桜花妖々録   作:秋風とも

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お待たせしました。


第42話「剣撃」

 

「幻想郷を、救う……?」

 

 霍青娥から放たれた予想もしない言葉を前に、妖夢は面食らっていた。

 息を飲み込む。一体、彼女は何を言っている? まさかとは思うが、それは言葉通りの意味という訳ではないだろう。だって、幻想郷が()()()()になってしまう程の大異変を引き起こしたのは、他でもない――。

 

「うふふ。何を言っているのか分からない、とでも言いたげな顔ですね」

「……当たり前です。一体、その言葉にどんな意味があって……」

「言葉通りの意味ですよ。言葉通り、私は幻想郷を救おうとしています」

「何だと……?」

 

 それは、本気で言っているのだろうか。

 

「ふざけるのも大概にして下さい。どの口がそんな事を……」

「ふざけてなどいませんよ。私は本気です」

「…………っ」

 

 この邪仙、一体何を企んでいる?

 妖夢は歯軋りをする。さっきから彼女の腹の内を探ろうと必死になっているが、どうにもその考えを読み解く事ができない。何を考えているのか察する事もできず、何が目的なのか見当をつける事もできず。ただ一方的に翻弄され、話が不利な方向へと進んでゆく。そもそもこいしが人質に取られた時点でこちらの負けだ。

 相手は非常に狡猾な女性である。ここで幾ら妖夢が反撃の隙を窺った所で、それは結局無駄なあがきに終わってしまう。

 

「妖夢……」

 

 こいしの不安気な声が耳に届く。ちらりと彼女の姿を一瞥した後、妖夢は思わず握る拳に力を入れた。

 霍青娥の言っている事を信じる事なんてできやしない。けれどこちらは人質を取られている身。下手な動きを見せれば、こいしにどんな被害が及ぶかも分からない。

 青娥に甘さなんて存在しない。その気になれば、自ら手を下す事だって躊躇わないだろう。

 

(くっ……!)

 

 だけれども。そうは言っても、やはり――。

 

「まったく……。いつまでウジウジしているつもりだ?」

「ッ!」

 

 突然第三者の声が流れ込んできて、妖夢は弾かれるように顔を上げる。

 部屋の出入り口。ちらりと視線を向けると、その縁に寄り掛かって腕を組む一人の女性の姿が飛び込んできた。

 今の妖夢と同じくらいかやや小柄な体格。金色の瞳。金髪のツインテール。

 直接会った事はない。だけれども、記憶の奥底に微かに存在している。突如として妖夢達の目の前に現れた、この女性は。

 

「ちゆり、さん……!?」

「ん? へぇ……。私の事が分かるのか。どうやら結構影響を受けちまっているみたいだな」

 

 北白河ちゆり。確か、岡崎夢美の助手にあたる人物だったか。毎日無茶な事ばかりする夢美に振り回されている女性で、それでも快く妖夢達に協力してくれていたのだ。大雑把に見えて、意外と冷静な判断力を持ち合わせていて――って、今はそんな事などどうでもいい。

 なぜだ。なぜ彼女がこんな所にいる?

 

「あらあら、ちゆりさん。意外と早かったですね」

「……夢美様は無力化した。これで良かったんだろ?」

「ええ。ばっちりです」

「なっ……!?」

 

 ナチュラルに近況報告を交わすちゆりと青娥。そんな彼女らの姿を目の当たりにして、妖夢はますます混乱した。

 何なんだ、この状況は。一体、彼女らの間にどんな関係が――。

 

「あいつだ……」

「えっ……?」

 

 その時。震える声を上げたのは、他でもないこいしだった。

 

「あいつが、私をここまで連れてきて……!」

「……ッ!?」

 

 まさか、そんな。

 有り得ない。それじゃあ、彼女は。

 

「随分と驚いているみたいだな、妖夢」

 

 戦慄する妖夢。言葉を見失っている彼女対し、嘲るようにちゆりは歩み寄ってくる。それから無機質な瞳を妖夢へ向けると、

 

「悪いな妖夢。私はこういう女なんだ」

「そ、んな……」

 

 今この瞬間、はっきりとした。はっきりとせざるを得なかった。

 北白河ちゆりは霍青娥と繋がっている。妖夢達が警戒していた内通者の正体は、彼女だったのだ。

 

 妖夢は思わず身を引いてしまう。突き付けられた真実を、受け止め切る事ができなくて。あまりにも残酷な事実を、必死になって否定する事しかできなくて。

 けれども、これは偽りなどではない。嘘などではない。質の悪い冗談などでもない。

 

 紛れもない真実。彼女はずっと、妖夢達を騙し続けていたのだ。何食わぬ顔で近づいて来て、味方のフリをし続けて。その裏で彼女は、霍青娥と――。

 

「おいおい妖夢。お前がそこまで動揺する必要はないんじゃないか?」

「えっ……」

 

 ふんっと、ちゆりは鼻で笑う。

 

「だって私達は、今日が初対面じゃないか。それなのにずっと騙され続けてたみたいな顔してさ」

「あっ……」

 

 確かに、それもそうだ。

 北白河ちゆりとは会った事がない。名前くらいはお燐や夢美から聞いた事はあったけれど、実際にこうして対面するのは初めてだったはずだ。

 それなのに。どうして、こんな気持ちが溢れてくるのだろう。どうしてこんなにも悲しくなるのだろう。彼女との面識がない自分には関係ないはずだ。そもそも裏切られる云々以前の問題だ。

 

 それなのに。まるで、ずっと傍にいた事があるかのような、この感覚は――。

 

「それが所謂タイムパラドックスってヤツの一種さ」

 

 ちゆりは口角を吊り上げる。今も尚混乱の様子を隠しきれない妖夢とは対照的に、彼女は実に愉快適悦な様子だった。

 その様は、自らの研究テーマが絡んだ時の岡崎夢美を彷彿とさせる。頭の整理が追い付かない妖夢をよそに、ちゆりはずいずいと説明を続ける。

 

「本来ならば、同じ時間に別の時間の同一人物が同時に存在するなんて有り得ない。魂魄妖夢という存在は、あくまでただ一人の人物として定義されなければならないんだ。それなのに、その()()()()に増えちまったらどうなると思う?」

 

 世界は常に動いている。過去と現在、そして未来。本来ならば時の流れは一定かつ一方のみであり、逆流する事も、その流れが加速する事もない。

 時間への介入によるイレギュラー。その不規則性が世界の歩みを阻害する“矛盾”だと判断された場合、何らかの形で“修正”が行われる。

 

「それでもあくまで()()の人物として定義されるんだよ。過去から連れてこられたお前も、そしてこの時間における本来の住民であるお前も。ただ一人の魂魄妖夢として、世界からは認識される。お前の感じている違和感の正体はそれさ。全く同じ人物なんだから、当然同じ経験を踏まなきゃならない。いや、この場合、“同じ経験を踏んだ事にしなけりゃならない”、とでも言った方が正しいか」

 

 それは、つまり。

 

「感じた事のない感覚。身に覚えもない感傷。私の中に流れ込んでくるこの奇妙な“記憶”は、全て子供の私からの影響によるもの、という事ですか……」

「ああそうだ。話が早くて助かるぜ」

 

 成る程、そういう事だったのかと妖夢は納得していた。

 ここ最近、日増しに強くなっていくこの奇妙な感覚。その原因があちらの妖夢からの影響によるものだと考えれば、一応辻褄は合う。

 これは、あちらの妖夢の中にある記憶だ。この時間の妖夢が経る事はなかった経験。本来ならば作る事もなかったはずの思い出。

 

「ま、記憶の反映に関してはどうやら一方通行みたいだけどな。お前の中にはあいつの記憶が流れ込んできているみたいだが、あいつの記憶はお前の影響をあまり受けてはいない。私の理論とはちょっと違った結果になっちまったが……まぁ、この程度なら誤差の範疇だ」

 

 それでも異常な事態が起きている事に変わりはない。これ以上、互いの妖夢が互いに強く共鳴し合ってしまったら。

 一体、どうなってしまうのだろうか。

 

「でもタイムパラドックスはこれだけじゃない。今はまだこの程度で事足りているみたいだが、これ以上二人の妖夢(おまえたち)の認識にズレが生じれば、こちらとしても都合の悪い事になる」

 

 言いつつも、ちゆりは歩み寄ってくる。

 無機質で冷たい瞳。いつになく低いトーンの声。背筋に悪寒が走る程の、鋭い視線を妖夢へと向けて。

 

「時間がないんだ。黙って私達に協力してくれ、妖夢」

「…………ッ」

 

 何なんだ。何なんだ、彼女は。

 訳が分からない。彼女が何を考えていて、一体何を感じているのか。一体どんな気持ちを抱いて、進一達を騙し続けていたのか。

 一体何が目的で、こんな事――。

 

(だが……)

 

 分かっている。今の妖夢に、拒否権なんてありはしない。

 彼女達とここでやりあうつもりはない。仮に剣を振るった所で、こいしを盾にされては妖夢も満足に実力を発揮できない。それどころか、こいしに余計な危害を加えてしまう恐れがある。

 選択肢は一つしかない。訳が分からないだろうが何だろうが、今は彼女達に従うしかないのだ。

 

「うふふ。物分かりが良くて助かります」

 

 相も変わらず青娥は不気味な笑みを浮かべる。それでも今は、彼女を睥睨するくらいしかそれらしい抵抗もできない。

 情けない。まさか、こうも簡単に彼女らの術中に嵌ってしまうとは。

 

「私に、一体何をさせるつもりですか……?」

 

 恐る恐るといった様子で、妖夢は青娥へとそう尋ねる。当の彼女は、にやりと笑って。

 

「貴方には仕上げをお願いしたいのです」

「仕上げ……?」

 

 頷きつつも、青娥達は続ける。

 

「ちゆりさんも言っていたでしょう? ある時間に別の時間の同一人物が同時に存在するような事があった場合、それでもあくまで一人の人物として世界からは定義されると。そんな二人の同一人物が、真正面からぶつかり合うと……」

「その相乗効果により、魂魄妖夢の潜在能力は極限まで引き出される。お前には強くなって欲しいんだ、妖夢。まぁ厳密に言えば、幻想郷で起きている『異変』とやらをまだ経験していない、過去のお前にな」

 

 つまり。過去から連れて来られたあの妖夢に、『異変』を解決させるという事か。

 確かに。この時代では不可能なのかも知れないけれど、あの頃ならば或いは――。

 

「……記憶の反映に関しては一方通行なのでしょう? 仮に私があの子と交戦したとしても、貴方達の思惑通り潜在能力を引き出せるとは限りませんよ」

「ふふっ。その件に関しては問題ありませんよ。既に貴方は、過去から連れて来られた自分自身と交戦しています。その結果、理論通りの現象を確認していますから」

「えっ……?」

 

 間髪入れずに、ちゆりが補足を挟む。

 

「クリスマスイブでの件の後、妖夢は早朝にお燐と剣術の鍛錬を行っている。お燐から聞いた話じゃ、手も足も出なかったって事だが……」

 

 確かに、ぼんやりとそんな記憶も流れ込んできている。クリスマスイブでの大敗を経た後、更なる高みを目指すために剣術鍛錬を始めたのだが――。

 

「自分は剣術に精通してないから、妖夢には敵う訳がない。お燐はそう言っていたが、その認識は間違っている」

 

 そうだ。確かに、あの時は。

 

「半霊を失った今の妖夢は大きく弱体化している。霊力が使えなきゃ、身体能力はちょっと剣術に精通した人間と同程度のはずだぜ。幾ら人間に化けているとはいえ、火車であるお燐相手にそこまで圧倒出来る訳がない」

 

 現在、お燐は耳も尻尾も隠した“完全な”人間の姿に化けて貰っている。この姿を維持するには多くの妖力を割かなければならず、その分だけ本来の力を発揮できなくなってしまう。

 妖怪である自分に対する自己否定。それによる弱体化はそれなりに大きいが、それはあくまで一時的なもの。ある程度の“慣れ”が生じれば、それなりの実力を発揮する事ができるようになるはずなのに。

 

「子供の妖夢は、既に完全な人間の姿に化けたお燐を圧倒する程の力を発揮する事ができている。そんな状態で、もう一度お前とぶつかるような事があれば……」

「更に強くなれる、ですか」

「ああ。そういう事だ」

 

 おそらくあちらの妖夢は気付いてないだろうが、彼女の力は既に“常識”を逸脱している。半霊を失い、霊力が使えなくなっているのにも関わらず。単純な身体能力に関しては、霊力による補助を行っていた頃にも匹敵する程だ。

 確かに。もしも彼女が、あれ以上の力を身に着ける事が可能なのだとすれば。

 

「ふふっ。本当に期待以上ですよ。あの頃の妖夢さんが持っている可能性は、それこそ無限大ですね」

 

 愉快そうに青娥が笑う。想像以上の結果を得る事ができて、実にご満悦な様子。

 妖夢自身も驚いているのだ。まさか自分に、それほどまでの力が隠されていただなんて。半人前だ、未熟者だと謙虚になって、心のどこかで自分の実力を信じ切る事ができていなかったのに。

 いや。逆に言えば、そんな卑下が成長の妨げになっていたのかも知れない。自分の実力を理解し、自分の実力を信じる事ができなかったから。中途半端な所で成長が止まっている。

 

 青娥達の狙いはそこにあるのだろう。タイムパラドックスを引き起こす事で、妖夢の自己否定を無視して強引にでも潜在能力を引き出すつもりだ。

 

「どこまで、読んでいたんですか……?」

 

 震える声で、妖夢は問う。

 

「貴方の都合の良いように、事が進んでいるのでしょう……? 一体、どこまで想定してこんな事を……」

 

 青娥は表情を崩さない。愉快そうな笑顔を浮かべたまま、彼女は口を開く。

 

「最初から、ですよ」

 

 透き通るような彼女の声が、妖夢の耳へと届く。

 

「全部、想定内でした。貴方が私を追ってこちらの世界へと足を運ぶ事も。過去から連れて来られた自分自身へと剣を振るう事も。そして今日、このタイミングで私のもとへと辿り着く事も」

 

 うふふ、と。もう一度笑い声を上げた後。

 

「そういう『運命』ですから」

「…………ッ!」

 

 運命。霍青娥が口にしたその単語を認識した途端、妖夢の脳裏に電撃のような衝撃が走った。

 息が詰まる。口をつぐむ。ついさっきまで混乱の所為でぐちゃぐちゃだった頭の中が、今この瞬間だけクリアーになった。

 バラバラだったパズルのピースが、がっちりと嚙み合うような感覚。快感にも似た感覚であるが、けれど込み上げてくるのは憤りにも近い感情。

 

 してやられた、とでも言うべきだろうか。もしも妖夢の推測通りならば、覚えていたこの違和感も納得できてしまう。

 なぜ青娥は、ここまで先を想定する事ができたのか。なぜ妖夢は、青娥の思惑通りの行動を取ってしまったのか。

 その理由は、至極単純。

 

「そういう事ですか……。レミリアさん」

 

 妖夢はぼそりと呟く。そして深いため息をついた後、おもむろに顔を上げる。

 霍青娥と北白河ちゆり。この騒動を引き起こした彼女達を見据える。握り拳から力を抜き、強張っていた肩を落として。魂魄妖夢は、口を開く。

 

「分かりました」

 

 腰に携えていた剣を手に持ち、そしてそれを掲げる。

 

「もう一度、あの子と戦えばいいんですね?」

「よ、妖夢っ……!?」

 

 こいしの声が流れ込んでくる。今の彼女が抱くのは、妖夢の下した判断に対する不満の念か。それとも妖夢の選択肢を狭めてしまった自分に対する自責の念か。

 だけれども、いずれにしても関係ない。ここで幾ら迷ったとしても、今の妖夢が進むべき道は一つしかない。

 

 最初から仕組まれていた事なのだ。今更抗おうとした所で、もう遅い。

 

「大丈夫だよ、こいしちゃん」

 

 それでも妖夢は、未だに希望を見失ってはいない。

 

「……絶対に、私が何とかしてみせる」

 

 青娥の事は信用していない。信用なんて、出来る訳がない。

 だけれども。彼女ならば、或いは――。

 

「決まり、ですね」

 

 青娥は表情を崩さない。最後の最後まで余裕綽々な様子だった。

 気に食わない。飄々とした態度が癇に障る。出来る事ならばここで一泡吹かせてやりたい所だが、睨みつけるだけに留めて妖夢はぐっと我慢する。

 

「それでは、改めてお話しましょうか。今後のプランを、ね……」

 

 

 ***

 

 

 一振りの重い剣撃が、彼女目掛けて襲い掛かった。

 振り上げられた楼観剣による上段斬り。華奢な少女が振るっているとは思えない程の重い一撃が彼女へと迫るが、冷静にそれをいなす事によって難なく直撃を回避する。それでも少女は振り下ろした剣を今度は振り上げてくるけれど、生憎彼女はそんな単純な攻撃を食らってやるほど優しくはない。

 大きく身を逸らせる事でその追撃を回避。バランスを崩した少女目掛けてお返しと言わんばかりに剣を振るい、その斬撃を浴びせた。

 

「ぐっ……!?」

 

 吹っ飛ばされる少女。咄嗟に楼観剣を盾にして直撃は避けたようだが、その程度ではダメージを完全に防ぐ事などできやしない。彼女が放つのは霊力を込めた不可視の斬撃。空気を震わすその一撃は波紋のように広がり、少女の身体に骨の髄まで衝撃を与える。

 常人が食らえば骨が砕ける程の攻撃である。けれど目の前にいるこの少女は常人などではない。

 半人半霊。その最大の特徴である半霊を失ってはいるものの、少女は紛れもなく人智を超えた存在。受けたダメージは決して小さくないはずだが、それでも少女は立ち上がる。

 

「まだ、まだぁ……!!」

 

 再び剣を構え、そして少女は肉薄する。今度は白楼剣も抜き放ち、あの少女が最も得意とする二刀流の構えだ。

 防御など度外視した攻撃特化の剣撃。並みの剣士が安易に使えば自らの首を絞める事になる、言わば諸刃の剣である。だけれども、幻想郷最速の剣撃速度を持つこの少女だからこそ。或いは『剣術を操る程度の能力』を持つこの少女だからこそ。諸刃の剣はその身と融和する。

 攻撃は最大の防御などとはよく言ったものだ。少女の放つ剣術には一瞬の隙もなく、防御に専念せざるを得ない程の圧倒的な連撃である。彼女が攻撃に転じるよりも先に次の一撃が振り落とされ、瞬きをするよりも先に更なる斬撃が襲いかかる。

 

 だけれども。『剣術を扱う程度の能力』を持っているのは、この少女だけではない。

 瞬間なんて必要ない。それよりも更に刹那。それだけあれば十分だ。

 

「甘い……!」

 

 常人ではまず認識する事さえも出来ぬ程の一瞬の隙。それを的確に突いて、彼女は剣を振り下ろした。

 『能力』には『能力』だ。過去の自分の『剣術』など、今の自分の『剣術』でねじ伏せてしまえばいい。

 少女の攻撃速度を遥かに上回る剣撃。肉薄した彼女の剣が少女の右肩を捉える。幾ら二刀流の剣士とは言え、利き腕を失えばそれ以上は戦えない。

 

 彼女の放つ一撃が少女の腕を斬り裂き、その剣術を蹂躙する。

 ――はずだった。

 

「…………ッ!?」

 

 二人の剣士の緊張感。刹那に狭まる心の余裕が、彼女達の感覚を麻痺させる。

 時間経過が極端に遅くなるような感覚。集中力が極限まで高められ、体感時間が急激に引き延ばされる。それはまるでスローモーション。自分達だけ別の世界に放り込まれたような感覚の中、彼女の視覚は確かにそれを捉えていた。

 振り下ろされた剣。少女の肩を斬り裂くはずだったその斬撃の軌道は、白楼剣によって大きく逸らされていたのである。

 攻撃の受け流し。まるで端からその瞬間を狙っていたかのように、少女はその剣撃を躱して、

 

「甘い、と言いましたね」

 

 残像のようにその姿が掻き消える。

 

「その言葉、そっくりそのままお返しします」

 

 見えなかった。彼女でも視覚する事が出来ぬ程の早業だった。

 四方八方から一度に斬撃が浴びせられる。肌が斬られるような感覚。しかしダメージを認識するよりも先に、一際重い一撃が彼女へと襲い掛かった。

 防ぎ切る事が出来ない。鈍い金属音と共に、彼女の身体は弾き飛ばされる。

 

「か、はっ……」

 

 衝撃。遅れて走るのは鈍い痛み。左腕へと目をやると、裂けた衣服から血が滲み出てきているのが確認できる。ピリピリと麻痺する左腕の感覚。ダメージは決して少なくない。

 

 カウンター攻撃。完全に油断していた“この時代”の魂魄妖夢は、“過去から連れて来られた”自分自身の策略にまんまと嵌ってしまった。

 両足に力を籠め、彼女は転倒を避ける。ダメージは小さくないが、それでも致命傷ではない。三度笠の鍔を掴みつつも、妖夢は顔を上げる。

 

 空観剣『六根清浄斬』。まさか半霊なしであの剣術をやってのけるとは、完全に予想外だった。外の世界での鍛錬を重ね、単純な身体能力だけで扱えるようになったのだろうか。

 ――いや。それは少し違う。

 

「……いい剣術です」

 

 今の一撃。完全に人間が扱えるような剣術を遥かに凌駕している。未来の自分との交戦により潜在能力が引き出され、失われた半霊の分の力を取り戻しつつあるのだろう。

 やはりこれも、青娥達の言うタイムパラドックスとやらの影響――。

 

「痛み分け、ですか」

「えっ……?」

 

 しかし。やはりまだ甘い。

 

「ッ!?」

 

 鮮血。ワンテンポほど遅れ、少女の右脇腹から生々しい赤が迸る。

 からんと、そんな音を立てて剣が滑り落ちる。どさりと片膝をついた少女は、信じられないといった面持ちで自分の脇腹へと視線を向ける。みるみる赤く染まってゆく衣服の様子を、震える瞳が捉えていて。

 

「空観剣返し、とでも言いましょうか」

 

 左腕の感覚を確認しつつも、妖夢は少女へと言葉を投げかける。

 

「一矢報いたつもりでしたが、どうやら浅かったようですね……」

「うっ、くぅ……!」

 

 脇腹を抑えつつも、少女は立ち上がる。やはり致命傷とは成り得ない。

 この感覚。まるで霊力の膜にでも拒まれたような手応えだ。まさかこの少女、半霊なしでも霊力が使えるようになったのだろうか。

 だとしたら、やはり青娥達の思惑通りという事になる。このまま戦い続ければ、少女の潜在能力は更に高められるのかも知れないが――。

 

(でも……)

 

 この違和感は何だ?

 確かに少女は強くなった。クリスマスイブでの戦いと比べるまでもない程に。けれどその一方で、あの時は感じられなかった妙な雑念が、彼女の剣撃から伝わってくるような気がする。

 分からない。記憶の混濁を経ても尚、理解する事ができない。一体なんだ、この感覚は。一体この少女は、何を思って剣を振るっている?

 

「まだ、です……」

 

 少女が鋭く睨みつけてくる。震える身体に鞭を打ち、少女は士気を無理矢理高める。

 その意気込みは結構。あちらから向かってきてくれるのなら、こちらとしても都合がいい。その為に、あそこまで()()()()()()煽って見せたのだから。

 だけれども。

 

「一つ、聞いてもいいですか?」

 

 魂魄妖夢は、疑問を呈する。

 

「貴方は、一体何を迷っているのです?」

 

 

 ***

 

 

 無我夢中だった。無我夢中で剣を振るい、そして遂に一撃を浴びせる事に成功した。

 クリスマスイブの時とは違う、確かな手ごたえ。それを感じていた矢先に、この右脇腹のダメージである。何とか致命傷を避ける事はできたものの、まだ予断を許せない。これ以上血を失う前に、早いところケリをつけなければならないのに。

 どうして、この女性は。

 

「貴方は、一体何を迷っているのです?」

 

 心臓を鷲摑みにされるような感覚。ゾワッと、妖夢の背筋に悪寒が走る。

 膨れ上がる動揺を、確かに感じ取りながらも。妖夢は女性を睨みつける。

 

「何を言って……」

「貴方の剣には迷いが生じている。文字通り生死を賭けた戦いに身を投じても尚、気が散って上手く剣術を扱えていない」

「……っ!!」

 

 ギリっと、妖夢は歯軋りをした。

 

「言葉で私を惑わせるつもりですか? そうはいかない……!」

「…………」

 

 三度笠の女性が、肩を落としているのが分かる。作戦の失敗による落胆か、それとも――妖夢の返答に対する失望か。

 どっちにしても関係ない。彼女が何をほざこうと、妖夢の剣術は絶対だ。

 

(そうだ……。私は……!)

 

 迷ってなどいない。気が散ってなど決してない。

 集中しろ。惑わされるな。今は目の前にいる敵を斃す事だけを考えろ。雑念なんて捨て去ってしまえ。

 

 血が滲む脇腹から手を離し、妖夢は落とした剣を拾い上げる。脈動に合わせて傷口が疼くような痛みに襲われるが、それでも全く身動きが取れない程ではない。三度笠の女性を睥睨し、二刀流を構え。妖夢は再び攻撃を仕掛ける。

 

「はあっ!」

 

 雄叫びを上げる。体力の消耗と脇腹の負傷により先程のようなキレは徐々に衰えてきているが、それはあの女性だって同じ事。右腕だけで剣を振るい、妖夢の連撃を次々と弾いてゆく。けれども攻撃に転じるような事はなく。

 

「……やはり迷ってますね」

「何ッ……!?」

 

 剣を振るいながらも、女性は口を開く。

 

「剣筋に統一感がなくなってきています。原因は肉体的な体力の消耗とも捉える事ができますが……それだけではないのでしょう?」

「ッ!」

 

 再び妖夢の雑念が浮き彫りになる。気持ちだけで強引に誤魔化してきた“迷い”が、女性剣士の言葉によって刺激される。集中力が途切れ始め、振るう剣にも力が入らなくなる。

 

「教えてください。この感覚は何なのですか? どうしてこんな気持ちが溢れてくるのです? どうして……こんなにも、心が掻きむしられるのですか……?」

「黙れ……」

 

 妖夢は剣を振るう。必死になって誤魔化すように。必死になって背くように。

 それでも女性は止まらない。ここぞとばかりに口を開き、次々と言葉を浴びせてくる。その度に妖夢の精神は擦り減り、胸の奥が苦しくなり。そして剣筋も大きく荒れ始める。

 

「……質問を変えましょうか」

 

 女性剣士は、言い放つ。

 

「貴方は、一体……()()()()()剣を振るっているのですか?」

 

 プツン、と。妖夢の中の何かが切れた。

 

「黙れぇ!!」

 

 一際鋭い金属音。闇雲に振り下ろされた二本の剣は女性剣士によって弾かれ、妖夢の身体は吹っ飛ばされていた。激しい衝撃が両腕に走り、妖夢は後方へと大きく吹っ飛ばされる。それでも何とか体勢を立て直し、震える両足に鞭を打って彼女は立ち上がった。

 

「う、ぅ……」

 

 ムクムクと膨れ上がる激情。なぜこんなにも頭に血が昇っているのか。どうしてこんなにもムキになってしまうのか。それは彼女自身が一番良く分かっている。

 

 否定したいのだ。優柔不断で中途半端な、自分自身を。

 

「好きになって、しまったんです……」

 

 ぎゅっと、両の手を握り締める。カチカチと音を立てて、剣と共に身体が震える。

 

「白玉楼専属の庭師兼、剣術指南役。私はこれまで、幽々子様の従者として日々を過ごしてきました。幽々子様に忠誠を誓い、幽々子様の為に剣を振るい……。この身に代えても幽々子様をお守りするのだと、そう心に決めていました」

 

 ぽろぽろと、自然と言葉が漏れてゆく。

 

「でも……。こっちの世界に放り出されて、幻想郷では経られないような出会いを経験して。生まれて初めて、覚えてしまったんです」

 

 それは恋という感情だった。

 幽々子への忠誠心とは違う。他の少女達との友情とも違う。心の奥底から湧き上がる、ポカポカとした感情。温かくて、優しくて――。妖夢の心をそっと包み込んでくれるような、そんな大きな想い。それは日増しに強くなってゆき、やがて彼女の心を満たしていった。

 

「あの人とずっと一緒にいたいって、そう思いました。この時間がいつまでも続けばいいのに、と。そう願いもしました」

 

 でも。妖夢の心を優しく包んだ恋という感情は。妖夢の心を、儚く脆いものへと変えてしまった。

 

「幽々子様の従者なのに……。幽々子様のもとへと、帰らなければならないのに……。それなのに……私はッ……!」

 

 彼を。岡崎進一という、青年の事を。

 

「幽々子様以上に、守りたいって……。そう、思ってしまって……」

 

 互いに想いを伝え合って、互いの想いを認め合って。妖夢が抱く恋心は、更に強く大きくなってしまった。幽々子に対する忠誠心さえも、飲み込んでしまう程に。

 西行寺幽々子の剣となり、そして盾になる。妖夢は剣士として、確かにそう誓った。そう、強く誓ったはずなのに。今の彼女の心は、大きく揺れ動いてしまっている。

 

「……成る程」

 

 得心した様子で、女性剣士は口を開く。

 

「忠誠心と恋心。その二つの間で板挟みになって、迷い苦しんでいるのですね」

「…………っ」

 

 妖夢は何も答えない。答える事が、できない。

 やっぱり優柔不断だなと、妖夢は自己嫌悪に陥っていた。幻想郷と外の世界。どちらを選ぶべきかなんて、明白であるはずなのに。誰の為に剣を振るい、誰のために戦うのか。そんな事、迷うまでもないはずなのに。

 

「貴方の気持ちは分かります。でも同調する事はできない」

 

 女性剣士は、剣を肩の位置まで持ち上げる。

 

「私にとって、恋心など無縁の存在です。そんな物、抱く余裕さえありませんでした」

 

 女性剣士の周囲に烈風が渦巻き始める。彼女の周囲に漂う半霊が、烈風と共に淡い光を放ち始める。

 逆巻く霊力。膨れ上がり、周囲の空気を押し出すそれは、やがて彼女が掲げた剣へと収束して。

 

「ここで幾ら迷った所で、時間の無駄にしかなりませんよ。結局の所、最終的に選ぶ事ができるものは一つだけです」

 

 クリスマスイブの時と同じだ。膨れ上がった霊力が女性剣士へと収束し、巨大な剣へとその姿を変える。

 

「それでも尚、迷い続けるというのなら」

 

 女性剣士は、霊力の剣を振り上げる。

 

「その迷いごと、私が貴方を断ち斬って差し上げましょう」

 

 妖夢は息を飲み込む。

 この女性、随分と勝手な事をいうものだ。このまま迷い続けた所で時間の無駄? 最終的に選ぶ事のできるものは一つだけ? だからその迷いを断ち斬ってやる、だと?

 ふざけるな。大きなお世話だ。そんな事、彼女に言われる筋合いなどない。

 

「……っ。私は……」

 

 魂魄妖夢は弱い。どうしようもなく弱虫で、どうしようもなく愚かで。自分の気持ちさえも整理する事ができず、誰かに支えられなければ立ち上がる事もままならず。結局の所、一人じゃ何も成し遂げられない、どうしようもない半人前だ。

 

 だけれども、それでも。

 そんな彼女の、隣に立ってくれる人がいる。そんな彼女でも愛してくれる人がいる。

 

 彼女を信じ、待ってくれている人がいる。

 

 選べない。選べる訳がない。どちらか片方だけなんて、絶対に。

 

「私はッ……!」

 

 胸の奥底から激情が溢れる。

 目の前にいるこの女性剣士は。迷いなど無駄だと、そう言い放った。さも当然の事であるかのように、どちから片方を斬り捨てようとした。

 そんな事、認められる訳がない。何の躊躇いもなく断ち斬ろうだなんて、そんな事は絶対に許せない。

 

 彼女なんかに決定させはしない。彼女なんかに好き勝手させるなんて御免だ。

 だから抗う。だから抵抗する。

 

 だって、このまま彼女の意見に流されてしまったら。

 自分が自分でなくなってしまうような、そんな気がするから。

 

「私はぁ!!」

 

 無我夢中に剣を掲げる。一心不乱に声を張り上げる。

 意識など傾けてはいなかった。半ば自暴自棄になって、荒れ狂う激情に身を任せきっていた。

 

 だから彼女は気付かない。身の底から膨れ上がる、激しい霊力の奔流に。空気を震わせ脈動する、強大な霊力の渦に。

 空気が揺れる。少女の周囲を吹きすさぶのは、あまりにも激しすぎる烈風。膨れ上がり、脈動する霊力が空気その物を爆発させ、激しく大気を震動させる。

 やがて霊力は収束する。荒れ狂う霊力が、妖夢が掲げた楼観剣を飲み込んでゆく。やがて形作るのは――青白い光の剣。

 

「……ッ」

 

 女性剣士が若干の動揺を見せるが、それでも妖夢は止まらない。

 彼女を突き動かしているのは、怒りにも似た感情だ。勝手な事ばかりを口にする、女性剣士への怒り。あまりにも理不尽で不条理過ぎる、このふざけた状況への怒り。

 そして、何よりも。未だ踏ん切りをつける事ができない、あまりにも未熟な自分自身への激しい怒り。

 

「断迷剣ッ!」

「断迷剣――!」

 

 妖夢は足を踏み出す。光の剣を振り上げて、女性剣士へと接近する。

 彼女の心は荒んでいた。どうしようもないくらいに、胸の奥が苦しかった。それでも彼女は逃げ出さない。逃げ出す事なんてできない。自分の力で踏ん切りをつけて、自分の力で解決しなければならない。

 だから彼女は、負ける訳にはいかないのだ。例えその手に掲げるのが、歪な刃であろうとも。たとえその手で振るうのが、歪んだ剣術であろうとも。

 

 魂魄妖夢は、立ち向かう。

 

「「『迷津慈航斬』!!」」

 

 閃光が、爆ぜた。


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