「爆符『メガフレア』!」
激しい爆発が巻き起こり、周囲のキョンシー達は成す術なく吹っ飛ばされた。
突如として現れた黒い翼を持つ少女。彼女の左腕から発射された特大サイズの火球が、次々とキョンシーを飲み込んでゆく。お燐とは異なり極限まで火力に特化した攻撃のようだが、キョンシー達が相手の場合その相性は抜群だ。幾ら自己再生能力が高いキョンシーと言えど、これ程までの攻撃を受ければひとたまりもないだろう。
今までの苦戦が嘘であったかのように、あっという間にキョンシー達は蹴散らされてゆく。そのあまりにも圧倒的な火力を前にして、流石の蓮子も愕然とする事しかできなかった。
「ちょ、ちょっとお空! もっと加減しないと……!」
「でもあいつら再生するんでしょ? だったら手加減なんていらないじゃん!」
「そ、それはそうだけど……」
彼女、確か霊烏路空などと名乗っていたと思うのだが――。『お空』というのは、愛称か何かなのだろうか。
まぁ、それはそれとして。お空なる少女の介入により、最悪だった状況は一気に好転である。蓮子達の周囲を取り囲んでいたキョンシー達はその大半が機能を停止しており、再び立ち上がって襲い掛かってくるような気配もない。時間が経てば復活する可能性は残されているとは言え、取り合えずは安心しても大丈夫だろう。
「す、凄い……。何なんでしょう、あの子……」
「さ、さぁ……。少なくとも人間ではないと思うけど……」
夢美でも見当がつかないらしい。背中に生える一対の翼を目の当たりにすれば、少なくとも人外であるという判断は容易なのだけれども。
黒い翼を持つ鳥類といえば真っ先に鴉が思い浮かぶが、果たして――。
「よーし! こんなもんかな」
キョンシーを粗方無力化すると、汗を拭うような仕草をしつつもお空はそう口にする。けれどあれ程の妖力をバンバン放っていたのにも関わらず、彼女に息切れは殆ど見られなかった。
底が見えない妖力と、圧倒的な高火力。この少女、只者ではない事は確かであろう。まさかお燐の知り合いに、こんな人物がいたとは。
(でも……)
それより何より、今は色々と気になる事が多すぎる。
「やった! 流石お空! キョンシー相手でも楽勝だね!」
「えへへー、ありがとうございます!」
お空なる人物に関してもそうだが、彼女の傍にいるあの幼い少女。その容姿と彼女に対するお燐の反応から考えて、おそらくあの子が古明地こいしで間違いないのだろう。
そもそもお燐とこいしが知り合い通しであった事にも驚きだが、一番の問題はそこじゃない。
「あの子、どうして……」
岡崎夢美の反応である。
色々と隠し事をしていたお燐はともかく、少なくとも夢美までもが以前よりこいしとの接点を持っていたとは考えにくいが――。にも関わらず、彼女のこの反応。そして先程のお燐とのやり取り。
そこから導き出される推測は。
「教授。こいしちゃんの事、何か知ってるんですか……?」
「知ってる、って程じゃないけど……」
何とも歯切れの悪い反応。それでも彼女は、説明してくれる。
「あの子……一、二週間くらい前から行方不明だったらしいのよ。それでお燐が行方を追っていたみたいなのよね」
「行方不明? それって……」
「うーん……。私の見立てだと、敵の手に落ちていたと思ってたんだけど……」
敵の手に落ちる。つまりこの騒動を引き起こした犯人に、拉致監禁でもされていたという事なのだろうか。
拉致監禁。その言葉を脳裏に浮かべると、嫌でも思い出してしまう。
今から二週間ほど前の出来事。宇佐見蓮子が目撃してしまった、あのやり取り。
『流石にちょろちょろとされるのも鬱陶しかったからな。これでよかったんだろ?』
北白河ちゆり。あの時の彼女は、スマートフォンで誰かと連絡を取り合っているようだった。
ぐったりと倒れこんだ、一人の幼い少女を前にして――。
(まさか、あの時の女の子が……!)
古明地こいし、だったのだろうか。
蓮子は再びこいしへと視線を向けてみる。確かにそうであったような気がするし、そうでなかったような気もしてくる。あの時は気が動転してしまっていて、倒れていた女の子の特徴を完全に把握する事が出来ていなかった。記憶の中は靄がかかったみたいにぼんやりしていて、確実にそうであるとは言い切れないのだけれども。
けれども時期は合う。それなら、本当に――。
(だ、だとしたら……)
夢美は知っているのだろうか。信頼している自らの助手が、あんな事をしていたという事実を。何か大きな隠し事をしているという、裏切りにも似た行為を。
「きょ、教授……」
「……ん? なに?」
聞かなければならない。北白河ちゆりの事を。そして彼女が知らないのなら、蓮子は教えなければならない。
でも。
怖い。
蓮子だって信じられないのだ。まさかあのちゆりが、あんな事をしていただなんて。ひょっとして、蓮子の勘違いだったのではないか。見間違いだったのではないのかと、そんな可能性が頭の中でぐるぐると回っていて。
そして。仮にそれが真実なのだとすれば。
自分達の今の関係が、完全に決壊してしまうのではないのかと。そんな事ばかりを考えていて。
「そ、その……。教授は……」
だから言えない。言いたくても、踏ん切りをつける事ができない。
進一達にも言ってない。東京旅行の間、言える機会は幾らでもあったはずなのに。それでも蓮子は言わなかった。空元気ばかりを、進一達に見せつけてきた。
でも。だからと言って、こんな事をいつまでも続ける訳にはいかない。あまりにも理不尽な非常事態。今は少しでも多くの情報を共有すべきであろう?
だから言わなければならない。それは分かっている。分かっているはずなのに。
「教授、は……」
でも――言えない。
「お燐!?」
少女の声。それが流れ込んできた事で、蓮子の思考は半ば強制的に打ち切られた。
反射的に顔を上げる。
声の主は古明地こいしだ。ぐったりと片膝をついてしまったお燐の身を案じるように、彼女は不安気な表情を浮かべていて。
「蓮子。悪いけど話は後よ」
「は、はい……」
話を切り上げ、夢美はお燐の元へと駆け寄って行った。
蓮子は下唇を噛み締める。やっぱり言えなかった。結局また、自分は抱え込むという選択をしてしまったのだ。
隠し事。こんな非常事態なのにも関わらず、いつまでもそんな事をし続けるなんて。
(ダメだよ、そんなの……)
***
ぐったりとした面持ちで、お燐は激しく息を切らしていた。
ずっしりと伸し掛かるような疲労感。身体中の至る所から響く鋭い痛みも相まって、上手く身体に力が入らなくなってしまう。未だあの自爆特攻のダメージが大きく響いているようだ。流石に無理をし過ぎたか。
そんなお燐の様子を目の当たりにして、慌てて駆け寄ってきた夢美が顔を覗き込んできた。
「ちょ、ちょっとお燐! 大丈夫……?」
「う、うん……平気だよ。ちょっと安心したら、気が抜けちゃっただけだから……」
声をかけてきた夢美に対し、ニッと笑みを浮かべながらもお燐はそう呼応する。身体中はズタズタでボロボロだが、この程度じゃ死ぬような事はないだろう。おもむろに身体を持ち上げて、お燐は立ち上がる。
「動いちゃダメよ! そんな身体で……」
「だ、大丈夫だって! 火車だってれっきとした妖怪なんだよ?」
「そ、そうかも知れないけど……。ん?」
取り合えず夢美を落ち着かせる為、お燐はそう声をかける。――が、次の瞬間。夢美の様子が一変した。
間の抜けた表情。まるでお燐の言っている事が分からないと、そう言いたげな面持ちである。
「……お、お燐? 今、何て言った……?」
「え? 何って……?」
「火車、って言わなかった……?」
「えっ……い、言ったけど……」
なぜそんな確認をしてくるのだろう。疑問に思いながらも、お燐は一応正直に答えておく。
腕を組みつつも、夢美は鹿爪らしい表情を浮かべる。「火車、火車ね……」とぼそぼそと呟きつつも、夢美は何やら頭の中で情報の整理をしている様子だった。
うんうんと頷く。けれどもすぐに真顔になる。それから急にわなわなと震え始めたかと思うと、彼女は一息。
「……ええ!? あなた火車だったの!?」
「今更ッ!?」
思わず下手な漫才みたいにズッコケそうになってしまった。
このお姉さん、まさか今の今までお燐の正体に気付いていなかったとでもいうのだろうか。今まで散々目の前でスペルカードを使ったり、猫の姿に変身したりしていたのにも関わらず。いや、そもそも彼女はもっと早いタイミングでお燐の正体に気付いていて、その上で今回こうして協力してくれたのではなかったのか。
それなのに、まさか――。
「い、いや、冗談だよね……?」
「こ、こんな時にそんな冗談なんか言ってどうするのよ!?」
「え、えぇ……? だ、だってほら、弾幕使ったり、猫の姿に変身してたりしたじゃん……?」
「そ、それは……。てっきり、あなたも疑似的に魔法を再現していたのだとばかり……」
なぜそんな結論に至るんだ。というか、さっき妖怪だと言ったばかりではないか。まさか聞いてなかったのだろうか。
このお姉さん、本当に馬鹿なのか天才なのかよく分からない人物である。クリスマスの時もそうだったが、相も変わらず思考回路が斜め上過ぎる。
「え? なになに? お燐、魔法が使えるようになったの!?」
「い、いや、なってないからね?」
しかもこの地獄鴉まで乗ってくる始末。因みに彼女の場合、本当にお馬鹿なだけである。
まぁ、何はともあれ。お空こと霊烏路空の介入により、事態が一気に好転した事は確かである。既に大半のキョンシーは無力化され、陣形は完全に崩壊。問題だった宮古芳香も今は大人しくなっており、再び暴れ出しそうな気配もない。流石にお空の『メガフレア』が相手では自己修復も間に合わなかったらしく、今は完全に休息状態に入っているようだ。ぐったりと倒れこんでいるその様は、まるで深い眠りにでも落ちてしまったかのようである。
そう。お燐達は生き残ったのだ。誰一人として生命が奪われるような事もなく、彼女らはキョンシー達に打ち勝つ事が出来たのである。
「……でも、今回ばかりはお空のお陰で助かったよ。ありがと」
「ふっふっふ、そうでしょ? もっと褒めてくれてもいいんだよー? 寧ろ褒め殺すくらいの勢いでもドーンと来いだよ!」
――すぐに調子に乗る所がたまにキズだが、彼女の力は本物である。八咫烏をその身に宿した事により、その力は地獄鴉のそれを大きく超えてしまっている。
しかし、それ故にお燐はお空を幻想郷に置いてきたのだ。あまりにも強大な力を有している上にお調子者、ついでに容姿にそぐわずかなり子供っぽい性格している為に、彼女をこちらの世界に連れてきてしまっては色々と混乱を招く恐れがあった。こいしの事は自分に任せろと、そう告げてお燐は幻想郷を後にしたはずなのに。
なぜ彼女はこのタイミングでこちらの世界に足を運んだのだ? しかも敵に誘拐されたとばかり思っていた、古明地こいしまでも引き連れて――。
「あの、こいし様。こいし様はこの二週間どこに行ってたんですか? あたいはてっきり、拉致監禁でもされていたのかと……」
「う、うん……。多分、お燐の想像通り。私はあいつらに捕まって……ずっと、病院の地下の部屋に閉じ込められてて……」
「えっ……そ、それじゃあ……!」
「でもお空が助けてくれたんだ。だから私は、ここにいる」
成る程。おおよそお燐の想像通りではある。
けれども妙だ。こいしが捕まり、妖夢の行方も分からなくなってしまって。その上でお燐はキョンシー達に襲われて、絶体絶命のピンチに陥る。その矢先、抜群のタイミングでお空は介入してきた。
――いや。あまりにも抜群
それに。
「ねぇお空。お空はどうやってこいし様の所まで辿り着けたの? あそこ、強力な結界が張られていたと思うんだけど……」
「どうやってって……」
古明地こいしが監禁されていたあの病院の周囲には、論理的な結界が張られていたはずである。物理的な結界ならばお空の超火力で突破する事も出来るかも知れないが、結界が論理的ならば話は別だ。
論理的な結界に物理的なゴリ押しは通用しない。だからといって、お世辞でも器用であるとは言えないお空では、正攻法で結界を突破できるとは考えにくい。だとすれば、誰かしら別に協力者がいたと考えるのが妥当であるが――。
「えっと……。こっちの世界に来てから少しして、人間の女の人が話しかけてきたんだ」
「人間の女の人……?」
「うん。その人がこいし様の所まで案内してくれたんだー。親切な人だったなぁ」
やはり協力者がいたのか。
しかし、人間の女の人とは――。お空の口振りから察するにこちらの世界の住民である可能性が高いが、だとすれば一体何者なのだろうか。
「お空。その女の人は、今どこにいるの?」
「うーん……。それがこいし様を助けた後、いつの間にかどこかに行っちゃったんだよね……。何だったんだろ?」
「ど、どこかに行っちゃったって……」
何なんだ、その話は。ますます謎は深まるばかりである。
「それで、その人の特徴は? 名前とか言ってなかった?」
「え? あー、そういえば名前言ってたような……」
お燐が尋ねると、何かを思い出したかのようにお空はポンッと手を叩いた。
その女性、自ら名乗っていたのか。だとすれば好都合である。まだ三、四ヶ月ほどしかこちらの世界に滞在していないお燐であるが、名前を聞けばその女性の手掛かりを掴む事だって出来るかも知れない。
京都全土を覆うこの奇妙な結界の中でも自由に行動し、更にはこいしの監禁場所まで把握していた女性。間違いなく只者ではない。彼女の正体とは、一体――。
「うーん、と……」
貴重な手掛かりを期待して、お空の返事を待っていたお燐だったが。
「名前はね……」
何やら頼りなさげな表情を浮かべるお空。そんな彼女の様子を目の当たりにして、お燐はそこはかとない不安感を覚え始めていた。
悲しいかな、こういった悪い予感は大抵の場合的中する。どうやらそれは今回も例外ではなかったらしい。
「忘れた!」
「……だよねー」
気持ち良いくらいに清々しい笑顔。その反面、全く悪びれる様子も見せず記憶の忘却を白状する親友を前にして、お燐は思わず脱力してしまった。
そうだ、そうだった。この少女は、こういう奴だったのだ。
お調子者で子供っぽく、その上あまりおつむがよろしくない。こと記憶力に関しては妖精にも匹敵する程で、酷い時は三歩歩けば直前に話していた内容すらも忘れてしまう事だってある。例えば八咫烏の力を手に入れた時だって、その身に宿る強大な力を実感して有頂天になっていた反面、その力を齎してくれた人物の事に関してはきれいさっぱり忘れてしまっていた。
そう、分かっていた。彼女の記憶力に関しては、親友であるお燐が一番よく分かっていたはずだ。彼女のおつむが色々と残念な事になっているなんて、別に今に始まった事じゃないだろう。
しかし。しかし、だ。極限まで緊迫したこの状況で、普段通りにそのお馬鹿っぷりが遺憾なく発揮されてしまうと。流石のお燐も、少々頭にきてしまう訳で。
「もうっ! どうしてそんな肝心な事さえも忘れちゃうのさ! お空の鳥頭!」
「うにゅ……!? わ、私は鳥頭じゃないよぉ! ただ、ちょーっと覚えるのが苦手なだけで……」
「そういうのを鳥頭って言うんだよ! というかちょっとどころの騒ぎじゃないでしょ!? そもそもお空は鴉なんだから、鳥頭じゃない訳ないじゃん!」
「そ、それは……! 言われてみれば、確かに……。でも……!」
「ちょ、ちょっと二人ともストップ! 喧嘩はダメだよ!」
割って入ってきたのはこいしだった。
ヒートアップしたお燐達が言い争いを始めそうになった矢先、そんな彼女達を宥めるかのようにこいしが口を挟んでくる。そんな彼女の姿を見てお空は頭が冷えたようで、素直に引き下がっていた。
お燐もまた、深呼吸を一つ挟んで気持ちを落ち着かせる。
「まぁ……忘れちゃったんなら仕方ないよね……」
そもそもお空の記憶力に関しては、あまり当てにできないだろう。主であるさとりやその妹であるこいし、そして親友であるお燐の事などといった最重要事項は決して忘れない反面、それ以外の要素に関しては彼女の記憶に残らないらしい。ついさっき会ったばかりの女性の事なんて、記憶に残っている方が現実的ではないというものだ。
故にある程度の諦めも必要なのである。
お空にだって悪気はない。本当は、とても素直で真面目ないい子なのだ。ただ、ちょっと記憶力に問題があるだけで。
「あのー、ちょっといいかしら?」
そんな中。半ば蚊帳の外に追いやられていた岡崎夢美が、おずおずと口を挟んでくる。
目まぐるしく移り変わってゆく状況。流石の夢美も多少なりとも動揺しているようで、いつものような自信ありげな表情は少しばかり薄れていた。
それでも彼女は、何とか話題を元の路線に戻そうとする。
「私としても色々と聞きたい事があるんだけれど……今は取り合えず進一達と合流しない? キョンシー達がもう襲ってこないとは限らないんだし……」
「……うん。それもそうだね」
確かに、彼女の意見にも一理ある。お空の『メガフレア』は高威力であるが、それでもあまり無駄打ちさせる訳にはいかない。高威力であるが故にこちらの世界の建造物等にも大きな被害を与えてしまうだろうし、それならなるべく打たない事に越した事はないだろう。
再びキョンシー達の襲われる前に進一達と再会し、何とか打開策を見つけなければ。
「お姉さん誰? お燐の知り合い?」
「まぁそんな所ね。私の名前は岡崎夢美。魔法を研究する物理学者よ!」
「……ぶつりがくしゃ?」
首を傾げるお空。どうやら『物理学者』という単語の意味が理解できていない様子。まぁ、正直お燐だってイマイチ理解出来ていないのだ。お空には少し難しすぎるであろう。
そんな彼女達のやり取りを横目で見ていたお燐だったが――。
「岡崎、夢美……」
「……こいし様? 何か言いました?」
ボソリとこいしが何かを呟く。上手く聞き取れなかったお燐がそんな確認を投げかけてみるが、当のこいしは首を横に振ってしまって。
「ううん。何でもない」
「……? そうですか……」
何か思い悩んでいるようにも見えたが、気の所為だったのだろうか。多少気になったお燐であったが、こいしの表情はいつの間にか元通りである。彼女が何でもないというのなら、今は無理に踏み込む必要はないのだろう。
それよりも、今心配すべきなのは魂魄妖夢の安否である。未だ行方の分からないこの時代の彼女もそうだが、過去から連れて来られた子供の妖夢だって今はどうなっているのだろうか。進一達も、助けに行ったっ切り連絡がないようだが――。
「妖夢達、大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。きっと」
お燐の呟きに応じるように、声が流れ込んでくる。その主は蓮子だった。
光も殆ど見えぬ暗中に立たされているかのようなこの状況。けれども彼女は諦めていない。離れ離れになり、安否さえも分からない状況に立たされても尚。ブレスレットを握り締めた彼女は、確かな希望を抱き続けている面持ちで。
「秘封倶楽部は不滅よ。この程度で壊れたりなんてしないわ」
「蓮子……」
彼女は信じ切っているのだ。秘封倶楽部のリーダーとしてだけでなく、友人の一人として。妖夢を、進一を、そしてメリーを。彼女は、信じている。
だから希望を捨てたりしない。例え不安感に押し潰されそうになったとしても、それでも希望を忘れない。どんな形になろうとも、彼女は秘封倶楽部を信じ続ける。
そう。これが彼女達の絆の形だ。どんな困難が直面しようとも、簡単に折れたりなんかしない。秘封倶楽部の繋がりは、そう簡単には千切れない。
四人全員が、互いを信じているから。だから不安には思わない。だから心配なんてしない。
宇佐見蓮子は、秘封倶楽部の繋がりを認識している。
希望を抱く理由は、それだけで十分だった。
(繋がり、か……)
だったら。火焔猫燐もまた、信じない訳にはいかないだろう。
お燐だって妖夢の友人だ。彼女の事に関しては、それなりに理解しているつもりである。あの少女が、友人を置いて一人で死ぬと思うか? 大切な人達からの信頼を、裏切るなんてすると思うか?
――断じて否。彼女は決して裏切らない。信じる心がある限り、彼女は何度だって立ち上がる。
だから。
お燐も妖夢を、信じている。
***
激しい烈風が渦を巻いていた。強大な閃光が、辺り一面を包み込んでいた。
進一達の想いを受け取り、再び立ち上がった少女。けれども彼女の身体は既に限界だった。激しい剣の打ち合いを経て、半霊なしで『迷津慈航斬』などという剣術をやってのけて。あまりにも身体に負担をかけ過ぎたのだ。例えこのタイミングで迷いを断ち切る事が出来たのだとしても、肉体的に限界寸前だったのである。
故に、少女の剣は届かなかった。女性剣士を捉えるまでには至らず、遂には限界が到来して。身体の自由が利かなくなり、そのまま倒れこんだのだ。
後は放っておいても事切れる。そのはずだった。
そう。そのはず
それなのに。
「なん、だと……!?」
何だ。何だんだ、これは。
確かに限界だったはず。立ち上がる力なんて、もう残されていなかったはずだ。なのにどうして終わらない? どうしてこんなにも力が溢れ出てくる?
どうして。
「言ったはずです」
この少女は。
「あなたを超えてみせる、と」
三度も立ち上がる事が出来るのだ。
妖夢は激しく動揺する。目の前にいるこの少女は、本当に過去の自分なのだろうか。分からない。全くもって、分からない。
心は折れたはずなのに。力も使い果たしてしまったはずなのに。これ以上立ち上がるなんて、有り得ないはずなのに。
それでも彼女は立ち上がった。限界さえも、振り払って。
「だから私は、立ち上がる」
「……っ!」
殺気。それを瞬時に感じた妖夢は、反射的にその場から飛び退く。“何か”が妖夢の前方すれすれを素早く通過し、少女の傍らへと舞い戻った。
白。白い、霊魂。彼女の傍らに漂うそれは、紛れもなく。
「半、霊……?」
半霊。半人半霊が持つ最も大きな特徴。霍青娥の呪いにより、失われてしまった少女の半身。それが今、彼女の傍らに寄り添っていた。
妖夢は息を呑む。まさか彼女の半霊が復活したのか? このタイミングで? いや、しかし。
(あの子は、もう……!)
死を待つしかなかったはずだ。幾ら決意を固めたとしても、それを実行するだけの力なんて残されていなかったはずだろう。
なのに、どうして。
半霊が復活したという事は、霍青娥の呪いに打ち勝ったという事。けれどあまりにも妙だ。このタイミングで
だって。彼女は間違いなく限界だったはずだろう? それなのに、どうして。
「これが妖夢の覚悟だ」
「えっ……?」
声をかけてきたのは進一だった。
妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまう。振り向くと、まるで彼は最初からこうなる事が分かっていたかのような面持ちで。
「確かにあいつは真面目過ぎて、時には余計に思い悩んじまう事だってあるのかも知れない。でもあいつは、それでも意外と頑固な一面だって持ってるんだ」
「……っ」
「誰かを守りたい。誰かの力になりたい。一度決める事が出来れば、あいつはその為に必死になる事が出来る。何度だって立ち上がれる。限界だって、超えられる」
「誰かの、為……」
「……あんたなら、分かるんじゃないか?」
そう、そうだ。それが魂魄妖夢の行動原理。初めからそうだったじゃないか。
妖夢は半人半霊だ。半分人間で、半分幽霊。中途半端な半人前。けれどそれ故に、人以上に誰かへと寄り添う事が出来る。“半分”だからこそ、誰かの為を思えるだけの空白が存在する。
妖夢は一人では強くなれない。しかし守るべき対象、そして寄せられる想いをはっきりと認識したその瞬間。彼女は時に、どんなイレギュラーだってやってのける。
(……それが私の、覚悟)
この力。これは彼女だけの力ではない。立ち上がる事が出来るだけの力を、彼女はどこかから借りてきている。
それならどこから持ってきた? 霊力とは違う。もっと、感情的な何か。
誰かを守りたい。誰かの想いに答えたい。そんな強すぎる彼女自身の想い。膨れ上がったその“想い”を“力”に変換したのだとすれば、考えられる要因は一つだけ。
「まさか……!」
妖夢は反射的に空を見上げる。真っ先に目に飛び込んできたのは――満月。
月。眩しいくらいに地表を照らす、春の満月だ。しかし月光が照らすのは、地表やそこにいる住民だけではない。
人の内面。心の在り様。その奥底で抱き続けている想い。それを敢えて呼称するとすれば。
「狂気……」
覚えがある。妖夢は一度、同じ状態に陥った事がある。
けれど
――いや。あの時の経験があったからこそ、だろうか。それ故に、彼女はこの答えに辿り着く事が出来た。自ら求める事が出来たのかも知れない。
今度は自発的。人を狂わせる月の力を自らの意思で借り、増幅したその想いを力に変えた。立ち上がるだけの大きな力を、彼女はその身に齎す事ができた。
鋭すぎる感受性。それを持っているからこそ得る事が出来た力。それを持っている彼女にしか、後天的に得る事ができない力。半人半霊としてはあまりにも異質な、魂魄妖夢の特異性。
その力は――。
「狂気の瞳……!」
立ち上がった少女と目が合う。深紅色に染まった少女の瞳が、こちらを捉えて離さない。その瞳の奥底から感じ取れるのは――大きく膨れ上がった少女の想い。
本当に。本当に彼女は、想いを力に変えたというのか。狂気の月の力を借りて、半霊を取り戻すまでに到ったというのだろうか。まさかそれ程までに大きな想いが、彼女の中に渦巻いていただなんて。
一体、彼女のどこにこれ程までの想いが――。
(いや……)
想いなら、とっくの昔に抱いていたじゃないか。
(恋、なの……?)
西行寺幽々子への忠誠心だけではない。岡崎進一へと寄せる恋心。それが彼女の背中を押し、大きく突き動かしている。
つい先程まで、枷にしかなっていなかったのに。迷いを生み出す要因にしかなっていなかったというのに。けれど今は違う。迷いを断ち切った今の彼女は、恋という想いを胸にこうして立ち上がった。
進一の想いに、答えたい。
そんな彼女の“想い”が、大きな力を齎したのだ。
恋は心を弱くするだけの要素ではない。迷いを生み出す原因などではない。きっかけだ。何かを成し遂げる理由。それを見つける為のきっかけと成り得る要素なのだ。
故に彼女は立ち上がった。立ち上がるだけの大きな想いを、抱く事ができた。
(これが……)
愛の力、なのだろうか。
「行って! 妖夢ちゃん!」
声を張り上げたのはメリーだった。
狂気の瞳が開眼し、半霊を取り戻し、再び立ち上がるだけの力を得て。そんな彼女の背中を、もう一度後押しするかのように。
「貴方が信じる想いの為に!」
マエリベリー・ハーンは、言葉を紡ぐ。
「貴方の剣を振るうのよ!」
少女が剣を振り上げた。
しかし先程のような力弱さは微塵も感じられない。確かに身体はボロボロで、ちょっとでも気を抜けば簡単に倒れてしまう程のダメージだって負っているのかも知れない。しかし、それでも彼女は立っている。立って剣を振り上げている。
そしてその想いを、貫き通そうとしている。
「私は、信じる。進一さん達が信じてくれた私の想いを、私自身も信じる……!」
狂気の瞳により膨れ上がる霊力。逆巻く烈風。先程とは比べ物にならぬ程のこの膨大な霊力は、復活した半霊によるものだけではないのだろう。
狂気の瞳。それにより変換された彼女の“想い”は、最早この時代における本来の住民である妖夢のそれを遥かに凌駕している。
「それが、私の……!」
閃光。周囲に漂う霊力が、次々と彼女に収束してゆく。月の狂気さえもその身に宿し、爆発的な力を有して。
そして少女は、駆け抜ける。
「ラストワードだ!!」
『待宵反射衛星斬』。
少女渾身の剣術――ラストワードが、女性剣士へと迫る。胸に抱いたその“想い”と、“想い”を貫き通そうとする覚悟。それを肌で感じ取って、胸の奥まで響き渡って。
彼女は。魂魄妖夢は、実感する。
(あぁ、そうか)
これが、今の自分に欠けていたものか。
最早剣も振り上げず、無駄な抵抗をする素振りも見せず。
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
***
真っ白な空間だった。
上も、下も、右も、左も。全てが真っ白な空間に、妖夢は漂っていた。
(ここは……)
一体、何が起きたのだろう。ただ彼女は、進一達の想いを無駄にはしたくなくて。一度倒れた身体に鞭を打ち、無我夢中で立ち上がって。膨れ上がる霊力をその身に纏い、女性剣士に斬りかかった。
そう、そうだ。霊力だ。あの時自分は、確かに霊力を纏っていた。無理矢理『迷津慈航斬』を放った時とは違う。幻想郷にいた頃と同等、或いはそれ以上の霊力が、身体の底から膨れ上がって。
「あっ……」
懐かしい感覚。ふと視線を向けると、そこには確かに自らの半霊が存在した。
妖夢は掌へと視線を落とす。握って、開いて、そしてまた握ってみる。確かに感じる、霊力の循環。そして彼女は、一つの事実を実感する。
半霊が帰ってきた。自らが持つ本来の力を、取り戻す事ができたのだ。
「……お見事です」
「えっ……?」
聞き覚えのある声。振り向くと、そこには一人の女性の姿があった。
白い空間。淡い光が周囲に漂っているのか、この位置からでは女性の姿をはっきりと視認する事が出来ない。それでも彼女が先程まで戦っていた女性剣士であると気づくのにあまり時間を要さなかったのには、視覚以外の感覚的な原因でもあるのだろうか。
奇妙な感覚。女性剣士と出会った当初から抱き続けているこの感覚は、今も尚ますます強くなっていて。
「まさか、再びその力を手にする事になるとは」
しかしそんな妖夢の困惑も余所に、女性剣士は一方的に続ける。
妖夢は思わずオウム返しした。
「その力……?」
「ええ。その『眼』です」
「眼……?」
そっと、妖夢は自らの頬を指で触れる。確かに、いつもと違う感覚がそこにはあった。
この『眼』。この力。生まれて初めての体験――という訳ではない。あれは確か、永夜異変。あの時も、似たような感覚に陥った事が。
「無意識だったんですね。まぁ、あの土壇場では無理もないでしょう」
「……っ」
力が溢れ出るような感覚。そして周囲からまた別の力が集まってくるような感覚。
身体中がムズムズする。見えるはずのないものが、その『眼』に映し出されているような。そんな感覚。
(そうだ、私は……)
ラストワード、『待宵反射衛星斬』。狂気の月の力を借りて、相手を斬り崩す妖夢の極意。
狂気の瞳が、開眼したのだ。永遠亭の薬師により、一度は抑え込まれた『眼』。強大な満月の見過ぎにより、偶発的に得てしまった後天的な能力。けれども今回は偶発的などではない。妖夢は確かに、意図的に手を伸ばしていた。
進一達が信じてくれた、自身の想いを守る為に。もう一度立ち上がる事が出来るだけの力が欲しいと、そう強く望んで。
「やれやれ……。まったく、とんだイレギュラーですよ。いや、まぁ、失念してたのは私なんですけど」
女性剣士は肩を窄める。
イレギュラー。不規則性。けれど失念していただけという事は、彼女の中にはこの可能性を推測できる根拠が存在していたというのだろうか。ただ、彼女自身が意識を傾けていなかっただけで。
「……あなたは、随分と私に詳しいみたいですね」
「……ええ。貴方の事はよく知ってますよ。他の誰よりも、ね」
けれど女性は、すぐに首を横に振る。
「いや……知っているつもりだった、と言った方が正しいですか。知り尽くしているのだと、私は勝手に思い込んでいた」
そして女性剣士は、バツが悪そうに視線を逸らした。
「結局の所、私は何も見えてなかったんです。自暴自棄……ヤケクソになっていて。でもその癖に冷静さを装っていた。あくまで自分は状況をしっかりと把握していて、その上で最前となる行動を取る事ができるのだと。勝手にそう思い込んでいた」
フッと、彼女は笑う。それは明らかな自嘲だった。
「滑稽ですよね。自分の事さえ思い違いしていた今の私に、偉そうな事を言える権利なんてない。私は誰かを信じたつもりになっていただけで、結局自分の事しか信じていなかったんです。だからこうして、一人で突っ走った」
「…………」
妖夢はただ、何も言わずに彼女の話を聞いていた。
それはあくまで女性剣士の内面の話だ。けれど何故だか、他人の事とは思えない。聞き流してはいけないと、直観的に感じ取れる。
この感覚。これはまるで――。
一つの“可能性”を、目の当たりにしているかのような。
「だから私は恋を否定した。自分の事しか信じられていないから、他人に想いを寄せるという行為そのものが理解できなかった。それにどんな意味があるのかなんて、ちょっと考えればすぐに分かるはずなのに」
女性剣士は、本質的には独りだった。たった独りで、これまで戦い続けていた。
彼女の周りにだって、彼女を信じてくれる仲間はいたはずだろう。けれども彼女は、その想いを受け止め切る事ができなかった。その想いを、本当の意味で信じる事ができていなかった。
自分一人の責任だ。だから自分一人で何とかしなければならないと、そんな間違った使命感を抱いてしまって。
「でも、貴方は違う」
女性剣士は顔を上げる。そしてしっかりと妖夢と向き合った上で、彼女は言った。
「貴方は想いを理解している。想いを信じ、そして受け止める事が出来ている。恋を経て、愛を見つけて。そしてその繋がりを、信じている」
彼女の言葉には重みがある。その言葉一つ一つが、妖夢の心の奥底まで響く。
「私の負けです。今の貴方は、私にないものを持っている。私が忘れてしまったものを、今も尚持ち続けている」
ずっと抱き続けてきたこの感覚。彼女と出会った当初は、その剣筋から祖父の事を彷彿させていたけれど。しかし実際は違う。
彼女は――。
「反魂と死。あの時の私は、ただそれを見届ける事しかできなかった」
女性剣士は背を向ける。そして俯き、消え入るようにそう告げる。けれどもすぐに顔を上げて、彼女は再び口を開いた。
「でも……貴方なら、或いは……」
女性剣士は振り向いた。
真っ白な空間。淡い光に照らされていても、それははっきりと認識できる。瑠璃色の彼女の瞳が、しっかりと妖夢を捉えていて。
「幽々子様を救いなさい」
白銀の髪を棚引かせ、彼女はその名を口にする。
「魂魄妖夢」
妖夢の瞳が揺れる。彼女の姿を認識して、心が大きく揺れ動いた。
ああ、そうか。そういう事だったのか。どうして彼女の剣筋が祖父に似ていたのか。どうして彼女が妖夢と同じ剣術を使えたのか。どうして彼女と対峙すると、こんなにも懐かしい気持ちが溢れ出てくるのか。
その理由は至極単純。けれども今まで、その可能性に目を向ける事ができなかった。東京旅行で一つの真実に辿り着く事ができた今だからこそ、こうして認識する事が出来るのだ。
「あなたは……」
彼女は。
三度笠を被っていた、この女性剣士は。
(未来の……)
そこまで考えた所で。
眩い光に包まれて、妖夢の意識は途切れた。