因みに本編とは異なり、全編一人称でお送りいたします。
「とある少女の記憶#1」
一人ぼっちは、もう沢山だった。
東京の下町。取り分け裕福という訳でもなく、かと言って貧相という訳でもない。特に名のある名家という訳でもなく、かと言ってそれ以上に特殊な逸話がある訳でもない。そんなごく平凡で、一般的な家庭に私は生まれた。
両親はご近所でも評判になる程に仲の良い夫婦だったらしい。父親は金融会社で働くサラリーマンで、母親は大学教授。今時珍しくもない、共働きの家庭。それこそ平日に関しては毎日が忙しい日々を送っていたらしいが、それ以上に。生まれてきた私に対し、深い愛情を注いで育ててくれていたそうだ。
本当は、仕事も忙しかっただろうに。育児休暇なども上手く利用して、少しでも私と一緒にいる時間を増やそうと努力してくれていて。
立派な両親だった。実に幸せそうな家庭だったと、そう話には聞いている。
らしい、らしい。だった、だった。
そう、過去形だ。今の内容だって、私が後から聞いた客観的な話に過ぎない。私自身、そんな両親の姿なんてこれっぽっちも覚えてないし、両親と過ごした思い出なんてまるで記憶に残っていない。
その理由は至極単純。
私の両親は、私が物心つく前に既に死んでいたからだ。
不幸な事故だった、らしい。
私の両親が乗っていた列車が、たまたま大きな事故に遭ってしまって。その主な原因は列車会社側の不手際だ何とかだとテレビでも大々的に報道されていたらしいが、そんな事など今はどうでもいい。とにもかくにも、その大事故に巻き込まれた死傷者の中に私の両親が含まれていた、と。
そう、それだけの事だ。ただ、それだけの事。
私からしてみれば、記憶の中にも残っていない両親の事など、殆ど他人と何も変わらない。例え写真やビデオなどを見せられてこれが両親だと説明された所で、正直あまり実感は湧いてこないだろう。
そうだ。私を残して勝手に死んだ両親の事なんて知らない。知りたくもなかった。
両親を一度に失った私は、叔父夫婦に引き取られる事となった。
当然の処置だ。ようやく言葉を覚えたばかりの幼い私が、たった一人で生きて行ける訳がない。幸いにも子供がいない叔父夫婦は私を引き取るだけの余裕があったらしく、施設送りにされるのだけは免れる事ができた。
けれどそれだけだ。身寄りのない私を叔父夫婦が戸籍上引き取ってくれただけであり、それが私本人の幸せに繋がるとは限らない。
先に断っておくが、別に家庭環境が劣悪であった訳じゃない。暴力的な虐待のようなものを受けていた訳でもないし、理不尽な罵声等を浴びせられていた訳でもない。
ただ、何というか。
叔父夫婦は、放任主義だったのだ。
最低限の世話だけはしてくれる。しかし逆に言えばそれだけだ。それ以外の事に関しては、何もしてくれない。相手にもしてくれない。
故に私は、家の中ではいつも一人ぼっちだった。朝起きる時も、ご飯を食べる時も、学校から帰って来る時も、そして夜に眠る時も。家族はいる。けれど繋がりは薄い。――いや。あそこまで繋がりが薄い時点で、あれは家族だと言えるのだろうか。
家にいる時の唯一の楽しみは、本を読む事だった。叔父の仕事上、あの家には今時珍しく書斎が設けられていて、アナログな紙の本も沢山保管されていた。
叔父の目を盗んで読書に耽る。幸いにも本の種類は多岐に渡っていた為、退屈はしなかった。
唯一の楽しみ。それは読書。当時の私は小学生だったが、クラスの中でも少し浮いていた存在であったように思える。他のクラスメイト達は、皆家族とは上手くやれていて。友達同士で遊ぶ時も、心の底から楽しそうで。
けれど私は違う。本当の意味で家族と呼べる存在なんて、私にはいなかった。愛情を知らずに育ったから、同年代の友達とも上手く付き合う事ができなかった。
一人ぼっち。私は常に、一人ぼっち。
孤独。
遂には居たたまれなくなってしまった。大好きな読書をしている最中にも、強い孤独感を覚えてしまって。学校以外でずっと家にいる事自体が、嫌になってしまった。
だから私は家から飛び出した。家出――という程ではなかったと思う。叔父夫婦からしてみれば、子供がちょっと外に遊びに行った程度の感覚だったのだろう。けれど私の内情は、そんな穏やかなものではなかった。
家を飛び出した所で、私が孤独である事に何ら変わりはない。今思い返せば簡単に分かる事であるが、当時の私にはそんな判断力なんて微塵もなかった。ただ、孤独感を強く覚えてしまうあの家から離れたい。そんな思いで胸の中は一杯だった。
*
家を飛び出した私が辿り着いたのは、それなりの近所に設けられているとある公園だった。
小学生の幼い身体で行ける範囲なんて高が知れている。けれど当時の私にとって、それはちょっとした冒険のようだった。少なくとも、静かな家の中で一人縮こまっている時よりは、幾分か孤独感を紛らわす事ができた。
「公園……」
公園には沢山の子供達がいた。私と同い年くらいの子供達は、みんな元気に遊び回っていて。心の底から、楽しそうな表情をしていて。
「いいな……」
ポロリと漏れた本音。けれどあの輪に混ざる勇気はない。
私にとって、あの子達の笑顔はあまりにも眩しすぎた。私にとって、あの子達は別の世界の住民のようにも思えた。
だから混ざらない。――いや、混ざれない。あの子達と同じ笑顔を浮かべられる自信は、私にはなかった。
「あれ……?」
そんな中。私は見つけた。
子供達が元気に遊び回っている広場。その奥にある人気の少ない三つ並んだブランコ。その右端に一人腰かけている、男の子の姿を。
私は不思議に思った。どうして、あいつは一人なんだろう。どうして誰とも遊ばないんだろう。他の皆は眩しいくらいの笑顔を浮かべているのに、どうしてあいつだけはあんなにも暗い表情を浮かべているのだろう。
楽し気な雰囲気の公園。そんな雰囲気に半ば埋もれてしまっている一点の灰色。眩しすぎる光よりも、私の興味はそちらの方に惹かれていた。
「…………っ」
だから私は、歩み寄ってみる事にした。
眩しい光を避けるように、大きく迂回して。寂しげな様子で一人ブランコに腰かける、その男の子のもとへと。
「なあ。お前、そんなところで何してんだ?」
そいつは声をかけるまで、私の接近に気付いていない様子だった。びくりと身体を震わせてから、おずおずと言った様子でこちらへと視線を向けてくる。
けれど私の姿を確認すると、そいつはすぐに視線を戻して。
「……別に、何もしてないよ」
「何もしてないのか」
「……うん」
やけに弱々しい反応だ。男の子と言えば、もっと元気いっぱいで活発的なイメージがあったのだが。
「お前は一緒に遊ばないのか? ……あいつらと」
「……遊ばない」
グループで遊び回っている子達を指差しつつもそう尋ねてみるが、そいつから返ってきたのは否定的な反応。
ブランコに腰かけて、俯いた様子で。そいつは首を横に振る。
「……一緒になんて、遊べないよ」
相も変わらず弱々しい声調。酷く暗い表情を浮かべたそいつから感じるのは――疎外感。
目の前で、同年代くらいの奴らが仲良く楽しそうに遊んでいる。けれども自分は、その輪に入る事ができない。その輪に入る方法を、見出す事ができない。
孤独。
私と同じだ。
「遊べない、ね」
一人ぼっちで、疎外感を覚え続ける男の子。そいつに対し、私が親近感を覚えてしまうのは、至極当然の心理だったのかも知れない。
そいつの隣。空いていた真ん中のブランコに、私も腰かけて。
「どうして一緒に遊べないんだ?」
「……ボクは、他の皆とは違うから」
「……違う?」
こくりと、そいつは頷く。
「みんなには見えるはずのないものが、ボクには見えちゃうんだ……。でも、みんな信じてくれない。お姉ちゃんしか、信じてくれない……。だから……」
他の皆には見えるはずのないものが見える? それはつまり、霊感のようなものがあるとでも言いたいのだろうか。
このご時世、幽霊や妖怪などというオカルト的な存在の正体は、既にその多くが学者達によって証明されてしまっている。所謂お化けなどといった存在に対し人間が恐怖心を覚える原因は、相手が正体不明の存在であるからだ。その“正体不明”の部分が解明され、“正体”その物が科学的に説明できるようになってしまった現代。最早誰しも、お化けに対して心の底から恐怖心を覚える事はなくなってしまった。
まぁ、要するに。今や「幽霊が見える!」などと宣言した所で、子供でも信じないという事だ。
けれど、こいつは違う。こいつには見えるらしい。幽霊――或いはそれに準ずる“何か”が。
「……そうか」
正直言って、この時点での私も幽霊やお化けなどという存在は信じちゃいなかった。家では一人で数多くの書籍を読み漁っていた分、知識に関しては同年代の他の子達以上に豊富だったからだ。
――いや。一人で本を読んでいたからこそ、だろうか。お化けの存在を信じてはいないといっても、
孤独。それに伴う強い疎外感を日々覚えていたが為、「そんな存在がいてもいいな」と心のどこかで思っていたのかも知れない。そう考えて少しでも孤独感を紛らわせなければ、私の幼心は簡単に壊れていた事だろう。
それ故に、私はそいつの言っている事をすんなりと信じる気になった。
存在が否定されたから何だ。お化けくらい、別にいてもいいじゃないか。ちょっとくらい超常的な存在がいてくれないと――こっちとしてもやってられない。
子供が独りで出来る事なんて、そんな他愛もない事を夢想する事くらいなのだから。
「みんなと違うから、一緒には遊べないのか」
「……うん」
やっぱりこいつは私と似ている。
多分こいつは、誰かと仲良くする方法が分からないのだ。何らかの要素が原因となって「自分は誰かと仲良く出来る訳がない」、或いは「誰かと仲良くなんてしてはいけない」と思い込んでいる。そんな強い思い込みの所為で、こいつは独りになってしまったのだろう。
「なぁ、お前」
だったら。
「だったらさ、わたしと遊ぼう」
今思い返してみれば、あの時の私はよくこんな行動を踏み切れたものだとつくづく思う。
当然ながら、そいつが浮かべるのは困惑顔である。当たり前だ。たった今みんなとは一緒に遊べないと言ったばかりなのに、その直後にそんな誘いを投げかけてくるなんて。
あまりにも酔狂。人の話を聞いてなかったのかと、そう思われても仕方がない。
「な、なんでそうなるの」
「だって一人って事は、暇だって事なんだろ? だったら別に良いじゃんか」
そいつはますます困惑を色濃く表情に映す。きっと私の言葉に対して、驚きを隠せずにいるのだろう。
私だって驚いてる。普段の私じゃ、まずこんな事など口にしない。自ら誰かを遊びに誘うなんて、そんな勇気が湧いてくる訳がない。
ただ。その時の私は、勝手に期待していたのかも知れない。
こいつは私と似ている。私と同じで、強い疎外感を覚えてしまっている。だからこいつなら、私の気持ちが分かるのではないか。こいつとなら、この疎外感を紛らわす事ができるかも知れない、と。
いや、それ以上に。私じゃないと、何とか出来ないと思った。私と同じ孤独を味わっているこいつを、放ってはおけなかった。
そう、勝手だ。私個人の、勝手な希望。私の勝手な正義感。
私の勝手な、自己満足。
「なぁ、お前って今何歳なんだ?」
「……7歳、だけど」
「それじゃあ、わたしの方が二つもお姉さんじゃないか。だったら素直に言う事を聞いておくべきだぜ。目上の人の言う事は素直に聞くべきだって、本にも書いてあった」
「お姉さん……?」
何やら不思議そうな面持ちで、そいつは首を傾げた。
「……女の子だったんだ」
「……はあ!? まさか男だとでも思ってたのか!?」
「だ、だって、男の子みたいな恰好しているし……。そんな喋り方だし……」
失礼な奴だ。当時まだ9歳の子供と言えど、私だって女の子である。男と勘違いされたとなっては、頭に来ない訳がない。
まぁ、確かに。こんな喋り方をする私の方にも問題があるのだろうけど。
「ま、まぁいい。とにかくわたしは女だ。分かったな?」
「う、うん……」
今更喋り方を直すなんて器用な真似はできそうにないので、取り合えず半ばゴリ押しでそいつには納得してもらう事にする。私の気迫に押されたのかそいつは素直に頷いていたが、普段からこんな感じなのだろうか。男の癖に、女々しい奴である。
「よし。それじゃあ早速遊ぼう。何をしようか」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ遊ぶって決めた訳じゃ……」
「なんだよ。今更断るのはなしだぜ。折角女の子が誘ってるんだから、男は素直に受け入れるべきなんじゃないのか?」
「そ、そうなの……?」
「ああ。本に書いてあった」
相も変わらず、そいつは未だに困惑顔だ。けれど私の提案を真っ向から否定している訳じゃない。
良くも悪くも、あまり意思が強くない性格をしているのだろう。誰かが一緒にいてやらなければ、そいつはきっと簡単に折れてしまう。
二つ年下の、頼りなさげな男の子。その時の私は、そいつの事をまるで弟のようなものだと思っていたのかも知れない。独りぼっちの一人っ子故に、子供ながら何度も想像した存在。あの時の私は、そんな想像と目の前にいる男の子を重ねていたのかも知れない。
「まぁ、わたしに任せとけって。普段から本を読んでるから、知識だけは豊富なんだぜ」
「うん……」
「決まりだな。それじゃあ……」
遊びの提案を投げかけようとした所で、私は気が付いた。
「えっと……お前、名前は何て言うんだ?」
そういえばこいつの名前をまだ聞いていない。一緒に遊ぶにしても、まずは名前を知らなきゃ始まらないだろう。
あまり私のペースについて来られていない様子の男の子。しかしそれでも、名前だけは素直に答えてくれた。
「進一……。岡崎、進一……」
「進一か。よろしくな!」
「……キミは……?」
「うん?」
「キミの……名前……」
そうだった。一方的にこいつの名前だけ聞いて、それだけで満足しそうになっていた。
「わたしか? わたしの名前はな――」
そう。思えばこの出会いこそが、全ての始まりだったのだ。
私が犯してしまった罪と、どうしようもない後悔の。
*
初めこそ、そいつは殆ど私に振り回されるだけだった。
「よっしゃ! まずは鬼ごっこだ! 子供の遊びの鉄板らしいぜ?」
「てっぱん……?」
「最初はわたしが鬼をやる。十秒数えるから、その間にお前は逃げろ」
「わ、分かった……」
けれど時間が経つにつれて、少しずつそいつからも声をかけるようになってきて。
「ねぇ……。他の遊びしようよ」
「他? 何がしたいんだ?」
「砂場、とか……」
「泥遊びでもしたいのか? いいぜ。乗ってやるよ」
「いや、別に泥にしなくてもいいけど……」
心を閉ざしていたそいつも、徐々に私へと心を開いてきてくれて。
「ねぇ。キミ、女の子なんだよね……?」
「何だよ。文句あるのか?」
「い、いや、そうじゃなくて……。女の子だったら、もっと女の子らしい遊びがしたいんじゃないかなって……」
「女の子らしい遊び? 例えば?」
「えっ……? お、おままごと、とか……?」
「飯事か……。うーん、それよりもっと身体を動かす遊びをしてみたいんだよなぁ」
「そ、そうなんだ……」
楽しかった。誰かと一緒に過ごす事がこんなにも楽しい事だったなんて、その時初めて知った。
読んだ本の影響でこんなガサツな喋り方をする私だけれど、その実、人とのコミュニケーションに関しては苦手意識を持っていた。既に出来上がったグループの輪に入っていくような勇気はなかったし、だからと言って自分からグループを作る事なんてますます出来る訳がなかった。
だから知らなかったのだ。こんなにも爽やかな高揚感を。こんなにも優し気な温もりを。
時間を忘れて遊び続けて、気が付いたら時刻は夕暮れ時になっていた。
「ふぅ、もうこんな時間か。中々に疲れたな……」
「……キミ、身体を動かす遊びばかり提案する割に体力あんまりないよね」
「し、仕方ないだろ。こんな風に遊ぶの、初めてだったんだからな」
「えっ……そ、そうなの?」
「お前の方こそ、だいぶぐったりしてるんじゃないか? そんなに疲れたのかー?」
「だ、だって……。ボクだって、あんまり外で遊んだことなかったし……」
クタクタである。二人揃って、疲労困憊である。
本ばかり読んでた私は当然ながら身体を激しく動かすような遊びなんてした事がなく、当時の私は本当に貧弱だった。進一も進一であまり運動は得意ではない方で、だいぶ疲れが表情に出ている様子。それでも無理矢理私についてくる辺り、こいつにも男の子としてのプライドがあったのだろうか。女々しいのに。
何はともあれ、思う存分遊んだ私達は、最初に出会ったブランコの所へと再び戻って来ていた。
ブランコに腰かけて、ふぅっと一息。空はすっかり茜色に染まり、子供達もそろそろ家に帰るべき時間帯だ。私もその“子供達”に該当するのだろうけれど、やはりどうにも帰宅する事に対して嫌悪感のようなものを覚えてしまっていた。
帰ったらまた一人ぼっちになる。そんなのはもう、我慢できない。
なまじ温もりを知ってしまった分、そんな思いがますます強くなってしまって。
「な、なぁ、進一……」
思わず進一に声をかける。
こいつに何を言った所で、これ以上状況は好転しない。幼心ながら、それは分かっていたはずだ。それでも、口にせずにはいられなかった。言葉にして発しなければ、簡単に折れてしまいそうだった。
「なに?」
「え、えっと、その。何て言うか……」
けれどその直前。私の言葉は、とある人物の登場によって遮られる事となる。
「進一!」
聞き覚えのない声。溌剌とした印象を受ける、女の子の声だ。
進一と揃って振り向くと、そこにいたのは赤髪の少女。見た感じ私よりも歳上のようだが、浮かべる表情はまさに邪気の感じられない幼げなものだった。けれどそれでいて、何とも言えぬ包容力のような雰囲気までも感じ取る事が出来る。
不思議な人だ。今まで出会ってきた人達とは何かが違う、不思議な印象を受ける女の子。
「あっ……お姉ちゃん」
「お姉ちゃん?」
進一の言葉に対し、私は思わずオウム返しをしてしまう。
「あの人、お前の姉ちゃんなのか?」
「うん……。そうだよ」
確かに、言われてみれば進一と似ている気がする。
そういえばさっきもお姉ちゃんがどうとか言っていたか。こいつのやけに女々し気な性格と態度は、あの人の影響もあるのだろうか。
そんな進一のお姉ちゃんこと赤髪の女の子は、私達の姿を見つけるなり真っ先に駆け寄って来る。――いや、見つけたのは“私達”ではなく厳密に言えば進一だけなんだろうけど、今はそんな事などどうでもいい。
とにもかくにも、そいつはやけに嬉しそうな面持ちで私達のもとへと駆け寄って来たのだ。それから、ポンっと撫でるように進一の頭へと手を乗せると、
「こんな所にいたのね。家にいないから捜しちゃった」
「……ボクだって、常に家にいる訳じゃないよ。たまには外に出たい時だってあるから」
「ふふっ。それもそうね」
何やら子恥ずかしそうに視線を逸らす進一。姉とこいつのやり取りから察するに、進一は普段あまり家から出ていなかったのだろうか。姉の口にした内容から考えると、半ば引き籠りのような状態であった可能性も考えられる。
それにしても。この時の私は、何やら奇妙な感覚を覚え始めていた。
胸の中がムズムズと疼くような感じ。進一とその女の子を見ている内に膨れ上がるのは、上手く言葉に出来ぬような感情。
強いて形容するならば――羨望、だろうか。
私には兄弟のようなものはいない。家族との繋がりも薄い。だけれども、どうやら進一は違うらしい。
こいつは本来、見えるはずのないものが見えるらしい。けれど“見えるはずのないもの”の存在を証明する事が出来ないのだから、当然ながら進一の言い分を信じようとする奴は殆どいない。
しかし進一には、“お姉ちゃん”という理解者がいる。世界中の誰もが進一の言葉を信じようとしなかったとしても、この“お姉ちゃん”だけは信じてくれる。理解しようとしてくれる。
進一は、本質的には一人ぼっちじゃない。
だから私は、羨ましかったんだと思う。私にも、こんな理解者がいてくれたら――と、そんな無いものねだりをしていたのだろう。
だから胸の中にムズムズを感じた。私に無いものを持っている進一が、きっと羨ましかったのだ。
「あなたが進一と遊んでくれていたの?」
「……えっ?」
膨れ上がる胸の中のムズムズ。そればっかりに意識を取られていて、私はワンテンポほど反応に遅れてしまった。
顔を上げると、そこにいたのは進一がお姉ちゃんと呼んでいた女の子。だいぶ上の空気味に聞いていた私だったが、それでも反射的に首を縦に振った。
「あ、ああ。進一と遊んでたのはわたしだぜ」
「やっぱりそうだったのね。ありがとう、この子と遊んでくれて」
「……っ!」
ポンっと、覚えた事もないふんわりとした感覚。頭の上に感じられる、柔らかな温もり。馴染みのない感覚を前にして私は戸惑ってしまったが、少し遅れて頭を撫でられていた事に気が付いた。
割れ物を扱うかのように優し気な手つき。優しく撫でられる毎に先程とはまた違ったムズムズが胸中に走り、ドキリと心臓が大きく揺れる。更に感じるのは高揚感だ。頬が熱くなるような感覚を覚えて、私は思わずその人から目を逸らしてしまう。
「あ、あれ……? ひょっとして、頭を撫でられるのとか嫌だった……?」
「えっ……? い、いや……! 別に、そういう訳じゃ……」
私は慌てて首を横に振りつつも、それを否定した。
違う。嫌なんかじゃない。確かにあまり慣れない出来事で、多少の動揺があったのは事実なのだけれど。
けれどそれ以上に、何というか。嬉しかったのだ。
こんな風に優しく撫でられた事なんて、少なくとも私の記憶の中にはない。家にいるのは放任主義の叔父夫婦だけで、私はいつでも一人ぼっちで。例えば学校のテスト等で良い点を取ったとしても、叔父夫婦は私を褒めてはくれない。必要以上に相手にしてくれる事もない。
それ故に、こんな感覚は初めてだったのだ。
私はただ、一人だった進一に対して勝手に親近感を覚え、その上で手を差し伸べただけだ。一人だったこいつが何となく放ってはおけなくて、だから一緒に遊んでみただけだ。
そう、それだけ。だからこんな風に褒められる事があるなんて、その時の私が想像できるはずもなかったのだ。
予想外。想定外。それに伴う困惑。
けれど私の中には、確かな幸福感が存在していた。
「お姉ちゃんはちょっと強引な所があるから……」
「なっ……!? ふ、ふふふ……進一、言うようになったわね……」
痛いところを突かれた彼女が少しオーバーなリアクションを取る。
こんなやり取りが出来るのも、姉弟という繋がりがあってこそなのだろうか。――やっぱり、ちょっぴり羨ましい。
けれども。
「え、えっと……初めまして。私の名前は岡崎夢美」
家族ではない。だけれども、この人は。そして進一は、私にも笑顔を見せてくれる。
「進一からも聞いたかもしれないけど、私この子のお姉ちゃんなの」
家にいる時には感じる事の出来ない充足感。温もり。そしてこの優しい感情。
孤独な私が求め続けていた拠り所。それをこの人達は持っている。そしてこの人達なら、そんな拠り所を分けてくれる。この人達と一緒にいれば私は孤独じゃない。一人ぼっちなんかじゃない。
「良かったら、また進一と一緒に遊んでくれる?」
頼りにされている。孤独だった私でも、誰かの役に立つ事ができる。
一人ぼっちはもう沢山。
そんな思い心の奥に抱え続けていた子供の私が、すぐにその人達と打ち解けて心を開く。それは必然だったのかも知れない。
だから私は、意気揚々と頷いた。
「あ、ああ! 任せとけ!」
これが、岡崎夢美――延いては岡崎姉弟と私の出会い。
私の運命が、大きく動き始めた瞬間だった。