桜花妖々録   作:秋風とも

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第40話「殭屍」

 

 あれは、今から二週間程前の出来事だっただろうか。

 空が茜色に染まり始めた夕暮れ時の事だ。あの日は確か、秘封倶楽部の軍資金集めと称して進一を短期のアルバイトに誘った日だったか。けれども当日になって先約の用事を思い出し、ドタキャンをしてしまったと記憶している。

 

 進一との約束をドタキャンせざるを得ない先約というのは、大学関係の用事だ。ストレートに言ってしまえば補習である。

 宇佐見蓮子は勉学に関しては基本的に優秀な学生だが、如何せん講義を受ける態度に問題がある。時間にあまりにもルーズ過ぎる性格が災いして遅刻が日常茶判事であるし、しかもその癖を直そうとする態度すら見せないと来た。幾ら成績が良くても遅刻の回数が多すぎであり、それ故に単位が保留となった必須科目が幾つか出てきてしまったのである。

 

 保留となった必須科目の単位を取得する為には、補習を受けた上で追試験に合格しなければならない。進一との約束が、ちょうどその日と重なってしまったのだ。

 

『まったくもう……。ちょーっと遅刻しただけじゃない。期末テストじゃ結構いい点取ってたと思うのに……』

 

 補習及び追試験の帰り道。ぶつぶつと文句を呟きながらも、蓮子は京都の路地を歩いていた。

 冷静に考えれば遅刻癖をまるで改めようともしない蓮子の自業自得であるが、それでも文句を言わねばやっていられない。当然ながら追試験に関しては何ら問題ないだろうし、それより何より約束をドタキャンしてしまった進一の方が気がかりだった。

 お茶目な顔文字と共に約束のキャンセルをメールで伝えた蓮子だったが、今更ながら少し後悔していたりする。今になって読み返してみると、この顔文字も合わさって何だか相手を馬鹿にしているようにしか思えないような。だとすれば、流石の進一も怒り心頭になっている可能性も浮上してくる訳で。

 

『……こ、今度直接謝っとこうかな』

 

 まぁ、これもまた因果応報。自業自得である。

 冷や汗を流しつつも、蓮子は一人帰路に就く。夕暮れ時の冷たい空気が身に染みる。冬もそろそろ終わりを迎える時期だとは思うのだが、いつまでこの寒波が続くのだろうか。早いところポカポカ陽気が訪れてほしいものである。

 

 そんな他愛もない事を考えながらも歩いていた蓮子だったが、

 

『――だ、――――ぜ』

『……ん?』

 

 何やら聞き覚えのある声が流れ込んできて、蓮子は思わず足を止める。耳を澄ますと、どうやら誰かの話し声のようだ。

 蓮子は考える。流石に話の内容までは判別できないが、この声はおそらく知人のものだ。メリーや進一達ほど頻繁に顔を合わせてはいないものの、それでもかなり深い関係を築いた上で常日頃から接しているような人物――。

 

『……ちゆりさん、かな?』

 

 そう。おそらくこの声は彼女のものだ。

 岡崎夢美の助手として、常日頃から彼女のサポートをしている女性。あの曲がり角の先にいるのは彼女で間違いないだろう。

 姿は確認していないが、あの特徴的な喋り方は聞き間違えようがない。常日頃からここまではっきりと男口調で喋る女性など、彼女くらいのものだ。

 

『こんな所で何してんだろ?』

 

 夢美の助手であるはずの彼女が、なぜだかこんな人気のない裏路地いる。刺激された蓮子の好奇心は自然と彼女の身体を動かし、曲がり角へと足を進めてゆく。程なくして角へと辿り着き、その先へと視線を向けると、

 

『ちゆりさ……』

 

 危機感。

 

『ッ!?』

 

 反射的に蓮子は身を引いて、角の陰へと隠れてしまった。

 動悸が荒い。胸が苦しい。何が何だか訳が分からないはずなのに、彼女の本能がうるさいくらいに危機感を告げている。とにかく今は隠れろ、見つかってはいけない――と。

 

(な、なに……? どうして私、隠れて……)

 

 角の先にいたのは推測通りちゆりだった。だけれども、彼女だけではなかったのだ。

 彼女の足元。そこに、年端もいかないような幼い少女がぐったりと倒れこんでいる。にも関わらず、ちゆりは至極平然とした様子で、スマートフォンを耳に当てていて。

 

『流石にちょろちょろとされるのも鬱陶しかったからな。これでよかったんだろ?』

 

 曲がり角まで接近した事により、ちゆりの話し声が鮮明に聞こえてくる。

 何だ。一体彼女は、何の話をしている?

 

『で? どうするんだ? 一応、『能力』を使っておくか?』

 

 能力? 能力と言ったか、彼女は?

 何の事を言っているのだろう。彼女の目の前で倒れている少女と、何か関係があるのだろうか。

 

『……そのまま連れてくればいいのか? いいのかよそれで』

 

 蓮子は息を呑む。ひょっとしたら、自分はとんでもない現場に出くわしてしまったのではないだろうか。

 連れてくればいいのか、だとか。それじゃあ、まるで。

 

(ゆ、誘拐、現場……?)

 

 まさか、そんな、有り得ない。だって、ちゆりじゃないか。いつも気さくで明るくて、助手として楽しそうに夢美の研究を手伝っていて。蓮子の相談事にだって快く乗ってくれるような、そんな人のいい女性であるはずなのに。

 そんな彼女が、幼い子供を誘拐するなど。

 

『まぁいいさ。今はあんたに従ってやるよ』

(……従う?)

 

 どういう事だ? 裏に誰か、彼女を操る人物が控えているとでもいうのだろうか。

 

『分かってる。あいつらはまだ何も気づいてない。もしもの時は私が対処する。それでいいだろ?』

(な、何……?)

 

 蓮子の背筋に悪寒が走る。底知れぬ恐怖心が、彼女の心を支配する。

 

『……メリーの『能力』? そんな事、あんたに言われるまでもないな。要はあいつが見ていない所で『能力』を使えばいい。お燐の時もそれで上手くいったろ?』

(……っ!)

 

 急に知っている名前が出てきて、蓮子は身体を震わせる。

 分からない。何が何だか、本当に訳が分からない。彼女は誰と話している? 彼女は何の話をしている? どうして彼女の目の前に、幼い女の子が倒れている?

 彼女は。一体、何をしようとしている?

 

『……もう切るぞ。すぐそっちに向かう。じゃあ、また後でな』

 

 その次の瞬間。いよいよ居たたまれなくなって、蓮子はその場から逃げ出した。

 ちゆりに気付かれないように、慎重に。かつ、迅速に。曲がり角とは逆方向へと路地を進み、ある程度距離を離してから一気に駆け出す。息せき切って、全力で走り出す。

 

(何なの……。何なの……! 何なのよ一体……!?)

 

 本能的な恐怖心。強まってゆく焦燥感。流石の蓮子も胸中の混乱を抑える事が出来ず、錯乱の一歩手前の所まで追い詰められてゆく。膨れ上がる動揺はますます混乱を推進し、よく分からない感情が蓮子の中で入り乱れる。

 そんな中でも、唯一理解できる事と言えば。

 

 北白河ちゆりは、何かを隠している。

 

 その事実だけだった。

 

 

 ***

 

 

「……蓮子?」

「――ッ!」

 

 突然進一に声をかけられて、蓮子は我に返った。

 蓮子は慌てて顔をあげる。真っ先に視界に飛び込んできたのは、何やら心配そうな表情を浮かべている進一の姿で。

 

「どうしたんだよ。ボーっとして」

「う、ううん。何でもない」

 

 慌てて首を横に振り、蓮子は誤魔化す。進一は少々腑に落ちないような表情を浮かべていたが、それ以上追求してくる事はなかった。

 言えない。言える訳がない。だって、自分でも信じられないのだから。まさか、彼女が。北白河ちゆりが、あんな事をしていただなんて。

 

「そんな事より! やっぱり、私達以外の乗客はみんな眠っちゃってるみたいね。物音ひとつ聞こえやしないわ」

「え? あ、ああ。そうだな」

 

 無理矢理話題を転換する。これ以上追求されてしまうと、流石の蓮子も厳しい所がある。いつかは相談しなければならないと思うのだけれど――。今は、まだその時ではない。

 そう自分に言い聞かせて、蓮子も思考を切り替えた。

 

 進一と共に前の車両へと向かい始めてから数分。蓮子達は、未だに意識を保てている他の乗客との遭遇に成功していなかった。

 異常性。明らかに常識的ではない状況である。メリーの『眼』が捉えた結界の事も加味すると、やはり非常識的な何かが絡んでいるとみてまず間違いないだろう。

 問題は、こんな異常事態を引き起こした犯人の狙いは何なのか、だが――。

 

「そもそも何で俺達だけ起きてるんだ? 何か理由でもあるのか?」

「うーん……。私達の共通点として真っ先に思いつくのは、みんな何かしら『能力』を持っているって事かな。ひょっとしたら、犯人の狙いはそこにあるのかも……?」

 

 しかし、ここで幾ら考えた所で事態は好転しない。まずは自分達が立たされた状況をしっかりと把握する事が先決だろう。

 

 程なくして、目的の最前車両へと辿り着いた蓮子達。相も変わらず深い眠りに落ちたままの乗客達を横目に、運転席へと歩み寄る。ガラスで仕切られたそこへと視線を向けてみると、

 

「……あれ?」

 

 そこはもぬけの殻だった。

 他の乗客のように眠りこける運転手はおろか、人影すらも見受けられない。無人の運転席は耳が痛くなるような静寂に包まれており、誰かが侵入したような形跡も見当たらない。

 手動でブレーキをかけた訳ではないのだろうか。だとすれば、駅側からの遠隔操作という可能性も考えられるが――。

 

「……誰もいないのか?」

「うん。乗車していた運転手がブレーキをかけた訳じゃないのかな……」

 

 そうなると、ますます西京都駅の状況が心配になってくる。メリーが認識した結界の事といい、一体何が起きているのだろうか。

 

「仕方ない。一旦メリー達の所へと戻りましょ。結局起きている乗客は見つからなかったし」

「ああ。そうだな」

 

 結局進展はなし、か。そんな落胆感を覚えつつも、蓮子達は踵を返して元の車両に戻ろうとする。

 異常が訪れたのは、その次の瞬間だった。

 

「……えっ?」

 

 ズカンっと、響いたのは重量のある何かが倒れ落ちるかのような音。反射的に振り返ると、真っ先に視覚できたのは突き破られたヒロシゲのドアだった。

 外側から強い力を加えられたのだろうか。そのドアは“く”の字に折れ曲がり、見るも無残な状態である。そんなドアを退けながらも車内へと侵入してきたのは、一人の人影だった。

 

 ぼんやりとディスプレイが光るスマートフォンを掲げる。暗闇の所為でこの位置からではその姿をはっきりと確認する事ができないが、体格的には男性だろうか。

 しかしそれにしても、動作があまりにも不自然である。まるで、両手足の関節が動いていないかのような――。

 

「な、なんだ、あいつ……?」

「分からない……。でもっ……!」

 

 蓮子の本能が連れている。

 目の前にいる得体も知れぬ()()は、危険な存在である、と。

 

「……ッ!!」

 

 直後、蓮子の予感は的中した。

 ぎこちない動きで周囲をキョロキョロと見まわしていた人影だったが、蓮子達の姿を捉えた途端、唐突に動きを変える。急にピタリと動きを止めたかと思えば、前のめりになりながらも勢いよく駆け寄ってきたのである。

 蓮子は思わず身を引く。この動き、明らかに普通じゃない。姿形は人間であるはずなのに、その中身は――。

 

「下がれ蓮子!」

 

 奇声を上げながらも駆け寄ってくる人影を見て、真っ先に動いたのは進一だった。蓮子を下がらせ、突っ込んでくる人影に向けて思いっ切り蹴りをお見舞いする。ズンッという鈍い音と共に、人影は蹴り飛ばされたのだが、

 

「やったの!?」

「い、いや……」

 

 のっそりと立ち上がる人影。どうやらまるでダメージを受けていない様子。

 

「こいつ……!」

「進一君! 逃げるわよ! 私達じゃ敵いっこないわ!」

「あ、ああ」

 

 あの人影が何者なのかは分からない。けれども明確な敵意を持って襲い掛かってくるというのなら、その対処方は一つだけだ。

 進一はあまり肉体派とは言えないし、蓮子だって言わずもがなだ。武器と成り得る物も持っていないこの状況で、真っ向から立ち向かっても返り討ちにされるのが目に見えている。

 

 逃げるしかない。幸い相手の動きは全力で走れば逃げ切れる程度のスピードであるし、このまま走り切れば――。

 

「おい蓮子。このままあいつを連れて行くのはマズいんじゃないか? メリー達だっているだろ」

「……っ! そ、そうね……」

 

 確かに、それもそうだ。このまま後方車両へと逃げた所で奴を撒けるとは限らず、最悪の場合その標的をメリー達へと移し替える可能性もある。

 秘封倶楽部のメンバーで、最も身体能力が低いのはメリーだ。そんな彼女が、あれに襲われてしまったら。

 

「な、何とか撒かないと……!」

「この狭い車内でか? あいつのスピードから考えて、ただ走ってるだけじゃ到底……」

「わ、分かってるわよそんな事!」

 

 どうする? このまま逃げた所で、メリー達と合流するまでに奴を撒く事は不可能に近い。かと言って、前の車両に引き返そうにもこの狭さじゃそれも現実的ではない。

 だとすれば――。

 

「だったら俺が囮になる。それなら……」

「だ、ダメよそんなの!!」

 

 進一の提案に対し、蓮子は思わず声を張り上げて否定する。

 冗談じゃない。誰かを囮にするなんて、そんな事は許される訳がないじゃないか。

 

「とにかく走って! 今は逃げるしかないわ!」

「逃げるって言ったって……」

 

 具体的にどう状況を打破するかなんて、流石の蓮子もそう簡単には思いつかない。この非常事態では焦燥感を覚えるなと言う方が無理な話だし、幾ら蓮子でもすぐさま冷静な判断だって下せる訳がない。

 

(ど、どうすれば……!)

 

 考えろ。何か策はあるはずだ。

 スマホを武器替わりにして投げつけてみる? いや、駄目だ。その程度じゃ恐らく奴は止まらない。それならば、周囲の乗客の荷物から武器と成り得る物を拝借する? いや、それも駄目だ。そもそも探している最中に簡単に追いつかれてしまう。

 それならば。

 他には。

 

(な、なにか……!)

 

 駄目だ。どうあがいても、この状況を打破できるような手段が見つからない。今蓮子達が持てる力では、どうにも――。

 

「くっ……!」

 

 万事休すか。

 そんな諦念が蓮子の脳裏に過った、その時だった。

 

「蓮子さん! 進一さん!」

「えっ……?」

 

 ひゅんっと、蓮子達の横を何かが通り過ぎる。その直後、蓮子達を追いかけていたあの化物が、苦しむように激しい奇声を上げた。

 蓮子と進一は立ち止まり、揃って振り返る。そこにいたのは痙攣しつつもバタリと倒れこむあの化物と、両手に二本の刀を携えた小柄な少女。

 

 あの化物が完全に動かなくなった事を確認すると、少女は刀を鞘に納めつつも、

 

「お二人とも、怪我はありませんか?」

「よ、妖夢ちゃん……?」

 

 化物を黙らせたのは、他でもない魂魄妖夢だった。常に持ち歩いている楼観剣と白楼剣を抜き放ち、あの化物を一閃したのである。目にもとまらぬ早業を前にして蓮子は愕然とするが、けれどもすぐに我に返って、

 

「ど、どうして、妖夢ちゃんが……!」

「私達も襲われたんですよ。これと似たようなものに……」

「私達も、って……」

 

 という事は、つまり。

 

「れ、蓮子……! 進一君も! 無事だったのね……!」

「あ、ああ……。メリーこそ、怪我はないみたいだな」

 

 元いた車両のボックス席で待っているはずの妖夢とメリーが、前の車両へと向かった蓮子達のもとに駆け付けてくれたのである。

 妖夢の口振りから察するに、どうやらあの化物はこいつ一体だけじゃなかったらしい。他の乗客には目もくれずに襲い掛かってきたという事は、やはり犯人の狙いは蓮子達なのだろうか。

 

「それにしても、何なんだこいつは……」

「少なくとも、ただの人間じゃないはずです。硬直した関節部分と腐敗臭。そして額に貼られたこの御札から推察するに……」

殭屍(キョンシー)、ね。多分……」

 

 妖夢に続くような形で、呟くような声量でメリーがそう推察する。

 成る程ね、と蓮子は納得していた。

 

「キョンシー……? 何だそれ?」

「有り体に言えばゾンビね。何らかの要因により動き回る事が出来るようになった人間の死体……とでも言えば分かるかしら?」

「人間の、死体……」

 

 首を傾げる進一に対し、蓮子がそう答える。説明を聞いた進一が倒れたキョンシーを一瞥すると、途端にその表情から血の気が引いた。

 

「な、成る程……。確かに、死んでる……な……」

 

 進一は誰よりも生や死に敏感だ。彼の持つ『眼』が生命などという概念的な存在を視覚できてしまうからこそ、これ程までに高い感度で察知できてしまうのだが――。

 

「進一さんは、あまり見ない方が……。下手に『能力』が発動してしまうと、身体にどんな負担がかかるかも分かりませんし……」

「あ、ああ……。分かった……」

 

 妖夢の言う通りだ。進一はあまり『能力』を使わない方がいい。

 今は幾分か平気な顔をしているが、彼が抱える『能力』によるトラウマが完全に消えた訳ではないのだろう。精神的なストレスが知らず知らずの内に蓄積してしまうと、最悪の場合精神に悪影響を及ぼしてしまう可能性もある。

 

 進一が目を逸らした事を確認した後、蓮子は倒れたキョンシーへと歩み寄る。

 

「ふぅん……」

 

 鼻が曲がるような腐敗臭。額に貼られた呪術的な札。成る程、確かに話に聞いていたキョンシーの特徴そのものである。首筋から腹部にかけて妖夢に斬り裂かれた事により完全に機能を停止しているようだが、意外と脆いのだろうか。

 

「白楼剣の効力ですよ」

 

 蓮子が一人思案していると、歩み寄ってきた妖夢がそう声をかけてきた。

 

「白楼剣は魂魄家の家宝の刀です。武器という括りとして使う分には斬れ味の悪い剣ですが、けれどこれには特別な効力があるんです。斬った相手の迷いを断ち斬る事が出来る……白楼剣は、言わば妖刀の一種なんです」

 

 白楼剣――普段から持ち歩いている短い方の刀を掲げつつも、妖夢は続ける。

 

「進一さんには以前も説明したのですが、死して尚顕界に留まっているという事はこの世に強すぎる未練を残しているという事と同義なんです。つまりその未練……迷いを断ち斬るという事は、即ち成仏を意味します」

「えっと……。つまり、幽霊や亡霊が相手なら一撃必殺って事?」

 

 こくりと頷いて妖夢は答える。

 キョンシーは死体である。一度死んだはずの人間が、何らかの要因により復活してしまった姿。つまり“顕界に留まる死者”と解釈すれば、広域的には幽霊や亡霊などと同じカテゴリーに属しているという事か。

 

「白楼剣がキョンシーに有効かどうかは試した事がなかったので、殆ど賭けのようなものだったのですが……どうやら上手くいったようですね」

「そうね。もうピクリとも動かないし……」

「ですが斬れ味の悪い白楼剣でただ斬りつけるだけじゃダメみたいです。一度楼観剣で人体に致命的な傷を負わせてから、同じ箇所を今度は白楼剣で斬りつける必要があるみたいなので……。ちょっぴり手間ですね」

「そ、そう……」

 

 掲げていた白楼剣を竹刀袋に仕舞いながらも、そう口にする妖夢。簡単に言っているが、つまり彼女はあの短時間で二度もキョンシーを斬りつけたという事なのだろうか。

 凄まじい早業である。

 

「……妖夢ちゃんって、実は凄い剣士だったのね」

「えっ……? い、いえ! 私なんて、まだ全然未熟者ですので……!」

 

 妖夢は慌てて否定する。はっきり言って謙遜なんじゃないかと蓮子は思うのだが、剣に精通している者からしてみれば妖夢はまだまだなのだろうか。

 ともあれ、妖夢の白楼剣がキョンシーに有効ならば心強い。仮に再び襲われるような事があったとしても、何とか対処できるかも知れない。

 

「だが……そもそも何だってそのキョンシーとやらがこっちの世界にいる? こいつらも幻想郷から迷い込んだのか?」

「いや……。違うわね」

 

 進一の疑問に対し、蓮子は首を横に振って否定する。

 

「多分、この死体はこっちの世界のものよ。誰かが何らかの術を使ってキョンシーを作ってるんだと思う」

「誰か……。つまりこの騒動の犯人、か」

「あくまで推測だけどね。でもそう考えるのが一番妥当だと思うのよ。このタイミングでキョンシーが襲いかかってくるなんて……。あまりにも作為的過ぎるわ」

 

 眠っている他の乗客などには目もくれず、真っ先に蓮子達へと襲い掛かってきたキョンシー。あの動きには、どこか人為的な印象を受けた。まるで、最初から蓮子達へと襲い掛かるのだと命令されていたかのような――。

 

「これからどうするの……?」

「うーん……。取り合えず、ヒロシゲから出た方がいいのかも……。こんな狭い所でまたキョンシーに襲われちゃ、今度こそ危ないわよ」

 

 ヒロシゲが急停車してから既に20分程経過しているが、未だに動き出す気配はおろか車内アナウンスすら流れない。この様子では、西京都駅の方でも何かがあったと考えるのが妥当だろう。このままここで引き籠っていても、救助隊が駆けつけてくれる保証はない。

 それならば。

 

「……蓮子さんの言う通りかも知れません。ここで固まっているのは却って危険ですよ」

「確かに、そうだな……。メリーはどう思う?」

「え、ええ……。私も、蓮子の意見には賛成かな……」

「それじゃ、決まりね」

 

 四人の意見は一致した。

 いつまたキョンシーのような化物に襲われるかも分からない。仮にそうなってしまった場合この狭い車内では色々と不利であるし、余計に状況が悪化してしまう危険性もある。

 とにかく、今は移動した方がいい。幸いここからなら西京都駅まで歩いて行ける距離だろうし、線路を辿って歩いて行けば程なくして辿り着く事が出来るはずだ。

 

「取り合えず、一旦戻って荷物をまとめましょ。その後にヒロシゲから脱出よ」

「ああ。了解だ」

 

 今後の方針は決まった。

 秘封倶楽部のメンバーは、急停車したヒロシゲから脱出すべく一度席へと戻っていった。

 

 

 ***

 

 

 ヒロシゲからの脱出は思いの外上手くいった。荷物をまとめている最中に再びキョンシーが襲いかかってくるような事もなく、それ以外も特に想定外のトラブルが起きるような事もなかった。

 結局ヒロシゲ内で襲い掛かってきたキョンシーは二体だけだったが、あれだけで敵の襲撃が終わったとは思えない。何せ態々京都全土を覆い隠すような大結界を展開し、まるで妖夢達を陥れるかのようにキョンシーを仕向けた相手なのだ。目的は皆目見当もつかないが、ろくでもない事を考えているに決まっている。

 

「それにしても、敵の目的は何なんだ? どうして俺達を襲う?」

「それが分かれば、この騒動を解決する糸口も掴めそうなんだけどね……。でも相手の素性も分からない以上、推測しようがないわ」

「だよな……」

 

 分かる事と言えば、キョンシーに秘封倶楽部を襲わせたという事実だけだ。いや、もしもこの騒動の犯人が妖夢をこちらの世界に連れてきた人物と同一なのだとすれば、敵の狙いは妖夢なのかも知れないが――。

 だとしても疑問が残る。仮に敵が妖夢の命か何かを狙ってキョンシーを仕向けたのだとしても、なぜこのタイミングなのだろう。別に今でなくとも、もっと良い機会なら以前にも山ほどあったはずだ。それなのに、どうして――。

 

「なんにせよ、取り合えず西京都駅に急いだ方がいいんじゃない? あっちに着けば、何か分かるかも知れないし……」

「そうね。幾らヒロシゲから脱出したとしても、このうす暗い地下トンネル内じゃ、いつ奇襲を受けてもおかしくないし……」

 

 ライト代わりのスマートフォンを掲げながらも、蓮子がそう口にする。確かにこの暗闇では、キョンシーの接近にも気づきにくい。スマートフォンのバッテリーも何時までもつか分からないし、早い所抜けてしまった方が良いだろう。

 

「仮にもう一度キョンシーに襲われちゃったとしても、その時はまた妖夢ちゃん頼りになっちゃうんだけど……。大丈夫?」

「……ええ。お任せ下さい」

 

 妖夢は頷いて蓮子に答える。

 それは承知の上だ。剣術に精通している妖夢と違い、蓮子達はキョンシーと戦う術を持っていない。もしも再び襲われるような事があった場合、今度こそ成す術なく殺されてしまうかも知れない。

 それ故に、妖夢がやらなければならないのである。蓮子達を守りつつも、襲い掛かるキョンシーを片っ端からなぎ倒す。半人前の妖夢には少々荷が重いような気もするが、弱音など吐いている場合ではない。

 

「この剣に誓って、蓮子さん達は私が必ずお守りします。ですから安心して下さい」

「おお……! 頼もしいわね。でも、本当に危なくなったら言ってね? 無理だけは絶対にしちゃダメだからね?」

「大丈夫です。お気遣いなく」

 

 蓮子は妖夢の剣術の腕を信用してくれている様子。それならば、妖夢はその期待に答えなければなるまい。

 

「妖夢ちゃん……。本当に大丈夫? 無理してない?」

「……へ?」

「暗い所、苦手なのよね? だから……」

「あっ……」

 

 震える声で心配そうにそう声をかけてきたのはメリーだった。

 妖夢の身を案じてくれているのか。いや、それとも、目の前であそこまで怯え切った様子を見てしまった以上、妖夢の護衛に不安を感じているのだろうか。メリーの性格を考えれば、おそらく前者なのだろうけれど。

 しかし、それでも。

 

「怖くない、と言えば嘘になります」

「だ、だったら……」

「でもそうは言っていられないので」

「えっ……?」

「もう、これ以上失敗なんてしたくないんです。今度こそ、絶対に……。私が、守らなきゃ……」

「妖夢、ちゃん……?」

 

 そうだ。クリスマスイブの時のような失態は、もう許されないのだ。

 今度こそ守り通さなければならない。今度こそ、妖夢は自らの役割を全うしなければならない。

 

 妖夢は剣士だ。剣士として、自分は一体どう在るべきか。一体何のために、自分は剣を振るうべきなのか。それはあの日――春雪異変での大敗を経たあの日に、誓ったのだ。

 自分の為ではなく、誰かの為に。誰かを守る為に、剣を振るおうと。

 

 だから、妖夢は。

 

「守らなきゃ、ならないんです……」

 

 心の中の蟠り。胸の奥に生じる迷い。

 それを払拭するかのように、妖夢は頻りに呟いていた。

 

 

 ***

 

 

 先導する蓮子に続き、線路を辿って歩き続ける事数十分。進一達は、程なくして西京都駅へと辿り着いていた。

 光源がスマートフォンのみの暗闇の中、大量のキョンシーに襲われるような事があったらひとたまりもなかったが、幸いにもそのような最悪の事態に陥る事はなかった。何度か単体のキョンシーには襲われたものの、その程度なら妖夢一人でも十分に対処できる状況である。

 

 楼観剣でダメージを与え、同じ箇所を今度は白楼剣で斬りつける。そんな妖夢の早業には相変わらず舌を巻くばかりだが、その一方で彼女自身が抱える負担も心配である。

 幾ら妖夢でも連続して戦い続ければ疲労は蓄積されていくだろうし、いつまでも正確な剣筋を保てる訳ではないだろう。それこそ数で攻められたら流石に厳しすぎる。このままではジリ貧となるのも時間の問題だ。

 

 しかも、問題はそれだけではない。

 

「ほら、手を貸すぞ妖夢」

「あ、ありがとうございます……」

 

 線路側から駅のホームへとよじ登る進一達。男であるが故に体格が大きい進一がまずよじ登った後、残された少女三人を次々と引っ張り上げてゆく。そして最後の妖夢に手を貸した所で、進一は再びある違和感を胸中に覚えていた。

 

 言わずもがな、妖夢の事である。ついさっきまで何の躊躇いもなく次々とキョンシーをなぎ倒していた妖夢だったが、その実、彼女の剣筋にはどこか迷いが生じていたような気がする。

 人の形をしたキョンシーを斬りつける事に抵抗を感じている――訳ではないだろう。いや、多少なりともそれも理由の一つなのだろうけれど、おそらくもっと大きな原因が別にある。

 

 さっきから、彼女は戦いに集中できていない。

 その根本的な原因は、おそらく進一にある。

 

(妖夢……)

 

 彼女が何を迷っているのか。それは何となく見当がつく。

 だけれども、それならば進一は、一体彼女にどう接してやるべきなのだろう。どんな言葉をかけてやるべきなのだろう。

 想いを伝え、一歩先のステップへと移行したはずなのに。そんな事も分からないなんて。

 

(くそっ……)

 

 情けない。自分自身に腹が立つ。

 こういう時に支えになる事が自分の役割だろう。それなのに、本当に何もできないのか? 本当に、どうすべきなのかも分からないのか?

 

「……駅」

「え?」

「誰もいませんね」

「あ、ああ……。そう、だな」

 

 一人考えこんでいると、不意に妖夢が声をかけてくる。

 周囲をぐるりと見渡してみると、確かにその“異常性”は簡単に見て取れた。現時刻、19時といった所か。まだまだ交通機関を利用する者も沢山いるはずの時間帯であるのにも関わらず、西京都駅のホームには人っ子一人見当たらなかったのである。

 気配すらも感じない。ホームはおろか駅全体が静まり返っているようで、職員含め本当に誰もいないようだ。仮にも交通機関の大動脈とも言える卯酉東海道新幹線の駅が、もぬけの殻になってしまうなど。幾ら何でも、そんな事――。

 

「ど、どうなっているの……?」

「人払いの結界……ってヤツかしらね。多分」

「そんなのがあるのか」

「まぁ、私もそこまでは詳しくはないんだけどね。メリー、何か見える?」

 

 蓮子がそう確認すると、メリーは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていて、

 

「な、何ていうか……。凄く、気持ち悪い……」

「気持ち悪い……?」

「色々な結界が、ぐちゃぐちゃに混ざりあっているみたい……。本当に、何が何だか……」

 

 つまり、結界はヒロシゲ内でメリーが認識したものだけではなかったという事か。

 しかし、そこまで幾つもの結界をぐちゃぐちゃに張り巡らせるなど可能なのだろうか。逆に言えば、そこまで厳重に結界を張る理由は何だ? この騒動の犯人は、一体何を企んでいる?

 

「……取り合えず、外に出てみましょ。この様子じゃ、結構ヤバイ事になってそうだけど……」

「え、ええ。そうね」

 

 再び蓮子が先導し、一行は駅の外へと向かう。停止したエスカレーターを登り、長い通路を突き進んで機能していない改札口を通過する。人っ子一人いないどころかまるで電気も通っていないかのような有様で、駅としての機能が完全に停止してしまっているように思える。

 ここまで来ると一種の災害である。仮にこれが一人の人物が引き起こした異変なのだとすれば、犯人は相当な力量を持つ常識外れの術者であるという事になるが――。

 

「な、何よ、これ……」

 

 程なくして、秘封倶楽部の一行は駅の外への脱出に成功する。その直後。蓮子が発した第一声は、まさにメンバー全員の感想を代弁したものだった。

 京都が。日本の首都であるはずの大都市が、不自然な程に静まり返っているのである。

 西京都駅と同様、人の姿はおろか気配すらも感じられない。普段なら数多くの人々で溢れている交差点。立ち並ぶビル。和のテイストが強い飲食店。日が沈み、空には月が昇っている時間帯なのにも関わらず街頭はどれも点灯しておらず、街全体が暗闇に包まれてしまっている。

 

 まるでゴーストタウンにでも放り込まれてしまったかのような心地である。静寂に包まれたその街並みを眺めていると、底の知れない気味の悪さがむくむくと膨れ上がってくる。一体、京都で何があったと言うのだろうか。

 

「こ、こんな事って……。ほ、他の人達はどこに行ったの……?」

「分からない、けど……」

 

 一度息を飲み込んだ後、蓮子は続ける。

 

「何だか……誘い込まれているような気がする」

「え?」

「だって不自然じゃない。私達だけピンポイントで眠らされてなかったり、こうして人払いをしていたり……。まるで、私達を使って何かをしようとしているかのような……」

「なっ……!」

 

 まさか、そんな。

 しかし、確かにそれなら納得できる。邪魔な住民達を排除して、進一達だけを京都に誘い込む事が目的なのだとすれば――。

 けれど、それでも分からない事がある。ここまで大規模な事をしてまで成し遂げたい犯人の真の目的とは、一体なんなのだろうか。進一達を使って何かをしようとしているのだとしても、その“何か”とは一体なんなのだろうか。

 

「……どうやら、早くもお出迎えみたいですね」

 

 妖夢のそんな呟きが耳へと届く。反射的に顔を向けると、人影すら見えなかった交差点の先から、こちらへと接近してくる何かが確認できる。

 ぎこちない動き。気味の悪い呻き声。人の形をしてはいるものの、人間ではない異形の存在。

 

「またキョンシーか……!?」

「ええ。しかも今回はさっきまでとは少し状況が違うみたいです」

 

 剣を引き抜いて前へと出ながらも、妖夢はそう口にする。

 状況が違う。その言葉の意味を理解するのに、あまり時間は要さなかった。

 

「ま、まさか……」

「ちょ、ちょっと……。これは、最悪の状況ね……」

 

 現れたキョンシーは一体だけじゃない。二体、三体――いや、実に数十体以上に上る大量のキョンシーが、四方八方から次々と現れたのである。

 進一は思わず生唾を飲み込む。ついさっきまで静寂の中にいたはずなのに、気が付いたらキョンシーによって周囲を包囲されていた。想定し得る最悪の事態――いや、それ以上である。まさかここまで大量のキョンシーを量産していたなんて。

 

「冗談じゃないぞ……。こんな、下手なB級ホラー映画みたいな展開なんて……」

「ど、どうするの……!? こ、これじゃあ……!」

 

 多勢に無勢。あまりにも状況が悪すぎる。

 これでは、幾ら何でも――。

 

「皆さんは下がってください。私が退路を……!」

「馬鹿なこと言うな。幾ら何でも無茶だ」

「で、でも……。このままじゃ皆……!」

「だとしても奴らを相手にお前一人だけで戦わせる訳にはいかない! 今度こそ死ぬぞ!」

「……ッ!」

 

 思わず大声を上げて、無理矢理妖夢を制してしまった。

 偉そうな事を言える立場ではないのは分かっている。でも、これ以上妖夢が無理して戦う姿など、見たくなかった。ただ見ている事しかできないなんて、そんな事は耐えられなかった。

 

 進一は息を呑む。考えろ、考えるんだ。何か策はあるはずだ。この状況を打開できるような、何か大きな策が――。

 

(くそっ……! くそっ! どうして何も思いつかない……!?)

 

 進一は思わず髪を掻きむしる。

 

(どうして俺は、こんなにも役立たずなんだ……!?)

 

 幾ら考えても都合のいい策なんて出てきやしない。そうこうしている間もキョンシー達はにじり寄り、状況はますます悪くなる。

 どうすればいい? 一体、どうすれば。

 

「し、進一君!」

「待ってくれ! すぐにでも策を考えて……」

「違うわ! あれを見て!」

「えっ……?」

 

 蓮子に肩を叩かれて、弾かれるように顔を上げる。彼女が示すのは交差点の先。そこに見覚えのない光源を視覚する事ができた。

 

「な、なんだ……?」

 

 光源はこちらに近づいてくる。地と何かを擦り合わせるような轟音を轟かせ、勢いよく急接近してくる。進一がその正体を認識するよりも先に、その光源は勢いよくキョンシーの群れを――()()()()()()

 

「ッ!?」

「ええっ!?」

 

 いや、()()()()()()とでも言った方が正しいか。ズガン、という何かが粉砕されるかのような嫌な音と共にキョンシーを轢き飛ばし、それは強引にも進一達の前に現れたのである。

 全体が赤で統一された、目が痛くなるような色彩の――。

 

「ワゴン車、だと……!?」

 

 自動車である。紛うことなき、真っ赤な自動車である。昨今では殆ど見る機会もなくなった前時代的な乗り物だが――問題はそこじゃない。

 ゴーストタウンと化した京都の町に、突如として現れた真っ赤なワゴン車。その運転手は。

 

「ひ、ひぃぃ……!? ちょ、ちょっと! 今の大丈夫なの!?」

「え? 何がよ?」

「ご、強引過ぎるでしょ!? もっと何か手はなかったの!?」

「ふふん、心配ご無用! この車の車体はね、最先端の技術を惜しみなく使った特殊コーティングが施されているのよ! ちょっとやそっとじゃ傷一つつかないわ!」

「い、いや、だとしても無茶無茶だよぉ!?」

 

 話し声が聞こえる。聞き覚えのある少女の声と、これまた聞き馴染んだ女性の声だ。

 この声。そして真っ赤な車。これらの要素を認識しただけで、その正体は直ぐに分かった。運転席のドアが開けられ、中から飛び出してきた真っ赤な女性は。

 

「みんな! 怪我はない!?」

「ね、姉さん……!?」

 

 岡崎夢美であった。

 進一は刮目する。なぜだ。なぜ彼女がこんな所にいる? というかこんなワゴン車なんてどこから引っ張り出してきたんだ。しかも助手席にはお燐までもが乗っているじゃないか。

 聞きたい事が山ほどありすぎて、頭の中はぐちゃぐちゃだ。口をパクパクとさせる事しかできなくなった進一に代わり、蓮子が一歩前に出る。

 

「きょ、教授……! どうして……?」

「説明はあと! 今はここを切り抜けるのよ!」

 

 言うが早いが、夢美はワゴン車のドアを開き、そして自分は運転席へと戻る。

 

「急いで乗って! 時間がないわ!」

「い、急げって言われても……」

 

 流石に訳が分からない。一体何が起きているのかだとか、どうして夢美とお燐だけは普通に京都にいるのかだとか。色々と気になる事が多すぎるのだけれど。

 

「わ、分かりました……! みんな、今は教授の指示に従うのよ! どっちみち、このままじゃ冗談抜きでヤバイわ!」

「そ、そうね……。流石に、この数じゃ……」

「逃げるのが最良の選択、かも知れませんね……」

 

 そうだ。このまま戦っても勝ち目はない。

 それならば。

 

「わ、分かった……」

 

 強引に踏ん切りをつけて、進一は頷く。

 確かにこのワゴン車ならば、強引に突破する事だって可能かも知れない。夢美の運転技術には多少の不安が残るものの、今は彼女に頼るしかない。

 

 秘封倶楽部の一行はワゴン車へと乗り込んでゆく。全員が席に着き、シードベルトを着用した事を確認した後。不敵な笑みを浮かべた夢美が、おもむろにハンドルを握った。

 

「ゆ、夢美……? 今度は優しく運転してよね……? ほら、危ないし……」

「何悠長なこと言ってるのよ! この状況じゃ、道路交通法もへったくれもあったもんじゃないわ! 飛ばすわよ!」

「ちょ、止めてぇ!? ほ、本当の本当に怖いからね!? トラウマになりかけてるんだからね!?」

 

 ――何やら不穏な会話が前の方から聞こえるのだが。

 

「お、おい姉さん。本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫大丈夫。大船に乗ったつもりでいなさい!」

 

 ブルブルと震えながらも必死になって抗議するお燐の意見など、まるで聞く気もない様子で。夢美はアクセルを踏み込んで、ワゴン車を発進させた。


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