桜花妖々録   作:秋風とも

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「とある少女の記憶#3」

 

 あの日以来、私が再び進一達と会う事はなかった。

 壊れてしまった幸福。取り戻せない温もり。その重責に押し潰されそうになって、私は部屋に籠る事が多くなった。他の誰かと会う気さえも起きなくなって、私は以前にも増して一人で読書に耽る事が多くなっていた。

 

 だけれども、やっぱり進一達の事が忘れられなくて。あれから何度か公園にも足を運んでみたのだが――結局一度の再会も叶わなかったのである。

 あの頃の進一達は、父親の仕事の都合上引っ越しを繰り返していたらしいが――当時の私は知る由もない。ただ、それでも進一達との再会は叶わないのだと悟った私は、いつの間にか公園へと足を運ぶ事もなくなっていた。

 

 再び孤独。一人ぼっち。けれどこの際、そんな事さえどうでもいい。

 一人ぼっちなんて慣れっこだ。一人だって本は読めるし、勉強だって十分する事が出来る。無理して誰かと関わろうだなんて思う必要もない。

 

 ああ、そうだ。あの後悔と比べりゃ、孤独なんて屁でもない。

 

 それからの私は、ただ一人で読書と勉強に耽る日々を過ごしていった。

 淡々と、黙々と、直向きに。胸中の後悔から目を逸らし、そして誤魔化し続けるかのように。家にいようが、学校にいようが関係ない。本を読んで、勉強して、また本を読んで、そして勉強して。

 いつの間にか私の学力は、同年代――いや、それどころか歳上のそれを遥かに凌駕する領域にまで至っていた。

 

 私にそういった才能があったのか、それとも単に四六時中読書と勉強をし続けた結果か。まぁ、今となってはそんな事などどうでもいい。神童だのと何だとの周りの連中が私をどう評価しようとも、興味なんて微塵もなかった。

 私の胸に残るのは後悔だけ。私はそれを誤魔化す為に、半ばヤケクソに読書と勉強をしてきたに過ぎない。学力の上昇だって、私にとってそれに伴う副作用のようなものでしかない。

 

 まぁ、でも。別に勉強は苦じゃなかったし、元より好きだった読書に関してはそれなりに楽しむ事だってできた。

 私が特に気に入ったのは、学校の図書室で見つけたとあるSF小説だ。主人公がタイムマシンに乗って様々な時代へと赴くというのが大雑把な内容だが、当然ながらフィクションであるため色々と非現実的な描写だって存在する。特にタイムマシンなんて、明らかに現代技術じゃ実現不可能な原理である。

 

 だけれども、浪漫はあると思う。

 もしもタイムマシンなんてものが存在して、タイムトラベルが実現可能なのだとすれば。私が犯した過ちを、正す事も出来るのだろうか。過去を変える事が出来れば、進一や夢美様の事だって――。

 神童などと呼ばれる程度の学力に反して、実に子供っぽい非論理的な願望。別に笑ってくれても構わない。それでも私は渇望したのだ。私に一時の幸福を与えてくれた、あいつらに対する贖罪の方法を。

 

 私の事はどうなったって構わない。

 だけどせめて、あいつらだけは――。

 

 

 *

 

 

 あれから六年の年月が経過した。

 六年間、再び孤独な日々を過ごし続けてきた私。十五歳となった私が書いたとある論文が、学術誌に掲載される事となっていた。

 

 学力をぐんぐんと高めた結果、飛び級に飛び級を重ねて十五歳という若さで准教授に就任。これはとんでもない実績らしい。国内でこの実績を得た人物は私で二人目らしいが――詳しくは知らない。たった一人で読書と勉強、そしてとある研究に没入し続けていた私にとって、他人の実績というものはそれほど価値のあるものじゃない。興味を傾ける事なんて殆どなかった。

 

 そんな私が構築した件の論文に関してだが――正直な所、それほど良い評価を貰えたとは言い難い。確かに十五歳という若さで准教授に就いたという点はそれなりに評価されたのだが、肝心の論文構成に多々甘い点が見受けられたらしい。所詮は十五歳の子供が書いた文章、という事なのだろうか。中には十五歳で准教授という私の立場そのものを快く思っていない学者達も一定数いたようで、辛辣な意見も多数寄せられていた。

 

 そもそも十五歳で准教授に就任した人物は、私で二人目。二番手なのだ。

 注目が集まったのも一瞬だけ。肝心の論文が低い評価に終わった今、私に関する周囲の関心は次第に薄れてゆくのだった。

 

「……どいつもこいつも、頭の固い連中ばかりだ」

 

 悪態をつきつつも、私はパラパラと学術誌のページを捲る。

 確かに内容そのものは理にかなったものばかりだが、はっきり言って目新しさがない。最小構成物質の観測に成功し、世界の構造の殆どが解明されてしまった今。実質上、物理学を始めとした様々な学問分野は終焉を迎えている。それでも溢れ出る探求心の捌け口を求めて学者達は研究を続けるのだが、けれども最終的に落ち着くのは似たり寄ったりの結論。

 

 探求心だけは旺盛の癖に、“常識”からは外れない。私からしてみれば矛盾も良いところだ。

 結局の所、本質的には誰も彼もが爪弾きにされる事を恐れているのだ。爪弾きにされ、独りになってしまう事を無意識の内に忌避している。だから結局“常識”という枠組みに嵌ろうとする。

 

 いや。常識に囚われている、とでも言うべきか。

 

「全くもって、面白くもなんともないぜ」

 

 それでも長年染みついた読書癖故か、私は次々と論文に目を通してゆく。速読は私のちょっとした特技だ。数分と経たずに一つの論文を読み終え、そしてパラりとページを捲ってまた別の論文へと目を通す。

 まぁ、でも。やっぱり、どれもこれも気に食わない内容ばかりである。面白くもなんともない、という感想しか出てこない程に。

 

「はぁ……」

 

 嘆息。流石の私も退屈感に押し潰されてしまいそうだ。

 だけれども。唯一()()()()に関しては、他とは明らかに何かが違った。

 

「……ん?」

 

 本格的に飛ばし読みでもしようとした矢先、とある論文を見つけて私の手は止まる。

 直感。その時点ではあくまで感覚的な問題だ。けれどもやはり、何かが違う。そんな気がする。

 

「非統一理論……?」

 

 論文の主となるテーマへと目を通しつつも、私はボソリと呟く。

 非統一理論。そんな言葉なんて聞いた事がない。文面をそのまま捉えるとすれば、統一理論を否定するようなテーマにも思えるが――。

 

 素粒子間に働く四つの力――電磁気力、弱い力、強い力、そして重力。近年になって長年物理学者達を悩ませてきた重力が他の三つと統合され、統一理論――ひと昔前までは超大統一理論などと呼ばれていたそれが遂に完成したというのは有名な話である。けれどこの論文は、その統一理論を真っ向から否定するようなテーマを掲げている。

 

「……面白そうだな」

 

 そう、面白そうだ。久しぶりに私の知的好奇心が刺激されている。

 飛ばし読みは保留にして、私はその論文をじっくり読んでみる事にした。

 

「全ての物理的法則が統一理論で説明できるとは限らない、か……」

 

 その論文が訴えていた事をざっくばらんに言ってしまえば、「統一理論では説明できない第五の力の存在」だった。

 客観的に見れば失笑ものである。統一理論じゃ説明できない力の存在? 物理学の終焉がほぼ確約されたこのご時世、今更そんな事を口にしても馬鹿正直に信じる者なんてそういない。あまりにも突拍子もなさ過ぎて、実感しろという方が無理な話。関心を向けない方が正常な人間の反応だ。

 

 けれど私は、どうやら正常ではない方の人間だったらしい。

 

「だ、誰だ……? この論文を執筆したヤツは……!?」

 

 はっきり言って、この論文は未完成だ。統一理論では説明できない力とやらの存在をある程度は立証できているものの、肝心の正体が実証できていない。この状態で論文を提出するなんて中々に度胸のある行動だが、それは私だって似たようなものだ。

 私の論文構成にも多々甘い点が見受けられる。そういう意味ではこの論文の執筆者は私とどこか似ている。

 

 私が興味を惹かれたのは、その点も起因しているのかも知れない。

 

「筆者は……」

 

 今時珍しい、画期的で柔軟な思考力を持つ物理学者。その人物の正体を探る為、私は視線を泳がす。

 そして見つけてしまった。論文が書かれた最初のページ、その上部。この論文を執筆した、物理学者の名前を。

 

「なっ……!?」

 

 その名前を目に入れた途端、私は絶句した。

 嘘だ。有り得ない。一体どんな偶然だ。そんな言葉がぐるぐると回り続ける中、私は思わずゴシゴシと目を擦ってその名前を刮目する。けれどやっぱり、見間違いなんかじゃない。私の勘違いなどでも決してない。

 

 本当に。本当に、こんな事が有り得るのか? いや、でも。実際に書かれているじゃないか。同姓同名という可能性も考えられるけれど、でも。

 

「……別人じゃ、ない」

 

 私の勘が告げている。あまりにも非論理的な根拠だけれども、それでもそう思わずにはいられない。

 この人は本人だ。私の記憶の中にもはっきりと残っている、あいつ本人で間違いないんだ。

 

 胸の高鳴りを抑える為、私は慎重に深呼吸する。そして今一度学術誌へと視線を落とし、再びそれを確認した。

 

 その論文の筆者名には、こう記載されていた。

 岡崎夢美、と。

 

 

 *

 

 

 その日。新幹線のリスライニングシートへと腰かけていた私は、頬杖をつきつつもぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。

 カレイドスクリーンに投影された偽物の風景。美しい海岸沿いのように見えるだけの退屈な地下トンネルを、ヒロシゲは静かに走行している。卯東京駅を出発してから約20分。京都までの面白味のない列車の旅は、あと33分程続きそうだ。

 

 あれから私は岡崎夢美という人物の事を調べた。

 十八歳という若さで大学教授に就任した天才少女。その専攻は比較物理学とされている。オカルティズムを織り交ぜた独特な研究方法が特徴的で、今や一定の注目を集めている有名な人物であるらしい。

 知らなかった。まさかあいつが、こんな有名人になっていたなんて。ここ数年間自ら進んで閉鎖的な生活を送って来ていた私だったが、流石にそろそろ改めるべきなのではないかと思い始めた。幾ら何でも、あまりにも世間知らずが過ぎるのではないだろうか。

 

 ――話を戻そう。

 この岡崎夢美という物理学者。私の想像が正しければ、数年前に私が傷つけてしまった男の子――岡崎進一の姉とみて間違いない。十八歳、と言えばちょうど私よりも三つ歳上。年齢はピタリと一致する。“岡崎”という苗字に関してはそれなりにありふれているのだろうが、“夢美”という名前に関してはそれなりに珍しいはずだ。ましてや“岡崎夢美”という名前の女の子など、捜そうと思ってもそう何人も見つからない。

 

 同姓同名なんて有り得ない。だとするとあの論文の筆者は、やっぱり。

 

「あいつ、なんだよな……?」

 

 それを確かめるのが今回の目的である。

 岡崎教授の事を調べていく内に、彼女が近々講演会を行うという情報を手に入れる事ができた。会場は京都。日時は私があの論文を読んでから約二ヵ月後。そんな情報を手に入れた私は即決した。

 講演会に参加して、岡崎教授と対面する。彼女が本当に夢美様なのだとすれば、私は。

 

「……ちゃんと、謝るんだ」

 

 進一を傷つけてしまった事。そしてあろう事か、逃げ出してしまった事も。謝ってそれで許して貰おうだなんて、そんな傲慢な事は考えていない。

 だけど、それでも。

 

「千載一遇のチャンスじゃないか」

 

 何が出来るのかは分からない。けれど何かしなければ、私の気が収まらなかった。

 

 

 それから33分後。無事に西京都駅へと到着した私は、当初の予定通り講演会場へと向かった。

 駅からそれほど遠くはない位置に建てられたビル。その三階に設けられた一室。数十人程なら余裕で収容できそうな講演室だったが、私はその中でも一番後方の席へと腰かけた。

 内心、ビビっていたんだと思う。相手が本当に夢美様なのか、それともよく似た別人か。仮にどっちだったとしても、いきなり視線を合わせるのはどうにも気まずい感じがする。相も変わらず変な所でコミュ障な私だが、今更どうこうしようなどと思っても遅い。

 

 兎にも角にも、どっちみち私がやるべき事は決まっている。

 

「……そろそろか」

 

 講演開始時刻。律儀なほどピタリと合った時間丁度に、その人は入室してきた。

 フォーマルなスーツ姿。まぁ、それはいい。髪の色は赤。腰まで届くそれを編み込んで纏めている。そして瞳の色も赤。十八歳の少女らしく、既に大人らしさが色濃く現れ始めた端正な顔立ち。そして、小柄な私よりも高い身長。

 

「…………っ」

 

 その人の姿を見た途端、私は必死に記憶を探り始める。

 私の記憶の中にあるのは子供の頃の夢美様。当然ながら、その時よりもあの人は大きく成長している。顔立ちも、背丈も。――ついでに胸も、それなりに。

 けれど間違いない。例えどんなに成長しようと、間違いようがない。だってあの人は、記憶に残るあの姿からそのまま成長したような姿をしているじゃないか。身に纏う雰囲気に多少なりとも変化はあれど、顔つきそのものにそこまで大きな変化は見られない。

 

 やっぱりそうだ。そうだったんだ。

 あの人は、間違いなく――。

 

「皆さん、今日はお集り下さりありがとうございます」

 

 マイクを片手に、その人はおもむろに喋り出す。

 

「本日の講演会を担当させていただきます、岡崎夢美です。よろしくお願いします」

 

 それから、講演会は恙なく行われた。

 基本的な内容は比較物理学関係の話。あの学術誌に掲載された論文に関してはそれほど深くは触れなかったが、それでも実に興味深い講演内容だった。

 やっぱりあの人は他の学者達とは根本的な何かが違う。物理学が終焉を迎えて大半の学者が虚無感を覚える中、けれどあの人だけは実に直向きだ。直向きに、自らの持つ理論を貫き通そうとしている。きっとあの人の中では、物理学はまだ終わっちゃいない。未だ解明されていない謎の存在を、あの人は確信しているのだろう。

 

「すごいな……」

 

 本当に、凄い。始めて会ったあの日から、どことなく常人と違うような何かを感じてはいた。けれどまさか、これ程とは。本当の意味での天才とは、きっとあのような人の事を示すのだろう。

 

「……でも」

 

 しかし。何かが、変だ。

 そこはかとなく漂う違和感。あの人から伝わってくるこの胡乱な印象は、一体なんだ?

 講演に関しては問題ない。あの人の言っている事は特段おかしい訳でもないし、話の内容が突然飛躍するような事もなかったはずだ。

 けれど覚えるこの感覚。これは――。

 

「……いや」

 

 止めよう。今ここであれこれ考察しても意味がない。

 違和感を覚えようが何だろうか、私の目的は変わらない。――私個人の感覚だけじゃ、引き下がる理由としては弱すぎる。

 

 

 それから、二時間弱。内容に関する簡単な質疑応答を経た後に、岡崎教授の講演は幕を閉じる事となった。

 実に有意義な講演だった。一方的に聞けただけでも、時間は無駄になっていない。けれど私の目的は、ただ単にあの人の講演を聞く事だけじゃない。

 

 質疑応答の場面で名乗り出るのは都合が悪い。だから私は講演終了まで待ったのである。

 荷物を手に持つ事さえ忘れて、私は会場の外へと出て行った岡崎教授の後を追う。幸いにもすぐに捉まえる事ができた。

 

「教授!」

 

 呼び止めると、その人は素直にこちらへと振り向いてくれた。

 赤い髪。赤い瞳。彼女を見ていると、私の頭を撫でてくれたあの人の姿が想起される。やっぱり、人違いなんかじゃない。

 この人は夢美様だ。百パーセント、間違いなく。

 

「……何かしら?」

「あ、いや……えっと……」

 

 訝し気な表情を浮かべる夢美様を前にして、私は思わずしどろもどろになってしまった。

 いけない。流石にじろじろ見過ぎただろうか。取り合えず、何か言わなければ。

 

「あ、あんたの講演会を見てたんだ。その……凄く、面白かった」

 

 当たり障りのない内容。夢美様の表情が、ますます訝し気なものとなる。そんな事を言うために呼び止めたのかと、そう言いたげな面持ちだ。

 違和感。やっぱり、違和感を覚える。先程感じた胡乱な印象とは別物だけれど、でも――。

 

「…………っ」

 

 まだだ。まだ結論づけるのは早すぎる。

 兎にも角にも、私は私の目的を果たさなければならない。この人に、言う事があったはずだろう?

 

「あんたを呼び止めた理由は、他でもない。あんたに、謝りたい事があって……」

「……謝る?」

 

 そう。そうだ。私はそもそも、この人に謝る為にここまで来たのだ。

 六年前の、あの日。進一を傷つけてしまった事。そして無責任にも逃げ出してしまった事。きちんと頭を下げて、せめてしっかりと謝らなければならない。

 それは私に課せられた義務だ。あんな事を引き起こしてしまった私の、せめてもの償い――。

 

「……ちょっと待って」

 

 だけれども。

 私のそんな償いは、あえなく決壊する事となる。

 

「……あなた、誰なの?」

 

 ――えっ?

 

「一体、何の事を言ってるのよ」

 

 ちょっと待て。待ってくれ、待ってくれ、待ってくれ。

 何の事を言っている? それはこっちの台詞だ。あんたは一体、何を言って――。

 

「あっ……いけない。私この後も予定があるのよ。これ以上、あなたに時間を割く余裕なんてないわ」

 

 冷たい。

 この人は夢美様だ。それは間違いない。でも、これは――。

 

「質疑応答の時間なら、さっきも与えたでしょ?」

 

 まるで、私に対して何の関心も持っていないかのように。

 

「それじゃ」

 

 夢美様は踵を返し、そのまま去って行ってしまった。

 

 私は暫く放心状態に陥ってしまう。まるで白昼夢でも見ていたんじゃないかと錯覚するくらいに、頭の中が真っ白になって。去ってゆく夢美様の背中を、ただ見つめる事しかできなくて。

 我に返ったのは数分後。丁度、夢美様の姿が完全に見えなくなった直後の事だった。

 

「なっ……」

 

 胸の奥が締め付けられるかのような感覚。六年前と同じだ。これ以上は関わらなくていいと、進一から告げられた時と同じ――。

 

「何だよ……」

 

 私の予感は当たってたんじゃないか。

 夢美様へと声をかけた時に感じた違和感。あまりにも余所余所しすぎる態度。六年ぶりの再会に対し感慨深く感傷に浸っていた私とは対照的に、夢美様の態度はドライだった。

 他人行儀。まるで、今日初対面の人にいきなり声をかけられたかのような。

 

「そうか……」

 

 そう、その通りだ。

 最早認めざるを得ない。

 

「私の事、覚えてないのか……」

 

 強い後悔を覚え、六年間それを抱え続けて。日増しに膨れ上がる胸の苦しみに耐え忍びながらも、今日こうしてようやく再会する事ができたのに。でも夢美様は、私の事なんて覚えてなかった。きれいさっぱり、忘れてしまっているようだった。

 

 ――こんなのって、ありなのか?

 それじゃあ、何か? 私が抱き続けてきた、この罪悪感は。全部、一方通行で――。

 

「いや……。無理もない、か」

 

 ちょっと前の私ならば、ここで涙を零してしまっていたかも知れない。けれど今は違う。

 涙なんて流せない。涙を流す方法さえも、私は忘れてしまっていた。

 

「そりゃそうだよな……」

 

 自嘲するかのように、私は笑う。

 

「弟に、あんな事をされて……。そんなヤツの事なんて、記憶に残したくないよな……」

 

 ああ、そうだ。その通りだ。

 まただ。また私は、思い上がった。贖罪などいう大義を掲げて、のこのことこんな所までやってきて。悲劇のヒロインでも気取っていたのか、私は。

 

 自惚れるな。私にそんな価値なんてある訳ないじゃないか。

 悲劇のヒロインだって? 不幸自慢も大概にしろ。

 

「結局、私は……」

 

 何も出来ない。苦しんでいる誰かを助けるどころか、苦しんでいる誰かに手を差し伸べる事すらできない。

 

 私は、結局。

 あの姉弟を救えない。

 

 

 *

 

 

 忘れそうになっていた荷物を取りに戻った後、私は講演会場を後にしていた。

 外へと足を踏み出すと、西日が眩しいくらいに私へと降り注いでくる。思わず腕を陰にして日差しから顔を背けつつも、私は考え込んでいた。

 

 一体、これからどうすればいいのだろう。

 

 この六年間、胸の苦しみを紛らわす為に読書や勉強、そして研究を続けてきたのだけれど。でも結局、私はあの姉弟に詫びる事などできやしなかった。謝罪を口にする資格さえも、今の私にはなかったのだ。

 無意味。私のする事成す事、その全てに意味なんてない。

 それじゃあどうすればいい? 意味がないのなら幾ら足掻いても無駄だという事じゃないか。

 

 私がこのまま、あの兄弟への贖罪を渇望し続けたとしても。

 その望みは叶わない。私がこれから何をしようとも、結局何も成し遂げられない。

 

 私一人の、力では――。

 

「何も、できないのか……?」

 

 けれど。

 その時だった。

 

「あらあら、随分と沈んでいるようですね」

「……っ?」

 

 聞き覚えのない声。

 一人虚無感に捉われて、抜け殻のように無気力になりかけていた私。けれどそんな私に対して、そいつは突然声をかけてきた。

 私は反射的に顔を上げる。そして私の背後――声が聞こえてきた方向へと、おもむろに振り返る。

 

 見覚えのない女が、そこにはいた。

 

「ご機嫌よう。……なんて、聞くまでもなかったかしら?」

「は……?」

 

 何だ、こいつは?

 見た所、私よりも歳上である事は間違いない。群青色の髪に、群青色の瞳。こんな奴、少なくとも私の記憶の中には存在しない。

 私の記憶違い? いや、違うな。こいつとは初対面だ。それは間違いない。

 

 けれど、だとすればなぜだ? なぜ、いきなり私なんかを――。

 

「そんなに警戒しないで下さいよ。ちょっと声をかけてみただけじゃないの」

「ちょっと? 初対面の相手に、か?」

「あらあら……。ご機嫌ナナメなのかしら?」

 

 不気味な奴だ。私は警戒心を強めた。

 スーツ姿である事から察するに、コイツもまた夢美様の講演会に参加していたのだろう。だとすると学者か何かか? いや、それとも単なる一般人?

 様々な憶測が、私の中でぐるぐると回る。警戒のあまり表情を顰める私だったが、けれどそいつは対照的に実に楽しそうな表情を浮かべていた。

 

「うふふ。その反応は正解です。見知らぬ女にいきなり声をかけられて、警戒しない方が不正常というものですしね」

「……何なんだあんた。何か用があって私に声をかけたんじゃないのか?」

「あら、これは失礼。世間話から初めて場を和ませようと思ったのだけれど……」

 

 こいつ――何を考えている?

 関わるべきではない奴だと、私の直感が告げている。悪徳商法だとか、或いは宗教か何かの勧誘か? だとすれば相手にする必要はない。適当な理由をつけて、さっさと立ち去ってしまおうか。

 そんな事を考えていた私だったが、だけれども。直後に口にしたそいつの言葉を前にして、固まってしまう事となる。

 

「タイムトラベル」

「えっ……?」

「貴方が主に行っている研究のテーマ……ですよね?」

「っ!?」

 

 なんだと――?

 私は戦慄した。こいつ、なんでそんな事を知っている? 確かにあの学術誌には私の論文も掲載されたけれど、しかしだからと言って――。

 

「そんなに驚く事じゃないでしょう?」

「なに……?」

「十五歳という若さで准教授に就いた天才少女……。貴方、結構な有名人じゃないですか」

「で、でも……。あの論文は、そこまで注目された訳じゃ……」

「ふぅ……。貴方、自分に対する評価さえも興味がないのかしら? 確かに普遍的に見れば、貴方の論文はそれほど評判が良い訳じゃない。けれど賛同者がゼロという訳ではないのです」

 

 どこから取り出したのか、そいつはあの学術誌を掲げながらも近づいている。そして私の耳元へと顔を近づけると、そいつは囁くように、

 

「私、貴方には期待してるんですよ?」

 

 悪寒。

 不気味。あまりにも気味が悪すぎる。反射的に身を引いて、私はその女を睨みつける。けれどそいつが浮かべるのは、相も変わらず癇に障る笑顔だけだ。

 

 こいつは。思った以上に、ヤバイ奴なのかも知れない。

 

「貴方、先程夢美さんに声をかけてましたよね」

「……っ。見ていたのか……?」

「ええ。でも残念。素っ気なく突っ撥ねられたのでしょう? 冷たくあしらわれてしまったのでしょう?」

「…………ッ」

 

 ギリッと、私は歯軋りをした。

 腹が立つ。出歯亀に関してもそうだが、何よりこの人をおちょくるような態度。気に食わない。一体何が言いたいんだ、こいつは。

 

「いえいえ、そんなに気にする必要もないと思いますよ。夢美さん、誰に対してもあんな感じですからね」

「……? どういう意味だ?」

「あら? ご存知ないのですか? 岡崎夢美さんと言えば、十八歳で教授となった天才少女。けれどその本質は利己的で独りよがりです。そうですね……貴方以上に他人に対して関心を向けておらず、信じているのは己の信条のみ。それ以外の事なんて、彼女にとってはどうでもいい事なのですよ」

「え……?」

 

 ――何だ? 一体、何の話をしている?

 

「ですから、夢美さんの話をしているのですよ。あそこまで他人に不誠実な方も珍しいですよね。今回の講演会だって、お金の為に仕方なく……」

「う、嘘だッ!」

 

 思わず私は声を荒げる。

 信じられない。こいつの言っている事なんて、受け入れられる訳がなかった。

 

「嘘? なぜそう言い切れるのです?」

「な、なぜって……。だって、そうに決まってるじゃないか! だってあの人は……!」

 

 そうだ。夢美様は。

 

「あんなにも、優しく……頭を、撫でてくれる人なのに……」

 

 それなのに、他人に対して不誠実? 自分の信条以外何も信じていないだって?

 馬鹿な。有り得ない。あの人に限って、そんな事。

 

 いや。思えばあの講演会中に覚えた違和感の正体は、これだったのかも知れない。来場者に対して誠実な態度で講演としているように見えて、けれど私は距離感のようなものを感じていた。上手く言葉にできないけれど、何というか。まるで、あの人は私達に関心をまったく向けていないような――。

 

「そんな……」

 

 という事は、まさか。

 夢美様も、変わってしまったという事か? あんなにも優しかった夢美様は、もうどこにもいないという事なのだろうか?

 仮に、そうだったとして。

 もしも。夢美様が変わってしまった原因が、六年前のあの件と関係しているのだとすれば。私は進一だけでなく、夢美様までも――。

 

「うふふ……」

「……何が可笑しい?」

「いえ……。ただ、想像以上でしたので」

 

 想像以上? 一体、何の事だ?

 

「そうだ。貴方に良い事を教えてあげましょう」

「良い事……?」

「ええ。良い事です……」

 

 そう言いながらも、そいつは歩み寄ってくる。背筋の悪寒は消えないが、それでも今度は身を引かなかった。

 甘美な誘惑。知らず知らずの内に、私の興味はそれに惹かれていて。

 

「夢美さん……。いえ、彼女とその弟さんを助ける方法です」

「ッ!?」

 

 耳元で囁かれたあまりにも衝撃的過ぎる言葉。私は思わず暫しの間言葉を見失って、口をあんぐりと開ける事しかできなくなっていた。

 

 こいつ。本当に、一体何なんだ? 夢美様だけでなく、その弟も一緒に助ける方法だと?

 まるで私の心情を覗き見ているかのような言葉。私以上に、私とあの姉弟の事を知っているかのような口ぶり。

 おかしい。こいつは明らかに、何かがおかしい。

 

「あ、あんたは……」

「はい?」

「あんたは、何を知っているんだ……?」

 

 するとそいつは面白そうにニヤリと笑うと、

 

「色々と知ってますよ」

 

 何か含みがあるように。

 

「そう、色々とね……」

 

 心臓を鷲掴みにされたかのような感覚。毛穴から吹き出した冷や汗が私の頬を伝い、流れ落ちてゆく。膨れ上がる懐疑心がうるさいくらいに警鐘を鳴らしているが、それと同時に私の心にはある種の期待感のようなものが存在していた。

 

 これ以上はどうしようもないのだと、そう思っていた。私では贖罪をする事すらもできないのだと、そう諦めかけていた。

 だけれども。ひょっとして、こいつの話を聞けば――。

 

「……聞かせろよ」

 

 俯きつつも、私は迷いを押し潰す。

 

「あいつらを助ける事ができる、その方法ってヤツを」

 

 愉悦。

 そいつは再び口角を吊り上げた。

 

「なに、簡単な話ですよ」

 

 それはまるで、悪魔の囁きのようだった。

 

「貴方の理論と私の技術。それら二つを掛け合わせれば……ね」

「私の、理論……?」

 

 私の理論。それは多分、あの学術誌に掲載された論文のテーマ。

 タイムトラベル。けれどあれは不完全だ。可能性を提示する事は出来ていても、実現する方法が掴めていない。決定的なピースが足りないのだ。それ故に、あれはまだ夢物語の段階でしかない。

 けれども。こいつは――。

 

「さて、そこで貴方に提案です」

 

 スッと。そいつはおもむろに、手を差し伸べてきた。

 

「私に力を貸してくれませんか?」

「なんだと……?」

 

 満面の笑顔。けれど気味が悪い。人はここまで胡散臭い笑顔を浮かべる事ができるのだろうか?

 

「私に協力して下されば、きっとあの姉弟を救う事ができますよ。いえ、それだけじゃない。あの姉弟だけでなく、きっと貴方も救われる」

「…………」

 

 妄言だ。妄言に決まってる。

 でも、私は。

 

「……それであんたに何の利益がある?」

「利益……? あぁ、ご安心を。私は別に何かと引き換えに貴方を助けようとしているのではありませんよ。私の目的が達成されれば、副次的にあの姉弟の問題も解決されるのです」

「つまり……。あんたの目的と私の望みは、間接的に繋がっているという事か」

「ええ、そうなります。どうですか? 悪い話でもないと思うのですが……」

 

 こいつの言っている事は、一体どこまで信用できるのだろう。

 客観的に考えれば、この誘いはあまりにも怪しさ満点だ。私を貶める為の巧妙な口車のようにも聞こえる。常識的に考えれば、この誘いに乗ってしまうなどあまりにも愚行。

 

 だけども。それはあくまで、不利益を被る可能性があればの話だ。

 今の私に何がある? そう、何もない。何もないじゃないか。気の合う友人なんて一人もいないし、実家にいるのは放任主義の叔父夫婦。私の居場所なんて、端からどこにもなかっただろう?

 

 何もなければ、何もできない。けれど逆に言えば、何もなければ失うものもないという事だ。

 

「……。私は……」

 

 何もできないと思っていた。私一人じゃあまりにも無力で、あまりにも価値のない。幾ら勉強ができたって、誰かと手を繋ぐ事ができなければ意味がないじゃないか。

 

 しかし。しかし、だ。今この場で、差し伸べられたこの手を受け入れる事ができれば。こんな私でも、一つの小さな願いくらいは叶えられるかもしれない。あの姉弟の笑顔を、取り戻す事が出来るかも知れない。

 

 だったら。

 だったら、私は。

 

「……分かった」

 

 悪魔に魂を売る事さえも厭わない。

 

「協力すればいいんだな?」

 

 私はその女の手を取った。自分を捨て、感情を殺し。私はその誘惑を、受け入れる事を選択したのだ。

 

 女は笑う。相も変わらず胡散臭い形相のまま、満足気に頷いて。けれど初めから私がこの選択をする事が分かっていたかのように、「うふふ……」と声を零すと。

 

「決まりですね」

「ああ……」

「では、お近づきの印に自己紹介をしましょう」

 

 女は口を開いた。

 

「私の名前は霍青娥です。以後、お見知り置きを」

 

 

 私が選択したのは茨の道だ。一歩踏み出せば後戻りはできない、迷宮のように複雑な道。

 けれど後悔なんてしない。例えどんな代償を払う事になろうとも、例え私の身がどんな目に遭おうとも。構わない。どうでもいい。知ったこっちゃない。

 

 ただ。

 岡崎進一と、岡崎夢美。あの二人を、救う事ができるのならば。

 

 私は、それだけで――。




今回で断章は終わりです。次回から遂に第弐部突入となります。

三周連続で更新して来ましたが、次回からはいつも通り二週間に一回くらいのペースでの更新となる予定です。まだまだ先は長そうですが、まったりとお付き合い頂ければ幸いです。

それでは。

※2018/05/06 追記
「第壱部キャラクターまとめ」をこの後ろに追加させていただきました。第弐部突入はその次からとなります。

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