桜花妖々録   作:秋風とも

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第47話「幻想郷」

 

 それは一瞬の出来事のように思えた。

 周囲に吹き荒れる烈風。周囲を包み込む閃光。衝突した激しい霊力の奔流が光という形で具現化し、脈動する。そのあまりの眩しさに思わず腕を陰にして、進一は目を背けた。

 

 覚悟。それを決めた魂魄妖夢は再び剣を振り上げて、決死の斬撃を女性剣士へと浴びせていた。

 もう迷わない。自らの想いを信じ、自らの心に従う事を決めた彼女の剣筋に、先程までのような“迷い”は微塵も感じられなかった。

 迷いを断ち切った今の妖夢に、斬れぬものなど殆どない。彼女のラストワードを目の当たりにした進一の心には、確かな安堵感と充足感が満ち始めていた。

 

(妖夢……)

 

 もう、彼女に心配を寄せる必要はない。妖夢は自らの力だけで立ち上がれるだけの境地に到る事が出来た。進一に依存せずとも、彼女は剣を振るう事ができるようになったのだ。

 だからこれでいい。これこそが、本来あるべき彼女の形だ。

 

「…………」

 

 収まってゆく閃光。進一は恐る恐る視線を戻す。

 舞い上げられた砂埃がパラパラと落ちてゆく中、その先に確認できたのは一人の女性の後ろ姿。緑を基調とした和装を身に纏い、右手に持つのは一本の剣。被っていた三度笠は顎紐が千切れ、いつの間にか風で吹っ飛ばされているようだった。綺麗な白銀の髪が、完全に露わになっていて。

 

「あんたは……」

 

 呟くようにそう口にする進一。白銀の髪を持つその女性剣士は、カチャリと音を立てて剣を鞘に納めていた。

 ゆらりと彼女の身体が揺れる。糸が切れたようにどさりと崩れ落ち、女性剣士は力なく片膝をつく。意識はある――が疲労困憊のようである。妖夢の斬撃をまともに受けたように見えた彼女だったが、それほど深い外傷がある訳ではなさそうだ。それでもまともに立っているのも辛い程度には体力を消耗してしまっているようで、ぜえぜえと息を切らしながらも苦しそうに蹲っている様子が見て取れる。

 

「あ、あの人……」

 

 愕然とした様子で呟くメリー。無理もない。三度笠が吹き飛ばされた事により、露わになった女性剣士の後ろ姿。髪の長さに違いはあれど、それはまさに“彼女”そのもので。

 

「進一君……?」

 

 メリーが不安気な声を上げる中、進一はおもむろに女性剣士へと歩み寄ってゆく。そして未だ息を切らす彼女へと向けて、そっと声をかけた。

 

「大丈夫か?」

 

 ピクリと彼女の肩が揺れる。多少の迷いを見せていた彼女だったが、やがて観念したかのように恐る恐る振り返った。

 瑠璃色の瞳。白銀の髪。確かな面影を残した彼女の素顔が、進一の目に飛び込んでくる。

 

「……やっぱり、お前だったんだな」

 

 けれど進一は動揺しない。多少の驚きを覚える事はあれど、それでも胸中は落ち着きの方が強い。

 雪のように白い肌。大人にしてはやや小柄な体格。端正な顔立ちの、彼女の名は。

 

「妖夢」

 

 魂魄妖夢。目の前にいる女性剣士は、紛れもなく彼女が成長した姿だった。

 メリーが息を呑んでいる。彼女の正体を改めてはっきりと認識したものの、その事実を上手く受け入れる事ができていないのだろう。

 無理もない。進一だって驚いているのだ。まさかこんな形で、この時代における魂魄妖夢と対面する事になるとは。

 

「……気付いていたんですか?」

「いや……。ただ、そうじゃないかっていう予感はあった。それを感じたのもついさっきだけどな。お前の主張を聞いてる内に、何となくそう思い始めたんだ」

「主張……」

「ああ。主を守るべき剣士は、常に強くあらなければならない。それを阻害する要素は排除すべきだ……って、生真面目なお前なら辿り着きそうな結論だよな」

 

 この時代の妖夢が、どんな経験を得て今ここに現れたのかは分からない。しかしそれでも、どこか必要以上に拗らせてしまっているかのような違和感だけは覚える事ができた。

 強さへの固執。それを極限まで募らせてしまった結果、彼女はどんな思考に到るのか。答えを言い当てる事はできなくとも、可能性を考える事くらいならできる。

 

「それにさっきの斬撃だって、敵意は多少なりともあっても、殺意は感じられなかった。口ではあれこれと言っていても、お前は多分実行には移さない」

「でも……だとしても、それだけで私だと予感する事なんて……」

「できるさ」

 

 そう。進一なら、できる。

 

「惚れた女の事くらい、理解しているつもりだ」

「…………っ」

 

 きょとんとした表情を、妖夢は浮かべていた。

 面と向かって言われた言葉。あまりにも唐突だったその意味を理解するのに、少し時間がかかってしまっているようで。

 けれども直ぐに、彼女は肩の力を抜いた。

 

「まったく……」

 

 そして自然に、その表情を綻ばせた。

 

「恥ずかしげもなく、よくそんな事が言えますね」

「……まぁ、お前の前じゃ今更だしな」

 

 破顔しつつも、進一はそう答える。妖夢もまた表情を綻ばせていたのだが、けれども直ぐにバツが悪そうな面持ちになって、進一から目を背けてしまった。

 進一は思わず首を傾げる。拒絶感――とは違う。けれども、どこか遠慮しているかのような感覚。つい先程まであれほど敵意を向けていたのにも関わらず、今更慣れ合える訳がないと。そんな事でも考えているのだろうか。

 

(いや……違うな)

 

 そう、何かが違う。今の彼女の心境は――。

 

「よ、妖夢ちゃん……?」

 

 考えていると、メリーがおずおずといった様子で妖夢へと声をかけてきた。

 未だに困惑が隠しきれぬ表情。目の当たりにした真実を、上手く受け入れる事ができていない心境。目の前にいる女性剣士の正体が、まさか彼女だったなんて。そんな事実を唐突に突き付けられて、混乱するなという方が無理な話だ。

 

「ほ、本当に、妖夢ちゃんなの……?」

「…………」

 

 暫しの沈黙。けれども妖夢は、すぐにまた口を開く。

 

「確かに私は妖夢です。ですが……」

 

 しかし、やはりバツが悪そうな様子で。

 

「貴方達が知っている魂魄妖夢とは、少し違うのかも知れません」

「えっ……?」

 

 メリーはますます困惑する。

 確かに彼女は魂魄妖夢だ。それは間違いない。けれども、今の今まで対面し続けていた子供の姿の魂魄妖夢とは、何かが違う。

 全くの別人という訳ではない。同一人物――だけれども、心の在り様が違う。

 

「確かに私の記憶の中には、貴方達と過ごした思い出も存在します。でも実際に経験した訳じゃない。辻褄を合わせる為、強引に植え付けられた記憶……。いわば誤魔化しです」

「ど、どういう意味……?」

「……タイムパラドックス、らしいですよ」

 

 タイムパラドックス。タイムトラベルが絡むと必ずと言っていいほど一緒について回る、因果関係の矛盾やその修正を示す単語。今回の場合、魂魄妖夢の時間跳躍という要素そのものが、この世界にとっての矛盾だった。

 同一の時間に、別々の時間の住民であるはずの同一人物が同時に存在する。本来ならば、そんな事など有り得ない。けれどそんな“有り得ない”事が現実に起きてしまった。

 故に修正が必要だった。今回の場合、記憶の共有という形でそれが行われたという事なのだろうか。

 

(タイムトラベル……タイムパラドックス、か……)

 

 正直言って、管轄外である。この推測がどこまであっているのか、そもそも全て間違っているのか。それすらも確認できないのだけれども。

 

「そ、それじゃあ……子供の方の妖夢ちゃんは、どこに行っちゃったの……?」

 

 閃光の中から現れたのは、この時代の妖夢だけ。過去から連れて来られた妖夢の姿は、どこにも見当たらなかった。

 それが一体、何を意味するのか。タイムトラベル等の要素が管轄外である進一でも、それだけは何となく推測する事が出来る。

 

「……帰れたんだな。元の世界に」

「……ええ」

 

 相も変わらず申し訳なさそうな表情。しかしそれでも、妖夢は首を縦に振ってくれた。

 肯定。それはつまり、想定しうる最善の結果への収束を示していて。

 

「……そうか」

 

 これも恐らく、タイムパラドックスの一種なのだろう。

 別の時間の同一人物。それらが同時に存在する時点でイレギュラーなのに、そんな二人が互いの存在を認識してしまった場合――どうなるか。

 その結果がこれだ。有り得ない認識により生じた矛盾は、魂魄妖夢の強制送還という形で修正された。これ以上の認識のズレは、()()()()の理に悪影響が生じると。つまりはそういう事なのだろう。

 

 無論、あくまで推測だ。この推測が真実なのか否か、その全てを確認する術はない。

 けれども他でもなく、目の前にいる妖夢自身がそう認識できているのだ。生きる時代が違うとはいえ、彼女だって同一の存在である事に変わりはない。そんな彼女が認識を抱けているという事は、それは最早確定事項と言っても過言ではない。

 

 魂魄妖夢は、帰る事ができたのだ。彼女が本来いるべき時間、そして彼女本来の居場所に。

 

「……っ」

 

 蹲っていた妖夢だったが、やがて自らの足で立ち上がろうと力を込める。

 ヨロヨロと危なげな足取り。然程大きな外傷は見られないとは言え、流石の彼女もあの戦いを経て息切れなしという訳にもいかないのだろう。ふらりとバランスを崩しかけた彼女を見て、真っ先に動いたのは意外にもメリーだった。

 

「妖夢ちゃん!」

 

 駆け寄ってくるメリー。覚束ない足取りの妖夢を支えるかのように、彼女の肩へと手を添える。

 

「えっ……?」

 

 妖夢が間の抜けた声を上げる。メリーがこうして駆け寄って来てくれた事が、彼女にとって意外だったのだろう。きょとんとした表情を浮かべながらも、彼女はメリーへとその視線を向けていて。

 

「大丈夫……?」

「え、ええ……。何とか……」

 

 反射的に首を縦に振るが、それでも彼女はメリーの行動の真意を理解できていない様子。おずおずといった面持ちで、彼女は再び言葉を投げかける。

 

「あ、あの……。心配、してくれているんですか……?」

「……っ。当たり前じゃない」

「ど、どうして……」

 

 「だって……」と、彼女は続ける。

 

「私は貴方達の知っている妖夢とは違うんですよ……? ただ同じ体験を経た事になっているだけで、実際に貴方達と過ごした訳ではありません。最後までめげずに立ち上がる事のできたあの子と違って……私は、もっと不安定で不完全です」

 

 そう言いつつも、妖夢は俯く。拳をぎゅっと握り締め、ギリッと歯軋りをして。

 

「私は可能性です。道を踏み外した魂魄妖夢という、一つの可能性……。強烈な先入観に惑わされ、振り回されて……。貴方達にも、剣を向けてしまった」

「妖夢ちゃん……」

「だから私には……。恨みを向けられる理由はあれど、手を差し伸べられる理由なんて……」

 

 まったく。生真面目な奴だな、と進一は思った。

 けれどもそれと同時に、それは彼女もまた魂魄妖夢であるという確証にもなっている。あまりにも生真面目で素直。悪く言えば思い込みが激しい。それ故に、あんな風に暴走してしまっていた。

 そんな彼女の人となりは、メリーだって理解している。だって同じ秘封倶楽部として、数々の秘密を追いかけてきたから。彼女もまた、妖夢の言葉に助けられた事だってあったのだから。

 

「さっき怒鳴っちゃった事に関しては謝るわ。つい熱くなっちゃって、ごめんなさい……」

「…………」

「でもね。貴方が妖夢ちゃんだっていうのなら……さっきの言葉、ますます認める訳にはいかないわ」

 

 びくりと妖夢の身体が震える。その様子は、まるで説教される寸前の子供のようである。

 身を縮こませせる妖夢。けれどそんな彼女の怯えとは裏腹に、メリーの声調は優し気なものだった。

 

「貴方がどんな経験を経て、今こうして私達の前に現れたのかは分からない。でもそこまで強い先入観を抱いちゃう程の何かがあったんでしょう?」

「そ、それは……」

「……別に、無理に話さなくてもいいわ。だけどこれだけは言わせて?」

 

 メリーは妖夢へと視線を合わせる。そして、怯える妖夢をまるで包み込むかのように。

 彼女は言った。

 

「例えどんな状況に陥っても、自分を否定する事だけは止めなさい」

 

 優し気な表情。確かな温かみのある言葉。そんな想いを向けられて、妖夢の心が揺れ動かない訳がない。

 見開かれた妖夢の瞳が、うるうると揺れ動いていて。

 

「貴方は分かっていたんでしょう? あの子が自分自身だって……。分かっていた上で、その想いを否定しようとしたんでしょう?」

「……、はい」

「……ダメよ、それじゃ。全部受け入れろとは言わないけど、でも……。自分自身の事なんだから、せめてちゃんと向き合ってあげなきゃ」

 

 魂魄妖夢は恋愛を知らなかった。それが何を齎すのか、皆目見当もつかなかった。その上で真っ先に目の当たりにしてしまったのは、“迷い”という悪い結果。故に彼女は思い違いをしてしまった。恋愛は枷にしかならない、と。

 

「貴方が一つ可能性のなら、あの子だって可能性の一つでしょ? その可能性を自分で否定しちゃってどうするの」

「わ、私……」

「貴方の事も、あの子の事も……信じてくれている人がいる。思ってくれている人がいるのよ。だから……」

 

 だから。

 

「貴方も貴方を信じなさい」

 

 魂魄妖夢は、あまりにも一人で抱え込もうとし過ぎていたのかも知れない。何らかの出来事が原因で強い自責の念に駆られ、酷く後悔してしまって。その贖罪の為に、自分一人の力で何とかしなければならないと。心のどこかで、そんな思いを抱いてしまっていたのだろう。

 それ故に、彼女は道を間違えてしまった。

 

「妖夢。お前が自分をどう卑下しようと、お前が妖夢である事に変わりはないんだ」

 

 進一もまた、彼女へと声をかける。

 幾ら彼女が自己を否定しようとも、幾ら彼女が自らを責めようとも。進一達の思いは変わらない。目の前にいる彼女もまた、魂魄妖夢なのだから。

 

「俺達がお前に手を差し伸べる理由は、それだけで十分だろ?」

 

 故にこうして、手を伸ばす。

 

「私……」

 

 俯いた妖夢。その頬に、一筋の涙が零れ落ちる。

 ずっと一人だと思っていた。全部自分の責任で、だから自分だけで何とかしなければならないと。彼女はそう思い込んでいた。

 けれども、それももう終わりだ。これ以上、彼女が一人で抱え込む必要なんてない。

 

「……いつの間にか、私は私自身さえも信じられなくなっていたのですね」

 

 そして彼女は手を伸ばす。差し出された進一達の手を、自らの手で受け止めて。

 

「……ごめんなさい」

「……謝らなくてもいいわ。それに、今はもっと相応しい言葉があるでしょ?」

「……っ」

 

 妖夢がメリーに諭される。謝罪よりも、相応しい言葉。

 妖夢は立ち上がる。涙を拭って、俯いていた顔を持ち上げて。そんな彼女が浮かべるのは、精一杯の笑顔。そして彼女が口にするのは、謝罪の言葉などではなく。

 

「ありがとう、ございます……!」

 

 感謝の言葉だった。

 

 

 ***

 

 

 特殊コーティングが施され、見た目以上の強度が兼ね備えられている夢美愛用のワゴン者だったが、当然ながらそれはあくまで常識的な範疇での話である。車会社側だって、一般向けに市販される車の用途の想定は普通に国道等を走る程度だろうし、それ以上の非現実的な状況まで想定してはキリがない。この平和な日本内でまさか戦地を駆け抜ける想定などしていないだろうし、況してや相手が人外となると想定外中の想定外だ。常識外れだとか、最早そんな問題すらも凌駕している。

 

 まぁ、つまるところ何が言いたいのかというと。

 壊れたのだ。

 

 キョンシー達をなぎ倒し、圧倒的な人海戦術すら物ともせずに突き進んで。その上最終的には、お空の『メガフレア』による爆撃である。

 無理がある。あまりにも無理があるだろう。こんな使い方、想定しない方が正常というものだ。立て続けに強引な使い方を続けた結果、遂にはエンジンがかからなくなってしまった。

 

 まぁ、それでも原型を留めている分、流石の強度と言った所か。全く動かせない故に、車としては役立たずになってしまってけれど。

 

 閑話休題。

 夢美達は仕方なくワゴン車を放棄して、徒歩で進一達と合流する事にした。京都全土を覆う結界の影響か、携帯等での連絡は取れないものの、幸いにもそれほど遠くまで離れてしまった訳ではない。お空の介入によって既に数多くのキョンシーは無力化されている為、徒歩でも十分に合流は可能である。

 公園を後にし、坂を下り、崖下へと足を運んで。それからはとんとん拍子だった。

 

「進一!」

 

 破壊された建物の一部や四散した血痕のような跡。それらを辿っていくと、進一達とは問題なく合流する事ができた。

 一際開けた大通り。そこに佇むのは進一とメリーと――もう一人。緑を基調とした和装に、白銀色の長髪。以前に対面した時のようなパーカー姿ではなかったが、間違いない。

 ()()()()の、魂魄妖夢である。

 

「姉さん。それに蓮子達も無事だったのか。キョンシーは……?」

「まぁ色々あってね。何とかなったのよ」

 

 ちらりとお空へと視線を向けつつも、夢美はそう口にする。当の彼女は何やら物珍し気な面持ちで、周囲の街並みをキョロキョロと観察している様子。こちらの世界に来たばかり故、あらゆる光景が新鮮に感じるのだろうか。

 

(それにしても……)

 

 意外だったのが大人妖夢の存在だ。

 彼女は確か、行方不明だった古明地こいしの捜索に力を入れていたはず。数日前のあの日だって、その為に夢美の研究室まで来てくれたのだ。

 そんな彼女が今、進一達と共にいる。しかもまるで、今の今まで誰かと戦っていたかのようにボロボロの状態で。

 

 これは一体――。

 

「よ、妖夢……?」

 

 流れ込んでくる震えた声。大人の妖夢を始めて目の当たりにした蓮子――ではなく、真っ先に反応を見せたのは意外にもお燐だった。

 鬼気迫る表情。まるで幽霊でも見てしまったかのように、愕然と目を見開いている。

 

「お燐さん……」

 

 そんな彼女の様子に気づき、妖夢もまた名前を呼び返す。その次の瞬間、様子は一変した。

 歯軋り。愕然としていたお燐の表情には怒りの色が濃く現れ始め、そして拳をぎゅっと握り締めて。

 

「……っ!」

 

 わなわなと震えつつも、妖夢へと歩み寄る。

 そしてその胸倉を、一気に掴み上げた。

 

「なっ……」

「お、お燐……!?」

 

 突然の暴挙。慌ててこいしが手を伸ばすが、それでもお燐は止まらなかった。

 

「今までどこに行ってたの!?」

 

 お燐は声を張り上げる。妖夢の胸倉を掴む彼女の手は、震えていた。

 先程のお空との口喧嘩とは違う。それとはまた違ったベクトルの怒り。彼女の声調から感じ取れる最も大きな感情は、不安感である。

 不安。想定外の事態が起きて、そんな状況下で自分一人だけが取り残されてしまって。そんな極限の状態故にずっと伴っていた、あまり大きすぎる不安感。

 

「急に連絡も寄こさなくなって……! 街中捜し回ってもどこにもいなくて……! あたいが一体、どれだけ心配したと思ってるの!?」

「そ、それは……」

 

 俯く妖夢。何やら答えようとしていた彼女だったが、けれども喉まで出かかった所でそれも飲み込んでしまう。

 ここでどんな言葉を並べても、結局は言い訳になってしまう。そう思ってのだんまりだったのかも知れない。

 

「ち、違うんだよお燐! 妖夢はただ、私を助けようとしてくれて……! それで……」

「こいし様……?」

「だ、だから……! 悪いのは全部私なんだよ! 妖夢を責めないであげて……!」

 

 必死になって妖夢を庇おうとするこいし。そんな彼女の姿勢を前にすれば、多少なりともお燐は落ち着きを取り戻してきたようだ。

 しかし、それでも彼女の怒りが収まる訳ではない。幾らこいしに諭されようとも、今この場にある問題の根本は妖夢だ。例えこいしの頼みだったとしても、お燐は妖夢の取った行動を認める訳にはいかなかった。

 

「だとしても……。だとしても、だよ……」

 

 震える声で、彼女は続ける。

 

「ちょっとくらい、あたいに伝えてくれてもいいじゃん……」

「お燐、さん……」

「一人で勝手に突っ走って……。一人で勝手に無茶して……。本当に、勝手すぎるよ……!」

 

 ぎゅっと、胸倉を掴む両手に力が入る。そして消え入るようなか細い声で、彼女は言った。

 

「信用、できないの……?」

「信、用……?」

「そんなに、あたいの事が信用できないっていうの……?」

「ち、違……そんな……つもり、じゃ……」

「だったら……!」

 

 するりと、胸倉を掴む両手から力が抜ける。そして吐き捨てるように、彼女は言った。

 

「だったらもっと、頼ってよ……!」

 

 火焔猫燐が抱く怒りの原因は、妖夢が取った行動そのものではない。彼女の心の在り様だった。

 自分一人で抱え込んで、自分一人で責任を感じて。自分一人で何とかしようと、自分一人だけで突っ走る。つけるべきケジメを果たす為の覚悟の現れのようにも見えるが、けれどもそれはあくまで上っ面だけ。彼女の事を信用していたお燐からしてみれば、それはある種の裏切りのようにも思えたのだろう。

 

 どうして一人で抱え込むの? どうして一人で突っ走るの?

 どうして何も、言ってくれないの?

 

 お燐の中で膨れ上がるのは、そんな不安感だけだ。故に彼女は、夢美と再会した時だってあそこまでの狼狽を見せていたのだろう。

 妖夢が取った行動は責任の完遂などではない。ただ、一人の友人の不安感を余計に煽っただけだったのだ。

 

「……お燐さん」

 

 けれども妖夢は、気付いている。

 自らが犯してしまった過ちに。そしてお燐が抱く、心境に。

 

「……ごめんなさい、お燐さん」

「……っ」

「お燐さんの言う通りです。私は、心のどこかでは誰も信用できていなかったのかも知れない……。誰も信じ切る事ができていなかったんです。私自身も含めて……」

 

 しかし妖夢は、「でも……」と口にする。

 

「もう、大丈夫です」

「えっ……」

「気づいたんです。いつの間にか道を踏み外していたんだって、気付く事ができたんです。いや……気付かせて、くれたんです」

 

 確かに彼女は、ずっと抱え込んでいたのかも知れない。あまりにも余計な責任感を覚えて、これ以上誰かの力を借りてはいけないと思い込んで。故に彼女は、ずっと独りで戦い続けていたのかも知れない。

 けれども。それももう、おしまいだ。

 

「私はもう、一人で抱え込んだりはしません。寄り添ってくれる人たちの言葉を、蔑ろになんて絶対にしません」

「妖夢……」

「だから、私は……」

 

 掴み上げていた襟首から手を離し、お燐は一歩身を引く。俯いたまま、深呼吸をして。一度呼吸を整えて。やがて落ち着きを取り戻した彼女は、おもむろに顔を上げる。

 

「……分かったよ」

 

 多少なりとも、吹っ切れたかのような表情だった。

 

「……許す。今は、妖夢を許す」

「……っ。お燐さん……」

「でも、だけど……。今度また一人で突っ走ったら、その時は絶対に許さないから」

 

 一瞬だけきょとんとした表情を浮かべる妖夢。けれども直ぐにそれを崩して、彼女は表情を綻ばせる。

 和解。幻想郷で出会った友人同士、それ以上の言葉は必要ない。きっとこれが、彼女達の友情の形。その一つなのだろう。

 

 ずっとそわそわと狼狽し続けていたお燐も、ようやく落ち着きを取り戻す事ができたようだ。

 これでいい。夢美もようやく一息つく事ができそうだった。

 

「うにゅ……ど、どういうこと? 何があったの?」

「……ま、ちょっとした擦れ違いよ」

 

 いつの間にか蚊帳の外に追いやられていたお空は、イマイチ状況が呑み込めぬ様子でそう口にする。取り合えずそう説明してやったが、それでも彼女は話について来れずどうにも不服な様子。

 無理もない。夢美だって、二人の関係については詳細まで把握していないのだ。今の彼女の状態を含め、情報を共有せねばなるまい。

 

(さて、と)

 

 お燐と妖夢の問題は取り合えず解決だ。

 今考えるべきは別の問題。その為にも、情報の整理を行う必要がある。

 

 

 ***

 

 

 それから、夢美達は互いの情報を共有した。

 キョンシー達の事。お燐の正体の事。そしてお空とこいしの介入により、何とかキョンシー達の包囲網を掻い潜る事に成功した事。お空とこいしの件については不明瞭な部分が多いが、それでも分かる範囲で進一達には伝えたつもりだ。

 そしてその逆。進一達の方から伝えられた情報は、実に衝撃的なものだった。

 

「そう……。妖夢は元の世界に帰れたのね……」

 

 魂魄妖夢の帰還。それが進一達から真っ先に伝えられた情報だった。

 夢美達を守る為、必死になって剣を振るって。けれども力及ばず、彼女は行方不明になってしまって。まさかあれが最後の対面になるとは、流石の夢美も少し想定外だった。

 

「……せめて、ちゃんとお別れの言葉が言いたかったわね」

「ねぇ、本当に? 本当に、妖夢ちゃんは幻想郷に帰れたの……?」

 

 蓮子の確認。それに答えたのはメリーだった。

 

「ええ。何せ本人のお墨付きだしね」

 

 ちらりと視線が向けられる。その先は、この時代における本来の住民。大人の姿の妖夢である。

 彼女はこくりと頷いて。

 

「はい。あくまで私個人の感覚ではありますが、その点については間違いないかと。まぁ、証拠を見せろと言われても困ってしまうのですけれど……」

「いや、今この場にお前がいること自体が何よりの証拠だろ。もしあの時に妖夢の身に何かあったのだとすれば、タイムパラドックスとやらでお前もただでは済まないだろうし」

 

 そう、進一の言う通りだ。仮に子供の姿の妖夢が死ぬような事になった場合、今この場にいる大人の妖夢という存在に矛盾が生じる。

 タイムパラドックスが発生するのに十分すぎる条件である。にも関わらず、特に変わった様子もなく大人の妖夢が存在し続けているのだとすれば。

 

「そ、そうね……。それなら……!」

「ああ。あいつは……妖夢は、無事に帰る事ができたんだ」

 

 そう、その通り。その推測は至極自然。間違いなんて、何もない。

 何もない――はずなのに。

 

「…………っ」

 

 この“違和感”は何だ?

 妖夢が無事に帰還して、本来あるべき形に戻った。妥当なハッピーエンドじゃないか。何も気にする事はない。不思議に思う事などない。

 

 でも。夢美の勘が告げている。

 何かがおかしい、と。

 

「それにしても、一つ気になる事があるんだが」

 

 夢美が考え込んでいると、不意に声を上げたのは弟である進一。

 一旦思考を切り上げて、彼の方へと視線を向けると、

 

「空、だったか? お前をこいしの所へと案内した奴の存在だ。一体誰なんだ? そいつは」

 

 成る程。その事だったか。

 確かにそれも気になる所だ。この結界内で自由に動けている時点で、ただの一般人とは到底思えない。そう考えると、真っ先に思いつく可能性は――。

 

(いや、まさか……でも……)

 

 ――()()はそれで、有り得るのだろうか?

 

「お空さんを案内した人物、ですか……。でも覚えてないんですよね?」

「うん! 全然まったくこれっぽっちも!」

「いや、どうしてそんなにも自慢げなのさ……」

 

 取り合えずお空の記憶は当てにできない。

 そうなると。

 

「こいしちゃん。あなたなら何か分かるんじゃないの?」

 

 そして夢美は彼女へと視線を向ける。

 

「空をあなたの所まで案内した人物……。その人は、一体どんな人だったの?」

 

 単純な話だ。確かにお空は何も覚えていないのかも知れないが、こいしなら話は別だろう。

 お空をこいしの所まで案内した人物。こちらの世界の住民でありながら、京都全土を覆う人払いの結界の効力を受けていない女性。

 その正体は。

 

「正直、私もよく分からない……。確かに私はアイツに助けられたのかも知れないけど……。でも、どうしてあのタイミングで……」

「……分からない? どういう意味?」

「それは……」

 

 俯いたこいしが息を飲み込む。

 どことなく解せないような表情。彼女の言う“分からない”とは、本当にそのまま文字通りの意味なのだろう。確かにこいしはその人物によって助けられた。だけれども――どうして助けられたのか、それが分からない。

 

「あの時、私を助けてくれたのはアイツ……。でも、私を誘拐してあそこに幽閉したのも……紛れもなくアイツなんだよ」

「何ですって……?」

 

 それはつまり、一度自らの手で捕らえたのにも関わらず、今度は自らの手でその獲物を逃がしたという事なのだろうか。

 夢美は腕を組む。確かに、話だけ聞くと訳が分からない行動だ。その行動に一体何の意味がある? 何を意図してそんな事――。

 

「……誰なの? その“アイツ”って……」

「……アイツは」

 

 息を飲み込むこいし。未だに困惑が隠し切れない様子で、彼女は俯いた。

 “アイツ”。一度こいしを誘拐したのにも関わらず、今度は彼女を助けるような形で逃がしてくれた人物。こちらの世界の住民でありながら、人払いの結界の効力を受ける事がない“非常識的”な存在。

 考えられる、その人物は。

 

「北白河ちゆりさん」

「えっ……?」

 

 流れ込んでくる声。けれども発したのはこいしではなかった。

 全く予想もしていなかった方向。振り向くと、そこには鬼気迫る表情を浮かべる宇佐見蓮子が立っていて。

 

「……ちゆりさんでしょ? こいしちゃんを誘拐したのって……」

 

 おずおずといった面持ちで、蓮子はそう口にする。それは冗談だとか、突発的な思いつきなどでは決してない。

 震える声。彼女は何か確信を持って、そんな事を口にしている様子で。

 

「な、何を言ってるの蓮子……?」

 

 けれども当然、返ってくるのは困惑の声だ。

 真っ先に反応したのは、マエリベリー・ハーン。

 

「ちゆりさんが、誘拐……? 馬鹿な事言わないでよ。どうして、そんな事……」

 

 けれどもそんな反論も、直後に張り上げられたお空の言葉によって真っ先に否定される事となる。

 

「あー! そう、そうだよ! 確かに、あの人はそう名乗ってた!!」

「なっ……!」

 

 愕然とするメリー。目を見開き、言葉を見失い、息をするのさえも忘れそうになっていて。そんなメリーに代わって、お燐が声を張り上げる。

 

「ちょ、ちょっと……! ちょっと待ってよ……!!」

 

 混乱が露呈する。頭の中の整理もままならない状態。思い浮かんだ言葉をただ吐き出すかのように、お燐は口を開いた。

 

「誘拐? ちゆりが? こいし様を……!? どうして!? 一体どんな根拠があって、そんな事……!!」

「根拠なら、あるわ」

 

 蓮子としては珍しく、かなり動揺したかのような面持ち。それでもギリギリの所で平静を保ちつつも、彼女は何とか言葉を口にする。

 取り乱したお燐へと向けて、おずおずと。

 

「……見たの」

「えっ……?」

「見たのよ、私。ちゆりさんが、こいしちゃんを誘拐する……その瞬間を」

「ッ!?」

 

 あまりにも強すぎる衝撃。周囲に一時の沈黙が訪れる事となる。

 メリーも、進一も、お燐も。そしてお空さえも、只ならぬ雰囲気を感じ取って言葉を失ってしまっている。その時の状況を思い出してしまったのか、怯えた様子でこいしは震えていて。

 

 そんな中。沈黙を破ったのはメリーだった。

 

「……いつ、見たのよ?」

「……っ」

 

 一瞬だけ口をつぐむ蓮子。けれども直ぐに、メリーへと答える。

 

「一、二週間……くらい前」

「そんなに前!? そ、それじゃあ、東京旅行の時もずっとそれを抱えてて……?」

「……うん」

「……っ。どうりで……おかしいと思ったのよ。何だか、ちょっと無理して明るく振舞っているような気がしてて……」

 

 宇佐見蓮子は基本的に前向きな性格をしている少女だ。ちょっとの逆境程度じゃ物ともせず、ピンチをチャンスに変えてくれるような不思議な信頼感を覚える事ができて。どんな事でも前向きに捉えようとする、そんな芯の強い少女なのだ。

 けれどもそれ故に、だからこそ。どうあがいても悪い方向にしか捉えられない状況に直面してしまった時。彼女は時に、道を見失ってしまう事もある。

 

「どうして何も言わなかったの!? 一人で抱え込むなんて、そんなの……! 蓮子らしくないわ!」

「だ、だって……!」

 

 握る拳に力が入る。そしていつになく怯えた様子で、蓮子は言う。

 

「怖かったの……。私だって、何が何だか訳が分からなかったのよ……! あれが本当にちゆりさんだって、信じたくなかった……!」

「蓮子……」

「でも……もう否定なんて出来ない。やっぱり、ちゆりさんは……!」

 

 蓮子だって人間だ。ちょっと変わった『眼』を持っているだけの、ただの女の子に過ぎないのだ。

 それ故に、そう簡単に何でもかんでも受け入れられる訳がない。どんな時だって常に冷静にいられるなんて、そんな事は買い被りだ。

 彼女は何も悪くない。悪いのは、寧ろ――。

 

「……随分と反応が薄いんだな、姉さん」

 

 進一の声。振り向くと、彼は物々し気な表情を浮かべていて。

 

「姉さんも知ってたんだろ? ちゆりさんが、何かを隠してるって……」

「……どうして、そう思うのかしら?」

「思うだろ、普通。姉さんはさっきから、露骨にちゆりさんの話題を逸らそうとしてじゃないか。二人の間に何かあったんじゃないかって、俺じゃなくても分かるぞ」

「…………」

 

 いやはや、何というか。まさかそこまで露骨に表れていたのだろうか。

 夢美は下唇を噛み締める。今更ここで何を言っても、進一達に誤魔化し通す事なんて出来やしない。どっちに道、あんな事になってしまっては、このまま目を逸らし続ける事なんて不可能だろう。

 だから白状しなければならない。岡崎夢美が犯してしまった、過ちを。

 

「残念だけど、私は進一が思っているほど勘が鋭い訳じゃないわ」

「なに……?」

「ちゆりの事だって、気付いたのは昨日……。本当に、ついこの前なのよ。それまで可能性すらも考えなかった」

 

 そう。何も考えなかった。

 北白河ちゆりという人物は、岡崎夢美の助手。ちょっぴり手のかかる部分もあるけれど、それでも素直で真っ直ぐで。誠実で頼り甲斐のある、唯一無二の相棒。

 ()()()()の認識だったのだ。彼女が抱える想いに、気付いてやる事も出来ず。夢美はただ一方的に、そう思い込んでいただけだったのである。

 

(悪いのは寧ろ……私よ)

 

 もっと早く気付いてやる事が出来れば、こんな事にはならなかったのかも知れないのに。

 

(朝ヶ丘絵理子……)

 

 あの時ちゆりが口にしていた名前。そして数年前、タイムトラベル関連の論文を執筆してた少女の名前。意図的にネット上の情報が消され、初めから“存在しなかった”事にされかけている少女の名前。それを思い浮かべると、自然と胸が締め付けられる。

 

(あなたがそうなんでしょう?)

 

 夢美の記憶の中に、確かにそれは存在する。

 いつの間にか忘れてしまっていた記憶。ずっと忘れていた名前。あの時出会ったあの少女は、今――。

 

(……ちゆり)

 

 

 ***

 

 

 これで良かったのだと、彼女は何度も自分に言い聞かせていた。何も間違った事はしていないのだと、そう言い聞かせなければおかしくなってしまいそうだった。

 霊烏路空とかいう地獄鴉をこいしのもとまで連れてゆき、彼女らを夢美達と合流させる。こいしはともかく、お空の火力をもってすればキョンシー達を蹴散らす事など容易いだろう。驚異的な再生能力を有するキョンシーに対抗するには、妖夢の白楼剣のように特殊な力を持つ武器を使うか、単純に高威力の攻撃をぶつけるしかない。お空の場合、後者として適任だった。

 

 これで良い。仮にお燐と妖夢では手が足りなくなるような事があったとしても、お空とこいしの力が加われば話は別だ。これで夢美と進一の安全は、少なくとも霍青娥を信用するよりも保証される。

 

(……ああ、そうさ。私の選択は間違っちゃいない)

 

 自らを嘲るように、北白河ちゆりは笑う。

 我ながら中々に厄介な選択をしてしまったものだとつくづく思う。既に引き返せぬ所まで足を踏み入れていたとは思っていたが、よもや更に深部まで入り込んでしまうとは。

 

 まぁ、でも。

 

(……こんな事をした所で、私が選べる道は変わらない)

 

 幾ら信用できずとも、幾ら気に食わなくとも。ちゆりは青娥に従わなければならない。例えどんな抵抗を見せても、結局青娥には逆らえない。結局最後は、奴の計画遂行の為の歯車にならなければならない。

 だって。もう、こうするしかないじゃないか。()()()()を救うには、こうするしか――。

 

「こうするしか、ないんだ」

 

 やがてちゆりは自分達の隠れ家――あの病院の前まで辿り着く。そこには夜空を見上げる霍青娥の姿があった。

 

「よう。どうだ? あんたの計画は順調か?」

 

 皮肉気にちゆりはそう口にする。けれども青娥は特に反応を返す事はなかった。

 今更ちゆりの戯言に付き合う義理はない、という事なのだろう。いい御身分だ。きっと自分の思惑通りに事が進んで、一人悦に入っているに違いない。

 

「ふん……。まぁ、ここまで円滑に計画が進んじゃ、さぞ快感だろうな」

 

 気に入らない。気に入らないが――それならそれで今は良い。

 

「おっと、今更私の取った行動にケチをつける気はないよな? 元はと言えばあんたが悪いんだぜ。先に約束を反故にしたのはそっちだ」

「……貴方の、取った行動……」

 

 ボソリ、と。そんな青娥の呟きが、ちゆりの耳へと流れ込んできた。

 

(ん……?)

 

 ちゆりは思わず首を傾げる。青娥のこの反応――何かがおかしい。ぼんやりと夜空を見上げ、てっきり一人で悦に入っていたのだと思ったのだけども――。

 違う。何かが、違う。

 

「そう、貴方……貴方よ……」

 

 ゆらりと青娥の身体が揺れる。その次の瞬間。

 突然、ちゆりの視界が()()()

 

「なっ……!?」

「――ッ!」

 

 あまりにも唐突な出来事、一瞬だけ何が起きたのか分からなかったちゆりだったが、けれどもすぐさま状況を理解する。

 自分の背中には壁。両肩には力強く掴まれた青娥の両手。そして眼前には、鬼気迫る表情を浮かべた霍青娥の姿。

 

 両肩を掴まれ、壁へと押し付けられたのだ。いつになく激しい動揺を露わにする、この邪仙に。

 

「貴方が……貴方が何かやったというの……!?」

「……っ。は……?」

 

 ぎゅっと、肩を掴む手に力が入れられる。鈍い痛みが走り抜け、ちゆりは顔を顰めた。

 何だ。何なんだ。何かがおかしい。何かが変だ。何かが、狂っている。

 

「何なの……。一体何なのよこれは……!? こんなのおかしいじゃない! 絶対に有り得ない! 有り得る訳がない! こんな事、絶対に……!」

「い、っつぅ……!? そ、そりゃこっちの台詞だ! 一体何言ってんだあんたは!?」

 

 ちゆりが怒号を上げると、一瞬だけ青娥の両手から力が抜ける。その隙に何とか彼女を振り払った。

 まだ肩が痛む。あの華奢な細腕のどこにあんな握力があるのか甚だ疑問ではあるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。

 異常だ。今の青娥の状態は、あまりにも常識から逸脱している。まるでネジが緩み、歯車が狂ってしまったかのように。彼女はヘラヘラと笑うと、

 

「そう……そうね。こんな事をしても貴方には何のメリットもない。そもそも貴方にはこんな事ができるだけの力がない。根本的に不可能……」

 

 そして俯き、青娥は頭を抱える。髪が乱れる事など厭わずに、ぐしゃぐしゃと掻きむしる。

 

「それじゃあ……なに? 私の計算が間違っていたというの? 魂魄妖夢の覚醒だけじゃ、些細な矛盾だとでも……? そう、言いたいの……?」

「お、おい……」

 

 流石のちゆりも理解が追い付かない。

 霍青娥の豹変。これは明らかな異常性だ。つい先程まで感じられた胡散臭さが、今の彼女からは微塵も感じられない。その代わりに感じ取る事ができるのは――底の知れない動揺。

 

「一体何を言ってる……? 何があったって言うんだよ……!?」

「……気付かないの?」

 

 ゆらりと、青娥は身体を持ち上げる。そして焦点の合わぬ震えた瞳を、ちゆりへと向けて。

 

「私の計画は完璧だった。特に大きな横槍が入る事もなく、恙なく遂行されて。そしてその先にあるのは、確実な成功。そう……そのはずだった」

「だった……?」

「そう、()()()のよ……! 魂魄妖夢は境地に到り、そして私の呪いに打ち勝った! この時代の本来の住民である未来の自分を認識し、そのタイムパラドックスによりあの子は強制送還させられた! この時点で、過去は変わっているはず……。“原因”を作るのに、十分な要素は備わったはずなのに……!」

 

 ちゆりだって馬鹿じゃない。そこまで説明されれば、彼女の言いたい事は大方検討が付く。

 

「……変わって、ないのか?」

 

 そしてそれは、ちゆりの動揺も煽るような事態であった。

 

「妖夢があんたの呪いに打ち勝つだけの力を手に入れ、その上で過去に帰ったのにも関わらず……何も変わってない……? ()()()が行われていないのか……!?」

 

 そう。それこそが想定外。この異常事態の根本だった。

 この世界の理とやらは存外雑である。タイムパラドックスだって、あらゆる矛盾を完璧に修正できるような便利なシステムなどではない。

 修正されるのはあまりにも強大過ぎる矛盾だけ。些細な矛盾は無視され、上書きは行われない。力を経た魂魄妖夢が過去へと帰還したのにも関わらず、何の修正も行われていないという事は。それはつまり、世界にとっては些細な矛盾だという事なのだろう。

 

 “結果”を変えるには“原因”を変えなければならない。

 ちょっとした『能力』を持つだけのただの人間に過ぎないちゆりでは、タイムパラドックスを観測する事は出来ない。しかしそれでも、“世界は何も変わっていない”という事実を認識する事が出来ているのだとすれば。

 

「おいおい……。冗談だろ……?」

 

 未来は何も変わってない。魂魄妖夢の覚醒が行われようとなかろうと、結局運命は収束してしまっている。

 新たな“結果”を生むだけの“原因”が、作られていない。

 

「っ! これは……!」

「……今度は何だ?」

 

 そんな中。不意に顔を上げた青娥が、何やら神妙な面持ちでそう口にする。夜空を見上げ、何かを探るように意識を集中させて。そして忌々し気に舌打ちを一つすると、

 

「次から次へと……」

「何だよ。何かヤバイもんでも見つかったのか?」

「……ええ。そうね」

 

 ちらりと青娥に一瞥される。

 相も変わらず焦点が合わない瞳。狂気的にも見えるそんな眼差しを向けられて、ちゆりは思わず一歩身を引いてしまう。

 けれど青娥は、そんなちゆりの反応など気にも留めていない。気にも留めずに、ただ淡々と口にする。

 

「不測の事態よ。それもとびっきり面倒な、ね……」

 

 胡散臭い敬語が崩れ、素の口調が現れて。そして支離滅裂な言動。

 明らかな異常性。想定外中の想定外。一体、この世界で――。

 

(何が起きてるんだ……?)

 

 

 ***

 

 

「……ッ!?」

 

 それはあまりにも唐突だった。

 何かが起きている。けれども、“何が”起きているのかは分からない。突然空気が重くなり、呼吸さえもままならなくなって。耳鳴りと共に目頭が熱くなり、劈くような鋭い頭痛が響き渡って。心臓が激しく脈動し、身体中の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。

 

(なっ、に……!?)

 

 ぐらりと、進一の視界が揺れる。吐き気にも似た嫌悪感が込み上げ、伸し掛かるような気怠さに突然襲われて。何も成す術がないまま、彼は一方的に崩れ落ちた。

 

「えっ……?」

「進一君っ!?」

「――――っ」

 

 異常に気付いた蓮子とメリーが、真っ先に駆け寄って来る。片膝をついた進一は、思わず口元を抑えて蹲ってしまった。

 一体、何が起きている? この感覚、例えば風邪などの体調不良とは違う。もっと異常。もっと非常識的。まるで何かと共鳴するかのように、あまりにも唐突に――。

 

「し、進一! その目……!」

「っ……!」

 

 夢美の声。反射的に顔を上げると、彼は更なる異常性に気が付いた。

 真っ先に目に入るのは、夢美と蓮子とメリーの三人。そしてその奥に妖夢を含む幻想郷の住民。けれどそれだけじゃない。それ以上に、()()が見えている。

 灯火にも似た、ゆらゆらと揺らめく何か。それが夢美達の中に、一人一つずつ。これは。

 

「なんで、『能力』が……」

「……っ。制御できていない……? 暴発しているの……!?」

 

 蹲った進一の肩を、夢美が支えてくれる。そして酷く狼狽した様子で、彼女は必死に声を投げかけてきた。

 

「と、とにかく落ち着くのよ! 目を瞑って、ゆっくりと深呼吸して……!」

「あ、ああ……」

 

 そうは言われても、この状態では深呼吸すらもままならない。息を大きく吸い込もうとすればするほど、余計に息苦しくなってゆくような気がするのである。

 分からない。これは一体何だ? こんな風に突然『能力』が暴発するなんて、今までだって一度もなかったはずだ。勝手に見えてしまう事はあっても、ここまで酷くは――。

 

「きょ、教授! あれ……!」

「えっ?」

 

 蓮子の声。彼女は何やら慌てた様子で、仕切りにどこかを指差している。

 おもむろに視線を向ける。彼女が示す先。そこにいたのは。

 

「なっ……」

 

 黒。

 黒い、影。そうとしか形容できぬ異形の存在が、散乱した瓦礫の上に佇んでいる。

 ぼんやりと、儚さも覚える程に不安定な影。けれどこの遠目からでも、人のような形をしている事だけは分かる。

 黒い人影。得体の知れぬ存在。けれどどこかで、覚えがある。

 

「ど、どうして……」

 

 震える声。その主は妖夢だ。

 有り得ない。信じられない。そう言いたげな面持ちで、妖夢はあの影を見つめている。ゆらゆらと蠢く黒。今にも消えてしまいそうな影。けれども何かがおかしい。儚さを感じ取る事ができるのに、それと同時に底が知れぬ不安感が胸中から溢れ出てくる。

 

「どうして、アレがこっちの世界に……!?」

 

 アレ? アレと言ったか、彼女は。

 不思議と脳裏に投影される。それは東京旅行に行った際、最後の最後に目の当たりにしたとあるレポート。古臭いノートパソコンの中に保存されていた、とあるテキストファイルの内容。

 

―――――

ヒフウレポート4

予定通り、あの異世界にオカルトボールを幾つか放った。私が流した噂話の効果もあり、早速住民達の間でオカルトボール争奪戦が始まっているようである。ここまでは計画通り。

しかし、一つ気になる事がある。私が異世界に侵入した際にいきなり襲いかかってきたあの黒い人影。あれはなんだったのだろうか? 幽霊や妖怪の類だとは思うのだが、その正体は全くの不明である。今回は辛くも逃げ切る事が出来たものの、依然として細心の注意を払う必要がある。

―――――

 

(黒……)

 

―――――

ヒフウレポート7

嬉しい誤算が起きた。一度あちらの世界に送り込んだオカルトボールを回収して調べた所、あちらの世界特有の霊気を浴びた事によりその効力が変化しているようなのだ。これを上手く使えばあちらの世界との自由な往来も可能になるかも知れない。試してみる価値はある。

また、オカルトボールを回収した際にあの黒い人影を再び見かけた。今回は襲われなかった(見つからなかった?)が、あれは本当に何なのだろうか。

―――――

 

(黒い、人影……?)

 

 ヒフウレポート8。

 

(死……)

 

 死んだ。

 

(人が……)

 

 目の前で、人が死んだ。

 

(アレは、やばい……)

 

 アレは危険。

 

(アレに、捕まったら……)

 

 殺される。

 

 

 ***

 

 

 **

 

 

 *


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