過去から連れてこられた魂魄妖夢には、霍青娥による“呪い”がかけられている。
それは肉体的にも、精神的にも直結する呪い。鋭い感受性と確かな剣術の才を持ち合わせていながらも、自らの本質と向き合うことが出来ない少女。そんな彼女の心の弱さを引き上げる為の鎖。半人前で、半端物な未熟者。そんな虚像を映し出す為の鏡。
視覚的に現れる効果は半霊の消失だ。依存していた霊力をその身から失う事で、少女は強く実感したはずである。自らの力の在り方。自らが本来持っているはずの、その実力を。
呪いを解く方法は至極単純。ただ
力だけに固執するだけでは駄目だ。ただ闇雲に自らを追い込み、例えそれで力を手に入れる事が出来たとしても。それはあくまで一時のまやかしに過ぎない。そんな間違った方向性で幾ら前に進もうとした所で、半人前からの脱却などいつまで経っても成し遂げられる訳がない。
重要なのはその根本。なぜ半人前からの脱却を目指しているのか。自分の為? 剣士としての矜持を守る為? いや、それだけじゃないだろう。
彼女は既に気づいているはずだ。自らが剣を振るう理由を。強さを求める自らの真意を。
故に、“呪い”の効力は既に意味を成さなくなっていてもおかしくはないはずなのだ。剣を振るう理由を見出し、強さを求める意味を理解した彼女なら。既に
けれど実際はどうだ。タイムパラドックスの相乗効果により多少なりとも実力を高める事は出来ていても、未だに半霊を取り戻すまでに到っていない。それが意味する事は即ち、彼女は未だに心を決め切れていないという事だ。
なぜ彼女が未だ“呪い”に打ち勝てていないのか。なぜ未だに心が大きく揺れ動いているのか。その理由は単純だけれど、それと同時に酷く複雑。
「弱い……」
二人の妖夢による剣術、断迷剣『迷津慈航斬』。ぶつかり合った斬撃は激しい閃光を放ち、あっという間に彼女達を飲み込んでいた。
一見するとその剣術は互角であるようにも思えた。子供の姿の魂魄妖夢も、半霊を失った身でありながらその霊力は絶大だった。振り下ろされた光の剣は大人の妖夢を包み込み、激しい閃光と共に食らいついてゆく。
けれど、そこまでだ。それ以上は届かない。届くわけがない。
舞い上がる砂埃。それが晴れた先に視認できるのは、瓦礫を背にして力なくへたりこむ一人の少女の姿だった。
互角なんかじゃない。拮抗すらもしていない。その実力差は歴然。あまりにも圧倒的。
圧倒的に、弱い。
「……弱すぎる」
誤算だった。クリスマスイブでの戦いの後、彼女は確かに心を決めたのだと思っていた。火焔猫燐との剣術鍛錬を経て、その“呪い”を乗り越える事ができたのだと。てっきりそう思い込んでいた。
でも。
「ごほっ、ごほっ……! かっ、は……!」
少女は咳き込み、文字通り血反吐を吐く。霊力の過剰消費による、所謂バックファイアーのような現象だ。自らの霊力すらも完全に制御する事が出来ず、逆に自らの身体を内側から蝕んでしまっている。
やはり彼女が半霊なしで霊力を扱うなど、あまりにも無茶で無謀な試みだったのだ。頭に血が昇っていたのなら尚更である。
そんな状態で、その剣がこちらに届くとでも思っていたのか?
未熟。あまりも未熟すぎる。
「くそっ……」
妖夢は思わず握り拳に力を入れる。
こんな。こんな事があってたまるか。岡崎進一というあの青年を守るべき対象だと認識すれば、彼女はより一層精進するはずだった。守るべき者があるから強くなれる。単純だが、彼女にとって最も有効的な行動原理。そもそも彼女が半人前脱却を強く渇望し始めた根本的な理由が、西行寺幽々子に対する守護欲だったのだ。
故に十全。いつの間にか見失っていた目標を再認識する事で、彼女は更に成長する。今の自分からは既に失われた、鋭い感受性。それを未だ持ち続けているあの頃の自分ならば、それで更なる高みに到達する事も夢ではないと。そういう算段であったはずなのに。
「それなのに……!」
まさか――。
「まさか……!
岡崎進一に対する恋心。それが唯一にして最大の誤算だった。
こちらの世界に放り出され、右も左も分からなかった妖夢。そんな彼女へと真っ先に手を差し出してくれたのが彼だった。
初対面である妖夢の言葉をしっかりと受け止めてくれて、しっかりとその状況を理解してくれて。その上で彼は、心の底から妖夢を助けようとしてくれていた。言わば彼は恩人。だからそんな彼に恩返しをしたい――。魂魄妖夢という少女ならば、そんな想いを抱く事は至極自然な思考であると。それは彼女も理解していた。
だってそうだろう? 彼女もまた、魂魄妖夢なのだから。あの子の考えている事なんて、誰よりも理解しているはずだった。
そう。理解しているはず
「恋……? 恋心……? 愛、だと……!?」
分からない。この気持ちは何だ? 西行寺幽々子のへの忠誠心とはまるで違う。あまりにも大きすぎる想い。彼女からはっきりと伝わってくる。けれどその全貌を理解する事が出来ない。
理屈ではない。もっと感情的な何か。あまりにも強大過ぎるこの想いの所為で、彼女の成長は阻害されている。新たに生まれてしまったこの大きな“迷い”の所為で、彼女は未だ“呪い”に打ち勝てずにいるのだ。
迷い。それは魂魄妖夢にとって最大の天敵。岡崎進一という拠り所を見つけた事で、彼女の中に存在した迷いは全て払拭できたのだと思っていたのに。
「ふざけるな……」
何が恋だ。何が愛だ。
「そんなもの、心を余計に弱くするだけだ」
――故に、不要。
「うっ……く、ぅ……」
呻き声。断迷剣同士の鍔迫り合いに敗北したのにも関わらず、少女の意識は残っていた。
流石にしぶとい。いや、既のところで躊躇したのはこちらの方か。
この期に及んで、未だに希望を捨てきれていないのだ。ひょっとしたら、まだ行けるのではないか。まだ可能性は残されているのではないか。まだ、立ち上がる事が出来るのではないか、と。
「どうします? まだ続けますか?」
見下しつつも、少女へとそう投げかける。
荒い呼吸。流れ落ちる鮮血。大きく肩を揺らしながらも、少女は顔を上げる。
「わた、し……」
今にも事切れてしまいそうな程、弱々しい声。顔を上げた少女の表情には、既に生気は失われていて。
「もう、いい……」
「なに……?」
「もう、いいんですよ……」
ぜえぜえと息を切らしながらも、少女は続ける。
「私は、結局……。迷いを、断ち切る事が出来なかったんです……」
「……っ」
「あなたの言う通りですよ……。板挟みになって、散々葛藤して……。でも結局、選べなかった……。踏ん切りを付ける事が、できなかった……」
光を失い、濁り切った少女の瞳。それをぼんやりと向けられて。
「やっぱり、私は半人前止まりなんです……。誰を守るべきなのかという葛藤以前に、私には……」
呻くように、少女は言葉を搾り出す。
「誰かを守る資格すら、ない」
「……っ!」
あぁ、そうか。結局、そうだったのか。
誤算なんてレベルじゃない。とんでもない買い被り。そもそもこの少女には、あまりにも荷が重すぎたのだ。
彼女はもっと強くなれる? 幻想郷を救う為の鍵? 馬鹿だ。大馬鹿者だ。そんな事、有り得る訳がないじゃないか。
どうして信じてしまったのだ。どうして希望を託そうなどと、そう思ってしまったのだ。
分かっていたはずじゃないか。自分の事など、自分が一番よく理解していたはずなのに。
「……あぁ、そうですか」
あくまで自らを卑下する。あくまで自分を信じない。
結局そんな思考に到るのだというのなら。
「……終わりですね、何もかも」
妖夢は剣を振り上げる。そして再び霊力を集中させる。
失敗だ。生きる事すら放棄した今の彼女に、希望など託せる訳がない。
(……青娥さん。どうやら貴方の目論みにも穴があったようですね)
ここでこの少女を殺したらどうなるのだろう。タイムパラドックスにより矛盾の修正が行われ、自分も死ぬのだろうか。あくまで同一人物として世界から定義されている以上、その可能性は高いと思われる。
いや、そもそもこの時代に到る前に子供の自分が死んでしまった場合、今この場にいる自分という存在に矛盾が生じてしまう。大きな矛盾だ。それを世界が見逃す訳がない。
それ故に、可能性ではなく確定事項。今、彼女は自分自身を殺そうとしている。
「まぁ、でも」
今となっては、そんな事などどうでもいい。潰えた希望にいつまでもしがみついていられる程、既に彼女は執念深くない。
「……どうでもいい」
そうだ。どうでもいい。最早魂魄妖夢という存在に価値などない。
(……ごめんなさい、幽々子様)
妖夢は剣を振り下ろす。生命の灯火を掻き消す為に、刃を確かに少女へと向けて。
剣を――。
「妖夢ッ!」
闖入者の出現により、それは唐突に阻まれた。
***
結局意思を貫き通す事ができなかった。結局何もできやしなかった。
激情に身を任せ、無我夢中に剣を振るって。でも結局、それも虚勢に過ぎなかったのだ。迷いを断ち切る事など、できやしなかったのだ。
弱い。自分は、あまりにも弱い。
何もできない。選択する事すらできない。幾ら決意を定めたつもりでも、毎回簡単に打ち砕かれる。毎回毎回、最後まで駆け抜ける事ができない。
いつもそうだ。いつも結局爪が甘くて、いつも結局中途半端。半人前で、中途半端な未熟者。あまりにも高すぎるその壁を、乗り越える事ができない。
できない、できない、できない。できない事が多すぎる。それじゃあ、自分は一体何ができるというのだ?
(もう、嫌だよ……)
既に身体は動かない。剣を握る気力さえも起きない。
どうでもいい。もう、何もかもがどうでもいい。何もできない今の自分に、何かを望む資格などない。自分勝手な葛藤など、抱く事すら烏滸がましい。
だから、もう――。
(幽々子様……)
仕えるべき主の姿と、
(進一さん……)
愛する彼の姿を、脳裏に思い浮かべて。
(ごめんなさい……)
彼女は、ゆっくりと目を――。
「妖夢ッ!」
――閉じようとする、その瞬間だった。
振り下ろされた女性剣士の剣。それが目と鼻の先で静止する。張り上げられたその“声”に反応して、思わず手を止めてしまったのだ。
聞き覚えのある声。胸の奥へとしっかり響く、暖かい気持ち。
妖夢はおもむろに視線を向ける。そこには確かに、彼の姿があって。
「進一、さん……?」
いや。彼だけではない。
「メリーさんも……?」
薄暗い大路。月明かりだけが照らす静かなその街中で、二人の姿を確かに認識する事ができた。
妖夢の脳裏を、一時の混乱が支配する。どうして彼らがこんな所に? キョンシー達に包囲されていたのではなかったのか? 突破できたのか? それじゃあ、他のみんなは?
様々な疑問が頭の中でぐるぐると回る。疲労困憊かつ満身創痍な今の彼女では、状況を認識するだけでも一苦労である。酷く鈍くなった頭の回転。全ての疑問を処理し切る事ができない。
しかし。ぼんやりとしていた妖夢の意識は、直後に響いた悲鳴によって一気に覚醒する事となる。
「きゃあ!?」
「な、なにっ……!?」
閃光。そして地を抉るような轟音。妖夢へと剣先を向けていたはずの三度笠の女性剣士が、突然進一達へと向けて剣気を放ったのである。
振り下ろされた彼女の剣。解き放たれた霊力の刃。それは生身の人間がまともに食らえば、ひとたまりもないような攻撃で。
「し、進一さん! メリーさん!!」
妖夢は声を張り上げる。
舞い上がる砂埃。しかし妖夢が想定した最悪の事態とは裏腹に、進一もメリーも大事には至っていない様子だった。
女性剣士の攻撃は、進一達を殺す為に放った一撃ではない。あれは言わば威嚇。
「邪魔しないで貰えますか?」
女性剣士の冷たい言葉が、進一達へと襲いかかる。
「どうやってキョンシーの包囲網から脱出したのかは知りませんが……まぁ、それはこの際どうでもいいでしょう。大方、この子を助けようなどと思って駆けつけたのでしょうけど、でも少し遅かったようですね」
「お、遅いだと……?」
「ご覧の通り、彼女は既に虫の息。しかも自ら生きる事を放棄したのです。私があと一太刀でも浴びせれば、この子は簡単に事切れるでしょう」
「ま、待って……。ちょっと、待ってよ……!」
震える声で一歩前に出たのはメリーだった。
信じられない、とでも言いたげな面持ち。まるで得体の知れぬ化物でも見据えているかのような瞳。それを女性剣士へと向けつつも、メリーは続ける。
「な、何……。何なの……。何なのよ、貴方は……! どうして、妖夢ちゃんを……!」
「……どうして?」
女性剣士は、首を傾げる。
「それを貴方に伝えてどうなるのです?」
「なっ……!?」
「言ったでしょう? 邪魔しないでくれ、と。先程の一撃を思い出して頂ければ分かると思いますが、私は少しばかり剣と霊力の扱いに長けてましてね。ここからでも貴方達に致命傷を負わせる事だって造作もないのですよ」
「…………っ!」
妖夢は息を飲む。
それはつまり、余計な事をすれば殺すとでも言うつもりなのだろうか。先程のような剣気を、今度は外さず命中させると。そんな脅しをメリー達に提示しているとでも言うのだろうか。
「や、止めて……!」
痛む身体に鞭を打ち、妖夢は無理矢理声を張り上げる。
「メリーさん達は関係ない……! あなたの狙いは私なんでしょう!? だったらあなたは、私だけを……!」
「黙れ」
威圧――。
「貴方の意見は聞いてない」
「な……」
圧倒的な威圧感。それが妖夢へと突き刺さり、喉まで出かけた彼女の言葉を無理矢理飲み込ませる。
一瞬だけ息が止まる。明確な恐怖心が妖夢の中を駆け抜け、彼女は思わず身を引いてしまった。
刃物のように鋭い凄み。今の彼女には情けも容赦も見当たらない。下手をすれば、本当にやりかねないのではないだろうか。
「……おい」
静かな声。女性剣士の脅しに屈せず、一歩前に出た進一がギロリと彼女を睨みつけている。
今の女性剣士はクリスマスイブの時とは違う。明確な敵意を持って妖夢達の前に現れている。進一だって、そんな彼女の威圧感はひしひしと感じているはずだ。
にも関わらず、彼は前に出た。そして敵意や威圧感など知ったこっちゃないと言わんばかりに、彼は口を開く。
「俺達の質問に答えろ。どうして妖夢の命を狙う?」
威圧。女性剣士の威圧感に対し、彼もまた強い威圧感でそれに対抗する。
先程の剣気を見て何も思わなかったはずがない。彼は生身の人間で、妖夢のように人外にも対抗する事ができるような戦闘能力を持っている訳でもなくて。それこそ女性剣士の攻撃を一撃でも受ければ簡単に死んでしまう程に、どうしようもなく普通の人間なのだけれども。
それでも彼は屈しない。恐怖心をしっかりと受け止めた上で、彼はこうして立ち向かう事を選んでいる。
「どうなんだ?」
再度の確認。剣を握った女性剣士の拳に力が入る。
苛立ち。ちっぽけな人間の癖に折れる事のない意志を持った、岡崎進一に対する苛立ちだ。ぎゅっと拳を握り締め、ギリッと歯軋りをする。どうしてこいつはこの状況でも屈しないんだ、と。そんな事を思っているに違いない。
沈黙。けれどそれも長くは続かない。
先に痺れを切らしたのは女性剣士の方だ。握り拳から力を抜き、強張っていた肩を落として。それから苛立ちを抑えるかのように大きく息を吐き出す。
「別に……」
三度笠を深く被り直し、おもむろに顔を持ち上げて。静かに彼女は答えを口にする。
「……ただの腹いせのようなものですよ」
***
こいつは一体何を言っているんだ? それが岡崎進一が抱く彼女への第一印象だった。
三度笠の女性剣士。クリスマスイブ、進一を誘拐した張本人の一人である。実に三ヶ月ぶりの再会という事になるが、その印象はあの時とは大きく変貌していた。
残忍。あまりにも残忍的だ。少なくとも、クリスマスイブのあの時は、悪意に対する拒絶感というか、躊躇いのようなものが感じられた。岡崎進一の誘拐という行為そのものに後ろめたさを感じ、それでもやむを得ずこの選択をせざるを得なかったのだと。そんな印象を多少なりとも感じる事ができたのに。
今回はどうだ? この女性、あの時とはまるで別人のように――。
(……焦ってる、のか?)
狼狽だ。この女性剣士は、何かに追われるかのように剣を振るっているように思える。
無論、剣に精通していない進一では、彼女の扱う剣術の本質など分かるはずがない。けれども、それでも胸中に抱く気持ちを何となく察する事くらいなら出来る。焦り。敢えて残忍な態度を取る事で、それを誤魔化そうとしているような。
「……腹いせか」
「ええ。腹いせです」
「嘘だな」
「えっ……?」
きっぱりと進一は言い捨てる。女性剣士は面食らっている様子だったが、それでも構わず彼は続けた。
「いや、厳密に言えば嘘は半分か。腹いせだけがあんたの真意じゃないはずだ。違うか?」
「…………」
息を詰まらせ、女性剣士は俯く。
分かりやすい反応だ。図星を突かれ、何も言い返せなくなっている。再び拳を握り締め、バツが悪そうに視線を逸らして。けれどもだんまりを決め込む訳でもなく。
「ムカムカするんですよ」
吐き捨てるように、彼女は言った。
「彼女だって剣士です。主を守るべき剣士は、常に強くあらなければならない。当然です。弱い剣士に誰かを守る事など出来やしないのですから」
それからちらりと妖夢を一瞥して、
「それはこの子だって重々承知しているはず。故に剣術鍛錬は片時も怠らなかった。自分は日々精進すべきだと、そんな思いを胸に剣を振るい続けている……はずだった」
歯軋り。苛立ちを募らせた女性剣士は、半ばヤケになっているかのような様子だった。
「でも、違う。主の為に剣を振るうべきであるはずなのに、この子の胸中には大きな迷いが生じてしまっている。抱いてしまった感情に振り回され、この子の成長は阻害されている」
ギロリと彼女に睨まれる。
突き刺さるような視線。鋭い感情。進一を苛立ちの捌け口にするかのように、彼女は口を開く。
「恋、だそうですよ」
そして、言い放つ。
「忠誠心とは違う。にも関わらず、それに匹敵……いや、それ以上に大きな感情です。特定の誰かに愛情を抱き、そして恋い慕う。理屈じゃ説明できないような感情ですね。友情……ともまた違う。似ているけれど、もっと大きくて……。もっと厄介だ」
女性剣士は更に苛立ち――いや、焦りを募らせているように思える。
魂魄妖夢と戦って、こうして一方的に彼女を下して。けれども、分からないのだ。
「恋とか、愛とか……。理解不能です。何なのですか、この感情は……」
困惑。それ故の苛立ち。訳の分からぬ感情を目の当たりにして、それが人の心を大きく揺さぶっていて。けれども、納得する事が出来ない。理解する事が、出来ていない。
「……あんたは、恋をした事がないのか?」
「ありませんね」
即答であった。
「確かにもう少し子供の頃は、人並みに興味を抱いた事もあったような気がします。けれども今思えばあまりにも無粋でした。そう……あまりにも無駄。あまりにも……下らない」
女性剣士は否定する。恋という感情を。愛という温もりを。
「愚の骨頂ですね。恋愛などに現を抜かし、肝心の剣術を蔑ろにする。恋などと言う下らない感情に振り回されて迷い苦しみ、そして立ち止まる。愛などという無駄な温もりを覚えてしまったが故に、自分が本来成すべき事を見失ってしまう」
分からないのだ。彼女は何も、分からない。それ故に、無駄に思えてしまう。
主を守るべき剣士は、常に強くあらなければならない。彼女の中で、それは絶対的な信条なのだろう。優先すべきは仕える主。そんな主を守るために剣術を研ぎ澄ませ、そして強くならなければならない。だからそんな成長を阻害する要素は、徹底的に排除すべきなのだ。
彼女はそう思い込んでいる。心を脆くし、強さを阻害する恋愛など抱く必要はないと。恋愛という感情の所為で、剣士本来の役割を見失う。それはあまりにも本末転倒で、愚の骨頂であると。彼女はそんな思いを
「下らない……。全くもって下らない……! 何が恋ですか、馬鹿馬鹿しい……!」
確かに、その考えも全てが間違っている訳ではないのかも知れない。特定の誰かに忠誠を誓い、生涯その誰かの為に剣を振るう。恋だの愛だのに意識を向けず、ただ純粋に剣士として主に仕え続ける。そんな生き方だって間違ってはいないのかも知れない。
「だが……」
果たして、それで彼女は――。
「ふざけないでッ!!」
声を張り上げたのはメリーだった。
あまりにも突発的な状況に立たされ、震える声を上げる事しかできなかったつい先程までのメリー。そんな彼女の姿は、今やどこにも見当たらない。
凄み。下手な事をすれば殺されるかも知れないだとか、そんな恐怖心など完全に捨て去って。
彼女は一歩前に出る。そして激情を露わにして、女性剣士に食らいつく。
「恋が下らない……? 愛なんて無駄……? 勝手な事を言わないで! 一体何様のつもりなのよ、貴方は!」
「な、なに……?」
女性剣士はたじろぎを露わにする。メリーの凄みに圧倒されているのだ。
マエリベリー・ハーンは大人しい性格の少女だ。けれどもそれ故に、一度感情が膨れ上がると簡単には収まらない。一度理不尽を目の当たりにすれば、彼女は徹底的に対抗する。
「貴方に妖夢ちゃんの何が分かるって言うのよ!? 恋も愛も知らない癖に、妖夢ちゃんの気持ちを否定するなんて許さない!」
マエリベリー・ハーンは止まらない。幾ら女性剣士がたじろごうとも、構わず彼女は続ける。
「人を好きになるって、そんなにいけない事なの……? 弱くなるから恋をしちゃいけないって言うの……!? それこそ愚の骨頂でしょ!?」
「あ、貴方……いい加減に……!」
「いい加減にするのはそっちよ! 迷いを生じるだとか何とかって、勝手な事ばっかり言って……! でも散々迷っているのは貴方の方じゃない!!」
「な、何、を……」
女性剣士は動揺する。この反応から察するに、多少なりとも自覚はあるという事か。
「貴方は恋愛を知らない。だからそんな感情を理解する事ができない。目の前に確かな恋心を抱く女の子が現れて、貴方はこう思っているはず。どうしてこの子はここまで必死になれるんだろう……。どうしてこの子は、ここまで思い悩む事ができるんだろう……ってね」
「そ、それは……」
「そこまで苛立っている事が良い証拠よ……。口ではあれこれ御託を並べている癖に、心の中はぐっちゃぐちゃ……!」
「ち、違う! 私は……!」
「何が違うのよ!? 覚えた事のない感情を目の当たりにして、貴方は困惑しているだけじゃない! 正しいかどうかの判断もままならないまま、その困惑だけを押し殺そうと必死になって否定している! それが迷いじゃなかったら何だっていうの!?」
「…………ッ!」
女性剣士は絶句する。完全に言葉を失って、息を飲み込む事しかできなくなっていた。
大きな迷いが生じるから、恋や愛など不要である。そんな事を口にしていた女性剣士だが、それはあくまで自らに対する暗示のようなものに過ぎない。
恋愛の全否定。それは彼女の真意などではない。ただ彼女は、誤魔化したいだけなのである。得体の知れない困惑と、それに伴う焦燥感。まともな恋愛感情を抱いた事のない彼女だからこそ抱いてしまう、この大きな“迷い”を。
「腹いせ……。確かに的を射た表現ね。自分の価値観が音を立てて決壊しそうになったから、その根本的な原因を壊そうとしているんでしょう?」
頭に血が昇ったメリーが、次々と女性剣士の心の隙を突いてゆく。
あまりにも理不尽な女性剣士の行動原理。納得なんて出来る訳がない。だからメリーは、食らいつく。これ以上、彼女の勝手は許せない。
その思いは進一だって同じだ。あまりにも理不尽で、あまりにも不条理。その所為で妖夢が一方的に傷つけられるなんて、ふざけるのも大概にしろというものだ。
だけれども。
「そんな勝手は許さない……! これ以上妖夢ちゃんを傷つけるつもりなら、私が……!!」
「……メリー」
未だ興奮した様子のメリー。そんな彼女を制する為に、進一は優しく肩を叩く。
「進一、君……?」
「落ち着け、メリー」
熱が冷めた様子で、メリーは振り返る。
頭に血が昇り、喚き散らすように不平を述べていたメリー。そんな彼女とは対照的に、今の進一は至極冷静な面持ちだ。
「どうして……」
しかし熱が冷めたのは一瞬だけ。この理不尽な状況を前にしても尚落ち着いた進一の様子が、メリーには少々納得できなかったらしい。身体ごと振り返ると、彼女は再び気を高ぶらせて。
「どうしてそんなに落ち着いているの!? 妖夢ちゃんの気持ちが好き勝手に侮辱されているのよ!? それでも進一君は頭に来ないっていうの……? 何も思わないっていうの……!?」
「そんな訳ないだろ。ああ……頭に来てるさ。正直かなりムカついてる」
「だったら……!」
「でもだからと言って、俺がここでブチ切れるのもらしくないだろ?」
「えっ……?」
メリーがきょとんとした表情を浮かべている。
そうだ。らしくない。先程も、冷静さを事欠いてついムキになってしまったけれど――。あれだってらしくないじゃないか。
頭にきたから喚き散らす。納得できないから不平をぶちまける。はっきり言って、進一はそんなガラじゃなかったはずだ。
彼の役割は別にある。今、彼が成すべき事は――。
「メリー。お前が怒ってくれるから、俺は冷静になる事ができるんだ」
「進一君……」
「ありがとな。……後は任せろ」
それだけを言い残し、進一はメリーを下がらせる。それから一歩前に出て、妖夢達を再び見据えた。
改めて見ると酷い有様だ。妖夢の様子は、満身創痍で疲労困憊。最早剣を持つ力さえも残されていないように思える。まさに絶体絶命。
そして女性剣士。一見すると一方的に妖夢を下したかのように思えていたが、実はそうでもない。妖夢程ではないが、彼女の身体にも複数の切り傷が確認できる。決して一方的な蹂躙などではなく、それなりの接戦だったという事か。
(くそっ……)
胸が痛む。あんなにもボロボロな妖夢の姿を目の当たりにして、何も思わない訳がないじゃないか。
でも、駄目だ。ここで冷静さを事欠いてはいけない。激情のまま女性剣士に食らいついてしまっては本末転倒だ。
進一は呼吸を整える。高ぶる気持ちを何とか抑え込む。
そして彼は見据える。妖夢を下した女性剣士ではない。他でもない、妖夢自身を。戦意を失い、今にも全てを投げ出してしまいそうな――彼女自身を。
「妖夢」
そして進一は口を開く。
彼が成すべき事を、成し遂げる為に。
「こんな所で狼狽えている場合なのか?」
***
朦朧とする意識。けれども彼の言葉だけは、確かに妖夢へと届いていた。
身体中が痛い。呼吸さえも上手く出来ない。これ以上、戦う事なんて出来やしない。だから諦めるしかない。意思を誇示する事すらできなかった今の自分に、最早剣を振るう資格なんてない。
そう思っていた。思っていたのだけれども。
それでも。岡崎進一の声だけは、妖夢の心の中へと響く。
こんな所で狼狽えている場合なのか?
その言葉の真意とは。
「なぁ妖夢。お前が仕える主って、どんな奴なんだ?」
「えっ……?」
「幽々子さんっていうんだろ? そういえば、まじまじ聞いた事なかったと思ってな」
唐突な質問。確かに、そこまで深く説明した事はなかったような気がする。この四ヶ月間は幻想郷へと帰る事ばかりを優先していて、あまり話題に挙げた事はなかったと思うのだけれど。
けれども、果たしてそれは今聞くべき事なのだろうか。極限にまで追い詰められたこの状況で、どうして彼はそんな事を聞いてくるのだろうか。
「幽々子、様は……」
けれども、妖夢の口からは。
「……とても、素晴らしい方です」
自然と、言葉が溢れ出る。
「普段は、結構マイペースな方なんです。常に飄々としていて、考えが読み取りずらくて。しかもかなりの健啖家で、毎日食費が凄いんですよ。食料の備蓄も直ぐになくなってしまいますし、そういった時は決まって私が買い物に出かけていて……」
基本的に妖夢は、幽々子に振り回される側のポジションである。気まぐれな彼女は突発的な思いつきなども多く、そういった場合は必ずと言っていいほど妖夢が巻き込まれる事となる。思えば、春雪異変の時もそうだったか。春を集めろなどという無茶をいきなり言い渡されて、その理由も曖昧のまま妖夢は顕界へと足を運んだ訳だ。
その上に健啖家である。お陰で白玉楼の食費は毎月火の車だ。庭師兼剣術指南役でありながら、ここまで多方面に振り回される側近など妖夢くらいのものだろう。
そう。白玉楼にいた頃は、毎日が大変だった。半人前脱却の為の剣術鍛錬と、彼女本来の仕事。その二つを両立させる為に、それこそ殆ど休む暇もなく働いて。こちらの世界の基準で言えば、とんだブラックな職場である。
でも。
「でも……。それでも」
それでも、妖夢が幽々子に仕え続けている理由は。
「私は、幽々子様を尊敬しているんです」
頬を綻ばせながらも、妖夢は続ける。
「冥界の管理者として、閻魔様直々に幽霊の管理を任されているんですよ。日々増え続ける死者の管理を、幽々子様はお一人で引き受けていて……。しかも一切妥協しないんです。自らの役割に対する誠実さは、私も見習いたいと常々思ってます」
呑気でマイペースな印象とは裏腹に、西行寺幽々子の仕事に対する姿勢は実に誠実である。閻魔の判決によって冥界へと送られてきた死者達を向かい入れ、成仏か転生までの間その管理を行う。文字にすると簡単だが、実際それはかなりの重労働である。
けれども幽々子は、そんな仕事も恙なく熟していた。手を抜く事もなく、彼女は完璧に全うしていた。
「幽々子様は、優しい方なんです。死を操り、霊を操る『能力』を持っていながら、それを無闇矢鱈に行使する事はなくて……。冥界のどの幽霊とも、対等に接し合っていて……。こんな半人前な私にさえも、慈愛を向けて下さいました……」
ポツリポツリと、妖夢は語り続ける。
彼女が仕える主。西行寺幽々子という、一人の少女の話を。
「だから、私は……」
ぎゅっと、妖夢は拳を握り締める。
「幽々子様の意思を尊重したい。幽々子様の優しさを、お守りしたい。そう思って、私は剣を……」
剣を、振るっていた。
そうだ。妖夢が剣を振るう理由は、西行寺幽々子に起因する。彼女という存在が、妖夢に理由を与えてくれた。彼女がいてくれたからこそ、今の妖夢がある。
幽々子がいたから、妖夢は剣を振るえた。幽々子がいてくれたから、妖夢は高みを目指す事ができた。半人前で妥協せず、剣術鍛錬を続ける事ができたのだ。
全部彼女のお陰だった。彼女が妖夢の拠り所になってくれていたのだ。
それ故に。妖夢にとって、西行寺幽々子とは。
紛れもなく、かけがえのない――。
「……成る程な」
静かに話を聞いていた進一が、満足気に頷いた。
「お前にとって、とても大切な人なんだな」
「……ええ。そうです」
「……そうか」
「だったら……」と、彼は続ける。
「いつまでも、待たせる訳にはいかないよな」
「えっ……?」
「……その人、お前の帰りを待ってるんだろ?」
優し気な面持ち。表情を柔らかくした進一は、戸惑う妖夢に語り続ける。
「お前を信じて、待ってるんだろ?」
「……っ」
「だったら蔑ろにしちゃいけない。その人の気持ちを、裏切っちゃいけないんだ」
妖夢は息を詰まらせる。胸に届いた進一の言葉が、何度も何度も反響する。
裏切り。自分は、幽々子の気持ちを蔑ろにしようとしていたのか? 幽々子の気持ちを、裏切ろうとしてしまったのか?
妖夢を信じ、今も尚ずっと待ち続けている幽々子の気持ちを。妖夢は――。
「なぁ妖夢。俺は……」
再び進一が口を開く。思考の波に飲み込まれそうになっていた妖夢だったが、それでも彼女は耳を傾けた。
「俺は、お前と出会えて良かったよ」
間髪入れずに、彼は続ける。
「お前と一緒に過ごせて、楽しかった」
「進一、さん……」
「……いや、今も楽しい。今も幸せだ。こうしてお前と話をしているだけで、幸福な気持ちが溢れてくる」
それは、妖夢だって同じだ。
進一と出会えて良かった。進一と一緒に過ごせて楽しかった。進一を、好きになる事ができて――。とても、幸せだった。
ずっと一緒にいたい。ずっと傍にいたい。それは紛れもない本心で、今も尚心の底ではずっと渇望し続けている。
もっと傍にいたい。もっと触れ合いたい。もっともっと、恋人らしい事がしたい。
もっと、もっと、もっと――。
「でも……」
でも。
「だからこそ、そんな幸せを独り占めにしちゃいけないよな」
これ以上はいけない。これ以上、この温もりに縋りついては駄目なのだ。
魂魄妖夢はこちらの世界の住民ではない。それどころか、この時代の住民ですらない。彼女が本来いるべき場所は、80年前の白玉楼。彼女が帰るべき場所は、幻想の世界なのだ。
ずっと目を逸らし続けていた。けれどもヒフウレポートを解読し、自らが立たされている状況を明確に理解して。無視できなくなった。目を背け続ける事が、許されなくなってしまった。
「妖夢。お前の帰るべき場所はどこだ?」
分かっている。そんな事は分かり切っている。
「私は……。私の、帰るべき場所は……」
80年前の白玉楼。そう口にしようとした直前、妖夢の胸中から激情が溢れ出す。
「わた、し、は……」
息が詰まる。胸の奥が苦しくなる。自然と涙が溢れ出て、妖夢の頬を滴り落ちた。
涙を拭う。しかし拭っても拭っても、一向に止まる気配はない。溢れて、溢れて、止まらない。
「私、は……!」
嗚咽混じりに、妖夢は口を開く。
「私は、離れたくない……!」
止まらない想い。収まらない激情。このままではいけないと、頭の中では理解しているはずなのに。それでも歯止めをかける事ができない。膨れ上がる感情を、抑え込む事ができない。
「ずっと傍にいたい……。私は、ずっと進一さんと一緒にいたいんです……!」
だって。
「だって……進一さんの事が、好きだから……。愛しているから……! だから、離れたくない……」
「……っ。妖夢……」
自分勝手な我が儘だって事は、重々承知している。けれども、だからといって諦められる訳がないじゃないか。目を背けるなんて、そんな事が出来る訳がないじゃないか。
膨れ上がる。溢れ出る。そして飲み込まれる。この激情を振り払う事なんて、妖夢には出来やしなかった。
「進一さん……」
だから。
「進一さん……。私は……」
だから、妖夢は――。
「ずっと傍にいるさ」
その時。不意に投げかけられた進一の言葉が、不思議と妖夢の心の奥へと響いた。
激しい感情に締め付けられ、既にボロボロになってしまった妖夢の心。けれども真っ直ぐに届いた進一の言葉が広く響き渡ってゆき、そして優しく包み込んでゆく。
ずっと傍にいるさ。
そんな言葉を聞いて、妖夢が連想するものは一つだった。
「俺達は秘封倶楽部だ。例えどんな形になっても……、そしてどんなに離れていても。俺達は繋がっている。いつでも一緒なんだ」
「そ、それって……」
妖夢は視線を落とす。
右腕。そこには妖夢本人が拵えた、あのブレスレットが着けられていて。
「お前がそう言ってくれたんだろ?」
「…………っ」
そう。そうだ。彼の、言う通りだ。
秘封倶楽部の繋がりの証。秘封倶楽部の一員として、少しでも力になりたくて。そんな思いから妖夢が拵えたお手製のブレスレット。
どんな時でも、これを身に着けていれば秘封倶楽部はいつでも一緒だ。そんなおまじないを籠めながらも、妖夢はこのブレスレットを作った。そして秘封倶楽部の繋がりをより強固なものとする為に、妖夢はこのブレスレットを皆に配ったのだ。
あの時。妖夢はどんな思いを持って、ブレスレットを作っていた? 一体どんな願いを抱いて、ブレスレットを配ったのだろうか。
その答えは、一つだけ。
「私は、あの時……」
信じていたはずだ。秘封倶楽部の繋がりを。秘封倶楽部の、想いの強さを。
(でも、それじゃあ……)
今はどうだろう。
進一と離れ離れになってしまう事が怖い。進一と会えなくなってしまうなんて、そんな事は耐えられない。幽々子のもとへと帰る事こそが最善であると、分かり切っていたはずなのに、妖夢は目を背け続けてきた。
――馬鹿だ。自分は、どうしようもない大馬鹿者だ。
進一は覚えていてくれたのに。このブレスレットのおまじないを、信じてくれていたのに。それなのに、他でもない妖夢自身がそれを忘れてしまうなんて。
そんな事って――。
「……そう。そうよ……」
次に声を上げたのはメリーだった。
彼女もまた、ぎゅっと拳を握り締める。手を組んで、その身に着けるブレスレットにそっと手を添える。
「妖夢ちゃんは一人じゃない。私だって、妖夢ちゃんを信じてる。だから……」
マエリベリー・ハーンは微笑みかける。散々迷い、けれども結局踏ん切りをつける事ができなかった――妖夢へと向けて。
「だから……。そんな顔しないでよ」
感無量だった。最早妖夢は、零れる涙を拭きとる事さえも忘れていた。
妖夢は弱い。自分一人じゃ踏ん切りをつける事さえできず、自分一人じゃ立ち上がる事さえもままならない。一人じゃ最後まで駆け抜ける事さえもできなくて、いつも結局中途半端に終わる。
しかし、それでも。
「妖夢。俺はお前を忘れない。俺はいつだって、お前の事を想っている」
妖夢は一人じゃない。こうして妖夢を支えてくれる人がいる。皆が妖夢を信じてくれている。
だから。
「俺達はお前を信じている。だからお前も信じてくれ」
妖夢は息を飲み込む。
「お前を信じる俺達を」
ゴシゴシと涙を拭う。
「そして俺達が信じる、お前自身を」
ぎゅっと、彼女は再び剣を握る。
「だから妖夢、お前は……!」
傷が癒えた訳ではない。失われた体力が、戻ってきた訳でもない。
それでも、妖夢は。
「お前が信じる道を行け!」
立ち上がる。
***
心は完全にへし折れたのだとばかり思っていた。以前よりは接戦する事ができたとは言え、半ば一方的に下されてしまって。自信を失い、戦意を失って。最早生きる事さえも放棄してしまったのだと、そう思い込んでいた。
けれども。少女は再び立ち上がっている。傷だらけの身体に鞭を打って、殆ど残っていないはずの体力を絞り出して。生まれたての小鹿みたいに、頼りなさげな足取りなのだけれども。
それでも彼女は立ち上がった。剣を手に持ち、そしてその剣を構えて。彼女は再び、立ち向かう事を決意したのだ。
「覚悟を、決めたというのですか……?」
「……。私は……」
肩を上下に揺らしながらも、少女は口を開く。
「私の名は、魂魄妖夢……!」
息も絶え絶えな様子でありがらも、彼女は力強く声を張り上げたのだ。
「白玉楼専属の庭師兼、西行寺幽々子様の剣術指南役……! この剣は幽々子様の為に振るう!」
少女の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。自暴自棄になり、ただ闇雲に剣を振るっていた先程までの姿はどこにもない。
瑠璃色の瞳は、確かにこちらを捉えている。決意の籠った眼差しで、しっかりと前を向いている。
(迷いを、断ち切ったと言うの……!?)
馬鹿な。そんな。散々葛藤し続けて、ずっと板挟みになって。それでも尚踏ん切りをつける事ができず、結局選ぶ事ができていなかったはずなのに。
それなのに。
「私はもう、迷わない……!」
なぜだ。なぜ彼女は迷いを断ち切る事ができた? なぜ彼女は、再び立ち上がる事ができたのだ。
岡崎進一。そしてマエリベリー・ハーン。まさか彼らの言葉が、彼女を再び奮い立たせたというのだろうか。
恋愛などに現を抜かし、心を脆くしてしまった――この少女を。
「どうして立ち上がるのです……?」
「そんなの、決まってます!」
少女は即答する。
「進一さん達が、私を信じてくれているから……それだけです!」
「なっ……」
まさか。本当に、それだけだというのだろうか。
分からない。
恋。愛情。それらは心を弱くするのではなかったのか? 心を脆くするだけの要素ではなかったのか? 主を守る剣士であるのなら、そんなものを抱く事など言語道断ではなかったのか?
それなのに。
それなのに、この少女は。
(どうして立ち上がる……!?)
分からない。
どうして、どうして、どうして――。
「私は、負けない……!」
「……っ」
「私を信じてくれる人達の為にも……。私は負ける訳にはいけないんです!」
こいつは。この少女は。
何なんだ。何なんだ、一体。自分の事であるはずなのに、まるで理解する事ができない。実感する事ができない。膨れ上がるこの気持ち。溢れ出るこの想い。
その正体は、一体――。
(何なんだ……!)
少女は剣を振り上げる。心を決めた真っ直ぐな瞳を、今も尚こちらに向け続けて。
「だからあなたにも負けません……! 私は、ここで……!」
そして少女は走り出す。
「あなたを超えてみせる!!」
分からない。何が何だか、訳が分からない。だけれども、そんな中でも分かる事が一つだけ。
確かに彼女は、この土壇場で迷いを断ち切る事に成功したのかも知れない。進一達の言葉に後押しされ、踏ん切りをつけ、そして心を決めて。自らが成すべき事へと、しっかりと目を向ける事ができるようになったのかも知れない。
だけれども。
「はあっ!」
声を上げる。そして剣が振り下ろされる。
迷いのない太刀筋。ブレない剣撃。先程までの剣術とは、決定的な何かが違う。
(……だが)
しかし。
「えっ……?」
振り下ろされた少女の剣。しかしそれは、女性剣士を捉えるまでには至らない。
ヒュンっと、虚しく空を斬る音。思わず間の抜けた声を上げる少女。楼観剣と白楼剣は重力に引っ張られ、そしてその少女もまた大きく前のめりになって。
バランスを、崩す。
「……遅いんですよ。今更迷いを断ち切った所で」
愕然とした表情を浮かべる少女。そんな彼女の一撃をひらりと回避した女性剣士は、あくまで冷徹な声調で。
「貴方の身体は、既に限界です」
最早こちらから追撃を加える必要もない。
少女の剣は空振りに終わる。そして先の戦いと霊力の過剰消耗により、少女は肉体的な限界を迎えて。
そのまま、成す術なく倒れこんでしまった。
***
自分は一体どうなったのだろう。一体何が起きたのだというのだろう。
決死の一撃がまるで届かず、生きる事さえも諦めかけてしまった妖夢。しかし彼女は駆けつけてくれた進一とメリーによって背中を押され、再び立ち上がるだけの気力を抱く事に成功した。
進一達が信じてくれている。だからこんな所で諦める訳にはいかない。
迷いを断ち切り、覚悟を決めて。進一達から受け取った想いを胸に、再び女性剣士へと立ち向かった――はずだった。
(あ、れ……?)
しかし気が付くと、妖夢の目の前には夜空があった。そして地表を淡く照らし続ける満月を視認すると、妖夢はようやく自らの状態を認識する事ができた。
仰向けに倒れているのだ。
迷いを断ち切り、覚悟を決め、再び剣を手に取って。そして女性剣士へと立ち向かおうとしたはずなのに。
あなたを超えてみせる。そう宣言して、妖夢は勢いよく駆け出したはずだったのに。
(わた、し、は……)
身体がピクリとも動かない。頭のてっぺんから足の先まで、感覚だって殆ど残されていない。
限界だったのだ。進一達に後押しされ、幾ら自らを鼓舞した所で。肉体的なダメージが癒える事はない。幾ら決意を固めた所で、身体がそれについてこれない。
(そん、な……)
声が聞こえる。これは、進一とメリーの声だろうか。倒れてしまった妖夢を見て、何やら鬼気迫る様子で必死になっているように思える。
けれども。彼らの言葉は、最早妖夢の耳には届かない。意識が段々朦朧としてきて、周囲の音すらも認識できなくなってきて。
身体が重い。眠気にも似た感覚が、徐々に強くなってくる。
(私……死ぬ、のかな……)
朦朧とする意識の中、妖夢の脳裏にそんな可能性が過る。
死ぬ。こんな所で、こんな形で死ぬ。そんな事など受け入れられる訳がない。けれども幾ら立ち上がろうとしても、身体は全く動いてくれなくて。
(月……)
目に入るのは夜空の月だけ。
真っ先に思い出したのはクリスマスの日の出来事だ。女性剣士に敗北して、それで自信をなくしてしまって。妖夢は一人ベランダへと赴き、そして夜空を眺めていた。
あの時もそうだった。あの時も月は眩しすぎて、あまりにも月が遠く感じて。自分は酷くちっぽけな存在なのだと、そう強く実感してしまって。
(私は……)
やっぱり、あの時から何も変わっていないのだろうか? 幾ら鍛錬を続けても、幾ら心を奮い立たせても。結局自分は、ちっぽけな存在のままなのだろうか?
結局。
結局自分は、また諦めてしまうのだろうか?
(……違う)
違う。
(嫌だ……)
再び女性剣士に負ける? こんな所で死ぬ? ちっぽけな存在のまま終わる?
そんな。そんな、事など。
(もう……諦めるなんて、嫌だ……!)
諦めない。諦めたくない。
だって諦めたら、進一達を裏切る事になるじゃないか。折角こうして駆けつけてくれて、妖夢の身を案じてくれて。妖夢の事を信じると、そう言ってくれたのに。
それでも自分は諦めるのか? このまま死を受け入れて、進一達を裏切ってしまうのか?
――ふざけるな。
(動け……)
混濁してゆく意識。妖夢はそれを無理矢理にでも引き上げようとする。
(動いてよ……!)
感覚を殆ど失った身体。妖夢はそれを無理矢理にでも動かそうとする。
(私は、もう……!)
立ち止まる訳にはいかない。諦める訳にはいかない。
だって、妖夢は。
(ちっぽけな存在なんかじゃない……!!)
意識はまだ残されている。けれども身体は動かない。
何が足りない? 心はブレていない。覚悟だってできている。なら、力が足りないのか? もう一度だけでも立ち上がり、再び女性剣士へと立ち向かえるだけの力が――。
いや。だとすれば話は簡単だ。
足りないのなら、借りればいい。
妖夢を信じてくれた進一達。そして進一達が信じてくれた、妖夢の想い。それを守る為の力を。
だから妖夢は宣言する。
守る為に。立ち上がる為に。前を向く為に。自らが抱いたこの想いを、今度こそ最後まで貫き通す為に。
「