桜花妖々録   作:秋風とも

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第53話「灯台下暗し」

 

 妖夢達と別れてから、早いもので小一時間。あれからお燐は、宝塔の行方を掴む為に人里にて情報収集を行っていた。

 結論から先に言ってしまえば、これといった収穫はなしである。里の住民達に尋ねてみても知らない、見てない等といった返答ばかりで、手掛かりすらも見つけられない。あるのは“人里で落としたかもしれない”という漠然とした可能性のみ。これでは闇雲に探さざるを得なくなってしまう。はっきり言って、効率は最悪だ。

 

「うーん、困ったなぁ……。これだけ探しても手掛かりゼロなんて……」

「一口に人里と言ってもそれなりの広さだからね。けれどこの程度の情報しか持ってない以上、根気よく探し回るしかないだろう」

 

 そうは言っても、やはり厳しい情報量である。せめてもう少しでも捜索範囲を狭める事が出来れば良いのだが。

 それにしても。ナズーリン曰く、宝塔は掌に乗るくらいのサイズ――つまりそこまで小さな物体ではないはずだ。そんな物が落ちていれば、誰かしらが気付きそうなものだと思うのだけれど。

 

「野良犬だか何かが持って行ってしまった可能性もあるだろう。必ずしも人間のみが拾うとは限らない」

「の、野良犬って……。そうなるとますます見つけられる可能性が低くなるような……」

 

 と言うかそれ以前に、寅丸星なる人物は本当に里で落としたのだろうか。ここまで探しても見つからないとなると、そんな可能性も脳裏に浮かんできてしまう。

 

「可能性が低かろうとも、何としてでも宝塔を見つけなければならないのだよ、私は。あれは元々毘沙門天様の持ち物だからね。こうして紛失したままでは、毘沙門天様に顔向けできない」

「まぁ、その気持ちは何となく分かるけどね」

 

 ――ところで。

 

「ねぇ、ナズーリン。一つ聞きたい事があるんだけど」

「……何だね?」

 

 足を止め、お燐はおもむろに振り返る。

 手分けをして宝塔を探すというこいしの提案通り、お燐はナズーリンと共に行動している。当然ながら振り向けばそこにナズーリンがいるのだが、少し――いや、かなりおかしな点がそれには見受けられた。

 端的に言ってしまえば、距離である。

 

「どうしてそんなに離れてるのさ」

「む? 何だねその口振りは。まるで君と私との間にある距離がおかしいとでも言いたげな様子だな」

「い、いや、どう考えてもおかしいでしょ、これ……」

 

 お燐の丁度後方。実に十メートルは離れているであろうポジションを維持しつつもついてくるナズーリンに対し、お燐は困惑気味にそう答える。共に行動し、宝塔を探しているのにも関わず、この距離はどう考えてもおかしいじゃないか。これでは情報共有すらも一苦労である。

 行動を共にする意味がない、と言っても過言ではない有様だ。ただでさえ悪い効率が、これではますます悪くなる。

 

「あのさ、せめてもう少し近づかない? すっごく話しにくいんだけど……」

「何を言うのだ火焔猫燐。意思の疎通なら十分にできているだろう? それならこれ以上、距離をつめる必要はない」

「えぇ……?」

 

 この少女、まるでお燐を信用してくれていない。流石に警戒心が強すぎるのではないだろうか。

 

「まったく……。じゃあいいよ、あたいの方から近づくからさ」

「何だと? それに一体何の意味があるのだね? 君と私との距離感がどうであれ、捜索の効率性はそう大差ないだろう。だったら別にこのままでも構わないっておい待て止めろ私の話を聞きたまえ火焔猫燐、ちょ……止めろォ!?」

 

 何やらグチグチと口にするナズーリンを無視して近づくと、鬼気迫る表情を浮かべて彼女は慌てて遠のいた。悲鳴にも似たナズーリンの大声が響き渡った事により、周囲の里の住民もざわざわと騒めき始めているようだ。

 通行人の視線が刺さる。何だこれは。まるでお燐が悪者のようじゃないか。

 

「ちょ、ちょっと……! 変な声出さないでよ……!」

「そ、それは君の所為だろう!? くそう……一体何を企んでいる火焔猫燐!」

「企むって……。別にあたいは、ただあんたと仲良くしたいだけで……」

「な、何だと!? 何をトチ狂った事を……!」

「酷くない!?」

 

 何なんだこの少女は。さっきまでの達観した様子はどこに行ってしまったのだろうか。

 

「そ、それ以上近づくな! 後悔する事になるぞ!」

「な、何なのさ後悔って……」

 

 中々の被害妄想だ。彼女が意外と小心者である事は確定的に明らかだが、それでもここまで怯える程なのだろうか。

 心外である。さっきから何度も訴えている通り、お燐は別にナズーリンを襲うつもりなんてこれっぽっちもない。

 

「と言うか、いい加減その火焔猫燐っていうの止めてくれない? あたい、あんまりその長い名前で呼ばれるの好きじゃないんだけど」

「なっ……。だ、だったらどうしろと……?」

「ほら、妖夢達もお燐って言ってたでしょ? そう呼んでよ」

「お、お燐、だと……!?」

 

 やたらオーバーなリアクションを取るナズーリン。目を見開き、大きく身を引き、そして自らの両肩を抱えるような体勢になると。

 

「くっ、成る程……。愛称で呼ばせる事により無理矢理にでも距離を詰め、そしてゆくゆくはこの私を懐柔させるつもりだな! なんて卑劣な……!」

「い、いや、なんでそうなるのさ」

「これだから猫は……! しかしそうはいかないぞ! 例え身体は屈しようとも、心だけは君のものにはならないからな!」

「ちょ、誤解を生むような表現は止めて!?」

 

 ああ、そろそろ通行人からの視線が辛くなってきた。しかも何やらヒソヒソと言葉を交わす者達までも現れる始末。このままでは不審者として里の自衛団辺りに通報されるのも時間の問題なのではないだろうか。

 

「そ、そもそもさ! あんたのご主人、虎の妖獣だったんでしょ!? ネコ科じゃん! あたいと大して変わらないんじゃん! だったら何でその人は良くてあたいはダメなのさ!」

「ご、ご主人と違って君は化け猫の類だろう! ご主人は虎という動物が化けた妖獣ではなく、日本人が()()した“虎”という空想上の生物が由来となった妖獣なのだよ! しかもご主人は“虎”の姿に戻る事ができない! 元“虎”の妖獣であるご主人と、現在進行形で化け猫である君とでは、天と地以上の差がある!」

「ほ、殆ど屁理屈じゃん……!」

 

 確か、他国から学問が伝わった際に日本には生息していない虎という動物も名前だけが伝わった、という話を聞いた事がある。話として聞いただけの情報で日本人が“虎”という動物の姿を想像した結果、生まれたのが寅丸星という妖怪なのだろう。

 確かにそういう意味では、寅丸星という妖怪は化け猫や化け狸などといった類の妖獣とは根本的に違う。ネコ科の動物である虎ではなく、空想上の生物である“虎”が由来だというのなら、ナズーリンの言い分も分からなくもないのだが――。

 

 だからと言って、納得はできない。

 

「と、とにかく、だよ! あんた、早いところ宝塔を見つけ出したいんでしょ? だったら、いつまでもこうしてる場合じゃないと思うんだけど」

「ぐっ……! それは、そうだけれども……」

「でしょ? あたいの事が信用できないっていうのなら、この際それでもいいからさ。それならそれで、逆に利用してやるってくらいの気構えでいるべきなんじゃないかな」

「り、利用……?」

 

 ナズーリンは鼠だ。ついさっき会ったばかり猫であるお燐に恐怖心を覚えてしまうのは、至極当然な心理とも言える。すぐにでも信頼を寄せる事はできないというのなら、それは仕方のない事だと思う。本能として染み込んでしまっているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 だけれども。それならそれで、いつまでも足踏みを続けても良い理由になるのだろか。

 

「あんたさ、さっき自分の主人の事をポンコツだのなんだのって罵ってたけど、でも実際、それだけが本音って訳じゃないんでしょ?」

「なに……?」

「あたいにもご主人様がいるからさ、何となく分かるんだよ。確かに面倒事だとか、尻拭いだとかを押し付けられたら、あたいだってあんまりいい気分じゃなけど……。でも」

 

 それでも。

 

「それ以上に、あたいはあの人の事を信頼している。欠点だってない訳じゃないけど、でもそれ以上にあの人の良い所を知っている。だからあたいは、あの人のペットでいられるんだ」

「な、何を……」

「……あんたも、そうなんでしょ?」

 

 お燐はペットで、ナズーリンは部下。全部が全部同じと言う訳ではないのだけれども、それでも心の在り様は大差ないはずだ。

 

「確かにあんたのご主人は、ドジでポンコツなのかも知れない。だけどそれでも、あんたはそのご主人の事を信頼している。そうでしょ? そうじゃなかったら、その人の頼みを受け入れてここまで必死になったりしないよ」

「そ、それは……」

「勿論、毘沙門天の為って気持ちもあるんだろうけど……。少なくともあたいの目には、それだけじゃないように見えたけど?」

 

 聞けばこの少女は、毘沙門天の使いという格式高い妖怪らしい。毘沙門天の使命を受けて星のサポートをしているらしいが、今の彼女の行動原理はそんな使命だけではないはずだ。

 彼女は寅丸星の為に、こうして宝塔を探し回っている。毘沙門天の使いとしてだけではなく、寅丸星の部下として。彼女はこうして人里を駆け回っている。そんなナズーリンの心の中には、寅丸星への信頼が確かに存在しているはずなのだ。

 

 それならば。

 

「その人の力になりたいんなら、思い切って一歩踏み出すべきなんだよ。ほら、丁度こんな所に都合の良さそうな猫がいる訳だし」

「火焔猫燐……君は……」

「……窮鼠猫を噛む、でしょ? 猫だろうが鼠だろうが、その間に上下関係なんてないよ。鼠は猫の餌なんかじゃないし、猫だって鼠に負ける事がある。だから変に怯える必要なんてないと思うよ」

 

 誰かの力になりたくて、誰かの為に行動を起こしたいというのなら。必要なのはちょっとした勇気だけだ。いつまでも怯え続けて縮こまったままでは、何も始まらないじゃないか。

 だから前に進むべきだ。ナズーリンというこの少女は、いつまでもこんな不毛な膠着状態を貫き通すべき妖怪なんかじゃない。

 

「……まったく」

 

 ナズーリンはボソリと呟く。ふぅっと息を吐き出して、強張っていた肩の力を抜いて。そしておもむろに踵を返すと。

 

「……行くぞ」

「え? 行くって、どこに?」

 

 チラリと彼女に一瞥される。けれども直ぐに視線を戻して、ナズーリンは口を開いた。

 

「命蓮寺だよ。ここまで状況が芳しくない以上、一度情報を整理すべきだと思うのだよね。頭を冷やして考え直せば、何か光明を掴む事が出来るかも知れない」

「それって……」

「……利用、しても良いんだろう?」

 

 再びナズーリンと視線がぶつかる。けれど今度は、一瞬だけの一瞥ではない。

 身体ごと振り返って、彼女は表情を見せてくれている。どことなく、その雰囲気は柔らくなっているような気がした。

 

「早くしたまえ、()()。ただでさえ時間を浪費してしまっているのだからね」

 

 それだけを言い残し、ナズーリンはずいずいと歩みを始める。そんな後ろ姿を眺めながらも、お燐は思わず破顔していた。

 まったく。難儀な性格をしているというか、何というか。彼女も大概、素直ではない。色々と分かりにくい事この上ないじゃないか。

 

 まぁ、それでも。このような形に落ち着いてくれるのなら、今はそれでもいい。彼女の張り詰めた心を少しでも解きほぐせたのなら、お燐はそれで十分だった。

 

「はいはい。待ってよ、ナズーリン」

 

 そう口にしつつも、お燐は小走りでナズーリンへと駆け寄るのだった。

 

 

 *

 

 

 寅丸星と共に命蓮寺へと足を運んだ妖夢達。星蓮船と呼ばれる舟を改装して建設されたとは聞いていたが、外観に関しては普通の寺院と大差ない様子だった。

 地蔵が置かれた門を抜けると石畳が敷かれた参道となっており、その奥に本堂と思しき木造の建造物が確認できる。参道には石造りの灯篭も設置されているようで、日が沈んでも一定の光量を保つ事ができそうだ。本堂に向かって右側に鐘撞き堂が設けられており、左側の脇道の先に共同の墓地が広がっているらしい。

 

 流石は里からも一定の支持を集めている寺院、と言った所か。中々に立派な佇まいである。比べるのも変な話だが、博麗神社よりも立派なのではないだろうか。立地条件も悪くないし、これなら里の住民が支持するのも納得である。

 

「わー! すっごく大きいね!」

「星蓮船を改装する際、多くの方々のお力をお借りしましたので……。今でもとても感謝しています」

 

 感嘆の声を上げるこいしに向けて、星がそんな説明を挟む。舟を改装したとはいえ、これだけの規模の寺院を建設してしまうとは。大方、力自慢の鬼辺りが力添えをしたのだろう。彼らは確かに獰猛だが、それと同時に情が厚い種族である。星蓮船は元々地底に封印されていた為、鬼の中に知り合いでもいたのかも知れない。

 

「あの、ところで妖夢さん。先程もお話ししましたけれど……」

「ええ。宝塔の紛失に関しては内密に、ですよね。分かってますよ」

「た、助かります……!」

 

 小声で確認してくる星に対し、頷きつつも妖夢は答える。

 香霖堂から命蓮寺へと向かう途中、妖夢とこいしは星からとあるお願い事をされていた。それは宝塔の紛失に関して、命蓮寺の他の僧侶達には口外しないで欲しいという内容である。

 早い話が隠蔽だ。仮にも毘沙門天の代理人がそんな事をしても良いものかと思うのだが、やたらと必死に頭を下げられては妖夢も首を縦に振らざるを得ない。

 

 どうやら、普段から接している身内にまで失態を知られてしまうのは、恥ずかしくて耐えられないらしい。何とも稚拙な理由である。この少女、本当に神の化身なのだろうか。

 

「でもさ、やっぱり他の人達にも話した方がいいんじゃないの? 宝塔、どこかで見かけてるかも知れないよ?」

「だ、ダメです! そ、それだけは……!」

「えー? なんでー?」

「で、ですから! そんな事を知られるのは恥ずかしいからで……」

「何の話をしてるの?」

「うひゃあ!?」

 

 そんな中。突然第三者に声をかけられて、驚いた星は間の抜けた声を上げてしまう。弾かれるように振り向くと、そこにいたのは尼僧のような恰好をした一人の少女だった。

 

 空色の髪に、紺色の頭巾。そして白い長袖の上着に、白を基調としたスカートと、()()の姿だけ見れば普通の少女とそう大差ない様子である。けれど何より目を引くのは、そんな彼女の傍らに佇むモヤモヤとした物体。

 半人半霊が持つ半霊のようなものとは違う。桃色の雲としか形容できないそれは、よく見ると厳つい老人男性の顔のようなものも確認できる。桃色の雲の塊そのものが意思を持って存在しているその様子から、彼が入道と呼ばれる妖怪の一種であると妖夢でも推測する事ができた。

 

 入道を連れた、尼僧の恰好をした少女。命蓮寺で修行する僧侶の一人なのだろうが、彼女もやはり妖怪なのだろうか。

 

「い、いいい一輪!? ど、どうしてこんな所に……!?」

「いや、どうしてって……。ここ命蓮寺だし、別に私がいてもおかしくないでしょ?」

「えっ……? あ、ああ……! そ、それもそうですね……!」

 

 一輪、というのがこの少女の名前なのだろうか。慌てふためく星へと訝し気な視線を向けている辺り、早くも彼女に不信感を抱いてそうだ。星が自らボロを出すのも時間の問題のように思える。

 早くも先行きが不安になってきた。妖夢が何も言わずとも、勝手にバレてしまうような気がする。

 

「あっ! 見越入道のおじさんと入道使いのお姉ちゃんだ! 久しぶりだねー!」

「えっ……? あれ? 貴方は確か、地霊殿の……」

 

 そんな中。尼僧姿の少女とその傍らにいる入道を目の当たりにしたこいしが、何やら楽し気な様子で彼女達に声をかけている。

 見越入道のおじさんと、入道使いのお姉ちゃん。やたら親し気なその物言いから察するに、まさかこいしは彼女達と面識があるのだろうか。

 思わず妖夢は尋ねてみる。

 

「こいしちゃん、その人達と知り合いなの?」

「うん。地底で何度か会った事があるんだよ。あとは舟幽霊のお姉ちゃんとかもいたかなー」

「舟幽霊……?」

 

 舟幽霊のお姉ちゃんとは誰の事かは分からないが、ひょっとして星蓮船が地底に封印されていた頃に面識を持っていたという事なのだろうか。『能力』の所為で放浪癖のあるこいしの事だ。ふらふらーっと星蓮船まで遊びに行っていたとしても不思議ではない。

 

「ま、まさか一輪達がこいしさんと面識を持っていたなんて……」

「地底に封印されてた頃にちょっと、ね。私からしてみれば、星がその子と一緒にいる事の方が意外なんだけど」

「え、えっと、その……。こ、これには、少し訳がありまして……」

「……さっきから気になってたんだけど、何でそんなに挙動不審なの?」

「えっ……!? きょ、挙動不審ですかっ!?」

 

 確かに、星の一挙手一投足は実に怪しげなものである。隠し事が下手くそだとか、最早その程度のレベルではない。妖夢だって隠し事等は苦手な方だが、はっきり言って星に関しては間違いなくそれ以上だ。

 入道の老人が呆れた視線を星へと向けている。ひょっとして、彼には既にバレてしまっているのではないだろうか。

 

「まぁ、いいわ。……ところで、そちらの貴方は? 見た所、人間じゃなさそうだけれど……」

 

 そんな星達のやり取りを眺めていると、尼僧姿の少女が妖夢へと声をかけてくる。何とも切り替えの早い様子である。ひょっとして、星は普段からこの調子なのだろうか。

 ともあれ、星の事に関しては一端置いておく事にする。今は自分の説明をすべきであろう。

 

「申し遅れました。私の名前は魂魄妖夢。半人半霊です」

「へぇ……! 成る程、半人半霊! 初めて見たかも……。私は雲居(くもい)一輪(いちりん)です。で、こっちの見越入道が雲山(うんざん)。よろしくお願いしますね」

 

 尼僧姿の少女――雲居一輪がそう紹介すると、雲山と呼ばれた入道がペコリとお辞儀をする。強面の容貌とは裏腹に意外と温和そうな印象だ。いや、ただ単に無口なだけかも知れないが。

 雲山はともかく、一輪はこいしから入道使いなどと呼ばれていたが、それが彼女の妖怪としての通称なのだろうか。入道を従える妖怪など聞いた事もないが、ひょっとしたら彼女は八雲紫のように他に例のない唯一の特異性を持つ妖怪なのかも知れない。

 

「それで、貴方はどうして命蓮寺に? ひょっとして、入門希望か何かですか?」

「あ、いえ……。そういう訳では……」

 

 一輪にそんな質問をされて、思わず妖夢は首を横に振ってしまう。直後になって思ったが、この返答は失敗だったのではないだろか。

 

(しまった……)

 

 星に口止めされている手前、宝塔を探しに来たとは言えない。さて、一体どう言い訳をすべきか。やっぱり入門目的だった、などと答えるのも変だし、だからと言って他に気の利いた返答なんて早々思いつく訳がない。事前にもっと良く考えておくべきだったか。

 妖夢が返事に困り果てつつある、そんな中。相も変わらず楽し気な表情を浮かべたままの古明地こいしが、笑顔で妖夢達の間に割って入ると、

 

「はいはーい! えっとね……。実は私達、星さんと一緒にほうと」

「わー! わー! わー!!」

 

 どうやらこの少女、星の話を全く聞いてなかったらしい。

 ナチュラルに宝塔の紛失をバラしかけたこいしだったが、やたら俊敏に飛び出してきた星によって慌てて口を塞がれる。随分と素早い反応である。そんなに秘匿したいのだろうか。

 

「あ、あああのあの! こ、こいしさんは……そ、そう! 命蓮寺の見学をしてみたいそうで……! それで、私が連れてきたんです!」

「えっ……そ、そうなの? 今なんか、ほう……ナントカって言ってなかった?」

「言ってません! 空耳です!!」

「むぐぅ!? むー! むー!」

 

 必死になって発言を改竄する星と、不満気な表情でバタバタと暴れるこいし。流石にそろそろ誤魔化し通すのもきつくなってくる頃合いである。呆れた様子で溜息をつく雲山の姿が目に入った。

 

「えっと……。つまりこいしちゃんが入門希望者で、妖夢さんはその付き添い……みたいな感じなの?」

「そ、そうです! そうなんですよー! そうですよね妖夢さん!?」

「へっ? あ、ああ、はい。まぁ、そんな感じですかね……?」

 

 勝手に勘違いをしてくれた一輪に対し、ここぞとばかりに星が食らいつく。雲山の方に気を取られていた妖夢にも話題が向けられるが、慌てて首を縦に振る事でその場は何とか収まってくれたらしい。

 取り合えずは納得した様子で、一輪は腕を組む。

 

「成る程ねぇ……。でもごめんなさい。姐さん……聖様は今ちょっと忙しそうだから、すぐに入門の手続きを行うのは……」

「そ、それなら大丈夫です! 今日は取り合えず、命蓮寺のご見学のみという事で……! こいしさんは私がご案内しますから!!」

「そ、そう? まぁ、それなら……」

 

 最早完全にゴリ押しである。その場の勢いだけで何とか話を丸め込もうとしている星だが、意外にもその作戦は功を奏している様子。例えるならば、やられる前に一気に仕留めてしまう戦術。寅丸星、意外と侮れないのかも知れない。

 

「それでは、私達はこの辺で……! 行きましょう妖夢さん!」

「え? あ、はい」

 

 暴れるこいしを引き摺るような形で、そそくさと星は歩き出す。色々と突っ込み所は満載であるが、取り合えずここは星に合わせる事にした。

 さっきこいしも言っていた通り、一輪達にも事情を話して協力をお願いした方が効率も良いのだろうが――当の星がそれを拒んでいるのだから仕方がない。妖夢の読みが正しければあまり苦労せずに宝塔を見つける事も可能だろうし、それなら星の意思を尊重しても大きな問題にはならないだろう。

 

 星の気迫に押し切られて、半ば茫然としている一輪へと軽い会釈を交わした後。妖夢は星達と共に、参道の先へと進むのだった。

 

 

 *

 

 

 という訳で星の部屋へと辿り着いてから数分。妖夢の読み通り、星が無くしたらしい宝塔はかなり早いタイミングで見つける事ができた。

 

「ふわああああ! ありました! ありましたよぉ!!」

 

 歓喜の声を上げつつも、星が宝塔を持ち上げる。話に聞いていた通り、それなりに大きなオブジェである。あれくらいのサイズなら落とせば普通気付くだろうし、それ以前に大事なものなら持ち歩く際に注意を払うはずだろう。にも関わらず、少なくとも以前に一度外出中にこの宝塔を紛失し、香霖堂まで買い戻す羽目になっているのだ。ナズーリンのポンコツという評価は大袈裟でも何でもないのかも知れない。

 

「なーんだ。意外と簡単に見つかっちゃったねー」

「そうだね。でも予想はしていたとは言え、まさかここまで簡単に見つかるなんてちょっとびっくりだけど……」

 

 結論から先に言えば、星の宝塔は部屋の隅に配置されている戸棚の上に置き忘れていた。丁度宝塔と似たような配色の戸棚であり、更に言えば丁度宝塔がすっぽり収まるようなスペースまでも空いていて――。確かに、カモフラージュのような状態になっていたとも言えなくもない。

 部屋の掃除を行う際、星はこの戸棚の上に宝塔を退避させたのだろう。けれどうっかりその行為を忘れてしまい、そしてそのまま外出をしてしまって――後は知っての通りである。

 

「ま、まさか本当に妖夢さんの言っていた通りだったとは……! 凄いです! どうして分かったのですか!?」

「ま、まぁ……。たまたまですよ」

 

 妖夢からしてみれば、どうして部屋の捜索をした際にあの宝塔に気付かなかったのか、それを星に問いたい所であるが――何だか疲れそうなので聞かない事にした。

 ともあれ、これで一件落着である。後はお燐達と合流して――。

 

「ふぅ、本当の本当に良かったですぅ……。でもまさか私の部屋(こんなところ)にあるなんて……。こんな事ナズに知られたら、きっと怒られて……」

「ほう? 私が、なんだって?」

「……へ?」

 

 ――などと考えていた矢先。聞き覚えのある声が流れ込んできて、三人は一斉に視線を向ける。星の部屋の出入り口。そこにいたのは今まさに星が名前を口にした、自らの部下である小さな妖怪。ごわごわなフードを外し、大きな耳を晒け出した妖怪鼠。

 ナズーリンその人だった。

 

「なっ……!?」

 

 当然ながら、星は慌てふためく事となる。

 

「ななななナズ!? ど、どどどうして……!?」

「……人里での捜索が芳しくなくてね。一度命蓮寺に戻って情報を整理しようと思ったのだよ」

「へ、へぇ……。そうなんですかぁ……」

「……ところで、ご主人」

 

 瞬く間に狼狽して裏返った声を上げる星とは裏腹に、俯いたナズーリンの声調は酷く重いものである。彼女の言葉が耳に届くだけで、妖夢までも背筋に悪寒が走りそうになる。

 姿形は妖夢よりも背の低い小柄な少女。けれど彼女が発する()()()は、容姿に不釣り合いな程の凄みが含まれていて。

 

「今、とても興味深い話が聞こえたような気がしたのだが」

「き、興味深い話、ですか? またまたぁ……。きっとナズの聞き間違いでは……?」

「そうかね? 私の記憶が正しければ、この部屋で宝塔が見つかった、などと聞こえたのだけれど?」

「……えっ?」

 

 最早星は何も言えまい。この様子ではどんな言い訳も意味を成さなくなり、どんな弁明もナズーリンには効果がないだろう。星は視線を逸らして誤魔化す術を必死に考えているのだろうけれど、無駄な抵抗である。

 

「ちょ、ちょっと待ってよナズーリン……! って、これどういう状況……?」

 

 一足遅れて、ナズーリンと行動を共にしていたお燐も部屋に辿り着く。が、ナズーリンから醸し出される禍々しい気迫を前にして、困惑を隠し切れない様子である。

 無理もない。ついさっき会ったばかりの妖夢でも、今のナズーリンの心境は手に取るように分かるのだ。

 

 この少女、完全にキレている。

 

「え、えっと、その……。あ、あのですね……! 何と言いますか、これは、その……!」

「なに? 星ってばやっぱり宝塔なくしてたの?」

「そ、そうなんですよー! ついうっかり……って、わわっ!?」

 

 星が苦し紛れの弁明を開始した矢先。突然第三者の声が流れ込んできて、驚いた星は思わず飛び上がってしまう。妖夢も聞き覚えのある声。お燐に続くような形で部屋へと入ってきたのは、先程参道でも会った尼僧姿の少女と、そして見越入道の老人男性。

 

「い、一輪と、雲山……!? どうして貴方達まで……!?」

「何だかさっきからそんな反応ばかりね、星……」

 

 呆れ顔で嘆息する一輪。そして雲山の反応も相変わらず。狼狽する星へと向けて、一輪は説明を開始する。

 

「いやね、雲山が教えてくれたのよ。ひょっとしたらそうなんじゃないかって。そこに丁度ナズーリンが帰ってきたから、ちょっと話を聞いてみたら……案の定だったって訳」

「えっ……。あっ、あぁ……そ、そうなん、ですかぁ……」

 

 ――やっぱり雲山にはバレていたらしい。

 

「さぁ、ご主人。弁明を考える時間は十分に与えただろう? 私の質問に答えて貰おうか」

「あ、あぅ……。え、えっと……」

 

 完全に追い込まれてしまった星。一歩身を引き、ぷるぷると身体を震わせ、そして涙目になって。

 けれど遂には言い訳も諦めたらしく。

 

「そ、そうです……。ただ単に、この部屋に置き忘れてただけだったみたいなんです……。ご、ごめんなさい……」

「ご主人……」

 

 蚊の鳴くような小さな声で、星は白状する。まさに大目玉を食らう直前の子供のような様子である。

 星の気持ちも分かる。何せ今のナズーリンは、息が詰まりそうになる程の圧倒的な凄みを放っている。例えるならば、まるで爆発寸前の爆弾である。「あっ、これは無事じゃ済まないな」と、妖夢でも瞬時に察する事が出来る。

 

 ――だけれども。縮こまった星の肩にポンと手を置いたナズーリンは、意外な反応を見せる事となる。

 

「……ようやく正直に話してくれたんだね。私も嬉しいよ」

「えっ……?」

「いや、正直私はご主人の事が心配だったんだよ。仕事以外の事に関しては、何をやってもドンくさくてダメダメだからね、君は。また何かトラブルを引き起こしてるんじゃないかと思うと、そりゃもう心配で心配で」

「え? え?」

 

 ナズーリンの口調。それは実に優し気なものであった。

 星も状況が飲み込めずにオロオロとしている。つい直前までナズーリンが放っていた、あの禍々しいオーラはどこへやら。星に語り掛ける今の彼女の表情は、実に慈悲深いものだ。ひょっとして、実はそれほど怒ってなかったのだろうか。

 ナズーリンは続ける。

 

「まぁでも、良かったじゃないか。この部屋で見つかったという事は、少なくとも人里で落としていた訳じゃなかったんだろう? それなら以前の紛失よりも状況は悪くない。宝塔に傷がついてしまった訳でもなさそうだし、その点は不幸中の幸いと言える」

「うっ……」

「それに、寛大な毘沙門天様の事だ。普段の君の仕事ぶりも加味して、きっと大目に見てくれるさ」

「な、ナズ……!」

 

 やたら優し気な雰囲気を醸し出しているナズーリン。それに感銘を受けたのか、星は再び涙声になる。寅丸星は今まさに、菩薩でも前にしたかのような心境なのだろう。

 いや、と言うか命蓮寺に属する尼僧である上に毘沙門天の化身である星と、星の部下ではあるものの命蓮寺の信者ではないナズーリンとでは、ぶっちゃけ立場が逆のような気がするのだけれども――。その点を突っ込んだら負けなのだろうか。

 

 まぁでも、これで問題は解決であろう。星の失態に関しては意外と広まってしまっているような気もするが、それはそれでやむを得ない。寧ろ宝塔が見つからなかった場合の方が問題である。

 優し気な笑顔のナズーリン。感銘した様子の寅丸星。これにてこの件については一件落着――。

 

「まぁ、それはそれとして」

 

 ――かと思っていたのだが。

 

「さてご主人。そろそろ君の事をぶん殴ってもいいかな? グーで」

「うぅ、そうですね……。今回の件については全面的に私の責任で……って今なんて言いました!?」

 

 至極ナチュラルな流れで暴力の許可を取ろうとするナズーリンを前にして、ワンテンポほど遅れて星は飛び上がった。

 ナズーリンが浮かべるのは、何とも清々しい笑顔である。けれども何だろう、この感じ。まるで形容できぬ程の圧倒的な威圧感と言うか、あまりにも禍々しすぎる凄みと言うか。

 

 笑顔なのに、笑顔じゃない。星は途端にガタガタと震え始めて、ナズーリンから問いただそうとしているが、

 

「な、なななナズ!? あ、あの! その……! 何だか今とても物騒な言葉が聞こえたような気がするのですが!?」

「おや? ひょっとして君は、何か勘違いしているのではないかい? 確かに、毘沙門天様は大目に見てくれるかも知れない。けれども()()君の事を許しただなんて、そんな事は一言も言ってないはずだよ?」

「へっ……?」

 

 ガシッと、星の肩を掴むナズーリンの手に力が入る。そしてダラダラと、星の頬から冷や汗が吹き出し始める。そんな光景を目の当たりにすれば、幾ら妖夢でも嫌でも分かる。

 ナズーリン、やっぱりマジギレであった。

 

「はっはっは。嫌だな、ご主人。考えてもみたまえよ。私は君に頼まれて、半日以上も人里を駆け回っていたのだよ? それなのに、なんだね。やっぱり自分の部屋に置き忘れてただけでしたー、では収まりがつかないだろう? うん?」

「あ、あああああのですね!? その件については本当に申し訳なかったと思ってますし、私も反省してますし! それにこうして無事見つける事も出来た訳ですし、今回はこれで一件落着という事でってああちょっと待って下さい分かりました謝ります謝りますからぁ! ごめんなさい! だから暴力だけは止めて下さい!?」

 

 ゴゴゴッと、ますますオーラを強めてゆくナズーリン。その圧倒的な威圧感を肌で感じて、矛先を向けられている訳ではないはずのお燐までもが思わず身震いしている様子。

 無理もない。この感じ、まさに鬼神の如く。やはりナズーリンだけは怒らせるべきではなかったのかも知れない。「あっ、始まったなぁ」とでも言いたげな表情を浮かべる一輪の様子が印象的だった。

 

「おっと、確かに。ご主人の言う事にも一理ある。仮にも神に仕える立場であるこの私が、そんな非生産的な暴力を振るうべきではないのかも知れないね」

「そ、そそそそそうですよ! やはりここは、出来る限り穏便に……!」

「ふむ? そうだね。ならご主人、ちょっとばかり鼠達の餌になってみないかい? 実はここ最近、彼らもまともな食事にありつけてないようでね。きっと腹を空かせているはずだよ」

「ぜ、全然穏便じゃない……!?」

「ええい、さっきからつべこべ煩いね、君は」

「ちょ、ちょっと……!?」

 

 ガシッと、今度は星の首根っこを掴むナズーリン。星は慌ててナズーリンから逃れようとするが、けれども無駄な抵抗である。

 あの小さな身体の、どこにそんな力があるのだろうか。幾ら星が抵抗しようとも、ナズーリンの身体は全くと言って良いほど動かなくて。

 

「黙って私についてきたまえ、ご主人。いい加減、君のその性根を叩き直してあげよう」

「ひ、ひぃぃ……!?」

 

 ナズーリンにギロリと睨まれて、星は瞬く間に委縮する。最早どっちが上司で、どっちが部下なのか分からなくなってくる有様である。

 何だろう、この感じ。似たような関係性を前にも見た事があるような、ないような。

 

「さて、行こうかご主人」

「い、嫌ああああ!? た、助けて! 助けて下さい一輪、雲山!!」

「…………」

「ちょ……何ですかその笑顔!? 雲山までもが……! 雲山までもが今まで見せた事もないような笑顔を浮かべていますぅ!?」

 

 何というか。随分と賑やかな人達だなぁ、という感想しか出てこない。

 ナズーリンにずるずると引き摺られてゆく星が何やら必死に喚いているし、そんな彼女らの姿を一輪と雲山は何も言わずに見守っている。お燐は相変わらず唖然としているし、こいしはなぜか楽し気な表情を浮かべていた。

 流石の妖夢も、これには言葉を挟む余裕がない。

 

「あっ、そうだ」

 

 そんな中。星を引き摺るナズーリンが、おもむろに振り返って、

 

「妖夢にこいし。それと……お燐。君達にはウチのご主じ……じゃなくてポンコツが迷惑をかけたね。協力、心から感謝するよ」

「え? あっ、はい。お気になさらず……」

「あ、あのナズ? ご、ご主人であってますからね……? 態々ポンコツって言い直す必要なんてありませんからね……!?」

 

 半泣き顔の寅丸星。そんな彼女をナチュラルに無視して、ナズーリンは踵を返す。星をずるずると引き摺って、彼女らはどこかへと去って行った。

 

 一時の沈黙が、妖夢達に訪れる。

 何だったんだ、一体。この感じ、何とも形容しがたい心地である。呆れだとか、困惑だとか。様々な感情が胸中で渦巻いて、結局何も考えられなくなるような。とにかく、やたらカオスな心持ちで。

 そんな中でも、普段通りの様子を保つ少女が一人。

 

「あはは! やっぱり面白い人達だったねー!」

「え? え、えっと……。そ、そう、かな……?」

 

 やたら楽し気な様子の古明地こいしに対し、妖夢は上手く言葉を返す事ができなかった。

 

 

 *

 

 

 そんなひと騒動が解決してから数十分。日もだいぶ傾いてきた時間帯。そろそろお暇させて貰おうかと思っていた妖夢達だったが、けれどもその直前になって命蓮寺の客間に案内されていた。

 何でも、迷惑をかけてしまった事への詫び――というのも含めて、命蓮寺の住職が直々に話をしてみたいらしい。妖夢としても、命蓮寺に来ておきながら挨拶をせずに帰ってしまうのも心苦しかったので、その提案はありがたい。命蓮寺の住職に関しては話に聞いた事はあったものの、こうして実際に対面するのは初めてだった。

 

「すいません。うちの星がご迷惑をおかけしてしまったようで……」

「い、いえ、お気になさらず。私達も大した事してませんから」

 

 お燐とこいしに挟まれて、座布団の上に正座する妖夢。そんな彼女の目の前にいるのは、淑やかな印象を受ける一人の女性だった。

 特徴的なのは髪だ。腰まで届く程の長髪で、紫と金のグラデーションという中々見ない髪色をしている。服装を強いて形容するならば白と黒のドレス姿で、洋風とも和風とも取れるような不思議な風貌である。

 そんな彼女からひしひしと感じとる事が出来るのは、全てを包み込むような包容力。雲居一輪とも、雲山とも、ナズーリンとも。そして寅丸星とも違う。他の妖怪達とはどこか一線を画しているという事が、こうして対面しているだけでも伝わってくる。

 

 (ひじり)白蓮(びゃくれん)。おおよそ妖怪だらけの寺をまとめ上げているとは思えぬような、優しさと寛容さ。自然とこちらの毒気も抜かれてしまうような、そんな不思議な印象を与えてくる女性だった。

 

「まったく……星にも困ったものです。お仕事に関してはとても優秀なのですけれど……」

「でも宝塔探し結構楽しかったけどねー」

 

 嘆息をする白蓮に対し、呑気な様子でこいしが返す。

 仕事に関しては優秀、という事は決める時は決めてくれるという事なのだろうか。80年後の未来で出会った、あの大学教授と似たようなパターンなのかも知れない。――部下との上下関係が良く分からないという意味でも。

 

「それにしても……あのお姉さん大丈夫かな? ナズーリンに連れていかれたみたいだったけど……」

「それに関してはご心配なく。きっと今頃ナズーリンに扱かれているはずです。あの子に任せておけば安心でしょう」

「あ、安心、なのかなぁ……?」

 

 お燐が乾いた笑みを浮かべている。確かに、ナズーリンの憤り具合から察するに、少なくとも星は無事ではいられないような気がするのだけれども。

 それでもこの住職の反応は実におっとりしたものである。のんびり屋さんなのか、それとも意外と厳しい性格をしているのか。イマイチ真意が掴めない女性である。

 

「ところで話は変わりますが……。妖夢さん、貴方は半人半霊なんですよね?」

「え? ま、まぁ……そうですね。でもだからと言って、他の妖怪や人間と比較して何か特別な事ができる訳ではありませんよ。強いて言えばこの半霊の存在と、ちょっと寿命が長いくらいでしょうか……。霊力や身体能力に関しても色々と中途半端ですし、ただ単に人間と幽霊のハーフくらいの認識でいて下されば……」

 

 白蓮からの質問に対し、妖夢はそう答えた。

 半人半霊は人間と幽霊のハーフ。それ以上でも、それ以下でもないと妖夢は思っている。霊力の補助があれば人間以上の身体能力を発揮する事も出来るが、逆に言えば霊力がなければ普通の人間と大して変わらない。それは二年前に身をもって思い知っている。

 半人半霊の特異性だって、この半霊の存在くらいだ。寿命が長いと言っても人間と比べたらという話であるし、何か特別な能力を共通して持っている訳でもない。確かに物珍しい種族なのかも知れないが、だからと言ってどうこうなる訳でもない。

 

 珍しいのは“人間と幽霊のハーフ”という要素だけだ。“人間と人外のハーフ”ならば幻想郷には幾らでもいるし、そういう意味では別に妖夢は特別でも何でもない。

 

「そうそう。だから半分幽霊のお姉ちゃんなんだよー」

 

 妖夢に続くような形で、こいしがそう答える。まぁ、その程度の認識でいてくれる方が妖夢としても気が楽なのである。

 

「えっと、貴方は確か古明地こいしさんですね。一輪達から話は聞いてますよ」

 

 そんな中。次に白蓮はこいしの方へと視線を向ける。

 

「入道使いのお姉ちゃんから?」

「ええ。旧地獄に佇む白い洋館……地霊殿。その主である古明地さとりさんの妹さん、ですよね?」

「うん。そうだよー」

「という事は貴方は……覚妖怪、なのですか?」

 

 白蓮からの確認。常日頃から天真爛漫な様子の古明地こいしだったが、けれどもその一瞬だけは返答が遅れる。

 口を閉じ、息を飲み込み。やや俯き気味に目を逸らすが、それでも首を縦に振って。

 

「……そうだよ」

 

 そう答えたこいしの声は、いつもよりトーンが低いように感じた。

 躊躇いがちな表情を浮かべるこいし。妖夢達の前でもあまり見せた事のないような迷い。らしくないとも取れる程に口数が減ったこいしだったが、それでも何とか言葉を絞り出そうとしていて。

 

「でも……。私は、心を読む事ができないから……」

「読む事が、できない? それって、どういう……?」

「え、えっと……。それは……」

「……こいしさん?」

 

 心配そうな面持ちで、白蓮がこいしの表情を伺っている。聞くべきではなかったのかも知れないと、そんな後悔を感じているのかも知れない。

 妖夢だって、詳しい話を聞いた訳じゃない。けれども古明地こいしにとって、読心能力の放棄には大きな原因がある。他人のトラウマを蒸し返す事を生業としているはずの覚妖怪が、その心に抱え込んでしまったトラウマ。

 

「あの、こいし様。別に、無理に話さなくても……」

「む、無理なんかしてない! 私は、大丈夫だから……」

 

 お燐がそう声をかけても、こいしは半ばムキになって胸の奥のトラウマを押し殺す。

 こいしにだって意地がある。今さっき会ったばかりの相手に、妙な気遣いをされたくはないのだろう。

 

「……嫌いなんだよ。人の心を覗き見るなんて」

 

 だからこいしは口にする。

 ポツリポツリと、喋り出す。

 

「確かに私達覚妖怪は、第三の眼で他人の心を覗く事が出来る。でもそんな事が出来た所で、良い事なんて何一つなかった」

 

 さとりもこいしも、今は地底に暮らしている。地底とは、地上から追いやられた訳アリ妖怪達が住まう場所。

 誰だって、自分の心を勝手に読まれて良い思いはしないだろう。聞かれたくない秘密や、知られたくない真実。そして思い出したくない記憶(トラウマ)。ありとあらゆる心の内情が、覚という妖怪の前では文字通り筒抜けなのだ。

 

 隠し事だろうが何だろうが関係ない。誰にも知られたくない、心の奥底に仕舞い込んだ自分だけの想いだって、覚妖怪には視られてしまう。

 それ故に。覚という妖怪は、嫌われてしまう傾向が強い。彼らにその気があろうとなかろうと、考えている事が筒抜けなのかも知れないという“不安感”は、覚妖怪を前にすると常について回る事となる。一緒にいたいだなんて、そんな感情、余程の物好きでもない限り抱く事はない。

 

 嫌われ者。それ故の孤独。

 それこそが、覚妖怪の現状だ。

 

「誰かの心を読んだって、最終的には嫌われる。私達だって、必ずしも読みたくて読んでいる訳じゃないのに。読みたくもない“想い”だって、勝手に読めてしまうのに」

 

 読めば読むほど嫌われる。読めば読むほど、心の距離が離れていく。

 それならば。

 

「だから私は心を閉ざした。心を閉ざして、心を読むのを放棄した」

 

 けれどそこまで口にした所で、こいしは首を横に振る。「ううん、違うな」と、彼女は言葉を撤回する。

 

「何も考えなくなった、って言った方が正しいかな。何も考えなければ、相手の心を読んじゃう事もなくなるから。……自分が持っていた本来の『能力』から、逃げたんだよ。だから今の私は、無意識を操る程度の事しかできない」

 

 『無意識を操る程度の能力』。その『能力』は、こいしが持つ“弱さ”の体現だ。読みたくもない心を読んで、一方的に嫌われて。そして、旧地獄へと追いやられる。読心能力を持つが故に、覚妖怪は嫌われる。

 だったら。こちらから、心を閉じれば良いじゃないか。初めから、何も考えなければ。理解しようとしなければ、心を読まなくても済む。無意識の領域に逃げ込めば、読心能力を捨てられる。

 

 心を読むのが、怖い。これ以上、誰にも嫌われたくない。

 だからこいしは、心を読まない。――否、心を読む事ができないのである。

 

「……成る程。そういう事ですか」

 

 静かにこいしの話を聞いていた白蓮だったが、やがて真っ直ぐな眼差しをこいしの方へと向ける。

 古明地こいしの話を聞いて、彼女は一体何を思うのか。可哀そうだと憐れむのか、下らないと蔑むのか。それとも結局、覚妖怪を忌避するのか。こいしもそれを感じてか、思わず身を縮こまらせてしまう。

 だけれども。相手は聖白蓮だ。妖怪の救済を心から願う、命蓮寺の住職なのだ。

 

「貴方は、後悔しているのですか?」

「えっ……?」

「自分の選択を、後悔しているのですか?」

 

 口をつぐんだこいしに対し、優し気な口調で白蓮は続ける。

 

「貴方の今の言葉からは、後ろ髪を引かれるような思いを感じます。心を閉ざす事自体を“逃げ”だと認識しているようですが……。それは間違っています」

「間違い……?」

 

 こいしが浮かべるのは困惑顔だ。今のままで自らが抱いていた価値観が、真っ向から否定されているかのような。そんな困惑。

 

「どうして……? 心と向き合う事自体を、諦めたんだよ? それなのに……」

「それは、貴方の優しさなのではないですか?」

「優し、さ……?」

 

 確かに、こいしは覚妖怪だ。第三の眼を用いる事で、他人の心を覗き見る。そんな『能力』を有していた、一人の覚妖怪だったのだ。

 だけれども。心を読む事ができるからこそ、彼女は誰よりも理解していた。

 

「心を読まれたくはない。自分の想いを知られたくはない。そんな人達の気持ちが分かるからこそ、貴方は自分の『能力』を否定したのではないですか? ……そんな人達を、これ以上傷つけたくはない。貴方はそう思ったからこそ、その選択をしたのではなかったのですか?」

「わ、私……」

 

 古明地こいしは臆病な少女だ。けれども同時に、とても優しい少女でもあるのだ。

 自分の『能力』の所為で、誰かが傷ついてゆく。関係のない人達が、苦しんでゆく。だからこんな『能力』なんて大嫌いだ。

 彼女の心の奥底には、そんな思いが強く根付いていたのかも知れない。

 

「こいし様……」

 

 お燐が不安気な表情を浮かべている。ちょっと懐かれている程度の妖夢なんかよりも、姉のペットとして日々接している火焔猫燐の方が、分かるはずだ。

 古明地こいしの、本質を。

 

「で、でも……。私は、結局……今の『能力』さえも、上手く扱えてなくて……」

「……心を閉ざした事により得た『能力』、ですか」

「うん……。えっと、私って、それなりに人の無意識に影響を与える事ができるんだけど、でも自分の無意識は上手く操れないっていうか……。無意識の内に、色々とトラブルを引き起こしちゃう事もあるみたいで、それで……」

 

 珍しくしどろもどろになるこいし。

 意外な反応だ。彼女は彼女なりに、自分の“無意識”を気にしていたという事か。

 

「……焦る必要は、ないと思いますよ。『能力』を上手く使えないのなら、使い熟せるように精進すれば良いのです」

「精進……?」

「すいません。出会ったばかりの私がこんな事を言うのも、烏滸がましいのかも知れませんが……」

 

 そこで白蓮は一息おいて、

 

「般若心経に“是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき)無受想行識(むじゅそうぎょうしき)”とあります。『空』とは、あらゆる物事に実体は存在せず、常に変化し続けているという事です。つまりその真理の中には“無受想行識”――『受』も『想』も『行』も『識』も存在しません」

「え、えっと……どういう事?」

 

 こいしが首を傾げている。般若心経とは、確か般若思想を説いた経典の事だったか。正直、妖夢もあまり詳しくはないのだけれど。

 白蓮曰く、『空』とは諸行無常。実体も感受も発想も意思も思想も存在しないという事らしいのだが、つまるところだとするのならば。

 

「通常、心を閉ざす……つまり何も考えていなければ、動く事すらできません。当然です。思考を止めてしまったら、身体を動かす事すらできなくなるのですから。けれどこいしさんは、そうではない。あちこち出歩いたり、誰かと遊んだり……こうして私をお話ししたりしています。それはつまり、ありのままの姿で行動出来ているという事になりませんか?」

「あの……それじゃあ白蓮さんは、こう言いたい訳ですか?」

 

 そこで妖夢は、おずおずと口を挟む。

 

「こいしちゃんは心を閉ざした訳ではなく、般若思想でいう所の『空』に迫っているかも知れない……と」

「ええ。そういう事です」

 

 妖夢は思わず思案する。

 確かに、考えてみればおかしな話だ。古明地こいしは心を閉ざして読心能力を封印した。けれどそれでも、彼女はこうして妖夢の前に現れている。あんなにも嬉しそうな表情を浮かべて、妖夢に懐いてくれている。

 心を閉ざしたはずなのに、彼女は感情を表に出しているではないか。それでは“心を閉ざした”とは言えない。“何も考えてない”とは、到底思えない。

 

「十中八九偶然でしょうけど、私にはそう見えます。けれど話を聞いた限りでは、まだ完全に『空』に到っている訳ではなさそうですね。時折無意識に飲み込まれてしまう事もあるようですし、それでは不完全だと言わざるを得ません」

「そ、それじゃあ、私は……」

 

 顔を上げたこいしは、不安気な表情で白蓮を見つめている。

 混乱しているのだろう。自分自身でも心を閉ざしたと思い込んでいたのに、実際は自分でも気づかぬ内に別の境地へと足を向けていたのだから。何をどうすれば最善なのかと、分からなくなってしまうのも無理はない。

 そんなこいしの不安に答えるかのように、白蓮は優し気な表情を浮かべる。優しく微笑み、そして彼女は口にした。

 

「こいしさん。よろしければ、ウチで修行してみませんか?」

「えっ……?」

「『空』に到るとは、修行を積んだ僧侶でも難しい事です。けれど貴方は、その真理に近づきつつあります。完全に到る事が出来れば――悟りの境地に近づく事が出来れば、貴方はその『能力』をものにする事ができるようになるはずです」

 

 それは入門の勧誘。けれど聖白蓮からは、下心など微塵も感じられない。

 本当に、優しい人なのだろう。優しい人だからこそ、彼女は見捨てる事ができない。古明地こいしというこの少女に、手を差し伸ばさずにはいられない。

 

「私達なら、きっと貴方の力になれるはずです。もしも貴方にその気があるのなら、私達は喜んで貴方を歓迎しましょう」

「わ、私は……」

 

 成る程。どうして白蓮が命蓮寺の住職なのか、何となく分かったような気がする。

 言うなれば彼女は、お人良しなのだ。仏門に入っているのにも関わらず、彼女は妖怪を救済しようとする。――否、妖怪だろうが人間だろうが、まとめて助けようとしてしまう。彼女にとって、その二種族の間には壁など存在しないのだろう。

 誰かを助ける事に理由など求めない。助ける事ができるのならば、それは助けて当然だ。

 人格者なのだろう。故に彼女は、命蓮寺の住職足り得ている。彼女を信じ、彼女に着いてゆく妖怪達がいる。

 

(確かに、この人なら……)

 

 古明地こいしの問題を、解決できるかも知れない。

 だけれども。そんな中でも、苦言を漏らす人物が一人。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ……!」

 

 火焔猫燐である。

 彼女は慌てた様子で、こいしと白蓮の間に割って入ると、

 

「そんな、勝手に話を進められたら困るよ……! 入門って……さとり様ともちゃんと相談しなきゃならないし、それに……」

「……分かった。私、命蓮寺に入門する!」

「ちょ、こいし様!?」

 

 お燐を無視して心を決めたこいしに対し、当然ながら彼女は更に狼狽を露わにする。

 別に、お燐だって白蓮の事を信用していない訳ではないのだろう。けれど彼女はさとりのペット。主であるさとりに頼まれて、こいしの捜索を任された身である。それなのに、さとりの知らない所でこんな話が勝手に進んでしまうなど――。彼女も気が気じゃないのだろう。

 

「えー! いいじゃん! きっとお姉ちゃんも許してくれるよ!」

「そ、そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃないですか! さとり様はただでさえ、こいし様の事を心配しているんです! それなのに……!」

「だ、だって……! だって、私……!」

 

 ぎゅっと、こいしは自らのスカートを握り締める。

 

「これ以上……お燐にだって迷惑をかけたくない」

「えっ……?」

「『能力』を使いこなせるようになれば、きっと私の“癖”も治る。これ以上、トラブルを引き起こさずに済む……。そうすれば、お姉ちゃんにだってきっと……」

「こいし様……」

 

 いつもの突発的な思いつきなどではない。軽い気持ちで流された訳でも決してない。

 彼女は必死だった。純粋無垢で邪気のない普段の振る舞いの裏で、同時に彼女は苦悩していたのだろう。読心能力の放棄、その選択の是非を。そして『能力』の暴発による、家族への心労を。

 

「すいません。確かにお燐さんの言う通り、話が少し飛躍し過ぎたかも知れませんね」

 

 そんなお燐達のやり取りを見て、聖白蓮はそう切り出す。

 

「慌てる必要はありません。まずはご家族と相談して、よく考えてから決めるべきでしょう」

「で、でも……」

「こいしさん。貴方が焦る気持ちも分かります。けれどここで慌てても、そのご家族にいらぬ心配をかけてしまう事になりますよ?」

「……っ」

「大丈夫です。私達はいつだって、逃げも隠れもしませんから」

 

 そう。白蓮の言う通り、ここで焦っても仕方がない。焦って、慌てて、その状態で一歩前に踏み出したとしても。それはそれで、古明地さとりにいらぬ心配をかけてしまう。

 今のこいしに必要なものは時間だ。たった一人の姉である、古明地さとりと向き合う時間。それが分かっているからこそ、白蓮はそう口にしたのだ。

 

 古明地こいしは口をつぐむ。俯いて、スカートを握る拳に力を入れて。そして暫しの沈黙を挟んだ後に、彼女は肩の力を抜く。

 

「……分かった」

 

 そして彼女は、顔を上げた。

 

「お姉ちゃんと、お話しする。お話してから、決める」

 

 バツが悪そうな表情。けれども決して、さとりとの対面を嫌がっている訳ではない。

 姉妹間特有の羞恥心、みたいなものなのだろう。そうする事が最善であると、自分でも分かっているはずなのに。けれどどうしても、素直になれない。自分でも思わず、反抗的な態度を取ろうとしてしまう。

 こいしだって、難しいお年頃なのだ。

 

「ええ。分かりました」

 

 こいしの気持ちを汲み取ってか、聖白蓮は破顔する。

 包容力を感じさせる、優し気な笑顔。それを彼女は目一杯に浮かべて、こいしの思いを受け入れる。

 

「貴方をお待ちしてますね。こいしさん」

 

 古明地こいしは覚妖怪だ。けれど覚妖怪でありながら、彼女は読心能力を放棄した。

 けれどその選択は、間違ってなどいない。それはあくまで、星の数ほど存在していた一つの可能性に過ぎないのだ。

 それならこいしは、その道を突き進めばいい。心を読むという『能力』以外の、彼女だけの価値観を見出せばいいじゃないか。

 

 聖白蓮との出会いが、彼女にとって良い影響を与えてくれるというのなら。

 ()()()()だって、もしかしたら――。

 

 

 *

 

 

 日の光もだいぶ地平線に遮られつつある時間帯。妖夢達は今度こそ、命蓮寺を後にしていた。

 思ったより長居する事になってしまった。本来ならば、もう少し早い時間帯にこいしを地底まで送り届けるはずだったのに。宝塔を探して、香霖堂まで足を運んで、そして最後に命蓮寺を訪れる事となって。考えてみれば、随分と濃い一日だったように思えてくる。

 

「ふぅ、もうすっかり真っ暗だねー」

「そうだね。流石にそろそろ帰らないと、さとりさんも心配しているだろうし……」

 

 さとりの事もそうだが、妖夢だってあまり帰りが遅くなる訳にはいかない。今日一日が休暇だとは言え、帰りが遅いと幽々子にいらぬ心配をかけてしまうだろう。仕える主にそんな不安感を煽ってしまうなど、剣士としては言語道断である。

 

「そういえばさ、妖夢はよかったの?」

 

 命蓮寺を後にする道すがら。思い出したかのように、お燐が妖夢に声をかけてくる。

 

「え? 何がです?」

「ほら、妖夢も入門を勧誘されてたじゃん。それなのに断っちゃったからさ」

「ああ……その事ですか」

 

 実はあの後、妖夢も白蓮に入門の勧誘をされていた。

 何でも聖白蓮は、人と人外の共存を夢見ているらしい。“人も妖怪も神も仏も同じ”という絶対主義を掲げているらしく、その思想のもと日々修行に励んでいるようだ。人間と幽霊のハーフという、言うなれば人と人外の特徴を併せ持つ魂魄妖夢に対し、白蓮はそんな思想における一つの真理を見出したそうなのだけれど。

 

「うーん、修行に関しては興味がありますけれど……でも私も忙しいですから……。ただでさえ永遠亭に通っているのに、それに加えて命蓮寺にまで入門しちゃうのは流石に……」

「そっか……」

 

 確かに鍛錬も大事だが、流石にそればかりにかまける訳にもいかない。

 今の妖夢にとって、最重要事項は西行寺幽々子に仕える事。幽々子の事を守る義務がある。

 

 だから妖夢は、命蓮寺の信者にはなれない。もっともっと強くなる必要はあるのだけれど、でも。

 

(私は……)

 

 幽々子を――。

 

「……ッ!」

 

 その時だった。

 ゾクリと、妖夢の背筋に悪寒が走ったのは。

 

(えっ……?)

 

 奇妙な感覚。

 何かが、おかしい。

 

「妖夢?」

 

 名前を呼ばれる。おずおずと視線を向けると、不安気な表情を浮かべるこいしの姿が目に入って。

 

「どうかしたの?」

「え? あっ、いや……」

 

 上の空気味に答えつつも、妖夢は再び視線を戻す。

 その先にあるのは命蓮寺。けれど一瞬感じたあの奇妙な感覚は、いつの間にか綺麗さっぱりなくなってしまっていて。

 

(……気の所為?)

 

 気の所為、だったのだろうか。あの、()()()()()()()()()()かのような、胡乱な感覚は――。

 

「大丈夫?」

「う、うん……。平気だよ」

「本当に?」

「本当に大丈夫だって。何でもないから……」

 

 一抹の不安感。けれどその原因が分からない。

 何かが起きようとしている? けれど、一体何が? 命蓮寺にいた時は、奇妙な感覚などこれっぽっちも感じられなかった。けれど今さっき突然感じた、あの感覚は――。

 

「…………っ」

 

 分からない。全くもって、訳が分からないのだけれども。

 何かが違う。何かが変だ。決定的な何かが、少しずつ狂い始めているような。そんな感覚。

 

(まさか……)

 

 底知れぬ不安感。むくむくと膨れ上がるそれを胸中に感じながらも、妖夢は命蓮寺を後にするのだった。


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