桜花妖々録   作:秋風とも

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第壱部・エピローグ

 

 ほのかな竹の香りが、彼女の鼻をつついた。

 記憶の中には存在する。決して知らない香りではない。けれど頭の中がぼんやりとしていて、上手く思い出す事ができない。瞼越しに感じるのは、緩やかな日の光。そして身体を包み込むのは、ふわりと柔らかな感覚。そこまで確認した所で、自分がベッドの上に寝かされている事に気が付いた。

 

(…………っ)

 

 一体、何が起きた? 確かあの時、自分は突然真っ白な空間に放り出されて。そしてあの女性剣士と対面して。それから、眩い光に包まれて。

 

(それから……?)

 

 それから。

 どうなったんだっけ?

 

「ぅ、ん……」

 

 意識が徐々に覚醒してゆく。もぞもぞと身体を動かすと、耳に流れ込んでくるのはシーツが擦れるような音。意識が浮かび上がれば浮かび上がる程に感じる竹の匂いは強くなり、その上さらに別の匂いまでも認識できるようになる。

 つんっと、鼻をつくような独特の匂い。これは――薬品、だろうか。

 

(竹と、薬……?)

 

 そのキーワードから連想できるもの。彼女の記憶の中には、少なくとも一つしかない。

 幻想郷。その一角に位置する区域、『迷いの竹林』。その奥に隠れるように建てられている日本屋敷。その建物の名前は――。

 

「…………」

 

 そこまで考えた所で。魂魄妖夢は目を覚ました。

 おもむろに目を開ける。真っ先に飛び込んでくるのは、古めかしさも感じる木製の天井。つい最近まで寝泊まりしていた現代風の天井とは違う。もっと古風で、もっと懐かしい。

 

「私……」

 

 取り合えず起き上がってみる。すると途端に鋭い痛みが脇腹に走り、妖夢は思わず顔を顰めた。

 

「……っ」

 

 いつの間にか着せられていた病衣の裾を捲ると、腹部に包帯が巻かれている事に気が付いた。

 脇腹。つまりあの女性剣士に斬られた部位が特にズキズキと痛みを発しているが、傷口から血が滲み出てくるような事はない。どうやら既に適切な処置が成されているようで、怪我も回復に向かっているようだ。それでもこうして動くと痛みを伴う辺り、今は安静にすべきという事なのだろう。

 

 それにしても。

 

「……やっぱり、ここは」

 

 ちらりと視線を泳がしてみる。換気の為か、半開きにされた窓の先には竹林も確認できる。さっきから鼻をつつくこの竹の匂いは、ここから流れ込んできているのだろう。やはりここは、竹林の真ん中に設けられた屋敷。そしてこうして怪我の治療までも行われている所を見ると、少なくとも医療施設の類である可能性が高い。

 となると――。

 

「あっ……!」

 

 声が聞こえる。反射的に振り向くと、ガラリと開けられた引き戸の先に一人の少女の姿が確認できた。

 背丈は、少なくとも小柄な妖夢よりは大きいだろう。藤色の長い髪に、紅色の瞳。白いブラウスに赤いネクタイを締め、その上に羽織るのは紺色のブレザーである。更には薄桃色のミニスカートと、外の世界でも特に違和感のないような服装をしているが、明らかに非常識的な点が一つ。

 頭。その上にひょっこりと生えている一対の細長い耳。兎の、耳。

 

「良かった! 目が覚めたのね!」

 

 妖夢の姿を見るや否や、制服姿の兎耳少女が駆け寄って来る。そんな彼女の姿を目の当たりにして、妖夢は思わず言葉を失っていた。

 見覚えのある少女。というか普通に知り合いである。頭の上の耳を見ても分かる通り、彼女は人間ではない。確か、玉兎など呼ばれる妖怪兎だったか。妖獣に分類される怪異の一種で、その中でも一際特殊な種族であると記憶している。彼女は以前、自らの事を元々は月の兎だと称していたような気がするのだが――まぁ、その点については今は置いておく事にする。

 

 問題なのは、彼女が妖夢の目の前に現れたという事実。この少女がごく普通に現れたのだとすれば、それは即ち。

 

「えっと……大丈夫? まだ頭の中がボーっとしてたり?」

「……え? あ、いえ……」

 

 神妙な面持ちで声をかけられて、妖夢は慌てて首を横に振る。それから、目の前にいる兎耳少女の顔をまじまじと覗き込むと、

 

「あの……。鈴仙さん、ですよね?」

「うん、そうよ。記憶は……しっかりしてるみたいね」

「という事は、ここは……永遠亭、ですか?」

 

 今一度ぐるりと周囲を見渡してみる。最早懐かしさも覚える程に、和のテイストが色濃く表れた病室。少なくとも、今までいた外の世界では殆どお目にかかる事のない構造の部屋である。そんな部屋の中にいるのは病衣姿の自分と、そして兎の耳を持つ少女。そこから連想できる事実は一つしかない。

 

「正解。意識もはっきりしている、って所かな? 四日間も眠り続けていたからどうなっちゃうんだと思ったけど……その様子じゃ大丈夫そうね」

 

 鈴仙(れいせん)優曇華院(うどんげいん)・イナバ。かねてより面識のあるこの少女がいるという事は、ここは『永遠亭』の一室であるとみて間違いない。

 永遠亭。迷いの竹林の奥地に建てられた日本屋敷。その住民は鈴仙を始めとして皆人外であり、特に多いのが妖怪兎である。その中でも鈴仙は、この屋敷に住む薬師の助手兼弟子のようなポジションだったはず。

 

 ――いや、今はそんな事などこの際どうでもいい。ここが永遠亭であるのなら、即ち自分は幻想郷にいるという事になる。しかも鈴仙のこの反応から察するに、ここは妖夢が本来いるべき時代。

 ()()()()から見て、約80年前の幻想郷。

 

「待ってて。師匠を呼んでくるから。身体の具合を診てもらわなきゃね」

「あっ……」

 

 妖夢が一人思案していると、そう口にした鈴仙は病室から出て行ってしまう。色々と確認したい事があった妖夢だったが、けれど彼女が手を伸ばそうとした頃にはもう遅い。

 虚し気に空を掴んだ手を下ろし、妖夢は再び窓の外へと視線を向ける。鬱蒼とした竹林に周囲を囲まれている為か、外は意外と薄暗い。時間間隔が微妙に掴みづらい景色ではあるが、体感的にお昼過ぎくらいだろうか。ずっと眠っていた所為で、体内時計が狂っている可能性はあるけれど。

 

(私……)

 

 実感が徐々に強くなってゆく。けれどそれと同時に、未だにどこか信じ切れていない自分が存在する。

 本当に。本当に、自分は元の世界に帰ってこれたのだろうか。本当に全てが終わったのだろうか。

 本当に、自分は。もう――。

 

(……いや)

 

 あれこれ想像するのは後だ。今は状況の把握が先決であろう。

 鈴仙の師匠。彼女に話を伺えば、きっとはっきりするはず。

 

 

 *

 

 

「怪我の回復は良好。後遺症も見られない。流石に今日一日は絶対安静だけど、この様子じゃあと二、三日もすれば退院できると思うわよ」

 

 八意(やごころ)永琳(えいりん)は永遠亭の薬師である。

 実質上永遠亭を牛耳っている――表面上のトップは別にいるのだが――女性で、彼女もまた例に漏れず人外である。鈴仙のような妖獣と違い姿形は普通の人間そのものだが、実は既に悠久にも近い時を生きているらしい。その正体は神にも等しき種族であるという噂も耳にした事があるが――その点に関しては妖夢もあまり詳しくはない。

 

 薬師、と彼女は自称しているが、殆ど医者のようなものである。その腕は幻想郷における一般的な医療技術を遥かに凌駕している程で、下手をすれば外の世界の技術すらも霞んで見えてしまう程だ。まさに天才と呼ぶに相応しい技量を持っていると言えよう。

 

 そんな永琳による診察を終えた妖夢は、“絶対安静”という言葉の通り再びベッドに寝かされていた。

 正直、もう十分に休めているんじゃないかとは思う。確かに脇腹の傷口は痛むが、逆に言えばそれだけである。意識もはっきりしているし、どこか悪い所があるとも思えないのだけれど。

 

「あぁ、言っておくけど、絶対安静というのは嘘じゃないわよ? 何せついさっきまで意識不明だったんだからね、貴方。寝ている分には何ともないのかも知れないけど、身体を動かすとなると話は別。傷口が開く危険性もあるし、許可できないわ」

「……そ、そうですか」

 

 ――エスパーか何かか、この人は。まるで妖夢の心を読んでいるんじゃないかと勘繰ってしまうタイミングでの忠告だったのだが。

 まぁ何せよ、彼女がそう言うのであれば大人しく従っておく方が吉であろう。妖夢だって、無駄に怪我が酷くなる事など望んじゃいない。

 

「あ、あの……。それはそれとして、色々と聞きたい事があるのですが……」

「……聞きたい事、ね。まぁ、そう来るとは思っていたわ」

 

 診察器具を片付けながらも、永琳は答える。

 

「貴方をここに連れてきたのは八雲紫。白玉楼の庭に血まみれで倒れている所を見つけたそうよ」

「紫様が……?」

「ええ。あ、いや、厳密に言えば貴方を見つけたのは八雲紫じゃなくて西行寺幽々子の方らしいけれど。でも連れてきたのは八雲紫ね。それにしても、まったく……彼女には遠慮というものがないのかしら? いきなりスキマを開いて現れるんだもの」

「え、えっと……なんかすいません」

「あぁ、いいのよ別に。責めてる訳じゃないから」

 

 妖夢を永遠亭まで運んでくれたのは紫だったのか。

 基本的に胡散臭く、考えが読みずらい人物であるが、この行動に関しては特に意外でもない。彼女はああ見えて、意外と周囲への気配りを忘れない少女なのだ。知り合いが困っている所を見過ごすような野暮な真似はしないし、仮に妖夢の為でなくとも幽々子の頼みであると考えれば納得もいく。

 まぁ、彼女はそういった“甘い”一面をあまり見せたがらないのだが。

 

「……兎にも角にも、貴方を永遠亭まで運んだのは八雲紫よ。でもそれ以上の事は私も何も知らないわ」

「それ以上の事……? どういう意味です?」

「色々と聞きたい事があるのはこっちも同じってこと。どうしてあんな大怪我していたのか、とか。それに……貴方のその『眼』に関してもね」

「眼……」

 

 『眼』。十中八九、『狂気の瞳』の事であろう。

 彼女が気になるのも無理はない。何せ前に一度これが開眼してしまった際、その治療を行ってくれた人物もまた八意永琳なのだ。

 なぜ一度治療したはずの狂気の瞳が、再び開眼してしまっているのか。気になって当然だろう。

 

「まぁでも、怪我人である今の貴方から無理に聞き出すつもりはないわ。……八雲紫も一緒の方が、円滑に情報を把握できそうだし」

「紫様……?」

「……いや、こっちの話。ちょっとした約束があるのよ」

 

 そこまで口にした所で、永琳はおもむろに立ち上がる。

 

「とにかく、今はしっかりと休むこと。ウドンゲからも聞いたと思うけど、貴方四日間も眠り続けていたのよ? 確実に身体を治したいのなら、あまり無理はしないことね。いい?」

「……はい」

「よろしい。諸々の情報整理はその後よ。焦ったって仕様がないしね」

 

 満足気な笑みを零した後、永琳は踵を返して病室を後にしようとする。――が、出入り口まで歩を進めた所で、何かを思い出したかのように振り返ると、

 

「そうそう。八雲紫からの伝言。西行寺幽々子に関しては何も心配いらないそうよ。貴方がいない間、その役割は彼女の式神が代わりに勤めてくれていたらしいわ」

「……分かりました。ありがとうございます」

「確かに伝えたわよ。それじゃ、お大事に」

 

 ひらひらと手を振りつつも、永琳は病室を後にした。

 一人残された妖夢。あまり見慣れない天井を眺めつつも、ふぅと息を一つ吐き出す。脳裏に思い浮かぶのは、先程も話題に出ていた主である西行寺幽々子の事。四ヶ月もの間何も言わずに留守にしてしまって、余計な不安感を煽ってしまったのではないか、とか。ご迷惑をおかけしてしまったのではないか、とか。考えるのはそんな心配事ばかりだ。

 そして、もう一つ。外の世界で出会った、あの青年の事。

 

「……っ。進一さん……」

 

 八意永琳の話を聞く内に、じわじわと実感していった事実。それは元いた時代への帰還だった。

 原因は分からない。けれど妖夢は、確実に元の世界へと帰る事に成功している。外の世界――いや、未来の世界に彼女が滞在していたのは、約四ヶ月。その分だけ、きっかり時間が経過した過去の幻想郷に。

 

「……やっぱり帰ってきたんだ。私」

 

 ぎゅっと、妖夢はベッドのシーツを握り締める。

 これは喜ばしい事だ。だって妖夢はこの四か月間、ずっとこの方法を探し求めていたのだから。幻想郷、延いては主である幽々子のもとへと帰る為に。時には進一やメリーに蓮子、夢美やちゆり達の力も借りて。そして今、こうしてその目的を達成する事に成功したのだ。

 

 だからこれで良い。これで良かったんだ。

 これで。

 

(でも……)

 

 やっぱり。

 

(……寂しいな)

 

 そう思ってしまうのは、自分勝手な欲張りなのだろうか。

 

 

 *

 

 

 翌日。身体の調子も戻ってきた妖夢のもとにお見舞いと称して現れたのは、彼女を永遠亭まで運んでくれたという幻想郷の賢者――八雲紫だった。

 

「まったく、ようやくお目覚めね。一時はどうなる事かと思っちゃったわ」

 

 しかも突然スキマを開いてからのご登場である。相も変わらず心臓に悪い。もう少しどうにかならないのだろうか。

 

「ちょっと貴方。ちゃんと扉から入りなさいって言ってるでしょう。どうして事ある毎にスキマを使おうとするのよ」

「別にいいじゃない。扉から入ろうとスキマから入ろうと同じ事でしょ?」

 

 ガラリと引き戸を開けて病室に入ってきた永琳に文句を言われるが、紫はまるで悪びれる様子も見せるつもりはないらしい。幽々子に仕える身である以上、紫の『能力』に関しては間近で見る機会も多い妖夢であるが、やはりどうにも慣れないものである。

 

「そうそう。はい、妖夢。お見舞いの品も持ってきたわよ。ド定番のフルーツの盛り合わせだけど」

「あっ……す、すいません。お気遣いをさせてしまって……」

 

 バスケットに入ったフルーツの盛り合わせをスキマから取り出すと、紫はそれを枕元のテーブルの上に置く。

 それにしても、あのスキマの中からよく目的のものをピンポイントで取り出せるものだ。『境界を操る程度の能力』と言えば八雲紫だけが持つ唯一無二の『能力』であるが、その汎用性の高さはまさに未知数である。永琳といい、幻想郷には人智を凌駕した存在が少なくないのだから、外の世界とはまた違った意味で驚かされる事も多い。

 

「あの、色々とお世話になりました。私を永遠亭まで運んで下さったのも、紫様だったそうで……」

「別に大した事じゃないわ。幽々子に頼まれたから引き受けた。それだけよ」

 

 身体を起こし、彼女の気配りに対して謝辞を述べる妖夢だったが、当の紫は「貴方に礼を言われるような事はしていない」とでも言いたげな反応である。どうやら彼女は一貫して「幽々子の頼みを聞いただけ」という主張を貫くつもりのようだが。

 

「あら、よく言うわよ。妖夢をここに連れてきた時、貴方も結構鬼気迫る表情をしていたと思うのだけど?」

「えっ?」

「……よ、余計な事は言わなくてもいいのよ」

 

 何やら子恥ずかしそうに視線を逸らす紫。あくまで賢者としての威厳を保とうという算段だったようだが、これでは面目丸つぶれである。面白いものを見るように永琳がニヤニヤしている様が実に印象的であった。

 

「と、とにかく……。今は私の事なんてどうでもいいでしょ? 早速本題に入るわよ」

 

 緩んだ雰囲気を振り払うように、紫は再び『能力』を発動させた。

 妖夢の眼前に開かれたスキマ。真っ黒な空間の中にぎょろりとした複数の目玉が蠢くその様は、何とも筆舌に尽くし難い不気味さと趣味の悪さがある。妖夢は思わず顔を顰めそうになるが、けれど不気味だったのもほんの僅かな間だけ。やがてスキマはどこか別の空間へと繋がったらしく、妖夢も見覚えのある風景が投影されていた。

 

 畳が敷かれた広間。奥に見える枯山水。そして何より、身を乗り出してスキマを覗き込む一人の少女の姿。

 

「妖夢! 良かった……。元気になったのね……!」

「幽々子様……!」

 

 水色を基調とした装束。透き通るように白い肌。そして桜色の髪。

 西行寺幽々子。白玉楼と繋がった八雲紫のスキマは、所謂テレビ電話のような役割を果たしているようだった。

 

「幽々子はあまり自由に冥界から出てくる訳にはいかないから、こういった形が精一杯だけれど……」

「十分よ。ありがとう、紫」

 

 にこやかに紫へと礼を述べた後、幽々子は再び妖夢へと向き直る。そしてより一層、その身を乗り出して、

 

「ところで、もう本当に大丈夫なの? まだどこか痛む?」

「いえ、もう大丈夫です。お陰様で、身体もすっかり良くなってきました」

「……そう。それならよかったわ……。ボロボロの貴方を見た時は、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」

「……貴方亡霊なんだから、心臓が止まるも何もないじゃない。……なんて突っ込むのは野暮かしら?」

 

 そう口を挟んできたのは永琳である。彼女もまたスキマを覗き込んで、幽々子へと声をかける。

 

「ここは医者としての観点から言わせてもらうけど、まだ完全に治った訳じゃないわよ。多量の出血と、恐らく過剰な霊力の欠乏ね。それによる不調がまだ見受けられるから、無理は禁物だわ」

 

 「でも……」と、彼女は続ける。

 

「順調に回復はしているわ。だから心配は無用よ」

 

 不安気だった幽々子の表情が、永琳の言葉を聞いて幾分か柔らかくなる。妖夢が目覚めた事に関しては昨日の時点で知らされていたのだろうが、やはりこうして本人と対面し、そして医師による診察結果を聞いてようやく落ち着く事ができたのだろう。

 

「よかった……。本当に、よかった……」

「幽々子様……」

 

 むせび泣くように、静かに涙を零す幽々子。そんな彼女の姿を見て、妖夢の心は強く打たれていた。

 一体。一体自分は、どれほど彼女に心配をかけてしまったのだろう。何も言わずに突然いなくなって、四ヶ月もの間何の音沙汰もなくて。自分は一体、どれほど大きな不安感を彼女に煽ってしまったのだろうか。

 白玉楼専属の庭師兼、剣術指南役。彼女に仕えるべき従者であるはずなのに、妖夢は――。

 

「ごめんなさい、幽々子様……」

 

 自然と言葉が溢れ出る。

 言い訳も何もない、真っ直ぐな謝罪。ただそれだけで許されようとは毛頭思っていないけれど、それでも。言わなければならない。言わなければ、気が済まなかった。

 

「……いいのよ、妖夢」

 

 けれど、彼女は。

 

「貴方が無事でいてくれさえすれば、それで十分よ」

 

 涙を拭った西行寺幽々子は、妖夢を責め立てる事などしなかった。ただ、妖夢の無事を心から喜んでくれた。

 ああ。やっぱり、この選択は間違っちゃいなかった。だって幽々子は、こんなにも妖夢の事を思ってくれていて。こんなにも妖夢の事を、心配してくれていて。もう少しで、妖夢はそんな彼女の思いを裏切ってしまう所だったのだ。

 

(幽々子様っ……)

 

 進一の言う通りだった。幽々子はずっと妖夢の事を信じてくれていて、妖夢の事を待っていてくれたのだ。だからそんな彼女の思いを蔑ろにしてはいけない。裏切る訳にはいかない。

 故にこの形こそ最前。妖夢が帰るべき場所は、ここだったのである。

 

「さてと。再会の余韻に浸るのはその辺にしてもらうわよ」

 

 そんな妖夢達のやり取りを横で見ていた紫が、そう口にしつつも割って入ってくる。

 いつになく真剣な面持ち。スキマを開き、疑似的に西行寺幽々子と対面したこの形で。八雲紫は、核心に迫る。

 

「話してもらうわよ妖夢。この四ヶ月間、貴方はどこで何をしていたのか。一体、何に巻き込まれていたのか」

 

 コツコツと妖夢へと歩み寄りつつも、紫は続ける。

 

「正直、私にも分からない事が多すぎるの。今は貴方の記憶だけが頼りなのよ」

 

 幻想郷の管理者にて妖怪の賢者、八雲紫。幻想郷の中でも古参に分類される妖怪で、幻想郷の全てを知っていると言っても過言ではない程の知識を有している少女。そんな彼女でも、今回の件については不明瞭な部分が多いらしい。

 無理もない。何せ今回の事件は、今までのような『異変』とは訳が違う。例外中の例外。別の時間、別の世界からの干渉などという、あまりにも前代未聞な暴挙。

 

「約束通り、私も話を聞かせてもらうわ。患者の事はしっかりと把握しておきたいからね」

「お願い。聞かせて、妖夢。貴方のこの空白の四ヶ月間を……」

 

 永琳と幽々子もまた、妖夢へと耳を傾ける。

 そうだ。話さなければならない。今回の件、下手をすれば今後の幻想郷にも大きな影響を及ぼす結果にもなりかねない。別の時代からの干渉――タイムトラベルの成功が証明されてしまった今、今後もまた何らかの形で干渉される事だってあるかもしれない。

 いや、それ以前に。80年後の未来の世界で出会った、幻想郷の住民達。切羽詰まったような彼女達の様子は、一体――。

 

「……分かりました」

 

 正直、妖夢だってその全貌を正確に把握している訳じゃない。あまりにも突拍子もない要素が多すぎて、未だに信じられない部分もあるくらいだ。

 けれど妖夢は、口を開く。どんなに突拍子もないのだとしても、幾ら信じられないのだとしても。あの四ヶ月間は間違いなく現実で、あの出会いと別れは夢などではないのだから。

 

「お話します。この四ヶ月間、私が何をしていたのか」

 

 だから妖夢は説明する。夢なんかじゃない。幻などではないと、そう証明する為に。自らの記憶の中に、あの経験を刻み付ける為に。

 そして。妖夢を信じ、妖夢の力になってくれた人達。

 彼らの思いを、その心にしっかりと留めておく為に。

 

 

 *

 

 

 二日後。永琳の言いつけ通り大人しく休養していた妖夢は、無事に退院する事が許されていた。

 妖夢が意識を失っていたのは、多量の出血による貧血と霊力の欠乏が主な原因である。妖夢が意識を取り戻した時点でそのどちらも回復に向かっており、数日間大人しく休むだけですっかり元通りだった。

 流石は八意永琳。その医療技術は相変わらず舌を巻く程である。

 

「怪我が治ったといっても、病み上がりである事に変わりはないんだからね。しばらくは体力の回復に専念すること。いいわね?」

 

 永遠亭を去る際、しつこいくらいに永琳からそう釘を刺された。

 意識を失っていたのが四日、そして意識を取り戻してから三日。妖夢は実に七日間もの間永遠亭で入院していた事になる。これでも並外れた回復速度であるが、やはり七日間も寝たきりとなると身体の調子がいつもと違う。強いて形容するならば、何かがぐったりと伸し掛かるかのような感覚。疲労感にも似たこの感覚こそが、病み上がりによる体力の衰えなのだろう。

 

 薬師――延いては医者である彼女からしてみれば、この状態こそ特に注意すべきだという事なのだろう。まぁ、その点については妖夢だって理解しているつもりだ。あまり無理や無茶をするつもりはない。

 

 永琳の忠告を素直に受け止めた後、楼観剣と白楼剣を定位置に装備して妖夢は帰路に就いていた。

 最早懐かしいこの感覚。はっきりと感じられる霊力の循環。飛翔に関しても難なく行えて、妖夢はぐんぐんと高度を増してゆく。

 飛べる。霊力を扱う事も出来る。外の世界にいた頃は空が飛べない事自体がすっかり当たり前になってしまっていて、この感覚も忘れそうになっていたけれど。しかし感覚というものは、頭では忘れそうになっても身体がしっかりと覚えているものだ。

 

 何もかもが元通り。――いや、正確に言えば元と違う部分もあるけれど。それでも、強く実感する事ができる。

 ここは幻想郷。妖夢が元いた世界。彼女が、帰るべき場所。

 

「……何だか、懐かしいな」

 

 程なくして冥界へと辿りついて、妖夢は見慣れた石段を登ってゆく。

 ひんやりとした空気。顕界よりも濃い密度で漂う霊気。この感覚も、何だか酷く久しぶりであるような気がする。どうやら自分はすっかり外の世界に馴染んでしまっていたようだ。何とも言えぬむず痒さを密かに覚えつつも、妖夢は真っ直ぐ突き進んでゆく。

 

 そして。

 

「……着いた」

 

 石段の上。そこに広がるのは、広大な日本屋敷。

 日本の古き良き時代を彷彿とさせる木造建築。黒い瓦屋根。そして優美な日本庭園。妖夢にとっても馴染みの深い枯山水と、至る所に植えられた桜の木。それらが特徴的な冥界最大級のお屋敷。

 白玉楼。妖夢の仕えるべき主が永住する場所。

 

「妖夢っ!」

 

 足を踏み入れたそのタイミングで、彼女はそう声をかけられる。居ても立ってもいられぬといった様子で妖夢を迎えてくれたのは、桜色の髪を持つ少女だった。

 先日のようなスキマ越しなどではない。実に四ヶ月ぶりの、きちんとした形での再会。駆け寄って来た彼女は感激のあまり瞳を潤わせて、けれども涙を零す事はなくて。再会の感動を、じっくりと実感するかのように。彼女はそっと、妖夢の顔を見据えていて。

 

 そして少女は破顔する。目一杯、満面の笑顔を心の底から浮かべて。

 

「おかえりなさい。妖夢」

 

 それに答える為に、妖夢もまた笑顔を浮かべる。

 帰るべき場所への帰還。その道を探し求めて、四ヶ月もの時間がかかってしまったけれど。それでもようやく、手に入れる事ができた。妖夢を信じ、妖夢を待ち続けてくれた彼女の気持ちに、ようやく答える事ができた。

 

 本当に、色々あって。色々な出会いを経て、色々な経験をして。大きな迷いを抱いてしまうような事もあったけれど。

 それでも妖夢は、ここにいる。大切な人達に背中を押され、大切な人達に支えられて。妖夢は自らの心を信じ切り、そしてここまで辿り着く事ができた。

 

 だから妖夢は、そんな人達の想いを無駄にしない。そんな人達が信じてくれた心を、決して忘れはしない。

 

「ただいま戻りました。幽々子様」

 

 妖夢は妖夢の信じる道を行く。幽々子の想いを受け止めて、幽々子の為に剣を振るう。

 

 

 白玉楼の庭園に植えられた桜は、ぷっくりとその蕾を膨らませている。暖かな風に吹かれて、ゆらりゆらりと。その枝を優しく揺らしている。

 今年もまた、春の訪れが始まろうとしていた。

 

 

 第壱部『現代入り篇』 完




という訳で第壱部、完結です。ここまでお付き合いして下さった読者の皆様、本当にありがとうございました!

当然ながら本作はまだまだ続きます。今後の更新予定等に関しては活動報告でお伝えする事になると思いますので、気になる方はそちらをご覧ください。

それでは、これからもよろしくお願いします!

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