桜花妖々録   作:秋風とも

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第49話「狂気の瞳」

 

 竹の笹が風になびき、かさかさと音を立てていた。

 空を覆うように鬱蒼と生い茂る竹林は、日の光を遮断して薄暗い空間を作り出している。周囲のどこを見渡しても目に入るのは竹ばかりで、ちょっとでも気を抜けばあっという間に方向感覚が喪失しそうだ。足元も悪く、ちょっと歩くだけでも一苦労である。

 

 後に戻るのも先に進むのも困難な竹林。まさに大自然が作り上げた迷宮と言っても過言ではない。あまりにも代わり映えのしないその風景を眺めていると、胸中の不安感が膨れ上がりそうになってくる。

 けれどそんな不安感に押し潰されてしまうようでは、あまりにも未熟である。方向感覚と平衡感覚を狂わすような構造の密林であるが、気を抜きさえしなければ何ら問題はない。周囲を注意深く観察しつつも、自分が進んだ道筋を頭の中に記憶する。遭難という最悪の事態を避ける為には、油断という心の隙を見せない事が最重要事項なのである。

 

「…………っ」

 

 そんな文字通り『迷いの竹林』を、風を切って駆け抜ける一人の少女がいる。くしゃりと落ち葉を踏みつける音を響かせ、小さく乱れた息遣いを漏らして。それでも尚周囲への警戒を怠らないその様は、まるで何者かに追われているかのようだ。

 竹を縫ように突き進み、速度を緩める事もなく奥へ奥へと進んでゆく。――突如として彼女の側面に赤い閃光が走ったのは、その次の瞬間だった。

 

「早い……!」

 

 攻撃。背後から飛んできたあの赤い光弾は、明らかにこの少女を狙ったものだ。何者かがこの竹林の内部に潜み、少女の目が届かぬ場所から攻撃を仕掛けている。

 

 ボソリと呟いた少女だったが、けれど慌てる事はない。

 竹林を駆け抜ける事を諦めて、少女は大地を踏み締める。急ブレーキと共に急ターンをかけて、彼女は素早く背後へと振り向いたのである。

 迎撃態勢。少女に追撃を加えようと再びあの光弾が飛んでくるが、今度は逃げるという選択肢を選ばなかった。

 

 楼観剣。腰に携えた長刀を素早く抜き放ち、霊力を籠めて一振り。飛んできた光弾を斬りつけたのだ。

 鋭い衝突音と共に斬り裂かれる光弾。衝撃と共に微かな熱も伝わってくるが、けれども被弾してしまった訳ではない。霊力の籠められた斬撃により光弾を弾き、そして受け流す。

 

 けれどホッとしたのも束の間、彼女に放たれた攻撃はこの一撃だけではなかった。

 攻撃の失敗を認識するや否や、目に見えぬ追跡者は少女へと向けて追撃を加えてきたのである。しかも今回は、一発などではない。二発、三発、四発――いや、それ以上。無数の光弾。逃げ道すら殆ど視覚出来ぬ程の高密度の弾幕が暗所より放たれ、少女へと襲い掛かった。

 

 避けられない。そう判断した少女は再び楼観剣へと霊力を籠め、光弾を打ち落とす事を選択する。けれどたった一本の剣だけでは、あまりにも手数が足りない。

 故に彼女はもう一本の剣も抜き放つ事にした。

 白楼剣。楼観剣との二刀流に等しく霊力を籠め、斬撃。次々と光弾を打ち落としてゆく。光弾の位置を素早く確認し、身を捻り、そして鋭い発光と共に攻撃を往なす。乱舞の如き迎撃は確実に追跡者の攻撃を凌ぐ事に成功しており、攻撃を弾く少女の様子に特に危なげな点も見受けられない。寧ろ舞踊ようなその迎撃に美しさを覚えてしまう程だ。

 

 圧倒的な反射神経と、圧倒的な瞬発力。並みの人間ではまず真似できない剣術。このままの勢いならば、攻撃を凌ぎ切る事も容易なのではないかと思われていた。

 けれど、やはりそう簡単にはいかない。追跡者の方だって、全くの無意味な攻撃を無駄に仕掛け続けるほど馬鹿じゃない。

 

「……っ!?」

 

 突如として覚える明らかに何かが違う感覚。光弾を弾き続けていたはずの楼観剣から、ほんの僅かの間だけ軽すぎる手応えを覚えた。

 ――いや、違う。これはそもそも手応えとも呼べない。軽すぎるというよりも、最早剣を空振りしてしまったのではないかとも覚えられる感覚。これは――。

 

(幻覚……!?)

 

 しかしそんな事に今更気付いた時点で、もう遅い。

 

「ぐっ……!?」

 

 被弾。

 光弾の幻覚を弾き飛ばそうとしてしまったが為にリズムは完全に瓦解。その後も連続で襲い掛かってくる光弾へと対処がし切れず、それらもまともに被弾してしまった。

 炸裂音と共に砂埃が舞い上がり、烈風が周囲の竹をしならせる。そんな様子を目の当たりにして、慌てた様子で一人の少女が物陰から飛び出してきた。

 

「あっ……!」

 

 白いブラウスの上に、紺色のブレザーを羽織った兎耳少女。鈴仙・優曇華院・イナバは、オロオロとした様子で少女のもとへと駆け寄ると、

 

「ご、ごめん妖夢! だ、大丈夫……?」

「え、ええ……。大丈夫です。お気遣いなく……」

 

 そう口にしつつも落とした剣を拾い上げ、砂埃をはたきながらも立ち上がる少女。魂魄妖夢は短く深呼吸を挟んだ後に、再び鈴仙に向き直った。

 

「幻覚だと見抜けず、馬鹿正直に剣を振るってしまった私の未熟が原因です。鈴仙さんが気に病む必要はありませんよ」

「そ、そんな……。でも……」

「それよりも、続きをお願いできますか?」

 

 妖夢は楼観剣を構える。未だ闘志が消えぬ目を鈴仙へと向けつつも、彼女は言った。

 

「私は強くなる必要があるんです。その為にも、この『狂気の瞳』にもっと馴染まなければならない……。だから、お願いします」

「妖夢……」

 

 ぎゅっと、妖夢は楼観剣の柄を握る。

 そうだ。今のままじゃまだ足りない。あれからずっと鍛錬を重ね続けて、剣術の腕も更に磨き上げたのだけれど。それでも、まだ不十分だ。

 狂気の瞳。後天的に得た異能だからこそ、未だに上手く使いこなす事ができてない。先程の幻覚さえも見抜けなかった事が良い証拠だ。このままでは、宝の持ち腐れで終わってしまう。

 

 それじゃあ、駄目なのだ。

 

「……分かったわ。このまま続ける。でも無理だけはしないっていう私との約束、ちゃんと守ってくれるんだよね?」

「分かってますよ。無理なんてしてませんから」

 

 不安気な表情を浮かべながらも、それでも鈴仙は妖夢の鍛錬に付き合ってくれる。

 狂気の瞳を自らの身に馴染ませる為の模擬戦を行うのならば、鈴仙以上に適した相手はいない。彼女の持つ『狂気を操る程度の能力』は、狂気の瞳の一つの終着点とも言える。

 あらゆる物体の“波長”を操り、感覚さえも歪ませる『能力』。妖夢は波長を操る事はできないが、それでも狂気の瞳のお陰でその一端に触れる事くらいなら出来る。こうして鈴仙との鍛錬を続けていけば、妖夢は妖夢の終着点へと辿り着けるはずなのだ。

 

 故に妖夢は、もがき続ける。更なる高みへと続く道が存在するのなら、彼女は迷わず足を踏み入れるだけだ。

 

「それじゃ、いくわよ」

「……お願いします」

 

 再び鈴仙との模擬戦が始まる。

 赤き閃光と爆発音が、迷いの竹林に響き渡っていた。

 

 

 *

 

 

 既に悠久にも近い年月を生き続けている八意永琳だが、そんな彼女でもこればかりはあまり見た事のない事例だった。

 手に持ったカルテと目の前にいる少女を見比べつつも、永琳は小難しい表情を浮かべる。定期的に診察を受けに来るこの少女――魂魄妖夢は、半人半霊と呼ばれる特殊な種族に属している。読んで字のごとく、半分は人間で半分は幽霊などという特異体質で、つまるところ半分は生きていて半分は死んでいるという事だ。

 

 何とも分かりにくい体質であるが、けれどその点に関しては特に大きな問題ではない。薬師を名乗ってはいるものの、八意永琳の医療技術は常識的なそれを遥かに凌駕している。流石に死者が相手ではどうにもならないが、半分でも生きているのならば話は別である。

 身体の状態を把握し、適切な処置を行い、そして薬を処方する。妖夢の健康状態の確認に関しては然して難しい事でもないし、よく分からないなどという不明瞭な診断結果に終わる事などまず有り得ない。

 

 今回の問題は半人半霊という種族に共通する特性ではない。魂魄妖夢という、一人の少女個人が持つ特異性である。

 

「体調は良好よ。特にこれといった異常は見受けられない。ただ……」

 

 カルテを机の上へと置くと、永琳は妖夢の姿を見据える。

 

「あくまで()()()()()()、という話よ。今後もあまり無茶をすると、その瞳から悪影響を受ける可能性があるわ。あまり変な事を考えない方が賢明ね」

「……そうですか」

 

 魂魄妖夢は半人半霊――つまりは地上の住民でありながら、月の兎達と同系統の『眼』が開眼してしまっている。『狂気の瞳』とも称されるそれは、本来ならば半人半霊が持ちうるはずがない特異性なのである。

 彼女が初めて狂気の瞳を会得したのは、数年前――俗に言う『永夜異変』の直後の事だ。月からの使者を欺く為に永琳がすり替えた満月を見続けた結果、その膨大な魔力の影響を受けて妖夢の瞳は変貌を遂げた。

 

 狂気の瞳。基本的には月の兎達が持つ、狂気の月の魔力の顕現とも言える力。

 

 あの時にすり替えた満月は太古のものだ。元より月は妖怪等の人外に影響を与える魔力を放っているのだが、太古の月は現在と比べてそれがより強い。そんな満月の魔力を眼を通して受け続けた為に狂気の瞳が開眼したと考えるのが妥当であるが、それでも前例のない事態である事に変わりはない。

 魂魄妖夢は地上の住民だ。にも関わらず、月の力をその身に宿してしまうなど――。

 

「それにしても、前に一度きっちりと治したはずなのにねぇ……。まさか再び開眼しちゃうどころか、今度は治さなくてもいいだなんて」

「す、すいません……」

「いや、別に謝らなくてもいいわよ。あまり前例のない事態だから、ちょっと驚いているだけ」

 

 永夜異変の直後に狂気の瞳が開眼してしまった際には、妖夢も同意の上で永琳は彼女の瞳を治療した。

 当時まだ未熟だった魂魄妖夢が、月の力を有するのは危険である。想定外の能力を外部から無理矢理組み込んでいるようなものなのだ。拒絶反応が出る恐れがある。

 

 故に治療した。綺麗さっぱり、元通りに、彼女は本来の自分を取り戻したはずだったのに。

 

(……普通の月を見ただけで、再び開眼するなんて。感受性が鋭いなんてレベルじゃないわね)

 

 八意永琳は嘆息する。

 二年前のあの日。大怪我を負って永遠亭に担ぎ込まれた魂魄妖夢は、再び狂気の瞳を会得していた。彼女曰く、満月を見ていたらいつの間にか開眼していたのだという。

 はっきり言って、有り得ない。幾ら一度開眼した事があるとはいえ、たったその程度の事で再び会得できる訳がないじゃないか。しかも治療したのは永琳だ。つまりあの時に処方した永琳の薬の力を超えた“何か”が介入し、彼女はこうして狂気の瞳を得た事になる。

 

 その“何か”が何なのかは妖夢の話を聞いた限りでははっきりと断言は出来ないが、それでもある程度絞り込む事は出来る。八雲紫と西行寺幽々子と共に聞いた、妖夢の空白の四ヶ月間。その間に経た経験の中に、『狂気の瞳』開眼のトリガーが隠されている。

 

(その空白の四ヶ月間というもの、中々に突拍子もない話だけどねぇ……)

 

 あまりにも規格外な要素が複雑に入り混じり過ぎて、流石の永琳でも推測の域を出ない状況だ。妖夢から得られた情報も断片的な部分が多く、それらを繋ぎ合わせる事すらもままならない。

 そんな不明瞭な要素だけで、()()()()()()()()をあれこれと推測するなんて肌に合わない。永琳が見据えるべきは、はっきりとしている現状だけだ。永遠亭の薬師として、妖夢の意向に沿った最善の役割を全うするつもりである。

 

「力を求めるのは勝手だけれど、あまり固執し過ぎるのも問題ね。貴方の『眼』は、ウドンゲのそれとは違う。あの子の場合、波長を操るという玉兎固有の能力を、瞳を通して極限まで特化させているけれど……。貴方の場合はそうじゃない」

 

 俯いた妖夢を見据えつつも、永琳は続ける。

 

「他者に対して外的な影響を与えるウドンゲの『眼』とは違って、貴方の『眼』は自分自身に内的な影響を与える。ウドンゲの『眼』が他者を狂わせるものなのだとすれば、貴方の『眼』は自分自身を狂わせるもの、という事かしら? まさに『狂気』そのものね」

 

 厳密に言えば鈴仙の『能力』は他者を狂気に陥れるようなものではなのだが、例え話という範疇ならば的を射ていると言える。

 妖夢は『狂気の瞳』を通して他者をどうこうするような能力は持っていない。あくまで自分自身に対してのみ影響を与える。自らが内に秘めたる想い――狂気を力に変換させる、とでも言うべきか。

 

「あぁ、言っておくけど、今のはあくまで例え話みたいなものよ。さっきも言った通り、取り合えず今現在は大きな問題も見られない。けれど狂気は諸刃の剣。あまり執着し過ぎると、かえって自らを蝕む事になるわ」

「……ええ。分かってますよ」

 

 顔を上げた妖夢。柔らかく表情を綻ばせると、彼女は言った。

 

「自分の身体の事くらい、自分が一番よく分かっているつもりです」

「……そう。ならいいけれど」

 

 特に反論する事もなく、永琳は会話を切り上げる。

 妖夢とはそれほど深い関りがある訳でもないので、永琳は彼女の心情を事細かに把握している訳ではない。けれど、それでも分かる。彼女の目は、絶対に意思を曲げない者の目だ。例えここで永琳が余計なお節介を焼いたところで、きっと彼女は受け入れない。

 あまりにも頑なで、あまりにも意地っ張りで。頑固なのだ。この少女は。

 

「それじゃ、いつも通りの薬を処方しておくから。ちゃんと忘れずに飲むこと。いい?」

「はい。ありがとうございます、永琳さん」

 

 この少女がなぜここまで頑なに力を求めるのか。その真意は永琳にも分からない。けれどだからと言って、彼女の心に土足で踏み込もうとする気なども永琳にはない。

 永琳はただ、傍観するだけだ。妖夢が何を思い、何を感じ、そして何を求めているのか。何を見つけ、どれを選び、そしてどこに向かうのか。その道を示すのは、永琳の役割ではないのだから。

 

 まぁ、それでもこうしてあれこれと考えてしまう辺り。自分も存外甘いんだなと、つくづく思うのだけれども。

 

 

 *

 

 

 妖夢が永遠亭を後にしてから数分。おずおずといった様子で、鈴仙は診察室へと足を踏み入れていた。

 目に入るのは師匠である八意永琳の姿。鈴仙に背を向けて、何やらカルテを整理している様子。恐らくついさっきまで診察を受けていた妖夢の物も含まれているのだろう。

 二年ほど前から定期的に永遠亭へと通い、鈴仙との鍛錬を経た後に診察を受けて帰ってゆく少女。半ば流されるような形で妖夢の鍛錬に付き合い続けている鈴仙だったが、彼女だって何も感じていない訳ではない。

 

 狂気の瞳。本来ならば半人半霊には持ちうるはずがない特異性を、あの少女は手にしてしまっている。そんなものをいつまでも留まらせておけば、身体に影響がないはずがないのだ。

 つまるところ、今の妖夢は非常に危ない橋を渡っている。本人にその気がなかったとしても、無茶である事に変わりはないのだ。

 

「あの、師匠」

「何かしら?」

 

 鈴仙へと背を向けたままで、永琳は答えてくれる。

 

「一つ、聞きたい事があるんですけど……」

「……妖夢の事?」

 

 流石は永琳だ。鈴仙の考えている事など、彼女にはお見通しらしい。

 頷きつつも、鈴仙は続けた。

 

「この二年間で妖夢は凄く強くなりました。初めは狂気の瞳なんて殆ど使いこなせてなかったのに、今はほぼ完全に力を引き出せていて……。波長を操った私の攻撃も、殆ど通用しなくなってきました」

 

 それでも完璧ではないんですけど、と鈴仙は付け加える。先程のよう幻覚を見抜けない事も多少あり、まだ完全にあの『眼』に馴染めているとはいえない。けれど元より目が良かった為か、実体のある攻撃に関しては完全に動きを読まれていると言っても過言ではない。このままいけば波長までも完全に読めるようになるのだって、時間の問題であろう。

 けれどそんな彼女の成長と同時に、ある問題点も徐々にだが膨れ上がってきている。

 

「最近の妖夢は、その……何ていうか……。あまりにも頑な過ぎる気がするんです。自分を磨き上げる事に対して、過剰な程に直向き過ぎるというか……」

 

 二年前のあの日。再び狂気の瞳を得た魂魄妖夢は、鈴仙に対して頭を下げて頼み込んできた。どうか自分の鍛錬に付き合ってほしい。狂気の瞳を使いこなせるようになりたんだ、と。

 その時はまだ単純に、西行寺幽々子の従者としてより相応しい力をつけるという意気込みだけを感じる事が出来た。けれど最近は、それだけじゃない。寧ろ本来の目的から、徐々に別の方向へと向いてきているような気がする。

 

「妖夢が何を考えているのか、全然分からないんです……! 何も話してくれないし……どうしてそこまで強くなりたいのか、皆目見当もつかなくて……」

「分からない、ね……」

 

 あまりにも漠然とした感覚。釈然としない違和感だが、それでも気にせずにはいられない。

 

「師匠、妖夢にいつもお薬を渡してますよね……? ひょっとして、狂気の瞳の影響で身体のどこかに異常をきたしてるんじゃ……」

 

 後天的に開眼した狂気の瞳という特異性。それが彼女の精神に悪影響を及ぼしていても何ら不思議ではない。あまりにも強さに対して頑な過ぎる妖夢のあの姿勢が、狂気の瞳による精神の汚染が原因なのだとすれば――。

 

「ふぅ……。まったく、相変わらず貴方は心配性ね」

「えっ……?」

 

 けれど永琳は、平然とした様子で肩を窄めていた。

 

「少なくとも、貴方が考えているような状態には陥ってないわ。確かに狂気の瞳に関しては特異性があるけれど、今のところは深刻な悪影響は見られない。まぁ、私がいつも渡している薬を服用している限り、あの子は大丈夫だから安心しなさい」

「服用している限り、って……」

 

 その口振りから察するに。

 

「それじゃあ……今の妖夢にはあのお薬が必要、という事なんですか……?」

 

 薬を服用している限り問題ない。それはつまり、逆に言えば薬を服用していなければ何かしらの問題があるという事だ。妖夢にとっては異物とも言える狂気の瞳。それを無理矢理身体に馴染ませようとしているが為の、何か悪影響が――。

 

「……貴方には以前にも話したわよね? 今の妖夢の中には、自分自身が本来持っている霊力と、狂気の月から得た魔力の二つが混在しているわ。あの子が開眼した狂気の瞳は、月の魔力の影響によるもの。だから永夜異変の時は、その魔力を抑え込む事で狂気の瞳を治療したんだけど……。けれど今回、何らかの拍子により抑え込んだはずの魔力が噴出。あの子の中を再び循環してしまっている」

「……ええ。それは、聞きました」

 

 二年前、妖夢の鍛錬に付き合い始めて少しした頃。永琳により聞かされた魂魄妖夢の状態である。

 狂気の瞳は、元々は玉兎に共通して見られる性質。つまるところ月の魔力によるものだ。玉兎でも月の民でもない妖夢がそんな『眼』を後天的に得てしまったという事は、それはつまり彼女が月の魔力をその身に宿してしまっている事を意味する。

 月の民を欺くために、永琳がすり替えた太古の月。その魔力に中てられて狂気の瞳が開眼してしまった事にも驚きだが、まぁ、百歩譲ってそれは良しとする。問題は、その狂気の瞳――つまり月の魔力が妖夢に与える影響についてだ。

 

「月の魔力が急激に膨れ上がるような事があれば、確かに貴方の想像通りの事態に陥る可能性はあるわ。波長を操る能力を狂気の瞳を介して拡張している貴方と違って、妖夢の場合は魔力の大半を自己強化に割いている。しかも感情的な要因がトリガーとなって魔力が膨れ上がる事もあるみたいね。つまり闇雲に力を求めれば、魔力の濃度がどんどん濃くなっていく事になる」

「魔力の濃度って……。それって、やっぱり危険なんじゃ……」

「その為の薬よ。あれには過剰に蓄積された魔力を、ある程度中和する効力があるの。まぁ、永夜異変の時に処方した薬を、ちょっと応用して作り上げた代物なんだけどね。あの薬を服用している限り、魔力の濃度が極端に濃くなるような事は避けられるはず」

 

 カルテの整理が終わったのか、そこで永琳はくるりと振り返る。

 

「ま、あの薬も妖夢が狂気の瞳を使いこなせるようになれば必要なくなるわ。魔力を高める事は出来ても、魔力を四散させる事は苦手みたいね、あの子。もっとも、狂気の瞳を完全に治療してしまえば、そんな心配をする必要すらもなくなるけれど」

 

 「でもあの子は絶対にそれを認めないのよねぇ……」と永琳は付け加える。そもそも妖夢は更なる高みを目指す為に狂気の瞳を使いこなそうとしている身。それなのに狂気の瞳を治療してしまうなんて、あまりにも本末転倒なのだろう。だから彼女は認めない。

 

 魂魄妖夢が選択したのは、狂気の瞳との融和。決して楽な道じゃない。だからちょっと無理した鍛錬も熟さなければならない。

 それは鈴仙にも分かる。あの鍛錬は今の妖夢が必要としている事なのだと、その点は理解しているつもりだ。

 でも。果たして、そこまでしてまで力を求める必要はあるのだろうか。そこまでして力を求めて、強くなって。一体彼女は、何をしようとしているのか。一体何の為に、剣を振るおうとしているのだろうか。

 

「妖夢……」

 

 分からない。分からないから、不安感が膨れ上がってくる。

 このままでは、妖夢が妖夢でなくなってしまような、そんな気がして。

 

 そう思うと、怖い。

 

「あの……師匠。妖夢の場合、感情的な要因がトリガーとなって魔力が膨れ上がる事もある、って言いましたよね……?」

 

 相も変わらず俯いたままで、鈴仙は問いかける。

 

「妖夢は、ただの満月を見ただけで再び狂気の瞳を得る事ができたと言ってました。でも単に満月を見ただけであの『眼』が開眼するなんて、ちょっと有り得ないと思うんです……」

「……ええ。そうね」

「という事は別の要素が関与しているはずですよね……? 多分、何か感情的な要因が……」

 

 単に満月を見ただけで狂気の瞳が開眼する訳がない。その程度でほいほい開眼できるのなら、狂気の瞳量産し放題じゃないか。

 だから違う。おそらくあれは、地上の民では妖夢だけの特異性。満月の夜、何らかの感情が要因となって彼女は再びあの『眼』を得た。感受性の鋭い妖夢だからこそ、再び得る事ができたのだ。

 

 感情。つまるところ、想い。

 

「一体妖夢は、どんな想いを抱いたんでしょう? 狂気の瞳に再び到達する程の想いって、一体……」

 

 ただの想いなどではない。ともすれば人の心を大きく動かす事もある、強大で強靭な想いだ。他人の言葉程度では簡単に揺らぐ事もなく、他人の干渉程度では簡単に壊れる事もない。

 そんな想いとは、一体――何なのか。

 

「……さあね」

 

 けれど八意永琳は、首を横に振る。

 

「それはあの子にしか分からないんじゃないかしら?」

 

 

 *

 

 

 白玉楼へと帰る前に、妖夢は一度人里へと足を運ぶ事にした。

 ここ最近は定期的に永遠亭へと足を運び、鈴仙との鍛錬と永琳の診察を受けている妖夢だったが、だからと言って彼女の任が変わってしまった訳ではない。白玉楼の庭師として庭木の剪定等もしなければならいし、剣術指南役として幽々子に剣の指南をする必要もある。その上白玉楼の家事炊事も担当する事もある為、妖夢は毎日大忙しだ。時間が幾らあっても足りない。

 

 故に効率が求められてくる。折角こうして顕界まで足を運んだのだから、ついでに買い出しも済ませてしまうのが賢いやり方だ。健啖家な幽々子の為、食料の備蓄は常に最善をキープしなければならない。

 

「さて、と。まずは……」

 

 兎にも角にも、まずやるべき事は食材の買い出しだ。限られた金銭の中でやりくりをして、なるべく値段を抑えつつ食材を買い揃える必要がある。何せ幽々子は、それはもう、大層よく食べるのである。極端な美食家ではない事が不幸中の幸いか。

 

「お野菜はこっちで買った方が安くつくはず。逆にお魚は高くついちゃうから……」

 

 ボソボソと呟きながらも人里を歩く妖夢。頭の中は常にそろばんを弾いているような状態だ。一銭たりとも無駄には出来ない。妥協できる品質のものを、最安値で買い揃えている。ここは慎重になるべき所だ。

 何やらすれ違う通行人がチラチラとこちらに視線を向けている気がする。半人半霊である事を差し引いても、ちょっぴり不審な目で見られているのではないだろうか。まぁ、ボソボソと呟きながら大路を闊歩すれば、無理もないのかも知れないけれど。

 

 けれど集中力を高めていた妖夢は、あまり周囲の視線を気にしていない。いや、気付かないと言った方が正しいか。あまりにも集中し過ぎて、周りがよく見えてない状態である。中々どうして、ぼんやりとした少女である。

 

「あれ? 妖夢さん?」

 

 けれど流石に、名前を呼ばれれば立ち止まる。

 聞き覚えのある少女の声。思考を切り上げて振り向くと、そこには巫女服を着こなした一人の少女の姿があった。

 巫女服を着ている、といっても霊夢ではない。紅と白を基調とした霊夢の巫女服と違って、彼女が着ているのは青と白を基調とした巫女服である。腰まで伸ばした若草色のロングヘアが特徴的で、蛙の飾りがついたカチューシャと、蛇を模した髪飾りを身に着けている。

 

 背丈は妖夢より高い。清楚で落ち着いた雰囲気を漂わせる、その少女の名は。

 

「あっ、早苗。こんにちは」

「こんにちはー! 偶然ですねー。お買い物ですか?」

 

 東風谷(こちや)早苗(さなえ)。博麗神社とは違う、幻想郷に存在するもう一つの神社――守矢神社にて、風祝として仕える人間の少女である。

 人間、と言ってもただの人間ではない。風祝でありながら信仰の対象になってしまったが為に神格化。生きながら神の力を操る事の出来る『現人神』としての一面も持っているらしい。まぁ、神の力が使えるといっても、彼女の中の人間性が欠落している訳ではない。年頃の少女である事にも変わりはなく、一般的な神のイメージとはかけ離れている。言うなれば彼女は、ちょっと神がかり的な力が使える程度の、ただ人間の少女に過ぎないのである。

 

「うん。お夕飯の買い出しをしようと思って……。早苗は?」

「私も夕飯のお買い物です! 今日は久しぶりにカレーでも作ろうと思いまして!」

 

 そう答えつつも、早苗は手に持つ買い物袋を掲げる。どうやら買い物は既に済ませているようで、ニンジンやジャガイモ等の野菜類が確認できる。早苗もまた守矢神社で家事炊事を熟しているだけあって、料理もそれなりに出来るらしい。ある意味では妖夢と似た立場にいる少女とも言えるかも知れない。

 

「カレーか……。そういえば私も最近食べてないなぁ……」

「妖夢さんは、カレーとかはあまり作らないんですか?」

「うーん、あんまり作る機会はないかな。白玉楼は基本的に和食中心だから」

 

 そんなやり取りを早苗と交わす。彼女と会話をしている内に、妖夢の脳裏にとある記憶が過った。

 そういえば、東風谷早苗は元々外の世界で暮らしていた人間だったか。神々への信仰心が薄れ始めた事により、外の世界では信仰を集める事が難しくなってきたらしい。そのため守矢神社ごと幻想入りする事で、外の世界ではなく幻想郷で信仰を集めようとしたそうだ。

 その計画の発案者は早苗ではなく、守矢神社に祀られている神様らしいが――まぁ、その点については良いだろう。今の妖夢にとって重要な事は、東風谷早苗が外の世界出身であるという点だ。

 

(外の世界……)

 

 その言葉から妖夢は連想するものは一つ。

 二年前の、あの出来事――。

 

「ねぇ、早苗。早苗は、外の世界出身なんだよね?」

「え? う、うん、そうですけど……」

 

 そこで妖夢は、思わず早苗に質問する。

 

「早苗は……外の世界で恋をしたこと、ある?」

「……えっ?」

 

 何を言っているのか分からない。そう言いたげな面持ちを、早苗は浮かべていた。

 夕飯の話をしていた矢先、突如として妖夢から振られた所謂“恋バナ”。まさか妖夢からそんな話を投げかけてくるとは、彼女にとって想定外だったのだろうか。

 そんなこんなで早苗が混乱すること数秒。ようやく言葉の意味を理解した早苗は、思わず頬を赤らめて。

 

「え、ええっ!? あ、あああの! こ、恋って……!? ど、どうして急に?」

「あっ、い、いや……。そ、その、特に深い意味なくて、ね? ちょっと気になったというか……」

 

 この反応。早苗も存外初心である。妖夢も慌てて補足を入れるが、二人の間に微妙な空気が流れてしまった事は言うまでもない。

 それから早苗は、ぽりぽりと人差し指で自分の頬を掻くと、

 

「え、えっと……。やっぱり、妖夢さんもそういう話に興味があるんですねぇ……」

「そ、そりゃあ……私だって女の子だし……。というか、今までどういう目で私の事を見てたのっ?」

「うーん、最近の妖夢さんって、いつも剣の事ばかりを考えているというか……。恋愛などに現を抜かす場合ではない! って感じで……。だから、ちょっぴり意外でした」

 

 やっぱりそんな目で見てたのか、この少女は。

 別にそんな堅物キャラを演じた覚えはないのだが、端からみればそんな印象を抱かれてしまうのだろうか。まぁ確かに、最近の妖夢はより一層鍛錬に励むようになったのだけれど。

 

「えっと……。恋をした事があるのか、ですよね?」

「うん……」

「そうですねぇ……」

 

 早苗は一瞬思案顔を浮かべるが、けれどすぐにまた視線を泳がす。

 

「あ、あの……あ、憧れた事ならあります! でも実際に誰かを好きになった事とか、逆に誰かに告白された事とか、そういうのは、特に……」

 

 要するに、興味はあるけれど誰かと恋愛関係にまで発展した事はないという事か。

 

「そ、それじゃあ、その……。か、仮にだよ? 早苗に、誰か好きな人がいるとして……」

 

 ここからが本題である。

 他愛もない話。ここで早苗にこんな話を振ったところで、今の妖夢の状況がどうにかなる訳ではない。けれどそれでも、話を聞かずにはいられない。

 

「でも信仰を集める為に、その人とお別れをして幻想入りしなければならない……。もしもそんな事になったら、早苗ならどう思う……?」

「お別れ……?」

 

 やけに具体的な想定内容。早苗はますます困惑顔を浮かべる。

 当然の反応だ。なぜそんな事態を想定しなければならないのか、普通疑問に思うだろう。誰かの事が気になって、その誰かに恋をして。けれどその誰かと、お別れをしなければならない。そんな悲劇的な結末を、どうして想定しなければならないのか。

 

「もしも、好きな人とお別れしなければならなくなったら……」

 

 しかしそれでも、早苗は律儀に答えてくれる。

 

「とっても、悲しくなると思います……」

「…………っ」

 

 妖夢は何も言えなかった。何も言わずに、黙って早苗の答えを受け止めていた。

 とても悲しくなる。限りなく想定通りの答え。けれどそれは、ずっしりと妖夢の心に伸し掛かる。

 悲しくなる。当たり前じゃないか。誰だって、親しい人と離れ離れになんてなりたくないはずだ。誰だって、好きな人とはずっと一緒にいたいと思うはずじゃないか。だからこんな質問は無意味だ。一体何を期待して、こんな質問を投げかけたというのだろうか。

 

 けれども。

 

「……でも」

 

 東風谷早苗の答えは、それだけでは終わらない。

 

「その人も、私の事を好きでいてくれるなら」

 

 ふっと、早苗は表情を綻ばせる。

 

「それだけで、私は十分に幸せだと思います」

 

 魂魄妖夢は口をつぐんだ。口をつぐんで、思わず視線を落としてしまった。

 誰かの事が好きになって、でもその誰かとお別れしなければならなくて。それでもその誰かが自分の事を好きでいてくれるのなら、自分は十分に幸せだ。互いの想いが繋がっているのなら、それだけで自分は満足だ。戯言などではない。妖夢の質問の意味をしっかりと受け止めて、その上で導き出した早苗の答え。

 強いな、と妖夢は思った。あくまで想像とは言え、その答えに辿り着ける時点で早苗は強い。無論、悲しいだとか、寂しいだとか、そういった感情は含まれているのだけれども。それでも、その人が自分の事を好きでいてくれるだけでいい。それだけで十分に幸せだと、早苗は言った。

 

 大違いだ。

 今の妖夢とは、大違い――。

 

「……そっか」

 

 膨れ上がりつつある感情を抑え込んで、妖夢は顔を上げる。

 

「ごめんね。変な事聞いて……」

「う、ううん、変な事だなんて……。私の方こそ、想像だけで勝手な事言っちゃって……!」

 

 妖夢は破顔する。胸の奥が締め詰められるような感覚を覚えつつも、それでも彼女は笑みを浮かべる。

 そうだ。東風谷早苗の答えこそ最善。あの人だって妖夢の事を想ってくれているはずなのに、当の妖夢がこんな気持ちを抱いてはいけない。

 この感情は自分勝手な我が儘だ。だから抑え込まなければならない。この感情に振り回されて、いつまでも立ち止まっていたら。

 

(あの人の……あの人達の想いを、裏切る事になる)

 

 だから妖夢は、立ち止まる訳にはいかない。

 

 それから少しの談笑を挟んだ後に、早苗とは別れる事となった。

 彼女の背中を見送った後、妖夢もまた踵を返す。人里に来た本来の目的は、食材の買い出しだ。早いところ目的を済ませて、妖夢は白玉楼へと帰らなければならない。

 

「…………っ」

 

 ぎゅっと、妖夢はブレスレットを握り締める。

 西に傾いた日の光が、やけに眩しく感じられた。


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