濃霧の所為で今まで気づきもしなかったが、どうやら三途の河にも魚が棲んでいるようだ。
ちらりと水面を覗き込むと、そこには確かに魚影のようなものが確認できる。薄暗い所為ではっきりと判別する事はできないが、大小様々なその魚達はどれもあまり見た事のない種類ばかりである。音一つ立てずにゆらゆらと泳いでゆくその魚達を見ていると、何だか吸い込まれそうな感覚に陥りそうになってしまう。ボーっとしていると転げ落ちそうだ。
「気をつけな。河に落ちたら戻ってこれないよ?」
ぼんやりと河を眺めていると、死神少女――小野塚小町にそう注意される。曰く、この河は死神の舟以外に対して浮力が殆ど働かないらしく、一度足を踏み入れると抵抗も出来ぬままどんどん沈んで行ってしまうらしい。それは既に亡霊である進一もまた例外ではなく、最悪の場合は河に
冗談だとしたら笑えない。流石の進一も、そんな間抜けな原因で消滅なんてしたくはない。彼は素直に身を引いて、そしてその場に腰を下ろした。
「そうそう。素直でよろしい」
「……名前以外の記憶がないまま消滅なんて御免だからな」
舟体の後方でオールを漕ぐ小野塚小町へと向けて、肩を窄めつつも進一は答える。
閻魔の所に連れてゆくと言われて彼女に乗せられたのは、人が二、三人乗れるか乗れないか程度の細長い舟だった。ゴンドラに似た形状の古い手漕ぎボートで、木製の船体はかなり簡素な作りである。よく言えば味のある、悪く言えば古臭い印象を受ける舟だが、これで本当に向こう岸まで渡れるかどうか若干の不安が残る程だ。突風が吹けば簡単に転覆しそうな舟であるが、小町曰くそもそも三途の河では突風なんて吹かないから問題ないとの事。
――冗談抜きで、本当に大丈夫なのだろうか。落ちたら戻ってこれないなどという話を聞いてしまった手前、何だかどんどん心配になってきたような。
「……おい小町。本当に沈まないんだろうな?」
「だ、だから大丈夫だって。ほら、河だって静かなもんだろ?」
確かに河の様子は相も変わらず静かなものだ。波音一つ聞こえやしない。不気味なほど静まり返ったその様子を見れば見るほど、死後の世界が近づいているんだなという感覚がますます強くなってくる。生前の記憶がない以上、“死んだ”という事実に関してはイマイチ実感が湧かないが。
「それにしても、この舟ちょっと小さくないか? 死者をあっち側まで運ぶにしても、これじゃあ多くて二人くらいしか乗せられないだろう」
「そりゃあ、普通は幽霊を運ぶからねぇ。幽霊は亡霊と違って存在が限りなく希薄だし、いわゆる質量ってヤツが殆ど存在しない。生きている人間とは物理的に勝手が違うのさ」
「その気になれば幾らでも乗せられるって事か……。うん? ちょっと待てよ。それじゃあ、俺みたいな亡霊を乗せる事は殆どないって事か?」
「殆ど所か全くと言ってもいいくらいだよ。さっきも説明した通り、死を受け入れておきながら亡霊のままだなんて、お前さんはイレギュラー中のイレギュラーだからね。あたいだってそんな奴を運ぶなんて初体験だ」
さっきから進一は何度もイレギュラーだと称されている。亡霊の癖に死を受け入れていて、亡霊の癖に未練がなくて。というかそれ以前に、そもそも亡霊の癖に生前の記憶が存在しない。
自分だって薄々勘づいている。自らが立たされている状況は、明らかに異常なものだ。自分の事であるはずなのに、自分が何者なのかさえもはっきりしていない。黒い靄で覆われた頭の中からは、幾ら手を伸ばそうとも一行に記憶を引っ張り出す事もできない。しかも無理をすれば激しい頭痛に襲われる。
どうしようもないじゃないか。
「……なぁ。俺は外来人ってヤツなんだよな? 幻想入りしちまったっていう……」
「そう。まぁ、お前さんの服装から推測すればって話だけど。外の世界で忘れ去られた連中は、とある結界の効力により幻想郷に引っ張られる。本当に外来人なのだとすれば、お前さんは外の世界で忘れ去られた事になる」
「忘れ去られたって……。そんな事有り得るのか?」
「うーん、正直あたいも幻想郷についてはあまり詳しくないんだけど……。例えば、お前さん一人だけを残して知り合いも家族も全員死んじまった……とか?」
「いや俺だけを残してって……。結局俺も死んでるんだが」
その辺がどうもはっきりしない。
そもそも進一が目を覚ましたのは“幻想郷”の三途の河だ。“外の世界”の三途の河ではない。外の世界の住民であるはずなのに、どうして幻想郷の三途の河に辿り着いてしまったのだろうか。
「幻想入りするまではまだ生きてたって事なんじゃないのかい? 幻想入りをした後に、妖怪にでも襲われて死んじまったって可能性もある」
「そう、なのかも知れないが……」
「ま、その辺も閻魔様に会えばはっきりする事になるさ。『浄玻璃の鏡』を使えば、ありとあらゆる生前の行いが筒抜けだからねぇ」
閻魔様だとか、浄玻璃の鏡だとか。まるで漫画かアニメの世界である。そんなものが本当に存在するなんてにわかには信じられないが、けれど当の進一が亡霊などという非常識的な存在になってしまったのだ。確かに、閻魔様なんて奴がいても不思議ではないのかも知れない。
「はあ……。亡霊なのに足があるってのも何か変な感じだし……」
「それは別に珍しくもないけどねぇ。足が無い亡霊ってのも一般的ではあるけど、お前さんみたいに足までちゃんと人間の姿を保っている亡霊だって別に変じゃない」
「……そうなのか?」
「そう。ああ、因みになんだけど、三途の河に棲んでいる魚達って全部幽霊なんだよね。だから釣り上げたりする事もできないのさ」
「……魚の幽霊なんているのか」
どうにも奇妙な感じだ。その辺は文化の違い――所謂カルチャーショックというヤツだろうか。その点に違和感を覚えてしまう辺り、やはり自分は本当に外来人に分類されるのだろう。相変わらず何も思い出せないが。
「さて、と。そろそろ彼岸に着くよ。降りる準備をしておきな」
「……ああ」
三途の河を舟で渡り始めてから数分。舟を漕ぎ続けていた小町からそう声をかけられて、進一もまた前を向く。濃霧の先、そこには確かに陸のようなものが確認できるようになっていて。
「……あれが彼岸か」
「そうだよ。正真正銘、死後の世界」
「死後の世界……」
遂に、自分は辿り着いてしまうという事か。生前の事すらもまともに覚えていないのに、こうして三途の河を渡ってしまう事になるとは。
「怖いかい?」
「……いや」
怖い、のだろうか。正直、よく分からない。こうして死神と対面して、こうして三途の河を渡り切ろうとしていて。それでも尚、この期に及んでイマイチ状況を呑み込む事が出来ていないのだ。
気が付いたら死んでいて、気が付いたら自分は三途の河の畔にいて。生前の事も思い出せぬまま、死神が漕ぐ舟に乗って三途の河を渡っている。そんな状態で状況を呑み込めと言う方が無理な話だ。進一はそこまで単純な構造で出来ていない。
けれどだからと言って、いつまでもウジウジと迷い続ける訳にもいかないだろう。小町曰く、閻魔様とやらにかかれば生前の行い全てが洗い浚い筒抜けになるらしい。進一の記憶だって戻ってくるかもしれない。
だとしたら選択肢は一つだ。この状況に納得できようが出来まいが、今はその閻魔様とやらに会ってみるしかない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。閻魔様は……まぁ、ちと面倒な性格をしてるんだけど……。でも取って食われたりはしないからさ。多分」
「……曖昧だな。と言うか面倒って何だ面倒って」
「あ、あは、あははは……」
笑って誤魔化された。面倒な性格とは、一体どういったベクトルで面倒なのだろう。確かに閻魔と聞くと強面なイメージがあるが、やはり色々と厳格な性格をしているのだろうか。
(……まぁ、ここで考えても仕方ないか)
相手がどんな性格だろうとも、最早後戻りなんて出来やしない。ここは覚悟を決めるべきだ。
(……よし)
短く深呼吸をして、進一は顔を上げる。微かな不安感を振り払い、そして彼は意を決する。
周囲をしつこく覆っていた濃霧が突然
「…………っ」
不意に照らされる眩い光。思わず腕で陰を作って、進一は顔を背ける。今の今まで風も音も何も感じ取れなかったはずなのに、突然ふわりと甘い香りが進一の鼻をつついていて。
――これは、花の香りだろうか? 苔むした尖形の岩だけが付き出した、波一つ立たない静かな河を渡っていたはずなのに。進一の目の前に突如として現れた光景は、文字通り全くの別世界だった。
玉砂利だとか、岩だとか、濃霧だとか。無機質な印象が強すぎた此岸側の畔とは、何もかもが違う。
黄色や赤などの鮮やかな花を咲かせるチューリップ。黄金色の明るい花弁を広げるキンセンカ。淑やかな印象のスズラン。そして辺り一面に広がるタンポポの群れ。その他数多くの花々。
三途の河の向こう側。彼岸と呼ばれるその場所に広がっていたのは、色鮮やかな草原――延いては花畑であった。
「これは……」
「驚いたかい? あれが彼岸さ」
三途の河の向こう側にはお花畑が広がっている、などというのはフィクションなどでもよく耳にする“お約束”だが、目の前の光景はまさにその通りだったのである。ただの作り話だとか、臨死体験を経た者が見た単なる夢のようなものだか。あくまで空想上の光景だと思っていたのだけれど、まさか実在していたとは。
「ああ、驚いたな……。作り話じゃなかったのか……?」
「作り話……? お前さん、記憶がないんじゃなかったのかい?」
「え? あっ……そういえば」
小町にそう指摘されて、進一は初めてその感覚に気付く。
一瞬記憶が戻ったのかと改めて頭の中を探ってみるが、けれどやはり結果は同じ。生前の事なんて、自分の名前くらいしか思い出せない。
しかしそれでも、“死後の世界のお花畑は作り話である”という
「ふぅん。やっぱり、丸っ切り何も覚えてないって訳じゃなさそうだねぇ。染みついた習慣だとか、凝り固まった常識だとか。そういった“感覚”に関しては残ってるって事かな」
「そう、らしいな……」
「まぁ、そこまで忘れちまってたら、こうしてあたいとお喋りする事も出来なかっただろうけど……」
確かにその通りだ。もしもありとあらゆる記憶が丸っ切り消えてしまっていたら、そもそも言葉を話す事すら出来なくなってしまうだろう。進一の場合、こうして小町と喋る事も出来るし、常識的な感覚だって残っている。そういう意味では、状況は最悪だという訳でもないのかも知れない。
「……よしっ。ほら、到着だよ」
そんな事を考えている内に、進一を乗せた舟は彼岸の停留所まで無事に辿り着いていた。
停留所、といってもそこまで仰々しいものではない。岸から伸びた木製の桟橋に舟を着け、ロープで固定するだけの実に簡素な作りである。おもむろに舟から降りると、足から伝わってくるのはギシリと木版が撓る感覚。どうやらそれなりに頑丈に出来ているらしく、少なくとも床が抜けて河へと転落してしまうような心配は必要なさそうだ。
改めて周囲を見渡す。此岸の濃霧が嘘であったかのように、彼岸は明るく晴れ渡っていて。
「着いといで。閻魔様の所まで案内するからさ」
舟の固定を終えた小町が、鎌を担いで進一の先導を始める。彼女に続く形で、進一もまた足を踏み出した。
頬を撫でる暖かい空気。ふんわりとした陽光。そして沢山の花が咲き誇る喉かな草原。本当に、ここが死後の世界なのだろうか。
あまりにも穏やかで、あまりにも清らかで。そんな風景を見ていると、時間を忘れそうになってしまう。成る程、この世のものとは思えないと言えば確かにそうなのかも知れない。まるで、死を迎えた魂達に安息を齎してくれるような。そんな暖かな光景。
「あれ? 小町さん?」
周囲の風景を眺めながらも小町の後についていく進一だったが、不意にそんな声が流れ込んできて思わず足を止める。
丁度桟橋を下りて、彼岸の大地に一歩足を踏み入れた直後のタイミングだ。視線を向けると、そこにいたのは小町と似た雰囲気を纏う一人の少女。
「珍しい……。小町さんがちゃんと仕事してる……」
「む? 人聞きの悪い事を言わないでおくれよ。あたいはいつだって実に勤勉な死神じゃないか」
「……それ本気で言ってます?」
やたら堂々としている小町に対し、少女が浮かべるのは呆れ顔である。確かに、仕事中に堂々と居眠りをしていた癖に、勤勉などと自称するのは少々無理があるだろう。この少女の反応は最もなのかも知れない。
小町と雰囲気が似ている、とは先に述べた通りであるが、その最もたる要因は少女が手に持つ大鎌であろう。
小町の物と同様、自らの背丈ほどもある大鎌。彼女はそれを、大事そうに両手で抱えている。
「まぁ、真面目に仕事をしてくれるのなら、わたしはそれで良いんですけど……。って、あれ? そちらの方って……」
そんな中。少女は進一の姿を認識した途端、何やら驚きを露わにする。動揺した様子で目をパチクリとさせると、彼女は慌てて小町へと駆け寄っていて。
「あ、あの人って亡霊じゃないですか!? ど、どうして……!? ここ、彼岸ですよね……?」
「あー、その件なんだけど……。実はちっとばかしイレギュラーな事が起きてるみたいでねぇ……」
「い、イレギュラー、ですか……?」
ポリポリと頭を掻きながらも、小町は続ける。
「まぁそういう訳だから、コイツはあたいが四季様の所まで連れて行く。お前さんは普段通り、他の霊魂達を迎えてやってくれ」
「は、はあ……。分かりました……」
それだけを言い残し、小町は進一へと目配せをして再び歩き出す。取り合えず少女へと軽い会釈をした後に、進一は小走りで小町の後へと続く事にした。
あの少女は未だ状況が飲み込めぬ様子で進一達の背中を見送っている。あの反応、やはり進一はかなり特異な状態に陥ってしまっているようだ。亡霊と幽霊の違いに関しては未だにイマイチ理解できないが、どうやら亡霊だと色々とおかしな事になるらしい。
「……さっきのあいつ、小町の知り合いか? 見た所、あいつも死神っぽかったが」
「まぁね。あたいの仕事仲間さ。普段はあの子に運んできた霊を渡して、それであたいの仕事は終わりなんだけど……。ま、今回は状況が状況だからねぇ」
歩きながらも、小町がそう説明してくれる。岡崎進一という特異な存在を彼岸まで運んでしまった手前、あの少女に説明するよりも小町が自ら閻魔への報告をしてしまった方が手っ取り早くて確実なのだろう。この少女、ずぼらな性格なのかと思っていたが、実は意外としっかりしているのだろうか。――先程の少女の口振りから察するに、どうやらサボりの常習犯であるようなのだが。
「……さて。ここだね」
「……えっ?」
ふと口にすると、小町は唐突に足を止める。
周囲を見渡すと、そこに広がるのは先程までともそう変わらない草原である。どこまでも続く花畑に、周囲を照らす柔らかな陽光。そしてその周辺にうっすらと確認できるのは、白装束を身に纏う無数の人影達。
「……ここは?」
「ん? まぁ、待機場所みたいな所だね。彼岸に運ばれた死者達は、ここで裁判の時を待つ事になるのさ。眠る事も、食事をする事も、会話をする事もなく、ね……。そうする事で、死者達は自分の死を自覚する事になるって訳」
「成る程……?」
思わず疑問形で返してしまう。正直いまいちピンと来ないが、取り合えず待機場所だという点だけを理解しておけば良いだろうか。
ぼんやりと周囲を眺めていると、小町はおもむろに踵を返した。
「さてと。取り合えず、お前さんはここで待機だね。あたいが閻魔様に話をつけてくるからさ」
「ああ……」
「……あっ、そうそう。一応言っておくけど、他の死者達に声をかけても無駄だよ? 亡霊であるお前さんと違って、幽霊達は口を利く事が出来ないからね」
他の死者とは、白装束を身に纏った彼らの事を示しているのだろう。ある者は地に座って小さく丸まり、ある者はぼんやりと空を仰ぎ、そしてある者は当てもなく同じ箇所をぐるぐると歩き回っている。成る程、確かに話を聞けるような状態ではないように思える。
進一も、近いうちに彼らと同じようになるのだろうか。今はこうしてしっかりと意識を保つ事が出来てはいるものの、いずれは亡霊としての存在を維持できなくなり――。
「それじゃ、あたいは行くよ。ま、程よく気を抜いて待ってておくれ」
そう言い残し、パタパタと手を振りつつも小町は去って行ってしまう。そんな彼女の姿をぼんやりと見送った後、進一は再び思考の渦に飲み込まれてゆく事となる。
結局何も思い出せぬまま、こうして彼岸まで来てしまったのだけれども。本当に、記憶に関する手掛かりを見つけ出す事が出来るのだろうか。小町は閻魔様とやらに信頼を寄せているようだったが――。それでも、不安に思わずにはいられない。
進一はふと他の幽霊達へと視線を向ける。彼らの中には、生前の記憶が残っているのだろうか。眠る事も、食事をする事も、そして会話をする事も出来ず。彼らは一体、何を思っているのだろうか。
(俺は……)
もしも。このまま何も思い出せぬまま、成仏する事になってしまったら。
自分は、一体――。
(どうなるんだ……?)
*
「貴方が岡崎進一様ですね? お迎えに上がりました」
小野塚小町と別れてから、どのくらい経った頃だろうか。彼岸の花畑をぼんやりと眺めていた進一のもとに現れたのは、小町とはまた別の死神の少女だった。
能天気な印象を受けた小町とは対照的に、生真面目そうな印象の死神である。纏う服装もぴっちりとしたスーツに似た衣服で、その点も動きやすそうな服を更に着崩していた小町とは違う。死神には様々な役職があると小町からも聞いていたが、この少女が就く役職は頭脳労働なのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えていた進一だったが、当の少女はあくまで業務を優先するつもりらしい。最低限の会釈を交わした後に、踵を返して進一の先導を始める。
「それでは、早速ご案内しましょう。閻魔様がお待ちです」
「あ、ああ……。分かった」
死神少女の後に続き、進一も歩き出す。
ピリピリとした緊張感。何とも背中がむず痒い。普通、仕事をする上での心構えと言えばこの少女の方が正しいのだろうが、今まで小町に先導されていただけあってどうにもこの雰囲気は落ち着かない。
というか、その小町は一体どうなったのだろうか。閻魔に話をつけに行ったのは他でもない彼女だったはずなのだが、その後は――。
「……なぁ。小町はどうなったんだ?」
「小野塚小町でしたら、四季様の命により別の役割に回っています。ですので今回は、代わりに私が貴方の案内を任されました」
「……四季様?」
「貴方を担当する閻魔様です。そして私達にとって、直属の上司に当たります」
声をかけてみると、意外と気さくに返答してくれた。
四季様、というのが今から会いに行く閻魔様の事らしい。小町曰く、ちょっぴり面倒な性格をしている人物。それだけの情報で相手がどんな人物かなんて到底判別する事は出来ないが、やはり緊張はするものである。
何せ相手は閻魔様。地獄の番人なのだ。生前の記憶がないとはいえ、流石にそんな人物と対面するのは初めての体験であろう。
(なるようになる、のか……?)
心の片隅に微かな不安感を抱えながらも、進一は黙って死神少女の後に続く。
――そして、程なくして辿り着く。草原や花畑が果てしなく広がっていたはずの彼岸に、突如として現れた人工物。
木材と石材を主にして組み立てられた、巨大な建造物だった。四方を背の高い塀で囲んでおり、その正門を抜けるとまず広がっているのは正面広場。その奥に鎮座する建物が本館なのだろうか、その様はまるで城か何かのようである。死者の魂を裁く裁判所という名目らしいが、まさかこれほど豪勢なものだったとは。どうして想像できよう。
彼岸とはまさに別世界。死者を裁く裁判所という事で地獄や冥界等とも隣接しているらしいが、こうも景観が変わるものなのだろうか。
「……岡崎様? どうかなされましたか?」
「……え? あ、いや……」
日本庭園よろしく四季折々の木々が植えられた正面広場を進んでいると、不意に少女から声をかけられる。そんなにぼんやりとしていたのだろうか。けれど進一がそうなってしまうのも、仕方がないと言える。
ある一方に目を向けると、そこにあるのは花を咲かせた桜の木。しかしまた別の一方へと目を向けると、飛び込んでくるのは葉に色を付けた銀杏の木である。春なのか、秋なのか。訳が分からない。
そして完全に季節感を無視した広場の先にあるのが、周囲を囲む塀よりも巨大な建築物。和風寄りな広場とは対照的に、あの建築物はどちらかというと洋風寄りである。これが和洋折衷というヤツなのだろうか。
環境の変化が目まぐるしすぎる。流石の進一もキャパシティオーバーである。
流石は彼岸、死後の世界だ。これ以上、常識的な思考に囚われてはいけないのかも知れない。
(訳が分からんな……)
頭の整理が終わらぬままに、進一は奥の建築物まで案内される。大きな扉を潜り抜け、長く続く廊下を進むとそこあるのはこれまた大きな扉。豪勢な装飾が施されたその扉の前に立つと、なぜだか途端に毛穴から汗が噴き出てきた。
冷や汗。扉――正確にはその奥から放たれる威圧感を肌で感じ取り、緊張してしまっているのだ。亡霊であるはずなのに、胸の奥が痛くなってきたような気がする。亡霊であるはずなのに、息が苦しくなってきたような気もする。
それ程までの威圧感。扉越しでこれなのだから、実際に対面するとどうなってしまうのだろうか。
最早疑う余地はない。閻魔様なる人物は、この先にいる。
「四季様はこの先です。では、くれぐれも粗相のないように……」
「ああ……」
ゆっくりと扉が開けられる。その間に進一は何度も深呼吸を繰り返し、息苦しい緊張感を少しずつ解していった。
どんな人物が飛び出してくるのか。記憶のない進一にはまともに想像する事も出来ないが、胸中に抱くこの畏れは本物だ。鬼が出るか蛇が出るか。そんな心持ちのまま呼吸を整えた進一は、意を決してその扉の先へと足を踏み入れる。
法廷。文字通り、死者の魂を裁く為の場所。被告人として入廷した進一は、そのまま部屋の中央まで誘導される。
一般的な裁判所とは違う。弁護人も検察官もおらず、いるのは被告人と裁判官。そしてその書記係だけ。
進一は遂に対面する。彼岸の裁判官にして、地獄の王。無慈悲にも死者を裁き、そしてその行き先を一方的に決定する絶対的な存在。
「……小町が話していたおかしな亡霊とは、貴方の事ですね?」
――しかし。
目の前に現れた閻魔様の容姿は、進一がイメージしていた強面な姿などではなく。
「私が貴方を担当する閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥです。早速裁判を始めましょう」
深碧色の髪。凛とした佇まい。青を基調とした豪勢な衣服。そして右手に持つのは悔悟の棒。
強面なんてとんでもない。若干の幼さが残る顔立ちに、艶のある白肌。座っている為に正確には判別できないが、恐らくその身長は長身な小町よりも一回り小さいくらいだろうか。
進一に生前の記憶はないが、凝り固まった“常識”は身体に刻み込まれているらしい。そんな“常識”として染みついたイメージとは、かけ離れた容姿の閻魔様。
彼女を前にした第一印象を、強いて形容するならば。
「……女子、高生?」
制服を身に纏い、日々勉学に励むような年頃の女の子。
目の前にいる閻魔様は、どう高く見積もってもその程度の年齢にしか見えなかった。
*
四季映姫・ヤマザナドゥは閻魔である。
ヤマザナドゥというのが役職名で、「楽園の閻魔」を意味する。楽園、つまりは幻想郷を担当とする閻魔であり、此岸から運ばれてくる死者達を流れ作業的に裁き続けるのが主な仕事である。十王裁判が一般的だった頃とは違い、昨今は死者の数も無尽蔵に増えてきてしまっている。故に効率性を重要視し、より多くの死者を裁けるような即決力が閻魔には求められてくるのだ。
この役職に就いてから、映姫ももう随分と長い。情に流されず、他人からの影響も受けず、ただ淡々と死者を裁き続ける。そんな日常にもとっくの昔に慣れてしまった。
いつも通りの時間に裁判官の席につき、いつも通り妥協を許さず、いつも通り死者を裁く。今日もそんな代わり映えのない日常が始まるかと思っていたが、しかしそんな想像は突然現れた一人の死神によって打ち砕かれる事となる。
小野塚小町。映姫直属の部下であり、死神一の問題児。三途の河の船頭として死者を運ぶ立場であるはずの彼女が、どうして映姫の前に現れるのか。本来の仕事をほっぽらかした件について彼女に説教をしてやりたくなったが、けれどどうやら不測の事態が起こっているらしい。説教の件は保留にして彼女から話を伺うと、成る程、確かに奇妙な事態に陥っているようだ。
亡霊なのに生前の記憶を失っており、しかも彼岸まで運ばれても尚亡霊としての姿を保ち続けている青年。あまりにも奇妙な存在だ。
けれど幻想郷の三途の河に辿り着いた以上、彼もまた四季映姫の担当という事となる。例え記憶がなかろうが、亡霊としての姿を保っていようが関係ない。誰であろうと等しく生前の罪を測り、誰であろうと平等に審判を下す。それこそが四季映姫の主義であり、ヤマザナドゥとしての誇りなのである。
「……小町が話していたおかしな亡霊とは、貴方の事ですね?」
入廷してきた一人の青年へと向けて、映姫はそう声をかける。
小町から話を聞いていた通り、確かに亡霊である。歳は20歳前後くらいだろうか。その身に纏う服装は幻想郷ではあまり見かけないデザインであり、恐らく小町の推測通り外来人とみて間違いないだろう。
通常、亡霊は死亡する直前の姿のまま顕界に縛り付けられてしまう場合が多い。服装が外の世界の物のままという事は、やはり幻想入りした直後に妖怪等に殺されたと考えるのが妥当か。
だけれども、そうだとしても用心が必要である事に変わりはない。重要なのは、なぜ彼が未だ亡霊の姿を保っていられるのか。これに尽きる。
「私が貴方を担当する閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥです。早速裁判を始めましょう」
奇妙な状況ではあるが、それでも映姫のやるべき事は変わらない。浄玻璃の鏡を使えば、生前のあらゆる行いが映姫の前では筒抜けになるのだ。記憶があろうがなかろうが、そんな事は関係ない。
(……いずれにせよ、少なくとも彼の素性は知れるはず)
生前に犯した罪の重みを測り、そしてその結果をもとに死者の行き先を決定する。そのプロセスに何ら変更はない。
まだまだ裁くべき死者は残っているのだ。兎にも角にも、まずは浄玻璃の鏡を――。
「……女子、高生?」
――使おうとした、その瞬間。青年――岡崎進一がぼそりと呟いた言葉が、映姫の耳に流れ込んでくる。ちらりと彼の目を見ると、何やら訝し気な眼差しをこちらに向けていた。
女子高生。その単語の意味は知っている。学校――幻想郷でいう所の寺小屋に通う少女の事を示した言葉だったはずだ。
女子高生と言うと、確か15歳から18歳程度の子供に対して使われる単語だったはず。確かに映姫の容姿は人間から見るとその程度にしか思えないのかも知れないが、だから何だと言うのだろうか。
岡崎進一から向けられるこの視線。妙に精神を逆撫でされているような気がするのは気の所為か。
「……何です?」
「え? いや……」
まじまじと映姫の姿を確認し、腕を組んで考え込むような仕草を見せる進一。程なくして、彼は破顔すると、
「……ちょっとイメージと違ってたから、びっくりしちまっただけだ。まさか女だとは思わなかった」
「ほう……?」
――成る程、成る程。つまりこの青年、相手が女だと知るや否や一気に気を抜いたという事か。
心外である。全くもって、これ以上にないくらいに心外である。死者を裁き、その行き先を決定する閻魔という存在は、言わば地獄の顔のようなものだ。故にそれ相応の威厳を保ち、ある種の恐怖の象徴としてのイメージを損なってはいけない。是非曲直庁の顔に泥を塗る事となってしまう。
当然ながら、映姫もそれについてはしっかりと把握している。非番だろうが何だろうかひと時も気を抜いた事だってなかったし、どんな時でも妥協をしたつもりもなかった。ヤマザナドゥとして、その役職に誇りを持って日々裁判を続けてきたつもりなのだ。
「……私が女だと、何か問題でも?」
「いや……。別に、そういう訳じゃないが……」
それなのに、どうだろう。この青年は、相手が女だというだけで軟派した態度を取ろうとしている。しかも映姫が精々十代後半の少女にしか見えない容姿をしているからといって、自分の方が上の立場にいるかのような勘違いさえも起こしている。
ああ、成る程、歳下ね。それで? どんな働きぶりを見せてくれるんだ?
きっと、内心ではそう思って映姫を小馬鹿にしているに違いない。
「成る程……。つまり貴方は、私の事を見下しているという事ですか……。女だから、どうせ大した事ないだろう、と……。そう思っている訳ですね……?」
「……へ? いや、別にそんな事は」
「黙りなさい……! 私に嘘は通用しませんよ!」
バンッと机をぶっ叩いて、映姫は思わず立ち上がる。
「ば、馬鹿にしないで下さい! 相手が女だとか、歳下のように見えるとか、そんな事は関係ないでしょう!? 私はこれでも閻魔として、一切合切妥協せずにその役割を全うしてきたつもりです! それなのに……一目見ただけの印象で勝手に人格を決めつけるとは……!」
「い、いや、だから別にそんな事は一言も」
「ふ、ふふ……どうやらお説教が必要なようですね……! そこに正座しなさい! 判決を下す前に、この私が貴方の性根を叩き直して差し上げましょう!」
「……なぜそうなる?」
どうやら進一は面食らっているようだが、そんな事など映姫には関係ない。寧ろふざけた態度を取ったのはあちらの方なのだ。ここは閻魔として、その心構えをしっかりと矯正してやらねばなるまい。
「いいですか? そう、貴方は初対面の女性に対する態度がなっていません! そもそも今は私が裁判官で、貴方が被告人……。その立場をしっかりと自覚して、それ相応の心構えで裁判に臨むべきだとは思いませんか?」
「……別にあんたを小馬鹿にしたつもりはないんだが」
「口答えは禁止です! 私が女だと知るや否や、明らかに貴方は態度を変えたでしょう!? 相手が女であるのなら態度を大きくしても良いとでも考えているのでしょうが、それは間違っています!」
どうやらこの青年、ここまで言っても自分の立場をイマイチ理解出来ていないらしい。
何て図々しい男なんだ。まさか閻魔と対面しているという事を忘れているのではあるまいか。ここにきても尚弁解を試みようとするとは、肝が据わっているというか何と言うか。
「口では何も言わずとも、態度だけでもある程度相手の心情は分かるものです! 百歩譲ってあれが無意識であったとしても、向けられた相手からしてみればそんな事は関係ないのですよ! あのような態度を向けられて、傷つく者だっているのです……! それを貴方はもっと心に留めておくべきなのです!」
「ああ……」
「それと、貴方の言葉遣いに関してですが……!」
「あ、あのー……四季様? お取込み中のところ大変恐縮なのですが……」
お説教がますますヒートアップしそうになっていた、その時。おずおずと言った様子で、書記係の死神が映姫に声をかけてくる。視線を向けると、彼女は何やら苦笑いを浮かべていて。
「取り合えず、彼の罪だけでも測っておきませんか? 裁くべき死者は彼だけではない訳ですし、時間的にもそろそろ限界かと……」
「む、むぅ……。確かに、そうでしたね……」
いけない、そうだった。映姫とした事が、興奮してすっかりその事を失念する所だった。
先も述べた通り、閻魔に求められるのは優れた即決力。死者の数も無尽蔵に増えてきてしまっている今日この頃、一人に対してそこまで多くの時間をかけてはいけない。
裁くべき死者はまだ沢山いる。この青年に関しては言いたい事が山ほどあるが、それはあくまで映姫の私情である。閻魔本来の仕事よりも優先しては本末転倒。だ
「仕方ありませんね……。貴方への説教に関しては、一旦保留にしておきます。今は裁判に専念しましょう」
「保留って……まだやるつもりなのか?」
「当たり前です! 私はまだまだ納得していませんからね!」
こんな中途半端な所で終わらせはしない。彼の行き先が冥界だろうが地獄だろうが、後で個人的に説教の続きをしてやる事にしよう。
取り合えず気持ちを切り替えて、映姫は浄玻璃の鏡を取り出す。一見すると少しばかり豪勢な手鏡のようにも思えるが、これでも立派な宝器の一つ。この鏡をもってすれば、生前の罪など一瞬で丸わかりである。
「……それが浄玻璃の鏡ってヤツか」
「ええ。これで貴方の生前を見極めます」
さて、一体どんな情報が飛び出してくる事やら。記憶喪失だか何だか知らないが、きっと不誠実な生前の姿が映し出される事だろう。あの態度から察するに、常日頃から他人をからかって悦に入るような人物だったに違いない。
洗い浚い暴いてやる。閻魔の前では嘘をついては無意味であるとはよく聞く話であるが、その最もたる所以はこの浄玻璃の鏡にあるだろう。生を受けてから死に至るまで、その一部始終を余す事なく曝け出させる事の出来る宝器。嘘をついているかどうかなんて、一発でバレる。
「生前における貴方の善行と罪、確認させていただきます」
映姫は浄玻璃の鏡を掲げる。進一の姿を投影した浄玻璃の鏡は淡い光を放ち始め、法廷全体を優しい光で包んでいった。
浄玻璃の鏡に映し出された生前を確認する事ができるのは、持ち主である閻魔だけだ。隣にいる書記係の死神も、当然目の前にいるこの青年も。それを確認する事は出来ない。
映姫は鏡の中をまじまじと覗き込む。進一が生前に積み重ねた善行、そして罪を見極めて判決を下す為に。彼の一生、その一部始終を――。
「……ん?」
――確認しようと、意気込んでいたのだけれども。
「……あ、れ?」
鏡を覗き込んだ映姫の口から、思わず間の抜けた声が漏れ出す。いつも通りの手順を踏み、そしていつも通りに生前の確認を行う。その後は死者の善行と罪を閻魔独自の尺度で測り、地獄行きか否かの判決を下す事になる――はずだった。
しかし。一体なんだ、これは。地獄行きか否かだとか、善行と罪を閻魔独自の尺度で測るだとか。最早、それ以前の問題。
「……四季様? どうかなされましたか?」
「え、えっと……」
書記係の死神に対し生返事を返し、映姫はもう一度浄玻璃の鏡を刮目する。けれど結果は同じ。
そんな訳がないだろうと強く自分に言い聞かせ、今度は鏡を両手で持ってシャカシャカと上下に振るってみる。けれどやっぱり結果は同じ。
いやいやそんな馬鹿な事がある訳ないと、もう一度だけ鏡を掲げてみる。けれど今度は、あの光すらも出てこない。
「…………っ」
「……何だ? どうかしたのか?」
あからさまに顔を顰めた映姫の様子を目の当たりにして、当の進一も不安気な声でそう問うてくる。閻魔として取るべきではない態度ではあると分かっているのだが、けれど流石の映姫もそこまで気を回す事が出来ない。
四季映姫は『白黒はっきりつける程度の能力』を持っている。何者にも左右されず、どんな状況にも流されず。最善で完全な判断を常に下す事の出来る『能力』。閻魔としてこれ以上にないくらいに優秀な能力であるが、今回ばかりはそれが全く作用していない。
だって、あまりにもおかしいじゃないか。浄玻璃の鏡をもってすれば、生前のあらゆる行いを隅から隅まで確認する事が出来るはずなのに。
それなのに、どうして。
「どうして……何も、映らないのですか……?」
浄玻璃の鏡。覗き込むと、その鏡面に映るのは酷く動揺した様子の映姫の姿のみ。
生前のあらゆる行いを暴き出すはずの宝器は、ただ単なる“鏡”としての機能しか発揮していなかった。
映姫と言えば花映塚では小町と同じくらいの長身キャラとなっているそうですが、二次創作だと幼女体型として描かれる場合が多いですよね。
本作ではどちらにしようか散々迷った結果、間くらいを取る事にしました。