身が引き締まるような寒さの朝だった。
これまでの気候からは考えられない程の大きな寒波が京都全土を覆い、真冬並みに気温を引き下げてしまっている。見上げると、空はどんよりとした曇天である。分厚い雲が空を隠し、日光さえも遮断する。それが今日の気温低下に拍車をかけているようだ。冷たい空気が肌を貫き、水蒸気を凝結させて吐息さえも白くする。
未だ薄暗い、冷たい空気の早朝。そんな時間に起床した妖夢は、一人近所の公園で剣術の稽古に勤しんでいた。
外の世界に放り出されてから、経過した時間は既に一週間。幻想郷や冥界への手がかりを模索し続けているものの、事態は一向に好転していない。と言うのも、とにかく情報が少なすぎるのだ。蓮子からして見れば蓮台野こそが現時点での最も有力な情報だったようで、それが失敗に終わった時点で早くも手持ち無沙汰だったらしい。故にこの一週間は特に大きな行動も起こせず、秘封倶楽部の活動は地道な情報収集のみに尽きていた。
何の手がかりも得られないこの状況で、焦りを全く感じていないと言えば嘘になる。しかし、そんな状況だからこそ今は冷静になるべきだと妖夢は思う。焦って周囲が見えなくなって、重要な事を見落としてしまったら。それこそ泣きっ面に蜂だろう。
焦燥感は注意力の散乱に直結する。気が逸ってしまうくらいなら、思い切って気分を入れ替えるのもありだ。
つまるところ、気分転換。妖夢にとって、剣術の稽古こそがまさにその役割を担っていた。
無論、気分転換の為だけに彼女は剣を振るっている訳ではない。未だ半人前の妖夢にとって、日々の剣術鍛錬は欠かすことのできない重要なファクターなのだ。妖夢にだって、剣士としての矜持がある。いつまでも半人前ではいられない。こうして鍛錬を重ねる事で、半人前からの脱却を一刻も早く成し遂げたかった。
――とは言っても、稽古が良い『気分転換』になっていると言う事も、紛れも無い事実であるのだが。
話を戻そう。
ぶんっと勢いよく空を切る音を立てながらも、妖夢は手にした竹刀を振り下ろす。先週、日用品の買い出しに行った際についでに購入した竹刀だ。楼観剣と比べると重量はかなり軽いが、稽古をする程度なら十分である。外の世界でも剣道がスポーツとして流通していて良かった。楼観剣や白楼剣を稽古で使う訳にもいかなかったし、竹刀の購入が容易であると言う事は妖夢にとって吉報だった。
「ふぅ……。まだまだ……!」
ぼそりと独りごちながらも、妖夢は稽古を続行する。
中段の構えから頭上まで竹刀を振り上げ、すり足気味に一歩前に出ながらも勢い良く振り下ろす。その繰り返しの単純な反復運動だが、剣術の基礎となる重要な稽古である。
身体の調子は上々だ。この程度の稽古ですぐに音を上げる程、ヤワな鍛え方はしていない。
半霊が行方不明になってからというものの、霊力に関してはからっきしになってしまった妖夢だが、腕力や剣術、そして『能力』に関しては然程衰えていなかった。
取り敢えずこれまでの鍛錬が水の泡にはならなかった事に対して彼女は胸を撫で下ろすが、それでも全盛期程の力を発揮できない事は確かだ。霊力が使えない以上、それを剣術の補助にする事はできないし当然弾幕も撃てない。
言ってしまえば、今の妖夢は外の世界の常識の範疇に収まる程の身体能力しか持っていない事となる。これでは殆んど普通の人間と変わらない状態だ。まぁ、『剣術』に関しては彼女の『能力』も合わさって、例外的に常識から逸脱しているのだけれども。
ともあれ、悲観してはいられない。霊力が使えないのなら、その分だけ剣術を磨き上げれば良いだけの事。
そんな事もあり、妖夢はより一層の熱意を込めて鍛錬に臨み続けるのだった。
(……っと、今の時間は……)
稽古を初めて、2時間程経った頃だろうか。ふと妖夢は、近くに設置されている時計へと目をやる。もうすぐ6時を回るところだ。周囲もだいぶ明るくなり始め、妖夢以外の歩行者もちらほらと見受けられるようになる。そろそろ帰るべき時間だろう。帰って、朝食の支度をしなければならない。
今日の朝食を作るのは妖夢の役割なのである。居候させて貰っている身の上である為、せめて食事作りや家事くらいは出来る限り手伝いたいし、どうせ手伝うのならば中途半端にはしたくない。料理や家事は妖夢にとって得意分野の一つなのだ。きっちりと熟さないと、彼女の気がすまない。
タオルで汗を拭いながらも、妖夢は荷物をまとめて公園を後にする。いくら気温が低いとは言え、身体を動かせば汗をかく。朝食を作る前に一度シャワーを浴びるべきだろう。
妖夢が稽古に利用しているのは、進一宅から徒歩5、6分の公園。そう、外の世界に放り出された妖夢が初めて迷い込んだ、延いては進一と初めて出会った公園である。そこそこの広さと快適な見通しを併せ持つこの公園は、身体を動かすのに打って付けなのだ。日々の鍛錬が欠かせない妖夢にとって、このような場所が無償で利用できるのはありがたい。
そんな公園で毎日稽古をしていた為か、近所の住民の間では妖夢はちょっとした有名人となっているらしい。気がついたら『噂の剣道少女』として周囲に認知されていた妖夢は、すれ違う通行人と会釈をしつつも足早に帰路に就く。
程なくして辿り着いた居候先。おもむろに玄関の扉を開けると、返ってきたのは静寂のみ。どうやら、進一はまだ眠っているようである。
丁度いい。進一が眠っている間にシャワーで汗を流し、朝食の準備を初めてしまおう。
一度部屋に戻って荷物を置いた後、着替えを持って風呂場へと向かう。手早く衣服を脱いで、浴室へと足を踏み入れた。今思い返してみれば、風呂に入るだけでも緊張していたあの頃が懐かしい。会ったばかりの男の人が住む家で風呂など入った経験はなかった為、覗かれるかもと変に意識してしまっていたものだ。けれども進一はそのような不純な行為を目論むような青年ではなかった為、結局覗かれるような事はなかったのだが。
今となっては緊張感も薄れ、こうして落ち着いた心境でシャワーを浴びる事ができる。
進一は信頼できる人物だと、そんな確信が妖夢にはある。故に彼女は安心していた。――否、安心し過ぎていたのだ。
確かに進一は、故意に風呂を覗くような事はしないだろう。しかし彼にその意思がなかったとしても、何らかの因果が重なってそのような状況に出くわしてしまうような事があるとすれば? ついうっかり、見てしまうような事があるとすれば?
妖夢はそのような状況を、全く想定していなかったのだ。
それ故に。
「あ」
シャワーで汗を流し終え、浴室から出てバスタオルで身体を拭こうとした矢先に。
まさか“彼”が入って来るなど、どうして想像できよう。
「……へっ?」
ポカンとしている彼を目の当たりにした瞬間、妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまう。一体何が起きているのか、その瞬間では理解できなかったのだ。
「…………」
待て待て。ここは一旦、状況を整理してみよう。
稽古から帰って来て、進一がまだ起床していない事に気づいた妖夢は、朝食作りの前にシャワーを浴びようと思い立った。ごくごく普通にシャワーを浴び、汗を流し終えた彼女は浴室から外に出てバスタオルで身体を拭き始める。その直後、進一がここ脱衣所兼洗面所に入って来た。
いや、ちょっと待って。なんで進一がここに? 妖夢がシャワーを浴びている間に起床していたのだろうか。
いやいや、そんな事はどうでもいい。それより何より、もっと大きな問題点が一つ。
図らずも、妖夢は進一と対面している。
どんな格好で? バスタオル一枚で。
「……い、」
「待て妖夢、これは故意では……」
「いやああああああ!?」
「ごふっ!?」
反射的に、手が出ていた。
***
静かな朝食だった。
東から昇った太陽が、分厚い雲に隠れながらも必死に主張を繰り返す中。いつもより少し薄暗い食卓に並ぶのは、栄養バランスが考えられた食事の数々。外の世界の道具や設備にもすっかり慣れ、食事を作る効率もだいぶ改善された今日この頃。妖夢が腕に縒りを掛けて作った朝食である。
本来なら幸福感を覚えるはずの食事時だが、しかし今日ばかりはそんなものに浸る余裕はない。何とも言えないような気まずい雰囲気が、周囲に漂っていた。
妖夢の向かい側に座るのは、ただ無言で食事を口に運ぶ進一。あからさまに妖夢から視線を逸らす彼の右頬は、林檎みたいに真っ赤に腫れ上がってしまっている。反射的に繰り出した妖夢渾身の平手打ちは、無防備だった彼をぶっ飛ばすのに十分過ぎる威力を誇っていた。パンッ! というあの乾いた音は、家中に響き渡ってひょっとしたら近所にまで届いていたかも知れない。
「あ、あの、すいません……。つい、反射で手を出してしまって……」
「……へっ? い、いや……、俺の方こそすまん。そう言えば、あの時間にシャワー借りるかもとかなんとかって言ってたもんな……。不注意だった」
「そ、そんな、手を出したのは私で……」
「いや、それを言ったら俺だって、あれだ。言い訳なんてせずにすぐ出て行けば良かったんだ。ただ、ちょっと気が動転しちまって……。だが、安心しろ。俺は断じて何も見てないから」
――気まずい。互いに自分を非難しあって、収拾がつかなくなりつつある。
今回のあれは、言わば事故だったのだ。起床した進一が顔を洗いに来るタイミングと、シャワーを浴び終えた妖夢が浴室から出るタイミングが、たまたま重なっただけなのである。妖夢の事前告知を忘れていた進一も進一だし、だからと言って手を出した妖夢も妖夢なのだ。どっちもどっちで、おあいこだろう。
「頬、大丈夫ですか……?」
「ん、あぁ……ほっときゃその内治るだろ。結構強烈な一撃だったが」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、だから妖夢が謝るなって。世間一般から見れば、こういうのは見ちまった男の方が悪いらしいし」
「……やっぱり見たんですか?」
「え? あ……。い、いやっ! だ、大丈夫だ。ちゃんとタオルで隠れてたしな」
「…………」
そういう問題じゃない。
「い、いやぁ……、それにしても今日の飯も旨いなー。やっぱ妖夢の作る料理は格別だなぁ、はははっ」
赤面して箸を止めた妖夢を前にして、流石の進一もしどろもどろだ。冷や汗を流しながらも、彼は露骨に話題を逸らそうとする。却って気まずくなっているが。
進一の乾いた笑い声を最後に、食卓には再び静寂――否、沈黙が訪れる事となる。響くのは箸と食器がかちゃかちゃとぶつかる音のみで、二人の間に会話はない。ただ黙々と、朝食を食べ進める。
(こ、これは……)
流石にまずいと、妖夢は思う。これでは折角の朝食が台無しである。
何とかしなきゃとは思うのだけれど、さりとてどうすればいい? 仮に妖夢から話題を振ってもまたあらぬ方向に行ってしまいそうだし、だからと言って沈黙のままでは状況は一向に変わらない。例え進一の方から話題を振ってきてくれたとしても、おそらく結果は同じだろう。
第三者の存在をこれほど渇望した時はない。もしここに中立の立場である他の誰かがいてくれたのなら、どんなに希望を持てるだろう。無い物ねだりなどをしても意味はないと、分かってはいるのだが。
結局何も切り出せぬまま、妖夢の沈黙は続く。進一の方も何かを言いかけては引っ込めてを繰り返し、言葉を紡ぎ出せずにいるようだ。
妙に張り詰めた雰囲気が漂い、息が詰まりそうな静寂が変わらず辺りを支配する。時間経過に比例して気まずい雰囲気は強くなり、いよいよ居た堪れなくなってきた。
しかし。そんな居心地の悪い静寂に、唐突にピリオドが打たれる事になる。
「……お」
進一のポケットの中から、くぐもった音が鳴り響いた。ぶーぶー、と耳につくこの音は、この一週間の内に妖夢もどこかで聞いた事がある。
そうだ。確か、スマートフォン。あれの振動音だったはずだ。外の世界の住民の殆んどが所持している端末で、それを用いれば遠く離れた人とも瞬時にコミュニケーションが取れるらしい。便利な機械があったものだ。
そのスマートフォンがバイブしているという事は、誰かから着信が入ったという事だろう。箸の動きを止めた進一はポケットの中に手を突っ込み、しつこく振動する携帯端末を取り出す。ディスプレイへと視線を落とした。
「……蓮子から電話だ」
電話をかけてきたのは蓮子らしい。あの居た堪れない雰囲気の中で、間接的とは言え渇望した第三者の登場である。救世主かと思った。
「もしもし? ……ああ。どうしたんだよ、こんな朝早くから」
妖夢の前で蓮子との通話を始める進一。あの静寂と比べると、幾分か居心地が良くなった。
何だろう、今物凄く蓮子に謝礼を贈りたい。取り敢えず「蓮子さんグッジョブ!」と、心の中で称える事にした。
そんな妖夢の心境など露知らず。進一達の通話が続く。
「それで? ……ああ。……、なに?」
進一の声のトーンが、突然低くなった。
先ほどまでのしどろもどろはどこへやら。蓮子の何らかの話題に反応した彼は、食い入るように通話に集中する。つい今までの居た堪れない空気とは打って変わり、糸を張ったような緊張感が周囲に漂い始めた。
(進一さん……?)
何があったのだろう。流石に妖夢も呑気な事を考えてはいられない。弾かれるように顔を上げると、緊迫した面持ちで通話を続ける進一の姿が目に入る。
「……そうか。分かった」
やがて通話が終わり、進一はおもむろにスマートフォンをポケットに仕舞う。何やら考え込むような素振りを一瞬だけ見せるが、程なくして彼は妖夢へと視線を向けた。困惑感が拭いされぬような表情を浮かべつつも、進一は開口。
「博麗神社が見つかったらしい」
***
博麗神社は幻想郷の東の端に位置している。
幻想郷と外界との接触を制限する役割を担っている結界、『博麗大結界』と綿密に関わっているその神社は、幻想郷の中でも特に重要な建物である。――つい最近、どこぞの天人により倒壊させられた事もあったが。
それはさておき。博麗大結界の管理は、その神社を運営する博麗の巫女が代々行っている。その為、実質上幻想郷を牛耳っているのは博麗の巫女とも言えるだろう。本人に自覚があるかどうかは別として。
ただ、立地条件の悪さ等の理由から、神社は年中閑古鳥が鳴いているようだ。ついでに神社の運営をしているはずの巫女が真面目にその役割を真っ当しておらず、それが参拝客の減少に拍車を掛けているらしい。しかも彼女は、神社にどんな神が祀られているのかという事とすらも知らないなどと言い出す始末。巫女でありながら神道や仏教に殆んど興味がない上に飽きっぽい性分の彼女は、明らかに神社の運営には向いていないと思う。
そんな重要施設ながらも年中無休で素寒貧な博麗神社が建てられている場所は、正確に言えば幻想郷ではない。博麗大結界の境目、つまり幻想郷と外の世界との境界線上だ。結界を跨いで建てられているが故に、博麗神社は幻想郷の中枢でありながら外の世界からも認識する事ができるのである。
ただし。幻想郷の博麗神社と外の世界の博麗神社は、全くの別物と考えた方がいい。何せ外の世界の博麗神社は、寂れた小さな無人の神社。人が訪れる事も殆んどなく、地図にすら載っていない。博麗大結界が張られてた当初から放置されているその神社は、最早神社としての役割を完全に放棄していた。
しかし。そんな寂れた神社でも、幻想郷への重要な手がかりである事に変わりない。博麗神社を見つける事ができれば、それはつまり幻想郷の大まかな位置を把握できたのである事とほぼ同値だ。――見つける事ができればの話だが。
地図にも載っていないような寂れ果てた神社を見つけるなど、砂漠で針を探すようなものだ。あまりにも現実的ではない。数少ない秘封倶楽部のメンバーだけでは、神社を発見するのはほぼ不可能であるかに思われた。
そのはずだったのだが。
「ふふふ……地道な情報収集を初めて苦節一週間……。ようやく秘封倶楽部らしい活動ができるわね!」
そう言う蓮子の目の下には、うっすらとクマが確認できる。何でも、今日はちょっと寝不足らしい。調べ物に没入する内に、ついつい夜ふかししてしまったようだ。
「蓮子。張り切るのは良いのだけれど、だからと言って無理に睡眠時間を削るのはダメよ? お肌にも良くないし……」
「無理じゃないわメリー! この程度楽勝よ楽勝!」
「楽勝って……」
蓮子のテンションがいつになくハイである。それは寝不足の所為なのか、それとも博麗神社が見つかった所為なのか。
進一が蓮子との通話を終えてから数時間。妖夢を含む秘封倶楽部の一行は、都内某所のとある喫茶店に集まっていた。
秘封倶楽部が集合場所によく利用する喫茶店である。和と洋を上手く融和させたような内装が印象的で、シックで落ち着いた雰囲気が心に安らぎをもたらしてくれる。昼前のこの時間は客足もまばらで、店内は比較的静寂の方が強かった。お陰で一人ハイになっている蓮子がよく目立つ。
因みに、だが。今の妖夢は、楼観剣と白楼剣を竹刀袋に入れて持ち運んでいる。刀を二本、しかもかなりの長刀である楼観剣をも入れるとなると結構なサイズの竹刀袋になるのだが、ともあれこれで怪しまれる事なく剣を持ち歩く事が出来る。傍から見れば、今の妖夢はただ剣道好きな少女にしか見えないだろう。まぁ、中身を確認されたら一発でアウトな訳だが。
それは良いとして。
「あの、博麗神社が見つかったとの事ですが……」
「そう! そうなのよ! 正確に言えば博麗神社らしき場所なんだけど、信憑性は高いはずよ!」
周囲の視線を気にしつつも妖夢はおずおずと確認するが、最後まで言い終わる前に蓮子が飛びついてきた。他の客がチラチラとこちらに目を向けているような気がするのだが、蓮子はまるで気にしていない様子。大胆不敵と言うかなんと言うか。いつにも増して豪胆になっているような。
博麗神社が見つかった。蓮子は電話で進一にそう説明したらしいのだが、果たしてそれは確かな情報なのだろうか。たった一週間で博麗神社らしき場所を特定できるなど――。
しかし、蓮子をあまり侮ってはいけない。進一やメリーも言っていたが、冥界の写真の時のように彼女は意外ととんでもない情報をさらりと持ってきたりするらしい。今回もまた、その並々ならぬ行動力で情報を掻き集めたのだろう。
「それで? どうやってその場所を特定したんだ?」
「ふふーん、進一君ならそう聞いてくると思っていたわ! これを見なさい!」
そう言って蓮子が取り出したのは、一冊のノートだった。
一際目立つように付箋が貼られたページを見開くと、そこにあったのは一面に貼り付けられた新聞の切れ端の数々。成る程、どうやらこれはスクラップブックのようだ。貼られている新聞はどれも古い物ばかりらしく、所々日焼けや何かのシミのようなものが確認できる。
古新聞独特の匂いが鼻をつつく中、妖夢はページに貼られている記事のとある共通点に気がついた。
「これ……。失踪だとか、行方不明者だとか……そう言った内容の記事ばかりですね」
「その通りよ妖夢ちゃん。これは何年か前に発生していたとある失踪事件の新聞記事をまとめたスクラップなの」
どうやら妖夢の予想通り、意図的にそのような記事をまとめた物らしい。記事のサイズはバラバラだが、どれも一様に「行方不明」だとか「失踪」などという単語が目立つ。特に目に入るのは最も大きなサイズの記事で、事件現場等の事細かな情報が詰め込まれているようだ。
「……この記事と博麗神社にどんな関係があるんだよ?」
「まだ分からない? 妖夢ちゃんから聞いた話だと、博麗神社は幻想郷とこっちの世界の境目に建てられているのよね? その性質上、博麗神社周辺にはこっちの世界の道具類や、時には人間が迷い込んでしまう事があるって」
「……つまり、その記事の失踪事件の被害者は皆、博麗神社から幻想郷に迷い込んでしまったと? でもちょっと待ってくれよ。幻想郷は強力な結界に覆われているんだろ? そんなにホイホイと迷い込めるものなのか?」
進一の言う通りである。
そもそも博麗大結界は、幻想郷と外の世界との接触を明確に制限する為の結界だ。その効力は、人間や妖怪問わず精神、つまり心を持つ者に対して発揮される。意識を持たない道具類ならともかく、普通の人間ではそれこそ昏睡状態にでも陥って意識を失わない限り、そう簡単には迷い込めないはずなのである。
――結界が完全であるならば。
「まさか、大結界異変ですか……!?」
「そう! 前に妖夢ちゃんが教えてくれたよね?」
「なんだそれ? 俺は聞いてないぞ」
「あー、そう言えばあの時は進一君いなかったわね」
博麗大結界は、六十年に一度のサイクルで緩む事が知られている。それこそが『大結界異変』。外の世界との境界がより希薄になる事により、幻想郷でも小さな異変が幾つも発生するのである。
幻想郷でそうなのだから、おそらく外の世界にも影響は現れるだろう。幻想郷に迷い込んでしまうような外来人が、その時に限って増加してしまってもおかしくはない。
「そんな異変があるのか」
「はい。実は、つい何年か前に二回目の大結界異変があったばかりでして……」
「……つい何年か前? でもそうなるとこの新聞古すぎない? まだ首都が東京だった頃の年代じゃない」
怪訝そうな表情を浮かべて割って入ったのはメリーだった。どうにも納得いかない様子で、彼女はページに貼り付けられた新聞を今一度隈無く確認している。確かに彼女の言う通り、この新聞はかなり古い物のようだが。
そんなメリーの言葉を聞き、蓮子も難しい表情を浮かべる。
「そうなのよ……。確かに、そこは気になる所なのよねぇ……」
「でしょう? 仮にこの新聞が一回目の大結界異変の時の物だとしても、ちょっと前にも同じ異変があったのならば、その時にもこっちの世界に影響が出るはずでしょ? でも不自然な失踪だとか、行方不明だとか……。ここ数年でそんな話は聞いた事がないわ」
不審感が拭い去れぬような様子で、メリーはそう説明する。そう言われれば、確かに妙ではある。
妖夢の記憶が正しければ、最近起きた大結界異変の際には幻想郷各地で小さな異変が発生していたはずである。あれらは確かに、緩んだ博麗大結界の影響を受けて発生した異変だったはず。それならば、外の世界にも何らかの影響が及んでもおかしくないのだが。しかしメリー曰く、ここ最近の内にはそれほど奇妙な事件は起きなかったとの事。
何か要因があるのだろうか。そんな思案を妖夢が始めた頃、進一がおもむろに開口した。
「……いや、六十年に一度の周期で結界が緩むってのが分かってて、その上での二回目の異変だったんだろ? それこそ博麗の巫女とか妖怪の賢者とやらが、何らかの対策を講じたんじゃないか? そのお陰でこっちの世界への影響が少なかったとか……。妖夢は何か知らないのか?」
「えっと……すいません、そこまでは……。ただ……博麗の巫女は、普通の異変と同様に処理しようとしていたみたいですが……」
六十年周期の大結界異変にて生じる数々の小さな異変は、放っておいてもやがて解決するものばかりだ。しかし博麗の巫女はその事を知らず、普通に異変解決に向かってしまったようなのである。つまり、彼女は大結界異変の知識をあまり多くは有していなかったのだ。少なくとも対策を講じたのは彼女ではない。
それならば、妖怪の賢者が?
(いや、それにしたって……)
何だろう、この感じ。なぜだか、とてつもない違和感を覚えるような気がする。まるで進一達と妖夢の話が、どこか決定的に噛み合っていないような。何か、大きな矛盾が存在するかのような。そんな心地。
違和感、不安感、焦燥感。それらが混ざり合ったかのような奇妙な感覚が、妖夢の胸中にしつこくまとわりついて離れない。はっきり言って、気持ち悪い。これは、一体――?
「まぁ、その辺を考えるのは後にしましょ。つまり何が言いたいのかというと、大結界異変の際に失踪者が集中している場所に博麗神社がある可能性が高いって事よ。私はこの新聞記事から、その場所を特定したわ」
張り詰め始めた雰囲気を打ち砕くかのように、声量を大きくした蓮子がスクラップを片手に説明を続けた。考え込んでいた他の三人が一斉に顔を上げる。
「相変わらず蓮子は呑気だな」
「冷静沈着って言って欲しいわね。いつまでもどんよりと考え込んでても仕方ないでしょ? 取り敢えずこの場所に行ってみようよ。皆が感じている違和感の答えが見つかるかも知れないし」
「……まぁ、そうだな」
蓮子の言う通り、ここでいつまでも考え込んでいても答えは見つかりそうにない。言ってしまえば時間の無駄である。とにかく、今は蓮子の言う“博麗神社らしき場所”に行ってみるのが得策だろう。幻想郷に帰る事ができずとも、何か手がかりが見つかる可能性もある。
「よし! そうと決まれば善は急げね! 適当に昼食を済まして、その後すぐに出発よ!」
胸中の違和感は未だに拭い去れないが、その正体も博麗神社に辿り着ければ何か分かるのだろうか。
相変わらずの蓮子を眺めながらも、妖夢は一人気味の悪いモヤモヤを感じ続けていた。
***
都内で昼食を済ませた後、秘封倶楽部の一行は京都郊外のとある雑木林へと足を運んでいた。
進一の家も都心から離れているらしいのだが、この雑木林はそこから更に離れた地域に位置している。人でごった返している都心とは対照的に、人の気配も感じられないその雑木林は、不気味な程に静まり返っていた。
中途半端に整備された林道に、鬱蒼と生い茂る木々。成る程、確かに妖怪でも出てきそうな雰囲気だ。どことなく幻想郷の博麗神社付近に似ているとも言えなくはない。
「ここに博麗神社が……?」
「多分だけどね。記事によると、この辺りで行方不明者が出ていたみたいだけど……」
妖夢がぼそりと呟くと、スクラップブックに視線を落としながらも蓮子がそう答えた。
喧騒とは無縁な、荒涼で森閑としたその雑木林は、迷い込んだ者を掴んで離さぬような奇怪さを漂わせている。博麗神社がなくとも、下手に足を踏み込めば最悪遭難してしまうのではないだろうか。
「それにしても、まさか博麗神社らしき場所とやらが京都にあったとはな」
「京都は日本随一の霊都だからね。幻想郷みたいな場所があっても不思議じゃないわ」
所謂、灯台下暗しというやつだろう。確かによく考えてみれば、妖夢が迷い込んだのは紛れもなく京都なのだから、その帰り道が京都にあっても何ら不思議ではない。
「さて。幻想郷の結界を暴くよりも先に、まずは博麗神社を見つけないとね。それじゃ、早速……」
「ちょっと待って蓮子。本当にこの雑木林に入るつもりなの?」
水を差すかのようにメリーが不安げな声を上げた。
蓮子は既にやる気満々なようだが、メリーにはどこか少し抵抗がある様子。完全に否定している訳ではないものの、二の足を踏んでいるようだった。
「どうしたのよメリー。急におどおどしちゃって」
「いや、おどおどって……。不用意に入っちゃって大丈夫なのかって聞いてるのよ。万が一遭難でもしたら……」
「大丈夫よ。私って方向感覚はかなり良いし。メリーも知っているでしょ?」
どうやらメリーは不用意に雑木林に足を踏み入れた際の危険性を心配しているらしい。何せ過去に失踪事件が多発している雑木林だ。彼女が不安感を覚えてしまうのも無理はない。
しかし。蓮子がそのような危険性を考慮して、尻込みする訳がなかった。
「ほらほら、ここまで来て何もせずに帰るなんて出来る訳ないでしょ。行くわよメリー!」
「きゃっ……! ちょ、ちょっと引っ張らないでよ蓮子!」
「進一君と妖夢ちゃんも! 遅れずについて来てよね?」
「貴方は本当に人の話を聞かないわよね……」
メリーの手を引き、蓮子はずいずいと雑木林に足を踏み入れて行く。メリーはそんな蓮子を諭すのを早くも諦めたようで、溜息混じりに身を任せていた。
「……蓮子の奴、本当に躊躇ないな」
「私達も行きましょう。本当に遭難してしまったら大変ですし……」
「ああ。そうだな」
進一と共に、妖夢も蓮子達の後に続く。
外から見てもそうだったが、その雑木林はかなり荒れ果てているようだった。もう長い間人の手が加えられていないようで、背の高い雑草が好き放題に生えっぱなしである。歩道なのか獣道なのかも判別できない道を辛うじて進む事が出来るものの、ちょっとでも気を抜くと足を取られてしまいそうだ。更には幾ら進んでも周囲の風景に変化が殆んどなく、方向感覚が狂いそうになる。どことなく幻想郷の迷いの竹林を彷彿とさせる感覚である。
とは言え、今更引き返す訳にはいかないだろう。せめて何らかの手がかりだけでも掴みたい。
「本当にこっちであってるんでしょうか?」
「さあ?」
「いや、さあって……」
なんとも呑気な蓮子の様子に若干気押されながらも、妖夢達はただひたむきに雑木林を突き進む。しかし幾ら歩いても、一向に周囲の風景は変わらない。その癖足元は徐々に険しくなってゆき、かなり歩きづらくなってきた。雑草が足に絡みつき、石に躓き、転びそうになったのは最早一度や二度ではない。
「もう結構歩いたと思うのだけど……、神社らしき物は一向に見えてこないわね」
「本当にこんな所に神社なんてあるのか? 人が通った形跡すら殆んどないんだが……」
「まだよ。まだ諦めるのは早いわ」
メリーと進一が訝しげに声を漏らすが、二人を励ますように蓮子が言葉を紡ぐ。
進一達の気持ちも分かる。ここまで殺風景な雰囲気がいつまでも続いていると、流石にそろそろ精神的なダメージを感じてくる。せめて上空から捜索できれば、まだ神社を見つけられる可能性も増えると思うのだが。
こんな時に空が飛べれば――などと妖夢は思うのだが、そんな事を強請っても仕様がない。半霊が見つからない以上、空を飛ぶ事は一旦諦めた方がいい。地道に歩いて行くしかないだろう。
「なんだか薄暗くなってきましたね……。もうどのくらい時間が経ったんでしょうか?」
「今日は天候がかなり悪いみたいだからね。分厚い雲がかかってるから、その分いつもより薄暗く……、ん? ちょっと待って」
先頭を歩いていた蓮子が、突然歩みを止めた。彼女のすぐ後ろを歩いていたメリーがぶつかりそうになるが、ギリギリの所で何とか踏みとどまる。「急に止まらないでよ」とメリーは蓮子に物申すが、どうやら彼女には届いていない様子だった。茫然自失としている蓮子は周囲の音が殆んど耳に入って来ていないようで、ただぼんやりとどこか一点を見据えている。
「ちょっと蓮子、聞いてる?」
「ねぇ、あれ。あれを見てみてよ」
「……えっ?」
痺れを切らしたメリーが蓮子の肩を叩くと、何やら気分が高揚し始めている様子で蓮子が前方を指さす。どうやら何かを見つけたらしい。三人の視線が、一斉に蓮子が示す先へと集中する。
「あれは……」
背の高い雑草と、雑木が生い茂るその先に。木造の建造物のような物が見えた。
妖夢達は思わず息を呑む。
「な、なんですか、あれ……。こんな所に、建物が……?」
「マジかよ……。まさか本当に……?」
「行ってみましょ!」
蓮子に先導され、一行は雑草を掻き分けつつも建造物を目指す。服が汚れる事も厭わずに突き進むと、少し開けた場所へと出た。
不思議な空間だった。
先ほどまで背の高い雑草が生い茂っていたはずだが、その周囲だけは不自然な程に綺麗さっぱり開けている。まるで、草木の方からそこを避けているかのような。見えない壁に拒まれているかのような。そんな様子。
そんな空間の丁度中心部分。そこに、
「これは……社か?」
進一がぼそりと呟く。彼の言う通り、そこにあったのは小さな社だった。
石を積み上げた土台の上に建てられている社で、その大きさは土台を含めても進一よりも頭一つ分程大きいくらいだ。中に人が入れるようなサイズではなく、おそらくただ神か何かを祀る為だけに建てられた物なのだろう。
とは言うものの、本当に神を祀っているのか怪しい所だ。お供物のような物は見当たらないし、人が訪れた形跡もない。木造であるが故に所々腐りかけているようで、風でも吹けば吹き飛ばされてしまうのではないかと心配になる程にみすぼらしい。進一が怪訝そうな表情を浮かべてしまうのも、仕方がないと言える。
「……なぁ、妖夢。流石にこれが博麗神社じゃ……ない、よな?」
「少なくとも、幻想郷の博麗神社はここまで小さくないですよ……。でも……」
先にも述べた通り、幻想郷の博麗神社と外の世界の博麗神社は殆んど別物である。直接見た事はなかったが、外の世界の博麗神社は寂れた小さな無人の神社であると聞いた事があった。あったのだが――。
「……いや、どう頑張っても神社には見えないだろこれ」
「ですよね……」
流石にこれが外の世界の博麗神社だと言うのは無理がある。一応お賽銭箱らしき物は確認出来るものの、鳥居も無ければ手水舎もなく、社に鈴もない。確かに寂れ果てているが、幾ら何でも限度があるだろう。
「でも社が発見できただけでもかなりの収穫よ。これで一つはっきりしたわ。少なくとも、この辺で何らかの神様を祀っていた事は確かね」
「そう言われれば、確かにそうだが……。どうだ、メリー? お前の眼には何か映ってないか?」
「えっと、ちょっと待ってね」
メリーは一歩前に出て、社の周囲をまじまじと注視する。
ここに博麗大結界があるのならば、メリーの眼にはその境界が映るはずである。そうなれば、蓮子が集めた情報はより確かなものになるだろう。幻想郷への大きな一歩を、踏み出す事ができるようになる。
果たしてメリーの眼には、何が映るのか。それとも、何も映らないのだろうか。
最低限の瞬きのみで、メリーはただじっと社を見つめ続ける。
それから、1分程経った頃だろうか。
「これって……」
社から目を離さぬまま、何か腑に落ちぬような口調でメリーがぼそりと呟いた。
「どうした? 何か見えたのか?」
「いや、その……。見えない、とは言い切れないけれど、だからと言って見えた訳じゃないって言うか……。なんて言うか……」
「えっと……、つまりどういう事だ?」
「……ごめんなさい。私にもよく分からないのよ……」
メリーから返ってきたのは、釈然としない回答だった。
どうやら彼女自信、自分が感じた事のない感覚を前にして困惑を隠せないらしい。説明しようとするものの、そもそも自分でも良く理解できていないのだから、その感覚を人に伝える事など出来る訳がない。
「あの……。それはつまり、メリーさんの能力が上手く発揮できてないって事ですか……?」
「うーん……、そうとも言えるのかも知れないわ」
見えないとは言い切れないけれど、だからと言って見えた訳ではない。それはつまり、微かだが境界の存在を認識できるものの、それを視覚する事が出来ないという事なのだろうか。
となれば妖夢の推測通り、メリーの能力が十分に発揮出来ていない事となる。
「メリーの能力が上手く発揮できていない、ね……。メリーの能力を阻害する何らかの要因がここにあるのか、それとも結界が特殊なものなのか。考えられる原因はこの辺かな」
「私の能力を、阻害……?」
「あくまで推測だけどね。それもこの社を調べれば、何か分かるかも知れないわ」
そう言うと蓮子は社へと歩み寄り、何の躊躇いもなく賽銭箱へと手を伸ばす。バキッと嫌な音を立てながらも、強引に蓋を開けてしまった。
「流石にお賽銭は入っていないみたいね」
「おい、蓮子。今のお前、賽銭泥棒をしているようにしか見えないぞ……」
「ふふん。結界を暴く為には、時には大胆な行動も必要なのよ?」
なぜ得意気なのだろうか。
蓮子の暴論はともかく、多少罰当たりでも今はこの社を調べさせて貰うしかない。幻想郷への手がかりは、今やこの社しかないのだ。せめて糸口だけでも掴みたい。
「……お? これは……」
そんな中、蓮子は社から何かを見つけたようだった。
「何かあったんですか?」
「うん。この奥に……よっとっ」
社の中へと手を突っ込み、蓮子は何かを引っ張り出す。引き抜かれた彼女の右手が掴んでいた物は、
「これは……?」
「……御札、かな?」
古い御札だった。
形状こそ長方形を保っているものの、所々虫食いのようなものが確認出来るそれは、しわくちゃでかなりボロボロだ。真っ赤な和紙に黒い文字で何かが書かれているようだが、札自体がボロボロな上に文字があまりにも達筆過ぎて、最早解読不能である。仮に読めたとしても、神道等にはあまり詳しくない妖夢では何の御札なのか判別できなかったかも知れないが。
そんな御札を蓮子の後ろから覗き見ながらも、メリーは首を傾げる。
「見た事ない御札ね。どんな効力があるのかしら?」
「うーん、流石にボロボロ過ぎて判別できないわね……」
片眼で凝視してみたり、日の光にかざしてみたりするものの、結局蓮子でも判別できない様子。この手の類には詳しそうな蓮子であるが、流石にここまでボロボロだと判別できないらしい。
それにしても、これは一体何の御札なのだろう。社の中にあったという事は、魔除けか何かだろうか。何であれ、ここまでボロボロになってしまっては既に効力が薄れているように思えるけれども。
そんな中で、
「蓮子でも何の札か分からないのか」
「でも幻想郷への重要な手がかりに成り得る可能性があるわ。今度、もう一度よく調べて……」
進一も加わり、四人で相談を始めた頃だった。
「ん……?」
ポツリと、何やら冷たい物が妖夢の頬にぶつかった。どうやら、空から何かが降ってきたようだ。この冷たい寒気の中でもはっきりと分かる程に、肌に突き刺さるような冷気を纏う液体。
嫌な予感を覚えながらも、妖夢はおもむろに空を仰ぐ。空を覆い尽くす分厚い雲。そこから雨水が落ち始めていた。
「雨……ですね」
「あぁ……遂に降って来たか」
今朝からしつこく日の光を遮り続けたあの雨雲も、遂には重力に逆らえなくなったらしい。初めは気にならない程度だったが、時間が経過するに連れて雨足も強くなってきた。
タイミング的には最悪である。生憎傘は持っていないし、雨宿りできそうな場所もこの辺りにはない。流石にあの社を雨宿りに利用するのは無理だろう。サイズが小さ過ぎる。
「仕方ないわね。今日は一旦ここまでにして、早いところ帰りましょ」
強くなった雨足を身に受けたメリーが、真っ先にそう提案した。
最もな提案である。このまま雨が強くなったら探索はますます難航するだろうし、そもそも気温が低いこんな日に雨水でずぶ濡れになってしまったら、風邪をひいてしまう可能性もある。社の位置も分かった事だし、探索は日を改めた方が良いだろう。
「むぅ……、良い所だったのになぁ……」
「雨が降ってきちゃったんだから仕方ないわよ。それに蓮子、貴方今日は寝不足なんでしょ? あんまり無理しちゃダメよ」
物足りなさそうに唸る蓮子を、メリーが諭そうとする。流石の蓮子もこの降雨の中での探索は難しいと判断したようで、意外とすんなりメリーの提案を呑んだ様子だった。腑に落ちぬような表情を浮かべてはいるが。
「それじゃ、また日を改めて調査続行って事で!」
「ああ。明日……は大学の講義が終わってからだな。ちょっと遅い時間になってしまうが」
「そうね。それまで妖夢ちゃんには待ってもらう事になっちゃうけど……」
「い、いえ、お気になさらず。皆さんの都合に合わせますよ」
申し訳無さそうな表情を浮かべるメリーを見て、妖夢は慌てて首を振る。協力してもらっている身の上で、我が儘なんて言える訳がなかった。
――いや。そうでなくとも、生真面目な彼女は進一達の都合に合わせようとするのだろうが。
「取り敢えず、早く帰らないとそろそろヤバくないか? 雨足がだいぶ強くなってきたし」
「そ、そうね……。それにしても、今朝の天気予報でこんなに強い雨が降るなんて言ってたかしら……?」
進一の言う通り、そろそろ本当に雨が強くなってきた。このままでは土砂降りになる可能性もある。そうなる前に、一刻も早く帰らなければ。
社から見つけた御札だけ持ち帰る事にして、一行はそれぞれ踵を返す。再び背の高い雑草地帯に足を踏み入れ、足早に雑木林からの脱出を試みようとして、
「――ッ!」
視線を感じた。
反射的に足を止め、妖夢は迅速に振り返る。そのまま楼観剣へと手をかけて、警戒心を研ぎ澄ませた。
息をするのも忘れそうになる程の集中力で、妖夢は周囲に目を配る。視界に入るのは、もう見飽きた雑木と雑草。そして、あの小さな社のみ。特に変わった所は見受けられない。
(……、あれ……?)
おかしい。確かに今、誰かの視線を感じたはずなのだ。進一でも、蓮子でも、勿論メリーでもない。もっと別の、誰かの視線。
だけれども、どうだろう。幾ら周囲を見渡して見ても、他の誰かなど何処にもいない。それどころか、生き物がいるような気配すら感じられない。鬱蒼とした雑木林は、相変わらずの静寂を保つのみである。
「……妖夢? 何やってるんだ?」
「……へっ? い、いえ……」
足を止めた進一に呼びかけられて、妖夢は竹刀袋から顔を出した楼観剣の鞘から手を離す。
いけない。幾らこんな雑木林とは言え、真剣を抜いてしまうのは流石にまずい。誰かに見られてしまったら、無用なトラブルを起こしかねないだろう。すぐに剣へと手を伸ばしてしまうこの癖は、矯正した方が良いかも知れない。
それよりも。
「あの……。今、誰かに見られてませんでしたか……?」
「……誰か?」
おずおずと、妖夢はそう尋ねてみる。進一は少し考えるような素振りを見せた後、
「いや、俺は気づかなかったが……」
「そう、ですか……」
やはり妖夢の気の所為なのだろうか。
確かに、少し神経質になり過ぎていたような気がする。何せ視界が悪い上に奇怪な雰囲気を漂わせている雑木林の中だ。誰かに見られているかも、などと思い込んでしまうのも無理はない。
「……すいません。私の勘違いだったみたいです」
「そ、そうか……?」
勘違い。そう、ただの勘違いだ。言ってしまえばビビり過ぎだろう。ここは冥界でも、幻想郷でもない。外の世界だ。いきなり妖怪のような存在に襲われるなんて事、ある訳がないじゃないか。
そう自分に言い聞かせ、妖夢は強引に納得する。これ以上、こんな事をいつまでも気にしていても仕方ない。それよりも、進一達の方が心配だ。この雨の中に、彼らを待たせてしまうのは心苦しい。今はとにかく、この雑木林から脱出すべきだ。
進一とのやり取りを最後に、妖夢も社を後にする。蓮子達とも合流して、再び雑草の中を突き進む。
だけれども、やっぱり。胸の奥に引っかかるような胡乱な違和感を、覚えずにはいられなかった。