桜花妖々録   作:秋風とも

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第50話「幻想の世界」

 

 時に、白玉楼には剣道場が設けられている。

 冥界最大級とも言える敷地面積を誇る日本屋敷、白玉楼。その一角に設けられたこの剣道場も、例に漏れず広い。敷き詰められた木質系の床は隅々まで掃除が行き届いているようで、眩しいくらいにピッカピカである。それでいて極端に滑りやすいという訳でもなく、適度なしなやかさも併せ持っているようだ。白玉楼には掃除等の雑務を担当する幽霊も何体か雇われているが、この最善の状態はそんな幽霊達の努力の賜物と言えよう。

 

 剣道を行う上で最適な環境が常にキープされている剣道場。そこで今、竹刀を打ち合う乾いた音が響き渡っている。向き合っているのは二人の少女。その片方が振り下ろした竹刀をもう片方の少女が竹刀で受け止め、往なし続けている。二つの竹刀がぶつかる度に乾いた音が響き、けれどそれでも彼女は攻撃の手を止めない。何度も何度も往なされようとも、何度も何度も食らいつく。

 

「えい! やあ!」

 

 声を上げながらも竹刀を振るう少女だったが、けれどその様子は些か不格好だ。全く剣に触った事のないようなずぶの素人ほどではないが、それでも剣を振るう事があまり得意ではない様子。あまりにも大振りで、あまりにも力任せ。その上あまりにも単調だ。これでは剣の軌道を読む事さえも容易い。

 結果として彼女の竹刀は往なされ続け、いつまで経っても堂々巡りなのである。

 

「あっ……!」

 

 バランスを崩した。

 相も変わらず力任せに振るっていた為に体重が一気に前方へと移動。これでは踏ん張る事すらままならず、重力に引っ張られて成すがままになってしまう。そのまますってんころりんと躓いて、彼女はビタンと音を立てて転んでしまった。

 

「ふぐっ!?」

 

 顔面強打。これは、かなり痛いヤツである。涙目になりながらも、彼女は鼻を抑えて悶え始める。

 そんな様子を目の当たりにしたもう片方の少女が、慌てた様子で駆け寄ると、

 

「わわっ……! だ、大丈夫ですか幽々子様……?」

「いたーい! もーう、大丈夫じゃないわよぉ! 思いっ切りお鼻ぶつけちゃったんだからぁ!」

 

 真っ赤になった鼻を摩りながらも顔を上げた少女――西行寺幽々子は、真っ先に妖夢へと不平を述べていた。

 目の前にいる銀髪の少女。魂魄妖夢は白玉楼専属の庭師兼、幽々子の剣術指南役である。剣術指南役という事は文字通り剣術の指南をしてくれるのだが、これが中々に容赦がない。はっきり言って幽々子はあまり剣の扱いが上手い方ではなく、妖夢とまともに打ち合えば二分ともたずに下されてしまうだろう。

 

 無論、これは試合などではなく稽古である。一応、幽々子のペースに合わせてくれてはいるのだが、それでもキツイものはキツイ。

 

「もうちょっと手加減してくれてもいいじゃない! お陰で転んじゃったわ!」

「て、手加減って……。私さっきから一切攻めてませんし、これ以上はどうにも……。というか、転んだのは単純に幽々子様の自滅じゃ……」

 

 妖夢の意見は正論である。彼女の言う通り、先程からずっと幽々子の竹刀を往なし続けるだけで、妖夢は一切攻撃してこない。これ以上手加減しろなどと言われても、ぶっちゃけどうしようもないだろう。それは幽々子だって分かっているのだけれども。

 

「うぅ……。剣術って難しいのねぇ……」

 

 ここまで上手くいかないと、不平だって言いたくなってくるのである。

 

「え、えっと……。それじゃあ、今日はこの辺にしましょう! 一度日を改めて身体を休めれば、きっともっと上手く……」

「……まだよ」

「……えっ?」

 

 しかし幽々子は、屈しない。

 

「ま、まだ……? 続ける、という事ですか?」

「だって悔しいじゃないのよぉ! 一方的にやられっぱなしなんて、流石の私もプライドが許さないわ!」

「……っ」

 

 声を荒げる幽々子の姿を目の当たりにして、きょとんとした表情を浮かべる妖夢。まるで珍しいものでも見ているかのような様子の妖夢に対し、幽々子は訝しげに声をかけた。

 

「なーに、その顔?」

「い、いえっ! そ、その……。幽々子様が剣の稽古にそこまで積極的なのも珍しいと思いまして……」

「えー、そう?」

「さ、さっきだって……。まさか幽々子様の方から剣の稽古をして欲しいなんて、想像もしていませんでしたし……」

 

 確かに。魂魄妖夢は幽々子の剣術指南役としての役割も担っているものの、けれど当の幽々子があまり乗り気ではない場合が殆どである。そもそも幽々子が剣術指南に対して積極的な姿勢を見せる事は本当に稀で、大抵は妖夢やその他の幽霊に言われて渋々稽古を受けるという形になる。

 けれど今日ばかりは違った。他の誰かに促されるよりも先に、幽々子の方から剣の稽古を申し出たのである。つい昨日までは至極消極的であったはずなのに、だ。

 

「うーん……。まぁ、たまにはいいじゃない。妖夢だって、庭木の剪定や家事ばっかりじゃ飽きちゃうでしょ?」

 

 取り合えず適当にそんな事を言って誤魔化そうとしてみるが、それでも妖夢はイマイチ納得できていない様子。まぁ、無理もないのかも知れないけれど――。

 

「ほらほら、無駄話ばかりしてないで、続けるわよー! 今度こそ一本取ってみせるんだから!」

「は、はい……」

 

 幽々子には幽々子の考えがある。けれどここで妖夢にそれを説明するのは躊躇われる。

 それ故の誤魔化し。今は剣術指南に集中させ、あまり意識を傾けないようにして貰おう。今は何も考えず、幽々子に付き合ってくれるのならそれでいい。

 

 未だに困惑顔を浮かべる妖夢を、無理矢理丸め込んで。幽々子は再び竹刀を振り上げるのだった。

 

 

 *

 

 

 そしてそれから二時間後。

 

「はぁぁぁぁ……」

 

 深々と息を吐き出しつつも、幽々子はぐったりと机に突っ伏していた。

 身体が重い。久しぶりに思い切り竹刀を振った所為か、両腕がパンパンである。この様子では明日は筋肉痛確定であろう。存在がそれほど希薄ではない亡霊だからこそ、筋肉痛などといった痛みもガッツリと受けてしまうのだ。幽霊と違って壁をすり抜ける事もほぼ出来ないし、意外と不便だったりする。

 

「ふぅー……。慣れない事はするもんじゃないわねぇ……」

 

 突っ伏したままで、幽々子は呟く。

 幽々子の稽古が終わった後、妖夢は庭師として庭の手入れを行っている。この部屋からでは彼女の仕事姿を見る事はできないが、きっと今頃は枯山水の整備でもしている事だろう。相も変わらず、仕事熱心な少女である。

 

「妖夢……」

 

 そんな庭師の少女の姿を、幽々子は思い浮かべる。

 彼女があそこまで仕事熱心なのは、今に始まった事ではない。昔から彼女は幽々子に対して非常に真摯な姿勢で接してくれており、庭師や剣術指南役としての役割だけに留まらず、様々な仕事を熟してくれている。家事炊事は勿論の事、事務的な役割から白玉楼の警備まで。彼女の仕事内容は多岐に渡る。

 

 だけれども。それを加味しても尚、最近の彼女はどこかがおかしい。

 まるで、強い使命感に取り付かれてしまっているかのように。ここ最近の彼女は、より一層努力――否、より一層自分を()()()()()()()かのような。そんな気がする。

 

(やっぱり……。二年前のあの日から、よね)

 

 二年前。行方不明になっていた四ヶ月間に、妖夢の身に一体何が起きていたのか。それは彼女の口から直接聞いている。聞いているのだけども――。

 

「ごきげんよう、幽々子。随分とお疲れみたいね」

 

 突っ伏しつつもあれこれと考えを巡らせていた幽々子だったが、不意に声を掛けられて身体を持ち上げる。おもむろに視線を向けると、そこにいたのは馴染み深い一人の少女。

 

「あら、紫じゃない。そうなのよー。もうクタクタで……」

 

 相も変わらず神出鬼没なスキマ妖怪――八雲紫の登場に特段驚くような素振りも見せず、幽々子は再びぐったりと机に突っ伏してしまった。

 いきなりスキマを開いての登場。昔はそれなりにびっくりしていたような気がするが、今や完全に慣れてしまった。最早ただ単に急に現れる程度では、幽々子は全く動じないだろう。

 

 それはさておき。いつにも増してぐったりとした様子の幽々子を目の当たりにして、紫は微笑すると、

 

「ふふっ……。随分と頑張ってたもんね。珍しいじゃない。貴方があそこまで熱心に剣術指南を受けるなんて」

「あら? 見てたの?」

「ええ。スキマの陰からこっそりと、ね」

 

 悪戯っぽい表情を浮かべて、紫がそう答える。この口振りから察するに、幽々子が盛大にすっ転んでしまったあの瞬間も見られてしまったのだろうか。だとすれば流石に恥ずかしい。バツが悪そうな表情を浮かべつつも、幽々子は人差し指で頬を掻いた。

 

「どういう風の吹き回し? 剣術に興味を持ったの?」

「うーん……。興味というか何というか……」

 

 その辺の事情を簡潔に纏めるのは難しい。紫の言葉は強ち間違ってはいないのだけれども、だからと言ってその通りであるという訳でもない。

 剣術にだってそれなりに興味はある。けれど今回の場合、それが直接的な原因となってあそこまで積極的になった訳ではないのだ。なぜ幽々子が自ら剣術の稽古を申し出たのか。なぜらしくもなくあそこまで積極的に竹刀を振るっていたのか。

 

 それは、魂魄妖夢という少女に起因する。

 

「ここ最近の妖夢……。少し根を詰めすぎだと思うのよ」

 

 身体を持ち上げつつも、幽々子はそう口にする。

 

「お仕事に関してもそうだけど、特に剣術鍛錬。定期的に顕界に行って何かやってるみたいだし、それに……」

 

 魂魄妖夢の状態。それを脳裏に思い浮かべて、幽々子は難しい表情を浮かべた。

 

「あの子……全然休んでないみたいなの。私の前じゃ涼しい顔をしているけれど、でも……」

 

 西行寺幽々子は知っている。

 確かに妖夢は剣士だ。日々剣術を磨き続け、時には主を守る為にその剣を振るう。そんな剣士としての矜持を持って、妖夢はこれまで鍛錬を続けてきた。それは間違った行いではない。

 だけれども。剣士である以前に、魂魄妖夢は女の子だ。思春期の町娘達と何ら変わらない、か弱い女の子に過ぎないのだ。

 

 精神的な面で言えば、彼女だけが特別だという訳ではない。それが意味する事は、即ち。

 

「無理をしている。貴方はそう感じたのね」

「……ええ」

 

 どうしてそこまで強さを求め、どうしてそこまで頑張るのか。それを尋ねた所で、きっと彼女は幽々子の為だと即答するだろう。その気持ちは幽々子からしてみても嬉しい。

 けれども。だからと言って、そこまで無理してまで尽くしてくれるような事など幽々子は望んでいない。あくまで妖夢は西行寺幽々子の従者というだけであって、幽々子の所有物という訳ではないのだ。

 

 幽々子の為だけじゃない。もっと彼女は、自分の為に何か行動を起こすべきだ。

 あんなにも、気を張り続ける必要なんてない。

 

「成る程ねぇ……。だから剣術鍛錬を申し出た、という事かしら? 一人でやるより、貴方と二人でやった方が多少なりとも気を紛らわす事ができるはず……と」

「そういう事。まぁでも、あんまり効果はなかったみたいだけれど……」

 

 幽々子への剣術指南を経て、多少なりとも気を紛らわす事は出来たのかも知れない。だけれども、それだけだ。あの程度では気休めにもなってないだろうし、今も尚根を詰めている事に関しては相変わらずである。あれでは効果があったとは言えない。

 

「まぁ……。確かに、幽々子の気持ちも分かるわ」

 

 机を挟んで幽々子の前へと回り込むと、紫もまた腰を下ろす。

 

「根を詰めすぎというのも、あまり良い傾向とは言えないわよね。幾らあの子でも、そのうち倒れてしまうかも知れないし」

「……そうよね。何とかしてあげたいと思うんだけど……」

「そうねぇ……」

 

 せめて彼女の心持ちを少しでも軽くしてやれればいいのだが――。

 

「それじゃあ、思い切ってこうしてみるのはどうかしら?」

「えっ?」

 

 そんな中、八雲紫が口する。

 それは至極単純な提案。魂魄妖夢の性格と、あまりにも生真面目過ぎる性分から鑑みて、その上で選ぶべき効果的な選択肢の一つ。

 確かに。これは幽々子の方から口にしなければ、決して実現しなかった事柄だ。恐らく妖夢は遠慮するのだろうけれど、幽々子からの指示という形を取れば有無を言わさず従わせる事も不可能ではない。というかそうとでもしない限り、彼女はこのまま仕事と鍛錬を続けてしまうだろう。

 

 ここは紫の言う通り、多少強引にでも思い切るべきだ。選り好みをしている場合ではない。

 なぜ今まで実行しなかったと思う程に単純明快な策であるが、ここは紫の話に乗ってみる事にしよう。

 

 

 *

 

 

「休暇、ですか……?」

 

 白玉楼のとある一室。突如として幽々子から言い渡されたその言葉をオウム返ししつつ、妖夢はきょとんとした表情を浮かべていた。

 庭の手入れが終わり、次は屋敷の掃除に取り掛かろうとした直後の事である。半ば強引に呼び出されるような形でこの部屋に連れて来られ、けれど告げられたのは思いも寄らぬ言葉。困惑してしまうのも仕方がないと言える。

 

 ぽかんとしている妖夢を横目に、ちゃっかり同席していた紫が口を挟む。

 

「そう。休暇よ、休暇。分かる?」

「い、いや、言葉の意味は分かりますけど……。どうして急に?」

「幽々子から聞いたわ。貴方、最近働き詰めだそうじゃない。幾ら半分幽霊と言えども、無茶のし過ぎは身体に毒よ?」

 

 尚も困惑顔を浮かべていた妖夢だったが、紫の説明を聞いて何となく察したらしい。ふぅっと肩の力を抜くと、

 

「……成る程。紫様の入れ知恵、という訳ですか」

「む? 聞き捨てならないわね。入れ知恵じゃなくて、ちょっとした提案よ」

 

 軽くむくれつつも、紫はそう反論した。

 確かに提案したのは紫だ。あまりにも根を詰めて、いつだって気を張り続けて。仕事と鍛錬ばかりに一日の大半を費やす魂魄妖夢の日常から鑑みて、その改善の為に提示した一つの案である。

 別に仕事や鍛錬に力を注ぐ事は間違いではないが、幾ら何でも限度がある。そればっかりに注力して自らの身体を蝕むような事があれば、それこそ本末転倒である。

 

 それ故の、最も確実かつ単純明快な対応策。

 疲れやストレスが溜まっているのなら、身体を休めればいい。つまるところ、休暇である。

 

「ほら、妖夢って、お休みとか全然取らないじゃない? だからたまには、私の事なんか忘れて思いっ切り羽を伸ばすのも良いんじゃないかなーって」

 

 普段通りのまったりとした口調で、幽々子が妖夢にそう告げる。けれど当の妖夢は、実に不服そうな表情を浮かべていた。

 

「お休みを取らないのは、単に必要がないからです。私は全然疲れてませんし、体調だって万全です。ですからそんな、休暇なんて……」

「うーん……。でもほら、自分でも気が付かないうちに疲労が溜まっているなんて事も……」

「ないです」

「えっ……? い、いや、でもずーっと働き詰めというのも流石に嫌になっちゃうんじゃ……」

「問題ないです。というかお庭の整備や家事炊事も生活リズムの一つとして組み込まれていますし、特に苦と思った事もありませんね」

「…………っ」

 

 絶句した。

 想像通り――いや、それを軽く上回るレベルの返答である。さも当然の事であるかのようにきっぱりと言い張るその様は、最早心配を通り越して愕然としてしまう程だ。この少女、実はかなり重症なのかも知れない。

 紫は思わず幽々子へと耳打ちした。

 

「ねぇ、ヤバイわよ幽々子。この子完全に、ほら、あれよ。ワーカホリックってヤツよ。貴方どんな仕事を強要したのよ……」

「し、してないわよぉ! 別に、強要なんて……」

 

 そうは聞いたものの、実は紫はある程度の見当をつけている。恐らく妖夢の多忙に関する最も大きな原因は、西行寺幽々子の食い意地であろう。

 妖夢の本職である庭の整備に関しては、然程おかしな点は見受けられない。確かに白玉楼の庭園は実に広大なものだけれども、それでも常識的な範疇だ。定期的な整備も然して問題はない。

 

 だけれども。西行寺幽々子の食欲に関しては、幻想郷という世界においても実に非常識的な要素なのである。

 朝、昼、晩とそれに加えて間食も。明らかに少女一人分を軽く超えている量をペロリと平らげる健啖家。いや、最早あれは健啖家という言葉すらも凌駕しているレベル。付き合いの長い紫でさえも、一体あの量の食べ物が身体のどこに入っているのか、甚だ疑問に思っている程だ。そこまでの量を食すのだから当然料理を作るのだって一苦労だし、頻繁に買い出しをする必要が出てくる。

 

 つまり。実の所、白玉楼に仕える者達の仕事の大半が、買い出しと炊事に偏っているという事だ。その上妖夢は先述の通り庭師の仕事と、そして幽々子の剣術指南役まで請け負っている。忙しくて当然である。

 

(ま、幽々子がもう少し食事を抑えれば、多少余裕は出来るんでしょうけど……)

 

 それは望み薄であろう。あの幽々子が、食事の量を抑える事などできるとは思えない。

 いや。もし仮に出来たとしても、妖夢は時間の余裕を剣術鍛錬に割いてしまうだろう。それでは意味がない。今は妖夢に剣の腕を磨いてもらう事よりも、妖夢に身体を休めて貰う事の方が重要なのだから。

 

「とにかく! 明日一日は休暇よ? いい? お仕事しちゃダメだからね?」

「はあ……。それでしたらその分、剣術の鍛錬に……」

「それもダメよー! ちゃんと休むの! 運動もしちゃダメ!」

「えっ……? そ、それじゃあ、私は一体何をすれば……」

 

 この反応。何とも先が思いやられる出だしである。提案した紫が思うのも何だが、本当に大丈夫なのだろうか。今更ながら不安になってきた。

 

「わ、分かりましたよ。明日は休みます。それでいいんですよね?」

「そうそう。やっと分かってくれたのね~」

「はい。それでは……」

 

 言うが早いか、妖夢はおもむろに立ち上がって踵を返す。やけにそそくさとしたその様子を前にして、紫の胸中を更なる不安感が駆け抜けた。

 どうやら、幽々子も同じ予感を感じ取ったらしい。思わずといった様子で、踵を返す妖夢を引き留めると、

 

「ちょ、ちょっと妖夢……? どこに行くの……?」

「いえ、明日が休暇であるのなら、今日の内に出来る限り多くの仕事を熟しておこうと思いまして。時間は有限ですからね」

「えっ……?」

 

 この少女。意地でも仕事をするつもりなのだろうか。

 

「え、ええ。そうね。うん。確かに……」

 

 流石の幽々子も面倒くさくなってきた様子。半ば声が裏返ってしまっている。まさかあの妖夢が、ここまで幽々子を困惑させる日が来ようとは――。

 まぁ、でも。それでも明日の休暇を受けれてくれただけ、幸いだったと言えよう。一日だけでも身体を休める事ができれば、多少なりともリラックスできるはずである。そしてそのまま妖夢の心持ちが良い方向に向いてくれれば完璧なのだが。

 

 そんな事を考えつつも、紫は妖夢の後ろ姿を見送る。

 だけれども。不意に立ち止まった妖夢が、何かを思い出したかのように紫へと声をかけてきた。

 

「あ、そうだ……。あの、紫様」

「……ん? 何かしら?」

 

 何か気になる事でもあるのだろうか。何やら考え込むような素振りを見せつつも、妖夢は振り返る。

 しかし、それだけだった。それ以上、妖夢は何も言わない。記憶を探り、考え込んで、そして何かに迷っているかのような素振りは見せたのだけれども。しかし妖夢は、首を横に振る。

 

「……いえ。すいません、やっぱり何でもありません」

「そ、そう?」

 

 それだけを言い残し、妖夢は今度こそ部屋から立ち去ってしまった。

 紫は首を傾げる。一体、彼女は何を言いたかったのだろう。鹿爪らしい表情で一度声をかけてきたのにも関わらず、けれど妖夢は何も言わなかった。何か思う事があったのは確実であるはずなのに、それでも妖夢は口に出さずに呑み込んでしまった。

 

 この感覚。そして妖夢から感じ取った雰囲気。以前にも、覚えがある。

 

「ふぅ……。まったく、妖夢ったら本当に大丈夫なのかしら……?」

「え? え、ええ……。そうね」

 

 上の空気味に、紫は幽々子へと耳を傾ける。

 

「やっぱり、二年前のあの出来事の所為よね……? 確かに妖夢は帰ってきてくれたけど、でも……」

 

 二年前。

 そう、二年前だ。約四ヶ月間、妖夢は行方不明になって。けれどボロボロになりながらも、彼女は帰ってきてくれて。それから、色々と話を聞いて。そしてひと段落した後に、紫は妖夢からそれとなく尋ねられていた。

 

『あの、紫様。一つ聞いてもいいですか?』

 

 あの時。

 妖夢は。

 

『マエリベリー・ハーンという名前に、心当たりはありませんか……?』

 

 聞き覚えのない名前。あの時の妖夢も、今回のように鹿爪らしい表情を浮かべていて。まるで何か紫との関連性を見出した上でそう尋ねてきたらしいけれど、しかし当の紫にはまるで心当たりがなかった。

 マエリベリー・ハーン。妖夢が外の世界へと放り出された際、幻想郷への手掛かり探しに協力してくれた人物の一人だと聞いている。つまるところ、外の世界の人間だ。けれど八雲紫には、そんな名前の知り合いなど存在しない。

 

 いや。そもそも妖夢は、ただ単に外の世界に放り出された訳ではなかったはずだろう?

 彼女が越えてしまったのは、博麗大結界だけではない。そうなると、マエリベリー・ハーンという人物は――。

 

「ねぇ、ちょっと紫。聞いてる?」

「……えっ? あぁ、ごめんなさい。えっと……何だったかしら?」

「もー! やっぱり聞いてなかったのね!」

 

 いけない。幽々子に声をかけられて、紫はようやく我に返る。

 妖夢が言っていた事は気になる。そして彼女が飛ばされてしまったという、世界の事も。けれどそこが一体どんな世界で、どんな状況下に置かれているのか。それを考えた所で答えは見つからないだろうし、確認のしようがない。境界を操る能力と、聡明な頭脳を併せ持つ八雲紫でさえも、その件に干渉するのはほぼ不可能なのだ。

 

 あれは、そういう世界なのである。

 

(でも……)

 

 それでも、軽視すべきではない。

 現に妖夢は一度あちらの世界に放り出されている。他でもない、あちらの世界の住民の手によって。それが一体、何を意味するのか。それは幾つか考える事は出来るのだけれど。

 

(どっちみち、用心は必要よね……)

 

 何かが起きようとしているのならば、何らかの対策を講じなければならない。

 それが、幻想郷の賢者としての責務なのだから。

 

 

 *

 

 

 突如として幽々子より休暇を言い渡された、その翌日。完全に手持ち無沙汰となってしまった魂魄妖夢は、取り合えず顕界の人里へと足を運んでいた。

 人里の西部。数多くの露店が立ち並ぶ大路にて、行き交う人々を眺めつつも妖夢は一人横長の椅子に腰かけている。仕事だけでなく剣術の鍛錬までも禁止され、最早何もやる事がなくなってしまったのである。半ば追い出されるような形で白玉楼を後にした妖夢だったが、正直急に休暇などと言われても正直困ってしまう。幽々子が気まぐれなのはいつもの事であるが、流石にこれは唐突過ぎである。

 そうなれば、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう訳で。

 

「私、何かしたのかな……?」

 

 まさか自分は、厄介払いされてしまったのだろうか。知らず知らずの内にヘマをやらかしてしまって、それが幽々子の怒りに触れて。しばらくの謹慎処分だと、そういう事なのだろうか。

 

「うーん……」

 

 取り合えず適当な甘味処に入ってお茶を頼んでみたものの、考えるのはそんな事ばかり。けれど幾ら考えても、はっきりとした心当たりが見当たらないのだから参ったものだ。

 ひょっとして、あれか。ここ最近、夕食の時間が少し遅れ気味になっているのに怒っているのだろうか。食に対する執着心が強い幽々子の事だ。その可能性は――。

 

「有り得る、かなぁ……」

 

 そんな阿呆くさい事をぼんやりと思い浮かべる妖夢。――と、その次の瞬間。突如として彼女の視覚が暗闇に包まれた。

 目元を包み込む、ふわりとした感覚。瞼越しに伝わってくる体温。そして鼻をつつく甘い香り。そこで妖夢は、不意に背後から両手で目隠しされた事に気が付いた。

 

「わわっ……!?」

「だーれだ♪」

 

 驚いた妖夢が声を上げるのとほぼ同時に、目隠しをしたであろう張本人の声が耳へと流れ込んでくる。

 この声。あどけなさを多く残す、幼い少女のような声だ。当然ながら聞き覚えがある。背後に周りこまれていたのにも関わらず、直前まで全くと言っていいほど感じられなかった気配。そしてこの悪戯っぽい口調。こんな事をする少女は、妖夢の知り合いの中にはそういない。

 

 びっくりして跳ね上がった心臓の鼓動を落ち着かせつつも、妖夢は首を傾げてその少女の名を口にする。

 

「……こいしちゃんかな?」

「おー!」

 

 パッと、目隠しの両手が取り払われる。そしてにこやかな表情と共に妖夢の前に回り込んできたのは、鴉羽色の帽子を被る一人の幼い少女だった。

 古明地こいし。邪気のない笑顔を浮かべるこの少女は、見た目だけは十歳に届くか届かないかくらいの幼女にしか思えない。けれど彼女は、こう見えてもれっきとした妖怪。覚妖怪と呼ばれる、人の心を読む事を生業としている怪異である。訳あって彼女は読心能力を放棄したようだが、それでも人外である事に変わりはない。

 

「すごーい! どうしてわかったの!?」

「うーん、声がそれっぽかったし……。そもそも、私の知り合いの中でこういう事するのって、こいしちゃんくらいだから……」

 

 実に楽しそうな笑顔を浮かべるこいし。どうやら妖夢に見破られるとは思っていなかったらしく、彼女は驚いているようだ。

 と、まぁ――。人外と言えど、実のところ彼女の内面は容姿とそう乖離している訳ではない。生きた年数こそ人外そのものなのだろうが、精神年齢に関しては至極容姿通りなのである。この人里に住む幼い子供達ともそう大差はなく、言うなれば悪戯っ子なのだ。

 

 彼女は普段、地底にある地霊殿と呼ばれる洋館にて生活している。以前に訳あって地霊殿を訪れた時も、無意識を操れるのを良い事に色々と悪戯をされた事もあった。何だか懐かしい。

 彼女の姉である古明地さとりも、色々と手を焼いてるそうだ。時にはふらふらーっと地上まで出て行ってしまう事もあるらしく、それが原因でちょっとした騒動になった事もあるとか何とか。

 

 こうしてこいしが目の前に現れたという事は、きっと今頃さとりも慌てている事だろう。また勝手にどこかに行って、何か余計な事をしてないか。また何か騒ぎを起こしてるんじゃないだろうか。そんなさとりの心情を考えると、さぞ気の毒に思えてきて――。

 

 ――って。

 

「……ってこしいちゃん!? な、何でこいしちゃんがこんな所にいるの!?」

「わー! すっごい今更だね!」

 

 そう、そうだ。何を呑気な受け答えをしているのだ、自分は。古明地こいしがこんな所にいるなんて、それはおかしな事じゃないか。

 彼女の家は地底にある地霊殿だ。昔のように地上との不可侵条約が厳しい訳でもないが、それでも地底と地上を行き来するのはそれなりに苦労する。特にこいしは自身の能力を上手く使いこなせていない事もあって、気が付いたら見知らぬ地に立っていたなんて事もよくあるらしい。

 

 つまり。こうして妖夢の前に現れたからよかったものの、このまま地上で『無意識を操る程度の能力』が作用し続けた場合、最悪の場合遭難してしまう危険性もあるという事だ。まだ幼い彼女にとって、それはあまりにも危険である。

 それ故の驚愕。彼女は本来、一人でこんな所にまで来るべきではない。

 

「さとりさん、心配してるんじゃないの? ダメだよ、一人でこんな所まで来ちゃ」

「むー? 半分幽霊のお姉ちゃんまでそんな事を言うの? 大丈夫だよ! 私もう子供じゃないもん!」

 

 案の定、こいしはむくれ面を浮かべる。さて、どうしたものか。

 彼女はかなりの頑固者である。ここで妖夢が無理に諭した所で、そう簡単に受け入れるとは思えない。だからと言ってこのまま容認しても良いものか、否か。

 

 と、妖夢がそんな事を考えていると。

 

「こ、こいし様ぁ!」

 

 妖夢の耳に流れ込んでくるのは、見知った少女の声。反射的に視線を向けると、慌てた様子で駆け寄ってくる少女の姿が確認できた。

 その服装は黒を基調としたゴシックロリータファッション。身長は少なくともこいしや小柄な妖夢よりは高く、髪の色は深い赤色。けれどその頭にはあまりにも似合わないほっかむりのようなものを被っており、中々に間の抜けた格好である。恐らく頭の上にある()()()()を隠したかったのだろうが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。

 

 慌てた様子で駆け寄って来る、ほっかむりを被ったゴスロリ少女。

 名を火焔猫燐という。

 

「あっ、お燐さん。こいしちゃんを捜しに来たんですか?」

「ぜぇ、ぜぇ……。あ、あれ? 妖夢? ひょっとして、妖夢がこいし様を見つけてくれたの?」

「え? いえ、別にそういう訳じゃないけど……」

 

 厳密に言えばこいしの方から妖夢に声をかけてきただけで、別に妖夢がこいしを見つけた訳ではない。

 当のこいしは、お燐の姿を見るなりケラケラと笑って。

 

「あはは! お燐、何それ!? へんなかっこー!」

「し、仕方ないじゃないですか! あんまりここで耳を曝け出す訳にもいきませんし……」

 

 まぁ、確かに。人里にも馴染んでいる善良な妖怪ならともかく、お燐は元々地底で暮らしていた火車である。明らかに人間のものではない頭の上の耳を見られてしまっては、ちょっとした騒動になってしまう可能性はあるけれど。

 

「妖力で完全に隠すのはダメなんですか?」

「そ、それ、さとり様にも言われたよ……。まぁ出来なくはないんだけど、でもすっごく疲れるんだよね……」

 

 なぜ耳や尻尾を隠すだけでそこまで疲れるのかは妖夢には分からないが、それは妖怪ならではの悩みの種という事なのだろうか。そういえば永遠亭の鈴仙も、人里に薬を売りに来る際は目元まで覆う程の大きな笠を被って耳を隠していたような気がする。まぁ彼女の場合、単に人見知りを拗らせているだけかも知れないが。

 

 それはさておき。

 

「って、あたいの事はどうでも良くて……。こいし様、すぐに地霊殿まで帰りましょう! さとり様も心配してますよ?」

「えーっ!」

 

 やはりお燐は、さとりの使いで人里まで足を運んだらしい。けれどあの古明地こいしが、高々お燐の説得程度で考えを改めるはずがない。

 彼女はあからさまに不服そうな表情を浮かべると、

 

「やだー! せっかく半分幽霊のお姉ちゃんと会えたのに、まだ帰りたくない!」

「わっ……!?」

 

 そう言うと、こいしは妖夢へと抱きついてくる。幾ら体重の軽い彼女とはいえ、それなりの勢いで急に抱きつかれるのは流石に心臓に悪い。

 

「ねぇねぇ、半分幽霊のお姉ちゃん。お燐なんか放っておいて、私と遊ぼうよー」

「えっ? う、うーん……それは……」

 

 上目遣いでそんな事をねだってくるこいし。そんな目を向けられては、あまりにも断りにくいじゃないか。妖夢の良心が痛む。

 

「ねぇ、妖夢。どうしてそんなにこいし様に懐かれてるの? 一体何をしたのさ……」

「な、何って……。特に、変わった事はしてないと思いますけど……」

 

 気が付いたら懐かれていたのだから弁明のしようがない。どうしたものか。

 

(うーん……)

 

 こいしの性格から考えて、無理に説得を試みようとも効果は薄いだろう。だからと言って首根っこを掴んで無理矢理地霊殿まで送り届ける訳にもいかないし、これではどうしようもないじゃないか。

 ――いや、まだ一つだけ手段は残されている。説得も力づくもダメとなると、残される選択肢は一つだけだ。丁度今日は休暇を言い渡されて手持ち無沙汰だったし、妖夢としても都合がいい。

 

「分かった。こいしちゃんと遊ぶよ」

「えっ、いいの!?」

「でもその代わり、日が沈む前にちゃんと地霊殿に帰ること。それでいい?」

 

 そう。こいしの提案を受け入れた上で条件の提示である。

 古明地こいしの目的は、妖夢と遊ぶ事である。それだけは絶対に揺るがない。だったらこの際、受け入れてしまえばいい。受け入れて、思う存分遊ばせて。そして満足してくれれば、きっと妖夢の頼みだって聞いてくれるはずだ。

 妖夢はこいしに懐かれている。そんな彼女だからこそ選択できる最善策である。どうやらそれは、功を奏したらしい。

 

「うーん、分かった。それでいいよー」

 

 思ったよりすんなりと受け入れてくれた。妖夢の思惑通りである。

 こいしの扱いに関しては、それなりに慣れている。彼女の遊びに付き合うのだって、これが初めてではないのだ。問題はない。

 

「い、良いの妖夢? こいし様に付き合うなんて……」

「心配無用です。私も丁度暇を持て余してた所なんですよ」

「へぇ……。珍しいね」

 

 まぁ、何もせずにボーっとしているよりは断然良い。たまにはこうして遊んでみるのも悪くはない。

 と言う訳で。突如として幽々子より言い渡された休暇を、妖夢はこいし達と共に過ごす事にするのであった。


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