桜花妖々録   作:秋風とも

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第68話「約束のカタチ」

 

「ふわぁ……」

 

 小野塚小町は抑える素振りも見せずに大きな欠伸を零していた。

 眠たそうに目元を擦った後に、小町は大きく伸びをする。現在は普通に勤務時間中だが、ぶっちゃけやる気が中々出てきてくれない。取り合えず普段通り死者の魂達を彼岸まで運んでは戻り、そして運んでは戻りを繰り返している内にそろそろ時間は黄昏時である。

 一休みと勝手に称して手ごろな岩の上に座るが、一度休憩を始めてしまうとこれが中々立ち上がる気になれない。今日はもう、十分に頑張ったんじゃないか。もう良いんじゃないかと。そんな思いがひしひしと湧き上がってくる。

 

「というか、あたい今日は朝から仕事頑張ってない? こりゃもう十分どころか、働き過ぎと言っても過言ではないじゃないか……!」

 

 まぁ、普段からサボり過ぎて仕事が溜まり過ぎてしまっている訳だが。ぶっちゃけノルマを達成する為にはこの程度の仕事じゃ足りないのだが、そんな事など小野塚小町というこの少女が気にするはずがない訳で。

 

「……そう言えば、進一はどうなったのかねぇ」

 

 考えるのは直面している仕事の事などではなく、先程助けた記憶喪失あの亡霊青年の事だ。

 何故か生前の記憶がなく、しかも死を受け入れているはずなのに成仏するような気配もない奇妙過ぎる亡霊。素性も何も分からない怪しげな存在であるが、小町はそこそこ彼の事を気に入っていた。

 悪い奴じゃないと思う。一見クールのようにも思えるが意外と素直で若干天然気質、しかも注意して良く見ると意外と感情が表に出やすい体質ときた。そんな彼が、悪意を持って幻想郷に侵入してきたとは思えない。それにしてはあまりにも不器用過ぎる。

 

 寧ろ彼は、どちらかと言うと被害者体質じゃないか。自分が何者かの分からぬまま、見知らぬ世界に放り出されてしまったのだから。

 

「まぁ、幽々子ん所なら大丈夫だと思うけど」

 

 それでもやはり、気になるものは気になる。ああ、これはまずい。気になって気になって、仕事にもまともに手が付けられないじゃないか。

 さてさて、どうしたものか。

 

「うん。よし、気になるなら様子を見に行っちまおう」

 

 それが一番手っ取り早い。直接この目で様子を見れば、この胸のモヤモヤだってあっという間に晴れる事だろう。

 そうと決まれば善は急げだ。あまりホイホイと冥界に入る事は許されてはいないのだが、致し方あるまい。だってこのままでは、気になり過ぎて仕事にだって支障をきたすのだから。

 

 そう、これはサボりではない。れっきとした仕事の一環である。

 

「さぁて、行こうか」

 

 全く躊躇する事なく、小町は仕事場を後にする。

 取り残された霊魂達が、寂しげに河の畔を漂っていた。

 

 

 *

 

 

 ()()()()()()

 

 けれど何が見えるのか、などと聞かれても今の進一には上手く説明は出来ない。気が付くと、()()は当たり前のように彼の視線に飛び込んできて、当たり前のようにそこで揺らめき始めた。

 ゆらゆら、ゆらゆらと。それはあまりにも儚げで、そしてあまりにも不安定だ。まるで、息をひと吹きするだけで消えてしまう蝋燭の火のように。或いは、少し衝撃を与えただけで簡単に落ちてしまう線香花火のように。

 ()()は、そこにあった。

 死者の国であるはずの冥界の中に、ぽつんと。

 温かな、灯火。

 

(こいつは……)

 

 判らない。胸中を掻きむしられるかのような感覚を覚える事はできるのに、それでもはっきりとした記憶は戻ってこない。

 けれど。そんな状態でも、何となく分かる事がある。

 ()()は手掛かりだ。彼女を──魂魄妖夢を見つける為の、唯一の手掛かり。

 だから今は、手繰り寄せるしかない。()()が何なのかだとか、自分の身に何が起きているのかだとか。そんな考察、後回しにしてしまえばいい。

 

 今やるべき事は決まっている。それは今の進一にとって、何よりも優先しなければならない義務。

 魂魄妖夢を見つけ出す。そして──。

 

「妖夢ッ!」

 

 ──程なくして、彼は辿り着く。

 『眼』に映る()()。それを必死になって手繰り寄せて、辿り着いたその場所に彼女の姿はあった。

 冥界の一角。死者の魂であろう霊魂達が漂う、幻想的な雰囲気の湖。月明りが照らされるその湖畔。そこに、彼女はいた。

 

 白銀色の髪を棚引かせ、自らの半霊をふわふわと周囲に漂わせて。

 そんな彼女の後ろ姿は、酷く儚げな印象だった。

 

 

 *

 

 

 感情が、抑えきれなかった。

 逢いたかったのに、会いたくない。声を聴きたかったのに、聞きたくない。言いたい事は沢山あったはずなのに、けれど何も話したくない。そんな矛盾が、ぐるぐるぐるぐると妖夢の中で渦巻いている。際限なしに高まってゆく相反する感情が、魂魄妖夢を押し潰そうとしていた。

 

 分かっている。

 自分がどれほど拗れていて、どれほど歪に捻じれてしまっているのか。そんな事くらい、自分でも分かっている。胸中に抱くこの感情は、酷く自分勝手で理不尽だ。一方的にこんな感情を押し付けられて、相手だって溜まったもんじゃないだろう。

 

 でも。

 それでも、妖夢は。

 

「…………っ」

 

 見下ろすと、水面に映る自分の顔が目に入る。白玉楼を飛び出して、がむしゃらに走った先にあったのがこの湖だった。

 別に、この場所に何か思い入れがある訳ではない。何かあった時は決まってここに来るだとか、そういった習慣がある訳でもない。妖夢はただ、何も考えずに夕闇の冥界を駆け抜けただけだ。

 ──いや、その表現は厳密に言えば間違っている。何も考えていなかったのではなく、何かに気を回す余裕がなかっただけだ。こんなにも荒れ果てた状態の妖夢では、まともな思考を働かせる事など出来る訳がない。どんな事を考えようとも、結局その着地点は支離滅裂である。

 

 酷い顔だなと、水面に映る自分を見てもそう思う。

 

 一体、自分は何がしかったんだろう。

 一体、自分は何をして欲しかったんだろう。

 

 この二年間、妖夢が続けて来た事は──。

 

(自己欺瞞、だったのかな……)

 

 幽々子を守るだとか、約束を果たすだとか。そんな最もらしい御託を並べておきながら、彼女の心はずっと別の方向を見続けていた。それでも妖夢は自らを欺き、無理矢理にでも正当化する事で“剣士である魂魄妖夢”を形作っていた。

 別に、剣士である事が嫌な訳ではない。幽々子を守る事だって、間違いなく妖夢の心が強く望んだ意志である事に変わりはない。

 

 でも、それと同時に。

 彼女は心のどこかで、岡崎進一との再会を強く望んでしまっていた。

 

 それは、抱いてはいけないはずの望み。

 だってあの時、岡崎進一は妖夢の事を信じて送り出してくれたのだから。例え離れ離れになってしまうのだとしても、それでも彼は覚悟を決めて妖夢の背中を押してくれたのだから。

 

 忠誠心と恋心。その二つの間で板挟みになって、迷い苦しむ。

 

 未来の自分の指摘通りだ。あの時、優柔不断な魂魄妖夢は、選ぶべき選択肢を選ぶ事が出来なかった。

 収まるべき鞘は、明確であったはずなのに。それでも妖夢は、この期に及んで躊躇してしまっていたのだ。

 

 けれどそんな妖夢が迷いを断ち切れるきっかけを作ってくれたのが、他でもない進一だった。

 

 彼の言葉のお陰で、妖夢は目を覚ます事が出来た。彼が背中を押してくれたお陰で、妖夢はこの時代に帰還する事が出来たのだ。

 彼のお陰で、割り切れた。

 あの四ヶ月間は一時の夢のようなものだったのだと、そう納得する事が出来ていた。

 

 だから彼女は、これまでこの想いを抑え込む事が出来ていたはずなのに。

 

 それなのに。

 

「妖夢ッ!」

 

 ──声が、聞こえる。

 おもむろに振り返ると、そこにいたのは一人の青年。

 何となく、そんな予感はしていた。一方的に飛び出してきてしまったけれど、ひょっとしたら追いかけてくるのではないかと。そんな根拠もない漠然とした予感を、妖夢は抱いていた。

 だから、だろうか。あまり、驚きはない。

 

「ようやく見つけた……。捜したぞ」

「…………っ」

 

 この声。そしてこの姿。妖夢の記憶の中に深く刻み込まれている()()と、やはり瓜二つだ。

 彼と全く同じ声。そして彼と全く同じ姿で、この青年は妖夢の前に現れている。

 それはまるで、妖夢を惑わす魅惑の魔の手であるかのように。青年の言葉は、嫌でも妖夢の耳へと届く。

 

「……妖夢。俺の話、聞いてくれないか……?」

「……っ」

 

 下唇を噛み締める。明確な拒絶感。受け入れてはいけないと、妖夢の中で何かが訴えている。

 ──もしもここで彼を受け入れてしまったら、これまで積み重ねてきた自分が崩壊してしまう。そんな予感が、妖夢の心を撫でまわす。

 

「妖夢、俺は……」

「……良いんですよ。別に、無理に取り繕うとしなくたって」

「えっ……?」

 

 酷く冷たい声。それが自然と妖夢の口から洩れる。

 自分でも驚いた。まさか自分の口から、こんな声調で言葉が出てくるなんて。けれどそれでも、妖夢の言葉は止まらず溢れてくる。

 

「あなたは進一さんじゃない。何のつもりかは知りませんが……あなたはただ、岡崎進一という人間を演じているに過ぎないんでしょう? ……それはひょっとして、紫様か誰かの入れ知恵ですか?」

「……紫は関係ない。確かに記憶がない今の俺は、生前の俺自身を必死になって演じようとしているだけなのかも知れない。だが……」

 

 そこで青年は、一呼吸を置く。そして言葉を選ぶような素振りを見せた後、彼は再び妖夢へと向き直った。

 

「お前を放ってはおけない。この気持ちは本物だ」

「…………ッ!」

 

 ズキンっと、妖夢の心に彼の言葉が響く。

 彼の態度は至極真摯なものだ。何か裏がありそうだとか、そんな感覚は一切感じられない。今の彼は、心の底から思った言葉を口にしている。

 

 だからこそ。

 ──許せない。

 

「どこまで……私を惑わせば、気が済むんですか……?」

「なに……?」

 

 息を呑む青年。そんな彼へと向けて、魂魄妖夢は怒号をぶつけた。

 

「知ったような口を利かないで下さいッ!! あなたに私の、何が分かるって言うんですか!?」

「なっ……」

 

 たじろぐ青年。けれどそんな彼の様子を前にしても尚、妖夢の怒号は止まらない。

 

「あなたは一体何なんですか!? この時代に! このタイミングでッ! 進一さんが私の目の前に現れるなんて……絶対に、有り得ないはずなのに……!」

 

 それなのに、彼の姿は岡崎進一そのものだ。

 幾ら妖夢が否定しようとも、目の前の彼は岡崎進一なのだ。

 

 その事実が、妖夢の心を搔き乱す。

 

「だって……。だってあの時、進一さんは私の背中を押してくれた……。迷って、迷って、迷い続けて……。そんな優柔不断な私に、進一さんは言ってくれたじゃないですか……。お前はお前の信じる道を行けって……」

「俺、が……?」

 

 言葉が勝手に溢れ出る。自制すらも全く効かない。

 湧き上がる。零れ落ちる。妖夢の意思とは無関係に、それは音となって吐き出される。

 

「進一さんが想いを届けてくれたから、私は迷いを断ち斬る事が出来たんです。それなのに……」

 

 そう、それなのに。

 

「ここで進一さんが現れてしまったら、意味がないじゃないですか……!」

 

 意味がない。

 そう、意味がないのだ。

 あの時彼が口にしてくれた言葉も、想いも、行動も。ここで進一が現れてしまったら、全部意味がないものになる。

 彼と妖夢は生きるべき時代が違う。だからこの想いだって、諦めるしかないのだと。そう、覚悟を決める事が出来ていたはずなのに。

 

 ここで進一が現れてしまったら、その覚悟が崩れ落ちてしまう。

 また、諦める事が出来なくなってしまうじゃないか。

 

 そんなのは、駄目だ。

 それでは妖夢は、幽々子の事を。

 

(守れなく、なっちゃう……!)

 

 これではあの頃に逆戻りじゃないか。

 優柔不断で一人じゃ何も出来なかった、あの頃の自分に──。

 

「ま、待て……。お、俺は……」

 

 言葉を見失った青年が、それでも声を絞り出そうとする。けれど結局、それ以上は続かずに口をつぐんでしまう事になる。

 何も言えない。

 彼はそれ以上、言葉を繋げる事が出来ない。

 

 記憶がないから。何も覚えていないから。

 だから彼は──何も言えない。

 

『妖夢。俺はお前を忘れない。俺はいつだって、お前の事を想っている』

 

 妖夢の脳裏に、声が響く。それはあの時──極限まで追い込まれてしまった妖夢へと向けて、彼が投げかけてくれた言葉。

 

『俺達はお前を信じている。だからお前も信じてくれ』

 

 彼の言葉のお陰で、妖夢は迷いを断ち斬る事が出来た。

 

『お前を信じる俺達を』

 

 そう。

 

『そして俺達が信じる、お前自身を』

 

 彼の言葉のお陰で、妖夢は再び立ち上がる事が出来た。

 彼の想いが、踏み出す勇気を妖夢にくれた。

 

『だから妖夢、お前は……!』

 

 あの時、彼が背中を押してくれたからこそ、今の妖夢がある。

 彼の言葉があったからこそ、妖夢は前に進む事が出来たのだ。

 

『お前が信じる道を行け!』

 

 ──それなのに。

 

(……なのに)

 

 忘れたと、彼はそう言っているのか?

 あの時交わした言葉も。約束も。誓いも。全部、全部、全部全部全部。何もかも、綺麗さっぱり、跡形もなく忘れてしまったのだと。目の前にいる青年は、そう言い捨てるつもりなのだろうか。

 ──そんなの。

 

「……仮に」

 

 震える声。

 俯いてしまった青年へと向けて、魂魄妖夢は言葉を続ける。

 

「仮にあなたが、本当に進一さんだったとして……」

 

 本当に、妖夢の背中を押してくれた彼と、同一人物だったとして。

 

「それでも……。私の事も、綺麗さっぱり、忘れてしまっているなんて」

 

 そんな主張など。

 

「……酷いですよ」

 

 それはあまりにも残酷で。

 

「……忘れないって、言ってくれたのに」

 

 あまりにも、痛い。

 

「……嘘つき」

 

 溢れ出た言葉。それは冷たい音となり、青年へと襲い掛かる。

 俯いていた青年が息を呑む。その表情を窺う事は出来ないけれど、それでも抱く気持ちは何となく伝わってくる。

 多分、彼は罪悪感のようなものを覚えている。妖夢の言葉を真摯に受け止めて、その上で彼は必死になって思考を巡らせてくれている。

 

 お前を放ってはおけない。

 

 その言葉もまた、彼の本心に他ならないのだろう。

 例え記憶を失っていようとも、彼はきっと──。

 

「…………ッ」

 

 ズキンと、妖夢の胸中に痛みが走る。思わず彼から目を逸らして、妖夢は下唇を噛み締めた。

 

(私は……)

 

 一体、何をやっているのだろう。

 一方的に彼を怒鳴りつけて、一方的に突き放して。一体自分は、何様のつもりなのだろう。こんな事をして、何になると言うのだろう。

 

 無茶苦茶にも程がある。こんなの、勝手すぎるじゃないか。

 感情を抑えきれなくて、言葉が勝手に溢れ出てしまって。好き勝手な事ばかり言って、こうして彼を苦悩させる。

 本当に、何をやっているのだろう。

 これじゃあ、あまりにも──。

 

「……ごめんなさい」

 

 自然と、妖夢は言葉をつく。

 その言葉を最後に、魂魄妖夢は歩き出す。俯いた青年の表情を結局一度も伺わないまま、妖夢は彼とすれ違うような形でその場から立ち去ってしまった。

 

 振り向く素振りさえ見せず、妖夢は足早に進んでいく。今度は彼が追いかけてくるような気配はない。

 当たり前だ。あそこまで一方的に怒鳴りつけられて、彼だって何も思わないはずがないだろう。ひょっとしたら、愛想をつかされてしまったのかも知れない。

 

 けれど。別に、それでも構わない。例え彼が妖夢の事を嫌いになってしまったとしても、それは仕方のない事だと思う。

 歪んだ理想と自己欺瞞に塗りつぶされた今の妖夢は、結局茨の道を進むしかない。歪んで、拗れて、そして捻じれ切ってしまった今の妖夢には、後戻りなどという選択肢など残されていないのだから。

 最早想いを素直に受け止める事など出来る訳がない。そもそも素直な想いを抱く事さえも出来やしない。

 二年前のあの日。彼のお陰で抱く事の出来たこの覚悟を、貫き通さねばならないのだと。そんな意地のようなものが、妖夢の心を縛り付ける。

 

「進一さん……」

 

 ボソリと、彼の名前を口にする。

 震える唇で、妖夢は無意識の内に言葉を発する。

 

「私は……」

 

 こんなにも、歪み切ってしまった自分は。

 

「どうすれば、良いんですか……?」

 

 

 *

 

 

 ふざけるな。

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。

 

 頭の中で、進一は自分自身に何度もそう訴えかける。ギリッと歯軋りをして、乱暴に頭を掻き毟って。けれど幾ら思考を働かせようとも、返ってくるのは鈍い頭痛のみだ。暗闇に塗りつぶされた彼の記憶は、この期に及んで戻って来てくれない。

 

 我武者羅に妖夢を追いかけて、そしてようやく追いついて。けれど、まともに言葉を交わす事さえ出来なかった。ただ、徒に状況を悪化させただけだった。

 

(くそっ……!)

 

 自分の所為だ。

 彼女と何か、大切な言葉を交わしたはずなのに。そんな事さえも、忘れてしまうなんて。

 

(思い出せ……! 俺は、あいつと……!!)

 

 どんな言葉を交わした? 何を約束した?

 判らない。ますます頭痛が酷くなるだけで、結局は何も思い出せない。何かがつっかえるような感覚を覚える事が出来ているのに、それでもその感覚を手繰り寄せる事が出来ずにいる。

 痛い。

 頭が、割れるように痛い。

 

 けれど、それでも。

 

(思考を放棄する訳には……いかない、だろ……!)

 

 真っ黒な記憶。文字通り、暗中模索。キーワードは既に幾つも得る事が出来たはずなのに、それを手掛かりと結びつける事が出来ない。幾ら手を伸ばそうとも、結局は何も掴む事が出来ない。

 五里霧中だ。どうあがいても、何も──。

 

(まだだ……!)

 

 しかしそれでも進一は、思考を止めない。

 

(思い出せ……!)

 

 頭痛。吐き気。そんなもの、全部無視してしまえばいい。

 

(思い出さなければ、ならないんだ……!)

 

 そう。全部、思い出さなければならない。

 なぜならば。

 

(あいつは、泣いていた……)

 

 彼女の涙を、見てしまったから。

 

(だから俺は、一刻も早く……!)

 

 思い出さなければ、ならないのに。

 

「うぐ……!?」

 

 猛烈な吐き気に見舞われて、進一の身体は崩れ落ちる。

 どさりと片膝をついて、咄嗟に右手で口元を抑えて。嘔吐までには至らなかったが、それでも気分が最悪である事に変わりはない。

 身体は正直だ。思考を働かせば働かす程、頭痛と吐き気が加速度的に強くなってゆく。これ以上無理に続ければ、幾ら亡霊である進一でもどうなるか検討もつかない。

 

 それに。問題は、頭痛と吐き気だけじゃない。

 

「何だよ……」

 

 さっきから、様子がおかしい()()は──。

 

「俺の『眼』は、一体──」

 

 どうなっているんだ?

 なぜ、()()()()()が見えてしまったのだろう?

 

 まさか、これが。

 

「俺の、『能力』……?」

 

 そこまで考えた所で、進一はぶんぶんと頭を振るって思考を放棄する。

 確かに、この『眼』の事も気になる。けれど今の時点で最優先すべき事は、魂魄妖夢の事だろう。そう判断した進一は、ふらつく足取りで何とか立ち上がる。

 彼女の事は放っておけない。是が非でも、何とかしなければならない。

 そして踵を返し、再び妖夢を追いかけようとした進一だったが。

 

(いや……)

 

 そこでふと、疑問が過る。

 

(俺に……あいつと言葉を交わす資格なんて、あるのか……?)

 

 妖夢が涙を流していた原因の一つは、流石の進一でも何となく分かる。それは進一が、彼女の事を綺麗さっぱり忘れてしまっていたからだ。

 今の進一には生前の記憶がない。だから妖夢の事だって、まるで思い出す事が出来ない。それでも何とか思い出そうと、何度も何度も必死になって試みてみたけれど──結果はこの体たらくである。

 

 そんな今の状態で、もう一度妖夢を追いかけて何になる? 結局の所、さっきと同じ結果に収束してしまうのは目に見えているじゃないか。

 

 そう。今の進一には、妖夢に言葉をかける資格も権利もない。

 

 おそらく魂魄妖夢というあの少女は、生前の進一に対して何らかの強い想いを抱いていた。一度進一と別れてからも、彼女はその想いを心のどこかで抱き続け、そして今日と言うこの日まで燻り続けていたのだろう。日増しにどんどん大きくなるその想いを、おそらく彼女はずっと抑え込んできた。

 

 けれども。そんなある日、再び岡崎進一が妖夢の前に現れる事となる。しかも想いを抱き続けていた妖夢とは異なり、彼は魂魄妖夢という少女の事さえも綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

 想いの一方通行。お前が抱き続けていたその気持ちは、全部身勝手な押し付けだったのだと。暗にそう示しているようなものじゃないか。

 

 泣いて当然だ。

 今の妖夢の心は、岡崎進一という存在を認識する度に傷つき、そして壊れてゆく。

 進一が記憶をなくしてしまった所為で、結果としてあの少女を傷つける事になってしまった。

 

 正直、自分一人だけがどうなろうとある程度は割り切る事が出来る。だけれども、彼女が傷つく事になると言うのなら話は別だ。

 容認できない。こんな状況、認められる訳がないじゃないか。

 

(だが……)

 

 しかし。それでも今の進一では、妖夢を救う事は出来ない。彼女の涙の原因が岡崎進一の記憶喪失なのだと言うのなら、進一が記憶を取り戻さない限り彼女の心が晴れる事はないはずだ。

 だから、今の進一には資格がない。

 妖夢と言葉を交わす所か、会う事だって──。

 

「…………ッ」

 

 踵を返し、ずるずると殆ど身体を引き摺るような形で進一は歩き出す。

 取り合えずはこの場から移動だ。何も出来ないとは言え、何時までもこんな所で右往左往としているなどあまりにも非建設的じゃないか。

 とにかく今は、移動をしたい。ここで幾ら思考を続けた所で、泥沼だと思うから。だから今は、少しでも気分を入れ替えたかった。

 

(くっ……)

 

 ふらふらと覚束ない足取りで、進一は前に進む。

 妖夢を追いかけようとしている訳じゃない。かと言って、どこか向かいたい場所がある訳でもない。ただ、何らかの行動を移さなければ、この思考に押し潰されてしまいそうだったから。土地勘のない冥界を闇雲に進み、朦朧とした意識の中で進一は歩を進めてゆく。

 

 けれどそんな状態で彼が行動出来る範囲なんて、高が知れている。あの湖から離れること数分。白玉楼へと続く見知った道まで戻って来た辺りで、遂に進一は足を止めてしまった。

 激しい頭痛と嘔吐勘。それに苛まれて、進一は蹲ってしまう。何とか抑え込もうと必死になって力を込めてみるけれど、それでも流石にどうしようもなくなってきた。

 

(くそ……。情けないな……)

 

 そう。本当に、情けない。こんな所で、蹲っている場合ではないはずなのに。

 どうすればいい? 亡霊なので然したる問題ではないと思っていたが、流石にこんな状態では立ち上がる事すら覚束ない。放っておけば治る──等と言う楽観的な思考も、些か無理がある状態である。

 これでは妖夢を救うだとか、記憶を取り戻すだとか以前の問題だ。何とかして、この状況を打破する方法を──。

 

「進一?」

 

 ──と、考え込んでいたその時。不意に誰かに声をかけられて、進一は顔を上げる。おもむろに振り返ると、そこにいたのは見知った一人の少女であった。

 少女にしては高めの身長。赤髪のツインテール。そして水色を基調とした衣服。

 数少ない知人。岡崎進一が、亡霊として目覚めてから一番最初に出会った人物。

 

「だ、大丈夫かい? 何だか凄く具合悪そうだけど……」

「小、町……?」

 

 小野塚小町。三途の河の舟頭を勤めているらしい死神の少女。通りかかったのは彼女であった。

 焦点が合わない瞳で、進一は彼女の姿を確認する。一瞬、あまりにも頭痛と吐き気が酷すぎて幻覚でも見え始めたかと思ってしまった進一だったが、けれどどうやら現実らしい。

 駆け寄って来た小野塚小町は、進一を支えるように肩に手を添えてきて。

 

「お前さん、こんな所で一体何をやってたんだい? 白玉楼で厄介になる事になったはずだろう?」

「……お前こそ、仕事はどうしたんだ……?」

「あたいの事は良いんだよ」

 

 いや、良くはないだろう。

 またサボりか。だとすれば再び映姫の雷が落ちる事となりそうだが。

 

「頭、痛いのかい? 吐き気とか、眩暈は?」

「大、丈夫だ……。お前が、心配する事なんて……」

「大丈夫な訳ないだろう。強がりは禁止だよ。ちゃんと正直に答えておくれ」

「…………っ」

 

 強めの語調で諭された。この様子では、今の彼女には下手な誤魔化しなど意味を成さなそうだ。

 観念したかのような表情を浮かべつつも、進一は自分の状態を小町へと説明する。

 

「そう、だな……。正直、結構キツイ……。頭痛に吐き気、ついでに眩暈……。頭が割れそうだ……」

「そこまで……。また、無理に何か思い出そうとしたのかい?」

「まぁ、な……」

 

 一瞬、迷う。彼女の事を話すべきか、それとも黙っておくべきか。

 これは進一の問題だ。彼女の事を傷つけてしまった、進一が解決すべき問題なのだ。だから変に小町を巻き込む訳にはいかない。

 そんな想いが頭を過ぎり、進一を躊躇わせたのだけれども──。

 

「……進一?」

「…………」

 

 小町の表情を窺う。これは心の底から進一の事を心配し、身を案じてくれている表情だ。

 そんな彼女に対して、何でもないと嘯くのか? 進一の事を本気で心配してくれているのに、それでも彼女の厚意を突き放そうというのだろうか。

 

(……それも、違うよな……)

 

 多分、自分だったら水臭いと怒るだろう。今更何を遠慮しているのだと、きっとそんな感情を抱く事だろう。

 だったら選択肢は一つだ。隠し事なんてしない。小町には、全ての事情を説明する。

 

「……妖夢と、会ったんだ」

「…………っ。そう、かい……」

 

 何かを察してくれたかのような、そんな表情。若干の動揺を見せているのは、まさか進一が素直に話してくれるとは思っていなかったからだろうか。

 けれど正直、自分でも少し驚いている。まさか小町に、事情を話そうと思い立つ事が出来るなんて。

 

「俺は……妖夢を、傷つけてしまった。あいつと何か、大事な言葉を交わしていたはずなのに……。それなのに俺は、そんな大事な記憶さえも失くしてしまっていたんだ」

 

 一度話始めたら、後はもう止まらない。次々と、進一の口からは言葉が溢れ出てくる。

 

「あいつは、泣いていた……。俺が記憶を無くしちまった所為で、あいつは……!」

「……だからお前さんは、無理矢理にでも記憶を取り戻そうとしたのかい?」

「ああ……。俺は一度、逃げ出したあいつを追いかけて……それで、話を聞こうとしたんだ。だが……駄目だった。結局、徒に状況を悪化させただけだった」

 

 そう。

 だからこそ、進一は。

 

「記憶の無い今の俺には、妖夢と向き合う資格はない……。俺が記憶を取り戻さないと……また、あいつを傷つける事になる……。だから、俺は……!」

「成る程ねぇ……。お前さんの事情は分かったよ」

 

 そこまで話した所で、小町が途中で口を挟んで話を中断させる。もう十分だと、そう言いたげな表情で。

 けれどそれは、進一の言葉を突っ撥ねた訳ではない。進一の事を見限った訳でも決してない。

 その証拠に彼女は。ポンッと、進一の肩を優しく叩くと。

 

「まったく……。お前さん、ちと真面目が過ぎるんじゃないかい?」

「えっ……?」

 

 顔を上げて振り向くと、小町が浮かべていたのは微笑だった。

 それはまるで、世話のかかる弟分でも相手にしているかのような。そんな、慈愛に満ちた表情。

 

「確かに、お前さんの気持ちも分かるよ。妖夢を傷つけて、泣かせちまって……。だからこれ以上、失敗したくない。これ以上、あの子の涙なんて見たくない。だからこれ以上、あの子とは会わない方が良いって……。本当は、そう思ってるんだろ?」

「それ、は……」

 

 進一は口籠る。小町の言葉は、図星だった。

 資格がないだとか、記憶を取り戻さなければならないとか。そんなもっともらしい言い訳を並べていた進一だったが、その実、彼は内心怖がっていただけだ。

 これ以上、妖夢を傷つけたくない。

 これ以上、妖夢の涙を見たくない。

 

 だから自分は、これ以上彼女と会わない方がいい。

 

 ああ、認めよう。小町の言う通りだ。

 進一は失敗を恐れている。だから次は万全を期さなければならないと、進一はそう思い込んでいる。それ故に、彼は躊躇ってしまった。それ故に、進一は半ば諦めてしまっていた。

 今の自分では妖夢を救う事は出来ない。どうしようもないのだ、と。

 

 だけれども。

 

「……お前さんは、それで良いのかい?」

「なに……?」

「もっと妖夢を傷つける事になる。だからこれ以上、あの子とは会わない方が良い。まぁ、その結論に関してはとやかく言うつもりはないさ。でも、お前さんはそれで満足なのかって思ってね」

「…………っ」

「……あの子を、見捨てるのかい? 失敗が怖いからって、このまま放っておくつもりなのかい?」

「そんな事……」

 

 そんな事──。

 

「出来る訳が、ないじゃないか……」

 

 そうだ。

 あいつを放ってはおけない。この気持ちは本物だって、さっき自分でも言ってたじゃないか。それなのに、たった一回の失敗で簡単に諦めるつもりなのか? その程度で折れてしまう程、自分の意思は脆く弱いものだったのか?

 ──それこそふざけるな、だ。

 

「確かに俺には、生前の記憶がない……。でも……だからと言って、それがあいつを放っておいても良い理由になんてなる訳がない……! 生前の俺とあいつが、どんな言葉を交わしていたのか……。それも重要な事なのかも知れないが……。でも、それ以上に俺は……!」

 

 ぎゅっと、握る拳に力を込める。そしてふらつく足取りで、彼は無理矢理にでも立ち上がる。

 頭痛と吐き気は残っている。けれどそれでも、進一の意思は揺るがない。

 

「俺は妖夢を、救いたい……! あいつの笑顔を、取り戻したいんだ……!」

 

 不思議と胸の奥から湧き上がってくる。それは今の進一が、どんな事よりも渇望している願い。

 魂魄妖夢の笑顔。それを取り戻したい。彼女には、あんな表情なんて似合わないと思うから。だから妖夢には、心の底から笑って欲しい。だから妖夢を、あの苦しみから解放してやりたい。

 

 それが岡崎進一の純粋な望みだ。それは誰が何と言おうと、決して揺るがない願いなのだ。

 だから諦められる訳がない。だから見捨てられる訳がない。

 

 このまま放っておくなんて──そんな事、絶対に嫌だ。

 

「……なんだい。やっぱり、そうなんじゃないか」

 

 優し気な声。視線を向けると、小町は嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 それは小町にとっても満足のいく答え、という事なのだろうか。ここで諦めて腐ってゆくのではなく、立ち上がって食らいつく事こそが彼女が求めていた答えなのだろうか。

 

「だったらお前さんは、お前さんの心の意識に従えばいい。それを止める権利なんて、誰にもありゃしないんだからさ」

「小町……。お前……」

 

 ──いや。もしもここで小町に会わなければ、進一はこのまま腐っていたかも知れない。小町に全てを打ち明けなければ、状況は一切好転していなかったのかも知れないじゃないか。

 だからこの答えは、進一ひとりの力で辿り着いた訳じゃない。

 

(まったく……)

 

 つくづく、自分は情けない。幾ら記憶を失っているとは言え、一人では何も出来ないなんて。

 そう。一人では、何も出来ない。それ故に進一は、誰かに背中を押して欲しかったのかも知れない。踏ん切りをつける事ができなかったから、誰かに鼓舞して欲しかったのかも知れない。だから進一は、小町に全てを打ち明けようと思ったのだろう。

 

 ──本当に、情けない男だ。自分でも、嫌になるくらいに。

 

「さて、と。取り合えず、お前さんを白玉楼に連れて行くよ。その様子じゃ、ひとりじゃまともに歩けないだろ?」

「ああ……。すまない、色々と迷惑をかけて……」

「良いって良いって。病人や怪我人は、大人しく厚意に甘えてりゃ良いんだから」

 

 小町に肩を貸してもらい、進一は歩き出す。

 

「……小町。お前、本当に良い奴だな……」

「だろう? 何せあたいほど人の良い死神はいないって自負してるくらいだからねぇ」

「……これでサボり癖がなければ完璧なんだがな」

「うっ……。よ、余計な事は言わなくていいんだよっ」

 

 そうだ。ここまで力を貸して貰ったんだ。これ以上、うだうだしてはいられない。

 情けない自分はここまでだ。どんなに無様でも、泥臭くても、進一は進一のやるべき事をやる。例え失敗の可能性が残されていようとも、そんなものは蹴り飛ばしてやる。

 

(ああ……。そうだ)

 

 魂魄妖夢を救い出す。今はそれだけを考えていればいい。余計な事を心配するのは、全部後回しにしてしまえば良いじゃないか。

 

 岡崎進一は前を向く。

 迷いなんて、既に完全に断ち切ってしまっていた。




3週間ぶりの更新でした。
今後もちょくちょく更新ペースが乱れそうな予感がしてます……。申し訳ございません。

話は少し変わりますが、誤字脱字報告をして下さった方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
特に初期に描いたお話に誤字やら脱字やらが集中していたそうで……。注意します……。

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