桜花妖々録   作:秋風とも

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第43話「衝突」

 

 バンッと。そんな大きな音を立てて、扉が勢いよく開け放たれた。

 都内某所に位置するとあるビル。その一階部分を間借りして設けられた病院である。開け放たれたのは今時珍しいガラス製の手動ドアで、勢いよく衝撃を加えられた所為か縁が僅かに歪んでしまったかのようにも見える。けれど彼女は、そんな事など気にも留めない。

 霍青娥はおもむろに顔を上げる。乱暴にも病院の一室に足を踏み入れてきたのは、協力関係を結んでいる一人の小柄な女性。

 

「私が言いたい事、分かるよな?」

 

 ガンッと。これまた大きな音を立てて受付テーブルの上にちゆりの拳が叩きつけられる。彼女の表情を覗き込むと、どうやら相当ご立腹な様子で。

 

「あらあら、一体どうしたのですか?」

「とぼけるな」

 

 ギリッと、ちゆりは忌々し気に歯軋りをした。

 

「話が違うじゃないか。どうして夢美様は結界の効力を受けていない?」

「……やはり、その話でしたか」

 

 やれやれ、と青娥は肩を窄める。それがちゆりの神経を更に逆撫でしたようで、青娥を睨む彼女の瞳がますます鋭いものとなった。

 北白河ちゆりがこれまで担ってきた役割は、所謂“内通者”というヤツだ。岡崎夢美の助手として常に彼女らの傍へと近づき、その動向を監視。状況を定期的に青娥へと報告しつつも、何か不測の事態が発生した際には即時対処に当たる――というのが彼女の主な仕事だった。

 霍青娥の計画は恙なく遂行されていた。唯一のイレギュラーと言えば、火焔猫燐の存在くらいか。それもちゆりの居候という形で監視下に置く事で、ある程度その行動も把握できるようになった訳だが。

 

 北白河ちゆりの働きは素晴らしいものだった。何食わぬ顔で夢美達へと近づき、陽気で人懐っこい助手という役を演じ続け。その裏では淡々と彼女らの動向を監視し、逐一青娥へと報告してくれていた。

 岡崎夢美への対処だってそうだ。あのメンバーの中で、幻想郷を発見する事が出来る可能性が最も高いのは彼女。そんな彼女が幻想郷を見つけてしまわぬよう、ちゆりは裏で色々と手回しをしていた様子。ちゆりの『能力』は、対象となる相手を強く睨みつける事によって発動する。彼女はそんな『眼』を使って定期的に岡崎夢美を幻惑し、その意識を幻想郷から逸らし続けていた。

 まさに狸である。彼女の工作員としての才能は折り紙付きだ。

 

 そこまで躊躇いなく実行に移す事ができる彼女なら、ちょっと考えればすぐに察する事ができたはずだろう。

 霍青娥という名の女性の、人間性を。

 

「夢美さんを無力化したのは貴方じゃないですか。それでも動き回っているという事は、貴方の『能力』が上手く作用していなかったのでは?」

「……確かに、それもある。でも、だったとしてもおかしいじゃないか。私の『能力』から夢美様が抜け出せたとして、でも流石にこの結界の効力を全く受けないなんて有り得ないだろ。だってこの結界は……」

「能力者以外の人間に作用する人払いの結界です。こちらの世界の人間や護符の力程度じゃ、まず破る事はできないでしょう。でも、それ以上の細工なんて施してませんよ」

「じゃあどうして……!」

 

 イライラと憤った様子のちゆり。そんな彼女を前にして、青娥は思わずニヤリと笑う。

 

「だとすれば簡単な話じゃないですか」

 

 そう。至極単純な理由だ。

 

「夢美さんも持ってるんじゃないんですか? 『能力』」

「なっ……!?」

 

 信じられないとでも言いたげな面持ちで、ちゆりは愕然と目を見開いていた。

 青娥が張った人払いの結界は、そもそも邪魔な人間達を退ける為のものだ。その効力はこちらの世界におけるごく“常識的”な人間にのみ作用され、京都の中に残るのは常識から逸脱した異端者のみである。

 ここで言う所の異端者とは、例えば幽霊や妖怪などの人外と呼べる存在。それに加えて特殊な『能力』を持つ人間の事を示す。もしも岡崎夢美が、そんな結界の内側で効力を受けずに行動出来ているのだとすれば。

 

「或いは魔法に執着し過ぎたばかりに、悪魔か何かにでも魅入られて……」

「それはない!」

 

 ムキになったちゆりが、身を乗り出しながらも声を張り上げる。必死になって否定する彼女の様子を目の当たりにして、青娥は不敵な笑みを浮かべた。

 本当に、彼女はあの姉弟の事になるとすぐに熱くなる。内通者として行動していた際は、常に冷静さを保ち続けていたというのに。

 

「夢美様は間違いなくこちらの世界の人間だ! 妖怪化するなんて、そんな事……!」

「そんなにムキにならないで下さい。ちょっとした冗談ですよ」

 

 こうして大規模な結界を張っている以上、青娥は京都の状況をおおよそ把握している。京都各地で蠢く霊力や妖力から推察するに、少なくとも妖夢とお燐とこいし、そして自分自身とキョンシー以外の人外の存在は確認できない。――いや。厳密に言えば()()()()妙な妖力を感じてはいるのだが、それに関しては今のところ特に問題視する必要はないだろう。

 つまり。

 

「夢美さんは人間ですよ。紛れもなく、ね……」

「な、なら……やっぱり……」

「ええ。十中八九、『能力』持ちでしょう。しかし貴方の報告にあった夢美さんの様子から推察するに、どうやら少し面倒な事になっているみたいですね。未だ『能力』が完全に覚醒していないのか、それとも覚醒しているけれど気づいていないのか……。あぁ、覚醒に気付いてはいるけれど隠している、という可能性もありますけど」

「……少なくとも、一番最後のは有り得ない。夢美様は嘘や隠し事が壊滅的に下手だからな。すぐバレる」

「そうですか。それはよくご存知で」

 

 まぁ、この際そんな事は青娥にとってあまり重要ではない。今更たかが人間の女性が一人増えた所で、計画に支障はきたさない。

 だけれども。それでもちゆりは、未だに納得していないようだ。

 

「だったら尚更、奴らの件についてはどういうつもりだ?」

「……奴ら? 何の事です?」

「ふざけるな! キョンシーの事に決まっているだろ!」

 

 少しおどけて見せたが、どうやら今のちゆりにはそんなおふざけに付き合える程の余裕は残されていないらしい。

 

「夢美様と進一には危害を加えない……。そういう約束だったはずだ! それなのに、奴らは無差別に襲い掛かって……!」

「うふふ、何を言い出すかと思えば……。キョンシー達はまだ危害を加えていませんよ? 妖夢さんとお燐さんは例外として……。夢美さんと進一さん、それと秘封倶楽部のお二人に関しては致命的な怪我などを負ってはないでしょう?」

「物は言いようだな……。そいつは妖夢やお燐が必死になってあいつらを守っているからだ。もしもあいつらが守り切れないような状況に陥った場合、今度こそ奴らは夢美様達に牙を剥くんじゃないか?」

 

 キッと、ちゆりは再び青娥を睨みつける。腕が震える程に苛立ちを込めて力強く拳を握り締めると、

 

「キョンシーは月の光を浴びると狂暴化する。そして今日は雲一つない満月の夜だ。既に奴らはあんたの制御下から外れちまってるんじゃないのか?」

 

 成る程、よく勉強しているなと青娥は素直に感心した。

 確かに彼女の言う通り、キョンシーにはそんな特徴も存在する。日光には弱いが、その分月光に関しては彼らの活動を活発化させる。

 今宵の気候はキョンシー達にとって格好の環境だ。より活発化――言い換えればより狂暴的になり、時に術者の制御下から抜け出してしまうような事もある。

 

 敢えてちゆりには説明していなかった特徴である。流石は岡崎夢美の助手、という事か。

 

「つまり、貴方はこう言いたい訳ですか。既に京都のキョンシー達は、私の意思とは関係なく好き勝手に暴れ回っているだけなのではないのか、と」

「ああ……」

 

 まったく、舐められたものだと青娥は思わず嘆息した。

 キョンシーが狂暴化している? だから何だと言うのだ。仮にそうだとしても今更計画の変更なんてするつもりはないし、後戻りなんて以ての外だ。幾らちゆりが不平を述べた所で、霍青娥は止まらない。

 

「特にあの宮古芳香とかいうキョンシー……。あいつだけ他の奴らと比べても桁違いの強さだ。あんなキョンシーが満月の光を浴びれば、幾らあんたでも制御下には……」

「口が過ぎるわよ北白河ちゆり」

 

 威圧。

 これまでとは明らかに違う青娥の声調。そんな言葉を投げかけられて、ちゆりは一瞬だけ硬直する。

 鋭い眼光。飄々としていて掴み所のない第一印象とは裏腹に、今の青娥には刃物のように鋭利な意思が露呈していた。苛立ちにも似た感情を露わにし、冷たくちゆりを睨みつけて。

 霍青娥は、口を開く。

 

「私の可愛い芳香が、私の意思とは無関係に好き勝手な行動を取るなんて有り得ない。それはどんな状況下でも例外とは成り得ない、絶対的な真理よ」

 

 静寂。糸を張ったような緊張感が、二人の間に走る。

 霍青娥の言葉には、どこか狂想が滲んでいた。自らの持つ能力に絶対的な自信を持ち、自らが取る行動に絶対的な整合性を抱き。それでいて彼女が見据える終着点は、あまりにも狂人染みている。

 

 冷静さを取り戻したちゆりは、俯きつつも呼吸を整える。落ち着いた様子で青娥へと視線を向けると、彼女の腹を探るかのように言葉を投げかけてきた。

 

「あんたは一体、何をするつもりだ? 幻想郷を救う事だけが目的じゃないんだろ?」

 

 青娥は息を呑む。思わず感情を露わにしてしまった自らを戒め、そして調子を整える。

 肩の力を抜き、そして顔を上げる。彼女が表情に張り付けるのは、愛想笑いとも呼べぬ仮面の笑顔だった。

 

「幻想郷を救う事だけですよ。それ以外の目的なんてありません」

 

 「チッ……」と、隠すそぶりも見せずにちゆりは舌打ちをした。

 忌々し気に視線を逸らす。先程までの彼女とは、また違ったベクトルの苛立ち具合だ。ちゆりとの約束を半ば反故にして、夢美と進一を危険に晒した青娥に対する怒り。それは勿論抱き続けているのだろうが、今の彼女が覚えているのは諦めにも似た感情なのだろう。

 そもそもこんな奴に加担した時点で、まともな結果が得られる訳がなかったのだ――と。そんな事を再認識しているに違いない。

 

「……そうだな。あんたはそういう奴だったな、青娥娘々」

 

 だからこそ、青娥は笑う。ちゆりの言葉を受け止めて、嘲るように笑みを浮かべて。

 彼女は口を開く。

 

「誉め言葉として受け取っておきます」

 

 

 ***

 

 

 少女がこの部屋に閉じ込められてから、もうどれくらいの時間が経過したのだろう。

 何の飾り気もない真っ白な一室。唯一設けられた白いベッドの上に腰かけて、古明地こいしは俯いていた。下唇を噛み締め、ぎゅっとスカートを手で握る。胸の奥を締め付けるのは、底知れぬ罪悪感。震える少女の瞳から、涙が零れ落ちていた。

 

(どうして……)

 

 彼女はただ、姉を助けたかっただけだ。その方法を見つける為に霍青娥の行方を追い、妖夢と共にこうして外の世界へと足を運んだ。

 最初は姉を助ける以外の事なんてどうでもよかった。妖夢とはあくまで一時的な協力関係で、仲間のような間柄になったつもりなんてなかった。ましてや友人や家族など、そんな意識を抱く事など有り得ないと思っていた。

 

 けれど実際はどうだろう。古明地こいしは、自分が思っている以上に妖夢に依存してしまっている。

 地底を含む幻想郷があんな事になって、けれども自分は何もできなくて。膝を抱えて泣き喚く事しかできなかった彼女に手を差し伸べてくれたのが、妖夢だった。

 確かに、こいしは覚妖怪だ。けれどもそれと同時に、どうしようもないくらいに子供なのだ。たった一人であらゆる困難を抱え込む事なんて出来やしない。心を閉ざし、他人への不干渉を徹底しようとも。それでもその本質を、根本から変える事なんて出来る訳がない。

 

 心の拠り所が必要だった。不安や苦難を紛らわせ、寄り添ってくれるような存在が彼女には必要だった。

 気が付くと、こいしは妖夢の事をそんな存在だと認識するようになっていた。

 

(妖夢っ……)

 

 ポロポロと涙が零れ落ちる。

 自分の所為で、妖夢に迷惑をかけてしまっている。自分の所為で、妖夢は奴らに良いように利用されている。

 またか。また自分の所為で、大切な人が傷つく事になるのか。また自分の所為で、誰かが苦しむ事になるのか。

 そんな事って――。

 

「…………っ」

 

 もう嫌だ。

 どうしてこんな事になる? どうして自分ばかりがこんな目に遭う? 自分が一体、何をしたと言うのだ。

 

「助けてよ……」

 

 彼女の心は、既に決壊寸前だった。

 

「誰か、私を……」

 

 こいしは身を縮こませる。震える身体を小さく丸めて、嗚咽混じりの声を上げて。彼女は一人、懇願する。

 

「私を、助けてよ……!」

 

 その時だった。

 ガラス越しの向こう側。ガタンという音を立てて、その部屋の扉が開けられる。人の気配を感じたこいしが反射的に顔を上げると、部屋の中へと入ってきたのは一人の女性だった。

 こいしは涙を拭ってガラス越しに部屋を凝視する。小柄な女性だ。金色の髪をツインテ―ルとしてまとめ、セーラー服にも似た衣服を身に纏った女性。

 

(あ、あいつは……!)

 

 見覚えのある人物の登場に、こいしは思わず立ち上がる。

 強力な結界が張られたガラスへと触れない程度に駆け寄って、こいしは彼女を睥睨する。

 

「よう。元気そうだな」

 

 北白河ちゆり。こいしをここに連れてきた張本人である彼女は、薄ら笑いを浮かべつつもそう口にしていた。

 こいしは一歩身を引く。何せ相手は覚妖怪であるこいしを無力化できるほどの力を持つ者。ただの人間などでは決してないはずである。警戒する事に越した事はない。

 

「……何しにきたの?」

 

 恐る恐るそう尋ねてみる。当のちゆりがこいしへと向けるのは、嘆くような瞳である。

 何なんだ、こいつは。青娥に協力している以上ロクな事を考えていないのは明白だが、だとしてもまるで考えが読めない。この女性は、一体どんな結果を見据えてあんな奴と協力関係を結んでいるのだろうか。

 

「私も焼きが回った、という事だな」

「えっ?」

 

 突然そんな事を口にするちゆり。首を傾げるこいしを余所に、彼女は一人喋り続ける。

 

「霍青娥に協力した時点で、まともな結果なんて得られる訳がなかったんだ。あいつは目的の為なら身内だろうと平気で欺くような女だからな。そもそも信用なんて出来る訳がない」

「ふんっ……。今更気付いたの? それはご愁傷様」

 

 精一杯の悪意を込めてこいしは言い返す。しかしそれでも尚、ちゆりがその表情を崩す事はなかった。

 

「でもここで今更私がどうこうした所で、青娥の計画が狂う事はない。恐ろしく狡猾なあいつの計画は絶対だ。この段階まで到達してしまえば、最早失敗なんて有り得ない」

「……っ」

 

 こいしは息を呑む。改めて実感した霍青娥の強大さを前にして、明確な恐怖心を彼女は抱いていた。

 北白河ちゆりの言う通り、青娥の計画は絶対だ。あらゆる場面を想定し、イレギュラーを徹底的に排斥して。時に仲間を裏切る事さえも厭わず、是が非でも計画の遂行を最優先しようとする。

 今回の件だって、その大半が青娥の思惑通りに事が進んでいる。自分達はあくまで盤上の駒に過ぎず、ゲームマスターであるあの邪仙の意向に逆らう事など出来ないのだ。

 たかが駒。幾ら暴れまわった所で、盤上をひっくり返す事などできやない。

 でも。だったら。

 

「だったら……。あんたは何をするつもりなの?」

「……さあな。でも、別に難しい事なんて考えちゃいない」

 

 ちゆりは一歩前に出る。

 窓ガラス。その先にいる古明地こいしを、見下ろすように睨みつけて。

 

「言っただろ? 今更私がどうこうした所で、青娥の計画は狂わない。でも正直言ってシャクなんだよ。あの女は私との約束を反故にした。にも関わらず、100%完全にあいつの思惑通りに事が進んじまうなんてな」

「だから……なに?」

 

 「だから……」と、ちゆりは続ける。

 

「一つだけ、イレギュラーを持ち込む事にした」

「……っ!?」

 

 瞬間。部屋全体を揺るがすような激しい爆音が、辺り一面に響き渡った。

 耳をつんざくような音。身体の芯まで響く程の衝撃。あまりにも突然の出来事に巻き込まれて、こいしはすぐさま状況を理解する事ができない。強大な風圧に吹き飛ばされて、立っている事もままならなくなって。こいしは尻餅をつかざるを得なくなってしまう。

 

「う、うわっ!?」

 

 思わず両手で顔を覆う。

 何だ。一体何が起きた? まるで、部屋の真横に設けられた壁が爆発したかのような――。

 いや、比喩などではない。本当に()()()()のだ。恐らく、こいしが監禁されている隣の部屋から何らかの衝撃を加え、隔てる壁をぶち破ったのだろう。霍青娥による物理的な結界に守らているはずの、この強固な壁面を。

 

「な、何……?」

 

 まさか、こんな事が。だって、あの青娥が張った物理的な結界じゃないか。その強度は並みの術者が使う結界のそれを大きく凌駕している。こいしが手を加えても緩む事はなく、妖夢が拳を叩きつけても解れる事がなかった。当然ながらこちらの世界における物理的な手段なんて通用する訳がないし、傷一つつける事すら不可能だと言い切っても過言ではないはずだ。

 そんな結界が張られていたにも関わらず。こんな、明らかな力技で突き破ってしまうなど――。

 

「だ、誰……!?」

 

 モクモクと舞い上がる噴煙。強固な壁にぽっかりと開いてしまった穴。大小様々な瓦礫が散乱するその先に、こいしは確かに一人の人影を視認していた。

 かなりの長身のようにも思える。影の形は人間のそれと酷似しているが、少なくともただの人間ではない事は確かだろう。強固な結界をぶち破る程の火力を持ち合わせ、それでも尚その人物は平然としている。そして部屋の中へと充満するこの独特な熱気と――妖気。それは人間などではなく。

 

「ま、まさか……」

 

 こいしの声が震える。けれどもそれは先程までのような絶望による震えでも、恐怖による戦慄でもない。ただの単純な驚愕。どうして()()がこんな所にいるのかと、頭の中が一瞬だけ真っ白になった。

 

「どうして……」

 

 どうして、と頭の中で反響する。信じられないと言った面持ちで、こいしは()()を見据えている。

 強力な結界ごと部屋の壁面をぶち抜き、突如としてこいしの前に現れた、その少女の名は――。

 

 

 ***

 

 

 火焔猫燐は狼狽していた。

 耳と尻尾を隠す分に使っていた妖力を解放し、キョンシー達へと立ち向かい始めたから数十分。スペルカードを用いた弾幕の展開は、キョンシーに対して確かに有効な攻撃と成り得ていた。

 

 幻想郷におけるスペルカードルールは確かに“遊び”に分類されるが、それでも弾幕の殺傷能力が皆無という訳ではない。強く妖力を込めれば十分に威力を高める事だって可能だし、普通の人間に直撃すれば命を落とす事だってあり得る。当然ながら妖怪に対しても弾幕は有効で、その気になれば致命傷を負わせる事だって可能である。

 今回の場合、相手はスペルカードルールなどまるで考慮せずに襲い掛かるキョンシーだ。こちらとしても“遊び”感覚では対処し切る事が難しく、ある程度“覚悟”を決めて迎撃しなければならない。

 

 故にお燐は、手加減をするつもりなんて微塵も考えていなかった。自分がやられれば、今度は確実に進一達が殺される。こちらとしても全力で妖力を解き放ち、それこそ死に物狂いで奴らを向かい打たなければならない。

 しかし。

 

「はぁ、はぁ……。くっ……!」

 

 激しく息が切れる。大きく肩を上下に揺らし、何度も荒い呼吸を繰り返す。

 妖力を解き放ち、全身全霊でキョンシー達へと立ち向かうお燐。けれどもその実、彼女は自らの身体に大きな違和感を覚え始めていた。

 いつものように妖力を放出し続ける事ができない。幻想郷にいた頃には難なく展開出来ていた弾幕だが、今はスペルカードを一度使う毎にごっそりと体力を持っていかれるような感覚に陥ってしまうのだ。こちらから攻撃をすればするほど大きく体力を消耗し、妖力の回復もままならないまま敵の攻撃に備える事となる。

 

 明らかにおかしい。まるで、突然燃費が極端に悪くなってしまったような――。

 

(い、いや……。燃費、というか……)

 

 おそらく、長い間完全な人間の姿に化け続けていた弊害であろう。慣れない姿に妖力を割きつづけていた結果、妖力を攻撃に転換する感覚に麻痺が生じているのだ。一度の攻撃で無駄に妖力を放出してしまい、その所為で体力を多く消費してしまっているのだと考えられる。

 

「このっ……!」

 

 群がるキョンシーに向けて巨大な妖力の塊をぶち込む。連中の勢いが弱まった事を確認したお燐は一度後退し、次の攻撃が来るまでの間体力の回復に専念する事にした。

 

 流石にそろそろ厳しく思えてくる。お燐には死体の声を聞いたり、ある程度死体を操る事ができる能力があるが、芳香は勿論あのキョンシー達に対してもその効果を発揮する事ができない。おそらく、あのキョンシー達を使役しているのは霍青娥である。流石にその程度の対策は練っているという事か。

 それ故に、最早力で撃退するしか選択肢は残されていないのだが――。

 

「ふぅ……。ちょ、ちょっと、これは……」

 

 まずいかもしれない。そう口にするよりも先に、不安気な様子で夢美が駆け寄ってきた。

 

「お、お燐、大丈夫……? 凄く苦しそうだけど……」

「……大丈夫。何の問題も、ないよ」

 

 大きく深呼吸して肺へと酸素を送り込む。ぱんぱんと自らの両頬を叩いて気合を入れ直すと、再びお燐は一枚のスペルカードを取り出した。

 そうだ。まずいかもしれない、なんて事を言っている場合ではない。今この場で奴らに対抗しうる力を持っているのは自分だけ。休んでいる暇なんてない。

 

「屍霊――!」

 

 スペルカード宣言。弾幕を展開し、迫るキョンシーへと迎撃しようとするお燐だったが――。

 

「ちょっと待ってお燐ちゃん。それ以上闇雲に妖力を使うのは危険よ」

「えっ……」

 

 お燐の宣言に口を挟んできたのは蓮子だった。

 スペルカードを掲げた彼女の肩に手を乗せ、蓮子はお燐を制する。漂い始めた妖力が急激に衰退し、お燐のスペルカード宣言は取り消される事となる。

 モタモタしている場合ではないのに。お燐は思わず抗議の意を示した。

 

「どうして止めるの……!?」

「無茶し過ぎているからよ。体力、もう殆ど残ってないんでしょ?」

「……っ。そ、それは……」

「私も蓮子と同意見よ。お燐、あなたは少し休んでなさい」

 

 蓮子と夢美に諭されて、お燐は何も言えなくなってしまう。

 図星である。やはり体力の消耗を隠しつつも戦える程、お燐は器用ではなかったという事か。

 

「だが……どうするつもりだ姉さん。俺達だけじゃ奴らに対抗するのは……」

「……そうね。何とかしたい所だけど……」

 

 夢美は一度、周囲をぐるりと観察する。相も変わらず四方をキョンシーに包囲されていて、逃げ道なんて見当たらない。ここまで大量のキョンシーを支配下に置いている時点で術者の力量が如何に凄まじいものなのか実感する事ができるが、今はそんな事に関心している場合ではない。

 妖夢の事も心配だ。せめて彼女と合流する事ができれば――。

 

「……やっぱり、四の五の言ってる場合じゃなさそうね」

「えっ……?」

 

 そう口にしつつも一歩前に出たのは夢美である。消耗したお燐を下がらせつつも、何やらゴソゴソと懐を探り始める。

 鹿爪らしい表情を浮かべて敵前に立つ岡崎夢美。そんな彼女を目の当たりにして、当然ながら不安気な意見が飛び交った。

 

「ゆ、夢美さん……? 一体、何を……」

「一か八か、試してみるのよ」

 

 メリーにそう言い返すと、夢美は探っていた懐から何かを取り出した。

 彼女が両手に持っているのは、金属か何かで作られているであろう小さな十字架状の物体と、これまたよく分からない黒い筒状の物体である。筒状の物体に関しては指本に小さなボタンのようなものが設けられているようで、形状だけ見ればレーザーポインターに近い。

 

「教授、それは……?」

「ふふん、まぁ見てなさい。ついにこれを使う事が来てしまったみたいね……!」

 

 やけに自信満々な様子で、夢美は十字架と筒を掲げる。

 はっきり言って、この状況でとっておきと言わんばかりに取り出す代物としては、ややインパクトに欠けるように思える。まさかあれを使ってキョンシー達をどうにかしようとしているのだろうか。正直、想像も出来ないのだが。

 

「おい、姉さん。まさか……」

「そのまさかよ進一! 奴らに一発お見舞いしてやるわ! この私の魔法を……!」

「えっ……!?」

 

 魔法? 魔法と言ったか、彼女は。

 まさか、そんな。だって彼女は、外の世界の住民じゃないか。幾ら魔力の研究を専攻して行っているとはいえ、魔法などというあまりにも非常識的な術を使うなどと――。

 いや、しかし。彼女なら、有り得るのだろうか。

 

「皆、顔を伏せて!」

 

 そう告げると、夢美は右手に掲げていた十字架状の金属を、芳香を中心としたキョンシーの群れに向けて放り投げた。

 くるくると回転しながらも、放物線を描く十字架。意外にも夢美の投擲フォームはしっかりとしたもので、投げられた十字架は綺麗にキョンシー達の目の前へと落ちてゆく。そして。

 

「食らいなさいっ!」

 

 伸ばされた夢美の左手。そこに握られているのは筒状の物体。その小さなボタンを夢美が押し込んだ途端、状況が変化した。

 

「ッ!?」

 

 投擲された十字架が一瞬だけ淡く光ったと思った途端、ワンテンポ程遅れて今度は鋭い閃光を放ち始めたのである。音もなく膨れ上がった光は周囲を瞬く間に包み込み、キョンシー達へと襲い掛かる。断末魔が響き渡った。

 

「う、うわっ……!」

 

 お燐は慌てて顔を背けた事により閃光による失明を避ける事には成功したが、それ以外の物理的なダメージは時に感じられない。投擲された十字架から放たれたのはあくまで激しい光だけで、人体に致命的なダメージを与えるような殺傷力は含まれていなかったのだ。

 けれども、光を苦手とするキョンシーは非常に有効な攻撃手段である。激しい閃光を直視した事によりキョンシー達は悶え、大きく動きを鈍らせているのが分かる。恐る恐る視線を戻すと、キョンシー達を退けた夢美が得意気な表情を浮かべていて。

 

「ま、眩し……!?」

「ゆ、夢美さん……! 今のは……?」

「ふっふっふ……。これが私の魔法……!」

 

 腰に手を当て、堂々と胸を張り。

 驚倒する蓮子やメリーへと向けて、岡崎夢美は開口する。

 

「その名も……ルミネセンスよ!!」

 

 意気揚々といった面持ちで、夢美はそう言い放った。

 「おー!」と歓声を上げつつも、蓮子がぱちぱちと拍手をする。ますます気をよくした夢美がやけに満足気な表情を浮かべているが、しかし世辞抜きで今のは本当に凄いとお燐も思う。

 投擲した十字架が急に光を放つなんて。まさかあれはマジックアイテムか何かだったのだろうか。外の世界にそんなものがある事にも驚きだが、しかしマジックアイテムは魔力がなければ使えない代物だったはずだ。

 まさかこのお姉さん、本当に――。

 

「いや、それただの科学現象じゃ……」

「そこ! 水を差すのは止めなさい!」

 

 と、冷静な面持ちで進一が指摘すると、やけに俊敏な勢いで夢美が割って入ってきた。ビシッと指をさしつつも半ばムキになるその様は、肝心な所でトリックを暴露されたマジシャンのような様相である。

 首を傾げつつも、お燐は進一に確認してみる。

 

「え? ど、どういうこと?」

「あの光は別に魔法でも何でもないって事だ。ルミネセンスってのは、何らかの刺激を受けて励起状態になった物質が、基底状態に戻ろうとした時に起きる発光現象の事だからな。蛍光灯なんかにも応用されてたりする」

「ちょ、ちょっと進一!?」

「多分、姉さんが持っているレーザーポインターからは、ボタンを押すと紫外線か何かが放出されるんだろ。で、そんな不可視光線に過剰反応するような特殊な物質で、あの十字架は作られてるんだと思うぞ。一気に励起した物質が急激に基底状態へと戻ろうとした為に、あんな風に強い光を発したって事か」

「や、やめてぇ!? 冷静に分析しないでぇ!?」

 

 進一の説明が進めば進むほど、あっという間に夢美の得意気な表情は崩れる事となる。わたわたと慌てふためくその様子からは、先程までの自信など微塵も感じられない。

 正直、原理を説明されてもお燐にはいまいちピンとこなかったが、要するにあの発光は“非常識的”な現象という訳ではないらしい。こちらの世界において確立された原理を使い、あたかも魔法であるかのように再現したという事か。

 

「で、でも! ほら、教授の攻撃はキョンシー達に効いてるみたいですよ」

 

 慌てて蓮子がフォローに入る。確かに彼女の言う通り、あの閃光はキョンシー達にも有効な攻撃手段だったようだ。流石に大きなダメージを与えられる程の殺傷力は持っていないが、光に弱いキョンシー達の視界を奪ってひるませる程度の影響なら与える事が出来る。

 

「確かに、意外と効いてはいるみたいだな。殆どその場しのぎみたいなものだが」

「……ねぇ、進一。それってフォローしてるの?」

「そりゃ勿論。あぁ、でも、態々投げた十字架に不可視光線を照射しなきゃならないから、正直手間がかかって攻撃手段としては微妙だよな。それならスタングレネードとかを使っちまった方が早いし確実だ」

「やっぱりフォローしてないじゃない!」

 

 思わず夢美はいきり立つ。身も蓋もない進一の意見は浪漫も欠片も見当たらないが、確かに彼の言う事も一理ある。けれどもそのスタングレネードなる武器がこの場にない以上、今は夢美のなんちゃって魔法に頼るしかないのだ。

 

(それにしても……)

 

 つい先程までらしくもなく狼狽していた進一だったが、どうやら今は幾分か冷静さを取り戻しつつあるらしい。こんな状況下でもどこか抜けている夢美の様子を目の当たりにして、逆に調子が戻ってきたのだろうか。

 まぁ何にせよ、進一が落ち着いてきたのならそれでいい。やはり彼は狼狽よりも冷静の方が似合っている。

 

「夢美。そのルミネセンスってヤツ、あと何回使える?」

「え? そ、そうね……。手持ちの十字架はあと九個かしら。でも一度投げちゃったやつにもう一度不可視光線を照射させれば、再利用は可能だと思うけど……」

「……そう」

 

 いや。それだけあれば十分だ。

 

「お兄さん。ちょっといいかな?」

「……うん?」

 

 冷静さを取り戻しつつある進一。キョンシーに対して比較的有効な攻撃手段を持つ夢美。これらの要素から鑑みて、今取るべき最前の行動は。

 

「あたいと夢美が何とか突破口を切り開く。だからその隙にお兄さんは妖夢を助けに行って」

「なに……?」

「ちょ、ちょっとお燐……!?」

 

 真っ先に夢美が苦い反応を示す。

 分かっている。彼女が何を思っているのか、それは分かっているのだけれど。

 

「悔しいけど、今のあたいの攻撃じゃあの数のキョンシーを一気に蹴散らす事は難しいと思う。でも夢美が協力してくれれば、一瞬だけなら突破口を開く事も可能なはず……」

「ま、待ちなさい! それって進一を一人で行かせるって事!? そんなの……!」

「……いや、ちょっと待って」

 

 口を挟んできたのは蓮子だった。慌てた様子の夢美とは裏腹に、彼女は至極冷静な様子である。いつになく芯の通った真剣な面持ちで、蓮子は意見を口にする。

 

「私もお燐ちゃんの意見に賛成かな。妖夢ちゃんを助けに行くのなら、進一君が適任だと思う」

「れ、蓮子……! あなたまで……!」

「教授。たまには進一君を信じてあげてくれませんか?」

 

 彼女は、未だ納得のできない夢美を諭すかのように。

 

「進一君は教授が思っているほど弱い男の子じゃないですよ。大切な誰かの為に必死になって、大切な誰かを支える事ができる。進一君は、そんな強い人なんです」

「……っ!」

 

 夢美は大きく息を呑むが、それでも構わず蓮子は進める。

 

「進一君ならきっと何とかしてくれる。進一君ならきっと妖夢ちゃんを助けられる。私はそう信じています」

 

 「だって……」と。進一へと笑顔を向けながらも、蓮子は言った。

 

「進一君も、秘封倶楽部の一員だから」

 

 宇佐見蓮子は秘封倶楽部のリーダーである。先頭に立って進んで活動し、先頭に立って進んでメンバーを引っ張って。リーダーとして倶楽部メンバーと向き合い、そして同時に友人として倶楽部メンバーを理解しているから。

 そんな彼女だからこそ、こんな信頼を置く事が出来る。そんな彼女だからこそ、多くの言葉を語らずとも信じる事が出来る。

 

 宇佐見蓮子は岡崎進一を信じている。彼の持つ可能性に信頼を寄せている。

 

 そんな彼女の気持ちを受けて、進一の心が揺れ動かないはずがなかった。

 

「……行かせてくれ、姉さん」

「進一……?」

 

 静かに、けれども強い意志を持って。

 進一は口を開く。

 

「俺は妖夢を助けたい。いや、俺が助けなきゃならないんだ。だから……」

 

 進一は本気だった。決して軽い気持ちなどを抱いている訳ではない。だからと言って、青臭い正義感に身を委ねている訳でもない。ただ、魂魄妖夢という少女を助け出したいと。そんな強い意志をしっかりと持って、こうしてその役割を買って出ている。

 

 進一の様子を見れば分かる。今の彼にとって、妖夢はただの居候というだけの存在ではないはずだ。もっと大切な存在。家族とはまた少し違う、心の拠り所。それ故に、彼はここまで必死になる事が出来る。

 お燐が妖夢救出に彼を指定した理由はそこにある。きっと妖夢だって、同じくらいに彼を想っているはずだから。そんな進一が妖夢のもとへと辿り着く事が出来れば、きっと彼女の力になるはずだ。

 

「で、でも……」

 

 分かっている。きっと夢美だって、その点は理解しているはずだ。

 だけれども。その一歩が、どうしても踏み出す事が出来ない。どんな条件を並べられても、最終的には最愛の弟に対する心配が勝ってしまう。故に彼女は、首を横に振らざるを得ない。

 

「やっぱり、一人でなんて……」

「あ、あのっ……!」

 

 再び口が挟まれる。けれども今度は蓮子ではない。

 マエリベリー・ハーンだった。

 

「それなら、私も一緒に行きます……!」

「えっ……?」

「進一君を、一人にさせたくないんですよね……? だったら私も行きます! それでどうでしょう?」

「め、メリー、お前……」

 

 先程から口数が少なかったメリー。無理もない。こんな状況に立たされて、恐怖心を覚えない方がどうかしている。陰に隠れ、怯えて震える事しかできなかった彼女だけれども。

 それでも、メリーは進一の為に立ち上がった。恐怖心を無理矢理にでも払拭し、彼女もまたしっかりとした意思を持って。

 

「私の『眼』は“非常識的”な現象に敏感です。だからきっと役に立てるはず……」

「……いいのか?」

「……ええ。私だって、妖夢ちゃんが心配だから……」

 

 結束してゆく。秘封倶楽部のメンバーが、妖夢を助ける為に動いてくれる。秘封倶楽部のメンバーが、進一の意見を尊重しようとしてくれている。

 成る程。これが彼女達の絆か、とお燐は実感していた。本来ならばこちらの世界の住民ではないはず妖夢を受け入れ、今もこうして彼女の為に必死になってくれている。彼女の為に、意思を束ねてくれている。

 何だか。そんな関係が、ちょっぴり羨ましい。

 

「あたいからもお願いだよ、夢美。お兄さんの……進一の意思を、尊重してあげて……!」

「…………っ」

 

 夢美は息を詰まらせる。自らの不安感とお燐達の意思。その二つの間に板挟みになって、彼女は葛藤している。

 一度大きく深呼吸する夢美。高まる気持ちを抑え込み、荒ぶる呼吸を整えて。か細い声で、彼女は呟く。

 

「まったく……。これじゃあ、まるで私が悪者みたいね」

 

 しかし、それからすぐに顔を上げて。

 

「……分かったわ」

 

 彼女の表情に、迷いはなかった。

 

「行ってきなさい、進一」

 

 不安感が完全に拭い去れた訳じゃない。それでも夢美は、進一の背中を押す事を選んだ。彼の意思を尊重し、送り出す事を選んだ。

 たった一人の最愛の弟。かけがえのない家族。姉として、そんな彼を信じてやれなくてどうする、と。きっと夢美は、そう思ってくれているに違いない。

 

「まぁ、何て言ったって私の弟だしね。こんな心配、必要ないのかも知れないわね」

「……っ。姉さん……」

 

 そうだ。これでいい。過保護なだけか姉弟の在り方じゃないはずだ。

 大切な存在だから。決して失いたくはないから。だから自分が守り通さなければならない、などという考えはあまりにも早計だ。本当に大切に思っているのなら、時にはしっかり意思を受け止め、信じてやる事が必要なのである。

 そうだ。想いの一方通行なんて、絶対に間違っている。互いの想いを受け止めて、しっかりと理解する事こそが最善であるはずだ。しっかりとその気持ちを、伝え合うべきなのだ。――取り返しのつかない事態に陥る前に。

 

 それが――家族というものだろう?

 

「でも一つだけ約束! 絶対に無事に帰ってくる事! いい?」

「ああ……!」

「メリーもよ! 無茶だけは絶対にしちゃダメだからね!」

「えっ、あ……は、はいっ!」

 

 それだけを言い残し、夢美はさっさと踵を返す。自分の気が変わってしまう前に、早いところ実行に移してしまおう、という事なのだろう。再びレーザーポインターを握り締め、そして懐から先程と同じ十字架を取り出した。

 

「さぁ、そうと決まれば早速おっぱじめるわよ! お燐!」

「うん、分かってる! あたいが合わせるから、夢美は好きなようににやっちゃって!」

 

 先程のルミネセンスでキョンシー達の勢いは幾分か弱まったが、しかしそれも一時的なものだ。大きなダメージソースと成り得ないあの閃光では精々足止めが限界で、視力が回復してしまえばキョンシー達は再び襲いかかってくるだろう。現にキョンシー達の陣形は既に修復されており、相も変わらず逃げ道は完全に塞がれてしまっている。

 故にチャンスは一瞬。その一瞬をどこまで伸ばせるかは、お燐の弾幕にかかっている。

 

「いくわよっ!」

 

 再び十字架が投擲される。それと同時に夢美はレーザーポインターを突き出して、ボタンを押して不可視光線を照射する。

 そのタイミングに合わせ、お燐は弾幕を展開した。

 

「『食人怨霊』!」

 

 閃光。そして爆発。夢美のルミネセンスとお燐のスペルカードにより、再びキョンシー達は後退を余儀なくされる。圧倒的な人海戦術によりお燐一人の攻撃程度じゃ殆ど崩れなかった陣形だが、夢美も一緒となれば話は別だ。

 激しい閃光と爆発によってキョンシー達は退き、悶えるような呻き声を上げつつも次々と膝をついてゆく。

 

 陣形に、穴が開いた。

 

「今よ!」

 

 夢美の掛け声が木霊する。その叫び声が届くや否や、進一達はすぐさま行動を開始した。

 

「よし! いくぞメリー!」

「う、うん……!」

 

 駆け出す進一とメリー。未だ悶えるキョンシー達はそんな彼らに気付いておらず、進行を邪魔しようとする気配はない。お燐達の攻撃を受けていないキョンシー達も今や標的を完全にこちらへと絞っているようで、やはり進一達へと攻撃を仕掛けるつもりはないらしい。

 想像以上のチャンスだ。このまま行けば――。

 

「っ! 進一君! メリー!」

 

 直後。真っ先に危機感を覚えた宇佐見蓮子が、突然声を張り上げる。ワンテンポ程遅れて、お燐はようやく不足の事態を認識した。

 宮古芳香だ。彼女だけは、真っ先に進一達へと飛び掛かったのである。当然ながらお燐達の攻撃の影響も然程受けておらず、それどころかこちらの作戦を完全に理解しているような――。

 

「アアアアァァッ!!」

 

 芳香が発するそれは、最早呻き声に近い。他のキョンシー達と違って飛行能力まで併せ持つ彼女は、あっという間に進一達へと追い付いて。

 

「なっ……!?」

「う、嘘……!?」

 

 その鋭い爪を、容赦なく――、

 

「させない!!」

 

 ――振り下ろすなど、お燐が許すはずがない。

 ありったけの妖力を一点に集中させ、さながらロケットの如き勢いでお燐は飛び出した。その勢いのまま彼女は芳香を押し倒し、馬乗りになって動きを拘束する。両腕を力強く抑えつけてしまえば、身体の堅い芳香は簡単には抜け出せまい。

 

「お燐ちゃん!?」

「あ、あたいの事はいい……! 二人は早く行って!!」

「す、すまん! 恩に着る……!」

 

 バタバタと暴れ回って抵抗する芳香。そんな彼女を必死になって抑え込みながらも、お燐は声を張り上げる。後ろ髪を引かれるような表情を進一達は浮かべていたが、それでもお燐の要求通り包囲網から脱出してくれた。

 

 小さくなってゆく二人の姿。未だもだえ苦しんだままの周囲のキョンシー達。そして流れ込んでくる夢美と蓮子の歓声。

 そうだ、これでいい。あとは進一達を信じ、自分達はキョンシーの攻撃を掻い潜るだけだ。

 一先ず作戦の成功を認識したお燐は、未だ抵抗を続けている芳香へと視線を落とす。

 

「さあ、もう一度あたいが相手をしてあげる……! 進一達の邪魔はさせないよっ!」

「――――ッ!!」

 

 進一達の無事を祈りつつも、お燐は芳香へと向けてそう宣言するのだった。


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