桜花妖々録   作:秋風とも

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第6話「非統一魔法世界論」

 

 ある日の宵の内。進一は一人、憂鬱な気分に陥っていた。

 大学から帰ってくるなり、彼はリビングのソファに腰掛けながらも短く溜息をつく。気怠そうに天井を仰ぎつつも、その流れで壁にかけられた時計へと視線を向けた。

 現時刻はもうすぐ19時を回るところ。外はすっかり宵闇に包まれており、閑静な住宅地は柔らかい街灯に照らされている時間帯だ。大学周辺や都心の騒がしさと比較すると、この住宅地は本当に長閑やかである。人々が忙しなく動き回っているような気配もなく、耳につく騒音も聞こえてこない。

 

 そんな落ち着いた静寂の中。時計と睨めっこをしたまま、進一は今後の予定を脳裏に浮かべる。するとまた憂鬱な感情が高ぶってきて、彼は再び溜息をついてしまった。

 

「どうしたんですか? 何度も溜息なんかついて」

 

 訝しげに声を掛けてきたのは妖夢である。お茶の入った湯呑みをソファー前のテーブルに置きつつも、彼女は進一の顔を覗き込んでくる。わずか数十秒で二度も溜息をついてしまっては、こんな反応をされてしまうのも無理はない。

 進一は眉を曇らせて、

 

「さっきも話したと思うが、今日は姉さんが帰ってくる」

「ええ。確かにそれは聞きましたけど……。ひょっとして、お姉さんが帰ってくると何か不都合な事でもあるんですか?」

「いや、別にそういう訳じゃ……なくもないのか……? と、とにかく、色々事情があるんだよ」

「事情ですか……」

 

 11月末の某日。今日は遂に、進一の姉が海外から帰ってくる日にちである。飛行機や電車等を幾つか乗り継いで、家に着くのは今夜の8時過ぎ頃になるらしい。そんな内容のメールを今朝方スマホで確認した時、進一は思わず苦い表情を浮かべてしまった。遂にこの日が来てしまったのか、と。

 

 断っておくが、別に姉との関係が悪い訳ではない。例えば、顔を合わせただけで啀み合いだとか、取っ組み合いだとか。昔からそんな喧嘩はした事もなかったし、寧ろ仲は良い方だと言えるかも知れない。

 それならば。一体、何が問題なのか。

 

「ま、多分会えば分かるさ」

「はあ……」

 

 イマイチ釈然としない反応を見せる妖夢を横目に、進一は差し出された湯呑みに口をつける。

 どうせあと1時間ちょっとで帰ってくるのだ。百聞は一見に如かず。ここで進一が説明するより、直接会ってもらった方が早い。

 それに。

 

「態々不安を煽る必要はないよな……」

「何か言いました?」

「へ? い、いや、別に何も?」

 

 

 ***

 

 

 今日の進一はいつもと少し様子が違った。

 大学から帰ってくるなり深い溜息をついて、ソファに座るその様子もどこか気怠そうである。尋ねてみると、どうやら彼の姉が帰宅してくるのと関係しているらしい。時間が経つにつれて頻りに時計を確認するようになり、そわそわと落ち着かなくなってくる。

 

 進一の姉。彼女について、妖夢はあまり深くは知らない。知っている事と言えば彼女が大学の教授であるという事と、オカルト好きであるという事くらいだ。進一に聞いてみても、それ以上の詳細は語ってくれない。

 触れてはいけない話題なのかとも思ったが、進一曰く別に姉との仲が悪い訳ではないらしい。にも関わらず、彼女の事を尋ねてみても毎回煙に巻かれてしまう。どうにも進一は、姉の人となりを妖夢に直隠しにしたいようだ。その理由は不明だが、妖夢からしてみればますます気になって仕方ない。

 

(……本当にどんな人なんだろ?)

 

 それももう直ぐ分かる事だ。あと1時間も経たぬうちに、件の彼女は帰ってくる。直接対面すれば、嫌でもその性状を目の当たりにする事となるだろう。

 しかし。それでもやはり、何も知らぬまま対面するのは少し気が引けるのも事実である。と言う訳で、進一に委細の説明を求め続けた結果――。

 

「姉さんは……変人だな」

 

 飛び出してきたのは、身も蓋もない情報だった。

 

「へ、変人……?」

「ああ。変人」

 

 そう肯定する進一は、まるで悟りを開いたかのような表情を浮かべている。彼は濁った瞳で明後日の方向を見ると、壊れたゼンマイ仕掛けの玩具のように乾いた笑い声を上げていた。

 なんだろう、進一が怖い。一体、なんだって言うんだ。何を思い出したのだ、彼は。

 

「あの、それってどういう……」

 

 インターホンのチャイムが鳴り響いたのは、妖夢が一抹の不安を覚え始めた頃だった。

 家中に響き渡る、軽快な音。それが耳に届くや否や、ガタリと音を立てながらも進一はソファから立ち上がる。いつになく俊敏な動きだった。

 妖夢は思わずわななく。

 

「し、進一さん……?」

「……帰ってきたみたいだ」

「へっ?」

 

 それだけを言い残して進一が向かった先は、当然ながら玄関である。時計を見ると、現時刻は丁度20時。

 そそくさとリビングから出て行った進一を追いかけて、妖夢も玄関へと足を進める。丁度、進一が鍵を外して玄関のドアを開ける所だった。

 

「……おかえり。鍵持ってるのに、なんで態々インターホンを押すんだ?」

 

 皮肉を口にしながらも進一が玄関を開け放つと、そこにいたのは一人の女性だった。

 彼女を一言で表すならば、赤。腰に届く程に長く、編まれた髪は赤。瞳の色も赤。ブラウスこそ白いものの、その上に羽織る上着も、丈長いスカートも、当然ブーツも真っ赤である。驚く程に全身が真っ赤である事から、相当赤が好きなのだろうか。ひょっとしたら、あの紅の館に住む吸血鬼と気が合うかも知れない。

 そんな全身真っ赤な女性は、どことなく進一の面影と重なる笑みをこぼしながらも、

 

「ただいま。だって、インターホンを押さないとあなたは玄関まで出迎えに来てくれないでしょう?」

 

 彼女の無垢な笑みを見た途端、妖夢の中の不安感は一気に払拭された。

 散々ひた隠しにした挙句、進一が渋々口にした内容は変人などという評価だったが――。今のところ、特にそんな印象は受けない。浮かべる笑みはとても人の良さそうな表情であるし、事前告知した時間ピッタリにインターホンを押す辺り、かなり律儀な印象も受ける。この人の、どこが変人なのだろう。

 

(……あ。ひょっとして……)

 

 この服装が問題なのだろうか。確かに奇抜といえば奇抜な服装である。

 

「行きはもっと、こう……落ち着いた服装じゃなかったか? なんでまたそんな服を」

「む? 聞き捨てならないわね。これは私の正装よ? どこもおかしな所はないわ」

 

 得意気に服装を見せびらかす進一の姉。どこもおかしな所はないと彼女は言い放つが、正直幾らなんでも赤すぎる気がする。どうやら、中々変わった美的センスをお持ちのようだ。

 成る程。これを示して、進一は変人と言っていたのか。妖夢は一人、そう解釈していた。

 

「……それで? あなたが噂の居候さん?」

 

 妖夢が納得していると、進一の嘆息を悠々とスルーした真っ赤な彼女がそう声をかけてくる。妖夢は一歩前に出て、ぺこりと一礼した。

 

「初めまして、魂魄妖夢と申します。しばらくの間、この家でお世話になる事になりました。よろしくお願いします」

「あら、ご丁寧にどうも。岡崎(おかざき)夢美(ゆめみ)よ。あなたの事は、進一から話を聞いているわ。よろしくね」

 

 やんわりと笑みを浮かべながらも、彼女――夢美はそう受け答えする。とても清楚で落ち着いた雰囲気である。まさに『大人の女性』といった印象だ。

 まったく。進一は一体何を恐れていたのだろう。とても優しげで良いお姉さんじゃないか。それなのに、彼はどうしてあそこまで憂鬱に思っていたのだろうか。正直、そんな思いを抱く要素は一切見当たらない。

 

「さて。立ち話もなんだし、家に入れてくれるかしら? 私お腹空いちゃったわ」

「あ、ああ。そう、だな……」

 

 なぜだか妙に警戒心を抱きながらも、進一はドアの脇に寄る。そんな進一の様子など気にも留めぬ様子で、夢美は自宅へと足を踏み入れた。玄関でおもむろに靴を脱ぎ、彼女はそのままリビングへと、

 

「ちょ、ちょっと待て姉さん」

 

 向かおうとした矢先、何やら妙に動揺している進一に呼び止められた。夢美はきょとんとした様子で振り返り、訝しげに首を傾げる。

 

「どうかしたの、進一?」

「い、いや……、それだけか?」

「えっ? それだけって?」

 

 進一の様子が変である。この半月、妖夢は進一と共にいる事が多かったのだが、そんな中でもここまで動揺した様子を見た事は殆んどなかった。それこそ、蓮子が約束の時間を守った時以来か。しかし、あの時とは方向性が違うような気がするが。

 目をパチクリさせる夢美を前にして、進一は俯きつつも何やら思案を始める。程なくして、彼は顔を上げると、

 

「……ごめん。何もないんなら、それでいいんだ」

「……? 本当にどうしたのよ。今日の進一、少し変よ?」

「ああ……。確かに、少し警戒しすぎたかも」

 

 はははっ、と苦笑しながらも、肩の力を抜く進一。妙に張り詰めていた警戒心をようやく解きほぐし、詰まっていた息を一気に吐き出していた。

 そんな進一につられて、夢美も苦笑する。

 

「警戒って……。もうっ、私が何か変な事でもすると思ったの?」

 

 実の姉に対して警戒心を抱く理由は妖夢には分からなかったが、何であれ不安に思う必要はなさそうだ。変人などと言われた時は嫌な予感が脳裏を過ぎったが、それも杞憂に終わりそうである。踵を返した夢美に続き、妖夢もリビングへと足を進める。

 

「そうだよな……。いくら姉さんでも……」

「……進一さん? 来ないんですか?」

「へっ? あ、ああ。今行く」

 

 三人揃ってリビングに向かい、まずは夕食の時間である。

 進一が大学から帰ってくる前にある程度は妖夢が作っておいた為、後の調理はほぼ仕上げだけの段階だ。真っ先にキッチンに立った妖夢は、すっかり慣れた手つきで次々と料理を完成させてゆく。出来上がった品々を進一と共に食卓に並べるまで、有した時間は5分ちょっとだった。随分と手際も良くなってきたなぁと、内心しみじみと実感する。

 

 さて。この食卓を三人で囲むのは何気に初めてだ。いつもは進一と二人だけだったこの夕食時も、夢美が加わる事でより賑やかになる。三人揃って手を合わせ、食事を始めた。

 

「ん……、美味しい! 進一から話は聞いていたけど、妖夢って本当に料理が上手なのね」

「だから言ったろ? びっくりするって」

「ありがとうございます。お口に合ったようで、良かったです」

 

 肉じゃがを頬張りながらも、夢美は賛辞を呈してくれた。どうやら、妖夢の料理は彼女の口にも好評のようだ。今回は全品妖夢が作った訳ではないのだが、それでもこうして喜んで貰えるとやはり嬉しい。作った甲斐があるというものだ。料理が得意で良かったと、そう改めて思う。

 

「私も料理は結構得意だけど、これには足元にも及ばないわね……。何か、コツでもあるのかしら? こうすれば料理の腕が上達する、とか……」

「量を作る事です」

「うんうん。それで?」

「量を作る事です」

「……えっ? いや、その他には……」

「量を」

 

 そんなこんなで食事が終わり、食器を片付けたダイニングで話題となったのは、先週秘封倶楽部が調査した博麗神社の事だった。

 あれから数日。日を改めて何度か足を運び直したものの、事態は殆んど進展していなかった。鬱蒼とした雑木林を抜け、あの小さな社までは辿り着ける。しかし、そこまでなのだ。社をいくら調べても幻想郷への道は開かれないし、あの御札以外に特に変わった物も発見できない。

 そもそも、あそこに博麗大結界があるのかどうかも怪しいところである。なぜだかあの雑木林限定でメリーの能力が上手く作用せず、境界を見つける事が出来ない。それは幾ら日を改めても同じ事で、何度やってもメリーから返ってくるのは曖昧な返事ばかり。これではメリーの能力に頼る事は出来ないだろう。

 

 結果的に調査は難航を極め、数日経った今でも状況はこの有様なのである。

 

「……それで、これがその社で見つけた御札って事ね」

 

 進一から渡された御札をまじまじと眺めながらも、夢美はそう口にした。

 あの社を調査し始めてからの唯一の戦利品。そしてただ一つの具体的な手がかりである。蓮子が大事に保管してくれていた為、状態は発見当初とほぼ変わらない。辛うじて御札の形状を保っているしわくちゃでボロボロの和紙に、達筆な文字で何かが書かれている。

 

「ああ。姉さんには何か分かるか?」

 

 夢美の確認に頷いて答えつつも、進一は彼女に意見を求める。夢美は「うーん……」と唸りながらも思案を続けていた。

 

「そうねぇ……。今の話を聞いた感じ、幾つか気になる点はあったんだけど……」

「……気になる点?」

「ええ。まぁ、その辺は明日にでも話すわ。私の方でもこの御札はキチンと調べておきたいし、それに蓮子達の意見も聞きたいしね。明日、講義が終わった後にでも私の研究室に来て頂戴」

「あ、ああ……。分かった」

 

 どうやら、夢美は話を聞いただけでも何かに気がついたらしい。かなりの洞察力と推理力だ。これには妖夢も舌を巻く。

 何であれ、彼女が協力してくれるのならとても心強い。難航を極めたこの状況、今の秘封倶楽部の面子だけでは好転は難しいと感じ始めていた所だ。そこで夢美が新たな観点から着眼してくれれば、また別の解決策が浮かんでくる可能性もあるだろう。

 

「すいません。夢美さんにまで協力してもらう事になってしまって……」

「別に気にしなくていいのよ。研究分野にも繋がりそうだし、私にもメリットはあるわ。何より面白そうだし」

 

 そう語る夢美はどこか楽しげだ。成る程、オカルト好きとは聞いていたが、それはこういう事だったのか。確かにこの手の話は、探究心をオカルトに向ける者にとって魅力的な題材なのかも知れない。愉悦を覚える夢美の表情には、天真爛漫な人柄が見え隠れしていた。

 

 そんな話題やその他の雑談をしつつも、夜が更ける事数時間。勿体振るように夢美が声をかけてきたのは、丁度進一が風呂に入りに行った直後の事だった。

 

「ねぇ、妖夢。実は、折り入ってあなたに頼みたい事があるんだけど……」

 

 二人っきりのリビングで、随分と藪から棒である。お茶を淹れ直す手を止めて、妖夢は顔を上げる。

 

「頼みたい事、ですか?」

「ええ。妖夢は私の研究テーマについて、進一から聞いてる?」

「えっと、名前くらいは……。確か、非統一魔法世界論……でしたっけ」

「そう。統一理論に当てはまらない『魔力』の存在を提唱する理論なんだけどね……」

 

 全ての物理的法則が、統一理論で説明できるようになったこのご時世。その理論に異を唱え、唯一の例外を提唱するのが夢美の研究テーマらしい。『非統一魔法世界論』と名付けられたそれは、終焉を迎えたかに思われた物理学界に一石を投じる理論であり、新時代が到来する程の革新をもたらすテーマである――と言うのが彼女の主張だそうだ。

 確かに。こちらの世界で所謂“非常識側”である魔力の存在を証明できれば、それは世に衝撃を与える程の極めて革新的な大発見であると言えるだろう。それだけ聞けば、夢美の研究は非常に壮大でかつ物理学の最先端とも言えるテーマに見えるかも知れない。

 

 しかし、それはあくまで素人目線での意見である。物理学に精通した専門家達は、そう単純じゃない。

 

「全ての物理的法則が統一理論で説明出来るなんて、世迷い言もいい所よ。だから今回の学会で、私は非統一魔法世界論を発表したわ。そしたら連中どんな反応したと思う? 眉唾物だって失笑して、爪弾きにしたのよ! 酷いと思わない!?」

「そ、そうですね……」

 

 プンプンと効果音が聞こえてきそうな勢いで、夢美は怒りを露わにする。これには思わず妖夢も面食らってしまった。

 非常識側である魔力の存在。そんな物を突然提唱した所で、そう簡単に納得して貰える訳がない。況してや相手は物理学の終焉をほぼ確信した学者達である。あまりにも非科学的で幻想的な魔力の存在など、夢物語程度にしか思っていないだろう。

 

 だけれども、夢美は大真面目である。本気で魔力の存在を確信し、そして理論を組み立てたのだ。それを失笑混じりに爪弾きにされてしまっては、怒りを覚えても無理はないと言える。

 

「だから私は連中への復讐を誓ったわ……」

「ふ、復讐ですか……?」

「そう! 魔力の存在を実証し、私の理論を完成させる! そして統一理論をぶち壊してやるのよ!」

 

 高々とそう宣言する夢美の瞳は、ギラギラと光り始めていた。復讐心に燃える彼女は、最早誰にも止められぬような凄みさえも感じられる。

 なんだか初対面の時の清楚な印象が薄れてきたような気がするのだが、気の所為だろうか。

 

「あの……、つまり魔力の存在を実証する為に力を貸して欲しい……という事ですか?」

「その通りよ。話が早くて助かるわ」

 

 気圧されながらも確認すると、夢美は頷いて肯定した。

 成る程。そういう事なら、妖夢に断る理由はない。幻想郷への手がかり探しに協力して貰っている以上、こちらとしても変わりに何か力になりたいと思っていた所だ。

 しかし。一つ気掛かりな事がある。

 

「確かに幻想郷には魔力、つまり魔法が普通に存在していますが……。私は魔法には精通していないんです。そもそも今は半霊がなくなって弱体化している身ですし、持っている力は殆んど普通の人間と変わらないのですが……」

「あー、その辺は別に良いのよ。魔法が使えなくても、あなたは半分幽霊なんでしょ? それだけで十分だわ」

「そ、そうですか……?」

 

 何が十分なのかよく分からなかったが、ともあれ今の妖夢でも力になれるらしい。

 そういう事ならば。

 

「分かりました。私でよろしければ、お手伝いします」

「本当っ!? ありがとう! これで研究が捗るわ……!」

 

 随分と高揚した様子で、夢美は身を乗り出した。それから顔を背けながらも、ムフフと笑みを浮かべている。どうやら彼女は、自分の研究テーマの事になると活発で情熱的になるらしい。ある意味研究者らしい性分とも言えるかも知れない。

 

「それじゃあ、明日! この時間なら空いてるから、私の研究室まで来てね。あ、私の研究室は、大学のここにあるから。学内の地図を見ればすぐに分かると思うけど……」

 

 そう言って夢美は素早くメモを取ると、それを妖夢に差し出してくる。彼女が指定したのは、丁度進一達が講義を受けている時間帯である。どうせ講義が終わるまでは秘封倶楽部は集まれないので、都合が良いと言えば良い時間だ。

 

「この時間に夢美さんの研究室に、ですね」

「そう。お願いね。ああ、それと、もう一つ頼みたい事……と言うかお願いがあるんだけど……」

「……? なんですか?」

 

 妖夢は首を傾げる。もう一つのお願い事、とは――。

 

「妖夢が私の研究に協力する事、他言無用にしてくれないかしら。特に進一には、絶対に喋らないで欲しいのよ」

「進一さんには……? それは、どうしてですか?」

「へっ? い、いやぁ、それはなんて言うか……。そ、そう! あんまり中途半端な段階で、研究過程を知られたくないじゃない? 完璧にしてから世に出したいのよ」

「そういうものなんですか……?」

「そういうものなの!」

 

 その辺について妖夢はあまり詳しくない為いまいちピンとこないのだが、やはり物理学者としてのプライドがあるのだろうか。そう言われれば、確かに妖夢もいつまでも半人前ではいられないという思いはある。それと同じ事なのだろうか。

 

「そういう事なら……分かりました。誰にも言いません」

「そ、そう? 約束よ?」

 

 随分と念を押す。そんなに漏洩したくないのだろうか。既に学会で発表してしまっている時点で、今更なような気もするのだが。

 ともあれ、約束は約束だ。黙秘義務は守らねばならないだろう。

 

「上がったぞー。……なんの話をしていたんだ?」

「へっ!? いや! 別になんて事ないわよ? ちょっとした世間話よ」

「世間話?」

「そうそう! ところで進一、さっきの話の続きだけど……」

 

 風呂から上がってきた進一の質問を露骨に誤魔化そうとする夢美を眺めながらも、妖夢は途中だったお茶淹れを再開するのだった。

 

 

 ***

 

 

 妖夢一人で大学に行くのは、これが初めてではない。そもそも秘封倶楽部の集合場所は大学構内のカフェテラスとなる場合が多く、その度に大学まで足を運ぶ必要が出てくるのである。故に大学までの道のりは完璧に頭に入っているし、最早迷う事はないだろう。最初こそ、特に電車に乗る際に随分戸惑っていたけれど。

 

「えっと、夢美さんの研究室は……」

 

 慣れた足取りで大学へと辿り着いた妖夢は、夢美から受け取ったメモを片手に学内地図を確認する。大型のディスプレイに表示されたそれは、大学内の講義室や研究室などの位置を事細かに把握できる優れものだ。程なくして目的の研究室を発見し、現在地からそこまでの道順を指で辿ってみる。

 

「ここをこう行って……、よし」

 

 ある程度把握した後、妖夢はその通りに足を進める。特に苦労する事もなく、目的の研究室まで辿り着く事に成功した。

 とある建物の5階部分に位置する研究室である。廊下から見た感じでは特に変わった所はなく、他の研究室との相違点は確認出来ない。相当赤が好きらしいので、てっきり研究室も真っ赤なのでは――などと密かに思っていたのは秘密である。流石に大学の研究室を、そこまで大胆に改造する事はしないようだ。

 

 そんな末梢的な事を考えつつも、妖夢は研究室のドアを叩く。待ってましたと言わんばかりに、勢い良く開け放たれた。

 

「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたわ」

 

 そう口にする夢美は心躍っている様子である。うきうき、わくわく。どうやら、相当楽しみにしていたらしい。

 

「おはようございます。えっと……約束の時間は、過ぎてませんよね?」

「ええ。もうバッチリよ。ささ、入って入って」

「はい。失礼します」

 

 夢美にそう促されて、妖夢は研究室へと足を踏み入れる。瞬間、妖夢は思わず息を呑んだ。

 断っておくが、別に内装が真っ赤だった訳ではない。流石にそこまで派手派手しくはないのである。しかし、別の意味で衝撃を受ける事は確かな研究室だ。

 

 一般的なデスクとパソコン、そして所狭しと本が詰まった書棚。そこまではいい。問題はそれ以外の物品だ。

 明らかに場違いなパワーストーンや仰々しい十字架。そして奇妙な御札や幣など、俗に言うオカルトアイテムや除霊グッズの数々である。常識的なデスクやパソコンの他に、洋と和が入り混じったそんな物品が並ぶ光景は中々にカオスだ。よく見たら不気味な形相の人形等も置かれており、妖夢は思わず身の毛がよだつ。これは、儀式か何かの跡なのだろうか。

 

「凄いですね、これ……」

「ふふふ……。どう? 私が世界中から集めたオカルトグッズの数々は?」

 

 夢美の趣味らしい。いや、こんな物を大学の研究室に並べておくのは如何なものか。正直、怖い。

 何であれ、いつまでもここで突っ立ってはいられないだろう。今は夢美の研究を手伝いに来たのだ。雑談もそこそこに、自分の役割を夢美に確認せねばなるまい。

 

「あの……。夢美さんの研究って……」

 

 ガタンッ。

 妖夢が振り返ると同時に、突然そんな物音が響く。慌てて視線を向けると、どうやら夢美が勢いよくドアを閉めた音のようだった。妖夢に身体を向けたまま、彼女は器用に取っ手を掴んでドアを閉めた様子。

 だけれども、どこか様子が変だ。さっきまでの浮き足立った彼女はどこへやら。ドアの取っ手を掴んだまま、俯いて何も喋らない。突然の沈黙を前にして、妖夢の胸中に不安感が生まれ始めた。

 

「ゆ、夢美さん……?」

 

 おずおずと、豹変した夢美に声をかける妖夢。対する夢美は俯いたままで、

 

「ねぇ、妖夢。物理学の発展に必要なものって、何か分かる?」

「は、発展、ですか……?」

 

 いきなりなんの事を言っているのだろう。脈絡のない質問を投げかけられ、妖夢は反射的に首を横に振ってしまう。

 

「物理学者はね、みんな実在主義なの。だからいくら仮定を並べても得心してはくれないし、容赦なく排斥しようとする。確実に納得して貰う為には、具体的な証拠が必要なのよ」

「証、拠……?」

「そう、証拠。昨日も話したと思うけど、あなたには魔力の存在を裏付ける証拠を見つける手伝いをして欲しいのよ」

 

 なんだろう、夢美が怖い。途轍もなく、嫌な予感が。

 

「そ、その……。私は、何をすれば……?」

「そうねぇ……。まずは……」

 

 おもむろに。ポンッと、妖夢の肩に手を乗せて、

 

「……取り敢えず脱ごっか?」

「……はいっ!?」

 

 なんだ。なんだ、一体。訳が分からない。幾らなんでも唐突過ぎるではないか。研究の手伝いに行ったら、いきなり服を脱げと言われた。凄まじい字面である。

 思わず飛び上がりつつも妖夢が声を裏返らせると、「あー……」と声を零しつつも夢美は少し思案して、

 

「ごめんなさい。少し端折りすぎたわ。いい? あなたは魔法が普通に存在する幻想郷で日々を過ごしてきた。魔法とは即ち魔力の具現。例え魔法が使えなくとも、知らず知らずの内に少なからず魔力に触れているはずだわ。つまりあなたの身体には、魔力の痕跡が残っている可能性があるのよ」

「つ、つまり……?」

「うふふ……。あなたの身体を調べれば、魔力の存在を実証できるかも知れないって事よ。そうでなくとも、あなたは半人半霊。半分幽霊の特異体質……。魔力以外にも、何か世紀の大発見をする事も出来るかも知れないわ……!」

 

 恍惚として語る今の夢美の心境は、まさに夢見心地なのだろう。頬をうっとりと色付かせてはあはあと息を切らすその様は、完全にヤバい人にしか見えない。

 

「ちょ、ちょちょちょっと待って下さい! 身体を調べるって、私……!」

「あら、ひょっとして怖気付いたの? ここまで来て、それはないわよぉ……」

 

 身の危険を感じた頃には時既に遅し。妖夢は思わず数歩後退るが、ねっとりとした口調で追撃しつつも夢美は追いかけてくる。これはまずい。出入り口は一つだけ、それも夢美に占拠されている。逃げ出す事は不可能だ。

 ヤバい。冗談抜きでヤバい。色々と。

 

「あ、あの! お、おお落ち着きましょう!? な、何か! 何かもっと良い方法があるはずですよ!」

「何言ってるのよ。現段階ではこれが最適な方法だわぁ……。大丈夫、安心して。痛いのは一瞬だから」

「一瞬でも痛いんですか!?」

 

 説得も効果はなさそうだ。最早妖夢はただ後退りする事しか出来ない。

 因みに、だが。寄りにも寄って、今日は剣を持ち歩いていないのである。いや、仮に持ち歩いていたとしても、夢美を斬りつける事など言語道断なのだが。

 

「あっ……!」

 

 ドスンと、背中に何かが当たる。振り向くと、そこにあったのは壁である。どうやら完全に追い詰められてしまったらしい。

 

「うふっ……。さあ、もう逃げられないわよ。観念しなさい妖夢」

 

 舐め回すような視線を向けながらも、夢美は嬉々として妖夢に迫る。彼女の言う通り、もう妖夢には逃げ道はない。万事休すである。

 

(ひ、ひぃぃ……)

 

 ああ。もう駄目だ。諦めるしかないのか。

 

「もう直ぐ、もう直ぐよ……。これで魔力の存在を実証出来るわぁ……」

 

 興奮気味に息を切らした夢美が、じわじわと迫ってくる。

 

「さあ! 物理学界の新時代……! その幕開けよ!」

 

 ごめんなさい、幽々子様。私はここでお終いみたいです。

 

 妖夢がそんな遺言を脳裏に浮かべ始めた、その時だった。

 

「やめんか変態ッ!」

「ごふっ!?」

 

 ボカンッと、響くのは突然の衝突音。呻き声を上げつつも、目の前で夢美は崩れ落ちた。ドサリと音を立てて倒れ込み、そのままピクピクと痙攣して動かなくなる。

 

「……へっ?」

 

 一体、何が起きたのか。妖夢が理解するより先に、第三者の声が耳に流れ込んできた。

 

「ったく。嫌な予感がして戻ってきてみれば、案の定だぜ」

 

 倒れた夢美の背後に立っていたのは、パイプ椅子を肩で担いだ一人の女性だった。

 金髪のツインテールに、金色の瞳。体格は比較的小柄で、その装いはセーラー服にも似た服装である。倒れた夢美を見下ろす彼女は、溜息混じりに呆れ顔だ。

 

 妖夢は驚きのあまり開いた口が塞がらない。どうやらあのパイプ椅子で夢美をぶん殴ったらしいが、幾ら何でも物騒過ぎる。大丈夫なのだろうか。一向に起き上がる気配がないのだが。

 

「おーい、無事か? まだ変な事されてないよな?」

「……へっ!? あっ、は、はい……! 一応……。で、でも、夢美さんは大丈夫なんでしょうか……?」

「あー、別に気にしなくても良いって。この程度じゃ死にゃしないぜ」

 

 死ぬ死なない以前に、いきなり背後から殴りかかるのはどうなのだろうか。

 しかし何であれ、彼女のお陰で助かったのは事実である。止め方がやや物騒だったとは言え、そこは感謝しなければならないだろう。

 

「あの……、助けて頂いて、ありがとうございます。えっと、貴方は……」

「ん? あぁ、そうだった。自己紹介が遅れたな」

 

 ツインテールの彼女は、コホンと咳払いを一つ。

 

「私は北白河(きたしらかわ)ちゆり。夢美様の助手だぜ」

 

 パイプ椅子を担いだままで。ちゆりと名乗ったその女性は、ニッと笑みを浮かべるのだった。




夢美とちゆりは年齢等の設定が原作とは異なります。パラレルという事でどうか一つ。
でも夢美達って原作でも可能性世界の住民って設定でしたよね。という事はここの夢美達はパラレルのパラレルって事に……うん? なんだかよく分からなくなってきたぞ……?

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