桜花妖々録   作:秋風とも

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第67話「交錯と錯綜」

 

 岡崎進一はどちらかというと小食である。

 生前の記憶は残っていないが、それでも何となくそんな感覚を感じ取る事ができる。食事と言う行為自体は別に嫌いではないが、だからと言ってそこまでがっつく気にもなれない。確かにどうせなら旨い物を食べたいという気持ちもあるけれど、それでも無理に大金を叩いて高価な食材を購入するつもりもない。

 

 まぁ、それでも。食事は必要なものだという考えも、進一の中にだって確かに存在する。

 そもそも亡霊は別に食事を取らずともどうこうなる訳でもないし、究極的には何も口にせずとも別に構わない。しかしそれでも生前の習慣が抜けきっていないのか、食事の時間ともなるとやはり空腹感にも似た感覚が伝わってくる。

 必須とまでは言わないが、やはり食事は掛け替えのないものだ。生きる為に必要な行為だとか、そんな小難しい話以前に、食事は幸福感を与えてくれる。美味しい物を食べる事で、人は誰しも幸せな気分になる。それは進一だって否定するつもりはないし、それ以外に捻くれた意見を持つつもりもない。

 

 けれど。

 けれど、それでも。

 

「……あれは、凄かったな」

 

 ふと昼食時の事を思い出し、思わず進一はぼそりと呟く。今の彼の脳裏に思い浮かんでいるのは、西行寺幽々子という亡霊少女の食いっぷりである。

 はっきり言って、凄まじい以外の言葉が思い浮かばない。幾ら何でも、あれは常識から逸脱し過ぎているのではないだろうか。いや、そもそも亡霊などという存在そのものが常識外れだとか、そんな話はこの際無視する事として。

 

 亡霊は、究極的には食事を取らずとも問題はない。けれどそれは、逆に言えば幾ら食べても問題はないという事だ。仮に一日に摂取すべき分量を大幅にオーバーした食事を取り続けたとしても、それで体調を崩す事はないし体型が変わる事もない。

 つまる所、幾ら食べても太らないという事だ。故に体型という、女子にとって特に神経質になりがちな要素を心配する必要もない。

 

 だから、という事もあるだろか。西行寺幽々子の食欲が、あそこまで並々ならぬものだったのは。

 

「一人で何人前食べたんだ……? あの人の胃袋は底なしか……?」

 

 先に断っておくが、当然ながら亡霊にだって満腹感というものが存在する。幾ら食べても健康面的には問題はないとはいえ、胃袋のキャパシティが無限という訳でもないのである。現に進一は幽々子よりもだいぶ早いタイミングでお腹いっぱいになってしまっている。

 

 そう、西行寺幽々子が異常なのだ。

 昼食からだいぶ時間が経っているはずなのに、未だに気になって気になって仕方がない。なぜ彼女はあそこまで健啖家なのだろうか。いや、最早健啖家などという言葉では足りないようにも思えてくる。まさに胃袋ブラックホール。白玉楼のエンゲル係数は、一体どうなっているのだろうか。考えるだけで末恐ろしい。

 

「いや、まぁ、そこを気にしたら負けなのだろうか……?」

 

 白玉楼のやたらと長い廊下を一人で歩きつつも、進一は呟く。

 因みに今の彼の服装は、三角巾にエプロン姿──ついでに手には桶に雑巾、そして埃払いなどといった完全なるお掃除スタイルである。午前中に居間の掃除をしてからというものの、完全に清掃員的なポジションを確固たるものにしてしまっている。

 どうやら自分は、そこそこ掃除が得意な方らしい。潔癖症の類ではないのだが、それでもしばらく続けている内に何だか楽しくなってきたようにも思える。生前は普段から掃除等もしていたのだろうか。

 

「……うん?」

 

 と、一人廊下を歩いていた進一だったが、そこで不意に香ばしい匂いを彼の嗅覚が察知する。この、例え満腹だろうと空腹感を誘われてしまうような魅惑の匂い。進一には覚えがある。

 この近くにあるのは厨房。であるのなら、自ずと匂いの正体は察する事が出来る。

 

「……藍が料理してるのか?」

 

 そう、それしか考えられないだろう。

 今は丁度日が沈み始める時間帯である。黄昏色の西日が眩しい。けれど夕食の時間には、些か早すぎるようにも思えるような。

 

「……気になるな」

 

 まぁ、ちょうど通り道なのだ。ちょっぴり様子を窺っても罰は当たるまい。

 ひと段落した掃除の用具を片付けようとしていた進一だったが、その途中で足を止めて厨房の扉へと手を伸ばす。引き戸であるそれをガラリと開けると、ますます良い匂いが進一の鼻をつついてきた。

 厨房へと足を踏み入れると、目に入って来たのはやはり藍の後ろ姿。

 

「藍?」

「……ん?」

 

 モフモフな尻尾が特徴的な藍へと声をかけると、調理の手を一旦止めて彼女はおもむろに振り返る。声をかけてきた人物が進一であると気が付くと、彼女は微笑顔で返事をしてくれた。

 

「何だ、進一じゃないか。掃除はもう終わったのか?」

「……まぁ、取り合えずひと段落って所だな。藍は何をしてるんだ? まさか夕食の準備か何かか?」

「ふっ……。そのまさかだよ。まぁ確かに、夕食にしては少し時間が早いかもしれないが……」

 

 夕食。まさかの予感的中である。

 まさかこの時間から夕食を作り始めていたというのだろうか。改めて窓の外を確認すると、やはり時間帯は黄昏時。そんな今から本格的に夕食を作るとなると──。

 

「ああ……、成る程。幽々子さんの食いっぷり、凄まじいからな……」

「そういう事だ。今ら作り始めないと、幽々子様を満足させる事は出来ないからな。……私も妖夢のように、高い質を維持しつつも素早く調理できれば良かったんだが」

「……妖夢、か」

 

 ちくりと、進一の胸中が微かに痛む。

 また、この感覚だ。妖夢という名前を聞く度に、胸がムズムズと疼き始める。彼女に関する話を聞く度に、黒で塗りつぶされた記憶の中で何かが訴えているかのような感覚に襲われる。

 判らない。

 どうやら生前の自分は、魂魄妖夢という少女の事を知っていたらしい。けれど幾ら記憶を探ろうと試みたとしても、結果は他と同じである。

 

 思い出せない。

 記憶の中の暗闇は、未だ晴れる事はない。

 

「……進一? どうかしたのか?」

「……あ、いや」

 

 藍に声をかけられて、進一は我に返る。

 思考の渦から抜け出して、進一は顔を上げた。

 

「夕食作り、俺も手伝うよ。掃除もひと段落だしな」

「おお、そうか。それは助かる。正直、私一人じゃ少しきつかった所だ……」

「まぁ、あの量じゃな……」

 

 昼食に関しても進一は藍の手伝いをしたのだが、だからこそ分かるものがある。

 料理とは、白玉楼においては最早一番の重労働なのである。西行寺幽々子の食欲の前では、生半可な量では水の一滴とほぼ同義なのである。文字通りペロリと一瞬で平らげてしまい、更なるおかわりを要求してくるのだから勘弁して欲しい。

 

 昼食作りを手伝う直前、藍からは並々ならぬ力強さが伝わってきていたのだが──。まさかここまで凄まじい光景を見せつけられる事になるとは、どうして想像できよう。

 

「それにしても、まさか料理もそこそこ器用に熟せたとはな……。お前、本当に記憶喪失なのか?」

「……ああ。でも染みついた習慣に関しては、何となく身体が覚えているらしい。多分、生前はそれなりの頻度で料理もしていたんだと思うぞ」

「……記憶全てがごっそりと消え失せてしまった訳ではない、という話だったな?」

 

 藍が難しい表情を浮かべ始める。

 この説明に関しては、完全に小町の受け売りである。正直、進一本人でさえもいまいちピンときていなかったりする。

 確かに料理や掃除に関しては、それなりに上手く熟す事が出来た。けれどそんな事を幾ら続けた所で、結局記憶は戻らない。幾ら染みついた感覚に従ってみた所で、それは結局進一にとって()()()()なのだから、記憶を取り戻す手掛かりには成り得ないのである。

 

 そういう意味では、全くの無意味とも言えるかも知れない。幾ら時間を費やした所で、何の効果もないというのならば──。

 

「……取り合えず、掃除用具を仕舞ってくる。料理の手伝いはその後だ」

 

 再び思考を打ち切り、藍にそう告げた後に進一は厨房を後にする。

 この思考はあまりよろしくない。これではあまりに泥沼で、そしてあまりに不誠実だ。幽々子達の恩を、仇で返すつもりなのか?

 掃除や料理の手伝いに関しては、自分の記憶を取り戻す為にやっている訳じゃない。あくまで幽々子達の力になる為にやっている事なのである。その目的を履き違えてはいけない。

 

(……早いところ片づけちまおう)

 

 そして早いところ戻って、早いところ藍の手伝いを始める。あまり妙な思考に陥ってしまう前に、行動に移してしまいたかった。

 

 掃除用具を両手に、進一は廊下を進む。用具入れは玄関の近くにあるのだが、この位置からだと距離はそう遠くない。とんでもない敷地面積を誇る白玉楼だが、こうして掃除を続ける内に少しずつ間取りを把握出来てきたように感じている。それでも未だ回り切れてないのだが、そこはおいおい慣れてゆくしかあるまい。

 兎にも角にも、向かう先は玄関方面の掃除用具入れだ。進一は足早に歩を進め、目的地へと向かってゆく。

 

 ──そして、廊下の先。その角を曲がって、その先へと進もうとして。

 その瞬間。

 

 

 一人の少女の姿が、目に入った。

 

 

「…………ん?」

 

 考え事をしていた所為で、直前まで気が付かなかった。

 見覚えのない少女。小野塚小町でも、四季映姫でも、西行寺幽々子でも、八雲紫でもない。彼女らと比べると幾分か小柄な、白銀色の髪を持つ少女。そして何より目を引くのは、彼女の傍らにふわふわと浮かぶ大きな霊魂である。

 少なくとも、白玉楼ではこんな少女など一度も見かけなかったはずだ。そんな彼女は、何やら愕然とした表情で進一の姿を窺っている。目を見開き、瞳を揺らし、驚愕に胸中を支配されてしまったかのような様子で。霊魂を連れたその少女は、何も言えずにそこに固まってしまっている。

 

(何だ……?)

 

 やはり彼女も白玉楼の住民なのだろうか。今の今まで外出中だった、と考えればその予想は辻褄が会う。帰った途端に見知らぬ青年が屋敷の奥から出てきたのだから、驚いて当然だろう。

 だとすればこの少女には悪い事をした。敵意も悪気もない事を伝える為にも、まずはこちらから素性を明かさねばなるまい。と言っても、名前くらいしかまともな記憶はないのだが──。

 

 ──そんな事を考えていた刹那。進一が口にするよりも先に、まるで言葉を絞り出すかのように少女が口を開く。

 相も変わらず、信じられないとでも言いたげな表情で。

 

「進、一さん……?」

 

(……えっ?)

 

 ──今、この少女は何と言った?

 愕然とした表情から、震える声で絞り出された言葉。信じられないとでも言いたげな面持ちで、有り得ないとでも言いたげな雰囲気で。それでも彼女は一歩踏み出し、そして無理やりにでもその名を発した。

 

 紛れもなく、疑いようもなく、単なる聞き間違いでもなく。

 この少女は、確かに口にしたのだ。

 

 進一、と。

 

「本当に……」

 

 そして少女は、再び口を開く。

 

「本当に、進一さんなんですか……?」

「…………ッ!?」

 

 そして再び、彼女はその名を口にする。その途端、進一の思考が急激に回転を始めた。

 何だ? どういう事だ? この少女は、なぜその名前を知っている? どうしてそんな表情を浮かべて、頻りに何かを訴えてくるのだ?

 ──いや。そんな推測、するまでもなく明らかじゃないか。

 今の今まで白玉楼では見かける事もなかった人物。そんな彼女が、こうして進一の名を口にしている。今にも泣き出しそうな瞳を震わせて、こうして進一を見据えている。

 

 それはなぜか。

 答えは、一つしかない。

 

「お前、は……」

 

 頭の奥がウズウズする。暗闇で塗りつぶされた進一の記憶が、今まで以上に何かを訴え続けている。

 頭が痛い。思わず進一は眉間を抑えるが、それでも思考を止める事はできそうにもない。例え頭痛が加速度的に強まろうとも、それでも今の進一には推測を放棄する事など出来る訳がなかった。

 

 思い出せない。記憶が見つからない。けれどそれでも、胸の奥が締め付けられる。

 この感覚は──。

 

「お前が──」

 

 白玉楼に来てから半日ちょっと。これまで幾度か耳にした少女の名前。それが耳に入る度、彼の心は静かに掻き乱れた。

 そして、今。進一の心境は、それと同じ状態に陥っている。相も変わらず何も思い出す事は出来ないのに、それでも何かが湧き上がってくる。記憶は途切れてしまっているのに、それでも懐かしさのようなものが溢れ出てくる。

 

 彼女は。

 この少女は、一体──。

 

「お前が……魂魄妖夢、なのか……?」

 

 一体、進一にとってどのような存在だったのだろうか。

 

 

 *

 

 

 それは、まるで白昼夢でも見ているかのような感覚だった。

 酷い表情をしていたと思う。けれどその瞬間は、本当に頭が真っ白になってしまっていて。自分の表情にさえも、気を回す事が出来なくなってしまっていて。妖夢はただ、眼前に突き付けられた現実を、理解するのに必死になってしまっていた。

 

 夢じゃない。そう口にしたのは自分だが、けれど実感なんて湧く訳がない。

 だって、あまりにも有り得ないじゃないか。目の前にいるこの青年は、そもそもこの時代の住民ではない。本来ならば彼の故郷は、八十年という決して短くない時間を超えたその先にある世界。“時間”という強固な“結界”に隔てられた、“未来”という世界の住民なのだから。

 

 この時代において、彼はまだ生まれてすらいないはずだ。にも拘らず、記憶の中のそのままの姿で、こうして彼が目の前に現れるんて。

 

(そう、有り得ない……)

 

 有り得ない、のだけれども。

 

(でも……どうして……)

 

 どうして、自分は信じようとしてしまっているのだろう。目の前にいるこの人物が──岡崎進一という青年であると。どうして自分は、こんなにも容易く受け入れようとしてしまっているのだろう。

 普通に考えれば罠か何かを疑う場面だ。けれど妖夢は、それでもそんな可能性に意識を傾ける事が出来ない。彼女の思考は、自然と一つの結論に帰結してしまう。

 

 それは──ある種の渇望だ。

 文字通り、喉の渇きを潤す為に水分を欲するかのように。この二年間で渇き切った妖夢の心は、無意識の内に一つの理想を望み続けていた。

 例え目を逸らそうとも。例え振り払おうとしようとも。それでも結局、心に嘘をつく事はできない。幾ら言い訳を重ねようとも、この想いを否定する事なんて出来やしない。

 

 逢いたい。

 

 もう一度だけで良い。

 彼に──進一に、逢いたかった。

 

「進一、さん……」

 

 声が震え続けている。頭の中は、既に様々な感情でぐちゃぐちゃだ。

 冷静じゃない。どくん、どくん、と。心臓が激しく鼓動を繰り返している。身体が熱い。まるで胸の奥が沸騰しているかのようだ。

 熱い、熱い、熱い、熱い。

 

「お前、は……」

 

 目の前の青年が、何かを口にする。彼の声が、妖夢の中で反響する。

 

「お前が──」

 

 青年は、自らの眉間を指で抑えている。

 息苦しさも感じられる表情。まるで、何かに苦しんでいるかのように。そう、それはまるで──()()()()()()()()()()()()()かのような、そんな表情。

 

(思い、出す……?)

 

 一瞬、妖夢の頭が冷静になる。

 嫌な予感がした。

 

「お前が……魂魄妖夢、なのか……?」

「…………え?」

 

 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。心臓を、冷え切ったナニカで撫でられるかのような。そんな感覚。

 高揚し、熱を帯びていた妖夢の心に、突如として冷風が吹き荒ぶ。根拠のない胸騒ぎ。出所すらも分からない予感。ただ、ひょっとしたらそうなのではないかと。そんな漠然とした直感が、妖夢の胸中を駆け抜ける。

 

 お前が魂魄妖夢なのか?

 何だ、その反応は。その口振りはまるで、必死になって何かを思い出そうとでもしているかのような様子じゃないか。

 思い出す。忘れていた記憶を、引き摺り出す。

 なぜそれと酷似した反応を見せているのだろう。なぜ彼は、妖夢とはまた別種の動揺を表に出しているのだろう。

 

 いや、そもそも。

 ()()は、何だ?

 

 どうして。

 どうして、彼からは。

 

(何で……死の、匂いしか……感じられないの……?)

 

 少しずつ、冷静さが戻ってくる。真っ白だった妖夢の思考が、徐々に回転を再開する。

 死の匂い。物部布都や豊聡耳神子から感じ取る事の出来た()()は、あくまで微かに感じる程度に過ぎなかった。

 死を偽る事で輪廻転生の輪から外れた仙人、尸解仙。一度疑似的に死を経験しているとはいえ、彼女達は生きている。そう、あくまで偽り。その生命を散らしてしまった訳ではない。

 

 だけれども。

 目の前の青年から感じ取れる()()は、物部布都や豊聡耳神子のものとは違う。

 蘇我屠自古と、そして西行寺幽々子。彼女達の()()と、酷似している──。

 

(これ、は……)

 

 そう、これは。

 

(亡、霊……?)

 

 半人半霊である魂魄妖夢は、少なくとも普通の人間よりは死の匂いに敏感だ。そんな彼女だからこそ、分かってしまう。

 目の前にいるこの青年は、最早人間ではない。漂う死の匂いを感じ取れば、嫌でも分かってしまう。

 亡霊。

 生命を散らし、けれどそれでも成仏する事が出来ない──死者の魂。

 

(なん、で……)

 

 なぜだ。なぜ彼は、亡霊として妖夢の前に立っている? 未来の世界で最後まで妖夢を鼓舞してくれていた彼は、間違いなく生きている姿だった。

 それなのに。どうして、彼からは明確な死の匂いが漂っている? どうして彼からは、生の匂いを感じとる事ができないのだ?

 

 いや。根本的な疑問点は別にある。

 だって、おかしいじゃないか。八十年後の未来の世界の住民であるはずの彼が、こうしてこの時代に現れるなんて。

 

 有り得ない。絶対に、有り得る訳がない。

 そう。二年前の妖夢のような事態に巻き込まれでもしない限り、絶対に。

 

(だったら……)

 

 それならば、目の前にいるこの青年は何だ? 本当に、妖夢の知っている岡崎進一なのか?

 ──否。絶対に有り得る訳がないのなら、この青年が岡崎進一である訳がない。記憶の中とは大きな相違点があるのならば、この青年が岡崎進一であると断言する事は出来ない。

 

 そうだ。そうでなくては困る。

 だって。だって、彼は。

 

「なぁ……お前が、妖夢なんだろ……? だったら、教えてくれ」

 

 苦しそうに頭を押さえる彼の口振りは、酷く他人行儀な様子で。

 

「俺は……。一体、何なんだ……?」

 

 まるで妖夢と、初めて会ったかのような──。否、その表現は適切ではない。

 

「お前は……」

 

 彼は。

 

「お前は……。俺の、何なんだ……?」

 

 妖夢の事など、()()()()()()()かのような様子だった。

 

「えっ……?」

 

 自然と口から、声が零れ落ちる。しかし酷く間の抜けたその声とは対照的に、妖夢の胸中は強い衝撃に襲われていた。

 動揺。突如として突き付けられた現実を処理する事が出来ず、思考があらぬ方向へと働いてしまっている。

 狼狽。当然ながら冷静な判断など下す事ができず、胸の奥の焦燥が掻き立てられてゆく。

 恐慌。血の気が引いて、心の中が凍てついてゆく。

 

 怖い。

 この感情は──恐怖、だろうか。

 

「俺は……。俺には、生前の記憶がないんだ……。家族の事も、友人の事も……まるっきり、思い出す事ができない」

 

 苦痛に満ちた表情で、青年はそう口にする。けれどそんな彼の言葉は、まるで酷いノイズに遮られてしまったかのように妖夢のもとへは届かない。

 いや、厳密に言えば届いてはいる。けれど雑音が混じってしまったその言葉では、その真意まで紐解く事など妖夢には出来やしないのだ。

 

 それ故に。

 

「でも……幽々子さんから聞いた。お前は、生前の俺と会った事があるんだろ? だったら教えてくれないか? 俺は……」

「……知らない」

「……え?」

 

 自然と声が零れ落ちる。意識を傾けずとも、勝手に言葉が溢れてくる。

 膨れ上がる感情。自分でも抑え込む事が出来ない。自然と動悸が激しくなり、呼吸も不安定になってゆき。

 

「私は……」

 

 彼女の胸中を支配した感情は、怒号という形で外へと放出された。

 

「私は……! あなたなんて、知らない……!!」

「なっ……」

 

 当然、青年は困惑顔を浮かべる。それもそうだ。彼からしてみれば、今の妖夢は勝手に癇癪を起したようにしか見えないだろう。

 いや、その解釈は強ち間違っていない。

 これは、限りなく一方的な感情。自己中心的で身勝手な、彼女の我が儘でしかないのだから。

 

「あなたが……進一さんである訳がない……。だって、進一さんは未来の世界の住民で……。この時代では、まだ生まれてすらないはずで……。だからこうして、私の前に現れるなんて絶対に有り得ない……!」

「ま、待てっ、待ってくれ……! 確かに、そうなのかも知れない……。でも、俺は……!」

「止めて!!」

 

 声を張り上げる。堰を切るように、次々と言葉が溢れ出てくる。

 

「私は、約束したんです……。私が信じる道を行くって……。幽々子様の為に、この剣を振るうって……。だから私は、その誓いを守らなければならない……。私を信じてくれた人達の想いを、裏切る訳にはいかないんです……」

「約、束……? 誓い、だって……?」

 

 青年は尚も苦し気に、妖夢の言葉を反芻する。

 けれどそれでも、妖夢の言葉は止まらない。

 

「もう迷わないって、そう決めたんです……。だから私は、これ以上過去に囚われてはいけない……。これ以上、未来の誰かに想いを馳せてはいけないんです……! それなのに……。なのに……!」

 

 支離滅裂だ。言ってる事は無茶苦茶で、限りなく不条理で。理不尽極まりない物言いだって事くらい、ちょっと考えれば分かる。

 けれどだからと言って、割り切る事なんて出来やしない。彼女が抱くこの想いは、酷く歪で複雑だ。だからそう簡単に、踏ん切りをつける事なんて出来る訳がない。

 

「こんなの、駄目だよ……!」

 

 頭を押さえる。声が震える。ぐわん、ぐわんと。視界が揺れているかのような錯覚に陥る。

 

 気持ち悪い。様々な感情が暴走し、身体中を駆け回っているかのようだ。

 息が出来ない。胸の奥が圧迫され、血液が熱を帯び始めているかのようだ。

 

 痛い、痛い、痛い。

 

「これ以上、この想いに縋る訳にはいかないのに……!」

 

 これ以上、引き摺り続ける訳にはいかないのに。

 

「それなのに、こんなのって……!!」

 

 彼女は、最早決壊寸前だった。理性すら、保てなくなりそうだった。

 認められない。確かに目の前にいるこの青年は、岡崎進一なのかも知れない。姿形は瓜二つ。声だって、まさに彼そのものだ。

 

 けれど、違う。何かが、決定的に噛み合わない。

 

「お前、は……」

 

 彼の瞳が揺れている。

 そう、それだ。その目こそ、違和感の正体。

 遠くを見るような目つき。それは妖夢を見ているようで、けれど何も見えていない。どこまでも他人行儀で、どこまでもちぐはぐだ。

 

『俺は……。俺には、生前の記憶がないんだ……』

(生前の、記憶が……ない……?)

 

 脳裏に改めて響く。青年が、妖夢に向けて口にした言葉。

 

『家族の事も、友人の事も……まるっきり、思い出す事ができない』

(思い、出せない……?)

 

 何だ。一体何なんだ、それは。

 思い出せない? だからそんな目を向けているのか?

 記憶がない? それがこの違和感の原因だとでも言うのだろうか?

 

 そんなの──。

 

「進一! 今の声は……!」

 

 この騒ぎを聞きつけて、屋敷の奥から誰かが駆けつけてくる。それが八雲藍という少女であると、理解するのにそう時間は要さなかった。

 黄金色の頭の上には狐の耳。漢服を彷彿とさせる特徴的な服装。そして九本の大きな尻尾。九尾の妖狐という妖獣にして、八雲紫が使役する式神。

 

「妖夢……。やっぱり、お前だったのか」

「藍、さん……?」

 

 八雲藍が浮かべるのは、まさに憂慮に満ちた表情だ。

 彼女も妖夢達の事情は知っている。そして今の反応から察するに、恐らくこの青年の事についても何か知っているはずだ。

 それが意味する事は即ち、彼女の主である八雲紫もこの件に一枚噛んでいるという事である。

 八雲紫が何かをしたのか? ひょっとして、彼女の差し金か何かだろうか?

 『境界を操る程度の能力』を持つ彼女の事だ。妖夢が想像も出来ぬような何らかの手段を講じていたとしても、何らおかしくはない。

 

 いや。けれども、しかし──。

 

「妖夢……?」

 

 再び流れ込んでくる声。今度は八雲藍でも、当然ながら目の前にいる青年の声でもない。

 藍に続くような形で、駆けつけてくれた人物。彼女は紛れもなく、ここ白玉楼の主。魂魄妖夢が仕えるべき、冥界の管理者。

 

「幽々子、様……」

 

 西行寺幽々子。彼女が妖夢へと向けるのは、今朝に送り出してくれた時と同種の表情だ。

 悲痛な表情。見ているだけでも、胸の奥が締め付けられそうになってくる。どうして、彼女はそんな表情を浮かべているのだろう。どうして彼女はそんなにも、苦しそうな視線を向けてくるのだろうか。

 

 そして。それより、何より。

 

「……おかえりなさい、妖夢」

 

 震える声。無理をしているのだと、一目見ただけで分かる笑顔。そんな表情を妖夢に向けて、西行寺幽々子は口にする。

 

「ねぇ、妖夢。知ってるでしょ? 彼の事……。ほら、前に貴方が話してくれた……」

「…………っ」

 

 それは、とても優し気で──けれども、酷く残酷な言葉。

 

「……岡崎進一さん、よね? 詳しく事情を話せば、長くなるんだけど……。彼、生前の記憶を失っているらしいの。だから……」

「……幽々子様まで、そんな事を仰るんですか……?」

「えっ──?」

 

 幽々子の言葉を遮るように、妖夢は口を挟む。

 妖夢は幽々子の事を信用している。例え自分がどうなろうとも、是が非でも仕え続ける対象であると。妖夢はそう認識している。

 けれども。その時ばかりは、彼女の言葉が悪魔の囁きのようにしか聞こえなくて。

 

「進一さんが、この時代に居る訳がないッ……!」

 

 故に妖夢は、声を張り上げてしまう。

 

「この時代じゃ、進一さんはまだ生まれてすらいないはずなんです! だってあの人は、未来の世界の住民だから……! 私達とは、生きている時代が違う……! それなのに……!!」

 

 なのに。

 

「どう、して……死ん、で……」

 

 それ以上、妖夢は言葉を繋げる事は出来なかった。代わりに彼女から溢れ出たのは、一筋の涙。瞳から零れ落ちたそれは、頬を伝って濡らしてゆく。それから先は歯止めが利かなくなったかのように、涙はどんどん溢れてきて。

 そんな涙を、妖夢は拭う。けれど幾ら拭っても、涙は止めどなく溢れてくる。拭って拭っても、抑え込む事が出来ない──。

 

「妖夢……」

 

 再び耳に届く声。それは未だ苦し気な様子の岡崎進一が発したものだ。

 そんな声に釣られて、妖夢は弾かれるように顔を上げる。当然ながら想像通りの進一の姿がそこにはあったのだが、けれどそれだけではない。

 想像もできなかった要素。それは西行寺幽々子と、八雲藍が浮かべる表情。

 酷く驚いた様子の藍。それもそうだろう。あんな大声を急に出されれば、誰だって驚く。問題は、西行寺幽々子の方だ。

 

 それは──酷く、怯えた表情。

 八雲藍のような驚愕も含まれている。けれどそれ以上に、彼女から感じ取る事の出来る感情は悔恨の念だった。

 彼女はあろう事か、自分の取った行動に責任を感じてしまっている。

 幽々子は何も悪くない。悪いのは、身勝手な理由でムキになってしまった妖夢の方であるはずなのに。

 

 従者のような立場であるはずの自分が、主である幽々子を追い込んだ。

 彼女の事を守るのだと、そう誓ったはずなのに。

 

 それなのに。

 妖夢は──。

 

「ぅ、ぁ……」

 

 声にならない声が、妖夢の唇から漏れる。

 心臓が締め付けられる。感情の奔流が容易く妖夢を呑み込んでゆき、そして搔き乱す。頭の中はこれ以上にないくらいぐちゃぐちゃで、自分が何を想っているのかも分からなくなってきて。

 ただ一つ感じとる事の出来るものは──罪悪感、だろうか。

 西行寺幽々子を追い込んでしまった事に対する罪悪感。迷惑をかけてしまった八雲藍に対する罪悪感。

 

 そして。

 目の前にいる青年──岡崎進一に対する、底の知れない“何か”。

 判らない。この感情は、一体何だ? この、胸を引き裂かれるかのような感情は──。

 

 判らない。判らないから、ますます心が荒んでゆく。判らないから、何の対処のしようもない。

 

 判らない。

 判らないから、妖夢は。

 

「…………ッ」

 

 気が付くと、彼女は踵を返していた。殆ど無意識の内に、妖夢はその場から逃げ出してしまったのだ。

 背中の方から聞こえるのは、妖夢を引き留めようとする八雲藍の声。けれど妖夢は立ち止まる事も出来ずに、そのまま白玉楼の玄関を越える。

 

 黄昏色に染まる冥界。その夕闇の中へと、魂魄妖夢は一人で飛び込む。

 彼女の心は、既に限界だった──。

 

 

 *

 

 

 痛い。

 頭が、割れるように痛い。

 

 ()()は一体何だ? これまでのように、無理に記憶を引き摺り出そうとした時のような頭痛とは違う。根本的に別種の痛み。今現在、岡崎進一が感じているこの感覚は、単に記憶が刺激された事だけが原因という訳ではない。

 胸の奥が締め付けられるような感覚。強いて例えるのならば、罪悪感にも似ている気がする。

 彼女が──。魂魄妖夢が、走り去る直前まで進一へと向けていた表情。それが脳裏に刻み込まれて、離れそうにない。思い出す度に、先程から覚え続けている()()()()が更に鋭くなってゆくようにも思える。

 

 意識を逸らす事なんて出来やしない。

 この痛みから、目を逸らす事なんて出来る訳がない。いや──目を逸らす事など、間違ってもしてはいけないのである。

 

「妖、夢……」

 

 震える声を零したのは、西行寺幽々子だ。踵を返した妖夢へと手を伸ばす事はしたものの、けれどそれ以上の事は何もできなかった。立ち去ってゆく妖夢の後ろ姿を、眺める事しかできなかったのである。

 そして後に残されたのは底知れぬ罪悪感だけだ。

 ひょっとしたら、自分は間違った選択をしてしまったのではないか、と。

 そんな思いが、彼女の表情からもひしひしと伝わってくる。

 

「妖夢……。まさか、これ程とは……」

 

 そして八雲藍もまた、しょんぼりと耳を垂らす。その表情からは、相も変わらず憂慮の念が消える事はない。

 彼女達は、おそらく今の進一以上に妖夢の事を知っている。だからこそ、これ程までの感情を抱く事が出来る。

 

 それなら、自分は?

 自分が感じ続けている()()は、一体──。

 

(……いや)

 

 駄目だ。そんな思考に時間を割くなんて、後回しにしてしまえばいい。今の進一がやるべき事は、はっきりとしているじゃないか。

 

(そうだ、俺は……!)

 

 こんな所で、ウジウジと悩んでいる場合ではない。

 

「……妖夢を追いかける」

「えっ……?」

「あいつを放っておく訳にはいかない。俺が、何とかしないと……」

「お、おい待て進一……!」

 

 弱々しく小首を傾げる幽々子に、進一を引き留めようとする藍。けれどそんな彼女らの反応を前にしても尚、彼の心は揺らがない。

 

「俺は……。あいつを……!」

 

 それ以上、進一が言葉を紡ぐ事はなかった。代わりに彼は、自らの心が赴くままに駆け出していた。

 無我夢中だった。去り際に浮かべていた妖夢の表情を思い出す度に、彼は居ても立ってもいられなくなってしまった。

 あの少女は泣いていた。

 岡崎進一という青年を前にして、彼女は確かに悲痛な表情を浮かべていたのだ。

 

 彼女を苦しめたのは、紛れもなく自分だ。

 彼女を泣かせてしまったのは、間違いなく自分の責任なのだ。

 

 記憶は戻らない。魂魄妖夢の事だって、何も思い出す事が出来ない。彼女がどんな人物で、自分にとってどんな存在だったのか。それすらも、今の進一には分からないのだけれども。

 それでも。

 

(だとしても……!)

 

 もう一度、彼女と向き合わなければならない。

 もう一度、彼女と言葉を交わさなければならない。

 それこそが、今の岡崎進一に課せられた義務なのだから。

 

「妖夢……。どこだ……?」

 

 白玉楼を飛び出して、石段の前まで来た所までは良かった。けれど既に妖夢の姿は見当たらず、進一は思わず足を止めてしまう事となる。

 足取りすらも見当たらない。記憶のない今の進一には、あの少女が行きそうな心当たりなどもある訳がない。冥界の地理に関する知識も皆無で、どこに向かうべきかなんて皆目見当もつかないのだけれども。

 

 けれど、それが何だって言うんだ。

 そんな要素など、ここで諦める理由にならない。例え当てがあろうとなかろうと、是が非でも妖夢を見つけ出す。迷いなんて、感じている場合ではない。

 

 進一は意を決し、石段を下り始める。

 ふわりとした浮遊感。亡霊である為に、今の進一も多少なら空を飛ぶ事が出来る。──いや、それは飛ぶというよりも、石段に沿って殆ど()()()()()()と表現すべき有様だったが。

 けれど幾ら不格好でも構わない。それで多少なりとも要する時間を削減する事が出来るなら、今の進一は見栄えなどには気にしない。

 

「くっ……」

 

 程なくして進一は、石段の最下部まで辿り着く。転びそうになりながらも乱暴に着地した彼は、今一度慎重に周囲を見渡した。

 やはり妖夢の姿はない。思ったよりも遠くにいってしまったのか、それとも全く見当違いの方向に来てしまったのか。いずれにせよ、ここで足を止める訳にはいかない。魂魄妖夢を見つけ出すまで、彼の心は収まらない。

 

(妖夢ッ……!)

 

 そして岡崎進一は、黄昏時の冥界を駆け抜ける。

 そんな彼の瞳には、梃子でも動かぬ確固たる意思が込められていた。




次回の更新ですが、いつもより一週間ほど遅れさせて頂きます。
リアルの都合でここ最近バタバタと忙しく……。申し訳ございませんが、よろしくお願い致します。

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