桜花妖々録   作:秋風とも

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第44話「太陽」

 

「あらあら、まあまあ」

 

 霍青娥は嘆息していた。嘆息しつつも、彼女は嘲笑っていた。

 北白河ちゆり。彼女の暴挙についてである。

 まぁ、あんな事を言ってしまえば、彼女の頭に血が昇るのは至極当然であろう。何の躊躇いもなく約束を反故にして、進一や夢美にさえも危害を加えようとして。そんな状況を目の当たりにして、彼女が黙っているはずがない。

 

 先程の様子から察するに、何らかの行動を起こすのではないかとは思っていた。だけれども、まさか――。

 

「まったく、ちゆりさんも大胆な事をしますねぇ……」

 

 最早隠す素振りもない。あそこまで派手な爆発を引き起こす辺り、露骨に青娥を挑発しているようにも思える。

 病院のエントランスで頬杖をついていた青娥だったが、爆発音が聞こえたのは階下の部屋。十中八九、こいしを監禁しているあの部屋からであろう。彼女に手を出してしまえば、人質としての効果がなくなってしまう。成る程、確かに面白くない状況になりかねない事態だ。

 

 だけれども。正直、今更こいしがどうなろうと青娥には関係ない。彼女が人質として機能しようともしなかろうとも、最早計画遂行に大した支障はきたさないだろう。

 おそらく、それはちゆりも理解している。にも関わらず、こんな行動を起こしたという事は。

 

「うふふ。本当、心配性ねぇ」

 

 青娥は嘲笑する。ちゆりが抱く想いの大きさは、最早狂気と言っても差し支えない程である。まったく、何がそこまで彼女をそこまで突き動かすのやら。

 

「……まぁ、私も人の事は言えないけれど」

 

 ボソリと呟いた後、青娥は立ち上がる。ちゆりによってひしゃげられた出入り口のドアを超え、おもむろに外へと足を踏み出した。

 見上げると、真っ先に視界へと飛び込んでくるのは大きな月。雲一つない晴天の、満月の夜だ。

 キョンシー達は月の光を浴びると狂暴化する。それは青娥のキョンシー達とて例外ではない。今頃存分に暴れまわり、お燐や夢美達を追い込んでいる事だろう。

 

「……もう少しよ」

 

 月明りに照らされながらも、霍青娥は呟く。

 

「もう少しで――」

 

 

 ***

 

 

 キョンシー達の包囲網を脱出してから数分。進一とメリーは、息せき切って妖夢のもとへと向かっていた。

 あの時。宮古芳香の攻撃を受けた妖夢は、高い柵を飛び越えて崖の下へと落ちてしまった。

 それなりの高さの崖である。普通の人間であるならば大怪我は避けられない程の高所であるが、しかし進一は諦めていない。姿形は少女でも、彼女は半人半霊。そう簡単にどうこうなるほど、ヤワじゃないはずだ。

 

「妖夢ッ!」

 

 幸いにもキョンシー達の襲撃に遭う事もなく、二人は崖の下まで辿り着く。進一は慌てて声を張り上げるが、しかしその返事が返ってくる事はなかった。

 慎重に、かつ迅速にぐるりと周囲を見渡す。けれども彼女の姿はどこにも見当たらなくて。

 

「進一君! あそこ……!」

「……っ!」

 

 声を張り上げつつも、メリーが指を指す。そこにあったのは、地面に染みる真っ赤な斑点模様。

 

「あ、あれは……」

 

 それは血痕だった。慌てて駆け寄ると、まだ出来てからそう時間は経っていないように思える。しかも周囲をよく見ると、その血痕は至る所に四散しているようで。

 

「これ……。まさか、妖夢ちゃんの……!?」

「……可能性はある、な」

 

 血痕の様子から推察するに、おそらく妖夢は落下した直後に何者かの襲撃を受けた可能性が考えらえる。交戦を続けている内にどこか別の場所へと移動してしまったか、或いは敗北して連れ去られてしまったか。いずれにせよ、彼女が無事であるという保証はない。

 

「どう、するの……?」

「決まってるだろ。妖夢を捜す。きっとまだ遠くには行ってないはずだ」

 

 妖夢が行方不明になってから結構な時間が経過してしまっているが、それでもまだ諦めるには早すぎる。確かに無事であるという保証はないが、だからと言って無事ではないと言い切れる訳でもないはずだ。この血痕を見ても、それほど多くの血を流してしまった訳では――。

 

 その時だった。

 

「っ!?」

「なっ……!?」

 

 突然の閃光。血痕が続く先から放たれたそれは、瞬く間に進一達を包み込んだ。

 思わず腕で陰を作って顔を背けながらも、進一は声を張り上げる。

 

「こ、これは……!」

 

 光と共に、激しい烈風が届く。けれども痛みはない。夢美が使うルミネセンスとはまた違う、強大な閃光。その正体は。

 

「し、進一君! これ、多分霊力よ……!」

「霊力、だと……!?」

 

 やがて光が収まってゆく。激しい烈風に身を打たれた事により思わずむせ込みそうになるが、それでも何とか踏みとどまって進一はメリーへと確認する。

 

「メリー、今のは本当に霊力なのか?」

「え、ええ……多分、だけど……。ほら、蓮子の実家でも私だけ霊力の存在を認識できていたでしょう? 今の感じ、あの時と少しだけ似ているのよ」

「な、成る程……。それじゃあ……」

 

 進一は考える。結界の境界を見る事が出来るメリーだけでなく、進一までも認識する事が出来る程に強大で実体のある霊力。そして血痕だけを残して姿を消してしまった魂魄妖夢。この二つが無関係だとは到底思えない。

 だとすれば。

 

「妖夢……。誰かと戦っているのか……?」

 

 その可能性は高いと思われる。

 

「進一君……!」

「……ああ。とにかく行ってみよう。あれこれ考えるのはその後でいい」

 

 今は一刻を争う。もしも妖夢が誰かと交戦したのだとすれば、今の閃光で致命的なダメージを負う程の強烈な一撃を受けてしまった可能性だってある。それ程までの霊力を使う相手では進一達ができる事など限られているだろうが、だからといってここで手をこまねいても良い理由にはならない。

 進一達は妖夢を助ける為にここまで来たのだ。今更怖気づきなどしない。

 

(妖夢……。無事でいてくれよ……!)

 

 祈りながらも、メリーと共に進一は再び駆け出した。

 

 

 ***

 

 

 本来、火焔猫燐はそこまで強大な力を持つ怪異ではない。

 そもそも火車とは葬式場や墓地から人間の死体を持ち去る妖怪。生きている人間に直接危害を加える訳でもなく、人間の生命に関わるような甚大な災害を引き起こす訳でもない。当事者からしてみればたまったもんじゃないだろうが、彼女らはただ死体を盗むだけだ。それ以上の事も、それ以下の事もしない。

 例えば人間を攫う事を生業としている鬼や、人間の血液が主食である吸血鬼などとは違い、ただ人間の死体を持ち去るだけの火車は然程大きな脅威と成りえない。その認識は間違っていないし、お燐だって否定するつもりはない。

 

 しかし、それでも。人並み以上に力をつける努力はしてきたつもりだ。

 火車とは即ち化け猫である。お燐も明確に火車という怪異となった最初の内は、そもそも人型に化ける事すら出来なかった。しかし現世に漂う怨霊や、その他の魑魅魍魎を食べ続け、その力を蓄える事で現在のような姿にまで到達する事が出来たのである。死体や怨霊をある程度操る事の出来る能力や、人語を介してコミュニケーションを取る事が出来るこの姿は、言わば彼女の努力の結晶なのだ。

 火焔猫燐は天才などではない。けれども天才などではないが故に、こうして努力を重ねてきた。今やお燐は古明地さとりのペットとして、旧地獄の怨霊管理を任される身。並みの妖怪が持つ力など、とうの昔に超えている。

 

 だけれども。

 

「くっ……! あぁ、もうっ……!」

 

 この状況、流石の彼女でも少しばかり手に余る。

 

 進一とメリーが上手く包囲網を脱出できてから数分。お燐は夢美と共に、今も尚キョンシー達へと立ち向かい続けてきた。

 確かに進一達を送り出す事には成功した。けれどもそれは作戦遂行の第一段階に過ぎない。上手く妖夢と合流するかこの包囲網を完全に突破出来るまで、攻撃の手を緩める訳にはいかないのである。

 

 お燐はどちらかと言うと、単体を相手に手数で翻弄するような戦術の方が性にあっている。多数を相手に圧倒的な火力で押し切るような戦い方は、正直言って苦手だ。そうでなくとも無駄に妖力を浪費してしまっているこの状況、あの人海作戦を一気に崩せる程の強烈な一撃など、単身で放てる妖怪の方が珍しいようにも思える。

 

 それほどまでに圧倒的な物量なのだ。あのキョンシー達は。

 

「夢美! 十字架は……?」

「ごめんなさい、球切れよ。流石に十本だけじゃ少なすぎだったみたいね」

 

 夢美への確認。想定していた都合の悪い返答が返ってきた事により、お燐の身体がドッと疲れを感じ始める。

 球切れ。つまりこれ以上の夢美の援護は見込めない事となる。ここから先は、正真正銘お燐一人だけで戦ってゆく事になるが――。

 

「あの、教授。落とした十字架にもう一度不可視光線を照射すれば、ルミネセンスを再利用できるんじゃ……」

「確かに、それもそうなんだけどね。でもどっちみち、ルミネセンスじゃちょっともう厳しいみたいなのよ。キョンシー達、何度も受けている内に学習してきちゃったみたいで……」

 

 夢美の言う通り、既にルミネセンスはキョンシーに対して有効な攻撃であると成り得なくなってきていた。何度も閃光を放出している内にキョンシー達にも“耐性”が出来始めているらしく、必ずしも動きを封じる事ができなくなりつつあるのである。

 どうやら光が放たれる瞬間、咄嗟に他のキョンシーを盾にして直撃を避ける個体が増え始めたらしい。脳が腐敗したキョンシーでありながらそこまで知的な行動を取るあたり、彼らを統括する術者の技量が伺える。

 

(というか、そもそも……)

 

 このキョンシーに関しては――。

 

「ガアァァァァ!!」

 

 奇声を上げつつも飛びかかってきたのは宮古芳香である。

 他のキョンシー達とは根本的な何かが違う、圧倒的な力を有した屍尢。時折り知性が残されているとしか思えない程の行動を取る彼女は、そもそも最初からルミネセンスの影響など受けちゃいなかった。

 火車であるお燐でさえも互角に渡り合うだけで精一杯の相手。そんな個体があの人海戦術に組み込まれているとなれば、苦戦しない方がおかしいというものだ。

 

「この……!」

 

 飛びかかってくる芳香をギリギリところで躱し、その側面目掛けて妖力の塊をお見舞いしてやる。妖力が爆ぜ、周囲に爆煙が立ち込めるが、この程度であの芳香が屈するはずもない。爆煙の中、ケロリとした様子で再び芳香が飛びかかってきて。

 

「なっ……!」

 

 宮古芳香の鋭い爪がお燐へと襲いかかる。この距離で、このタイミング。身を引いても避けられるかどうか。

 何かが引き裂かれるような音。黒い衣服の破片が、周囲に四散して。

 

「お燐ちゃん……!?」

「だっ、大丈夫……! ちょっと服に掠っただけだから……」

 

 危なかった。少し衣服に掠っただけで、幸いにも直接的なダメージは受けていない。

 キョンシーから受けた裂傷は致命傷である。死体であるが故に身体中が腐敗しており、そんな状態の攻撃を生身の人間が受ければ最悪傷口が壊死してしまう事もある。お燐は純粋な妖怪なので流石にそこまでの傷を負う事はないが、それでも大ダメージは必至である。不用意に近づくべきではないだろう。

 

「あーあ……。この服、結構気に入ってたのに……」

 

 などという軽口を叩くお燐であるが、その実、内心は焦燥の方が強い。はっきり言って、衣服の事など気にしてはいらぬ程の危機的な状況である。倒しても倒してもキョンシー達は起き上がり、あっという間に再び周囲を包囲してしまう。

 軽口を叩かなければやってられないのだ。肉体的にも精神的にも、流石のお燐もだいぶ摩耗してきていた。

 

「さて、どうするかな……」

 

 後退しつつも、お燐は呟く。

 はっきり言って、このままではジリ貧確定である。今のお燐の攻撃力ではキョンシー達を押し切る事は難しく、一方的に体力だけが消耗されてしまう。キョンシー達の肉体的な耐久力と回復スピードはまさに常識を逸脱している程で、それこそ一撃で戦闘不能にでも追い込まない限り奴らは何度でも立ち上がるだろう。

 

(でも、流石にそれはちょっと……)

 

 しかし、だったらどうする? ありったけの妖力をぶつけて押し切るのも駄目。能力で操ろうとしても効果はなし。

 半ば八方塞がりである。この状況を打開する方法は――。

 

(ど、どうしよう……)

 

 下唇を噛み締めながらも、お燐は何枚かのスペルカードを取り出す。

 

(『ゾンビフェアリー』……、『死灰復燃』……。ダメだ……これはあたい一人じゃ使えない)

 

 お燐の持つスペルカードの中にはノリの良い妖精達の力を借りて弾幕を展開するものがあるが、当然ながらこちらの世界には妖精など存在しない。妖精達の力を借りられなければスペルカードの真価を発揮する事ができず、やはり妖力の無駄使いになってしまうだろう。

 我ながら中々に使いにくいスペルカードを作ってしまったなとつくづく思う。弾幕ごっこでなら話は別としても、この状況じゃ殆んど使い物にならないじゃないか。

 

(こ、これじゃあ……。ん……?)

 

 その時。そんな二枚のカードの陰に隠れていた、とあるスペルカードが目に入る。瞬間、お燐の脳裏にとあるビジョンが思い浮かんだ。

 

(……っ! そ、そうだ……!)

 

 電撃が走り、不可解だった空白ががっちりと埋まるかのような感覚。

 能力で使役するのも駄目。自らの妖力で押し切るのも現実的ではない。だけれども、()()()()なら何とかなるかも知れない。なぜ今まで思いつかなかったのかと感じてしまう程に単純明快な作戦だが、試してみる価値は十分あるはずだ。

 

「夢美、蓮子。ちょっと下がってて」

「えっ……。な、何をするの?」

「いや、ちょっと試してみたい事があってさ」

 

 取り敢えず蓮子達を交代させ、お燐は一歩前に出る。視線の先は宮古芳香。一枚のスペルカードを手に持ちつつも、お燐は呼吸を整えた。

 確かに芳香は知的な行動を見せてはいるが、それでもキョンシーである事に変わりはない。行動原理はそれほど複雑なものではないはずだ。

 

 攻撃を受ければ直様迎撃に転じる。それを利用させて貰おう。

 

「……っ」

 

 お燐は一気に駆け出す。向かう先は宮古芳香。思惑通り、芳香は腕を振り上げてお燐を迎撃するつもりである。

 ここまでは作戦通り。スペルカードを掲げつつも、お燐は再び妖力を解放した。

 

「猫符――!」

 

 次の瞬間。膨れ上がる妖力と共に、お燐の身体が淡い光に包まれた。

 駆け抜けるお燐に合わせて、光が次々と収束してゆく。それと同時に彼女の身体も徐々に小さくなってゆき、その姿が大きく変貌する。

 変身。まさにそう形容すべき状況である。淡い光の中から飛び出し、宮古芳香へと飛びかかった火焔猫燐の姿は。

 

「あ、あれって……」

「黒猫……!?」

 

 夢美と蓮子が揃って声を上げる。彼女らの認識通り、お燐は黒い猫の姿へと変貌を遂げていた。

 厳密の言えば変身ではない。彼女本来の姿に()()()だけだ。言わば普段の人型こそお燐が()()した姿であり、この黒い猫こそが元々の姿なのである。まぁ、今となっては人型の方が強い妖力を扱える訳だが。

 

「にゃーん!」

 

 鳴き声を上げつつも、お燐は芳香のすぐ側面を一気に駆け抜ける。そんな彼女に続くように次々と妖力が実体化。芳香へと襲いかかった。

 猫符『キャッツウォーク』。黒い猫の姿で扱うスペルカードである為、『スプリーンイーター』や『食人怨霊』などと比べると単純な威力はやや劣る。その証拠に、まともに直撃したはずの芳香も全くと言って良い程ダメージを受けておらず、直様反撃へと転じようとしている。振り上げた右腕を勢い良く振り下ろし、その鋭い爪でお燐を切り裂こうと――。

 

「お燐ちゃん!」

 

 蓮子の声が木霊する。けれどもお燐は冷静だった。

 背を向けながらも、芳香の攻撃をひらりと回避する。直後に素早い連撃がお燐へと襲いかかるが、それも特に危なげなく次々と躱してゆく。

 攻撃が当たらない。人型の時よりも動きがすばしっこく、回避に専念しやすいのだ。

 

「す、凄い……。ちゃんと躱せてる……!」

「でも、あれじゃあいつまで経っても……」

 

 夢美の懸念は分かる。確かに攻撃を回避する事は容易だが、ただ回避し続けるだけではいつまで経っても一矢報いる事ができない。攻撃に転じなければ、どっちみちジリ貧となってしまう事に変わりはないだろう。

 だけれども、お燐だってそこまで馬鹿じゃない。ただ闇雲に攻撃を回避している訳ではないのだ。

 

(さぁ、どうする芳香……? 今のあたいの姿じゃ、そう簡単には当たらないよ……!)

 

 やがて芳香は痺れを切らす。忌々しげに唸り声を上げた後、大きく飛翔して強い霊力を放ち始めたのである。

 妖夢の時と同じだ。実体化させた霊力を刃物状へと変換させ、幕のように展開する。

 高密度の弾幕。間をすり抜けられぬ程の霊力の塊をぶち当てて、一気に片を付けるつもりである。やはり実に単純な行動の転換。

 

(よしっ……!)

 

 思惑通りである。あとは上手い具合に芳香を誘導すれば――。

 

「にゃっ!!」

 

 更にスピードを上げる。飛び上がった芳香を中心として大きな円を描くように走り回り、彼女を撹乱した。

 芳香が忌々しげに視線を動かしているのが分かる。猫の姿になった事により的が小さくなっただけでなく、素早さまでも増しているのだ。器用な動きが苦手なキョンシー達にとって、実にやりにくい相手であろう。

 そうなると、予想できる行動は限らてくる。

 

「――――ッ!!」

 

 一際鋭い威圧感。それからワンテンポ程遅れて、芳香の弾幕がお燐へと向けて放たれた。

 高密度かつ広範囲の弾幕。弾幕ごっこなら明らかにルールから逸脱してしまっている攻撃である。当然ながらその威力も計り知れない程で、まともに食らえば幾らお燐でもタダでは済まないだろう。

 だけれども、だからこそ好都合。寧ろお燐は、この瞬間を待っていたのである。

 

(今だ……!!)

 

 更に強く地面を蹴り上げ、お燐は大きく跳躍する。更に妖力を上乗せして移動速度を上昇。これでギリギリ回避出来る。

 

「お燐……!」

 

 夢美の叫び声。その直後、激しい閃光と共に爆撃音が木霊する。

 宮古芳香の高密度弾幕は、火焔猫燐を捉える事に失敗していた。地を揺るがす程の破壊力と辺り一面を抉る程の広範囲を持ち合わせていたのにも関わらず、極限までスピードに特化させて妖力を振り分けたお燐が相手では、どうやらその攻撃も無駄に終わってしまったようだ。

 しかもそれだけではない。高威力、かつ広範囲の弾幕を地に向けて放ってしまった事により、その流れ弾に何体かのキョンシーが巻き込まれてしまったのである。驚異的な強度と再生能力を持つキョンシー達だが流石に芳香渾身の攻撃を耐えきる事ができず、次々と事切れてゆく。

 

 これこそがお燐の狙いである。相手の攻撃を利用して、逆に相手の陣形を大きく崩す。ベタだがその効果は覿面だった。

 

「お燐ちゃん……。ひょっとしてこれを狙って……!」

「にゃっ!」

 

 交代しつつも、鳴き声を上げて蓮子に答える。

 気持ちいいくらいに上手くいった。これでキョンシー達の包囲網にも無視できぬ程の穴が開いた事になる。芳香の表情もどことなく悔しそうなものだ。

 あと少しだ。あと少しで、この包囲を突破できて――。

 

(……い、いや。ちょっと待って……)

 

 ――その考えは甘い。宮古芳香がいる限り、これ以上の好転は許されない。

 

「――毒爪『死なない殺人鬼』」

(えっ――?)

 

 やけに流暢な芳香の宣言。途端に走る背筋の悪寒。

 嫌な予感はしていた。けれどもそれをはっきり認識した頃には、何もかもが遅すぎた。

 

「ッ!?」

 

 蒼い発光。紅い閃光。激しい炸裂音と共に芳香の霊力が膨れ上がり、次々と光の刃を作り上げてゆく。先ほどとは比べものにならぬ程の広範囲。展開された弾幕は空一面を覆い尽くし、お燐たちがいる公園一帯を淡く照らす。

 弾幕ごっことは本来、“魅せる”事に重点を置いた決闘方式である。黒い夜空に突如として現れた蒼と紅の弾幕は、確かに“魅せる”という意味でも及第点。けれどもそれと同時に、あまりにも殺意に満ち過ぎている。

 

(スペルカード……!? い、いや、これは――!)

 

 暴走(オーバードライブ)

 

 霊力が炸裂する。芳香の合図によって一斉に落下を開始する紅と蒼の弾幕は、霊力の雨とでも形容すべきだろうか。

 先程と比べると、密度はそれほど濃くはない。けれども範囲が広すぎる。それが意味する事は即ち、攻撃対象はお燐だけではないという事だ。

 

「なっ……!?」

「きゃあ!?」

 

 夢美と蓮子の叫び声が流れ込んでくる。慌てて視線を向けると、霊力の雨が彼女らの周囲にも降り注いでいる事に気がついた。

 お燐は息を飲む。幸いにも弾幕の密度は薄い上に刃一つ一つの殺傷力は大した事ないようだが、生身の人間がまともに受け続けるのはあまりにも危険である。お燐は慌てて夢美たちの前へと立ち塞がり、妖力を打ち出して光の刃を弾いてゆく。

 

「にゃ……!」

「お、お燐……!?」

 

 不安気な夢美の声が聞こえる。

 このままでは危険だ。お燐の妖力の残量は決して多くはなく、いつ底を尽きてもおかしくはない状態。にもかかわらず、芳香の弾幕は今も尚降り続いている。

 防ぎきれない。ただ妖力をぶつけて刃を弾いているだけでは――。

 

(くっ……! こうなったら……!)

 

 最終手段だ。あまり使いたくはなかったが、致し方あるまい。

 芳香の弾幕に対抗するかのように、お燐もまた弾幕を展開する。けれども今のお燐では、芳香の攻撃を呑み込める程の強大な弾幕など展開できる訳がない。故に、それは囮。強引に突破口を切り開く為の一つの手段に過ぎない。

 

(ここでっ……!)

 

 芳香の弾幕が一瞬だけ薄くなる。その瞬間をお燐は見逃さない。

 妖力を解き放ち、お燐は一気に跳躍。それと同時に再び妖力をその身に纏わせ、お燐は()()した。

 猫の耳と二又に別れた尻尾だけを残した人型。妖力を扱うのに最も適した形態。素早さは猫の時よりも幾分か劣るが、今はそんな事など気にしない。最早お燐には、いちいち芳香の攻撃を回避する余裕などなかった。

 

 迷っている暇などない。理屈を考える余裕すらもない。ただありったけの妖力を解放し、無我夢中に前へと進む。

 

「お燐……!? 何を……!」

 

 悲痛な夢美の叫び。勘の良い彼女の事だ。お燐がやろうとしている事を何となく察してしまったのかも知れない。

 だけれども、今更後戻りなんて出来やしない。お燐がやらねば、このままではどっちみち全滅である。だったらやるしかないじゃないか。

 

「ぶっ飛べ!!」

 

 攻撃を受ける事などお構いなしに、お燐は芳香へと肉薄する。

 

 その直後。お燐はありったけの妖力を、爆発させた。

 

「――っ!!」

 

 爆発音。激しい閃光が瞬く間に二人を包み込むと、芳香のオーバードライブは中断される。霊力と妖力が混じり合い、周囲に烈風が逆巻いた。

 立ち込める黒煙。舞い上がる砂埃。けれども霊力の雨だけはピタリと止み、巻き上げられた土や砂がパラパラと落ちてくる。

 

 嫌な静寂が周囲に漂う。未だその余韻で空気がユラユラと揺れ続け、立ち込める黒煙が月明かりさえも奪ってゆく。

 嵐か何かでも通り過ぎた後のような静けさの中、少女の声だけが音として響く。

 

「お、お燐ちゃんは……?」

 

 震える声で蓮子が呟く。

 その直後。ドサりと鈍い音を立てて、彼女は空から落ちてきた。

 

「っ! あ、あれって……!」

「お燐!!」

 

 ボロボロの衣服。焼け焦げた二又の尻尾。垂れ下がった頭の耳。鮮やかな紅だったはずの少女の髮は、今や黒く燻んでしまっていた。

 あまりにも無残。けれども彼女は生きている。息も絶え絶えな様子で、夢美の声に反応するかのようにもぞもぞと身体を動かして。

 

「うっ、ぐぅ……」

 

 満身創痍である。

 身体中が痛い。熱い。苦しい。気持ち悪い。妖力の使い過ぎで、軽い酸欠状態のような症状も現れ始めている。流石のお燐でも、ここまで乱暴な妖力の使い方をしたのは初めてだった。

 慌てて駆け寄ってくる夢美と蓮子。そのまま肩を抱えられて、うつ伏せの状態から仰向けの状態へと持ち上げられる。苦し気に細く目を見開くと、真っ先に飛び込んできたのは不安気な表情を浮かべる夢美の姿で。

 

「お燐! 大丈夫!?」

 

 必死だ。彼女は必死になって、心の底からお燐の身を案じてくれている。

 カラカラに乾いた喉を鳴らして、お燐は無理矢理言葉を紡いだ。

 

「あっ、あはは……。やっぱり、自爆特攻とか向いてなかったかなぁ……」

「じ、自爆って……!」

「あれくらい、しないと……。死体のお姉さんは、止まってくれないから……」

 

 お燐は空へと視線を向ける。モクモクと立ち込める黒煙の先。そこに芳香の姿はなく、先程のような弾幕も見当たらない。

 おそらく、お燐と同様にダメージを受けて飛行能力を維持できなくなったのだろう。となれば、少なくともお燐の見積り通りのダメージを与えるのは成功した事になる。あの自爆は無駄ではなかったという事か。

 

「無茶して……! 死んじゃったらどうするつもりなの!?」

「……死なないよ。あたいは……」

 

 今度はお燐が自らの力で身体を持ち上げる。

 全身に鋭い痛みが走る。けれども全く動けない程ではない。これならまだ、戦える。

 

「お、お燐ちゃん……! まだ動かない方が……」

「……大丈夫。あたい妖怪だし、この程度……」

 

 虚勢である。受けたダメージは決して少なくなく、体力が完全に底を尽きるのも時間の問題だ。

 しかし、お燐はそれでも立ち上がる。もうどうにもならないとか、このままでは死ぬかもしれないとか。そんな可能性など微塵も考えるつもりはない。

 まだ動けるのだ。それならばやる事は一つ。

 

「……二人は今すぐにでも逃げて」

「えっ……?」

「さっきの誘導攻撃で、キョンシー達の陣形は大きく崩れている。しかも一時的とは言え、芳香を無力化する事にも成功したんだ。今ならあの車を使えば、逃げ切る事も可能なはず」

 

 お燐は夢美達へとそう告げる。すると真っ先に声を荒げたのは蓮子だった。

 

「ちょっと待ってよ……。それじゃあ、お燐ちゃんは……!?」

「あたいは残るよ。囮がいれば、逃げ切れる可能性だってぐんと上がるでしょ?」

「な、何を言って……!」

 

 未だに不服な様子の蓮子。お燐を置き去りには出来ないと、きっとそんな心境なのだろう。

 その気持ちはありがたい。けれども、今はそんな事を言っている場合ではないのだ。ギリっと歯軋りをしつつも、今度はお燐が声を張り上げる。

 

「さぁ急いで! もう時間がないんだよ! きっと芳香はすぐに復活する! あのお姉さんは周囲の微弱な霊気を“食べる”事で、急速に肉体を活性化させてるんだ! 多分、それがあいつの『能力』……!」

「……ッ!」

 

 そうだ。モタモタしている暇などない。芳香が動けない今こそが、千載一遇のチャンスなのだ。

 お燐が囮となり、夢美と蓮子をこのキョンシー達の包囲網から逃がす。その選択こそが最善。お燐本来の目的達成にも繋がる。

 

「……夢美」

 

 未だ息を飲み込んだまま喋らぬ夢美。彼女へと向けて、お燐は託す。

 

「お願い……。あたいの、代わりに……」

 

 岡崎夢美は聡明な人物だ。既にいくつもの真実へと辿り着く事に成功している。そんな彼女だからこそ、託す事が出来る。

 古明地こいしを救い出す。この数日間、お燐はその事だけを考えてきた。けれどその願いも、今日この瞬間に断ち切れてしまう。

 だったらせめて、その願いを彼女に委ねよう。今となってはもう多くは望まない。こいしが無事でいてくれれば、それで十分だ。

 だから――。

 

「こいし様を……!」

「……悪いけど、それは却下ね」

 

 えっ――?

 

「ど、どうして……!」

「……どうしてもこうしてもないでしょ?」

「えっ……? う、うわっ!」

 

 ふわりと身体が浮かび上がるような感覚。前に回り込まれた夢美によって、お燐はおぶられたのである。

 あまり感じた事もないような、慣れない感覚。満身創痍である事もあってロクな抵抗もままならず、お燐はなすがままになってしまう。

 

「あら? 結構軽いのね」

「ちょ、ちょっと……!」

 

 それでも慌てて、お燐は疑問を呈する。

 

「な、何を……!」

「私はあなたを見捨てない。一人で囮になろうだとか、そんな馬鹿な考えは捨てなさい」

「で、でも……!」

「……いい? お燐。あなたの役割を熟す事ができるのは、あなた一人しかいないの。他人に委ねるようなものじゃないわ」

「そ、それは……!」

 

 確かに、彼女の言う事も一理ある。一方的に自分の意思を他人に押し付けようなど、あまりにも厚かましくて烏滸がましい。相手からしてみれば良い迷惑なのかも知れない。

 だけれども。最早そんな事を気にしている場合ではないはずだ。選択肢なんて残されていない。それでも誰か一人でも抜け出す事ができたのなら、希望を繋ぐ事だって出来るのかも知れないのに。

 

「……助けるわよ」

「えっ……?」

「お燐も、蓮子も、メリーも、妖夢も、進一も。そして勿論、こいしちゃんも。全員まとめて、私が助け出してみせる」

「……っ!」

 

 この人は。このお姉さんは。このような状況に立たされても尚、諦めてないというのだろうか。

 一人でも助かれば御の字であるこの状況。それなのに。それなのに彼女は、全員まとめて助け出そうなどと。

 そんな選択――。

 

「欲張りだよ……」

「何とでも言いなさい。蓮子! 行くわよ!」

「は、はいっ!」

 

 お燐をおぶったまま、夢美は蓮子と共に走り出す。

 あまりにも無謀。あまりにも欲が深すぎる。二兎追うものは一兎も得ずという言葉を、彼女は知らないのだろうか。この状況で全員助けるなんて、そう簡単に成し遂げられる訳がないじゃないか。

 だけれども。それでも、彼女は。

 

「諦めて、たまるもんですか……!」

 

 強引にワゴン車のドアが開けられる。されるがままにお燐は助手席へと座らされ、シートベルトを締められた。

 後方の席へと蓮子も乗り込んだ事を確認すると、夢美は再びハンドルを握る。

 

「よしっ……!」

 

 意気込みつつも、夢美はアクセルを踏み込む。轟音を立てて勢い良く車輪が回転し、停車していたワゴン車が乱暴に発進する――はずだった。

 

「っ! な、なにっ……!?」

 

 ドシンッという鈍い感覚。ガリガリと車輪だけが空回りするような音。夢美が幾らアクセルを踏み込んでも、ワゴン車は一向に発進しなかったのだ。

 明らかな異常性。けれどその原因は明白だった。

 

「きょ、教授! あれ……!」

「う、嘘でしょ……!?」

 

 丁度ワゴン車の前方である。

 ぐにゃりと凹んだボンネット。闇夜に瞬く二つの瞳。宮古芳香が、ワゴン車の発進を悠々と阻んでいたのである。両腕を大きく広げ、豪快にもワゴン車へと抱きつくような体勢となって。あまりにも常識から逸脱している程の超怪力で、1tを超える車体重量を持つワゴン車を易々と――。

 

「あのお姉さん、まだ……!」

 

 思ったよりも回復が早い。まさか満月の光はキョンシーの『能力』を引き上げる作用もあるのだろうか。流石にお燐決死の自爆特攻によるダメージはまだ残っているようだが、ワゴン車を阻む程度の体力は既に戻ってきているらしい。

 

(だ、ダメだよ、やっぱり……!)

 

 やはり逃げ切れない。誰かが残り、芳香を引き付けでもしない限り、決して。

 

「まだよ……」

 

 だけれども。

 

「まだ、なんだから……!」

 

 岡崎夢美という、この女性は。

 

「こんな事じゃ、終わらないわ……!!」

 

 諦めていない。いや、諦めるという選択肢に目を向けてすらいない。

 

 何だ。何なんだ、この人は。どうしてこの状況でも前を向ける? どうしてこんな状況でも心が折れずに立ち向かえる? 外の世界の、ただの人間であるはずなのに。どうして、彼女は――。

 

「なんで、諦めないの……?」

「決まってるわ!」

 

 さも当然の事であるかのように。

 彼女は即答する。

 

「どうしようもないくらいに執念深いからよ! この私はね……!」

「……っ!」

 

 まったく。まったく、この人は。自らを示して、何の躊躇いもなくそんな事を言い放ってしまうなど。本当に、大馬鹿者だ。

 だけれども。それと同時に、彼女の言葉は不思議と心の奥へと響く。状況は絶望的であるはずなのに、なぜだかこちらも鼓舞されるような、そんな不思議な感覚。直向きに前を見続ける彼女の姿を見ていると、諦めかけていたお燐の心が大きく揺さぶられる。

 

「……教授は、こういう人なのよ」

 

 蓮子が声をかけてくる。彼女は理解しているのだ。

 岡崎夢美という女性の人となり。岡崎夢美という女性が持つ信念。それをしっかりと理解した上で、彼女に信頼を寄せている。

 それ故に。宇佐見蓮子という少女もまた、諦めてはいない。

 

「諦めて、ないの……?」

 

 なら、自分はどうだ? 夢美と蓮子は未だに希望を抱き続けているのに。

 お燐だけは、既に諦めかけていた。どうしようもない状況だから、誰かが囮になるしかないと。誰か一人が犠牲にならなければ、この状況を打開する事など不可能であると。そう思い込んでいた。

 だから彼女は。自分一人が犠牲になって、自分の意思を夢美に押し付けて。彼女達だけでも魔の手から逃そうと、そう決意を決めていた。

 

 でも。

 

「諦めない……」

 

 それでいいのか? 自分の命を犠牲にして、希望を他人に押し付けて。確かにそれでも、お燐本来の目的は達成出来るのかもしれない。けれども、それで自分は満足なのだろうか。

 ――いや。違うだろう。

 

「諦めたくない……」

 

 ぎゅっと、お燐はスカートを握り締める。

 

「あたいも……! 諦めたくない……!」

 

 胸の奥から溢れ出る激情。夢美達によって刺激され、むくむくと大きく膨れ上がって。彼女の心は大きく揺れる。

 夢美達を逃がす為に自分一人が犠牲になる。そんなお燐のちっぽけで勝手な決意は、いとも簡単に決壊する。――いや、決壊したそれは元より決意などと呼べるような代物ではない。虚像だ。自分勝手であまりにも無茶苦茶な本性をひた隠しにする為の陰。

 

「誰かが死ぬとかいなくなるとか、そんなのはウンザリだよ! もう誰にも生命を捨てさせやしない……! あたいも含めて、誰の生命も奪わせたりはしたくない……!」

 

 故にこれこそが、お燐本来の意思。自分一人が犠牲になるなど、そんな正義のヒーローじみた事など彼女には向いていない。

 

「もう誰も死なせない……! あたいも死なない! 皆で一緒に帰るんだ!!」

 

 火焔猫燐という少女もまた、夢美にあれこれ言える立場ではなかった。彼女だって、どうしようもないくらいに欲張りだったのだ。

 誰かの為に生命を投げ出す。そんな事を本気でやってのけられるのは、一部の狂人だけだ。死ぬのは怖い。妖怪だろうと、人間だろうと、それはごく普遍的な心理である。誰にも死んで欲しくない。それだって常識的な感情なのである。

 

 故にお燐は渇望する。自分も含め、誰の生命も失われる事がないような活路を。

 

「諦めない……!」

 

 諦めたくない。

 

「希望を見失わなければ……!」

 

 望みを持ち続けていれば。

 

「奇跡だって起きるんだ!!」

 

 ――その時だった。

 眩い閃光。膨れ上がる赤。突然ワゴン車の周囲で激しい轟音が轟き、熱風が車体を大きく揺らす。断末魔。それが車体にしがみついていた宮古芳香のものであると、そう認識する事もままならない。

 

「ッ!?」

「な、なに!? なんなの……!?」

 

 あまりにも突然な出来事。辛うじて認識出来るのは、燃えるような赤。

 赤。赤。赤。暑い。これは熱か? しかもただの熱ではない。この感覚、以前にも覚えた事がある。激しい熱風。いや、爆発。その着火剤は。

 

(妖、力……!?)

 

 車体が大きく後方へと弾かれていた事に、その瞬間始めて気がついた。しがみついていた芳香は何時の間にか姿を消しており、大きく凹んだボンネットだけがそこに残されている。

 暑くなる車内の温度。ひび割れたガラスから流れ込んでくる焦げ臭い匂い。チリチリと降り注ぐ火の粉。燃え上がる草木。

 

 炎球だ。どこからか放たれた巨大な炎の塊が、宮古芳香を弾き飛ばしたのだ。そのまま多数のキョンシーを巻き込んだ炎球は爆発。特殊コーティングが施されているだけあってこのワゴン車自体は辛うじて無事だが、巻き込まれたキョンシー達はたまったもんじゃない。

 芳香と違い、他のキョンシー達はあくまで急ごしらえ。炎に包まれ、次々と力尽きてゆき――。

 

「い、今のは……!?」

 

 何が何だか分からないと言いたげな表情を浮かべているのは夢美だ。流石の彼女でも、このあまりにも唐突すぎる状況の変化についてこれていないらしい。それは蓮子も同様のようだ。

 だけれども。火焔猫燐は知っている。

 

「ま、まさか……」

 

 この炎。この妖力。勘違いなんかじゃない。間違えようがないじゃないか。

 でも。だとすれば。

 

「まさか、まさか、まさか……!」

「お、お燐……?」

 

 慌ててお燐は扉を開く。助手席から飛び降りて、未だ熱風が吹きすさぶ外へと足を踏み出す。

 暑くて、焦げ臭い。チリチリと肌を焼くような熱――否、妖力。それに流されるかのように、空から何かが落ちてくる。

 黒。黒い羽。高温の火の粉すらも弾き飛ばす程の、高い耐熱性を有する鴉の羽。

 

「うにゅ……? 思ったより威力が低いような……」

 

 声が聞こえる。邪気のないような少女の声だ。

 聞き覚えのある。胸の奥へと強く響く。驚愕がますます膨れ上がる。愕然とするお燐の目の前に、その少女はすたりと着地した。

 

「まぁいいか。間にあったみたいだし」

 

 高い身長。白いブラウス。緑色のスカート。そして黒い長髪。右腕に携えた多角柱型の制御棒に目を引かれるが、何より背中に生える一対の真っ黒な翼が、彼女が人外であると物語っていた。

 鴉だ。それもただの鴉ではない。地獄の闇から生まれし鴉。地獄鴉とも呼称される種族。

 

「さてと。お燐、だいじょうぶ?」

 

 おもむろに振り返りつつも、少女はそう口にする。けれどお燐は、直様呼応する事が出来なかった。

 だって、無理もないじゃないか。目の前にいるこの少女は、本来ここにはいないはずの存在。博麗大結界の向こう側、幻想郷に置いてきたはずの地獄鴉。そんな彼女が助っ人の如き勢いで突如として登場するなど、絶対に有り得ない。

 だから疑問が溢れ出る。幾ら思考を働かせようとも、状況をまるで呑み込む事が出来ない。疲労の所為か、ただ一言だけが頭の中でぐるぐると回っていて。

 

「ど、どうして……」

 

 けれどそんな疑問に少女が答えるよりも先に。今度は上着の裾が不意に引っ張られる。

 

「お、お燐!? 大丈夫!? こんなにもボロボロで、傷だらけで……!」

「えっ……?」

 

 視線を下へと傾ける。いつからそこにいたか、不安気な表情を浮かべながらも頻りに言葉を発するのは、これまた見覚えのある少女だった。

 ――いや、見覚えがあるどころの話ではない。薄く緑がかった髮。襟と袖にフリルがあしらわれた上着。そして花の柄が描かれたスカート。

 

「でも良かった……。やっと会えた……!」

 

 彼女こそ、火焔猫燐の捜し人。お燐がその無事を渇望し続けていた一人の少女。

 

「こ、こいし、様……?」

 

 古明地こいし。敵の手に落ちたはずのその少女が、突如としてお燐の目の前に現れたのである。

 これは夢か。それともタチの悪い幻か。思わずゴシゴシと目を擦って、再び視線を落としてみる。けれどもきょとんとした表情を浮かべるその少女の姿は、何度それを繰り返しても消える事はなくて。恐る恐るその手に触れてみると、暖かな体温が直に伝わってきた。

 

「こいし様……?」

 

 となると、彼女は。

 

「本当に、こいし様ですか……?」

「な、なに言ってるのお燐……? 本当に私だよっ……!」

「だ、だって、こいし様は……! ずっと、行方が分からなくて……」

 

 混乱するなという方が無理な話だ。すっかり敵に拉致監禁でもされているのではないかと思い込んでいた彼女が、突然目の前に現れたのである。お燐だって、そこまで頭が回る方じゃない。寧ろ動揺こそが普通の反応なのではないかと思う。

 何が何だか、訳が分からない。頭の中は気持ち悪いくらいにぐちゃぐちゃで、混乱のあまり心臓の鼓動がより一層激しくなって。それでも彼女の心の中では、また別の感情がむくむくと膨らみ始めていた。

 

「んーと、こういう時はなんて言うんだっけ……」

 

 鴉の少女が何やら鹿爪らしい表情を浮かべる。けれどもすぐに何かを思いついたようで、鼻を鳴らして得意気な表情を浮かべていた。

 右腕に携えた制御棒。それを肩で抱えるような形へと持ち上げて。一息。

 

霊烏路(れいうじ)(うつほ)、助っ人として只今参上! かな?」

 

 霊烏路空。自らの親友でもある彼女の闖入を目の当たりにして、お燐はただ息を呑み込む事しか出来なかったけれど。

 それと同時に、確かな感激を覚え始めていた。




東方天空璋を購入しました。ぼちぼちプレイします。
本作は東方紺珠伝までを参考にしてプロットを練っている為、それ以降の作品に関しては考慮していません。その為、東方天空璋以降に登場したキャラや設定などと矛盾点が生じる可能性があります。予めご了承下さい。

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