それから私は、毎日のようにあの公園に通った。
休日は勿論、平日も。学校から帰ってきた私は普段なら一人読書に耽る所、カバンを置いて真っ先に家を飛び出していた。一人ぼっちで本を読んでいた時よりも、その時の私は数段生き生きとしていた。
進一は決まってあのブランコに腰かけていた。あの場所がお気に入りなのか、それとも無意識の内に足を運んでしまうのか。前にさり気なく聞いてみた所「何となく」という返事が返ってきたので、おそらく後者なのかも知れない。
「……また来たの?」
「おう。わたしは何度だって来るぜ」
「ボクばかりに構っていていいの? 他の友達は……?」
「そんな事お前が気にする必要はないって。ささ、今日も遊ぶぞ!」
お前以外にまともな友達なんていない、などとは口が裂けても言えまい。
進一と出会ってからというものの、私の取り巻く環境が劇的に変わったのかと言われるとそうでもない。相も変わらずこいつ以外でまともに遊べる友達もできないし、だからと言って家では私が孤独である事も変わりはない。
だけれども。あの時の私は、ただ進一と遊んでいるだけで楽しかった。進一の姉――夢美様に頼られているという事実だけで、私は満足だった。
だからそれ以上の事は何も望まない。この幸福感が続いてくれるのならば、それだけで満足だ。
たったひと時だけでも、この温もりを感じる事が出来る。それだけで、十分だった。
「最近ね、進一が凄く生き生きしてるの」
そんなある日。いつも通り夕暮れ時に進一を迎えに来た夢美様が、藪から棒に私にそう声をかけてきた。
「やっぱりあなたのお陰なのかな?」
ちょっとトイレに行ってくると、進一が一人席を外している時だ。思えば、夢美様と二人っきりでこうして話をしたのも、それが初めてだったのかも知れない。
「……別に、わたしはただ進一を振り回しているだけだ」
「ふふっ。謙虚なのね」
違う。謙虚とか、そんなのじゃない。
私は陶酔しているだけだ。一人だった進一に手を差し伸べて、助けた気になっているだけなのだ。
助けられているのは、寧ろ私の方だ。もしもあの日、進一と出会わなければ。私は今でも一人ぼっちだったのかも知れないのだから。こうして誰かと一緒に遊ぶ事だって、出来ていなかったのかも知れないのだから。
「……私達の家はね、父子家庭なの」
そんな中。夢美様は、ポツリポツリと話し始めた。
「一年くらい前にね、お母さんが死んじゃって……それで、色々あって……。あの日からずっと、進一は自分から人と関わるのを避けるようになっちゃったの。それで、家にいる時もあの子……ずっと、暗い表情を浮かべてて……」
「そ、そう、なのか……?」
「うん……。そりゃあもう、見てられないくらいでね……」
いきなりどうしてこんな話を私にしてくれるのか。その時はまだ、いまいちピンとこなかった。
ただ、私に説明してくれる夢美様の表情が、本当に心の底から苦し気なものだったから。上の空で聞いてはいけない事なのだと、その時の私は直観的に判断していた。
「でもあなたと出会ってから変わったわ。あの子、家でも少しずつ笑顔を見せるようになったの。これって凄い事なのよ?」
「す、凄い事って……。別にわたしは、大した事なんて……」
「あなたがそう思っていても、私は感謝しているの」
何というか。むず痒い、とでも形容すべきだろうか。
こんな風に、真正面から面と向かって感謝された事なんて、今まで一度もなくて。だから私は、どう反応すべきなのか皆目見当もつかなくて。それ故に、ただオロオロとする事しかできなかったのだけれども。
それでも。やっぱり嬉しかった。誰かの力になれているという事実が、本当に心地よかった。
「そうね。お礼に何かしてあげたいんだけど……」
「お、お礼って……」
「何かして欲しい事とかある? お姉さんに言ってみなさい!」
ふふんと得意気に胸を張る夢美様。お姉さんと言っても、こいつは私より三つ歳上なだけで、当時はまだ十二歳であったはずだ。まぁ、だからこそお姉さん風を吹かせたいのかも知れないのだけれども――いや、私も人の事は言えなかったか。
それにしても、何かお礼がしたいとは。別に見返りなんてこれっぽちも求めていなかったので、いきなりそんな事を言われても正直困る。けれどここで首を横に振って断ってしまったら、この人の好意を無下にする事になってしまうだろう。
それはダメだ。数少ない女の子の知り合いの好意、蔑ろにしては罰が当たる。
――少し考えると、
「そ、それじゃあ……」
「うん?」
正直、ちょっぴり恥ずかしい。けれども私は、口にする。
「あ、頭を……」
「……え?」
「頭を……撫でて、欲しい……」
「撫でる……? それでいいの?」
その時の私は、きっと耳たぶまで真っ赤になっていたに違いない。恥ずかしさのあまり思わず口をぎゅっとつぐむが、それでも何とかこくりと頷く事ができた。
何てことない、些細な願い。しかしあの時の私にとって、それはかけがえのない特別な意味を持っていて。
「……ふふっ」
「な、何だよ! 何笑ってるんだよ!」
「い、いや、ごめんなさい。なんだかあなた、可愛くって」
まぁ、こんな反応されて当然だろう。お礼の提案を要求されて頭を撫でてほしいと口にするなど、実に子供っぽくて稚拙な反応だ。
いや、らしいと言えばらしいか。だってその時の私は、紛れもなく子供だったのだから。まだ10歳にも満たないくらいの、本当にちっぽけで弱々しいただの子供に過ぎなかったのだから。
だから私は、渇望したのだ。
孤独を紛らわす為の、温もりを。
「ありがとう。進一を助けてくれて」
「…………っ」
優しく頭を撫でられる。途端に胸の奥底が、ほっこりと温かくなった。
柔らかな手の感覚。暖かな温もり。夢美様に頭を撫でられると、何だか凄くポカポカする。夢美様から感じ取れるのは、私も思わずくしゃりとした笑顔を浮かべてしまう程の、そんな温情。
「うふふ。あなた、頭を撫でられるのが好きなのね」
「わ、悪いのかよ?」
「そんな訳ないでしょう。可愛くて良いじゃない」
そういえば、可愛い可愛いなどど面と向かって言われたのも、思わばこれが初めての体験で――いや、それはいいだろう。
満足だった。こうして進一と遊んで、夢美様とも交流して。こんなにも暖かな温もりを知る事が出来て。幸せだった。私の心は充足感に満ち溢れていた。
こんな温もりが、これからもずっと続けばいいのに。
その時の私は、心の底からそう渇望していて。
「な、なあ……」
「うん?」
「そ、その……。わたし……」
だから私は、そんな幸せを手放すまいと。
「し、進一の事は、わたしに任せてくれ!」
躍起になっていたのかも知れない。
「あいつが心を閉ざしているっていうんなら、わたしがその心を解きほぐしてやる! もっともっと、仲良くなる! だから……!」
だから。もう、私を一人にしないでくれ。その時の私は、きっとそのような事を口にしようとしたのだろう。
恩着せがましい。烏滸がましいにも程がある。一体何様のつもりだったんだ、私は。
けれどそれでも、きっと夢美様は受け入れてくれる。進一だって、何だかんだ言っても最終的にはきっと私に心を開いてくれる。
そういう奴らなんだ。あの姉弟は。
「ありがとう」
夢美様は。ただ“ありがとう”と、そう言ってくれた。当時の私は、その言葉だけで何よりも嬉しかった。
だから私はますます張り切った。もっともっと、進一達と仲良くなりたい。もっともっと、夢美様達の力になりたい。だから私は、心の中で一人意気込んでいたのだ。もっと頑張るぞ、と。
――張り切った。意気込んだ、か。
いや、違うな。
*
その日も、私はいつも通りの時間帯にあの公園へと足を運んでいた。そしていつも通り、あのブランコで進一と合流した。
「……今日は何して遊ぼっか?」
「お? 何だよ。お前の方からそんな事を言ってくるなんてな。実は満更でもないんじゃないかー?」
「え? い、いや、まぁ……その……」
珍しく声をかけてきた進一をちょっぴりからかう。子恥ずかし気に口籠るそいつの様子が何だか可愛くて、私の悪戯心が刺激されそうになった。あまりいじめるのも可哀そうなので、程々にしておくが。
そんな事をしつつも、今日も私達はいつも通りに遊ぶ。鬼ごっこやかくれんぼ、砂場遊びやブランコでの靴飛ばし。結局はいつも大して変わらない遊びになってしまうのだが、それでも楽しかった。進一と一緒に遊べるだけで、私は満足だったのだ。
そう、十分。十分だったはずだ。
それなのに、私は――。
「なぁ、進一。ちょっと良いか?」
「……ん?」
日もだいぶ西の地平線に近づき、空が茜色に染まり始める時間帯の事だった。
一通り遊び終わり、再びブランコに戻ってきた私達はいつも通りの定位置に座る。右端が進一、そしてその隣である真ん中が私だ。茜色の空を仰いで一息ついた後、藪から棒に私は切りだした。
「前にお前の姉ちゃんから聞いたんだけどさ。……お前の家も、色々とあったみたいだな」
「えっ……?」
進一の声色が変わった。
いきなり何を言い出すんだろう。一体何を言ってるんだろう。きっと進一はそんな風に思っていたのだろうけど、それでも私は続ける。
「初めてあったあの日から、わたしもずっと感じてたんだ。お前、何だか妙に自虐的というか……。意図的に何かを拒んてる、というか……」
「じぎゃく……?」
自虐的、だなんて小学生には難しい言葉。けれどそれでも進一は私の言わんとしている事を何となく察してくれたらしく、口をつぐんで俯いてしまった。
心当たりがある、という事なのだろう。少なくとも私が感じた“意図的”という印象は、多分強ち間違ってない。きっとこいつは何らかの要素が原因となって、心を閉ざしてしまっている。私と交流していく内に少しずつ良好な兆しが見え初めているものの、それでも、だ。
だったら。その“何らかの要素”とやらは、一体何なのか。
「母親がいない……って事と、何か関係あるのか?」
「…………っ!」
進一は息を呑む。
図星。分かりやすい反応だ。私の想像通り、こいつから感じていた拒絶感は、おそらく母親の死と関係している。以前口にしていた、本来見えるはずのないものが見える云々という話もきっと――。
だから私は寄り添った。拒絶感の原因の存在を確信した私は、それを取り除く為に。
「進一。……お前は、わたしの友達だ。かけがえのない、わたしの大切な友達なんだ」
そっと、私は言葉を投げかける。
それは私の、心の底からの本音だ。私にとって進一はかけがえのない友達で、大切な存在だったのだ。だからこそ。
「わたしはお前を助けたい。わたしはお前の力になりたいんだ」
夢美様に褒められたいだとか、そんなのじゃない。進一を助けたいというこの気持ちは、私の本心だ。友達を助けたいというこの思いは、誰しもが抱く事となる至極自然な感情だったはずだ。
だから私は手を伸ばす。進一を、助ける為に。
「だから進一。何があったのか、わたしにも話してくれないか? きっと、力になってみせるから……」
「……っ。ボクは……」
閉ざしてしまった進一の心を、解きほぐしてやりたい。殻の中に閉じ籠ってしまった進一を、助け出してやりたい。少しでもこいつの力になれるというのなら、私は――。
「ボク……」
――それこそが慢心。
とんでもない、思い上がりだった。
「あぁ……。そうだ、ボクは……」
何かを思い出そうとするかのように、進一がボソボソと呟き始める。
俯いて、息を呑んで、もごもごと。けれど、それは兆候に過ぎなかった。
「病院……。病院で、お母さんは眠ってて……。あっ……いや、違う……。眠ってたんじゃなくて……あれ、は……」
「進一……?」
嫌な予感がした。冷たい何かで背筋を撫でられるかのような、そんな悪寒と共に。
けれど遅い。あまりにも遅すぎる。そんな予感を私が覚えた時点で、それは最早手遅れだったのだ。
「あっ……ああ、ああああ……! そうだよ……あれは……。あの時の、あれは……!」
「……っ!?」
がくりと、進一がブランコから崩れ落ちる。悲痛な呻き声を上げ、どさりと膝をついて。苦し気に頭を抱えるそんな様子を見せつけられて、異常性に気付かない訳がない。
震える身体。締め付けられる心。息をするのも忘れそうになった私だったが、けれど無理矢理身体を動かす。倒れそうになる進一を支える為に、私は慌てて駆け寄って。
「お、おい進一! どうしたんだよ急に!?」
「嫌……嫌だぁ……! ボク、ボクは……!」
要領を得ない。肩を揺さぶって必死に声をかける私だったが、しかし進一から返ってくるのは筋の通らない言葉。一体こいつが何を思って、どうしてこんな事になってしまっているのか。分からない。子供の私には分かるはずがない。
けれど。そんな中でも一つだけ、分かる事がある。それは持ち上げられた進一の顔。その眼。
「嫌、また……まただ……。また、見えて……」
「し、進一……。な、何を……?」
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! 見たくない……見たくない、見たくない見たくない見たくない! ボクはこんなの、見たくないのにッ!!」
「お、落ち着いてくれ! 進一、頼むから……!」
私は狼狽していた。冷静さなんて、完全に欠落してしまっていた。
だって。あまりにも突然すぎるじゃないか。私はただ、進一の力になりたかったくて。進一を助けたいって、そう思っていただけで。その為に、手を伸ばそうとしただけなのに。
これじゃあ。まるで、私が――。
「進一ッ!?」
私がオロオロと慌てふためいていると、流れ込んできたのは聞き覚えのある声。弾かれるように振り向くと、そこにいたのは進一の姉。夢美様だった。
時刻は夕暮れ。夢美様が進一を迎えに来る時間帯だ。あの人もまた、いつも通りに進一を迎えに公園まで足を運んで。そしてこの惨状を目の当たりにしてしまったのだ。
夢美様も進一へと駆け寄ってくる。そして半ば錯乱状態にある進一の姿を確認すると、夢美様もまた狼狽を露わにして。
「何があったの!?」
「わ、分から、ない……。た、ただ、わたしは……!」
言葉が出てこない。頭の中が真っ白になって、私はふらふらと後退ってしまって。必死な形相の夢美様からの質問さえも、まともに答える事が出来なくて。
「お姉、ちゃん……?」
「進一……!? そうよ、お姉ちゃんよ!」
「お姉ちゃん……!」
夢美様の存在を認識した進一は、縋り付くようにその腕を掴む。見上げるような形で進一に顔を向けられた夢美様は、その『眼』を認識すると一変。
「そんな……。どうして……!」
悲痛な表情。それだけで私の胸はますます苦しくなった。
――何だ。何だ、一体何なんだ。
どうして? 一体何が起きている? なんでいきなり、進一がこんな事にならなきゃならないんだ。私はただ、進一を助けようとしただけなのに。
助ける?
そうだ。助ける為に、進一の過去を掘り返そうとした。それが原因。私の余計な行動が、進一のトラウマを想起させた。触れてはいけない過去に触れてしまったのだ。
言い訳なんてできやしない。最早認めざるを得ない。
進一がこうなってしまったのは――。
「嫌だ……嫌だ、嫌だよ……」
「進一っ……」
進一の声。それが耳に届く度に、私の心は締め付けられる。
「助けてよ……」
夢美様に抱き寄せられた進一は、それでも尚苦しそうに震えていて。
「助けてよ、お姉ちゃん……!」
――私の所為なのか?
進一を助けたいだとか、夢美様の力になりたいだとか。そんな余計な願望を抱いてしまった、私の所為なのか? 私の所為で、進一は苦しんでしまっているのか?
私の余計な行動が。私の余計な意気込みが。進一を、こんな――。
「わ、わたし……」
そんなの。
「あっ……」
気が付いたら、私はその場から逃げ出していた。夢美様の声が聞こえたような気がしたけれど、それでも私は止まらなかった。止まる事が、できなかった。
私が進一を傷つけた。私が進一を追い詰めた。掛け替えのない幸福を、他でもない私自身が壊してしまった。
そう思うと耐えられない。耐えられる訳がない。
だから私は逃げ出してしまった。逃げて、逃げて、振り返る事もなく逃げ続けてしまったのだ。
そんな事をしても意味はない。寧ろ余計に状況が悪化するだけ。
そう、ちょっと考えれば簡単に分かるはずなのに。
それでも、私は。
*
「…………」
私は一人部屋に籠り、ベッドの中で蹲っていた。
共働きの叔父夫婦は家にはいない。あと少しすれば帰ってくるのだろうが、恐らく殆ど口を利く事はないだろう。いつもの事だ。私が落ち込んでいようとなかろうと、私との間に会話はない。
故に私は、一人で思い悩む事しかできなかった。誰かに相談する事なんて、出来やしなかった。
――どうして。どうして私は、逃げてしまったのだろう?
進一があんな事になってしまったのは、私の所為だ。私が余計な詮索をしなければ、進一はあんな事にならなかったはずなのだ。
分かっていた。分かってたはずなのに。
私は。分かっていた上で、逃げ出したのだ。
私の所為で傷つけてしまった。私の所為で状況が悪化した。あんな事になったのは、全て私の責任。そんな重圧に耐えきれなくて、私は逃げてしまった。
逃げて、逃げて、逃げて――。責任逃れでもしようとしたのだろうか。
「……最低じゃないか」
そう、最低。最低最悪の悪行だ。
こんな事したって何になる? こうして逃げ出して、その後は? 何か得られるものでもあるのだろうか?
何もない。得られるものなんて、何もないじゃないか。
進一や夢美様と過ごした、あの幸福な日々。私は自らの手で、そんな幸福を切り捨てたのだ。
進一を傷つけるという、最悪の形で。
「……そんなの」
ダメだ。
ここで逃げてそれでお終いか? 一方的に傷つけるだけ傷つけて、そのまま私は逃げ出すというのだろうか?
ふざけるな。そんなのはダメだ。そんな事、許される訳がない。
「……謝らなきゃ」
そう。せめて進一に謝らなければならない。私がここで謝って、それで丸く収まるとは到底思えないけれど。しかしそれでも、だからと言って逃げ出しても良い理由にはならない。
謝罪。それは義務だ。例えどんな状況に陥っても果たさなければならない、私の責務なのだ。
いつまでもウジウジと後悔し続ける暇があるのなら、まずは行動に起こすべきだ。もう一度進一達と会って、ちゃんと面と向かって話をして。その上で謝らなければならない。
「…………っ」
逃げ出すなんて言語道断。
そうだ。今すぐにでも、謝らないと――。
*
翌日。私はいつもと同じ時間帯に、再びあの公園へと足を運んでいた。
当然ながら、昨日もあの後家を飛び出して公園へと向かい、進一達との接触を試みている。けれどそこには既に進一達の姿はなく、再会する事は叶わなかったのだ。
当時の私は進一達の自宅の場所を把握しておらず、連絡手段も持っていなかった。故に八方塞がり。私は仕方なく踵を返し、そして自宅へと帰った。
けれど当然ながら、私はまだ諦めていない。日を改めて公園へと足を運べば、再び進一と会える可能性だって十分に存在するからだ。
ちゃんと進一に謝るまで、私は屈しない。そんな思いのもと一夜を過ごし、こうして再びこの公園へとやってきた。
「進一ッ……」
学校終了後、家にカバンを置きに行く時間すら惜しんで、いの一番で公園へとやってきた私。息を切らしながらも慎重に周囲を見渡すと、そいつの姿は簡単に見つける事ができた。
珍しく人が疎らな公園。すっかり見慣れたブランコ。そこに一人腰かける、一人の男の子の姿。
「……ッ!」
見間違える訳がない。
あいつは。
「進一!」
私は思わず声を張り上げて、そして駆け出した。
進一だ。紛れもなく、あいつは岡崎進一だ。昨日あんなにも苦し気な様子で震えていたあいつが、いつも通りの姿でブランコに腰かけている。昨日のような錯乱の兆候も一切見受けられず、ただ静かにブランコを揺らしている。ゆらゆら、ゆらゆらと。
私はちょっぴり安心していた。
良かった。昨日あんな事があった後だけれど、もう普通に外出できるくらいには回復したという事なのだろう。だからと言って私が犯した過ちは消える訳ではないけれど、それでも。進一が元気になってくれたのならば、一先ずは――。
――しかし。
「よ、良かった……。また会えたな……」
やや遠慮気味に声をかける私。けれど進一からの返事はない。
怒っている、のだろうか。いや、当たり前だろう。無闇矢鱈に過去をほじくり返されて、頭に来ない訳がない。当然の反応だ。
胸の奥が苦しくなる私だったが、それでも。ここで引き下がる訳にはいかない。
「……進一。昨日は、すまなかった」
頭を下げつつも、私は謝罪を口にする。
「わたしはただ、お前の力になりたくて……。で、でも、余計なお節介だったよなっ。誰にだって、思い出したくない過去の一つや二つくらい……」
言い訳。それは見苦しい言い訳だ。
進一を助けたいと思ったのは事実だ。けれどそれはあくまできっかけに過ぎない。結局の所、私が間違った選択をしてしまった事に変わりはないのだ。
私がどう思っていようが、結果として進一を傷つけた。その事実は変わらない。
「な、なぁ……進一?」
私はおずおずと声をかける。
未だ何も言わない進一。私が何を口にしようとも、そいつは俯いたままで顔もこちらに向けてくれない。まるで私の存在など意識すらしていないかのように、進一はブランコに座り続けている。
胸が締め付けられるかのような感覚。嫌な予感。今にも泣き出しそうな程に私が追い込まれたその瞬間。
「……別に」
声。
消え入るような小さい声で、進一が言葉を発し始める。
「……別に、キミが謝る必要なんてない」
「えっ――?」
だけれども。
「キミは何も気にする必要はないよ。ボクの事なんて気にしなくてもいい。いっそのこと忘れちゃってもいいんじゃないかな」
「し、進一……?」
「だってボクがどうなろうと、キミには関係ないでしょ? ボクの身に何が起ころうとも、それでキミがどうこうなる訳じゃないし」
「な、何、を……?」
こいつは。一体、何を言っている?
おかしい。明らかに普通じゃない。昨日までの進一だって、確かにちょっぴり影があるような印象だったけれど――。でも、本質的には普通の子供だったはずだ。私より二つ歳下の、ただの子供に過ぎなかったはずじゃないか。
それなのにどうだ。今のこいつは、まるで別人みたいに。
「……気付いたんだ」
まるで感情が欠落してしまったかのように。
「こんな事になるのなら」
ただ、淡々と。
「最初から深く関わらなきゃいいんだって」
淡々と、冷たく言い放った。
私は息を呑む。この時に私の胸中を支配していたこの感情は――恐怖、だろうか?
いや、違う。似ているけれど、それでも恐怖とは少し違う。どうしようもない状況。そこまで足を踏み入れてしまったのだと、そんな実感から伴う深い感情。
後悔、と言った方が正しいか。そんな感情が、より深く私の心に根付き始めていて。
「キミもさ、もうボクに関わらなくていいよ」
「……ッ!?」
ぴょんっとブランコから飛び降りた進一が、突然そんな事を口にする。
凍り付き、完全に言葉を見失ってしまった私だったが、それでも尚、進一は追い打ちをかけるかのように。
「ボクもキミとは関わらないから」
痛い。
痛い、痛い、痛い。胸の奥が苦しくなって、息をするのもままならなくなって。口いっぱいに苦い味が広がるような錯覚に襲われ、私は崩れ落ちそうになる。視界が大きくぐらりと揺れて、周囲の音が酷く遠くに感じるようもになってしまう。
頭の中に混ざるのは雑音。まるでスノーノイズみたいに、煩いくらいに響き渡る。頭の中がぐちゃぐちゃになって、思考さえも急激に働かなくなってきて。
そんな酷い混乱の中でも、私は本能的に手を伸ばす。
「ま、待って……」
私の側を通り抜け、立ち去ってゆく進一。どうしようもないと分かっていても、それでも私は縋り付く。
「待って、くれ……」
零れる涙を拭き取る事さえ忘れて、震える声で私は引き留めようとする。
けれど進一は去ってゆく。振り返る事さえもなく、ゆっくりと去ってゆく。
「何だよ……」
何なんだよ、これは。
幾らそう思った所で事実は揺るがない。昨日まで一緒に遊んでいた男の子が、突然人が変わったような反応を見せるようになった。あんな事になるくらいなら、初めから深く関わらなければいい、と。そんな歪んだ思想に到ってしまう程に、あいつは複雑に捻じれてしまって。
その原因は明白。
「わた、し……」
そう、私。私の所為だ。
私が余計な事をしなければ、こんな事にはならなかったはずだ。私が進一の過去をほじくり返そうとしなければ、あいつが傷つく事はなかったはずなのだ。
それなのに、思い上がった私は実行した。進一の過去をほじくり返して、あいつのトラウマを想起させて。進一を助けるなどという大義を掲げておきながら、私は。
「わたしの、手で……」
壊したのだ。岡崎進一という男の子と、あのささやかな幸福を。私自らの手で、壊してしまったのだ。
満足だった。進一と一緒に遊んで、夢美様ともお喋りして。それで十分だった。それ以上の事なんて、望んでいなかったはずなのに。
それなのに。
なのに、なのに、なのに。
「わたしは……!」
教えてくれ。
私は一体、どうすれば良かったんだ?
このお話は二話で纏める予定だったのですが、思ったより長くなってしまったのでもう一話だけ続きます。