顕界は、本来ならば強力な結界によって隔てられているらしい。
当然と言えば当然だ。それら二つの境界が曖昧になってしまったら、死という概念と生という概念が根本的に狂ってしまう危険性がある。“生命ある者はいつか死ぬ”という普遍的な常識が、真っ向から否定されてしまう事になるじゃないか。そんなの、世界の理に反している。そんな状況、世界は決して認めないはずだ。
けれど、どうだろう。例えそんな常識でも、例外は必ず存在する。
冥界と顕界。死者の国と生者の国。それらを隔てる結界が、限りなく希薄になってしまっている場所。
「さて、と。それじゃあ進一。取り合えず顕界まで辿り着いた訳だけど……」
「……は? え? こんなにも簡単に来れちゃうもんなのか?」
さも当然な事であるかのように小町は話を流しかけたが、生憎そう簡単に納得出来るほど進一は単純じゃない。あまりにも唐突な出来事過ぎて状況の整理が追い付かず、進一は思わず口を挟んでしまった。
冥界と顕界。その二つの世界は、強力な結界によって完全に隔てられている。そんな認識が当たり前だと思っていたのに。
「……ちょっと門を潜っただけじゃないか。こんなので、本当に……?」
「本当も何も、たった今お前さん自らが経験したばかりじゃないか。まぁ、お前さんの気持ちも変わらなくもないけどねぇ……。今は色々とあって、幻想郷と冥界とは行き来が容易になっているのさ」
「いや簡単に言うけどな……」
死者の国とは、一体なんだったのか。と言うか、よく考えれば生者であるはずの紫や藍も普通に行き来しているし、驚くなんて今更だったような気もしてくる。
「一応、制約はあるけどねぇ。ほら、ここ空の上だし普通の人間じゃまず来れないだろう?」
「……まぁ、確かに」
二つの世界を隔てる結界を越えた先は、幻想郷の遥か上空に繋がっているらしい。確かにこの高さなら空でも飛べない限り近づく事すら出来ないし、そういう意味では余計な接触は避けられているのかも知れないけれど。
「……それに、あんまり自由に行き来してると四季様に説教されるよ?」
「……今回は小町が付き添う形で特別に許可されたんだったな」
だとしても少々管理が笊すぎるような気がする。空でも飛べない限り近づけないとは、逆に言えば空さえ飛べれば幾らでも近づく事が出来るという事だ。神やら妖怪やらが数多く暮らしているらしい幻想郷という世界。寧ろ空を飛べる連中の方が多いという可能性すらある。
──やはり杜撰な管理だ。人手不足なのか、それとも実は進一が想像出来ないような管理方法でも実施しているのか。
まぁ、これ以上あれこれと考えても、結局は泥沼に嵌る事になるような気がする。ここは無理矢理にでも納得するべきなのだろうか。
「……本当に、良く分からん世界だな。幻想郷は」
「その認識こそが幻想郷という世界の本質なのよ」
「……えっ?」
──っと。不意に、小町ではない第三者の声が流れ込んでくる。反射的に振り向くと、そこには一人の少女の姿があった。
金色の髪。ナイトキャップにも似た白い帽子。そして紫色を基調としたドレス姿。一体いつからそこにいたのだろう。神出鬼没な彼女は、困惑気味の進一の呟きに対する一つ答えを提示した。
「幻想郷は外の世界における“常識”と“非常識”が逆転した世界よ。外の世界では空想の産物だと排斥された事象が、この世界には存在しているの。そういう意味では、貴方が抱く
「……紫か」
彼女──八雲紫は、待ちくたびれたとでも言いたげな面持ちでそこに佇んでいた。
進一は強張っていた肩の力を抜く。一瞬だけ警戒心を強めていた彼だったが、突然の闖入者の正体が八雲紫であるならば変に気を張る必要もない。
初めて会ったあの時も、彼女は何もない空間から現れたのだ。──いや、正確に言えば引き摺り出されたのだが、兎にも角にも最早突然現れる程度ではあまり驚かなくなってきた。
──ひょっとして、自分は意外と順応性が高いのだろうか。
「……あら、意外と落ち着いているのね。てっきりもっとびっくりすると思ったのだけれども」
「……多少は驚いたけどな。でもお前なら別にそこまで警戒する必要もないだろ」
「ちょ、な、何よその反応……。言っておくけど、私これでもちょっとした妖怪なのだけれど。あんまり侮っていると、その内痛い目を見る事になるわよ?」
「別に侮っている訳じゃないが……」
何だこの反応は。ひょっとして、びっくりして欲しかったのだろうか。そうは言っても、本当にそこまで驚かなかったのだから仕方がない。猿芝居をした所で、彼女は不貞腐れてしまいそうだし。
「いい進一君? 貴方は外の世界出身で、しかも記憶喪失だからピンと来ないのかも知れないけれど……本来、人間と妖怪との間には圧倒的な“力”の差が存在するのよ? 妖怪はその“力”を誇示し、人間はその“力”に畏れを抱く。その認識こそが、幻想郷という世界のバランスを保つ要素の一端となっていて……」
「……いや、今の俺は亡霊じゃないか。だったらどちらかと言うと、俺は妖怪側だと思うんだが……」
「……っ、ま、まぁそうなのだけれども……!」
「あー……。えぇっと、その話長くなりそう?」
痺れを切らした小町が口を挟んでくる。苦笑いを浮かべつつも、彼女は続けた。
「あたい達結構急いでるんだけど。大した用がないんなら、後にしてくれないかい?」
「え、ええ……。分かってるわ。妖夢の事でしょう? 私もその件について用があって、貴方達を待っていたのよ」
「……そうか」
紫の言葉に対し、進一は静かに呟く。
概ね予想は出来ていた事だ。幽々子の手伝いという名目で藍を冥界に向かわせていた彼女が、こちらの事情を何も知らない訳がない。このタイミングでこうして姿を現した時点で、その目的が妖夢絡みであるという事は想像に容易い。
「妖夢を追いかけるのでしょう? だったら私のスキマで、あの子の所まで連れて行ってあげる」
「……場所、分かるのか?」
「言ったでしょ? 私は
ちょっぴり得意気な表情を浮かべる紫。彼女の『能力』がどういったものなのか進一はイマイチ理解出来ていないが、人探しにも応用できる能力なのだろうか。
スキマ等と言う良く分からない存在の事と言い、何とも底の知れぬ少女である。──人となりは結構分かりやすいけれど。
「おや、良いのかい? お前さんが連れてってくれるんなら、あたい達としても大助かりだけど……」
「……良いも何も、その為に貴方達を待っていたって言ってるじゃない」
「へぇ……。お前さんがそこまで協力してくれるなんて、何だか意外だねぇ。お前さん、余程の事が無い限り不干渉に徹するタイプだと思ってたんだけど」
「…………」
八雲紫は難しそうな表情を浮かべる。何か思う所があるのか、小町からも目を逸らして何かを考え込むような素振りを見せ始めた。
バツの悪そうな雰囲気。それが漂い始めた辺りで、彼女は再び口を開く。
「……幻想郷の為よ。今回の『異変』を解決する為には、妖夢の力が必要不可欠なの。だから協力してあげるだけ」
「ふぅん……」
紫は視線を合わせない。まるでその表情を悟らせないたくないように、彼女は頑なにそっぽを向き続けている。
そんな彼女の心境を何となく察したらしい小町が、何やらおかしそうに「ははっ!」と笑うと、
「何と言うか、お前さんも大概難儀な性格をしているねぇ」
「ど、どういう意味よ……?」
「そうだねぇ。まぁ何ていうか、お前さんって思ったよりも親しみやすい人となりしてるんだなーって思っただけさ。素直じゃない一面もあるけど」
ピクリと、紫の肩が震える。それはまるで、暗に肯定を示しているかのような反応で。
けれど、そこまでだ。この話題は終わりだと、そう言いたげな様子で彼女は強引に話を切り替える。
「……無駄話は終わりよ。妖夢の所、行くでしょ?」
スッと紫が目の前を指差すと、何もないその空間が唐突に
真っ黒な裂け目。ギョロリとした目玉が無数に蠢くその空間は、見ているだけでも背筋が冷える程の気味の悪さがある。紫が『能力』を使う瞬間を見たのはこれが初めてだが、目の前に現れた《それ》こそがスキマであるのだと、理解するのは容易かった。
『境界を操る程度の能力』。あらゆる物事に存在する境界をあやふやにし、そして再構築する事で理論上はどんな事象でも覆す事の出来る『能力』。スキマとは、境界をあやふやにした段階で止める事で発生する異空間のようなものだと、映姫から聞いた事がある。
何ともよく分からないが、こうして実物を目の当たりにしてもその感覚は変わらない。あまりにも現実味がなさすぎるというか、何と言うか。
「さぁ、入って。取り合えず、妖夢の近くまで送るから」
「はいはい。ほら進一、行くよ」
「あ、ああ……」
手招きする小町に連れられて、進一はスキマの前まで移動する。
おずおずと覗き込んでみるが、やはり黒い空間の中に無数の目玉が確認できるだけで、どこに繋がっているのかも判らない。こんな空間に足を踏み入れるなんて、流石の進一でも躊躇いを覚えてしまうのだけれども。
「あれ? どうしたんだい進一? ひょっとして、怖いのかい?」
「怖い、というか何と言うか……」
表現を濁したが、怖いと言う感覚は強ち間違っていない。というか、こんな様子では不気味に思わない方がおかしいのではないだろうか。
「ま、実はあたいもスキマに入るのは初めてなんだけどね……。でもまぁ、大した事ないでしょ多分。紫だし」
「……それ、どういう意味よ?」
「いやー? 別にー?」
小町は何とも能天気な様子だ。そんな彼女を見ていると、躊躇っていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
そう。こんな所で、躊躇っている場合ではない。今の自分の目的は、妖夢を見つけて助け出す事だろう。だから一刻も早く、彼女のもとに向かわなければならない。
選り好みなんてしている暇はない。意を決し、進一はスキマへと足を踏み入れる事にする。
「……よし」
小町と共に、進一はスキマへと身を投じる。
その直後。視界が暗転した。
*
イライラする。
相も変わらず頭の中はぐちゃぐちゃで、それを認識できてしまうからこそ苛立ちはますます強くなってゆく。本当に、何だか今日はイライラしてばかりだ。いつまでもこんな調子ではいけないのだと、それは自分でも分かっているつもりなのだけれども。
(……でも、ね)
けれどそれでも、博麗霊夢は苦悩する。
何か、決定的なピースが足りないような感覚。釈然としない不安感。胸中を蝕む焦燥感。脳裏に投影されるのは、やっぱり妖夢の姿ばかりだ。
どうしても、気になってしまう。今は不審な『異変』と直面しているはずなのに、それ以上に妖夢の事が気になって仕方がない。
霊夢は天秤にかける。霍青娥の事と、妖夢の事。果たして今は、どちらを優先すべきなのか。
確かに霍青娥は危険な存在だ。その真意は霊夢でも掴み切る事が出来ておらず、次に何をいつ仕掛けてくるのかの検討もつかないような状況。放っておけば、必ず面倒な事になるだろう。
だけれども。それでも、やはり。
(まったく、もう……。本当に、今日はこんな調子ばかりね……)
霊夢は嘆息する。考えれば考える程、底なしの泥沼に沈んでゆくかのような感覚を覚えてしまう。
キリがない。幾ら思考を続けた所で、こんな様子では──。
「……やってらんないわよ」
ボソリと呟いた後、霊夢は思考の放棄を決め込む事にする。幾ら考えても答えが見つからないのなら、いっその事気分を変えてしまうのも手だ。
時間も遅い。霍青娥に関する手掛かりも見つからない。それなら博麗神社に戻って、一旦頭を冷やすべきではないだろうか。
きっとそれが、今の自分にとっての最善。
霊夢は自分にそう言い聞かせ、そして踵を返す事にする。そのまま飛翔を続けて、帰路に就いてしまおうと──。
「…………っ!」
──そう思った矢先。不意に馴染みのある感覚に襲われて、霊夢は思わず飛翔を止める。
この感覚。この気配。それはこれまでも嫌というほど目の当たりにしてきた、
「はぁ……」
何れにしても憂鬱だ。今朝にあんな事があった手前、どうにも
「うわあ!?」
その直後。案の定、目の前の空間に見慣れた
妖怪の賢者──八雲紫の専売特許。相も変わらず悪趣味で気味の悪い空間である。もう少し何とかならないのだろうか。
けれど意外だったのは、間の抜けた叫び声と共にその空間から飛び出してきた一人の少女である。
紫ではない。ついでに言えば、彼女の式神である九尾の狐でもない。
赤髪のツインテール。少女にしては長身の背丈。青を基調とした着物に、そして自らの身の丈ほどもある巨大な鎌。
一応、霊夢も見覚えのある少女。けれど当然、スキマから出てくるような人物ではない。
「な、ななな何!? 何なのさ今の!? 何だか今、尋常じゃない浮遊感みたいなものに襲われたんだけど!?」
「あらあら……ちょっと、どうしたの? スキマなんて大した事ないって言ってなかったっけ?」
「お、お前さん何かやっただろ!? 何なんだい一体!? ひょっとして、大した事ないって言ったの意外と根に持ってたのかい!?」
「あら? 何の事かしら?」
「こ、こいつ……!」
──ああ。ひょっとしてこれは、面倒事が増えるパターンだろうか。
やたらとビクビクしている死神──小野塚小町に続くような形で紫はスキマから現れたのだが、けれど出て来た途端にこれである。何なんだ、一体。この切羽詰まっている時に、そんなやり取りを見せつけられると増々苛立ちが募っていくのだが。
「あんたら一体何やってんのよ……」
「あ、あれ? 博麗の巫女さんじゃないか」
「えっ……? れ、霊夢!? どうして貴方が、こんな所に……?」
「いやそれはこっちの台詞なんだけど」
そもそも小町と紫が共に行動している事が珍しい。一体どういう風の吹き回しなのだろう。
面倒な原因を考えて辟易とした霊夢は、再び嘆息してしまう。さて、果たして彼女達はどんな面倒事を持ってきたのやら。
──と、その時。
「……何だ? 誰かいるのか?」
不意に響く、聞き覚えの無い声。出てきた途端に騒がしい紫や小町とは対照的に、落ち着いた印象を抱かせる静かな声だ。
おもむろに視線をスキマに戻すと、そこにいたのは見知らぬ青年。一見すると人間のようにも思えたのだが、けれど微かに漂う霊気から彼が人ならざる存在であると瞬時に察知する事が出来た。
この感覚──恐らく、彼は亡霊だ。それも身に纏う服装から考えて、幻想郷の住民でもないように見える。
外来人の亡霊。そんな青年と目が合った途端、霊夢は
「お前は……幻想郷の住民、なのか?」
「…………っ」
青年が何かを言っているが、けれど霊夢は咄嗟には答えられない。それより何より、彼女の胸中を支配するのはとある漠然とした予感である。
はっきりとそうであると言える訳ではない。けれど霊夢の勘が告げている。ひょっとしたらこの青年こそが、欠けていたピースなのではないのだろうか。この暗中から抜け出す為の、兆しと成り得るのではないのだろうかと。そんな根拠もない推測が、霊夢の中で次々と溢れ出てくる。
あくまで勘。全ては霊夢の勝手な想像に過ぎないのだけれども、しかしこれは──。
(この、感覚……)
チラリと紫を一瞥する。彼女が浮かべる表情は、慌てたような困り顔だ。霊夢とこの青年との対面を、望んでいなかったように見える。それはつまり、この青年が少々イレギュラーな存在である事の裏付けにも成り得るという事だ。
イレギュラーな存在。不規則性。不穏。という事はつまり、ひょっとして──。
「え、えっと……進一君? この子は、私のちょっとした知り合いで……」
「……少しあんたは黙ってなさい紫」
何やら話題を逸らしかけた紫に対し、霊夢は言葉で無理矢理制する。
これ以上、うやむやにされてたまるか。今度こそ、手繰り寄せてやる。
「進一、っていうのがあなたの名前なの?」
「ああ。お前は?」
「私は博麗霊夢。見ての通り、博麗の巫女よ」
名乗りつつも、霊夢は青年──進一の様子を窺う。
確かに彼は亡霊ではあるが、例えば以前に人里を騒がせた殺人亡霊などとは違う。亡霊なのにも関わらず彼からは怨念が一切感じられず、だからと言って他にこれと言った未練があるようにも思えない。それでも彼は成仏して魂に還る気配も見せず、今もこうして亡霊として個を保ち続けている。成る程、確かに変わった亡霊である。
けれど今の時点で重要なのはそこじゃない。霊夢の勘が正しければ、彼は──。
「ねぇ、進一さん。あなたに一つ聞きたい事があるんだけど」
「……なんだ?」
それを確かめる為に、博麗霊夢は質問する。
「……魂魄妖夢って名前に、何か心当たりはない?」
*
包み隠さず、話して貰った。
なぜ、紫と小町が行動を共にしていたのか。なぜ、スキマを使ってこんな所に現れたのか。どうして、彼女達は見知らぬ亡霊を連れていたのか。
そしてその亡霊──岡崎進一という青年の事についても。
全部、説明して貰った。
二年前。魂魄妖夢が行方不明になっていた、空白の四ヶ月間。そこで彼女は、一体何に
「成る程、ね……」
進一達から話を聞いた霊夢は、思わずボソリとそう呟く。
成る程、とは言っているものの、正直実感は薄い。幾ら幻想郷と言えども、流石にこれは非現実的である。まさかこんな出来事が、霊夢の知らぬ間に起きていたなんて。
「タイムトラベル、ねぇ……。にわかには信じられないけど……」
けれど今は、納得して受け入れるしかない。今まで妖夢が何も話してくれなかった理由についても、タイムトラベルなどと言う不確定要素が絡んでいるのなら納得も出来るからだ。
「まったく……妖夢も紫も、これまで肝心な事は何も説明してくれなかったじゃない。まさかこんな風にハブられる日が来るなんてね……」
「……仕方なかったのよ。今回の件はあまりにも不明瞭な点が多すぎるわ。時間跳躍なんていう突拍子もない要素が絡んでいる手前、下手に情報を与えて混乱を招くのだけは避けたかったの」
──そう、これである。
紫の主張は判る。別の時間からの干渉などという実態の掴めない事態に陥ってしまっているこの状況、不明瞭な情報は不用意に開示すべきではない。最悪、もっと大きな混乱を招く危険性がある。
けれどそれでも、納得は出来ない。自分にくらいは、話してくれても良かったじゃないか。
(まぁ、でも……)
取り敢えず、タイムトラベル云々の話は一旦置いておく事にしよう。
はっきりとした事が一つある。それは言わずもがな、魂魄妖夢の様子がおかしかった原因である。彼女の言動に対してはこれまでも強烈な違和感を覚え続けていたが、その原因が分かってしまえば彼女の様子にも納得できる。
生真面目で融通の利かない妖夢の事だ。タイムトラベルに関する情報を不用意にばら撒くべきではないという認識も相まって、彼女はずっと一人で抱え込み続けていたのだろう。
(何と言うか……)
霊夢はチラリと岡崎進一を一瞥する。
亡霊の癖に生前の記憶が無いらしい青年。これまで以上に様子のおかしかった今の妖夢を苦しめている原因は、彼の記憶喪失に集約される。
生前の彼は、妖夢と面識があったらしい。にも関わらず、今の彼は妖夢の事さえも綺麗さっぱり忘れてしまっている。妖夢と共に何を見て、何を感じて、そして互いにどんな想いを抱いていたのか。彼は今も尚、それすらも思い出せずにいる。
それだけ分かれば十分だ。霊夢は納得したかのように「うんうん」と頷くと、改めて進一へと向き直る。
「ねぇ進一さん。一つ良いかしら?」
「……ああ。何だ?」
霊夢のやるべき事──否、やらねば気が済まぬ事はもう決まっている。
笑顔を浮かべ、そしてさも当然の事であるかのように。博麗霊夢は、言い放った。
「あなたの事、一発ぶん殴ってもいい?」
「なぁ……!?」
真っ先に反応したのは紫である。まぁ、何となく予想は出来ていた事だ。
判らなくもない。それは到って正常の反応だ。いきなり暴力の許可を示されて、困惑しない者の方がごく少数に限られるだろう。きっと彼女は、このあとすぐに霊夢へと苦言を呈する事になるはずだ。目に見えて分かる。
そして案の定、霊夢のそんな予感は的中する訳だが──。
「な、何を言ってるのよ貴方は! いきなり殴らせろだなんて、そんなの進一君が……!」
「……ああ。分かった。頼む」
「進一君ッ!?」
慌てふためく紫とは対照的に、進一は何の疑問を抱く事もなく霊夢の要求を受け入れたのである。
特に困惑するような事もなく、何かを疑問に思うような事もなく。まるでそうなって当然だと言わんばかりに、彼は至極あっさりとこの状況を受け入れてしまっている様子だった。
けれど当然、彼の気が狂ってしまった訳ではない。伊達や酔狂でそんな反応を示してしまった訳ではない。
その証拠に、彼の瞳はどこまでも真っ直ぐだ。
曇りもなく、濁りもなく、ただ一直線に。
彼の瞳には、強い意志と決意が込められていて。
「殴るんなら思いっ切りやってくれ。遠慮なんていらない」
「へぇ……。あなた、思ったより物分りが良いのね」
どうやら彼は、自分が立たされている状況も自分がやるべき事もしっかりと理解しているらしい。その上で霊夢の気持ちを汲み取り、こんな反応を示している。
悪い奴ではなさそうだ。ただ、妖夢と同じくらい生真面目で、妖夢と同じくらい不器用なだけで。
「な、何なのよ一体……。霊夢も進一君も、何を考えているの……?」
「まぁ、良いんじゃないかい? 本人達がそれで満足ならさ」
「つ、付き合ってられないわ……」
相も変わらず紫の困惑は収まらないが、それでも霊夢はこの考えを改めるつもりは無い。その気持ちは進一も同じらしく、彼の表情はどこまでも誠実である。
──悪くない表情だ。これなら霊夢も、遠慮せずに済む。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
ふわりと、霊夢は進一へと一歩分近寄る。
真っ直ぐな彼の瞳。霊夢の視線がそんな進一の視線とぶつかると、彼の決意と覚悟がひしひしと伝わってくる。それは誰がどんな介入をしようと簡単には折れる事のない、強固で揺れ動かないものだ。
彼の意思はしっかりとしている。それならこれ以上、余計な言葉は必要ない。
「……行くわよ」
霊夢は拳を握り締める。そしてそれを掲げ、大きく振り被って。
「歯を食いしばりなさいッ……!」
「…………」
思い切り、突き出す。
振り下ろされた霊夢の拳は進一の左頬へとクリーンヒットし、ゴツンと鈍い音が辺りに響く。手加減も遠慮もせずに放たれた霊夢の右フックは、文字通り進一を
抵抗も反撃もない。ただ一方的に殴られた進一は、そのままバランスを崩して空中から落下。がさりと近くの大木に引っかかるような形で倒れ込んでしまった。
中々に強烈な一撃だ。殴ったこっちの拳までもがジンジンと痛むほどに。
「ちょ、進一君……!?」
「うへぇ……。こりゃ凄いのをまともに食らったねぇ。見てるだけでも頬っぺたがウズウズしてくるよ……」
想像以上に重い一撃を目の当たりにして、慌てて進一へと駆け寄る紫と若干引き気味の小町。失礼な反応だ。遠慮するなと言ったのは、進一の方だったはずなのに。
「いや、あの人亡霊でしょ? だったらこの程度どうって事ないと思うんだけど」
「それでも限度があるでしょう!? だ、大丈夫進一君!? 生きてる!?」
いや、生きてはないと思う。亡霊だし。
「ああ……。大丈夫だ……」
意外にも、進一はすぐに起き上がった。
木の葉を振り払いつつも、彼は再びふわりと飛翔する。口の中を切ってしまったのか、口元からは血が滲み出ている様子も見受けられるが、それでも彼は然程大きなダメージを受けた訳ではない様子。口元の血を袖で拭い、彼は改めて霊夢へと向き直ると、
「……まさかグーで殴ってくるとはな」
「何? ビンタの方が良かったの?」
「別にそういう訳じゃない。……予め言っておくが、俺は殴られて悦ぶような特殊な趣味は持ち合わせていないぞ」
肩を窄めつつも、彼はそんな事を口にした。
未だにジンジンと痛む拳を解しながらも、霊夢は肩の力を抜く。理不尽とも捉えられる流れで一方的に殴られるような形になった進一だったが、彼の表情からは後悔の色は伺えなかった。
これで良かったのだとでも言いたげで、満足そうな顔立ち。
そんな彼の様子に釣られて、霊夢は思わず破顔する。
「悪かったわね、殴って。でもこれくらいしないと、あの子が可哀そうじゃない」
「ああ……。あいつ、暴力とかあんまり振るうタイプじゃないみたいだからな……」
「まぁ……そうね。だから私がその代わり。ま、多少なりとも私情は混じっていたけど」
「……いや。お陰でシャキッとした。これで間違いなく、俺はもう迷わない」
進一の決意には、一点の曇りもない。これ以上霊夢や紫達が余計なお節介を焼かずとも、彼ならきっと大丈夫だろう。
進一なら妖夢を救う事が出来る。──否、進一でなければ妖夢は救えない。凍てついてしまった妖夢の心を溶かしてやる事が出来るのは、彼の言葉を置いて他にないのだから。
「……妖夢がいるのはこの先よ。早く行ってあげなさい」
「……ああ」
短いやり取り。けれど今は、それだけで十分だ。
今の霊夢がやるべき事は、黙って彼を送り出してやる事だ。それ以上の介入なんて、それこそ余計なお世話というものだろう。
霊夢はあくまで自分の役割を全うするだけだ。余計な意地なんて、これ以上はいらない。
そう。彼が妖夢を、救う事が出来るのならば。
今はそれだけでいい。
「ちょ、ちょっと待っておくれよ進一! お前さんを一人にしちゃうと、あたいが四季様に怒られちまうんだから!」
妖夢のもとへと向かってゆく進一と小町を見送った後、霊夢は踵を返す。
自分の役割はここまでだ。出番の終わった役者は、大人しく舞台から降りる事としよう。
「……まったく。貴方も大概、不器用な性格してるわよね」
「……うっさいわね。放っておきなさいよ」
やれやれと嘆息する紫へと向けて、反抗的な態度を見せた後に。
霊夢は一人、魔法の森を後にするのだった。
*
身体が重い。飛翔を続けるのも辛くなって、自分の足で歩かざるを得なくなる。
眩暈がする。一歩歩く度に足元がもつれそうになり、足取りが覚束なくなる。
意識が朦朧とする。ちょっとでも気を抜けば、簡単に倒れてしまいそうだった。
(これは……流石に、少し……)
ヤバいかも知れない。
霊夢の前から逃げ去るように踵を返した妖夢は、魔法の森の先にある見晴らしの良い草原を一人で歩いていた。
人里とは真逆の方向。最早この先には妖怪か妖精くらいしか生息していない。霍青娥の捜索という
折角霊夢と合流できたのに、結局妖夢は自分勝手な理由で彼女の前から逃げ出してしまっている。
“彼”からも逃げ出して、幽々子達からも逃げ出して、そして霊夢からも逃げ出して。一体自分は、どこに向かっているのだろう。逃げて、逃げて、逃げ続けて。一体全体、その先に何を求めているのだろうか。
分からない。
自分の事であるはずなのに、理解する事が出来ない。
(わた、し、は……)
フラフラする。蓄積された疲労感が一気に伸し掛かってきたかのような感覚だ。今朝から殆ど休む事なく異変の解決に尽力していた為、流石に体力がそろそろ限界である。
霊夢との弾幕ごっこから始まり、最後には神子との激しい決闘。霊力は殆ど底を尽きていて、最早空を飛ぶ事さえ叶わない。まさに疲労困憊。身体全体が軋んでいるかのような、そんな感覚さえも覚えてしまう。
このままでは──。
「あっ……」
そして遂に、足がもつれる。そのまま彼女は倒れ込んでしまい、一瞬だけ意識が遠のいてしまった。
眠い。
睡魔にも似た感覚が、妖夢へと襲い掛かる。身体中の感覚が急激に鈍くなり、立ち上がる気力さえもなくなってきて。意識を手放すのは危険だと、それは分かっているはずなのに。けれども妖夢は、逆らえない。
(ああ……。本当に、私……)
何をやっているのだろう。沢山の人に心配をかけて、沢山の人に迷惑をかけて。そして今は、こんな所で力尽きてしまっている。拒んで、拒んで、拒み続けて。そして彼女は、勝手に一人になろとしてしまっている。
本当に、自分勝手が過ぎる。一体全体、何様のつもりなんだ。
「…………」
意識がぼんやりと遠のいてゆく。辛うじて脳裏に浮かんでくるのは、先程別れてしまった霊夢の姿と、多大な心配をかけてしまった幽々子の姿と、そして──。
「進、一さん……」
彼は今、何をしているのだろう。あの青年は今、何を思っているのだろう。
──そんなの、考えるまでもない。彼はきっと、幻滅している。こんなにも歪んでしまった妖夢を見て、幾ら彼でも愛想をつかさない訳がない。
記憶を失い、妖夢の事さえも忘れてしまった彼は。
もう──。
(もう、良いや……)
どうでもいい。何もかもが、どうでもいい。
けれども、どうしてこんなにも心が締め付けられるのだろう。どうしてこんなにも、涙が溢れそうになってしまうのだろう。
どうでもいいはずなのに。
諦めてしまったはずなのに。
──ああ。
本当に、自分は大馬鹿者だ。
この期に及んで、やっぱり諦めきれないのか。この想いを、捨てきる事が出来ないというのか。
こんな状況に身を投じたのは、他でもない自分自身の意思だと言うのに。
それでも、妖夢は。
(……嫌になるなぁ、本当に)
こんな自分が大嫌いだ。
いつまでも未練がましく想いを引き摺り続け、にも拘らず目を逸らそうと躍起になって。勝手に自分を追い詰めて、勝手に自分を痛めつけて。そしてあろう事か、大切な人達にさえも迷惑をかけて。
大嫌いだ。
こんなにも、腑抜けた感情を抱き続けるというのなら。
いっその事。
(私なんて……消えてしまえば、良いのに……)
朦朧とする意識。暗転する視界。
深く暗い闇の底へと、彼女の意識は落ちていった。