「夢美様ー! 今帰ったぜー!」
ガラリと音を立てて扉が開けられ、北白河ちゆりは研究室へと帰還した。
声高にそう告げた後、買い物袋をデスクへと置いてドサりと椅子に腰掛ける。ふぅ、とやや大袈裟に息を吐き出して、彼女は夢美を一瞥する。
「いやー、参ったぜ。いつもの店じゃ売り切れでさ。少し遠出する羽目になっちまった」
パタパタと手うちわを仰ぎながらも、ちゆりは続けた。
「まったく、夢美様も人使いが荒いよなぁ。いきなりこれ買ってこい! だもんな」
本人を前にしているのにも関わらず、わざと聞こえる声量でちゆりはそうボヤく。
勿論、心の底から不快に思っている訳ではない。これは言わば、一種の悪戯のようなものだ。いきなり助手を買い出しに向かわせた気まぐれな上司に対する、ちょっとした仕返しのようのものである。別に悪意を込めて口にした言葉ではない。
「……夢美様?」
だけれども。当の夢美から、その返事が返って来る事はなかった。
ちゆりはちょっぴり不審に思う。いつもの夢美ならここで軽口が返ってきてもおかしくはないのだが、なぜだか今日はそれがない。
まるで、ちゆりの言葉が耳に届いていないかのように。椅子に腰掛け、背を向けたままの夢美は何も言わずに俯いたままで。
「どうしたんだよ夢美様。何かあったのか?」
首を傾げつつも、いつも通りの軽い口調でちゆりはそう尋ねてみる。意外にも返事はすぐに返ってきた。
「ねぇちゆり。私、前にも言ったわよね? 最近、あまりにも調子が悪過ぎる。幾らなんでも上手くいかなさ過ぎだって……」
「ん?」
確かについ最近、夢美はそんな事を口にしていた。胸の中がモヤモヤとしていて、不安感が掻き立てられる。あまりにも調子が悪過ぎで、幾ら何でも上手くいかなさ過ぎで。
まるで、誰かの妨害でも受けているみたいだと。そんな、漠然とした感覚を覚えているような様子で。
「私達は、ずっと進一達とは違う観点から幻想郷を探っていたわ。博麗大結界を調べたり、不可解な事件を追いかけたり。でも事態はまるで進展しない。手掛かりだって殆んど掴めない。あと一歩の所まで来ているような感覚はあるのに、その一歩がどうしても踏み出せない」
随分と遠まわしで回りくどい言い方である。何となく、夢美らしくない。
「そりゃ、そう上手くいく訳ないだろ? だって私達は、妖夢から話を聞くまで幻想郷の存在をまるで認識していなかったじゃないか。殆んど情報ゼロの状態からスタートしたんだぜ? だったら」
「だったとしても、不自然よ」
夢美が口を挟んでくる。おもむろに椅子から立ち上がり、顔を見なくても分かる程に緊迫した様子で。
「あまりにも、不可解なのよ。まるで私の知らない所で、何かが……少しずつ、狂っていっているような……」
夢美が振り返る。ちゆりへと向ける彼女の表情は、いつものような天真爛漫な様子は微塵も感じられなかった。
まるで、受け入れがたい真実へと辿り着いてしまったかのように。
「ねぇ、ちゆり」
まるで、恐怖に我を支配されてしまったかのように。
「あなたは、何を知っているの?」
まるで、信頼していた人物に裏切られてしまったかのように。
「……ううん。違うわね」
嘘だと言って欲しいと。
まるで、そう懇願するかのように。
「ちゆり。あなたは……」
震える声を絞りだし、夢美は無理矢理言葉を繋ぐ。
「一体……誰と、繋がっているの……?」
こんな目を彼女から向けられるのは、ひょっとしたら始めてだったかもしれない。だって彼女は、誰よりも人が良くて。振り回しているように見えて、意外と周囲の人の事も考えていて。人を疑う事を知らぬような、そんなお人良しな女性だったから。
いや、お人好しな女性、だからなのだろう。人を疑う事を知らぬような女性だからなのだろう。そんな人物だからこそ、彼女はこんな表情を浮かべている。驚倒、困窮、そして焦燥。様々な感情が入り混じった彼女が浮かべる表情は。
実に、悲しげなものだった。
「……。はぁ……」
だからこそ。ちゆりは大きく溜息をつく。
「なぁんだよ。意外と早かったなぁ……」
「……っ!?」
一瞬、夢美の目が見開かれる。程なくして彼女の身体が小刻みに震え始め、表情に浮かぶ驚倒と困惑の色がより一層強くなる。いや、最早それは恐怖に近い。突き付けられた事実を、受け止める事ができなくて。何が何だか、本当に分からなくなってきて。
だからこその、恐怖。
「まぁ、そりゃそうか。確かに、そろそろ限界だったからなぁ」
「な、なに、を……!」
「もう気づいちまってるんだろ?」
表情を伺うために、ちゆりは夢美の顔を覗き込む。
「だからこそ、そんな表情を浮かべているんだろ?」
「ち、ちゆり……?」
まぁ、彼女の反応は無理もない。今までずっと傍にいて、ずっと自分を支えてくれていて。そんな、誰よりも信頼していたはずの人物が。
「そうだよ、夢美様」
こんな。
「私が、ずっとあんたの邪魔をしていたんだ」
こんな、裏切りにも近い行為をしていただなんて。
「私が」
彼女は。
「あんたが感じていた違和感の正体だ」
岡崎夢美は、受け入れる事ができないだろう。
夢美は何も言えなくなっていた。俯き、口をつぐんで、相変わらず身体を震わせて。困惑と焦燥、そして悲愁の感情こそ伝わってくるが、怒りだけはまるで感じられない。そこがまた、彼女らしい。
彼女はお人よしだ。勿論、良くも悪くも。
だからこそ。
「あんたは、本当に騙されやすい人柄をしてるよな」
「ッ!!」
夢美が勢いよく顔を上げる。その目尻に、少なからず涙を滲ませて。
「どうして……!?」
「どうしてそんな事をしたのか、だろ? さぁ、どうしてだろうな?」
ちゆりは夢美へと歩み寄る。震える彼女と視線を合わせ、その瞳をしっかりと見据えて。
いつものような軽口とは違う。冷たく、そして重苦しい声調で。ちゆりは、口を開く。
「
「えっ……?」
「この名前に聞き覚えはあるか?」
困惑を隠し切れぬ様子で、夢美はちゆりを見据えている。息を詰まらせ、瞳を揺らし、必死になって記憶を探っているような面持ちで。
けれども何も言えないという事は、それは即ち。
「そうだよな」
大方予想通りの反応。期待などは全く持っていなかったが、それでも多少は肩を落としてしまう。
「あんたは何も覚えていない」
ちらりとちゆりは視線を逸らして、
「
短く一度嘆息した後、ちゆりは視線を夢美へと戻す。
彼女の表情は相変わらずだ。彼女は未だに、心のどこかでこの事実を否定している。ひょっとしたら、これは悪い冗談なんじゃないか。夢か何かなんじゃないか、と。そう思っている――否、懇願しているに違いない。
だったら。
それでもいい。
「でもあんたは何も不安に思う必要はないぜ、夢美様」
より強い眼光で、ちゆりは夢美の視線を捉える。まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼女が身動きを取れないようする。
「あんたが次に目を覚ます頃には、全部終わっているはずだからな」
「えっ――」
夢美の瞳がぼやけ始める。灯っていた光が濁り、ちゆりへと向ける視線が弱まり、そして徐々にその瞳が黒に塗りつぶされてゆく。夢美の全身から力が抜け落ちる。崩れ落ち、へたり込み、そしてパタリと倒れこむ。
暗示。或いは催眠術のようなものだと聞いている。もともと
強いて名前をつけるなら、『幻惑させる程度の能力』。ちゆりに睨まれた夢美の意識はいとも簡単に惑わされ、そして混濁してゆく。彼女が次に目を覚ました時、この出来事は夢か幻のようなものだったと錯覚する事になるだろう。
これでいい。これで、彼女の身の安全は保障される。
「ああ、そうだ。これで何もかも上手くいく」
倒れこんだ夢美の腕を自らの肩に回し、そのまま持ち上げて椅子へと座らせる。机の上に突っ伏したような体勢にした後、満足気に頷いたちゆりは踵を返して、
「大丈夫。大丈夫だ、夢美様」
最後にぼそりと呟いて、ちゆりは研究室を後にする。
「あんたと進一だけは、私が絶対に助けてやるからな」
その呟きが、夢美へと届く事はなかった。
***
霍青娥は邪仙である。
仙人ではない。元々は仙人になるべく修行を積む人間だったが、天からは仙人とは認められず、邪仙へと堕ちてしまったと彼女は語っている。最も、利己的で躊躇なく他人を欺く事ができるような彼女自らの口から語られた内容である。どこまでが真実なのか、それは定かではない。
仙人とは即ち、修行を積んで超人的な能力を得た人間。邪仙に堕ちてしまったとはいえ、彼女も仙人としての能力を多少なりとも持ち合わせている。少なくとも、並大抵の人間など大きく超越する程の力を持っている事は確実である。物腰が飄々としている事もあって、何とも腹が読めない胡乱な印象を受ける女性だ。はっきり言って、気味が悪い。
妖夢も彼女に対しては苦手意識を持っている。彼女独特の気味の悪さもそれの起因となっているが、それより何より――。
「うふふ。どうしました? ひょっとして、もっと別のリアクションを期待していましたか?」
何も言わずに彼女を睥睨していると、何とも人を馬鹿にしたように青娥はくすくすと笑う。人の神経を意図的に逆撫でしているかのような振る舞いを見せる青娥だが、だからといってそう易々と彼女の挑発に乗ってやるつもりはない。
目の前にいるこの女性は、妖夢と対面しても尚、飄々としたその態度を崩す事はなかった。それが意味する事は、即ち。
「……この程度は想定内、という事ですか」
「というよりも、計画の内と言った方がより正しいかしら。貴方を待ってたんですよ、妖夢さん」
「なに……?」
何を言っているんだ、彼女は。それはつまり、最初から隠れるつもりなどなかったとでも言いたいのだろうか。
「戯言を……。適当な事を言って私を惑わすつもりですか?」
「あらあら……。どうやら相当嫌われちゃってるみたいね」
「好かれているとでも思ったんですか?」
バンッと妖夢は受付のテーブルを叩く。そしてその鋭い視線を彼女に向けたままで、
「こいしちゃんはどこにいるんです? 貴方が誘拐したんでしょう?」
「あら? 真っ先にそちらを尋ねてくるのね。私はてっきり……」
「貴方のお喋りに付き合う暇はありません」
息つく暇も与えずに、妖夢は続ける。
「今すぐこいしちゃんを解放して下さい。さもなくば……」
「実力行使にでも移るつもり? 正直、それはあまり利口な判断とは言えませんね」
苛立つ妖夢とは対照的に、青娥は至極冷静な様子である。妖夢の追求をひらりひらりと受け流し、飄々とした態度を常に保って薄い笑みを浮かべている。悔しいけれど、どうやらあちらの方が妖夢より一枚上手のようだ。
「まぁ、いいわ。そこまで言うのなら、あの子と会わせてあげましょう。どうぞ、ついて来て下さい」
受付席から立ち上がると、青娥は病院の奥へと進んでゆく。そんな彼女の背中を視線で追う妖夢だったが、果たして素直について行ってもいいのだろうか。
何せ相手はあの邪仙。自分の目的を達成する為なら、身内までも平気で騙すような女性である。これも罠だという可能性だって否定できない。
だが。
「どうかしました? 来ないんですか?」
はっきり言って、心理戦ではあちらの方が何枚も上手だ。ここで彼女の真意を探ろうとした所で、口車に乗せられて煙に巻かれてしまうのが目に見えている。そうなってしまっては明らかに時間の無駄である。
それならば。
「少しでも妙な動きを見せたら斬ります。その辺りは留意しておいて下さい」
「あらあらうふふ、怖い怖い。心配せずともちゃんと会わせますよ。こいしさんとは、ね」
脅しにもまるで動じない。心の中で舌打ちをしつつも、妖夢は黙って青娥についていく事にする。勿論、最大限の警戒は常に保ったままで。
連れてこられたのは病院の奥。更に地下へと降りる階段の先にあったとある一室である。
まさかこの病院――というよりもこのビルに地下室があった事にも驚きだが、何より階段を下りた瞬間に漂い始めたこの只ならぬ雰囲気。明らかに“常識的”じゃない。一体彼女は、こちらの世界で何をしていたというのだろうか。
「さて、ここです」
そう口にしつつも、青娥は部屋の扉を開ける。入室を促す彼女の姿を確認した後、妖夢は恐る恐る扉の先へと足を踏み入れた。
真っ先に目に入ったのは、横長の窓ガラスだった。
どうやらこの更に奥にもう一つ部屋があるらしく、壁に隔てられたその部屋の様子をガラス越しに確認できるような作りになっているらしい。
妖夢が入った部屋自体には特に変わった部分はない。何らかの資料が山積みにされた机や椅子、電源がつけっぱなしのパソコン、そして漂う薬品のような匂い。机の上はやや乱雑のようにも思えるが、それ以外はそれなりに清潔な状態が保たれているようで意外と綺麗に片づけられているような印象が受ける。ごくごく普通の診察部屋だと言えるだろう。
だが、問題はその先。ガラス越しに中の様子が確認できる奥の部屋である。
部屋の中にはベッドが一つポツンとおかれているだけで、それ以外の医療器具は特に見当たらない。部屋の隅々まで白で統一された、眩しくも少し気味の悪い空間。
そこに、彼女はいた。
「っ! こいしちゃん!!」
白いベッド。その上で丸まっている少女の姿を認識した途端、妖夢は反射的に飛び出していた。
居ても立っても居られずに、一直線に走り出す。窓ガラスまで駆け寄って、彼女の姿をしっかりと確認しようと。そのガラスへと、手を乗せた瞬間。
「ッ!?」
バチリと掌に電流のような衝撃が走り、妖夢は慌てて手を引っ込めた。
痺れる右手。けれども特に目立った外傷は確認できず、感覚もちゃんと残されている。今度は恐る恐る人差し指で窓ガラスに触れてみるが、やはり返ってきたのはバチリと弾かれるようなこの感覚。
「結界……?」
それも物理的なものだ。丁度この部屋と奥の部屋を隔てるような形で、強力な結界が張られている。妖夢のような人外が触れても弾かれるだけで特に問題はないが、普通の人間が触れればとんでもない。下手をすれば大怪我を負ってしまう危険性もあるだろう。
そんな結界が、まるで外部からの侵入――或いは内部からの脱出を拒むように張られている。
「まったく、あわてんぼうね。少し気を取られすぎでは?」
「これは、どういうつもりですか……!?」
「それは勿論、こいしさんが勝手に逃げ出さないようにする為の、いわば鳥籠のようなものです。もっとも、今は眠って貰っている訳だけれど」
ちらりと様子を確認すると、確かにこいしは眠りに落ちてしまっているようだ。スヤスヤと寝息を立ててはいるものの、しかしその表情は穏やかなものとは言えない。どうやら青娥の言う通り、無理矢理眠らされているらしい。
「こいしちゃんに何をしたんですか!?」
「ちょっと眠って貰っただけですよ。それ以外は特に危害など加えてません」
それから青娥は肩を窄めると、
「まぁ、貴方の気持ちは分かります。私の事が信用できないのなら、この際それでも構いません。けれども私は、これまで貴方に嘘なんて何一つついてないはずですけど?」
「どの口が……!」
今度は妖夢が青娥へと詰め寄る。
「今すぐに結界を解き、そしてこいしちゃんを解放して下さい!」
「あらあら、随分と単刀直入ねぇ……。愚行だわ」
「言ったはずです! 少しでも妙な動きをすれば斬ると……! 貴方はもっと自分の立場を」
「自分の立場を理解すべきだとでも? それは寧ろ貴方の方なのでは?」
「なっ……!」
パチンと、青娥が指を鳴らす。すると突然部屋の空気が重くなり、肌をピリピリと擦るような嫌な感覚が妖夢に襲い掛かった。
思わず妖夢は身構える。術か何かをかけられたのかとも思ったが、しかしどうやらそれは思い違いだったらしい。特に身体には異常は感じられないし、何か妙な事をされたような感覚もない。強いていうならば、この雰囲気の変化くらいで――。
(……いや、これは)
妖夢に対して何かをした訳じゃない。それは間違っていないだろう。だが、
変化が訪れたのは、窓ガラスの向こう側。そのベッドの上だった。
「ん……」
声が聞こえる。幼い少女の声だ。反射的にガラスへと視線を戻すと、その声の正体をすぐに認識する事ができた。
ベッドの上。つい先ほどまで深い眠りに落ちていたはずの彼女が。
古明地こいしが、目を覚ましたのである。
「あれ……? ここ、どこ……?」
寝起き眼を擦りつつも、こいしは辺りをキョロキョロと見渡している。どうやらここに連れて来られてから一度も目を覚ましていなかったようで、彼女は自分の状況をまるで理解できていない様子。寝ぼけた様子で周囲の様子を観察していたこいしだったが、前方の大きな窓ガラスを認識した途端その表情が変わる。
明確な困惑顔。むくむくと膨れ上がる焦燥感が、その表情にありありと現れていた。
「えっ……? よう、む……?」
名前を呼ばれる。どうやらあちら側からでもこちらの様子はしっかりと観察する事ができるらしい。
妖夢は慌てて呼応した。
「こいしちゃん! 目を覚ましたんだね!?」
「う、うん。で、でも私、どうして……」
そこまで口にした所で、こいしは言葉を詰まらせた。
彼女の表情が再び変わる。視線の先は、妖夢の後ろ。相も変わらず気味の悪い薄ら笑いを浮かべている、一人の女性へと向けられている。
一瞬の静寂。その後に、こいしはベッドから飛び降りて、
「お前は……ッ!」
ずんずんと歩み寄ってくる。ガラス越しに佇む青娥を睥睨したまま、少なからずの憎悪を込めて。
「どうしてお前が……!」
「っ! 待ってこいしちゃん!!」
慌てて妖夢が制しようとするが、少しばかり遅すぎた。
こいしの両手が窓ガラスへと触れた瞬間。眩い発光と共に、電撃音が鳴り響く。こいしの接触を拒んだ結界が物理的な効力を発揮し、彼女を弾き返したのである。当然、何が何だか分からないといった面持ちのままこいしは吹っ飛ばされ、勢いよく床に叩きつけられる事となる。妖夢は思わず息を飲んだが、幸いにも大事には至らなかったようで、
「いっつぅ……! な、なにこれ!?」
ケロリとした様子でこいしは起き上がる。かなりの勢いで弾き飛ばされたように見えたこいしだったが、どうやらあの結界はそれほど大きな殺傷能力は持ち合わせていないらしい。
妖夢は安堵の息を漏らした。
「ご覧の通り、こいしさんの力ではその結界を超える事はできません。彼女は完全に閉じ込められている事になりますね」
いつの間にか歩み寄ってきていた青娥が、にこやかな様相のままそう説明を開始する。
「当然ながら結界だけではありませんよ。あの部屋には複数の術が何重にも重ねられて隠されています。今のように、私の合図一つで発動させる事も可能です」
妖夢の頬から、一筋の嫌な汗が流れ落ちる。
彼女が言いたい事は、つまり。
「さて妖夢さん。もしも貴方が少しでも妙な動きを見せた場合」
満面の笑みを浮かべつつも、青娥は言った。
「こいしさんはどうなってしまうんでしょうね?」
ギリッと、妖夢は歯軋りをした。
形勢逆転。これでは完全に弱みを握られてしまった事になる。自分自身にどんな危害を加えられようとも構わなかった妖夢だが、その対象がこいしとなってしまうのなら話は別だ。これ以上、彼女を下手に刺激する事はできない。
「なっ!? 私をダシにして妖夢を脅すつもり!?」
そう。そもそも青娥の狙いはそこにあったのだ。
こいしを人質にして、有無を言わさず妖夢を従わせる。実に巧妙で小癪なやり方である。
「卑怯だよ! こんな手を使うなんて……!」
「それがどうしたのかしら? 卑怯だろうが何だろうが、利用できるものは利用する。それが私のポリシーなので」
まるで悪びれる様子も見せずに、青娥はそう言い放つ。
彼女はそういう人物なのだ。目的の為なら手段を選ばず、その過程で他の誰かがどうなろうと知ったこっちゃない。彼女が常に見据えているのは自らが抱く目的ただ一つだけで、それ以外の事なんて興味ない。少しの関心さえも抱かない。
しかも大抵の場合、彼女に悪気なんてものは一切ないのである。仮に無関係な人々が巻き込まれるような事があったとしても、それはあくまで計画遂行の段階での副次的な影響に過ぎないのだ。それ故に、尚更タチが悪い。
今回の件だってそうだ。別にこいしをどうこうする気は彼女にはないのだろう。
今の彼女の目的は、妖夢を確実に従わせる事。こいしを誘拐し、そして監禁している件については、あくまでそれを達成する為の手段に過ぎない。
(いや……。そもそも私を従わせる事自体も、何らかの目的を達成するのに必要な要素に過ぎないのかもしれないか)
いずれにせよ、これ以上説得を試みたとしてもまるで効果は表れないだろう。高々妖夢の言葉程度で、彼女の心は揺れ動かない。そもそも関心がないのだから、心に響くはずがない。
これでは、完全に八方塞がりだ。
「さて、どうします妖夢さん? まぁでも、利口な貴方ならもう分かってますよね? 既に選択肢は一つしか残されていない、という事に」
彼女に言われるまでもない。
子供の頃ならまだしも、今の自分はそこまで向こう見ずにはなれない。
「耳を傾ける必要はないよ妖夢! どうせこいつは、また良からぬ事を企んでいるに決まってる! あの時だってそうだったんでしょ!? こいつの所為で、全部……! 全部ッ……!!」
「こいしちゃん……」
いつになく必死な形相で、こいしは声を張り上げている。ここまで熱くなっている彼女を見たのは、ひょっとしたら初めての事だったかも知れない。
でも。
「私達の考えが甘かったんだよ! こいつから情報を聞き出そうだなんて、そもそもそこから間違ってたんだ! こいつに利用されるくらいなら、私はもうどうなったって……!!」
「ッ!!」
バンッと、一際大きな音が響く。
その直後。妖夢の右腕全体に激しい衝撃が駆け抜け、そして部屋を隔てる窓ガラスにヒビが走る。響いた轟音は他でもなく、妖夢がガラスに右腕を叩きつけた音だった。結界の効力が発揮され、強く弾かれるような衝撃が返ってくるのにも関わらず。青娥と対面し、こいしに背を向けた状態のままで。拳を握り締めて、力強く。
「……駄目だよ、こいしちゃん」
驚いて言葉を詰まらせたこいしに対し、妖夢は言葉を投げかける。
「自分の身を、そんなにも簡単に犠牲にしようだなんて……。私は絶対に許さない」
「妖、夢……?」
妖夢は息を飲みこんで、そして吐き出すように。
「どうしてッ……! 私の周りの人達は、みんな……!!」
叩きつけられた右手から血液がポタリと零れ落ちる。ヒビの入った窓ガラスで切ってしまったのか、或いは結界の効力による影響か。しかしいずれにせよ、今の妖夢はその程度の掠り傷など気には留めない。表面上のちょっとした怪我などに、意識を傾ける余裕はない。
溢れ出る激情。膨れ上がる葛藤。けれども結局、青娥の言う通り選択肢なんて既に一つしか残されていなかった。
「……分かりました」
息を整え、気持ちを落ち着かせる。最低限の抵抗を込めて、ギロリと青娥を睨みつけると、
「貴方に従います、青娥さん」
背後から息を飲む音が聞こえてくる。妖夢の下した判断にこいしが異を唱えようとしたのだろうが、結局言葉にはできずに吞み込んでしまったらしい。
今までこいしの前では見せた事もないような妖夢の激情。それを目の当たりにして怯えているのだろうか。それとも、悟っているのだろうか。
今の自分ではどうしようもできない。自分が何を言った所で、誰の心も動かせない。それ故に、ただ行く末を見守るしかない――と。
「青娥さん。一つだけ聞かせてください」
そして最後に、妖夢は一つの質問を投げかける。
「貴方は、一体何をするつもりなんですか……?」
それに対する青娥の返答は、笑顔だった。
まるで、悪意など微塵もないかのように。まるで、裏の顔など持っていないかのように。まるで、何も企ててはいないかのように。
霍青娥は、ただニッコリと笑って。
「それは勿論」
ただ純粋に、この状況を楽しんでいるかのような面持ちで。
彼女は、答えた。
「幻想郷を救うつもりです」
***
岡崎夢美の研究室は静寂に包まれていた。
大量の本が所狭しと詰まった書棚。呪術的な印象を受ける数多くのオカルトグッズ。そしてパソコンや紙媒体が大量に並ぶデスク。その真ん中で、デスクの上に突っ伏すような形で倒れている女性の姿が確認できる。
真っ赤な髪。真っ赤な上着。そして真っ赤なスカート。彼女はこの研究室の責任者、岡崎夢美その人で。
「…………」
ぐったりと突っ伏して、傍から見れば深い眠りに落ちてしまっているようにも思える。北白河ちゆりの術中にはまり、『能力』を使われて。その結果意識を幻惑され、こうして眠りに落ちてしまったのだと。
おそらく、『能力』を使った当の本人であるちゆりでさえもそう思っている事だろう。
だけれども。それは真実などではない。
岡崎夢美は、誰よりも非常識に精通している物理学者だ。そんな彼女が、ただ一方的にあんな策略に嵌るなど有り得ないのである。
そう。策略に嵌ったと
「……詰めが、甘いわよ。ちゆり」
むくりと夢美は起き上がる。ちゆりの『能力』を受けて失神したかのように思われた夢美だったが、しかしその実、彼女は『能力』の影響をそれほど大きくは受けていなかった。
夢美はゴソゴソとポケットを探る。程なくしてその中から彼女が取り出したのは、一つのお守りだった。
赤い綿袋の中身は、和紙に包まれた小さな木板である。しかしその木板はぽっきりと真っ二つに折れてしまっており、何とも無残な有様だ。けれどもこの木板のお陰で夢美が事なきを得たのは事実であり、折れているというこの状態こそが効力の存在を証明しているとも言える。
成田山新勝寺。関東圏にて生活していた際に訪れた事のあるお寺で、不動明王信仰の寺院のひとつである。そこで何気なく購入していたこのお守り。そのご利益は災難除や身体健全――つまりは身代御守という事になるが、こうして夢美を守ってくれた辺り、どうやらそのご利益は本物だったらしい。多少視界がぐらつく事はあれど、ちゆりが狙っていたように意識や記憶が幻惑されるような事はなかった。
「……現代も捨てたもんじゃないわね」
あまりにも非常識的な力をその身で体験した夢美だったが、今はその余韻に浸っている時間はない。
身を挺して文字通り夢美を守ってくれたお守りに感謝しつつも、彼女はおもむろに立ち上がる。立ちくらみを覚えつつも時計へと目をやると、ちょうど針が午後4時を指している事に気が付いた。
「ちゆりが出て行ってから……5分くらい、かしら?」
夢美は考える。
十中八九、ちゆりが向かったのはあの『先生』の所だろうが、ここで素直に追いかけてしまってもいいものか、否か。
何せ相手の黒幕は、得体も知れぬ不気味な人物。どこまでこちらの動きを読まれているのかも定かではない。そんな状況で無闇矢鱈に動いてしまうなど、自ら身を危険に晒すようなものだ。その判断は得策ではない。
「ちゆり……」
どうして彼女はあんな事をしたのか。いつから夢美達を欺き続けていたのか。それは気になる所だけれど、生憎あまりにも情報が少なすぎる。こんなにも近くにいたはずなのに、その異変に全く気付かなかったなんて。まさかこれも彼女が持っているだろう『能力』の効力なのだろうか。
「……いや、ちょっと待って」
情報。
それなら、あるじゃないか。確か、ついさっき。彼女が『能力』を使う直前に、
「朝ヶ丘絵理子……。確か、あの子はそう言っていたはず」
人の名前だという事だけは分かる。ちゆりの口振りから察するに、夢美はその名前を一度聞いたことがあるようだが――。
「覚えてない……、けど……!」
電源を点けたままにしておいたパソコン。夢美はそれに駆け寄って、そしてブラウザを立ち上げる。検索キーワードとして朝ヶ丘絵理子を放り込んでみるが、
「ヒット数ゼロ……!? そんな……」
ディスプレイに表示されるのは、一致する情報が見つからなかったという旨を伝える一文。これはつまり、「朝ヶ丘絵理子」という単語に関する情報がネット上には一切存在していない事となる。そんな事、有り得るのだろうか。
(意図的に消されている……?)
その可能性はあるかも知れない。誰かが意図的に情報を削除したのだとすれば、この不可解な検索結果にも一応説明はつく。だけれども、一体誰が何の為にそんな事をしたのか。その肝心な部分は皆目見当もつかないが。
(ちゆりが消したの……? いや、でも……)
流石の夢美も頭がパンクしそうだ。信頼していたはずの助手に裏切られた事により、かなり気が動転しているという事もあるけれど――。
(朝ヶ丘絵理子、朝ヶ丘絵理子……。確かに、聞き覚えがあるような気もするけど……)
けれども幾らインターネット上で検索をかけても、それに関する情報は一切出てこない。これでは手の施しようがないように思えるが、
「いや、ちょっと待って……。確か……!」
そこでふと、夢美の脳裏にある記憶が過る。弾かれるように立ち上がって、今度は書籍類が詰まった本棚へと駆け寄った。
棚がひっくり返りそうになる程の勢いで、夢美は次々と書籍を手に取ってゆく。表紙を確認しては投げ、また表紙を確認しては投げ。そんな事を繰り返している内に、やがて一つの雑誌を見つける事ができた。
「あった! やっぱりここに……!」
それは数年前に発刊された学術誌だった。
雑誌類も電子媒体が主流となる中、実に五年ぶりの紙媒体による学術誌という事で物珍しさを感じていた記憶がある。当時の夢美はまだ18歳で、教授に就任したばかり――この歳でこの役職は異例中の異例であるが――だった。あの頃は独りよがりな研究ばかり続けていて、他人の論文なんて微塵も興味はなかったのだけれど。
「でも……。ちょっとだけ、覚えてる……」
夢美はパラパラと学術誌のページを捲る。程なくして、彼女は一つの論文を発見する事となる。
「あった……」
著者名・朝ヶ丘絵理子。このページには、そうはっきりと掲載されていた。
夢美は思わず息を飲む。
「
ともあれ、この論文を読めば何か情報を掴む事ができるかもしれない。夢美は慎重に論文の文字へと視線を走らす。
「朝ヶ丘絵理子。15歳。准教授……。15歳で准教授!? な、何よこの子……」
当時の夢美より3歳も年下の時点で准教授とは。夢美並みかそれ以上にぶっ飛んだ経歴である。
しかし、そこまでハイスペックな少女ならもっと有名になってもおかしくはないはずだろう。けれども今現在、そんな名前の女性の活躍を耳にする機会は全くない。
これは一体、どういう事なのだろうか。
「うーん……。顔写真も載ってないし、どんな子なのかはさっぱり……」
顔で判断できないのなら、文字で判断するしかない。論文の構築方法だとか、もっと細かな文章の癖だとか。その辺りも注意して読み解いていけば、朝ヶ丘絵理子なる少女の人物像を把握する事だって出来るかもしれない。
とにかく、深く考えるのはこの論文を読んだ後だ。
「この論文のテーマは……」
集中力を極限まで高め、夢美は論文を読み進める。
「『タイムトラベル』……?」
魂魄妖夢が直面している異常現象。
朝ヶ丘絵理子の論文は、奇しくもそんな現象をテーマとして掲げていた。
次回から第壱部は本格的に最終章へと突入します。いや、厳密に言えば今回から入ってはいるのですが、まだ下準備のような段階なので。
ところで、本作における青娥は中々に外道なキャラに仕上がっちゃってますが、別に彼女を貶めたり、批判したりするつもりは毛頭ありません。寧ろ青娥はとても魅力的なキャラだと思っているので、妖夢達とは違ったベクトルで活躍してもらう予定です。