桜花妖々録   作:秋風とも

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幕間1「幽冥楼閣の亡霊少女」

 

 冥界。それは罪のない死者が、成仏するか転生するまでの間を過ごす世界。荒涼とした地獄とは対照的に、清澄で粛然たるその死後の世界は、訪れた者に安息をもたらしてくれるような不思議な魅力がある。四季の変化も存在し、春には満開の桜で幽雅に彩られ、秋には紅葉で優美に染まる。文字通りこの世のものではないようなそのあまりの美しさに、成仏や転生を忘れてここに留まる幽霊も多いと言われている。

 

 そんな長閑やかで風光明媚な死後の世界に、とある広大な日本屋敷がある。途方もない程に長く高く伸びる石段の先に佇むそれは、冥界の中枢とも言える特別な楼である。

 その日本屋敷の名は、白玉楼。冥界に永住する事を許可されている名家、西行寺家が所有する大豪邸と言えば、その存在を知らぬ者はいないだろう。見事な枯山水の中庭を持つ白玉楼は、冥界の風景とはまた違った美しさを醸し出していた。

 

 その屋敷の大広間。優美な日本庭園が一望できるそこに、湯呑みから日本茶を啜る一人の少女がいる。

 妖艶な雰囲気を装う少女だった。透き通るような白い肌に、儚げな桜色の髪。そしてその身に纏うのは、水色を基調とした装束。どことなく人間離れしたような印象を受ける少女だが、そもそも彼女は人間ではなく亡霊である。

 少女の名は、西行寺幽々子。彼女こそがここ白玉楼の当主であり、そして閻魔より幽霊の管理を任されている人物であるという事は、最早言うまでもない。実はこう見えて、既に千年以上の時を過ごしているのである。

 

 静かな白玉楼の大広間で一人日本茶を啜っていた幽々子だったが、湯呑みから口を離すや否や、溢れたのは溜息だった。普段は飄々として掴み所のない彼女でも、今回ばかりはその感情が表情に浮かびつつある。

 ふと、幽々子は中庭へと目を向ける。松の木が植えられた、広大な日本庭園。本来なら今頃は専属の庭師が手入れを行っている時間帯だが、しかし現在は耳が痛くなるような静寂に包まれている。彼女が忙しなく動き回るあの物音は、既に何日も聞いていない。

 

 白玉楼専属の庭師兼、剣術指南役の少女。魂魄妖夢が行方不明になってから、既に一週間以上が経過していた。

 

「妖夢ったら……一体どこに行っちゃったのかしら?」

 

 幽々子は独りごちる。

 初めて妖夢の失踪に気づいたのは、約一週間前の夕食時だった。普段から時間厳守を心がけている彼女が珍しく夕食時になっても現れず、かと言って厨房で料理を作っている訳でもない。初めこそ少し妙に思った幽々子だったが、妖夢は未だ半人前である。たまには何かしらの作業に手古摺って、時間に遅れてしまう事もあるだろうと、そんな恣意的な解釈で勝手に納得してしまっていた。

 

 だけれども、幾ら何でも。一週間経っても全く姿を現さないとなると、流石に心配になってくる訳で。

 あの生真面目な妖夢が、幽々子に断りを入れずに姿を消すなんてあり得ない。となると、何らかの異変に巻き込まれてしまったのではないかと。そう考えてしまうのは、冥界、延いては幻想郷の住民としてごく全うな思考である。

 

 無論、妖夢を侮っている訳ではない。半人前ではあるとは言え、彼女の剣術は並みの剣士を軽く凌駕する。何らかの異変に巻き込まれていたとしても、妖夢なら一人で文字通り切り抜ける事が出来るだろう。

 しかし。しかし、だ。問題は他にもある。妖夢不在と言うこの状況、白玉楼にとって――否、幽々子にとって、これは死活問題とも言える由々しき事態である。既に死んでいるけれど。

 

 その問題、とは――。

 

「お腹……空いた……」

 

 ドサりと机に突っ伏しつつも、幽々子は盛大に腹を鳴らした。

 

 白玉楼には基本的に幽霊しかいない。冥界なので当然と言えば当然なのだが、それでは一つ不都合なことがある。

 気質の具現である幽霊には基本的に肉体がなく、その姿は空気のように不定だ。死後の世界である冥界ならともかく、顕界では個として実体を持つ事はほぼ不可能である。更に幽霊は人間の精神に強い影響を及ぼす存在であり、場所によっては忌避される事もままある。

 

 つまり。何が問題なのかと言うと、ただの幽霊では食材等の買い出しの為に顕界に行く事が出来ないと言う事だ。それ故にこれまでは、その役割は妖夢が一挙に引き受けていたのである。

 その妖夢が不在、と言うことは。

 

「あぁ……まずいわこれは……。お茶なんて幾ら飲んでもお腹膨れないわよぉ……」

 

 机に突っ伏したままで、幽々子はぼやく。

 亡霊なので別に食事など取らずとも正直問題ないのだが、それとこれとは話が別である。食事を取る必要が無くとも、腹は減る。さっきから空腹のサインが一向に鳴り止む気配がない。日本茶を啜って誤魔化そうとしてみても、気休めにもならない

 これはまずい。死ぬ。死んでいるけど、もう一回死ぬ。

 

「まったく……貴方は相変わらずねぇ……」

 

 幽々子がいつまでも突っ伏していると、耳に流れ込んできたのは嘆息混じりの呆れ声。幽々子もよく聞き覚えがある、透き通った清らかな声だ。一人の少女の姿を思い浮かべながらも、幽々子はもぞもぞと顔を上げる。そこにいたのは案の定、

 

「ご機嫌いかがかしら?」

 

 艶のある金色の長髪。ナイトキャップにも似た白い帽子。菖蒲色と白を基調としたドレス姿。幽々子の唯一無二の親友、八雲(やくも)(ゆかり)その人だった。

 人の目を引く程の美貌を持つその少女は、突っ伏したままの幽々子を見下ろしながらも苦笑いを浮かべている。いつ来ても食べ物の事ばかり考えている親友を前にして、流石の彼女も呆れ気味らしい。

 そんな少女の冷ややかな視線をスルーしつつも、幽々子は開口。

 

「あら。いらっしゃい、紫」

 

 ふるふると手を振りながらも、幽々子は力なく紫を出迎えた。その様子を目の当たりにして、紫は再び溜息。

 

「……一応聞くけれど、一体どうしたの? 随分とやつれているみたいだけど」

「どうしたもこうしたもないわよー……。ほら、今の白玉楼って、幽霊しかいないでしょ? だから顕界に買い出しにも行けなくって……。お陰で食べ物不足よ」

 

 幽々子本人が買いに行けばいいのではないか――などと思うかも知れないが、そうはいかない。先にも述べた通り、彼女は閻魔より幽霊の管理を任されている身。そうでなくとも白玉楼の当主である幽々子は、好き勝手に顕界に赴く訳にはいかないのである。

 まぁ。過去に異変が起きた際、何度か顕界に足を運んではいるのだが。

 

「ちゃんと食事は出ているでしょ? たまに(らん)にも手伝わせているし」

「またまたぁ、何言ってるのよ紫~。足りないのは間食用に決まっているじゃないの。いい? よく聞いて。お昼に高々どんぶり十杯程度のご飯を食べてから、私はこれまでお茶以外何も口にしていないのよ? どう? 凄いと思わない?」

「…………」

 

 どこからつっこめば良いのだろう。

 

「ほら、この前お煎餅持ってきてあげたじゃない。一斗缶一つ分。あれはどうしたのよ?」

「あんなの、もう全部食べちゃったわよ」

「……冗談よね?」

「あのお煎餅は美味しかったわ~。一日で食べ終わっちゃったけど」

「待って幽々子。ごめんなさい、なんだか私頭が痛くなってきたわ……」

 

 どうやら紫は幽々子の食欲を少々侮っていたらしい。幽々子が幻想郷に名を轟かせる程に健啖な亡霊である事は周知の事実であるのだが、それにしてもまさかこれ程とは。そんな彼女に振り回されて日々買い出しやら何やらに駆り出されているあの半人半霊の少女には、最早ご愁傷様としか言い様がない。

 

 そのような紫の心境など露知らず。その腹ペコ亡霊は、相変わらずのぽやぽやとした表情を浮かべて、

 

「あらあら、大丈夫? 妖怪でも体調崩したりするのかしら?」

「あ、貴方ねぇ……」

 

 八雲紫は妖怪の賢者であり、幻想郷の管理者でもある。

 スキマ妖怪と通称される幻想郷最古の妖怪で、可憐な容姿に反してその身に有する力は強大である。彼女の持つ『境界を操る程度の能力』は、どれ程に強大でかつ危険なのか測り知れない能力であり、恐れる者も多いと聞く。不明瞭なその能力と彼女が持つ胡散臭さが相俟って、八雲紫という妖怪は掴み所のない不気味な存在であると一般的に認知されている。

 

 そんな彼女さえも振り回し、更には困惑させているのだ。幽々子の食欲の異常性は、それだけで十二分に示されていると言える。

 

「まぁ、いいわ。貴方のその食欲は、今に始まった事じゃないし」

「うふふ、私はいつでも食べる事が大好きよ~。と言う訳で紫。何か食べ物持ってない?」

「私に(たか)らないでくれるかしら?」

「えー、この前はお煎餅くれたじゃない。紫のケチ!」

「いや、ケチって……。あのねぇ、幽々子。いくらなんでも貴方は少し食べ過ぎなのよ。この際だから、少しでも量を減らせるように……。って、そんな事を言いに白玉楼まで来たのではなかったわね」

 

 ぐちぐちと説教を始めそうになった紫だったが、どうやら本来の目的を思い出したようだ。こほんっと一度咳払いし、あらぬ方向に行ってしまった話題の軌道修正をする。

 

「幽々子。妖夢の事だけれど」

 

 紫が口にした途端、幽々子の雰囲気が変わった。

 白玉楼当主としての威厳も、幽霊を管理する身としての厳格さも。カリスマも何もこれまで微塵も感じられなかった幽々子だったが、その一瞬で彼女の纏う雰囲気は確かに張り詰めたものへ変わる。

 突っ伏した状態から幽々子はおもむろに身体を持ち上げ、そして紫へと視線を向けた。

 

「見つかったのかしら?」

 

 そこにいたのは、先ほどまでの自由奔放で食べる事しか考えていないような少女ではない。冥界に永住する事を許可され、閻魔より幽霊の管理を任された『冥界の管理者』だった。

 

 妖夢が行方不明になってから、幽々子は何の行動も起こしていなかった訳ではない。冥界の管理者としてでも、白玉楼の当主としてでもない。ただ純粋に、西行寺幽々子という個人として。妖夢を助け出したいと、心から思っている。

 先にも述べた通り、別に妖夢を侮っている訳ではないのだが、万一という事もある。せめて、彼女が今どこにいるのか。その大まかな位置だけでも把握しておきたかった。

 だけれども。幽々子だけの力では、行方不明になった妖夢一人を捜し出す事は流石に難しい。そこで彼女は親友の力を借りる事にしたのだ。

 

 紫の持つ『境界を操る程度の能力』。それを上手く応用すれば、短時間で広範囲を捜索する事も可能である。彼女の能力を駆使すれば、大まかどころか具体的な位置さえも把握出来るのではないか。幽々子はそう考えていた。

 

 しかし。

 

「そうね。結論から言わせてもらうわ」

 

 緊迫した面持ちで、紫が口にした内容は。

 

「冥界にも、幻想郷にも、そして外の世界にも。妖夢は()()()()()()()()()わ」

 

 息が詰まるような感覚に襲われた。

 

 この一週間、幽々子は幽々子なりに妖夢の捜索をしていた。その結果、確かに彼女は冥界のどこを捜しても見当たらなかった事を確認している。であるのなら、考えられるのは幻想郷か外の世界か、或いは天界か地獄か。とにかくどこかしらにはいるはずであると、そう思っていた。

 だけれども、どうだろう。今この瞬間、紫は断言した。妖夢はどこにもいなかった、と。まるで存在そのものが、消えてしまったかのように。

 

「それは……、どういう事かしら?」

「言葉通りの意味よ。どこを捜しても、妖夢は見つからなかったのよ」

「……どこか見落としている所があるんじゃない?」

「いいえ、隅々まで捜したわ。勿論地獄や天界もね。お陰で一週間もかかっちゃったわ」

 

 地獄や天界、そして彼岸等は、幽々子も紫も管轄外の世界だ。そこまでも捜索するとなると、幾ら紫でも簡単にはいかない。紫ほどの存在が無闇に接触してしまうと、そちらの世界の均衡に影響を及ぼしかねないからだ。故に彼女の能力を以てしても、捜索に一週間もかかってしまった訳だ。

 

「結局骨折り損に終わってしまったけれどね」

「そう……」

 

 幽々子は考える。

 冥界も駄目、幻想郷も駄目。かと言って地獄や天界、彼岸にもいない。外の世界も空振り。そうなると、これ以上どこを捜せば良いのだろう。まだ、捜していない所と言えば――。

 

「……私達は、てっきり妖夢は結界を越えちゃったんじゃないかと考えていたけれど」

 

 考え込んでいると、紫が口を挟んでくる。

 

「ひょっとしたら、あの子はもっと大きな“何か”を越えてしまったのかも、ね……」

「もっと大きな……何か……?」

 

 もっと大きな何か。それは一体、何の事なのだろう。冥界と顕界との間にある壁も、幻想郷全土を覆う博麗大結界も。それら全てを凌駕する、もっと大きな――概念的な何か。

 いや。まさか、とは思うが――。

 

「まぁ……私の方でも、もう少し調べてみるわ。何か分かったら、また連絡するわね」

「ええ、分かったわ。……ごめんなさいね。もう直ぐ冬だと言うのに、手を煩わせてしまって」

「いいのよ。私と貴方の仲じゃないの。それじゃ、今日はこの辺で失礼するわ」

 

 それだけを言い残し、紫はスキマを開いて去って行った。

 

 大広間には幽々子一人になり、再び静寂が訪れる。物音も、誰かの息遣いも。何も聞こえない。ただ、しんっと、静まりかえる。

 ここは冥界。人も、鳥も、虫も。いるのは死者ばかりなのだから、音が立たなくて当然である。静寂こそが、冥界の本質。

 

 そんな中で。幽々子は中庭へと視線を泳がす。

 

(妖夢……)

 

 毎日のように庭の手入れをしていた半人半霊の少女は、今はいない。

 

(貴方は一体、どこにいるの……?)

 

 玉砂利が敷き詰められ、見事な松の木が植えられた枯山水は、しかしどこか淋しげだった。


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