桜花妖々録   作:秋風とも

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最後の方の描写が中々にグロテスクな感じになっちゃったような気がするので、警告タグ「残酷な描写」を追加させていただきました。

私の貧困な描写力では大した事ないのかもしれませんが、一応お気をつけ下さい。


第39話「始動」

 

 火焔猫燐は狼狽していた。

 この激しい焦燥感は、古明地こいしが行方不明になってから覚え続けている。こいしの姉のペットとして、お燐にはこいしを守る義務がある。こいしの身の安全を守り抜いた上で、彼女を幻想郷へと連れて帰る責務があると。そう思っていたのに。

 実際はどうだ。彼女は行方不明になり、もう二週間近くも足取りを追えていない。

 

 甘く見ていたのだ。

 外の世界だから。こいしはああ見えて、強大な力を持つ妖怪だから。そして何より、妖夢も一緒だったから、と。そう心のどこかで安心していて、気が緩んでいたのだ。

 だからこんな事になった。

 

「うぅぅ……!」

 

 しかもそれだけではない。

 昨日の朝に一度対面して以来、妖夢との連絡が一切つかないのである。ここ数日は毎日決まった時間帯にこの公園へと集まり、定期的に情報の交換を行っていたのだが――。異変が起きたのは昨日の夕方からだ。幾ら待っても妖夢が姿を現す事がなく、ついには夜が明けてしまった。

 

 あの生真面目な妖夢が、こうして約束の時間を守らないなど有り得ない。となれば、彼女の身に何かが起きてしまったのではないかと。そんな不安感を抱いてしまうのは、至極自然な心理である訳で。

 それ故に、この狼狽である。

 

「あたいは一体どうすればいいの……!?」

 

 お燐は頭を抱える。こんな事になるのなら、こちらの世界のスマホとかいう通信機器を購入しておけばよかった。あれがあれば、妖夢との連絡も容易に取れたかも知れないのに。いや、その場合、妖夢もスマホを所持しておく必要があるけれど。

 ともあれ、今更あれこれ後悔しても後の祭りである。妖夢の身に何があったのかは分からないが、ここでいつまでもウジウジしていても仕方がない。

 

 だけれども、そうは言っても。

 

「あたい一人じゃ……」

 

 この数日間、妖夢と手分けをしてもこいしの居場所を掴む事ができなかったのだ。それなのに、お燐一人で捜し当てるなど。

 

「無理だよぉ……!」

 

 流石に心が折れそうだ。協力者がいないという状況が、こんなにも心細いものだったとは。

 クリスマス前、一人でこいしの足取りを追っていた時とは状況が違う。彼女の身に確実に脅威が迫っているのだろうというこの予感が、お燐の精神をすり減らしていく。そして最後の支えである妖夢までもいなくなってしまった。

 これでは、もう――。

 

「お燐!!」

 

 直後。キキィーッというブレーキ音と共に、聞き覚えのある女性の声が流れ込んできた。反射的に顔を上げると、公園に隣接する小道に一台のワゴン車が確認できる。

 ワゴン車。つまるところ自動車である。こちらの世界では既に前時代的な乗り物とされていて、利用者なんて殆どいなくなっていたはずなのだけれど。今時あんな、しかも目が痛くなるくらいに真っ赤な自動車を乗りこなすような人間がまだ残っていたとは。

 

 ――いや、ちょっと待って。

 

「えっ……?」

 

 ワゴン車の運転席の窓を開け、そこからお燐の名前を呼んだのであろう人物。見覚えのある――というか、モロ知り合いの女性だった。

 真っ赤な髪。真っ赤な瞳。そして全身真っ赤っかな服装。

 

「真っ赤なお姉さん……? ゆ、夢美……!?」

 

 岡崎夢美である。遠目から見てもしっかりと判別出来てしまう辺り、流石というか何というか。というか、まさか服装のみならず車までも真っ赤だったとは。

 

「ど、どうしたの夢美?」

 

 慌てて駆け寄ってみると、夢美はいつになく鬼気迫る表情を浮かべていて、

 

「やっと見つけたわ。あなたを捜してたのよ」

「えっ……。あ、あたいを? どうして……」

「取り合えず乗りなさい。急ぐわよ」

 

 まさに有無も言わさず、といった勢いである。当然ながら、いきなりそんな事を言われてもお燐だって納得できる訳がない。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! 急ぐって……一体、どこに……」

「こいしちゃんの所よ」

「ッ!?」

 

 待て。今、彼女は何といった?

 

「それと、多分妖夢もこいしちゃんと一緒かも。あ、大人の方のね。その様子じゃ、あなたに何の相談もせずに飛び出して行っちゃったみたいね。まったく……」

「ま、待って! 待ってってば……!」

 

 慌ててお燐は夢美を制する。いきなり車に乗れと言われた時も訳が分からなかったが、今彼女が口にした内容の方がその何倍も訳が分からない。

 はっきり言って、お燐はそこまで聡明な頭脳は持ち合わせていないのだ。そんなにも一気に多くの情報を提示された所で、処理なんて出来る訳がない。

 

「どうして、こいし様の居場所を……!?」

「この時代の妖夢から色々と話を聞いたのよ。それで、あの子と話し合っている内に犯人の目星がついて、居ても立っても居られなくなった妖夢が飛び出して行っちゃったって訳」

「犯人……? そ、それって……!」

「そう。あなた達の捜し人なんでしょう? すべての事件の犯人は、あの病院の『先生』よ。そう言えば、あなたも一度会っているはずだけど……。気づかなかったの?」

「せ、先生……?」

「ほら、クリスマスイブ。妖夢の怪我を診てもらいに行った……」

「あっ……」

 

 確かに、そんな事もあった。あの時はお燐も病院まで同行して、確かにその『先生』なる人物にも一度だけ顔を合わせているはずなのだが――。

 

「その様子じゃ、やっぱり気づかなかったのね?」

「う、うん……」

「そう……。それじゃ、ひょっとしてあの子の『能力』って……」

「えっ?」

 

 夢美が何やらぼそりと呟いていたが、お燐がそれを聞き返すよりも先に話が進められる。

 

「とにかく乗りなさい。詳しい話は後よ。こいしちゃんを助けたいんでしょう?」

「…………」

 

 ああ、もう。本当に、何が何だか訳が分からない。

 どうして大人の妖夢の事を知っているのかとか、いつからお燐の立ち位置に気付いていたのだとか。気になる事は山積みで、今すぐ夢美を問いただしたい所なのだけれど。

 でも。

 

「……分かった」

 

 今はこいしの救出が何より最優先だ。色々と腑に落ちない所はあるけれど、今はそんな事を気にしている場合ではない。

 妖夢さえもいなくなって心が折れかかっていた所に、突如として大きな手掛かりが舞い降りてきたのだ。今はそれを手繰り寄せるしかない。

 

 夢美に言われた通り、お燐は車へと乗りこむ。助手席へと座って、シートベルトをしっかりと締めると。

 

「よーし、飛ばすわよ! しっかり捕まってなさい!」

 

 夢美が勢いよくアクセルを踏み込む。けたたましい騒音と共に、真っ赤なワゴン車は走り出した。

 

 

 ***

 

 

 卯酉東海道新幹線。京都と東京を僅か53分間で繋ぐ地下新幹線。

 東京へと訪れてから四日目の午後。秘封俱楽部の一行は、京都へと帰還する為に再びその交通機関を利用していた。

 

 東京旅行は三泊四日。それは事前にしっかりと決められていたプランである。余程の事――例えば新幹線が止まるなどというような事が起きない限り、そのプランを覆す事が出来ない。例え東京での活動が不完全燃焼だったとしても、彼らは帰らなければならないのである。

 

 宇佐見蓮子の彼岸参りに便乗し、メンバー全員で東京を探索。あわよくば幻想郷への手掛かりを見つけられればと、正直進一はそんな軽い気持ちで今回の旅行に臨んでいた。きっと今回も、そこまで事態は大きく動かないだろうと、心のどこかでは最初からあまり大きな期待など抱いていなかったのかも知れない。

 だけれども。そんな進一の心境は、思いも寄らない形で裏切られる事となる。

 

 あまりにも大きすぎる真実。それを目の当たりにした今の進一の心境は。

 

(もう、何がなんだか……)

 

 四人描けのボックス席。隣に腰かけている妖夢の様子をちらりと一瞥する。やはり彼女も、この事実を上手く受け止め切れていないような表情を浮かべていて。

 

(そりゃそうだよな……)

 

 タイムトラベル。要するに時間跳躍である。彼女は単に幻想郷の外の世界に放り出された訳ではなく、時間さえも飛び越えてこの世界に迷い込んでしまったのだ。

 今から約80年前。宇佐見菫子なる人物が作成したとされる、ヒフウレポートという名のファイル。そこに書かれていた霧雨魔理沙という少女の名前が、その事実を証明している。妖夢の記憶の中ではまだ十代中盤程度の年齢だったはずの彼女の名が、80年前のレポートにしっかりと書かれている。それが意味する事は、即ち。

 

(少なくとも、妖夢が本来いるべき時間は今から約80年以上も前か)

 

 なぜ彼女がタイムトラベルに巻き込まれてしまったのか。彼女は元居た時間に帰る事ができるのか。そのヒントを求めて真っ先に探ったのは、まだ読み終えていないヒフウレポートである。

 レポートの数は全部で13。けれども8つ目のレポートを読み終えた直後、突如としてパソコンの電源がつかなくなった。そこで残された5つのファイルを解読する為に進一達が取った行動は、何とかしてパソコンの電源を復活させようと試みる事だった。

 

 今の今ままで問題なくついていたのだ。ある程度修理を施せば、再び立ち上げる事だって可能になるはず。そんな希望的観測を胸に東京旅行の残りの時間を使って色々と試してみたものの、結果だけ言ってしまえば結局パソコンの電源が復活する事はなかった。

 なにせ80年も前の機種である。ショートした回路を修理しようにも、型に合う部品が手に入らない。修理を依頼するのも現実的ではない。所詮一学生に過ぎない進一達だけではそれ以上はどうする事も出来ず、結局あれ以上の進展はないまま東京旅行は幕を下ろした。

 

「はぁ……。何ていうか、凄くモヤモヤっとした終わり方よねぇ……」

 

 向かい側に座る蓮子が、嘆息混じりにそうぼやく。おそらく彼女も進一と同じ心境なのだろう。

 何とも言えぬようなモヤモヤとした気持ち悪い感じ。苛立ちにも似た感覚。後一歩の所だったのに、結局届かなかったから。

 どうしようもなく、悔しいのである。

 

「でも、ちょっとは進展あったじゃない。例えば、菫子さんの事とか……」

「ああ……。それは、確かにそうだが」

 

 確かにメリーの言う通り、宇佐見菫子なる人物についてはある程度調査を進める事が出来た。蓮子の両親や祖父母――つまるところ蓮子の家族から話を聞く事で、彼女との関係性を把握する事ができたのだ。

 

 結論から言えば、宇佐見菫子は蓮子の父方の祖父の妹――つまり蓮子の大叔母にあたる人物だった。利己的な性格で人との関わりを極端に嫌い、家族からさえも離れて一人で暮らしていたのだという。高校進学後は他人からの孤立をより強固なものとする為に『秘封俱楽部』という霊能サークルを設立し、その会長を名乗る事で意図的に他人を寄せ付けないようにしていたらしい。

 らしい、というのもこれは彼女の兄――つまるところ蓮子の祖父がギリギリ把握していた情報であり、それ以上の真実は不明瞭なままだったからだ。なぜ彼女が孤立するようになったのか、なぜオカルトに没入するようになったのか。それは定かではない。

 

 まさか『秘封俱楽部』がそんな捻くれた理由から設立された事にも驚きだが、それより何より不可解なのは宇佐見菫子という人物に関する記憶である。蓮子は勿論、彼女の父親さえも菫子の存在は把握し切れておらず、祖父も名前を聞く事で初めてその存在を()()()()()かのようだったのだ。

 いや。この場合、今の今まで()()()()()と言った方が正しいか。宇佐見菫子という人物に関する記憶が、肉親であるはずの兄の記憶からさえもすっぽりと抜け落ちていたかのような。そんな不可解な現象が、蓮子の身内の中で起きていたのである。

 

「余計に謎が増えちまった感じだよな……。マジで何が何だか」

「蓮子のおじいさんの口振りから察するに、菫子さんはある日突然行方不明になってしまったみたいなのよね。その日を境に、菫子さんに関する記憶が家族からさえも抜け落ちてしまった。これって……」

 

 それじゃあ、まるで。

 

「……幻想入り、ですかね」

 

 口を開いたのは妖夢だった。

 

「幻想郷は、こちらの世界で存在を忘れられた者達が最後に辿り着く楽園です。それは決して妖怪だけに働く効力という訳ではなく、普通の人間だってその対象と成り得ます。もしもこちらの世界で存在を忘れ去られてしまったのならば、例え人間だろうと幻想郷へと流れ着く事だって……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それだとおかしいんじゃないか?」

 

 妖夢の言っている事は分かる。けれども今回の場合、状況が違うじゃないか。

 

「こっちの世界で存在を忘れ去られた奴が幻想入りする。それは分かる。でも今回の場合、まるでそれが逆みたいじゃないか」

 

 つまるところ、要するに。

 

「まるで、“幻想入りしたから存在を忘れられた”みたいな……」

 

 その点が、今回の件に関する“訳の分からなさ”に拍車をかけている。一体菫子の身に何が起こり、そして何が原因で彼女は失踪してしまったのか。そして彼女に関する記憶が、家族からさえも抜け落ちてしまった原因は何なのか。

 

「それも含めて、やっぱりもっとヒフウレポートを読み進めるべきかもね。幸いあのパソコンも譲ってくれたし、京都に帰ったらもう一度データを引っ張り出す方法を考えましょ」

「……ああ。そうだな」

 

 蓮子の言う通り、やはり謎を解く鍵はパソコンに入っていた13個のテキストファイル――ヒフウレポートだ。何とかして残された5つのファイルの中身を確認する事が出来れば、この不明瞭な点も解明する事が出来るかも知れない。

 

「オカルトボールについてもね。妖夢ちゃんが故郷に帰れる方法だって、きっと……」

 

 希望をしっかりと胸に残したままの様子で、蓮子がそう口にする。けれども妖夢が浮かべる表情は、お世辞でも晴れているとは言い難いものだった。

 無理もない。この騒動の中心にいるのは、他でもない彼女なのだ。あまりにも信じ難い事実を突き付けられて、未だに混乱が収まり切らぬのだろう。

 

「大丈夫か? 妖夢」

「へ……? あ、は、はい……。お構いなく……」

 

 この反応。どうやら相当やつれてしまっているようだ。

 

(……そうだな)

 

 ここは進一が気の利いた言葉の一つや二つかけてやるべきだろう。何せ今の妖夢との関係は恋人どうし。彼女の曇った顔なんて、これ以上は見たくない。

 

「そんなに心配するなって。きっと何とかなるさ」

「え……?」

「京都に帰ったら姉さんにも相談してみよう。姉さんはああ見えて一応は天才だからな。きっと打開策だって考えてくれる」

「あ、あの……」

「妖夢は時間を飛び越えてこっちの世界に放り出されちまったんだろ? だったら、きっとその逆も可能なんじゃないか? もう一度時間を飛び越えて、お前の故郷に……」

「違うんですッ!」

 

 怒号。それが妖夢から放たれたのだと気づくのに、数秒ほどの時間を要してしまった。

 妖夢は俯いたままだ。俯いたまま、まるでタガが外れたかのように大声をあげていた。当然進一も、蓮子もメリーさえも驚いて目を見開いてしまっている。

 三人の視線が集中する中、今度は消え入るような小さな声で、

 

「そういう問題じゃ、なくて……」

 

 妖夢は顔を上げる。進一へと向けられる表情は、実に苦し気なもので。

 

「だって……。私は……!」

 

 それ以上の言葉は出てこなかった。言葉を詰まらせたまま、妖夢は再び俯いてしまった。

 進一は息を飲む。どうして彼女は、ここまで苦しんでいるのか。どうして彼女は、あんなにも悲し気な表情を浮かべていたのか。

 タイムトラベルに巻き込まれて、故郷へと帰る方法が限りなく難しくなってしまったから? いや、違う。そんな理由で彼女は苦しんでいる訳じゃない。それが原因で彼女は震えている訳じゃない。

 

 もっと別の理由。もっと別の、何か大きな真実へと辿り着いてしまったから。だから彼女は苦しんでいる。

 少し前の自分なら、彼女の心境に気付いてやる事もできなかっただろう。余計な事を口走って、更に彼女を苦しめてしまっていたかも知れない。

 

 だけれども、今は違う。

 自分の気持ちに正直になって、彼女の気持ちをしっかりと受け止めて。そして次のステップに進む事が出来た今だからこそ、進一もまたその真実に辿り着く事が出来る。

 

「妖夢……。お前……」

 

 彼女が苦しんでいる理由。それは――。

 

「……えっ?」

 

 直後。唐突に、進一の思考は打ち切られる事となる。

 原因はメリーだ。妖夢の怒号に驚いて、心配そうに進一達の行く末を見守っていたはずのメリーが、今度は別のどこか一点を見つめている。

 困惑した表情。ぼんやりとした瞳。彼女がそんな反応を見せているという事は。

 

「どうしたのメリー?」

 

 首を傾げつつも蓮子が尋ねる。メリーは未だに困惑が冷めきれぬような表情で、

 

「い、今……。結界が……」

 

 それはあまりにも突然だった。前振りなんて殆どなく、それは唐突に訪れた。

 プツンと、何かが千切れるような音。それと同時に突然視界が真っ暗となり、進一達は一寸先も見えぬような暗闇に包まれる。車内を照らしていた蛍光灯も、カレイドスクリーンに投影されていた風光明媚な風景も。まるで途中で電源コードが途切れたかのように、突然光を失って。

 

「な、なんだ……?」

「停電!?」

 

 進一と蓮子がその異常事態を認識した、その次の瞬間だった。

 

「――ッ!?」

 

 耳をつんざくような甲高い音。地響きにも似た激しい衝撃。体全体が席から放り出されそうになるような感覚に襲われて、ヒロシゲの急ブレーキを初めて認識する事が出来た。

 線路を削り取らんばかりの激しいブレーキ音。急停車による強い慣性。感じた事もないような激しい衝撃を体全体で受け止めて、流石の進一も平静を保ってはいられなくなってしまう。

 

「なっ……!!」

「きゃあ!?」

 

 誰かの悲鳴が耳に届く。蓮子か、メリーか、それとも妖夢か。この異常事態の中では誰の悲鳴なのかは認識する事ができなかったが、その直後になってようやくこの激しい衝撃にピリオドが打たれる事となる。

 最後にガタンと車両全体が大き揺れた後、ようやくヒロシゲは停車したのだった。

 

「うっ……」

「えっ……。な、なに……? 停まったの……?」

 

 蓮子の声が聞こえる。

 スマートフォンのライトを頼りに、進一は立ち上がった。体全体に鈍い痛みが駆け抜けているが、それでも構わず彼は周囲の安否を確認する。

 

「み、みんな無事か……?」

「は、はい……」

「うん。私は全然平気」

「わ、私も、一応……」

 

 取り合えず全員無事のようだ。安堵の息をこぼしつつも、進一は改めて周囲の状況を確認する。

 スマホの明かりがなければ何も見えぬような暗闇。そして急停車したヒロシゲ。これらの要素から導き出される事実は。

 

「何かトラブルでもあったのか?」

「うーん……」

 

 何が起きたのかは分からないが、あのヒロシゲがこんなにも荒々しく急停車するなど異常な事態だ。考えられる原因とすれば。

 

「線路に人が立ち入ったとか?」

「いや、それじゃあ停電している理由にはならないだろ」

「そ、そもそもおかしくない? こんなにも大胆に急停車したのに、車内アナウンスも流れないものなの……?」

「それは、やっぱり停電しているからじゃ……」

 

 そこまで言いかけて、進一は更に大きな異常に気が付く。

 

「いや、待てよ。確かに、静かすぎないか……?」

 

 そう。それである。

 このヒロシゲは京都行きだ。当然、行きに利用した東京行きよりも多くの乗客が利用している。そんなヒロシゲがこんなにも荒々しく急停車したにも関わらず、悲鳴はおろかざわめき声も全く聞こえてこないなんて。

 有り得ない。まるで、乗客全員がこの急停車を認識していないみたいじゃないか。

 

「…………」

 

 進一はおもむろに立ち上がる。そして隣のボックス席へと歩み寄り、他の乗客へと声をかけてみる事にした。

 

「あの、すいません」

 

 返事がない。不審に思った進一が、ライト代わりのスマートフォンを近づけてみると、

 

「ッ!?」

 

 その乗客は力なく座り込んでいた。

 体全体の力が抜け、全体重を背凭れに委ねて。カクンと頭だけが倒れ、目もピッタリと閉じられていて。

 

「死ん……」

 

 いや、違う。

 

「……眠ってるのか?」

 

 その証拠に、進一の『眼』は彼の生命をしっかりと捉えている。背凭れへと身を委ね、力なく座り込んでしまっているのだけれど。この乗客は、泥のように眠り込んでいるだけだ。

 一瞬胸を撫で下ろした進一だったが、ちょっと待って欲しい。それでも、やっぱりおかしいじゃないか。あんなにも激しい衝撃が車両全体に走っていたのにも関わらず、この乗客はひと時も目を覚まさなかっただろうか。幾らなんでも、それは――。

 

「進一君! これって……!」

 

 どうやら蓮子もこの異常性に気が付いたらしい。頷きつつも、進一は元いた席へと戻る。

 

「ああ。どうやら、俺達以外の乗客全員眠っちまっているらしい」

 

 にわかには信じ難い事実だが間違いない。突然の停電。そしてヒロシゲの急ブレーキ。そんな異常事態の中でも、悲鳴一つ上げない他の乗客達。それに加えて、進一と蓮子が確認した乗客達の状態。それがその真偽に対する何よりの証拠になっている。

 他の乗客達全員が眠りに落ちてしまっているのだ。それも少しの衝撃を与えた程度じゃ目も覚まさぬような、そんな深い眠りに。

 

「ね、眠ってるって……。一体何が……」

「分からん。だが……」

 

 胸中の混乱を何とか抑え込んで、進一は確認する。

 

「メリー。ヒロシゲが急停車する直前、結界がどうのと言ってたよな?」

「え、ええ。あの時、確かに結界が見えて……。行きはなかったはずなのだけれど……」

 

 未だに混乱が冷めぬ様子で、メリーがそう答えてくれる。やはりそうだったのかと、進一は納得していた。

 

「あの、それじゃあ……。この異常事態は、その結界の効力ってことでしょうか……?」

「ああ。多分、な」

「結界、ね……」

 

 妖夢の確認に頷いて答えていると、その横で何やらぼそりと呟いた蓮子がスマホの画面を確認している。眉をひそめつつも思案を続けていた彼女だったが、程なくして顔を上げると。

 

「現時刻から逆算して、メリーが結界の存在を認識したのは……ヒロシゲが卯東京駅を出発してから約50分後。ヒロシゲの走行速度を考えると、京都と滋賀の境目辺りに結界が張られてたんだと思うわ」

「京都と滋賀の境目!? そ、それって、まさか……!」

 

 息を呑むメリー。頷きつつも、蓮子が答える。

 

「ひょっとしたら、京都全土をすっぽり覆い隠しちゃうくらいの大規模な結界が張られているのかも……」

「京都全土だと? まさか、そんな事が……」

 

 幾ら何でも、有り得るのだろうか。

 京都全土の面積は約4600k㎡。当然ながら、日本の首都であるが故に人口密度だって高い。そんな都市をすっぽりと覆ってしまう程に巨大で、かつ強力な結界。仮にそんなものを張る事が出来る術者がいたとすれば、それはもう――。

 

「少なくとも、ただの人間じゃないと思う。それこそ、妖夢ちゃんをこっちの世界に連れてきた犯人だったりして……」

「……っ」

 

 確かに、その説はあり得る。何せ相手は妖夢を過去の幻想郷からこの時代の外の世界に放り出す事の出来る人物なのだ。この程度の結界を張る事くらい、朝飯前なのかもしれない。

 しかし、だとすれば目的はなんだ? こんな事をして、その犯人に一体どんなメリットがある?

 

「こ、これからどうするの……?」

「うーん……。そうねぇ」

 

 怯えた様子のメリー。そんな彼女とは対照的に、蓮子は幾分か冷静さを保てているようだ。人差し指の背を顎に添えて暫しの思案を挟んだ後、彼女は意を決した様子で、

 

「取り合えず、私は前の車両の様子を見てくるわ」

「えっ……?」

「急停車したって事は、少なくともブレーキがかけられたって事でしょ? ひょっとしたら、意識を失っていない誰かが運転席にいるかも知れないわ」

 

 確かに、蓮子の言う事にも一理ある。

 ヒロシゲは基本的に自動運転だが、それでも先頭の車両には運転席が設けられている。何らかの誤作動により自動運転が機能しなくなった場合、人の手によって手動で運転する必要が出てくるからだ。当然ながら列車内には運転免許を持った車両員が待機しており、何か問題が起きた場合はその都度対処に当たっていると聞いた事がある。

 こうしてヒロシゲが急停車したという事は、その車両員が何らかの問題に気付いて急ブレーキとかけたのだという可能性も考えられる。

 

 だが。

 

「ま、待ってよ。迂闊に動かない方がいいんじゃない……? 何が起きているのかも分からないんだし、余計な事をするのは……」

 

 いつになく怯えた様子でメリーが反論してきた。

 彼女の気持ちも分かる。この状況、明らかに異常事態である。そんな状況下に立たされて、冷静さを失うなと言う方が無理な話だ。

 

「何が起きてるのか分からないからこそよ。ひょっとしたら、私達以外にも意識を失っていない人がいるかも知れないじゃない。その確認の為にも、今は動くべきだと思うのよね」

「で、でも……」

「大丈夫だって。メリーは心配し過ぎよ。勿論、言い出しっぺの私一人で行ってくるから、皆はここで待ってて。私が絶対何とかしてみせるから」

 

 流石は蓮子。この状況下でもその図太さは健在だという事か。

 しかしそうは言っても、いくら何でも彼女だけを行動させる訳にもいかないだろう。蓮子がどんなに怖いもの知らずな人物だったとしても、彼女だって女の子である。この状況で一人にさせるのはあまりにも危険すぎる。

 

「仕方ないな。俺も行くとしよう」

「え? 進一君も?」

「ああ。流石に一人にさせるのはまずいだろ」

「し、進一君まで……」

 

 進一が名乗り出るが、それでもメリーはあまり納得していない様子。本当に、今日の彼女は少し怯えすぎであるような――。

 いや。どちらかと言えば、彼女の反応の方が普通なのかもしれない。常人以上の図太さを持つ蓮子や、そもそも半分人外の妖夢。常日頃からやけに肝が据わっている進一も含めて、秘封俱楽部は曲者揃いだ。確かにメリーだって不思議な『眼』を持ってはいるものの、その感性は限りなく常識人に近い。

 

「そんなに心配するなって。やばくなったらすぐに逃げればいい」

「やばくなったら、って……」

「それに蓮子の言う通り、今は動くべきなのかも知れないしな。ここでジッとしていても、助けが来るとは限らない」

 

 怯えるメリーを出来る限り安心させる事を気にかけつつも、進一はそう口にする。

 確かに、何が起きているのかは分からない。こんな暗闇の中に取り残されて、全く不安感を覚えていないと言えば嘘になる。

 それでも、進一までもここで取り乱す訳にはいかない。そこは男の意地というか、何というか。兎にも角にも、進一だって蓮子一人に無理をさせるつもりはなかった。

 

「妖夢。メリーの事、頼めるか?」

 

 とは言っても、怯えるメリーを放っておく訳にもいかない。今の彼女には、誰か支えになり得るような人物が必要だ。

 ここは進一が最も信頼している人物。彼女に頼む事とする。

 

「……分かりました。でも」

 

 妖夢は快く引き受けてくれた。躊躇うような事もなく、進一を否定するような事もなく。彼女は頷いてそれに答えてくれた。

 だけれども。彼女が浮かべるその表情は。

 実に不安気なものだった。

 

「無理だけは、しないで下さいね……?」

 

 上目遣いでそんな事を言われる。このような状況下に立たされても、そんな表情を見せられると多少なりとも動揺を覚えてしまうものだ。これが惚れた弱みというヤツか。

 ともあれ、妖夢もまた進一を信用してくれている事は確かだ。それならば、彼は是が非でもその気持ちに答えなければなるまい。

 

「ああ。分かってるさ」

 

 最後にそれだけを言い残して。進一は蓮子と共に運転席へと向かうのだった。

 

 

 ***

 

 

 マエリベリー・ハーンは動揺を隠し切れずにいた。

 心臓の鼓動がうるさいくらに激しくなり、息をするのさえも忘れそうになってくる。身体の震えは一向に収まる気配もなく、頭の中はますます混乱してゆく。

 訳が分からない。どうして蓮子と進一は、あそこまで冷静でいられるのか。こんな騒動に巻き込まれても尚、どうしてあそこまで大胆な行動を取る事が出来るのか。普通なら、もっと怯えるものじゃないのか。もっと混乱するものじゃないのか。ひょっとして、怯え切っている自分の方がおかしいのだろうか。

 

(何なのよ、もう……!)

 

 メリーは自らの両肩を抱え込んで縮こまる。

 ヒロシゲが急停車する直前。メリーの『眼』は、確かに結界の境界を捉えていた。しかも今まで経験もした事がないような、巨大で強力な結界。もしもこの騒動がその結界の効力によるものだとすれば、これは明らかに作為的である。誰かが何らかの意思をもって、この騒動を意図的に引き起こしたのだと考えられる。

 だとすれば、自分達だけ眠りに落ちていない理由はなんだ? ひょっとして犯人の目的は、メリー達なのではないのだろうか。そう考えれば考える程、怖くて怖くて仕方がなくなってくる。

 

(嫌よ、もう、こんなの……!)

 

 嫌だ。怖い。こんな状況、もう耐えられない。

 メリーの混乱がピークに達しかけた、その時だった。

 

「大丈夫ですよ、メリーさん」

 

 声をかけてきたのは妖夢だった。

 怯えて混乱するメリーとは対照的な、落ち着いた声調。暗闇である為に表情をしっかりと伺う事はできないが、それでも彼女の気持ちは十分に伝わってきた。

 怯え切っているメリーを目の当たりにして、少しでも彼女を安心させようと。そう気を遣ってくれたのだろう。

 

「メリーさんは一人じゃありません。少なくとも、今は私がついていますから」

「妖夢ちゃん……」

 

 優し気に、妖夢は声をかけ続けてくれる。

 

「進一さん達を信じましょう。きっと有用な手掛かりを見つけてくれるはずです。だからもっと安心してください」

「…………」

 

 ああ、自分はなんて情けないのだろう。自分一人だけ勝手に怯えて、それで妖夢に余計な心配をかけてしまうなど。自分の性格が嫌になってしまいそうだ。

 

「そう、よね。ごめんなさい、妖夢ちゃん」

「いえ……」

 

 そうだ。折角蓮子と進一が、何とかすると名乗り出てくれたのだ。そんな彼女達を信じてやれなくてどうする。

 不安に思う必要なんてない。蓮子達ならば、きっとこの状況を打開する手段を見つけてきてくれる。そう思うと、胸の中のざわめきも少しずつ収まってきたような。そんな気がした。

 

「それに、ですよ。メリーさん」

 

 メリーが落ち着きを取り戻していると、何かを付け加えるように妖夢がそう口にする。おもむろに席から立ち上がると、彼女は身を乗り出すような体勢となって、

 

「確かに周囲は真っ暗です。もう本当、スマートフォンの明かりがなければ何も見えないくらいに。いや、あっても殆ど何も見えない訳ですが」

「……へ? え、ええ。そうね」

 

 確かに妖夢の言う通り、周囲は本当に真っ暗だ。ヒロシゲは地下を走る新幹線であるが故に、例え日中でも太陽光など一切入ってこない。車内の蛍光灯やカレイドスクリーンに投影された映像などが主な光源だったはずだが、こうして停電してしまってはそれも意味をなさない。

 唯一の光源はこのスマートフォンのみだ。それでも少々弱すぎるくらいだが――。

 

「ですが安心して下さい。例え暗闇の中だとしても、ここが現代日本である事に変わりありません。それが意味する事はつまり……そう。お化けなんていないという事です」

「……ん?」

 

 あれ? 何だか話の趣旨がズレてきたような。

 

「ね、ねぇ妖夢ちゃん。一体、何の話を……」

「ですから、怖がる必要なんてないって話です! いいですか? お化けなんていないんです! いないんですよ!?」

「ちょ、妖夢ちゃん?」

「第一おかしいじゃないですか! こちらの世界では、妖精や妖怪などといった非科学的な事象は迷信として完全に排斥されたんですよね!? だったらそうホイホイとお化けなんて出てくるはずがないんです! そうですよね!?」

「え、えっと……」

 

 何やら妖夢は相当興奮していらっしゃる様子。

 いや。興奮というよりも、これは寧ろ――。

 

「ねぇ、妖夢ちゃん」

「な、なんですか!?」

「……ひょっとして、怖いの?」

「!?」

 

 ズドンと、閃光が走り抜けるかのような。そんな勢いで、妖夢は意表を突かれたかのような表情を浮かべた。

 

「こ、こここ怖がってなんてないですよ!? 全然、これっぽっちも! 蓮台野の時みたいに、また蓮子さんが背後から迫ってきたらどうしようだとか、そんな事は微塵も思ってないんですからね!!」

「……。あぁ、そう」

 

 わたわたと慌て始める妖夢の様子を目の当たりにして、メリーは確信した。

 この少女、ビビっている。それはもう疑う余地もない程に、心の底から本気でビビっている。涙目になりつつもぷるぷると震える妖夢の姿を見ていると、何だか逆に落ち着いてくるような気さえもしてくる。

 目の前にこんなにも怯えている子がいるというのだから、自分がしっかりしなければならないと。そんなある種の責任感のようなものがムクムクと膨れ上がってくる。何とも不思議な感覚である。

 

(進一君……。ひょっとして、妖夢ちゃんが怖がりだってこと忘れてるんじゃないのかしら……?)

 

 やけに妖夢を信用した様子で「メリーの事、頼めるか?」などと進一は言っていたが、これでは寧ろメリーの方が妖夢を支えなければなるまい。涙目でぷるぷると震える少女を前にして、メリーはほぼ完全に冷静さを取り戻しつつあった。

 

(そういえば妖夢ちゃん、さっきからやけに静かだなぁとは思ってたけど……。ずっとやせ我慢してたって事なのね……)

 

 そう思うと微笑ましくも思えてくる。何というか、可愛げのある少女である。

 

「……進一君は、こういう所に惚れちゃったのかしら?」

「へ……? な、何か言いました……?」

「ううん。何でもないわ」

 

 まぁ、それはともかくとして。

 

「とにかく、私はもう大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

「そ、そうですか……?」

「ええ。だいぶ落ち着いてきたわ」

 

 過程はどうあれ、妖夢のお陰で怯え切った心を多少なりとも紛らわす事ができた。何だか妖夢の弱みを利用したみたいでちょっぴり悪い気がしたが、あまりはっきりとそういう事は口にはしない方がいいだろう。ふぅっと深呼吸をしつつも、メリーは背凭れに身を委ねる。

 

 さて。蓮子達にはここで待っていろなどと言われたが、本当に何もせずにジッとしていても良いのだろうか。怯え切っていたあの状況ではまともに思考も働かなかったが、今思うと何だか申し訳なく思ってくる。

 とは言っても、勝手な行動を取ってしまうのもそれはそれで問題なのだろうけれど――。

 

「……、あれ……?」

 

 と、メリーが一人そんな事を考えていた矢先。不意に顔を上げた妖夢が、びくりと身体を震わせえた。何事だと思いつつもメリーが彼女へと視線を向けると、

 

「め、メリーさん。今、何か聞こえませんでした……?」

「……へ?」

 

 いきなり何を言い出すんだ、彼女は。

 

「何かって……。私は、別に……」

 

 いや、違う。

 

「……ッ!?」

 

 聞こえる。確かに、物音が聞こえる。

 ガンガンと、何かが叩きつけられるような音である。車両全体に反響している為か音源の特定は難しいが、少なくともこの近く。

 聞き間違えなどではない。確かに、この物音は。

 

「な、なにっ……!?」

 

 物音はどんどん大きくなる。それにつれて、今度は車両までもが大きく揺れ始める。やがて一際大きな音と共に車両がガタンと揺れた後、今度は何かがバタンと倒れるような音が響いて。

 

「えっ……?」

 

 倒れたのは、ヒロシゲのドアだった。外側から強い衝撃を何度も受けた事により、車体から勢いよく抜けてしまったのだ。

 強引にも外されたヒロシゲのドア。外と剥き出しになったその大きな()から、誰かが入ってくるかのような物音が聞こえる。ひしゃげたドアを蹴り退けて、散乱した窓ガラスを踏みつけて。一歩一歩、確実に。

 

「だ、誰……!?」

 

 当然ながら、蓮子達ではない。他の誰か――第三者が、こちらに向かってきている。おおよそ()()()()()()()ぎこちない動きで、ゆっくりと。

 メリーは反射的にスマホを掲げる。ライト替わりのそれをかざして、近寄ってくる人物の姿を直接確認する。そこにいたのは――。

 

「ッ!?」

 

 紛う方なき、化物だった。

 姿形は人間に近い。というか人間そのものである。それでも目の前にいる()()を化物だと認識できたのは、あまりにも奇怪な異常性を目の当たりにしてしまったからだ。

 まず、腕。これがおかしい。明らかに間接とは逆の方向に折れ曲がってしまっている。にも関わらず、目の前のそれは痛がる素振りどころか気にする素振りすらみせていない。神経が図太いだとか、最早そういうレベルの問題ではない。

 そして臭い。生肉が腐り切ったかのような、思わず顔を背けたくなる程の強烈な腐敗臭が、目の前のそれから放たれている。吐き気を催す程のその腐敗臭を前にして、生理的に身体が拒否反応を起こしているようにも思える。

 

 そして、顔。丁度額部分に、何やら呪術的な印象を受ける御札が張られている。

 これらの要素から推察するに、目の前にいる()()は――そう。まるで、人間の死体その物が、あの御札によって操られているかのような――。

 

「ひっ……!?」

 

 そこまで考えた所で、胃の奥が焼けるような激しい嘔吐勘がメリーに襲い掛かった。

 思わず両手で口元を覆って蹲る。この強烈な腐敗臭の正体が死臭で、目の前にいるそれが本当にメリーの推測通りのモノなのだとすれば。あれは、紛れもなく人間の――。

 

(う、嘘よ……! 何なの!? 何なのよ次から次へと……!)

 

 メリーは再び混乱する。ようやく落ちついたと思った矢先にこれである。あまりにも非科学的な現象過ぎて、寧ろ現実味が薄い出来事のようにも思える。まさか、悪い夢か何かなのではないだろうか。

 だけれども。顔を上げれば、はっきりと分かる。目の前にいる()()は、間違いなく現実で――。

 

「メリーさん!!」

 

 直後。聞き馴染んだ少女の声が流れ込んできた瞬間。何かが、一閃した。

 

「――――ッ!?」

 

 声にならない叫び声。ぐちゃりと、肉が裂けるかのような嫌な音。血液か、体液か。とにかくよく分からない液体がぶしゃりと噴き出すと、目の前の()()は呆気なく事切れた。

 どさりと倒れこむ人の形をした化物。べちゃりと周囲に四散する体液。そしてますます強くなる腐敗臭。あまりにも一瞬の出来事過ぎて、頭の整理が追い付かない。しかし駆け寄ってきた少女に名前を呼ばれた所で、メリーはようやく我に返る事ができた。

 

「メリーさん! 大丈夫ですか!?」

「……。へ……? 妖夢、ちゃん……?」

 

 頭の中が真っ白になったメリーとは打って変わって、しっかりと正気を保った様子で妖夢が声をかけてくれる。つい先ほどまで震えていた、臆病な少女の姿はどこにもない。

 メリーは視線を落とす。彼女の右手には、あの化物の体液が滴り落ちる楼観剣が握られていて。

 

「よ、妖夢ちゃん……。それ……!」

「え? あ、あぁ……。持ってきておいて良かったですね。まさか、こんな事が……」

 

 いや、違う。違うだろう。

 

「だ、だって……! 今、それで、人を……!」

「あれは人なんかじゃありませんよ」

 

 少なからず困惑した様子の妖夢。けれど少なくとも、混乱するメリー以上にこの状況を飲み込めている様子で。

 

「あれは、おそらく」

 

 ちらりと()()を一瞥すると、

 

「文字通り、生ける屍です」

 

 その時、メリーはようやく実感した。

 これまで辛うじて保てていた“常識的”な世界。それが、音もなく崩れ落ちてゆく感覚を。


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