桜花妖々録   作:秋風とも

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幕間4「一方その頃」

 

「……幽々子さん。少しいいか?」

 

 映姫達から話を聞き、幽々子は岡崎進一という不思議な亡霊を一時的に預かる事となった。

 映姫と小町の見送りも終わり、紫も一度顕界へと帰ってから数分。藪から棒に声をかけてきた進一へと向けて、幽々子は首を傾げていた。

 

「どうかしたの?」

「ああ。いや、何て言うか……。俺は、この白玉楼で厄介になる訳だろ? でも、だからと言って俺ばかりが一方的に世話になりっ放しじゃ流石に悪い……。だから……」

 

 少し言葉を選ぶような素振りを見せた後に、進一は幽々子へと向き直る。

 

「雑用でも何でも良い。何か俺にも手伝える事はないか?」

 

 ──成る程。そういう話だったのか。

 この青年、つくづく真面目というか人が良いというか。幽々子はこれでも、進一の事をお客様として招き入れたつもりだ。故に何か手伝って欲しいだとか、そんな見返りは特に求めていなかったし、彼がそれを気にする必要だってなかったのである。強いて言うなら妖夢の件について気になっているが、記憶を失った今の彼から無理に何かを聞き出すつもりはない。

 

 ともあれ、どうしたものか。いきなりこんな風に頭を下げられるとは思っていなかった手前、幽々子としても迷ってしまう。

 

「え、ええと……。別に進一さんがそんな事を気にする必要はないのよ~。進一さんはお客様なんだから、今は自由にくつろいでくれれば……」

「……いや、そういう訳にはいかない。ただ何もせずに悠々と過ごすなんて、幽々子さんの負担にしかなっていないじゃないか。こうして世話になるのなら、俺は何か恩返しがしたいんだ」

「うーん、そうは言っても……」

 

 岡崎進一は記憶喪失だ。そんな状態の彼に何かをさせるだなんて、こちらとしても気が引ける行為である。病人や怪我人に仕事を押し付けているようなものだ。

 けれど当の進一は、幽々子が何を言おうと引き下がるつもりはないらしい。変な所で妙に頑固だ。真面目が過ぎるのだろうか。

 

「荷物運びだとか、掃除だとか。そういった家事関係のものでも良いぞ」

「家事、家事ねぇ……」

 

 と言うか、それ以前に。

 

「……進一さん、家事なんて出来るの? 生前の記憶はないんでしょう?」

「まぁ、確かにそうなんだが……。それでも、感覚的に何かが染みついているような気がするんだ。掃除だとか、そういった事に関してはそれなりに上手くやった事があるような……。あまり根拠のない自信ではあるが」

「……感覚的?」

 

 映姫や小町から聞いた話だと、生前の記憶は殆ど失っているものの全部が全部忘れてしまったという訳ではないとの事だった。染みついた習慣や、凝り固まった常識。そのような“感覚”に関しては、身体に染みついて残っているようだ、とは小町が説明してくれた状況である。

 確かに、記憶を失っているとは言っても、彼はこうして普通に幽々子と意思の疎通が出来ている。つまり私生活に悪影響を及ぼす程に記憶を失ってしまった訳ではなく、最低限だけ辛うじて残っていたという事か。

 

 生前、彼がどのような形で家事に関わっていたかは分からないが、それでも自信があるという事はそれなりに習慣づけていたのだろう。少なくとも、普段から妖夢や他の幽霊に任せっきりの幽々子よりも器用に熟せるのかも知れない。

 

「そうねぇ……。そこまで言うんなら……」

 

 これまで話していて少しずつ分かった事だが、進一は存外頑固な一面がある。ここで幾ら幽々子が遠慮しようとも、彼は引き下がろうとしないだろう。仮に一時的にでも引いてくれたとしても、結局は落ち着かなくなってそわそわとしてしまう様子が目に見えて分かる。

 それに、幽々子としてもそこまでの好意を無下にしてしまうのも心苦しい。折角彼が役に立ちたいと申し出てくれたのだ。ここは素直に受け入れるのが正解だろう。

 

「それじゃあ、居間のお掃除をお願いしようかしら……。この時間は担当の幽霊が頑張ってくれてると思うから、進一さんはそのサポートに回ってくれる?」

「居間の掃除、だな? よし分かった。任せてくれ」

 

 パッと表情に明るさを醸し出しながらも、進一は意気揚々とそう答える。

 少しずつ分かって来た事、その2。彼は一見不愛想に見えて、実は結構分かりやすい。表情にもそれなりに現れるタイプらしく、よく観察していれば感情の変化を読み取る事はそれほど難しくない。今の彼が感じているのは、間違いなくプラスの感情であろう。

 

 そこまで掃除がやりたかったのだろうか。

 そんな彼の様子が可笑しくて、幽々子は思わずくすりと笑った。

 

「それじゃ、これからお掃除する居間まで案内するわね~。こっちよ、ついて来て」

「ああ。了解だ」

 

 やる気満々な進一を連れて、幽々子は掃除場所へと先導する。彼の掃除の腕がどれほどのものなのか、お手並み拝見である。

 先程まで映姫達と対面していた客間より更に奥。ひたすらに続く長い廊下のその途中に、今回の目的地である居間へと繋がる障子がある。おもむろにガラリと開けると、思った通り担当の幽霊が掃除を始めようとしてくれている所だった。

 

 タイミング的にはバッチリである。事情を説明すべく、幽々子はその幽霊へと声をかける。

 

「お仕事中ごめんなさいね? 少しお話良いかしら」

 

 幽霊は基本的に口を利く事が出来ないが、西行寺幽々子が相手では話は別である。幽々子は自ら『死を操る程度の能力』を申告しているが、それと同時に持ち合わせているのが霊を操る能力だ。冥界の管理者を任されているだけあって、幽霊と意思の疎通をするなど造作もない事なのである。

 

 事情を説明すると、その幽霊は快く受け入れてくれた。満足気に頷くと、幽々子は進一へと向き直る。

 

「事情は説明したわ。後はこの子と協力して、居間の掃除をお願いね?」

「それは構わないが……。そいつ、幽霊だろ? 俺でも言葉は通じるのか?」

「進一さんの言葉なら問題なく伝わるわ。ただ、進一さんも知っての通り幽霊は口をきけないから……。一方的な会話にはなっちゃうかもね」

 

 顕界とは異なり、冥界では幽霊でもある程度は個として存在を保つ事が出来る。けれども直接口で何か言葉を伝える事に関しては流石に無理のある行為だ。こちらの言葉を理解する事は出来ても、幽霊達は自らの意思を言葉として届ける事は出来ない。

 幽々子のように特殊な『能力』を持っているのならともかく、亡霊になったばかりの進一では幽霊との会話は難しいだろう。一方的になってしまうのが関の山だ。

 

「一方的、か……」

「ええ。でも心配しなくても大丈夫よ。白玉楼で働く幽霊達はみんな感情豊かだし、口を利く事が出来なくても意外と考えている事は分かるものよ~」

「……そういうもんなのか」

「そういうものなのよ。それに、進一さんだって死者なんだし、死者同士何か通じ合うものだってあるかも知れないでしょ?」

 

 些か漠然とした事を言っているとは自分でも思うが、こればっかりはどうしても感覚的な話になってしまう。気質の集合体である幽霊は他の種族と比べて感情が伝わりやすく、例え口が利けずともある程度考えている事は分かるものなのである。

 まぁ、幽々子のように百パーセント完璧に理解するのは難しいだろうが──。

 

「分かった。取り合えず、やってみる事にしよう。どんと任せておいてくれ」

「ええ、任せるわ。期待してるわよ?」

 

 意気揚々と幽霊のもとへと歩み寄る進一の後ろ姿を見送った後、幽々子は一度居間を後にする。このまま掃除の様子を見守る事も考えたが、それで彼の気を散らしてしまうのも悪い。進一だって子供ではないのだし、ここは彼を信じて待ってみる事にしよう。

 

 ──けれどやっぱり心配だから、後でこっそり様子を見に行くつもりだけれど。

 

 

 *

 

 

 それから数十分ほど経過した頃。そろそろ進一の様子を見に行こうかと思い立ったタイミングで、不意に()()は訪ねてきた。

 幽霊や亡霊等と言った類のものとは違う。そもそも死者ですらない。生者であるのにも関わらず、彼女は結界を越えて幻想郷からこちらの世界に足を踏み入れたのである。映姫が見れば嬉々として説教を始めそうな状況だが、ぶっちゃけ生者が白玉楼へと足を運ぶ事など既に見慣れた光景である。映姫や小町を覗き、今日だけで五人目という事になる。──そろそろ希薄になってしまった結界についても考えなければならないのかも知れない。

 

 それはさておき。訪ねてきたのは、一人の妖怪だった。

 種族としては、所謂妖狐に分類される。それ故に当然ながら彼女には狐の尻尾が存在するのだが、彼女の場合その尻尾が他の何よりも際立つ身体的な特徴となっている。

 ただ単にひょっこりと、申し訳程度に一本の尻尾が生えている訳ではない。見るからにモフモフな黄金色のその尻尾は、背中全体を覆ってしまう程に複数本揺らめいている様子が確認できる。

 その数は九。九尾の狐、と言えば彼女がどんな存在なのかある程度察する事が出来るだろう。

 

 妖獣は尻尾の数が多い程強大な妖力をその身に宿すと言われているが、取り分け九本の尻尾を持つ妖獣はその中でも最高峰に君臨すると言われている。更にその中でも比較的聡明な頭脳を持つとされる妖狐の九尾となると、妖獣という一括りの中でまさしく最強とも言える程の怪異なのである。

 

 そんな少女が、こうして白玉楼まで足を運んでいる。そう言葉にすると何だかとんでもない状況のようにも思えるが、けれど実際は別にそこまで仰々しい状況という訳でもない。

 一体、どのような要件があって彼女は訪ねてきたのか。それは聞くまでもなく明白だった。

 

「お久しぶりです、幽々子様。紫様の命を受け、サポートに参りました」

「……やっぱり、そうよねぇ」

 

 白玉楼の玄関口。堅苦しくもそんな事を口にする少女を前にして、幽々子は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 この少女──八雲(やくも)(らん)は、紫が使役する式神だ。使役するなどと表現すると些か聞こえは悪いが、要は白玉楼でいう所の妖夢と同じようなポジションなのである。彼女は主に紫から命じられる雑務を日々熟している。

 

 最強クラスの妖獣である九尾の狐を式神として使役するだけに留まらず、あまつさえ雑用を押し付ける大妖怪──。

 字面だけを見ると、紫も実にとんでもない存在である。妖怪の賢者の名は伊達じゃない。

 

 まぁ、それはさておき。

 八雲藍は紫の命を受けて幽々子のサポートに来たと言っていた。それはつまり、何だかんだで幽々子達の様子が気になっていた紫が、隙を見て自らの式神である藍を冥界へと送り込んだのだろう。彼女本人が来ない理由は、一度映姫に見つかってしまっているからだろうか。

 

 何にせよ、紫も些か心配性である。別に幽々子はこのままでも一向に構わないのだが。

 

「……それで? サポートと言っても、何をするつもりなの?」

「大まかには()()と大体同じです。妖夢が不在の間だけその代理人を勤めろ、というのが紫様からの指示です」

 

 ()()。それは妖夢が行方不明になっていた空白の四ヶ月間の事を示している。確かにあの頃も、定期的に藍が手伝いにきてくれていた。

 そして今回も、一日だけとは言え妖夢は異変解決の為に顕界へと出かけてしまっている。それ故に、紫から藍へとそんな指示が下されたのだろう。──まったく、あまりにも世話焼きというか何というか。

 

「気持ちは分かったわ。でも、そこまで世話を焼いてくれなくても……」

「……ええ。私も少し心配が過ぎるとは思っています。ですが幽々子様、何やら妙な亡霊を預かる事にしたんですよね?」

「それって……進一さんの事?」

「そうです。その彼がどういった存在が分からぬ以上、やはり用心は必要でしょう。まぁ、幽々子様に限って何か問題が起きるとは思いませんが……」

「用心、ねぇ……」

 

 確かに、生前の記憶を失っている上に浄玻璃の鏡も通用しない岡崎進一というあの青年は、些か素性の知れぬ亡霊である。だとするのならば用心は必要だと、そんな藍の懸念も分からなくもない。

 しかし、今の所は特に危険な様子は見受けられない。そもそも怨みや妬みなどといった未練が何も感じられない時点で、彼は亡霊本来の力を殆ど発揮できないのではないだろうか。精々、ちょっぴり空を飛ぶくらいが関の山のように思える。

 

 ぶっちゃけ危険性なんて微塵も感じられない。素性が判明しないが故の不安感なら、多少なりとも感じているけれど。

 

「取り合えず、彼に会わせてくれませんか? その亡霊がどんな男なのか、私も直接確認しておきたいので」

「まぁ、それは構わないけど……」

 

 藍の表情からはどうにも警戒心が抜けてくれない。彼女も大概、真面目が過ぎるというか何というか。幻想郷において従者的な立場に位置する少女達は、どうにもこんなタイプが多いような気がする。そこまで気を張る必要はないと常々思うのだが──。

 

「分かったわ。そろそろお掃除も終わる頃だと思うから……」

「……掃除? 彼に掃除をさせているのですか?」

「まぁ、ね。何でも、お世話になりっ放しじゃ悪いって、進一さんの方から申し出てきたのよ。何か手伝わせてくれって」

「ふむ……?」

 

 何やら藍の表情が微妙なものに変わる。ひょっとして、想像していた人物像とは違っていたのだろうか。

 

「まぁいいでしょう。その男の人間性は、私がこの目で見極めますので」

「お堅いわねぇ……」

 

 そう、堅い。藍は基本的には温厚で人の良い性格をしているのだが、こういう一面に関してはたまにキズである。

 先が思いやられるが、取り合えず藍を進一のもとへと案内する事にした。

 長い廊下を突き進み、辿り着いたのは先程進一を案内した居間の前。ピタリと藍がついて来ている事を確認した後に、幽々子はその襖に手をかける。

 

「進一さん。調子はどうかしら?」

 

 そう口にしつつも襖を開けると、丁度一息ついたらしい進一の後ろ姿が目に入る。

 瞬間。思わず幽々子は息を呑み込んだ。

 

「……し、進一さん?」

「……ん?」

 

 幽々子の呼びかけに反応し、背を向けていた進一がこちらへと振り返る。その服装は、先程までとは少し異なっていた。

 頭の上には三角巾。そしてエプロン姿。肘近くまで腕を捲った今の進一の姿は、中々に()になっていた。

 だからだろうか。一瞬、幽々子は戸惑いの感情を覚えてしまって。

 

「え、えっと……。進一さん、よね?」

「……何だその反応」

「い、いや……。何か、さっきとはイメージが違うような気がして、ね?」

 

 それから幽々子は、コホンと咳払いを一つ挟む。

 

「……その恰好、どうしたの?」

「ああ、これか? この幽霊が教えてくれたんだ。掃除をするのなら、それに適した服装があるってな」

 

 そう言いつつも、進一はちらりと背後を一瞥する。

 そこにいたのは、本来この部屋の掃除を担当していた一体の幽霊だ。先程幽々子の頼みを快く受け入れてくれた彼女だったが、どうやらしっかりと進一に指示を出してくれていたらしい。幽々子は掃除に関してあまり自信がなかった故、彼女のような存在がいると本当にありがたく──。

 

(……んん?)

 

 そこで。

 幽々子の脳裏に、()()が引っかかる事となる。

 

「驚いたな……。本当に綺麗になっている……」

 

 そんな中、幽々子に続いて部屋へと足を踏み入れつつもそう呟いたのは八雲藍である。口にした言葉の通り、彼女は本当に驚いた様子で部屋をじっくりと見渡している。

 埃一つも残っていない文字通りピカピカな障子の枠を指でなぞった後、彼女は改めて進一へと向き直った。

 

「お前が岡崎進一という亡霊か?」

 

 未だに少し警戒心を残しつつも、藍がそう問いかける。見知らぬ少女の登場に一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた進一だったが、けれどすぐに首を縦に振ると、

 

「ああ、確かにそうだが……。あんたは?」

「私の名前は八雲藍。見ての通り、九尾の妖狐だ」

「八雲……?」

 

 首を傾げつつも、進一は問いかける。

 

「……紫の姉妹か何かか?」

「あぁ、いや……そうじゃない。私は紫様の式神だ。“八雲藍”というこの名前も、紫様の式神であるからこそ名乗る事が出来ている」

「し、式神……?」

 

 進一の表情がますます困惑してゆく。仮に記憶が失われていなくとも、外来人である彼にとって式神などという単語は聞き馴染みのない言葉であろう。

 そこでクスリと、藍が笑う。彼女の表情が初めて綻んだ瞬間だった。

 

「そうだな、すまない。今の説明じゃあまりにも不十分か……。私の事は、紫様の従者とでも思ってくれればいい」

「……よく分からんが、了解した」

「よろしい。さて、と」

 

 そこで藍は、今一度部屋の様子をぐるりと見渡す。

 塵も埃も残っていない、隅々まで掃除が行き届いた部屋。妥協したような点も一切見受けられず、徹底的に清潔さが保たれている。畳の上も、座卓も、当然ながら部屋の全貌も。まさに綺麗さっぱりである。

 

「この部屋……お前が掃除したのか?」

「……え? あ、ああ……まぁ、一応」

 

 遠慮しがちにそう答える進一に対し、「フッ……」と笑みを浮かべつつも藍は言葉を投げかけた。

 

「中々の手腕だ。正直、私はお前の事を見縊り過ぎていたのかも知れない」

「そ、そうなのか……? い、いや、だが俺一人の力だけで掃除をしていた訳じゃない。俺は寧ろ、殆どサポートに回っていただけで……」

 

 そこでひょっこりと、先程の幽霊が割って入ってくる。何かを訴えかけるかのように、進一の傍らでぴょこぴょこと飛び跳ねている様子が見て取れた。

 当然ながら、言葉を発する事は出来ない。口が利けない幽霊は、漠然とした感情を伝える事しかできないのである。

 

「……いや、俺は別に大した事はしてないじゃないか」

 

 そんな幽霊へと向けて、進一は声をかけ始める。

 

「殆どって……。でもそれはお前が色々と教えてくれたからだ。俺一人の力だけじゃ、絶対に無理だった」

 

 微笑ましい様子である。

 たった数十分間掃除を共にしただけのはずだが、既に二人はある程度仲良くなっているらしい。あの幽霊が特別感情が豊かという事もあるが、進一もそれなりに人を引き付ける質なのかも知れない。

 

「な、なぜそこでムッとする? ……え? 謙遜が過ぎる? い、いや、俺はただ、本当にお前の指示に従っていただけで……」

 

 そう、それはまるで互いに言葉を交わし合っているかのように──。

 

(……って)

 

 ──ちょっと待て。

 

「わ、悪かったよ。だからそんなにむくれるなって」

「あ、あの~……進一さん?」

「……うん?」

 

 怒る幽霊を宥めている進一へと向けて、幽々子は思わず声をかける。

 目の前で繰り広げられているこの状況。些か解せない要素が含まれているような気が。

 

「今、その子とお喋りしていたのよね?」

「あ、ああ……。お喋りというよりも、殆ど俺が言い包められているような状況だったが……」

「それって……」

 

 おずおずと、幽々子は訊く。

 

「この子の言葉が、はっきりと伝わってるって事?」

「……? ああ、そうだが……?」

「…………っ」

 

 幽々子は再び息を呑む。さも当然の事であるかのようにそんな事を口にする進一を前にして、流石の彼女も困惑を隠し切る事ができなくなっていた。

 おかしい。ただの亡霊ではない事は既にはっきりとしていた事だが、それでもこんな事は有り得るのか? それとも幽々子の勘違い? いや、現に彼は幽々子の目の前でやってのけたじゃないか。勘違いなんてありえない。

 或いはひょっとして、彼はそういう『能力』でも持っているのだろうか? それなら納得できなくもないが──。

 

「勿論、こいつ声が耳に届いている訳じゃないぞ? ただ、直接頭の中に言葉が届くというか……」

「……進一さん。それって普通じゃない事なのよ?」

「……なに?」

 

 幽霊は口を利く事が出来ない。けれど気質の集合体であるが故に、感情に関しては伝わりやすい。言葉を交わす事は出来ないが、考えている事を何となく理解する事なら出来る。

 そう、あくまで()()()()だ。言葉そのものを完全に受け止めている訳ではない。それはあまりにも漠然とした意思の疎通に過ぎない行為なのであり、言葉を交わす会話にはどうしても一歩届かない。

 

 伝わってくるのは最低限の情報だけだ。他愛もない言葉のやり取りなど、実現できるはずがない。

 けれど、どうだろう。岡崎進一というこの亡霊は、現に幽々子の目の前で幽霊と会話をしてみせた。幽霊の気持ちを汲み取り、幽霊の言葉を理解して。その上で、彼はあんなやり取りをしていたのだ。

 

 死者同士、何か通じ合うものだってあるかも知れない。

 確かに幽々子はそう口にしたが、それにしたってあまりにも通じ合い過ぎである。

 

「い、いや、ちょっと待ってくれ。幽々子さんだって、こいつと会話してたじゃないか。だったら別におかしな事でもないんじゃないか?」

「ええと……。私の場合は、ちょっと例外なのよ。私は『能力』で幽霊達を操る事が出来る。それに付随して、幽霊達と言葉を交わす事だってできちゃうの。それは当然、誰もが持ってる普遍的な能力という訳じゃなくて、あくまで特異性なのよ。専売特許と言ってしまってもいいわ」

「……つまり、本来ならば幽々子さんみたいに特別な存在でもない限り、幽霊と会話するなんて出来ないって事なのか?」

 

 幽々子は頷いてそれに答える。

 そう。幽霊との言葉による会話なんて、例え亡霊であろうとも誰にでも出来る行為ではない。幽霊の方が何か特別な『能力』でも持っていたのであれば話は別だが、少なくともあの幽霊はそんな『能力』など持っていなかったはずだ。

 だとすると考えられる結論は限られてくる。何かあるのは幽霊の方ではなく、岡崎進一という亡霊の方──。

 

「何か……『能力』を持ってる、って事かしら……?」

「……それはつまり、岡崎進一は幽々子様と同系統の『能力』を持っている可能性があると?」

 

 藍の確認。けれど幽々子は自信なさげな視線を向けるだけで、はっきりと肯定する事は出来なかった。

 自分と同系統の『能力』。死を操り、そして死者をも支配下に置く事が出来る西行寺幽々子の異能。それと同系統の『能力』を持つ者が他にいるなど、有り得るのだろうか?

 そもそも今の段階では、進一は単に幽霊と会話しただけだ。たったそれだけの情報でそうであると決めつけるのは、あまりにも早計過ぎるじゃないか。

 

 それ故に、結論づける事は出来ない。それはあくまで、無数に枝分かれした可能性の一つに過ぎないはずだ。検討外れな推測に終わる可能性だって十分に有り得る。

 

「進一。お前は何か『能力』を持っているのか? 心当たりがあるのなら教えてくれ」

「の、能力って……。そんな事を言われてもだな……」

 

 藍から質問を受け、進一は困ったような表情を浮かべている。

 この反応。仮に彼が何かしらの『能力』を持っていたとしても、それすらも忘れてしまっている可能性が高い。やはりこれ以上の詮索は、彼の記憶が戻らない限り意味がないのだろうか。

 

 西行寺幽々子は思案する。

 もしも。もしも仮に、岡崎進一という亡霊が西行寺幽々子と同系統の『能力』を持っているのだとすれば。

 八十年後の未来からタイムスリップしてしまったこの青年が、そんな『能力』を持っているのだとすれば。

 

 それは一体、何を意味するのだろう。

 

(うーん……)

 

 判らない。

 胸の中がモヤモヤとする。まるで濃霧の中にでも放り出されてしまったかのような心地だ。幾ら手を伸ばしても、幾ら霧を掻き分けたとしても。結局答えは見つからず、前に進んでいるのかも判らない。

 ──さっきから、分からない事ばかりだ。それなりに長い年数を亡霊として過ごしてきたつもりなのだが、まさかこんな状況に直面する日が来ようとは。どうして想像できよう。

 

「はぁ……」

 

 流石に溜息だってつきたくなる。そろそろ頭の中がぐちゃぐちゃになり始める頃合いである。

 

「あぁ、もうダメだわ……! 何だかこんがらがって来たかも……」

「……そうですね。流石に情報が錯綜して来ましたし……」

 

 藍も幽々子に同意しつつも、そこで一旦肩の力を抜く。

 

「取り合えず、この話は一旦置いておく事にしましょう。幽々子様、そろそろお昼にしませんか? 時間も時間ですし」

「お昼……」

 

 藍が口にしたその単語が、幽々子の脳裏に反響する。

 お昼。つまるところ、昼食。考え込む事ばかりに夢中になって、半ば頭から抜け落ちかけていたのだけれど。確かに、そろそろ程よい時間帯である。

 

(…………っ。はっ!?)

 

 そしてそこで、幽々子の脳裏に電撃が走る。

 そう、それだ。間違いなく、そうじゃないか。なぜここまで考えがまとまらなかったのか。なぜここまで、胸の中がモヤモヤとしてしまっているのか。その原因は明白。一つしかない。

 

「そうよぉ! きっとお腹がペコペコだったから、だから考えが纏まらなかったのよ! もう、何でそんな単純な事に気付かなかったのかしら……!」

「……そ、そうですか。では……」

「そうね、早速お昼ご飯にしましょう。……藍、手伝ってくれる?」

「……ええ。その為に来たようなものですからね、私は……」

 

 急に元気になった幽々子の様子を前にして、藍は若干面食らっている様子である。

 妖夢がいない以上、特に影響を受けるのが白玉楼の食事事情である。備蓄に関しては十分である為、幽霊達に任せても問題はないのかも知れないが──。やはり妖夢が不在では不安が残る要素である。

 しかし藍が手伝ってくれるのならば話は別だ。彼女も彼女で、料理の腕前は一級品なのである。

 

「ふっふっふ……。藍のお料理なんて久しぶりねー。楽しみだわ~」

「……お気に召して下さっていたのであれば幸いです。それでは、今回も例に溺れず調理場をお借りしますね」

「うん! もうじゃんじゃん使っちゃって!」

 

 沈みかけていた心が一気に浮上したかのような感覚である。やはり闇雲に暗中模索を続けていては事態は一向に好転しない。時には気持ちをリフレッシュさせ、気分転換をする事も重要なファクターなのである。

 腹が減っては戦ができぬ。生産性を向上させる為、まずは最優先でこの空腹感を何とかしなければならない。

 

「昼食を作るのか? だったら俺も手伝おう」

「……お前、料理もできるのか?」

「……いや、どうなんだろうな。でも、まぁ何とかなるような気がするぞ」

「何だその答えは……。イマイチ釈然としないな」

 

 何やら藍と進一がそんなやり取りを交わしている。どうやら料理も手伝うと進一が申し出たようだが、生前の彼は炊事も経験していたのだろうか。その辺に関しては、イマイチはっきりとしないのだけれども。

 しかし掃除をそれなりに器用に熟してしまった彼の事だ。料理だって、意外と何とかなってしまうのかも知れない。

 

「まぁ、手伝ってくれるのならばこちらとしても有難い。でも、覚悟は出来ているんだろうな?」

「……覚悟? それは何に対してだ?」

「当然、料理に対する覚悟だ。いいか? 幽々子様の食事事情はな……半端ないんだぞ?」

「は、半端ない……?」

 

 ──何やら不穏なやり取りが成されているような気もするのだけれども。

 

「それでも、やってやるさ。俺が出来る事ならば、全身全霊でそれを全うしたい」

「……そうか。よしっ、それならついて来い!」

「ああ……!」

 

 いつの間にやら藍もだいぶ警戒心を解いてくれたようだし、これはこれで一安心である。何だかんだで、八雲藍はやっぱり温厚で優しい少女だ。

 

 ──残された懸念要素と言えば、やはり妖夢の事か。

 進一がどんな人物なのかとか、本当に『能力』を持っているのかどうかとか。それに関しては、妖夢に聞けば大半の事だって分かるかもしれない。彼の素性を、掴む事だって出来るかもしれない。

 けれど問題はそこじゃない。

 岡崎進一というあの青年は、生前における大半の記憶を失っている。当然、妖夢に関する記憶だって──。

 

(妖夢……)

 

 本当に、そんな状態の進一を妖夢と会わせても良いのだろうか。

 二年ぶりに再会して、けれど相手は自分の事など忘れてしまっていて。そんな事実を突き付けられて、妖夢はどう思うのだろうか。彼女は一体、何を感じるのだろうか。

 懸念は幾らでも湧いてくる。

 

(でも……)

 

 けれど。今のこの状況だって、到底放っておけるものではない。

 想いから目を逸らし、その想いを封じ込め。全ての重責を抱え込み、剣を振るい続ける。そんな彼女の姿なんて、見過ごせる訳ないじゃないか。

 

 だから。

 

(……変えなきゃね)

 

 西行寺幽々子は、改めて決意を固めていた。




第壱部に登場したキャラクターと、その簡単なあらすじを纏めてみました。
断章である「とある少女の記憶③」の後ろに追加しましたので、興味のある方はどうぞ。

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