桜花妖々録   作:秋風とも

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第56話「幻想入り」

 

 そこは、河の畔だった。

 肌を撫でる生暖かい微風が、春先を連想させる。深い霧に覆われた周囲はどんよりと薄暗く、昼夜の判別すらもまるでままならない有様である。それでも目の前の河を認識できるのは、深い霧が控えめに輝いている為だからだろうか。けれどもあまり遠くまで見渡せない事に変わりはなく、少なくとも河幅を目測する事は出来ない。

 足元に敷き詰められているのは、真っ白な玉砂利。それ以外に確認出来る物と言えば、苔むした尖形の岩くらいである。その何とも異世界じみた光景を前にすれば、誰であろうと心を掌握されてしまいそうだ。目の前に存在しているはずなのに、なぜだか不思議と実感が湧いてこない。そんな神秘的な風景。

 

「……。は……?」

 

 気が付くと、彼はそこにいた。

 周囲に漂うのは糸を張ったような静寂。微風を肌で感じ取る事が出来ているはずなのに、その風音すら耳に入ってこない。河の流れも至極静かなもので、小さい波の一つも確認する事が出来ない。ただ、底が見えぬ程の深い溝に水が溜まっているだけのような。そんな錯覚すらも覚えてしまうような光景である。

 

「……は?」

 

 再び漏らす疑問の声。自らが立たされている状況すらも飲み込む事が出来ず、青年はただ周囲の様子を伺う事しかできない。それでも何とか思考を働かせて、無理矢理にでも言葉を絞り出してみたのだけれども。

 

「……どこだよ、ここ」

 

 出てきたのは至極全うな疑問。それもそうだろう。

 全くもって、見覚えのない光景なのである。敷き詰められた玉砂利も、苔むした尖形の岩も、そして向こう岸すらの認識できぬこの河も。幾ら記憶を探ろうとも、この光景に心当たりなど微塵もない。

 いや、そもそも本当にこれは河なのだろうか。濃霧の所為で幅を測る事ができず、しかも流れすらも確認できない。実は池か湖である可能性だってあるではないか。いや、だからと言って心当たりがない事に変わりはないのだけれど。

 

 青年は記憶を探る。どうして自分は、こんな所にいるのだろうか。どうやって自分は、こんな所まで足を運んだのだろうか。それもたった一人で。何らかの心当たりを見つけるべく、必死になって記憶を探ってみるのだけれど。

 

「…………っ」

 

 何だろう、この感覚。まるで頭の中に、黒い靄がかかってしまっているような。思考を動かし、記憶を探り、暗闇の中を必死にもがき続けているのだけれども。しかし結局、何も手に掴む事ができない。幾ら思考を働かせようとも、手掛かりすらも見つける事ができない。

 ――いや、そもそもこれは。

 欠落、しているのだろうか?

 

「……取り合えず」

 

 焦燥感。それを覚え始めた辺りで、青年は息をつく。

 

「……歩いてみるか」

 

 考えていても埒が明かない。周囲の探索をしてみれば、見覚えのある場所に辿り着けるかも知れないじゃないか。だとすれば今は行動すべきだ。

 そう自分に言い聞かせて思考を打ち切ると、青年は河に沿って歩き出す。どちらが河上でどちらが河下なのかすらも判別する事が出来ないが、取り合えずは向かって左側に行ってみる事にする。何の心当たりもない以上、闇雲に歩き出す事しか出来なかった。

 

 じゃり、じゃり、と。玉砂利を踏み締める音が響く。体調は悪くないし、今のところ疲労感も特に覚えてはいない。自分がなぜあんな所にいたのか、ますます疑問に思えてくる程だ。服装自体も普段と何ら変わらぬ様子で、少なくとも何か特別な事をしていた訳でもないはず。まさかここまで濃霧が酷い所でアウトドアと洒落込んでいた訳でもないだろうし、だとするのならば――。

 

「はぁ……」

 

 思わず一人嘆息する。平静を装ってはいるものの、内心では不安感がひしひしと膨れ上がってきている。気が付いたら見覚えのない河の畔に放り出されていて、それで状況を呑み込めと言う方が無理な話だ。

 

(何なんだよ……)

 

 訳が分からない。夢遊病にでもかかっていたかのような心地だ。

 一体何がどうなって、こんな事になっているのか。そもそもここはどういった場所なのか。彼が一人で推測した所で、答えなんて出てきそうにもない。

 せめて。

 

(誰か……)

 

 誰か、人に会う事が出来れば――。

 

「あっ……」

 

 そう思った矢先。抜群のタイミングで、彼の視覚が人影のようなものを捉えていた。

 濃霧の先。傾斜がかった玉砂利の上で、ごろんと寝転ぶ一人の影が辛うじて確認できる。ここからではどんな人物かまでは判別する事は出来ないが、その確認は後回しだ。

 ここにきて初めて認識する自分以外の人影。状況がまるで飲み込めぬ彼にとって、その存在はまさに一筋の希望である。一刻も早く状況を把握する為にも、あの人物から話を伺うべきであろう。

 

「よし……」

 

 思い立ったが吉日。一人小さく頷いた彼は、小走りでその人影のもとへと向かってゆく。じゃりじゃりと玉砂利を踏みつけ、漂う濃霧を振り払って。そうして彼が辿り着いたその場所に寝転んでいたのは、鮮やかな赤髪をおさげとして纏めた一人の少女だった。

 

「なっ……」

 

 そして()()が視界に飛び込んできた途端、青年は驚倒する事になる。

 少女にしては長身である。スヤスヤと寝息を立てる少女はどちらかと言うと凛々し気な印象を受ける面持ちをしており、歳は十代後半から二十歳くらいだろうか。水色を基調とした衣を纏うその体格は女性らしく起伏に富んでいるようで、見てくれに関しては間違いなく美人の部類に入るだろう。

 けれど青年が驚倒したのは、その少女の姿を目撃したからではない。問題なのは、少女の傍ら。突き出た岩に立てかけるようにして置かれている、あまりにも巨大な“刃物”。

 

「……これって」

 

 少女の背丈ほどもある長い柄。そしてその先から強く主張するかのように伸びている、三日月状の刃。

 鎌。それも農作業に用いられるような農具などではない。

 巨大すぎる柄。そして巨大すぎる刀身。岩に立てかけられているその()()は、明らかに武器として利用する為の物で。

 

「こいつの……所有物、なのか……?」

 

 コスプレ? いや、違うだろう。確かに少女の服装はこの場に似つかわしくない物ではあるが、仮にそうだったとしても不審である事に変わりはない。玉砂利が敷き詰められた濃霧が酷い河の畔で、死神か何かのキャラクターに扮した少女がスヤスヤと昼寝をしている。ダメだ、どう考えてもおかしな要素が多すぎる。

 いや、だからと言って彼女が()()であると結論づけるのも、些か度が過ぎているようにも思える。正真正銘の“死神”か、それとも思考回路が少々特殊な“変人”か。どちらにせよ、幾ら彼でも声をかけるのは躊躇われる所である。

 

「……どうするかな」

 

 とは言っても、折角見つけた状況を把握する為の手掛かりである。このままフラフラと河の畔を散策していたとしても、彼が助かるという保証はどこにもないだろう。

 だとするのならば。

 

「……まったく」

 

 彼が取るべき行動は、一つしかない。

 

「……いつまでもビクついてられないよな」

 

 膨れ上がる不安感を無理矢理抑え込みつつも、青年は独りごちる。息を吸って、吐き出して。深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせた後に。

 意を決した青年は。

 

「……おい」

 

 少女に話を聞いてみる事にした。

 

 

 *

 

 

 小野塚小町は死神である。

 死神とは、死者の魂を持ち去ってゆく存在。そんなイメージが広く定着しているが、けれど実際はそれだけが死神の仕事という訳でもない。寿命の管理や地獄の受付嬢などといった事務的な役割に加え、裁判における書記係や閻魔様の側近など。魂を持ち去るなどという“死の象徴”というよりも、どちらかと言えば閻魔の補佐的な役割に回る死神の方が多かったりする。要するに、単なる労働要因なのだ。

 

 小町はその中でも『三途の河の船頭』という役割に就いているが、仕事の中でも肉体労働に当たる為かあまり人気はよろしくない。小町からしてみれば、ぎっちぎちのスケジュールに固められた他の仕事の方がよっぽど面倒くさいと思うのだが――。けれど死神達は意外とインドア派が多いようだ。出来る事ならば肉体労働だけは避けたいらしい。

 

(ま、他の死神達の事なんかどうでもいいけどねぇ)

 

 他の死神達と比べても少々ズレているという事に関しては、小町本人も薄々自覚している。けれど自覚をした上で、彼女は今日もこうしてサボタージュと洒落込もうとしているのである。

 近くの岩に愛用に鎌を立てかけ、斜面の上にごろりと寝転んで目を瞑る。折角の初春日和なのだ。昼寝をしなければ勿体ないじゃないか。真面目に仕事をしている場合ではない。

 

(うんうん。また今度頑張ればいいよねぇ……)

 

 ――などという等閑な思想を抱きつつも、小町は夢の中へと意識を手放す事にした。

 

 小野塚小町のサボり癖は生来のものだ。三途の河の船頭という役割を与えられているのにも関わらず、彼女がその仕事を真面目に熟す事など期待するだけ無駄である。時にこうして昼寝をし、時にフラフラと遊びに出かけ。そのうえ上司である映姫の説教を受けても尚、治る気配がないのだから筋金入りだ。

 当然ながら、死神の中の問題児として彼女の存在は広く知れ渡ってしまっている。中々に不名誉な状況ではあるのだけれど、しかし当の本人が全く気にしていないのだから大物である。

 

 おそらく彼女のサボり癖は、天地がひっくり返りでもしない限り治る事はないだろう。それでも匙を投げず彼女の更生を直向きに試みる四季映姫・ヤマザナドゥは、ひょっとしたらある意味最も強靭な精神の持ち主なのかも知れない。

 

「……おい」

 

 小町が昼寝を初めてから十数分。不意に誰かに声をかけられて、小町の意識が夢の中から引っ張り出される。まどろみの中、眉を顰めつつも小町はぼんやりと思考を動かし始めた。

 聞き覚えのない声だ。少なくとも映姫などではない。そもそも声の高さから考えて、明らかに男じゃないか。性別の時点で違う。

 

「おい、起きてくれ。あんたに聞きたい事があるんだ」

(んむぅ……)

 

 だとすると一体誰だ? こんな風に声をかけてくる男の知り合いなんて、小町にはいただろうか。

 そもそも場所が場所である。こんな所に足を運ぶ人物など、それこそ死者以外では死神くらいしか思い浮かばない。

 

「……ったく。ここまでぐっすりと眠れるもんなのか?」

(うぅん……)

 

 男の死神。確かに、いない訳でもないのだけれども――。

 けれどこんな声の死神など、小町の知り合いの中にいただろうか。

 

「はぁ……」

(…………っ)

 

 いや。仮に知り合いでなくとも、ひょっとしたら仕事中にこんな所で昼寝をする小町を見かねて、思わず声をかけてしまったのかも知れない。死神にだって真面目な連中は多い。あからさまに不真面目な小町の様子を見て、業を煮やしてしまってもおかしくはないだろう。

 それならばやはり起きた方がいいのだろうか。例え相手がどうであれ、声をかけられているのにいつまでも眠りっぱなしという訳にはいくまい。微睡の中である故に上手く思考が働かないが、取り合えずは早いところ意識を引っ張り出して――。

 

「……おい」

「……ッ!?」

 

 ――と。ぼんやりと小町の意識が覚醒しつつあった、その時。再び流れ込んできた青年の声と共に、小町の頬に軽い圧迫感が襲いかかってきた。

 ぐにっと、右頬に何かが押し付けられるかのような感覚。痛みはない。けれどどこかむず痒いような気もする。幾らそれなりにぐっすりと眠っていたとはいえ、その鋭い感覚は小町の意識を強制的に覚醒させるのに十分過ぎる程の威力を誇っていて。

 

「きゃん!?」

 

 思わず素っ頓狂な声を上げ、小町は飛び起きてしまった。

 死神とは言え小町も女。急に頬をつつかれて、驚くなという方が無理な話だ。反射的に飛び退いた後に慌てて振り返ると、さっきから小町に声をかけていたであろう青年の姿が目に入った。

 

「やっと起きたか」

「な、なな……!」

 

 結論から先に言えば、彼は死神ではなかった。死神が持つ特有の“気配”も感じられないし、象徴である大鎌だって担いでいない。ついでに言えば服装だってあまり見かけないものだ。

 けれど今はそんな事なんて小町とってはどうでもいい。重要なのは、この男がいきなり小町の頬をつついてきたという事実のみである。

 

「な、何するんだい! いきなり頬をつつくなんてビックリするじゃないか!」

「……別にいきなりつついた訳じゃない。俺は何度も声をかけたじゃないか。それでも起きなかったのはあんたの方だろう」

 

 咎めてみるが、けれど青年の反応は至極クールなものである。

 まぁ、確かに。こんな所で仕事をサボって昼寝をしていた小町にだって、多少なりとも非はあるだろう。けれどだからと言って、彼が取った行動の正当性を認める事はできない。

 

「そ、それにしたって、いきなり女の頬をつつくかい普通? お前さん男だろう……?」

「うん?」

 

 ジト目で睨みつけつつもそう指摘すると、何やら青年は考え込むような仕草を見せ始める。

 視線を逸らし、思案顔を浮かべ、人差し指の背を顎に添えて。それから十秒程の思案を経た後に、彼はおもむろに小町へと向き直ると、

 

「……確かに、少しデリカシーに欠けていたかも知れない。悪かった」

「えっ……? い、いや、そう素直に謝られると逆に何か調子が狂うような……」

 

 三十度ほど腰を曲げてお辞儀をしつつも、青年は謝罪の言葉を述べる。やたら真面目な面持ちで頭を下げる彼の姿を見て、小町は思わずあっけらかんとしてしまった。

 ――この青年、実はちょっぴり天然なのだろうか。

 

「ま、まぁいいや……。うん……」

 

 実を言うと、別に頬をつつかれた事に関してはそれほど気にしている訳でもない。この青年に食って掛かった原因に関しては、ぶっちゃけ単なる狼狽である。

 本当にちょっぴり驚いただけだ。高々頬をつつかれた程度でいつまでもグチグチと根に持ち続ける程、小町は陰険ではない。――まぁ、例えば胸を鷲掴みにでもされたのならば話は別だが。

 

「えっと……それで? あたいに何か用かい?」

「……ああ、そうだ。あんたに聞きたい事がある」

「……聞きたい事?」

 

 話を聞きつつも、小町は青年を観察する。

 死神ではない事は既に確認している。だとすれば彼は一体どんな存在なのだろうか。

 少女にしては長身な小町よりもかやや高いくらいの身長。それなりに整った顔立ち。そして幻想郷ではあまり見かけない服装。所謂『外来人』というヤツなのだろうか。

 そして、何より――。

 

(あぁ……。そういう事)

 

 彼から感じ取る事の出来る、死神達とはまた違った独特の“気配”。この感覚には今まで何度も直面している。

 一人で勝手に納得しつつも、小町は青年の表情を覗き込んだ。

 

「へぇ……。お前さん、亡霊なのかい」

「……亡霊? 何の事だ?」

 

 首を傾げつつも、青年は小町へとそう聞き返してくる。成る程、大凡の状況は把握した。

 

「あー……。そういうパターンね……」

 

 これも別に珍しいケースではない。寧ろ十分にありふれている程である。彼が外来人ならば尚更だ。

 しかし幸いにもここはあの世とこの世の境界線。認識できていないのならば、認識させてしまえば後はすぐに解決である。これも死神としての仕事だ。しっかりと、全うしなければならない。

 

「十中八九、ここがどこなのか教えて欲しいんだろう? お前さんの聞きたい事ってのは」

「……! ああ、話が早いな。だったら教えてくれないか? 気が付いたらこんな所で、何が何だか……」

 

 未だに状況が飲み込めていない様子の青年。混乱しているのだろう。

 取り合えずは青年の疑問に答える事が先決だ。急く必要はない。

 

「ここはね、三途の河だよ。言わずと知れた、彼岸と此岸を分かつ大河。この河を渡っちまえば、その先はもうあの世って訳さ」

「……は?」

 

 こいつは何を言っているんだろう。青年が浮かべるのは、そう言いたげな面持ちである。

 まぁ、無理もない。今の説明だけで簡単に受け入れられるのなら、彼は()()()()()にはなっていないだろう。当然の反応だ。

 

「そうだねぇ……。じゃあもう、はっきり言っちゃうけど」

 

 愕然とした表情。強まり始める不安の色。失われていく言葉。それでも尚、彼は未だに状況を呑み込めてはいない。

 けれど小町は、そんな青年へと向けて一つの真実を突き付ける。

 

「お前さん……」

 

 それは、彼にとってあまりにも残酷な真実。

 

 

「もう、死んでるんだよ」

 

 

 文字通り、死の宣告だった。

 

 

 *

 

 

「……は?」

 

 さっきから、何度この反応を繰り返しただろう。何度この感覚を味わったのだろうか。

 愕然と困惑を繰り返し、頭の中は既にぐちゃぐちゃだ。ここは一体どこなのか。自分はどうなったのか。なぜこんな所にいるのか。そんな青年の疑問に対し、目の前にいるこの少女はただの一言で言い返した。

 

 もう、お前は死んでいるのだと。既にお前は、この世に生きる存在ではないのだと。彼女は、そんな思いを籠めた眼差しできっぱりと宣告していて。

 

「なっ……」

 

 けれど彼だってそう単純じゃない。いきなりそんな事を言われたって、信じられる訳がないじゃないか。納得なんて、出来る訳がないじゃないか。

 死んだ? 誰が? 自分が? 馬鹿な。

 

「何を、言ってるんだ、あんたは……?」

「信じられない? まぁ、そうだよねぇ……そりゃ普通の反応だ。けれどお前さんが信じようと信じまいと、その事実は変わらないのさ」

 

 そう口にしつつも、彼女は立て掛けられていた大鎌を手に取る。そしてそれを肩に担いで、仰々し気な雰囲気を醸し出して。

 けれど彼女は、薄く笑う。まるで青年の心を宥めるかのように。笑みを浮かべて、そして再び口を開く。

 

「お前さんは死んだ。死神であるあたいがそう言ってるんだ。間違いない」

「死神、だと……?」

 

 何を言ってるんだ、コイツは。とんだ電波女じゃないか。

 ――などと吐き捨てるのは簡単だ。けれどこの少女が口にした言葉一つ一つに、ずっしりとした重みがあるようにも感じられる。コイツは決してふざけている訳でも、痛い妄想を吐き出している訳でもない。

 それは本能的な知覚。死神を自称するこの少女の言葉を、決して軽視してはいけない。無視するなどは以ての外。そんな、あまりにも漠然とした感覚が、反射的に青年の中を走り抜けていて。

 

「俺、は……」

 

 青年は視線を落とす。震える瞳で掌を見ると、確かにそこには血が通っているような感覚を覚える事が出来る。握って、そして開いて。また握って、そしてまた開く。その一連の動作には不自由な要素など何一つとして確認できないし、特に奇妙な感覚を覚える事もない。

 どこからどう見ても、自分はただの人間だ。正真正銘、どこにでもいる普通の人間のはずなのだ。

 それなのに。

 

「亡霊、なのか……?」

「そう。お前さんは亡霊さ」

 

 死神少女にそう言われると、確かにそうであるような気がしてくる。自分は既に死んでいて、そして目の前にあるのは三途の河で。こうして亡霊として姿を保ってはいるものの、こうして河の畔まで辿り着いてしまった。

 顕界の終着点まで、流れ着いてしまったのだ。

 

「……そうか」

 

 込み上げてくるのは諦めにも似た感情。今の今まで胸中は困惑に支配されていたはずなのに、けれど不思議とその事実を受け入れ始めている。自らが立たされている状況を、飲み込み始めている。

 彼は死んだ。そしてこれから、あの河を渡って彼岸へと向かう事になる。

 

「俺は、死んだのか」

 

 それは仕方のない事だ。誰しも抗う事など出来ない、一つの摂理。

 故に受け入れるしかない。例え納得できずとも、例え理不尽だろうとも。それこそが絶対的なルールなのだから。外れる事は許されない。

 

「まぁ……仕方ないよな」

「そうそう。仕方ない仕方ない」

 

 だから。

 彼は、これから――。

 

「……」

「……」

 

 ――これから。

 どうなるのだろう?

 

「…………」

「…………」

「……えっ? ちょ、ちょっと待って?」

「……何だ?」

 

 死神少女の表情に何やら困惑の色が出始める。目を細め、腕を組み、そして訝し気な視線を向け始めて。腰を低くしてずいっと一歩前に出ると、青年の表情を覗き込む。

 

「……それだけ?」

「……は?」

「い、いや、だから……。もっとこう、別の反応があるべきと言うか何と言うか……」

 

 何とも回りくどい口振りだ。言いたい事があるのなら、はっきりと言うべきだと思うのだが。

 相も変わらず困惑をしたままの表情で、死神少女は尋ねてくる。

 

「えっと……まず、お前さんは亡霊だ。それは分かる?」

「ああ。それはあんたから説明された」

「おーけー……じゃあ、それは良し。で、亡霊って事は、お前さんはもう死んでるって事になるんだけど……それも分かるかい?」

「ああ。そうらしいな。まぁ、死んじまったもんは仕方ないんじゃないか?」

「そ、そう! それそれ! それがおかしいじゃないか!!」

「うおっ……!?」

 

 少女が急に声を荒げた。それなりに近い距離でいきなり大声を上げられては、流石の青年も驚倒せざるを得ない。

 一歩身を引き、彼女から距離を取って。けれど当の死神少女は、動揺をますます強めている様子で。

 

「お前さんは自分の死を受け入れた……! それなのにどうして亡霊のままなんだい!?」

「どうしてって……。それはおかしい事なのか?」

「お、おかしいじゃないか! いいかい、そもそも亡霊ってのは……!」

 

 曰く。亡霊は大きく二種類に分類する事が出来るらしい。この世に強すぎる未練を残してしまっている者、そしてそもそも自らの死に気付いていない者だ。

 未練とは、例えば誰かに対する強すぎる怨みだとか、或いは大切な人に対する強すぎる心労だとか。そういった類のものである。死後に亡霊になってしまう原因の内もっとも一般的なケースらしいが、生憎彼は未練などというものに心当たりはない。だとすると、この場合彼は自らの死に気付いていないというケースに当たる事になる訳だが――。

 

 自らの死に気付いていないという事は、自らの死に気付いてしまえば亡霊としての存在理由を失う。つまるところ一つの魂に還る事になるはずだ。

 けれど、どうだろう。青年は死に気付く所か受け入れる事さえもしてしまったのに、未だにこうして亡霊として存在している。そのうえ未練が欠片もないのだから、そもそも亡霊としての定義にさえも逆らっている事になるじゃないか。

 

「……確かに、それはおかしいかも知れないな」

「だろう? いや、まぁ実は似たような例がない訳でもないんだけど……」

 

 そこまで口にした所で、死神少女がピクリと眉を吊り上げる。目を逸らし、腕を組み。そして浮かべるのは思案顔だ。

 何かに気付いたのだろうか。前例がない訳でもない、などというニュアンスの言葉を口にしたような気もしたが――。

 

 程なくして、彼女は再び視線を戻す。

 

「あのさ。お前さん、未練に関しては心当たりないんだよね?」

「……ああ。そうだな」

「……じゃあ聞くけど」

 

 いつになく物々しい雰囲気。先程までの柔らかい表情はどこへやら。青年へと詰め寄る死神少女が浮かべるのは、まさに鬼気迫る表情で。

 

「……お前さん、生前の事を覚えているかい?」

「……えっ?」

 

 ――いきなり何を聞き出すのだろう、この少女は。

 

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だよ。覚えているなら、是非あたいに教えて欲しいんだけど」

 

 訳が分からない。そんな事を知って、一体何が分かるというのだろうか。

 けれど少女の浮かべる表情は相も変わらず真剣なものだ。適当にあしらう訳にもいかないだろう。

 

「……仕方ないな」

 

 まぁ、生前の事を説明する事くらいなら別に問題はない。特にバレたらヤバイような悪行を積んできた覚えもないし、別に話してしまっても構わないだろう。

 そんな楽観的な思考のまま、青年は自らの記憶を探り始める。

 

「生前は」

 

 そう。

 生前の、記憶を。

 

「俺は――」

 

 記憶を。

 探ろうとしたはずなのに。

 

「――あ、れ……?」

 

 ゾクリと、全身の毛穴が粟立つような感覚を覚える。

 背筋を走り抜ける悪寒。胸の奥を雑巾みたいに絞られるような感覚。急激に身体全体が小刻みに震え始めて、息をするのさえも忘れそうになって。そんな状態の彼の胸中を支配するのは、焦燥と困窮。今の今まで装い続けていた平静が、音を立てて崩れ始めてしまっていて。

 

「ちょ、ちょっと……待ってくれ……!」

 

 青年は思わず頭を押さえる。ジワジワと、しかし確実に強まってゆく焦燥感が、ますます彼の頭の中をかき乱してゆく。記憶の中に存在するのは死神を自称する少女の姿と、そして三途の河。けれど、それより前は? こうして、三途の河まで辿り着く前は――。

 

「だ、大丈夫かい?」

「あ、ああ……大丈夫だ。今は、ちょっと……混乱、してて……。急に、死んだなんて言われたから、俺は……」

 

 殆ど意識を傾けずにそんな誤魔化しを口にするが、当然ながらあまりにも支離滅裂だ。

 青年の頬を、一筋の冷や汗が流れ落ちる。べっとりと絡み付くような生温い感覚が、何とも不快に思えてくる。乱暴に頬を拭いつつも必死になって思考を働かせるが、けれど何度試みても結果は同じ。

 

「俺、は……」

 

 再び掌へと視線を落とす。はっきりと認識できる程に、それは小刻みに震えていて。

 

「……誰、なんだ……?」

 

 消え入るように、彼は呟く。

 

「俺は……!」

 

 そして無意識の内に、言葉が口から流れ出てくる。

 

「一体、何なんだ……!?」

 

 分からない。何も考えられなくなったとか、頭の中が真っ白になったとか。そんな生易しいものなのではない。

 彼の頭の中は、そもそも()()()()真っ暗だったのだ。必死になって思考を動かし、必死になって記憶を探って。けれどその先にあるのは、あまりにも深く濃い靄のみ。もがこうとも、抗おうとも、その靄を振り払う事が出来ない。幾ら手を伸ばそうとも、何も掴む事が出来ない。

 

 そう。

 何も、思い出す事ができない。

 

「ちょ、ちょっと……! 本当に大丈夫かい? すっごく顔色悪いみたいだけど……」

「お、俺……俺は……」

 

 亡霊なのに顔色が悪いもクソもあるのだろうか――などという呑気な思考には流石に意識を傾けられそうにない。

 頭を抱えて蹲った青年を見かねて、死神少女は慌てた様子で駆け寄って来る。ついさっきまでは大丈夫だと即座に答える事が出来たのだけれど、しかし今となっては既に何か言葉を言い返す事すらも困難になってしまっていて。

 

「……生前の事、思い出せないんだね?」

「お、思い、出せ……?」

 

 息が荒い。胸の奥が苦しい。頭が痛い。少女が何かを言っているが、まともに答える事すらできない。

 気が付くと、彼の両肩は少女によって支えられていた。真っ直ぐな面持ちで、彼女の視線がこちらを捉えている。そして青年もまた、焦点の合わない視線で何とか少女の姿を確認した。

 

「落ち着いて。まずは、呼吸を整えるんだ」

「…………っ」

「よし……。そうだね……。お前さん、名前は? 名前も思い出せないのかい?」

「名前……?」

 

 名前。その単語が頭の中で反響し、そして緩やかに広がってゆく。

 彼の心境は相変わらずだ。真っ黒な靄が脳裏を覆い、胸の奥が締め付けられて。無理に記憶を探ろうとすると、鋭い頭痛に苛まれる。同時に吐き気も催される。

 

 けれど。

 けれどそれでも、()()だけはポツリと靄の中から浮かび上がってきて。

 

「……岡、崎」

 

 そして青年は口にする。

 

「岡崎、進一……」

「……岡崎進一? それがお前さんの名前なのかい?」

 

 光さえも遮る程に深い靄に包まれた記憶。その中から唯一手繰り寄せる事が出来た、たった一つだけの名前。反射的に頷いて、死神少女の確認に答えた。

 岡崎進一。確かに、それが自分の名前のように思える。けれど正直、実感は薄い。探っても、足掻いても、幾ら手を伸ばそうとも。その名前以外の一切の記憶を、掴み取る事が出来ないのだ。

 

「名前なんか、分かった所で……」

 

 彼の心境に変化が訪れたのかと言われると、そうでもない。名前を思い出す事は出来たものの、結局はそれだけなのだ。

 名前以外の記憶に関しては、一切思い出す事が出来ない。その程度の記憶を手繰り寄せる事が出来た所で、不安感や焦燥感は相も変わらずそのままだ。

 

「……いや。名前を憶えているんなら、取り合えずは一安心だよ。ある意味一番重要な記憶だよ? 自分の名前ってのはさ」

「えっ……?」

 

 そんな中。頭を抱えた彼を宥めるように、死神少女が声をかけてくる。

 

「存在そのものを明確に認識する為には、名前が最も重要な要素と成り得るのさ。名前が存在するって事は、それはもう個として成立するって事になるからね。つまり自分の名前を憶えている今のお前さんは、少なくとも自分自身を個として認識する事が出来ているって事だ」

「……どういう意味だ?」

 

 この少女の言わんとしている事が、イマイチ理解できない。首を傾げて聞き返すと、彼女は「要するに……」と補足をしてくれた。

 

「お前さんは自分で自分という存在を維持できているって事だよ」

「……維持、だと?」

「そう。お前さんは既に亡霊……つまり魑魅魍魎の類だ。精神に強く依存する魑魅魍魎は、自己の確立が存在そのものに直結する。もしも仮に名前がなかったら、自分という存在を個として認識できなくなるだろ? 要するに自己の消失って事だね。魑魅魍魎の類にとって、それは存在の消滅と同義なのさ」

「……つまり俺は、自分を自分で個として認識できているから、消滅の危険性は薄いって事か?」

「そういう事。ま、多少余裕が出来たってだけで、お前さんという存在が不明瞭である事には変わりないんだけどねぇ……」

 

 正直いまいちピンとこないのだが、名前を憶えているだけまだ救いようがあるという事なのだろうか。――最悪の事態ではないというだけで、あまり良い状況でもなさそうだが。

 

「……それにしても、随分親切に教えてくれるんだな。あんた」

「そりゃあ、あたいも一応死神だからねぇ。人間の亡霊であるお前さんが消滅しちまったとなれば、こちらとしても管理関係の処理やら何やらが色々と面倒な事になるんだよ。……まぁ、それは寿命の管理やらを担当している死神の仕事だから、水先案内人であるあたいにはあまり関係ないんだけど」

 

 「それでも死神としての最低限の体裁は守らなければならないのさ」と彼女は続ける。ついさっきまで居眠りをぶっこいていたこの少女が言っても説得力の欠片もないが、それでも最低限の仕事を熟すつもりはあるらしい。

 

「……水先案内人と言ったな? という事は、あんたが死者の魂達を向こう岸まで運んでいるのか?」

「ああ、まぁね。……何だい? 早いところ()()()()に行っちまいたいのかい?」

「……いや、まぁ……」

 

 ()()()()。つまるところ、天国やら地獄やらを示しているのだろう。死んでしまったからにはあの世と呼ばれる世界に向かうのが筋なのだろうが、それでもやはりモヤモヤとした感覚が胸に残る。

 

「……よく分からない。何も思い出せない所為で、何と言うか……。覚える感覚の全てが、漠然としているというか……」

「……思い出せない、ね」

 

 そう。何せ生前の記憶の大半が欠落してしまっているのだ。どんな家族がいたのかだとか、友好関係はどうだったのかだとか。それすらも分からぬままにあの世に連れていかれてしまうなど、ちょっぴり寂しい気がしてしまう。

 

 ――ひょっとして、これが未練というヤツなのだろうか。

 

「むぅ……。幽霊に混じって妙な“霊”も出現しているみたいだし、ひょっとしてそれと何か関係が……?」

 

 何やらぼそりと呟いた後に、死神少女は再び青年へと向き直る。

 

「……まぁとにかく、お前さんは閻魔様に会ってもらうよ。記憶のない亡霊をそのまま彼岸に運ぶなんて、正直かなり奇妙な状況になっちまってるけど……。でも少なくとも、あの人に会えばお前さんの生前の事も分かると思うし」

「……閻魔なんているのか」

「そりゃそうだろう。まぁ見た所お前さんは外来人っぽいから、閻魔様なんて言われてもピンと来ないかもしれないけど……。あぁ、記憶がないんじゃどっちみち同じか」

 

 何だか話がどんどん飛躍してきているような気がする。いや、自分が亡霊になってしまった時点で大概なのだけれども、まさか死神の次は閻魔まで出てくるとは。ひょっとして、地獄の鬼やら何やらもいるのだろうか。

 

「さて、と。それじゃ、あたいについてきな。閻魔様の所まで連れてってやるからさ」

「……待ってくれ。もう一つ、あんたに聞きたい事がある」

 

 踵を返した死神少女を引き留めて、青年は疑問を呈する。

 

「……その外来人ってのは何の事だ? やっぱり普通の連中とは違うのか?」

「ん? ああ、そうか。これも説明しといた方がいいか……」

 

 思い出したかのように呟く少女。巨大な鎌を抱え直し、再びこちらへと視線を戻して。じゃりじゃりと音を立てて歩み寄りつつも、彼女は説明を開始する。

 

「ここは確かに三途の河だ。けれどお前さんが生きていた世界の三途の河とは違う」

「なに……?」

 

 青年はますます困惑する。三途の河は三途の河でも、彼の知っている三途の河とは別物という事なのだろうか。

 

「妖精、妖怪、そして神。お前さん達が幻想だと排斥した者達が集い、独自の文化を築き上げる世界。現実と幻想が逆転し、常識と非常識が入れ替わった『楽園』」

 

 死神少女は立ち止まる。そして彼女は、二ッと無邪気な笑みを浮かべると。

 

「『幻想郷』からしてみれば、お前さんは外の世界からの余所者って事になるのさ」

「幻、想郷……?」

 

 幻想郷。当然ながら、記憶のない彼にとってもまるで馴染みの薄い言葉。妖精だとか、妖怪だとか、神だとか。そんな空想の産物である幻想達が実在していて、しかもそれらが独自の文化を気付き上げていて。

 現実と幻想が逆転した世界。常識を非常識が入れ替わった楽園。魑魅魍魎が跋扈する、忘れ去られた幻想の世界。

 

 どうやら青年――岡崎進一は、気付かぬ内にとんでもない世界に迷い込んでしまっていたらしい。


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