決闘で負ってしまった傷の応急処置が終わり、神子達から話を伺ってから数十分。神霊廟を後にした妖夢達は、一度命蓮寺に戻る事となった。
その帰り道。神子と交わした会話の内容を思い出して、妖夢は思わず難しい表情を浮かべてしまう。
神子から得られた霍青娥に関する情報は、妖夢が想像していたものとはだいぶ毛色の違う内容だった。
彼女は救済を求めている。
それが一体何を意味するのか当然聞き返してみたものの、けれど返って来たのは釈然としない回答。それはあくまで神子が聞き取った本質の一つに過ぎず、青娥の口から直接何かを聞いた訳ではなかったのである。
『彼女はあまり、自分の事を話したがらない方でしたからね。それに、当時の私は一応まだ人間でしたし、本質そのものを完璧に聞き取る事は流石に難しかったのです』
神子は妖夢達にそう説明してくれた。
自分の事をあまり話したがらない。それはつまり、何か疚しい事でも企てていたのだろうか。それ故にはぐらかし、自らの真意を隠し果せようとしたのではないかと。そういう解釈だって出来るだろう。
けれど神子は、青娥に対してそんな疑いなど抱いていない様子だった。
『彼女にだって、何か事情があるのでしょう。本人が話したがらないのならば、私は無理に聞き出すつもりはありません』
まったく。彼女も大概、損な性格をしている。いや、妖夢だって人の事は言えないのだけれども。
ともあれ、神子が青娥に一定の信頼を寄せている事は事実である。青娥がどう思っているのかは定かではないが、少なくとも神子は青娥の事を友人の一人だと認識している。
幼き頃から人の本質を聞き取る才覚を開花させていた彼女が、こうして信頼を寄せているのだ。霍青娥という人物は、ひょっとして──。
(私が、想像していたような人とは……)
──いや。それもまた、定かではない。
あの日。人払いの結界で京都をゴーストタウンに変貌させ、街中にキョンシーを放った人物もまた霍青娥なのである。未来の自分がなぜそんな企てに加担していたのかは分からないが、今はこの際そんな事を深く考える必要はない。
あれは明らかに非人道的な行為だ。
それを企てた張本人が霍青娥であるというのなら、彼女に対する警戒心を緩める訳にはいかない。
(あんな事、して……)
妖夢は今一度、あの日の事を思い出す。
三度笠を被った未来の自分は、狂気の瞳を開眼させた妖夢を見て満足そうな表情を浮かべていた。つまり彼女の目的は、過去の自分──魂魄妖夢が力を得る事だった可能性が高い。であるのなら、その協力者である霍青娥の目的もまた──。
「…………っ」
妖夢は思わず歯軋りをする。
ふざけるな。そんな理由で、彼女は無関係の人々を巻き込んだというのか? 外の世界という幻想郷とは別の世界で、幻想郷での“常識”を持ち込んだとでもいうのか?
妖夢を強くする為に、彼女はあの世界を引っ掻き回した。
妖夢を強くする為に、彼女は妖夢の大切な人達さえも利用しようとした。
お燐も、夢美も、蓮子も、メリーも。
そして──。
(私の、所為で……)
そう。それはつまり、逆に言えば妖夢の所為であんな事態が引き起こされたという事になる。妖夢と出会ってしまった所為で、あの人達は巻き込まれてしまったのだと解釈する事もできる。
もしも妖夢が、もっと早いタイミングで真実に辿り着けていたら。もしも妖夢が、誰かへ助けを求めなければ。少なくとも、あの人達は巻き込まれなかったのかも知れない。
人は一人じゃ強くなれない。
(私は……)
本当に、あの場にいて良かったのだろうか。本当に、介入しても良かったのだろうか。
だって自分は、あの世界からしてみれば明らかに異物だったじゃないか。
本来ならば八十年前の過去に生きるはずの、タイムトラベラーという異物──。
「……妖夢さん?」
そこまで考え込んだ所で、不意に声をかけられて妖夢は我に返る。視線を上げると、不思議そうな面持ちでこちらの表情を窺う早苗の姿が目に入った。
「考え事ですか?」
「え、えっと……」
「……やっぱり、神子さん達の事ですか?」
「う、うん。そんな感じ」
はぐらかし気味に、妖夢はそう答える。それでも早苗は納得してくれた様子で。
「確かに気になりますよね……。白蓮さん達との折り合い、ちゃんとつけられるんでしょうか?」
「うーん……。白蓮さん神子さんも、話が通じる人達だとは思うけど……」
その点は妖夢も気になるが、まぁ、杞憂に終わりそうな予感も覚えている。確かに仏教徒である白蓮達からしてみれば、豊聡耳神子が行った暴挙には看過できない部分があるだろう。何故なら彼女は政治の為に仏教を利用し、冒涜していたのだから。
けれどそれも千年以上も過去の話だ。この現代に蘇った聖徳王には、今更仏教を利用してどうこうするなどという野心は残っていない。
今の彼女はただ、自らが抱いた疑問の答えを探求したいだけだ。再び為政者として世を導こうだとか、そんな事は最早考えていない。
「……少なくとも、宗教戦争みたいなのは起きないんじゃないかな?」
「それは、そうかも知れませんけど……。でも命蓮寺の修行僧って、皆さん妖怪じゃないですか。だったら人間の味方である仙人とは相性が悪いんじゃないですか?」
「あー……。言われてみれば」
確かに、早苗の言う事にも一理ある。
おそらくナズーリンが危険な何かと称した理由は、神子が聖人と呼ばれる存在だったからだ。神子が持つ強大で神聖な霊力は、妖怪にとって天敵とも言える力である。ナズーリンのダウジングでは具体的な情報までは探れなかったようだが、それでもあの霊力だけは敏感に察知する事が出来たのだろう。
妖怪達が危険視しても不思議ではない力だ。そういう意味では、妖怪である命蓮寺の修行僧とは相性が悪いとも言える。
だけれども。
「まぁでも、神子さんに争う気はないみたいだし、その心配もいらないんじゃないかな? 相手が危害を加えないのなら、白蓮さんだって無駄な争いを進んでやろうとは思わないだろうし」
「そういえば、命蓮寺って殺生を禁止してましたっけ。確かに白蓮さんが復活してから、修行僧達が何か暴力沙汰を引き起こしたーっなんて話は聞きませんけど……」
不安要素があるとすれば、蘇我屠自古と物部布都だ。彼女達には共通して思い込みが激しい一面があり、尚且つ存外頑固なのである。彼女達の思い込みが変な方向に向かなければ良いのだが──。
その件に関しても、こちらで出来る限りの対処はするつもりだ。まずは白蓮達に事情を説明し、神子達に対する危機感を払拭して貰う必要がある。
現在、神子達には神霊廟──厳密に言えばあそこは仙界と呼ばれる異空間らしく、幻想郷とはまた別の世界らしい──で待機して貰っている。彼女らが白蓮達と対談するのは、まずはこの騒動を完全に落ち着かせてからだ。
「でもまぁ、これで神霊騒動は一件落着ですよね。そこまで大事にならなくて良かったです」
「……そう、だね」
早苗とそんな会話を交わしている内に、妖夢達は洞窟を抜け、そして墓地を抜けて命蓮寺の境内へと辿り着く。そして本殿の前まで足を運ぶと、思った通りの人物達と合流する事が出来た。
この寺の住職である聖白蓮。屠自古の足止めを買って出てくれていた霧雨魔理沙。そしてもう一人は芳香の通訳をしてくれた火焔猫燐──ではなく、古明地こいしだった。
──そういえば、殆ど在家という形だが彼女は命蓮寺に入門する事となったのだったか。色々とバタバタとしていた所為で、すっかり頭から抜け落ちていたが。
「あ! 半分幽霊のお姉ちゃん達だ!」
「お? ようやく戻って来たか。まったく、待ちくたびれたぞ」
真っ先にこいしと魔理沙が声をかけてきた。
待ってましたと言わんばかりに、魔理沙は薄く笑みを浮かべている。特に目立った外傷も見受けられない事から、妖夢と違ってそれなりに余裕だったのだろうか。流石は普段から異変にも積極的に首を突っ込んでいるだけの事はある。
「魔理沙さん! 無事だったんですね……!」
「おいおい、私が負ける訳ないだろ? 何だ早苗、ひょっとして心配してくれたのか?」
「だ、だって、魔理沙さん殆ど囮みたいな役割でしたし……」
「囮だろうが何だろうか、あの程度の逆境なんてどうって事ないぜ」
そう言いつつも、魔理沙は得意気な表情を浮かべている。彼女の場合、誇張でも何でもなく本当にどうって事なかったのだから、それは実力に見合った自意識だと言えるだろう。彼女の実力は折り紙付きだ。
「ねぇ、妖夢。本当に、大丈夫なの……?」
「……え?」
そんな中、妖夢は不意に袖を引っ張られる。何事だと視線を落とすと、そこにいたのは古明地こいしだった。
あまり見た事のない、遠慮気味な印象を受ける彼女の表情。酷く不安気な面持ちで、こいしは妖夢を見上げていた。
そしておずおずと、彼女は口を開く。
「さっき……。凄く怖い表情で、急に飛び出して行っちゃって……。だから私、心配で……」
「…………っ」
そうか。そういう事だったのかと、妖夢は思わず息を呑んだ。
今の自分なら、冷静に思い返す事が出来る。あの時──白蓮からキョンシーの話を聞いた途端、自分は間違いなく冷静さを事欠いてしまっていた。居ても立っても居られなくなって、自分は心の赴くままに勝手な行動を取ってしまった。それで、周りの人達にどんな心配事を与えるのかも考えずに。
早苗も魔理沙も霊夢も、形は違えど妖夢の事を心配してくれていた。そしてそれは、目の前にいるこの少女──古明地こいしもまた例外ではない。
こんなにも小さな子にまで、妖夢は心配をかけてしまったのか。知らぬ間に彼女の不安感を煽り、表情を曇らせてしまっていたのか。
──間違っている。
あの時妖夢の取った行動は、決して最善とは言い難い。
「……ごめんね、こいしちゃん」
「妖夢……?」
だから妖夢は。
せめてもの償いに、精一杯優し気な表情を浮かべて。
「私なら、もう大丈夫。だからこれ以上、こいしちゃんが心配をする必要はないよ」
「……本当?」
「……うん」
妖夢は優しく、こいしの頭を撫でる。くすぐったそうに目を窄めるこいしへと向けて、彼女は続けた。
「心配をかけちゃったお詫びって訳でもないけど、今度は私の方からも地霊殿に顔を見せるから。その時は、また一緒に遊ぼう?」
「……っ。うんっ!」
そう告げると、こいしは眩しいくらいの笑顔を妖夢に見せてくれた。
それはまるで、薄暗闇の中に燦々と輝く太陽のようだった。どこまでも純心で、どこまでも無垢で。自然とこちらの表情も綻んでしまう程に、優しくて眩しい表情。自然と心がポカポカと温かくなる程に、柔らかくて温もりのある光。
──やっぱり、彼女にはこの表情が似合っている。彼女には笑顔が一番だ。
だからそんな表情を、曇らせる事なんて許されない。例えどんな理由があるにせよ、笑顔を奪い取るなんてあってはならないのだ。
だから妖夢は決意する。
これ以上、彼女の笑顔を曇らせたりなんかしない。彼女の笑顔を守り通して見せる。
八十年後の未来の世界。あの世界の古明地こいしが、目の前にいるこの少女が辿る一つの結末だというのなら。
是が非でも、抗ってみせる。
「……魔理沙さんから話は聞きました。お二人のお陰で、神霊騒動は収まったのですよね?」
ふと流れ込んできたのは、命蓮寺の住職でもある白蓮の声だ。早苗と魔理沙、そして妖夢とこいしとのやり取りを見守っていた彼女は、タイミングを見計らってこうして声をかけてきた。
妖夢は一度顔を上げ、そして白蓮へと向き直る。
「本当に、ありがとうございました。命蓮寺を代表して、心より御礼申し上げます」
「い、いえ、そんな……。当然の事をしたまでですから……」
頭を下げて礼を述べる白蓮の姿を前にして、妖夢は思わずしどろもどろに受け答えしてしまう。やはりどうしても、こういう場面には慣れないものである。普段から庭師として幽々子に仕える立場である妖夢にとって、目上の人に頭を下げられるのはどうしても落ち着かない。
「そういえば、さっきのキョンシーはどうなったんですか? 白蓮さんとお燐さんが連れて行ったと思うんですけど……」
わたわたとしている妖夢とは対照的に、早苗はあまり細かい事は気にしていない様子。彼女くらいの豪胆さが、妖夢には羨ましい。自分ももっと割り切れたらなぁと思う反面、やはりどうしても本質は変えられないのが現状である。
「芳香さんでしたら、今はお燐さんがお相手しています」
妖夢が奇妙な羨望を覚え始めた傍らで、白蓮は律儀にも早苗の問いかけに答えてくれていた。
「何でも、このままでは死体愛好家としての名が廃るとの事でした。どうやら芳香さんの真意を解読できなかった事により、火車としての矜持が傷つけられてしまったみたいでして……」
「あー……。成る程」
つまるところ、半ば躍起になって芳香の通訳に再挑戦しているという事なのだろう。
霍青娥がどれほどの術者なのか、その全貌は今の所掴めていない。それでも芳香にかけられたプロテクトから察するに、お燐より強い力量を持っている事は確実である。
死体に対いて並々ならぬ執着心を持っている火車という妖怪なのに、キョンシーとは言え死体である芳香に対しては能力が上手く作用しなかったのだ。そこはやはり、このままでは彼女のプライドが許さないという事か。
「ま、取り合えずあのキョンシーについてはお燐に任せるとして、だな。ここいらで一旦、状況の確認をしないか?」
そんな中、魔理沙がそう告げてくる。
何とも含みのある表情。まるで彼女は、妖夢達も気付いていない何かを既に察してしまっているかの様子である。
そういえば、囮を買って出る前に魔理沙は霊夢から何かを耳打ちされていたか。彼女が浮かべる意味深な表情は、それも起因しているのだろうか。
「神霊騒動は一応解決した。その原因がどんな奴だったのかは、追々妖夢達にも話して貰うぜ。取り合えず、現時点ではっきりしている事はひとつ。これはお前らが来る前に、既に白蓮にも話した事なんだが……」
右手の人差し指を立てて、魔理沙は続ける。
確かに、豊聡耳神子の復活が原因であった神霊騒動は、既に収束に向かっている。神霊達が無尽蔵に発生するような事もなくなり、当然ながら神子の霊力に引き寄せられて命蓮寺へと集まってくる事もない。神霊達が直接的な悪影響を及ぼしたという話も聞かないし、副次的な騒動が起きたという報告も聞いていない。
そういう意味では、被害は最小限に留まっていると言える。後は妖夢達が特に何もせずとも、神霊騒動は完全に収束するであろう。
──そう。
「……異変はまだ、終わってない……?」
魔理沙に続くような形で、思わず妖夢はそう呟く。それに対する魔理沙の反応は、無言で首を縦に振る事。つまり、肯定であった。
ある程度は予想できた反応。この異変の本質が単なる神霊騒動ではないのだと、それは妖夢も既に察していた事だ。
確かに豊聡耳神子の能力が安定した事により、神霊騒動に関しては落ち着てきているのかも知れない。けれどそれでも、未だに不明瞭な問題点は残されている。
「屠自古とかいう亡霊が襲いかかって来た時、霊夢は“何か”に気が付いた。直感的に“何か”に対する危険性を感じ取った霊夢は、神霊騒動の解決を私らに任せて単身で踵を返した」
そして魔理沙は話し出す。
あの時、霊夢に何を耳打ちされたのか。その内容から、彼女は何を感じ取ったのか。
今回の異変に対する違和感。いつもの異変とは決定的な何かがずれているかのような、そんな曖昧な感覚。けれどその小さな違和感は確実に歯車を狂わせて、静かに侵食してゆく。
予感がする。
何かが起きてしまいそうな、そんな漠然とした予感が──。
*
博麗神社は言わずもがな、幻想郷の中枢を成す神社である。
『妖怪神社』などという妙な呼ばれ方をされてしまう事もあるが、それでも博麗神社は幻想郷にはなくてはならない存在だ。元々幻想郷における神社とは博麗神社ただ一つであり、結界の管理を担う巫女の住居という意味でも博麗神社は特別な役割を担っていた。
──参拝客云々の問題はこの際置いておく事にして、兎にも角にも博麗神社が重要な施設である事に変わりはない。確かに霊夢の人となり故か妖怪が集まりやすい環境にはなってしまっているし、そもそも祭神が不明瞭な時点で神社としての役割は機能していないのかも知れないけれども。
それでも、ここは博麗神社だ。博麗の巫女である霊夢が管理する、神聖な神社なのである。
それなのに。
「これは──」
これは一体、何だ?
命蓮寺にて魔理沙達との情報共有を行い、現時点で判明している情報を整理してから小一時間。一度様子を見に行こうという魔理沙の提案を受け入れて、早苗と妖夢は博麗神社へと足を運んでいた。
まともに整備もされてない獣道を突き進み、その先にあるこれまた長い石段を登る事数分。やたらと立地条件の悪いこの場所に、博麗神社は佇んでいる。早苗達は空を飛んできてしまったので然程問題はなかったが、普通の人間達である里の住民にとってあの悪路は些か厳しすぎるものがある。鬱蒼とした木々の所為で視界は最悪であるし、まともに整備されていない所為で足元の状態も悪い。一度妖怪にでも襲われれば、殆ど抵抗も出来ずに殺されてしまうのではないだろうか。
何という危険地帯。参拝客が遠のくのも頷ける立地条件である。霊夢はやたらと参拝客──というかお賽銭を渇望しているようだが、まずはあの悪路を何とかすべきなのではないのだろうか。
ともあれ、そんな悪路を抜けてしまえば博麗神社は目の前だ。やたらと妖怪の出入りが激しいような気もするが、それでも神社は神社である。少なくとも、境内で妖怪に襲われる心配はない。
そう。博麗の巫女の管轄であるこの神社の境内で、能力を行使して暴れ回る輩などそういない。人里と同様、ここでの人殺しはご法度なのである。それは妖怪達との間でも共通認識であるはず。
けれど。
けれど、この感覚は。
「うお……マジかよ。何だこりゃ?」
魔理沙もまた、早苗と同様に苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。そして妖夢もまた同じような感覚を覚えているらしく、思わず腕を摩って身震いしてしまっているようだった。
博麗神社の鳥居を跨いだ途端、肌にねっとりと纏わりつくような奇妙な感覚が早苗達に襲いかかって来たのである。
桜の花が咲き始めている春先の博麗神社。けれど漂う空気は気味が悪い程に冷たく、奇妙な程に重い。この肌に纏わりつくような感覚の正体は──霊力か何かの類、だろうか。境内に充満する霊力が空気を汚染し、この気持ちの悪い雰囲気を形成している。こんな霊力、今まで感じた事なんて一度もない。
一体これは何だ?
幾ら妖怪が頻繁に出入りしている神社とは言え、ここまで禍々しい霊力を充満させてしまうなど──。
「……参拝客が来なさ過ぎて、遂に霊夢も
「冗談を言ってる場合じゃありませんよ。どう考えても異常じゃないですか、この感じ……」
「うん……。一体、ここで何が……」
何にせよ、いつまでもここで手をこまねいている訳にもいかない。この境内で何かが起きた事は確実なのだ。一刻も早く、状況を確認せねばなるまい。
早苗が先導するような形で、三人は神社の本殿へと歩み寄っていく。充満する霊力は既に境内中に広がってしまっているらしく、発生源がどこなのかもはっきりしない。周囲の様子を窺うと、誰かが争ったかのような形跡を見つける事はできるものの、けれどそれだけである。既に騒動は解決した後で、この霊力はあくまでその残骸でしかないのだろうか。
(……でもやっぱり、慎重に超した事はありませんよね)
ゆっくりと慎重に周囲の様子を確認しつつも、早苗達は歩く。この禍々しい霊力の中では気を抜くとすぐに気分が悪くなってしまいそうだが、それでも早苗は歩を止めない。
精神的にも、長居は出来ない。けれどだからと言って、ここで引き返す訳にもいかないのだろう。
霊夢の事も心配だ。彼女に限って最悪の事態に陥る事はないだろうが、けれど神社のこんな様子を見せられてしまったら──。
「……おや? 貴方達も戻って来たのね」
──と、その時。丁度本殿の脇から一人の少女が姿を現し、早苗達に声をかけて来た。
霊夢ではない。一瞬警戒心を強めた早苗だったが、けれど視線を向けると早苗も知っている人物であった事に気が付く。
薔薇色のセミロングヘア。白いシニヨンキャップ。そして胸元の花飾りと、前掛けに茨の模様が描かれた上着。右腕全体に白い包帯を巻いたその少女は、妖怪の山でも何度か見かけた事のある仙人で。
「華扇さんじゃないですか。どうして博麗神社に?」
「……まぁ、色々とありましてね」
茨木華扇。確か、妖怪の山に大きなお屋敷──いや、あれは道場と言っていたか。兎にも角にも、妖怪の山で修行を積んでいるらしい仙人の少女である。そういえば、彼女とは以前にもこの神社で会った事がある。ここ最近は何やら霊夢に世話を焼いているという話も耳に挟んだ事があるし、ひょっとして今日もまた霊夢に用があってここまで足を運んだのだろうか。
「霊夢さんに何かご用ですか?」
「……いえ、まぁ、それもあるけれど……。ひょっとして、霊夢から何も聞いてないのですか?」
「え?」
何だ、この反応は。どうにも話が噛み合わないような。
早苗が首を傾げると、華扇は何やら疲れたような表情を浮かべる。思わず眉間を指で摘まみ、深々と溜息を一つ零すと、
「まったく、あの子ったら……。ロクに説明もしてなかったのね……」
「……んん?」
──イマイチ話が読めないのだが。
「おい茨華仙。境内に漂うこの霊力は何なんだ? まさかお前がやった訳じゃないんだろ?」
「当たり前じゃないですか。こんなにも禍々しい霊力なんて、まともな仙人が扱うような代物じゃないわ」
魔理沙の問いかけに対し、肩を窄めつつも華扇はそう答える。
その件については早苗も華扇を疑うつもりはない。何せ仙人は人間の味方。それなのにこんなのも禍々しい霊力を放出するなんて、道徳に反しているとも言えよう。少なくとも、早苗にとって華扇とはそんな少女ではないという認識である。
「……えっと、この人は早苗達の知り合いなの?」
「ああ……そういえば、妖夢さんは会うの初めてでしたね」
不安気な様子で妖夢に訊ねられて、早苗は状況を思い出す。
顕界の住民である早苗達とは異なり、普段から冥界で生活している妖夢はそもそも仙人との接点が薄いだろう。何せ仙人と言えば、不老不死を追求し続ける変わり者。死者の世界である冥界の住民とは、根本的に生きる世界が違う。
「この人は茨木華扇さんです。妖怪の山でもよく見かける仙人ですよ」
「仙人……?」
仙人と言えば、布都や神子もそれに分類されるのだったか。彼女達の場合、その中でも尸解仙に分類されるらしいが、華扇とは何が違うのだろうか。その辺についてはイマイチ詳しくない早苗であるが、まぁ、取り合えず今はほぼ同一の存在だと考えても問題ないだろう。
茨木華扇は仙人だ。“死”とは最も遠い立場に居ながらも、同時に常に“死”と隣り合わせの変わり者。半分生きていて半分死んでいる魂魄妖夢とは、似ているようである意味真逆の性質を持つ少女。
「初めまして、茨木華扇です。貴方は……半人半霊、でしょうか?」
「あっ、はい。私の名前は魂魄妖夢です。よろしくお願いします」
二人は簡単に自己紹介を済ませる。
戸惑い気味の妖夢だったが、この様子ではすぐに打ち解けてくれそうだ。妖夢は別に人見知りをするタイプではないし、華扇だって決して悪人ではない。霊夢や魔理沙に対しては少し説教臭い事もあるが、それも彼女達を思っての事。別に虐めている訳ではない。
二人とも、ベクトルは違えど生真面目な少女なのだ。相性は悪くないのだろう。
「自己紹介は取り合えずその辺で良いだろ。茨華仙、霊夢のヤツはどこに行ったんだ? 何か知ってるんだろ?」
再び魔理沙が食い気味に問いかける。そんな彼女を見かねた華扇が「少し落ち着きなさい」と宥めかけるが、それでも魔理沙は態度を変えるつもりはないらしい。
真剣な面持ち。彼女はふざけている訳でも、事態を軽く見ている訳でもない。
「私が霊夢から聞いたのは、神霊騒動は陽動の可能性が高いっていう情報だけだ。当然あの時点では霊夢の勘に過ぎないんだろうが……けれどこの様子じゃ、どうやら今回も
「……ええ、その通りです。今回の異変の本質は、あの神霊騒動ではありません。もっと別の何か……別の者の意思が、裏で根を張っているのです」
「……やっぱりか」
納得したかのように頷く魔理沙。
流石の早苗も、そこまで説明されれば色々と察する事が出来る。露骨すぎる神霊騒動。宮古芳香の主人の存在。そして、いち早く違和感に気付いた霊夢。今回の異変における不確定要素を繋ぎ合わせれば、自ずと答えに辿り着く。
「霍青娥さん、ですか」
「……やはり、貴方達も知っているんですね」
「ええ。まぁ、私は直接会った事はないんですけど……。でも境内に充満するこの霊力から察するに……」
「……そいつは相当ヤバい奴、みたいだな」
早苗に続くような形で、魔理沙が口を挟む。
「要するに、私らが神霊騒動に対応しているその隙に、霍青娥って奴は博麗神社に現れたって事か。で、そこでたまたまお前と鉢合わせになったって訳だ」
「……ええ、その推測は間違っていません。彼女の危険性に気付いた私は、竿打の力も借りて応戦したのですが……。結果はこの体たらくです」
自分の身体を見下ろしつつも、華扇はそう口にする。
確かに今の彼女の服は煤か何かで汚れてしまっているし、所々破損してしまっている部分もある。そして見える部分だけでも身体のあちこちに生傷を確認する事ができ、それが交戦の激しさを物語っている。
「……正直、霊夢が来てくれなければ危なかったわ。はっきり言って、彼女はあまりにも異常ですよ。まさか仙人を名乗る者の中に、ここまで禍々しい霊力を持っている輩がいるなんて……」
「…………っ」
華扇がそう口にする横で、妖夢は何かを考え込むような表情を浮かべている。やはり霍青娥という人物に対して、何か思う所があるのだろうか。思えば今日の妖夢は、やたらその人物の事を気にしていたような気がする。
なぜ妖夢が彼女の事を知っていたのか。それは早苗には分からないし、本人だって今は何も話せないの一点張りだ。これではどうしようもない。
霍青娥。
妖夢と彼女との間に、一体何が──。
「あの、華扇さん。それで、霊夢は一体……?」
「……霍青娥を追いかけると言って、飛び出して行ってしまいましたよ。私も後を追おうとしたのですが……、でも霊夢に『怪我人は必要ない』と神社での留守番を押し付けられてしまいました。私は大丈夫だと何度も言ったのだけれど、まるで聞く耳持たずって感じで……」
華扇は妖夢へとそう答える。
曰く、本殿の中は境内と違って霊力があまり充満していないらしく、確かにそこなら十分な休養を取る事が出来るらしい。けれど華扇は休養など必要ないと思っているようで、今の状況に少々不満気な様子。
確かにそれほど大きな怪我は負っていないようにも見えるが、それはあくまで外見的な話だ。こんなにも禍々しい霊力を長時間浴び続ければ精神的なダメージは無視できないだろうし、激しい戦闘を経れば疲労感だって蓄積する。霊夢はそんな華扇の様子を見て、博麗神社での待機を強制したという事か。
華扇の身を案じたのか、それとも足手まといを排除したかったのか。
まぁ、霊夢の事だ。おそらくその
「ったく。ま、大方予想通りの展開って感じだけどな」
嘆息しつつも、魔理沙がそう口にする。霊夢の勝手な行動に半ば呆れてしまっているものの、それでももう半分は満更でもない様子だ。
霊夢ならば安心だ。そんな信頼感を、魔理沙は寄せているのだろう。
「さて、と。霊夢のヤツが霍青娥の足取りを追うってんなら、私もそれに倣うつもりだぜ。お前達はどうするんだ?」
やれやれとでも言いたげに頭を掻いていた魔理沙が、早苗達にそう確認してくる。
考えるまでもない。こんなにも中途半端な所で引き下がるなんて、目覚めが悪いにも程がある。ここまで来たら引き下がれない。
「私も追いかけますよ。華扇さんをも追い込んだ霍青娥さんという仙人……。一度どんな方なのか見てみたいですし」
「えっと、私は……」
少し迷ったような素振りを見せた後、早苗に続いて妖夢も答える。
「私も一緒に行く、って言いたい所だけど……。一度白玉楼に戻るよ。幽々子様にも状況を報告しなくちゃいけないし」
「あぁ……そういえば、確かに幽々子にも説明しておかなきゃならないよな。そもそも真っ先に幽々子を疑ってたって事、すっかり忘れてたぜ……」
「うん、まぁ……その件については多分幽々子様も気にしてないと思うから……。でもやっぱり、情報共有は必要だと思う。きっと幽々子様も気になっているだろうし……」
苦笑いを浮かべながらも、妖夢は答えた。
魔理沙の言う通り、早苗達が幽々子の事を疑っていたのは事実である。そんな疑いは即刻晴れる事になるのだが、だからこそ彼女にも状況の報告は必要だろう。
幽々子からしてみれば、濡れ衣を着せられる所だったのだ。取り合えず神霊騒動がひと段落ついたのなら、報告すべきタイミングとしては適切と言える。
「でも、私だってここで降りるつもりはないよ。報告を済ませ次第……と言っても、そろそろ日が傾き始めてるけど……。でも、時間が少しでもあるのなら、私も合流するから」
「という事は、私達三人の意見は一致という事ですね、華扇さんは?」
「そうですね……。半ば押し付けられるような形だったとは言え、霊夢に留守番を任されてしまいましたし……。取り合えず、もう少しはここで様子を見ます。それに……」
そこで華扇は、ぐるりと境内を見渡す。
相も変わらず気味の悪い雰囲気。禍々しい霊力が充満したその境内は、思わず忌避してしまいそうなほどに空気が淀んでしまっていて。
「……この境内も、何とかしなければなりませんしね。流石にこんな状態では、参拝客どころか妖怪すらも寄り付かなくなりそうですし」
華扇曰く、この境内で青娥の挑発に乗ってしまった自分にも非があるのだと、そんな責任を感じているらしい。何とかすると彼女は言っているが、何か策でもあるのだろうか。
しかし、修行中とは言え華扇だって仙人である。普通の人間では思いつかないような考えがあるのだろう。ここは彼女に任せてみるしかない。
「ま、兎にも角にも取り合えずはここで解散だ。私と早苗は霊夢を追う。茨華仙はここで留守番。で、妖夢は幽々子への報告っと……。これで良いんだよな?」
「……ええ。そうですね」
頷きつつも、早苗は答える。
正直、まだまだ状況を呑み込め切れていない部分も多い。神霊騒動が陽動だったなんて言われても、イマイチ実感が湧いて来ないのが今の早苗の状態だ。この『異変』がどんな結末に向かっているのか、それを予測する事すら難しいのだけれども。
けれど、それでも。霍青娥なる人物に会う事が出来れば、胸のつっかえもすっきりするような気がする。霍青娥なる人物がどのような女性なのか認識する事が出来れば、この胸のモヤモヤだって振り払う事が出来るような気がする。
そう。モヤモヤと、胸の奥につっかえているかのようなこの感覚。
漠然とした不安感は、未だ広がりつつある──。
*
神霊騒動は陽動。真の黒幕は別に存在する。
そんな話を魔理沙から聞いた途端、妖夢は確信めいた何か感じていた。
胸の奥が騒めき始め、瞬間的に緊張が高まるような心境。かちりと音を立てて歯車が噛み合い、止まっていた時間が再び動き始めるような感覚。
胸中が不安感に支配されてゆく一方で、それと同時に心が高ぶってゆくかのような感情を覚えている。この気持ちの正体は何なのか、妖夢にも判らない。怒りか、それとも決死の覚悟か。兎にも角にも、穏やかではない心境に変わりはない。
霍青娥。
今回の異変、やはり彼女が綿密に関わっている。八十年後の未来の世界で妖夢を過去から引っ張ってきた彼女は、果たしてこの時代では何をしでかそうとしているのか。時間に関する何かか、それとも全くの別物か。
一つはっきりとしている事は、やはり彼女は看過できない人物であるという事だ。
(……何とかしないと)
一人飛翔を続けながらも、妖夢は考える。
一度霍青娥との接触に成功した霊夢は、姿を眩ませた彼女の痕跡を求めて博麗神社を後にしてしまったらしい。そんな霊夢を追いかけるべく魔理沙と早苗は引き続き幻想郷を飛び回るようだが、けれど肝心の妖夢だけは冥界を目指して一直線に飛翔していた。
当然、青娥の事は気になる。彼女と接触する事が出来れば、不明瞭だった二年前の事件に関する手掛かりだって掴めるのかも知れないのだから。正直、今すぐにでも見つけ出して色々と話を聞き出したい衝動に駆られている。
けれど、まだだ。ここで冷静さを事欠いたら、きっと青娥の思う壺。このタイミングだからこそ、一度心を落ち着かせなければならない。
青娥は何の痕跡も残さずに霊夢達の前から逃げ果せた。今は霊夢がその行方を追っているとは言え、依然として手掛かりは掴めていない。このまま闇雲に捜し回っても、事態は泥沼化する可能性が高いだろう。それではあまりにも多くの時間が必要となってしまう。
だったら今はやるべき事を全うすべきだ。霍青娥の捜索は一旦魔理沙達に任せ、自分はまず幽々子への報告を済ませる。何よりも優先すべきは主である西行寺幽々子だ。いつまでも白玉楼を留守にする訳にはいかない。
(……二年前は、四ヶ月も留守にしちゃったし)
それ故に尚更かまける訳にはいかない。幽々子の事を守るのだと、そう妖夢は誓ったのだから。
──そして程なくして、妖夢は見慣れた石段へと辿り着く。青白い霊魂が周囲に漂うこの石段まで来てしまえば、白玉楼はもうすぐである。
顕界と比べると幾分か冷たい空気を肌で感じつつも、妖夢は限りなく続く石段の上を飛翔してゆく。五分咲きの桜が妖艶に彩る幻想的な風景の中、半人半霊の少女は言葉を発する事もなく目的地へと向かっていた。
落ち着きさを取り戻しつつある心境。けれどそれでも、やはり胸中に残ってしまう痼。嫌な予感というものは、しつこく心に残るものである。
妖夢は大きく深呼吸して、不安感を払拭させる。
大丈夫だ。落ち着け。冷静さを事欠いてはいけないと、さっき自分に言い聞かせたばかりじゃないか。この先何が起きようとも、妖夢は出来る事を全うする。この先何が待ち受けていようとも、妖夢は幽々子を守り通す。
それが、“約束”だから。
魂魄妖夢は、果たさなければならない。
「よし……着いた」
ボソリとそう呟いて、妖夢は降り立つ。
見慣れた正門。そこを潜ると広がっているのは、広大な日本屋敷である。
白を基調とした和風建築。落ち着いた美しさを感じさせる日本庭園。そして妖夢が毎日欠かさず手入れを行っている枯山水。どれも見慣れた光景。馴染みの深い景色。安心感のある情景。
けれども。
けれども
(あれ……?)
白玉楼の正門を潜り抜けた途端、妖夢は妙な感覚を敏感に感じ取っていた。
何かがいつもと違う。視覚的な問題ではなく、もっと感覚的。普段の白玉楼にはあるはずのないものが、そこに存在しているかのような違和感。そこはかとない噛み合わなさ。異物感にも似た感覚。けれどそれでも、どこか懐かしいような──。そんな奇妙過ぎる感覚。
何となく察する事が出来る。おそらく幽々子ではない誰かが、この白玉楼の中にいるのだろう。
閻魔様か? 死神か? それとも八雲紫か? いや、どれも違う。
これは──。
(何なの……?)
にわかに膨れ上がりつつある不安感。それを認識した上で、妖夢は白玉楼へと足を踏み入れる。
日が西に傾き、黄昏色に染まりつつある本館。ガラリと玄関の戸を開けると、漂ってくる何やら美味しそうな良い香りだ。これは──少し早いが、夕食か何かの匂いだろうか。
誰かが料理をしている。とすると考えられるのは、紫の式神でもある八雲藍だろうか。彼女は以前も妖夢の代わりに白玉楼でのお手伝いをしてくれていたらしいし、今回もまた力を貸してくれている可能性は十分に有り得る。
だとするのならばこの感情は杞憂だったという事になる。てっきり別の誰かでも紛れ込んでいるのかと思ったが。
(紫様が、また気を遣ってくれたのかな……?)
本当に、紫には迷惑をかけっ放しだ。それでも彼女は「大した事ない」とでも言いたげな表情を浮かべるのだろうが、だからと言っていつまでも甘えっぱなしという訳にはいかないだろう。この恩はいずれしっかりと返さなければならない。
ともあれ、今は幽々子達に妖夢の帰宅を伝えるのが先決だ。妖夢の代わりに家事炊事をさせてしまっているのなら、すぐにでも向かわなければならない。
「よしっ……」
小さく頷いて、妖夢は一歩踏み出す。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を進んで、幽々子が待っているだろう広間へと足を向けて。足早に、妖夢はただ一直線に──。
「…………ッ!?」
何かが、妖夢の視線に飛び込んできた。
完全に気が抜けていた。妖夢の代わりに藍が手伝いに来てくれているのだと、そう強く思い込んでしまっていた。だからあの違和感は、きっと自分の気の所為だったのだと。あの時感じたあの感覚は、きっと自分の思い違いだったのだと。そう勝手に納得して、一方的に思い込んでいたのだ。
だから、こんな展開など予想できなかった。
魂魄妖夢が進む先。その廊下の角から、幽々子でも藍でも紫でもない
(なっ……)
瞬間、妖夢は警戒心を強める。曲者という二文字が頭の中を過ぎり。反射的に彼女は身構えてしまう。
けれど。
けれど──
(えっ──?)
廊下の角から現れた青年。何故かエプロンと三角巾を身に纏い、両手には掃除用具一式を抱えているが──そんな事などどうでもいい。
そう、どうでもいい。そんな事など些末な問題だ。最も大きな問題は、この青年の姿を認識した途端、妖夢の胸中に強い衝撃が走った事。これに尽きる。
どくんと、心臓が大きく跳ね上がる感覚が伝わってくる。瞬間的に、息が全く出来ない状態に見舞われる。直前まで何らかの思考を巡らせていたはずなのに、その瞬間には全てが真っ白になった。
何も考えられない。落ち着いて状況を分析出来ない。冷静な判断を下す事ができない。
瞳が乾くのも忘れそうになるくらい、妖夢は目を見開いてしまっている。震える彼女の瞳に映るのは──彼の、姿。
「…………ん?」
妖夢の姿に気付いたらしい彼が、不思議そうに小首を傾げる。けれど今の妖夢には、そんな彼の仕草にすら気を回す事ができなかった。
だって。
だって、しょうがないじゃないか。こんなの──。
(う、嘘……)
こんなの、有り得ない。絶対におかしい。これは妖夢の幻か? だとすれば辻褄があう。
でも、しかし、だけれども。
目の前にいる彼は、妖夢の見た幻覚だと片づけるには、あまりにもリアリティに満ち溢れていて。
(どうして……)
どうして。
(こんなの……!)
こんなの。
(夢じゃ、ないの……?)
覚束ない足取り。がくがくと震える膝に必死になって力を込めて、妖夢は歩き出す。
驚愕だとか、混乱だとか、狼狽だとか。とにかく様々な感情が妖夢の中を駆け抜け、そして思考を停止させる。まるで複数種類の絵の具でもぶちまけられたかのように、頭の中がぐちゃぐちゃになって。
それでも彼女は絞り出して、そして口にする。
記憶の中に、根付いていた名前。会いたくて、会いたくて、仕方がなかった──ひとり青年の名を。
「進、一さん……?」
それは、魂魄妖夢が恋に落ちた人物。
「本当に……」
互いに想いを伝えあって、互いに想いを分かち合った──彼の、名前。
「本当に、進一さんなんですか……?」
──それは、運命の交錯。
岡崎進一という青年との、叶うはずのなかった再会であった。