東京旅行三日目。
宇佐見蓮子の彼岸参りという名目で始まった東京での倶楽部活動だったが、早いもので明日はもう京都に帰る日取りである。三泊四日と聞けばそれなりの期間だと思い込んでいたのだが、今になって思い返してみると本当にあっという間だった。
人間の体感時間は心理状態によって大きく変化するが、ここまであっという間に感じると言う事は、それだけ楽しい東京旅行であったという事なのだろう。しかしそれにしても、大学に入学する前は、まさかこんな風にサークルに所属して皆で東京に赴く事になるなんて思いもしなかった。こんな『眼』を持っている以上、きっと孤立気味になって、同じ学部の学生の間でもちょっと浮いた存在になって。そんな大学生活を送る事になるんだろうなと、そう思っていたのに。
蓮子と出会い、そして進一と妖夢までもが秘封倶楽部に加入して、今はこうして一緒に東京で都市伝説を追っている。案外、人生分からないものである。
まぁ、それはさておき。
残された時間は今日も含めてあと二日。昨日の倶楽部活動では大した成果を得られなかった為、今日こそは何らかの手掛かりを掴みたい所である。都市伝説を追いかけて、結界の境界を見つけ出して。そして結界を暴き、その先にある真実を掴み取る。
秘封倶楽部の活動は、元来そういうものである。オカルトサークルという肩書きを隠れ蓑にし、そして人目をはばかって結界の先にある真実と対面する。その瞬間こそが、この活動の真髄であるはずなのに。
「さーて! それじゃあ早速、次の活動に移るわよ!!」
「……ねぇ、蓮子。その前にちょっと確認してもいいかしら?」
「ん? なに? 言ってみて」
相変わらずのハイテンションで何やら宣言する蓮子だったが、流石に色々と気になったメリーが口を挟んで彼女を制する。
蓮子が無駄に前向きなのは今に始まった事ではないが、流石にそろそろ今現在の状況をしっかりと受け止めるべきである。
「今日は東京旅行三日目よ。午前中は昨日と同じように都市伝説を色々と調べて、でも結局これといった成果は得られなかったのよね?」
「うん」
「で、お昼ご飯を食べて、午後からも同じように都市伝説を追って結界の解れを探す、と。私はそうなると思っていたのよ」
「うんうん。それで?」
この少女、ここまで言っても白を切るつもりなのだろうか。
成る程、だったらこちらも容赦はしない。あくまで白を切るつもりなら、面倒な回り道などせずに単刀直入に突きつけるだけだ。
「それで、どうして……」
ぐるりと周囲を見渡した後、メリーは一息。
「どうして、私達は貴方の実家の庭なんかに集まっているのかしら?」
瞬間。目に見えて蓮子の様子が変わった。
ビクッと身体を震わせた後、彼女は何も言い返さずにバツが悪そうに目を逸らす。やや遠目からでも分かる程にダラダラと冷や汗が流れ始め、何やら乾いた笑い声を上げ始めている。
ああ。やっぱり触れて欲しくなかったんだ。
そう察しつつも、メリーは事の成り行きを見守る事にする。
「こ、これは……そう! あれよ!」
それから少し経って、蓮子はようやく口を開いた。
「ほら見てあれ! あれが何か分かる?」
「……古い倉庫ね。庭に置くにしてはちょっとサイズが大き目だけど」
「そう! 倉庫よ! 実はあの倉庫、もう何年も開けられてなくてね! 私の両親でさえも中に何が入っているのか把握しきれてないのよ!!」
「……そうなの」
「そうなのよ! どう? 何だかワクワクしない? 開かずの倉庫が遂に開錠! 数十年間眠り続けていた、その中身の正体とは!? みたいな!?」
「……成る程。つまりは、あれか」
それまで黙って話を聞いていた進一が、やけにクールな面持ちで口を開く。必死になって弁解する宇佐見蓮子へと向けて、一言。
「都市伝説に関しては、もう手詰まりって事か」
「ぐはっ!?」
一刀両断だった。
大ダメージを受けたかのように大袈裟にのけぞった蓮子は、そもままドサリと倒れ込む。やけにオーバーなリアクションだが、冗談でやっているのか否かの判断が難しい所が流石である。
いや。この場合、冗談のようにも見えるが彼女は至って大真面目なのだろう。それはこの慌てっぷりを目の当たりにすれば、嫌でも分かる。
「な、何よ!何よ何よ何よ!! 文句あるって言うの!?」
「い、いや別にそういう訳じゃ……。なんか妙に自信満々だったから、とっておきの都市伝説でも隠しているのかと」
「あー、そうですかそうですか。そりゃわるぅございましたねぇ? そうよ、そうですよ、そうなんですよ! 進一君の言う通りですぅ! もう手詰まりなんですぅ!!」
「お、おい蓮子。お前何かキャラ変わってないか……?」
「だいたい進一君が見つけてきた都市伝説だって、結局は空振りだったでしょ!? なぁにがひとりかくれんぼよ! そもそも私達四人いるんだから、一人でかくれんぼなんて出来る訳ないじゃない! あれじゃあ私のドッペルゲンガーの方が余程奮闘してたわ! ねぇそうでしょ? そう思わない妖夢ちゃん!?」
「へっ!? わ、私ですか……!?」
すっかり興奮した蓮子に突然話を振られて、当然妖夢は言葉が詰まる。あたふたと蓮子と進一の顔を見比べた後、彼女はか細い声で。
「わ、私は、その……。ひ、ひとりかくれんぼも、結構良い線いってたと思いますよ……?」
「……。あぁ……、そう……」
モジモジとしつつもそんな意見を出されてしまって、流石の蓮子もそれ以上は言い返せない様子だった。
まぁ確かに、メリー達だって蓮子にあれこれ文句を言える立場ではない。持ち寄った都市伝説はどれも散々な結果で、結局は空振りの連続である。蓮子だけが悪いという訳ではないし、彼女に文句を垂れるのもお門違いというものだ。
「わ、悪かったよ蓮子。だからそんなにむくれるなって」
「ふんっもう知らない。進一君なんて、一人でひとりかくれんぼでもやってればいいのよ」
「いやまぁ、あれは確かに一人でやるもんだが……」
しかし蓮子は完全にへそを曲げてしまったらしい。やはりあまり突っ込まない方が良かったのだろうか。
けれども、リーダー格である彼女にいつまでも拗ねられていては話が一向に進まない。何とか機嫌を直して欲しいのだが――。
「あ、あの、蓮子さん。そんなに怒らないで下さい」
そう思っていた矢先、絶妙なタイミングで妖夢が声をかけてくれた。
宥めるような優しげな口調で、妖夢は蓮子をフォローする。
「蓮子さんのお気持ち、私にはよく分かりますよ。行き詰まったこの状況を打開する方法を、必死になって模索してくれたんですよね? でも私が同じ立場だったら、きっとこんな方法は思いつかなかったと思うんです。……いえ、私だけじゃありません。東京という土地に詳しい蓮子さんだからこそ、到達できる一つの手段だったと思うんです!」
「よ、妖夢ちゃん……」
二人の間に温かい雰囲気が漂い始める。完全にへそを曲げてしまっていたように見えた蓮子だったが、妖夢が口にするその言葉に心動かされた様子だった。
「進一さんだって、きっと悪気はなかったんだと思います。ほら、進一さんって、親しい人をナチュラルに虐めてしまう癖があるみたいですし」
「おい待てこら。誤解を生むような表現を……」
「そ、そうね、そうだったわ……! もうっ、どうして忘れてたのかしら……!? 進一君がツンデレだって事を……!!」
「だ、誰がツンデレだ誰が」
ナチュラルにダシに使われた進一が不平を述べようとするが、それも蓮子の声によってかき消されてしまう。すっかり元気になった蓮子は、ガシッと妖夢の両手を取って、
「ありがとう妖夢ちゃん! 妖夢ちゃんなら私の気持ち、分かってくれると思ってたわ!」
「えっ、あ、はい。どういたしまして……?」
「よーし! それじゃあ、早速あの倉庫の調査を始めるわよ! いつまでもクヨクヨしてたって仕方がないわ!」
――何というか、随分と現金で御しやすい少女である。このままでは、近い将来悪い人に良いように利用されてしまうのではないだろうか。何だか彼女の今後が心配になってきた。
そんなどこぞの母親のような心境に陥っていたメリーだったが、彼女の心配など露知らずといった様子で蓮子はぐいぐいと話を進める。妖夢に背中を押された所為か、ますます張り切っている様子だった。
「ふっふっふ……。何が入っているのか楽しみね! 私も知らないようなオカルトグッズ? それとも他の何かかしら……!?」
「おい、ちょっと待て蓮子。やる気満々なのは良い事だが、あんまり一人で突っ走るんじゃない」
鍵を片手に倉庫へとにじり寄る蓮子だったが、進一に呼び止められてその動きを止める。
「鍵、ちょっと貸してみろ。倉庫の扉は俺が開ける」
「えっ……。ど、どうしてよ?」
「もう何年間も鍵が閉じられたままだったんだろ? もしも扉を開けた瞬間、中身が崩れ落ちてきたらどうするつもりだ? そういう場合、女であるお前よりも男である俺の方が対処しやすい」
「ふふん、心配ご無用よ。私はこう見えて結構……」
「いいや、駄目だ。万が一目の前で怪我でもされたら目覚めが悪い」
まぁ、確かに。肉体構造的にも女である蓮子よりも男である進一の方が腕力などは上だろうし、万が一そういった事態に遭遇した場合、彼の方が上手く対応できるだろう。ここは彼の提案を呑むのが得策だというものだ。
「いいじゃない蓮子。折角男の子がそう言ってくれてるんだし、ここはその好意に甘えておきましょ?」
「むぅ……分かったわよ。はい」
渋々といった面持ちで、蓮子は進一へと鍵を手渡す。それを受け取った進一はおもむろに錠前へと手を伸ばすが、けれども扉を開ける直前になって彼は手を止める。そしてチラリと視線を横へと向けると、
「……それで? どうしてお前はくっついてくるんだ妖夢?」
視線の先。丁度彼の隣には、ピッタリと妖夢がくっついてきていたのである。
確かに今まで彼と妖夢は行動を共にしている事が多かったが、流石にここまで密着している所はメリーも見た事がない。進一はあまり深くまで踏み込まない性格であるし、妖夢は妖夢で引っ込み思案気味な上にどちらかと言えば上がり症だ。それ故に、二人の間には多少なりとも距離があったはずなのに。
「何か問題でも?」
「いや、問題というか……」
「ふふっ。私は知っているんですよ進一さん。やけに格好つけてましたけど、進一さんって意外と腕力ないんですよね」
「……そういう事をはっきりと言われると流石の俺も傷つくんだが」
さも当然の事である様子で隣に立つ妖夢を見て、進一も若干戸惑っているようにも思える。けれどもどこか満更でもないような、というか寧ろいつも以上に表情が柔らかくなっているような。
「もしも中身が崩れ落ちてきたとしても、私が何とかしますから。ですので進一は安心して鍵を開けて下さい」
「何とかするって……。予め言っておくが、その剣で荷物を斬り裂いたりするなよ?」
何だ。何なのだ、この感じは。別に取り分け妙な光景が広がっている訳でもないはずなのに、決定的な何かがいつもと違うような気がする。
つい昨日まで二人の関係は微妙にちぐはぐな様子だったと思うのだが、対照的に今日の二人はまさに息ピッタリである。以前にも増して互いが互いの事を信頼しているというか、二人の距離が妙に縮まっているというか。
「……ねぇメリー。進一君と妖夢ちゃんの様子、どう思う?」
そんな中、蓮子がこそこそと耳打ちしてきた。どうやら彼女も同じ感覚を覚えていたらしい。
「そうね……。何だか良い雰囲気って感じよね」
「やっぱりそう思う? ふふふっ……。これは、きっとあれね。遂に至ったわねッ……!」
「何よ至ったって……」
あまり妙な表現をしないで欲しいものだ。
まぁ何にせよ、メリーも大方蓮子と同意見である。二人の間の距離感は今まで以上に縮まっていて、二人の間の関係は大きな進展を迎えている。直接本人達から聞いた訳ではないけれど、傍から見ればその事実は明らかだった。
「何だか気になるわね……。本人達から色々と直接聞きたい所だけど……」
「止めておきなさいよ。こちらから無理に詮索するのは良くないわ」
「分かってるわよ。今はもうちょっとだけ二人を見守る、でしょ?」
メリーと蓮子は、揃ってあの二人へと視線を戻す。錠前が錆び付いているのか、開錠に苦戦している進一の姿と、そんな彼の様子を見守る妖夢の姿が目に入る。本当に何でもない一光景なのだけれども、どことなく二人の表情から幸福感が見え隠れしていて。
「ま、これ以上私達が手を貸す余地はなさそうだけど」
「……そうね」
ここから先は、寧ろ手を貸すべきではない領域だ。二人の関係は他でもなく二人だけのものであり、無理な介入で引っ掻き回してしまうなど御法度である。
今のメリー達に出来る事は、ただ一つ。ただ遠くから二人を見守り、応援する事だけだ。
「……おっ、開いた。何だ、別に崩れ落ちてこないじゃないか」
進一の手によって、ガラリと音を立てつつも倉庫の引き戸が開けられる。幾分か埃は舞っているようだが、進一が危惧していたような事は起きなかったようだ。
「ほらメリー、行くわよ。改めて倉庫の調査を進めなくちゃ」
「ええ。そうね」
頷きつつも、蓮子と共に進一達へと歩み寄る。
二人の関係が変わろうとも、自分達の様子はいつも通りだ。
そう胸に誓いつつも、メリーは倉庫の内部へと視線を向ける。いつもと何ら変わらぬ様子で、いつも通りの心境で。
蓮子も言っていた通り、改めて倶楽部活動の再開を――。
「……えっ?」
瞬間。言葉が、詰まった。
進一達の事が気になって、そっちばかりに意識を傾けすぎて。不意を突かれた、とでも言うべきだろうか。あるとは思ってもなかったものが、確かにそこに存在していたから。思いもよらぬタイミングで、突然視界に飛び込んできたから。
ちょっとだけ、驚いてしまった。
「……メリー? どうかしたの?」
「……い、いや」
メリーの様子に気づいた蓮子が、表情を伺いつつもそう声をかけてくる。そこで彼女は我に返った。
彼女は何も気づいていない。当たり前だ。だってそれは、メリーにしか視認できないものだから。メリーのような『能力』でなければ、認識できないものだから。
メリーはおもむろに腕を上げる。人差し指を伸ばして、目の前にあるそれを示す。
「そこ」
視界が揺れる。見えるはずのないものを、彼女の瞳はしっかりと捉える。
マエリベリー・ハーンが、指で示すその先には。
「結界があるわ」
***
進一が妖夢に想いを告げてから、一夜が明けていた。
想いを告げる。つまり俗に言う告白というヤツである。けれどもそのような経験を経たといっても、二人を取り巻く環境に劇的な変化が訪れた訳ではなかった。
強いて言えば、妖夢との距離が少し近くなった事くらいだろうか。確かに二人の関係は兄妹のようなものとは違うステップへシフトした訳だが、だからと言って急に彼女への接し方を変えるつもりはない。
変化が訪れたのは、あくまで進一と妖夢の関係のみだ。その点を見れば劇的な変化とも言えるのかも知れないけれど、二人の性格上いきなりの急接近では逆にちぐはぐなやり取りになってしまうだろう。それならば、少しずつ距離を近づけてゆけば良いのではないかと。
そう、思ったのだが。
「妖夢、そっちはどうだ? 何か見つかったか?」
「……いえ、私の方は何も……」
「そうか……」
一つ一つ倉庫の荷物を調べながらも、妖夢とそんなやり取りを交わす。本人達からしてみれば、昨日までとは何ら変わらないやり取りに見せているつもりなのだけれども。
「ふふっ……」
「……何笑ってるんだよ蓮子」
「いや、別にー?」
「別にって……」
ニヤつきながらも、そうはぐらかす蓮子。この反応、彼女には既に感づかれてしまっているのだろうか。
別に蓮子達に隠すつもりはないのだが、詳しい報告は京都に帰って落ち着いてから改めて行うつもりでいた。その矢先の、この反応である。まさかそこまで目に見えて分かる程に、関係性が露呈していたのだろうか。
まぁ、確かに。キスまでもしておいて、今更距離感云々を気にするのもおかしな話だ。本人達は平静を保っているつもりでも、無意識の内に漂わせてしまう雰囲気などで察する事は容易だという事なのだろう。
そう考えると中々に意味のない事をしているようにも思えてくるが、だからと言って急に方向性を変える事など出来やしない。
「ま、進一君達の事については取り敢えず置いておく事にして……」
何とも含みのある様子を残した蓮子だったが、そこで改めて現状況の確認を行う。
「メリー。本当に結界が見えたんだよね?」
「ええ。さっきも言ったとおり、扉を開けたすぐそこにね。それは間違いないわ」
蓮子から受け取った鍵を使って進一が倉庫の扉を開けた途端。メリーの『眼』が結界の境界を捉える事に成功したのである。
幾ら都市伝説を追いかけても上手くいかなかったのに、まさか倉庫を開けただけで目的に一歩近づいてしまうなんて。今までの頑張りは何だったのかとも思ってしまうが、ともあれ願ったり叶ったりだ。
「結界はまだ見えるのか?」
「……そうね。それはもう、ばっちり。それに」
自分の二の腕を擦りながらも、メリーは続ける。
「どうにもピリピリするのよ。何かが肌にこすれているというか……」
「こすれている?」
結界には大きく分けて二種類ある、と以前にもちゆりから説明を受けた事がある。例えば博麗大結界は論理的な結界にあたり、結界の効果範囲に足を踏み入れた者の意識を大きく逸らす事で、幻想郷への侵入を拒む効力があるという。
それに対して、もう一方の種類。即ち、物理的な結界。内側への侵入を試みる者を文字通り物理的に拒み、弾き飛ばすような効力のある結界。
今回の場合、メリーがピリピリとした感覚を肌で感じているという事は。
「……物理的な結界、という事ですね」
作業の手を止めた妖夢が、そう口を挟んでくる。進一は頷いてそれに答えた。
彼女の言う通り、今回ここに存在するものは物理的な結界である可能性が高い。明らかに博麗大結界の時とは違う感覚であるし、メリーが覚えた感覚が何よりの証拠である。しかも今回の場合、メリーの『眼』が結界の境界を明確に捉える事に成功している。
だけれども、そうなると分からない事が一つ出てくる。
「でも俺達は何も感じなかったよな? 普通に内側にも侵入できちまってるし」
「そうですよね。何かを守護するという役割はまるで果たせていないような……」
結界の存在を明確に認識出来ているのはあくまでメリーだけであり、内部への侵入の容易に果たせてしまっているのである。これでは結界としての役割を全くと言って良いほど果たせていないように思える。
それでは一体誰が、何のためにこんな所に結界を貼ったのだろうか。未熟な術者が急ごしらえで貼った結界、とでも解釈すれば納得できなくもないが――。
「多分、結界を貼った術者なんていなかったのよ」
「えっ?」
思考を続けていると、不意に蓮子がそう口を挟んできた。チラリと視線を向けると、彼女も思案顔を浮かべていて、
「前にも言ったと思うけど、所謂バリアみたいなものだけが結界だという訳ではないわ。そうね、例えば……」
「あらゆる術の根底には結界が存在している、だろ? 術を使う上での重要要素は力の循環。その為に必要なものが輪……つまりは結界だって、前にもそんな事を言ってたよな」
「そうね。でも今回の場合はその例とも違う。術者なんていない……つまり人為的に貼られた結界という訳じゃないのよ」
「……つまり、あれか? 自然発生した結界だとでも言いたいのか?」
蓮子は頷いて答える。
確かに、それも十分に考えられる可能性である。例えばある物体が霊的なパワーを放っていたとしよう。ドーム状に放たれたその霊力は結果として輪を描く事となり、それが結界として機能した、と。蓮子曰く、そのような事例も確かに存在しているらしい。
つまり今回の場合、この倉庫の中にある霊的なパワーを放つ何かが、意図せず結界のようなものを生成してしまった可能性がある、という事だ。
「霊力がドーム状に放たれている……。と言う事は、この倉庫の中は他と比べて霊気が濃く充満しているって事か?」
「そういう事。まぁメリーにしか感じられないくらいに微弱で、かつ物理的な結界みたいだから、それほど強い霊気を放っている訳じゃないと思うけど」
要するに、一言で言ってしまえば、
「つまり、この倉庫のどこかに霊気を放つオカルトグッズがあるって事よ!」
「そうね。それを見つける事が出来れば、幻想郷へと繋がる手掛かりを掴む事も出来るかもしれないわ」
霊気を放つオカルトグッズ。そんな物が本当に存在するのだとすれば、今度こそ幻想郷へと繋がる手掛かりと成り得るかも知れない。是が非でも手に入れたい所ではある。
だけれども。
「そうは言っても中々の重労働ですよね……。この倉庫、意外と細かな荷物が多くて……」
そう、妖夢の言う通りである。
倉庫のサイズは標準よりもやや大きいくらいで、中の荷物もそれなにり綺麗に纏められてはいる。しかし、納められている荷物の数がかなり多い。もう使われているかもどうかも怪しい自転車や、今時珍しい大型のプリンター。そしてダンボールの中にこれでもかと詰め込まれた書籍類など。よくまぁ、ここまで溜め込んだものだ。ひょっとしたら、蓮子の家族はあまり物を捨てられない性分なのかも知れない。
それはともかく。既に一時間弱ほど倉庫の調査を続けているが、肝心のオカルトグッズとやらがどうしても見つからない。何故だか荷物は書籍類が異常に多く、それらも一つ一つしっかりと確認している所為で調査は難航しているのである。はっきり言って、状況は芳しくないと言わざるを得ない。
このままでは時間が幾らあっても足りない。何か有効な打開策があればいいのだが――。
「そこは気合よ! 気合で何とかするしかないわ!」
「そういう所は根性論なんだよな、お前……」
つまりはあてずっぽうという事である。行き当たりばったりも、ここまで来ると清々しく思えてくる。
とは言っても、手掛かりはこの倉庫のどこかにオカルトグッズがあるという事実だけで、それ以上に具体的な情報は何も持ち合わせていない。そのオカルトグッズとやらがどんな形状をしているのかさえも分からない以上、結局はあてずっぽうに収束してしまうのも仕方がない事だと思うのだが。
「うーん……。せめてもうちょっと手掛かりがあればいいのだけど……」
「ほらそこ! 口だけじゃなく手も動かす!」
「わ、分かってるわよ……」
それにしてもこの少女、ノリノリである。やはり蓮子のオカルトに対する情熱は、あの岡崎夢美にも匹敵するレベルだと言えるだろう。実の弟である進一は、そこまで熱くはなっていないと言うのに。
(まぁ、でも。その分心強いか)
彼女のように真っ直ぐな思想の持ち主は、チームの中に一人は欲しい人材だ。しかも蓮子の場合、チームメンバーを引っ張っていけるようなリーダーシップも持ち合わせている。多少天然な部分はあれど、非常に頼もしい少女である。
そんな彼女の存在が、自然と倶楽部メンバーの士気を高めている。本人に自覚はないのだろうが、それは確かな才能であると進一は常々思っている。
(……俺ももっと頑張らなきゃな)
そんな事を考えながらも調査を続ける進一だったが、何気なく一つのダンボール箱を開けた所でその手が止まる。てっきりまた大量の書籍類が詰め込まれているのではないかと思っていたのだが、彼のそんな予想は大きく外れていた。
今までの荷物とは、何かが違う。
「これは……」
それは所謂、ノートパソコンというヤツだった。
しかもただのノートパソコンではない。この時代ではまず見かける事もないような、もう何世代も前の超旧型である。ディスプレイのサイズは目測14インチくらいだろうか。折りたたまれた状態での厚さは約1cmで、手で持ち上げてみてもそれほど重くは感じない。外出時にも持ち運べるようなサイズと重量である。
「へぇ……。こりゃまた随分と年季の入った骨董品が出てきたな。……ん?」
進一はノートパソコンを持ち上げてその全体像をまじまじと観察してみる。そこで何気なくパソコンが入っていたダンボールの方へと視線を戻すと、これとはまた別の物体が仕舞われている事に気がついた。
「……何だ、これ?」
それは奇妙な球体だった。
野球ボールくらいのサイズのそれを手に取ってみると、手触りでは凹凸が感じられないほど表面がツルツルしている。重量は意外と重く、少なくともキャッチボールに使うようなものではなさそうだ。ガラス玉か何かだろうか。少なくとも、人の手が加えられている事は確かなのだろうが――。
「おい蓮子。ちょっと来てくれ」
取り敢えず蓮子に報告しておこう。進一の知識量では、これ以上の推測は不可能である。
「なになに? 何か見つかった?」
「ああ。これなんだが……」
蓮子に球体を手渡すと、彼女はそれを手に取ってまじまじと眺め始める。やがて蓮子は首を傾げると、
「……何これ? ガラス玉かな? 黒く濁っててあんまり綺麗じゃないけど……」
「蓮子でも分からないのか?」
「ま、まぁ……。私もそこまで隅々と知り尽くしている訳じゃないし……。これどこにあったの?」
「それなら、そのダンボールの中に……」
指さしつつもそう答える。彼が示す先にあるのは当然あのダンボール――なのだが、蓮子の興味はその近くにある別の物へと向けられたようだ。
「あ、あれ……? それノートパソコンじゃない! しかもかなり古い機種……! ねぇ、これも進一君が見つけたの!?」
「え? あ、ああ……。それもそのダンボールの中に入ってたんだよ」
「という事はこのボールと一緒に入ってたのね!? もうっ、そういう事は早く言ってよ!」
何やら興奮気味にそう口にすると、蓮子はいそいそとノートパソコンを広げ始める。どうやら電源が生きているかどうかを確かめているようだが、何せこの倉庫の中で何年も眠っていた代物である。仮に回路や基盤に問題がなかったとしても、電池が残っているはずもなく。
「つかない……けど、充電用のコードも入っているみたいね。これで充電すれば、ひょっとして……」
何やらボソボソと呟いている様子。どうやら彼女は、あのパソコンの中のデータが気になっている様子。
蓮子の考えている事は分かる。十中八九、あのパソコンの中にこの結界の手掛かりと成り得るようなデータが残っているのではないかと踏んでいるのだろう。しかし、もう何十年も前の機種である。動くのだろうか。
「何か見つかったんですか?」
「ああ。変なボールと、ノートパソコンだ」
「変なボール?」
騒ぎを聞きつけた妖夢とメリーが歩み寄って来る。ノートパソコンに夢中な蓮子からあの球体を受け取って、今度は妖夢に手渡した。
「これは……何でしょう?」
「分からん。でもあのパソコンと一緒に入っていたからな。パソコンの中のデータを調べれば何か分かるかも知れない」
少なくともこの球体はパソコンの周辺機器ではないだろうが、一緒に入っていたという事は何か関連性があるのだろう。中のデータを調べれば、確かに何か分かるかも知れないけれど。
「このボール……」
そんな事を考えていると、横からボールを眺めていたメリーがボソリと何かを呟く。視線を向けると、彼女は何やら考え込んでいるような様子でジッとボールを見つめている。
ひょっとして、何かに気がついたのだろうか。
「どうしたメリー?」
「へ? あ、ううん。ちょっと、気になって……」
「気になる? どういう意味だ?」
それから彼女は少しだけ困ったような表情を浮かべた後、
「多分、このボールが結界の中心……だと思う」
「なに? それは本当か?」
「あ、いや……。あくまでそんな気がするだけよ? 私の『眼』に映るのはあくまで結界の境界であって、例えば霊気だとか、それそのものが見える訳じゃないから……。でも、やっぱり……」
「……そうか」
それはつまり、結界の境界などというものが見えるメリーだからこそ察知する事が出来る、いわば経験上の勘みたいなものなのだろうか。少し釈然としない情報であるが、だからと言って蔑ろにしてしまうのも躊躇われる。
メリーの事は信用している。そんな彼女が、ここまで不安気な面持ちで予感を口にしてきたという事は。
(軽視すべき事ではない、か)
彼女の予感が気のせいなのか真実なのか。それもあのパソコンを調べれば何か分かるかも知れない。
「よし! 取り敢えず倉庫の調査は一旦切り上げるわ! このパソコンを起動してみるわよ!」
いつの間にかパソコンを持ち上げていた蓮子が、声高にそう宣言する。頷いてそれに答えた後、秘封倶楽部のメンバーは一旦倉庫を後にした。
それにしても、何だか嫌な予感がする。あの謎の球体、どうにも奇妙な印象を抱いてしまうというか何と言うか。メリーの不安感が移ってしまったのだろうか。
しかし、いつまでも不安感を抱え込んでいても仕方ない。ようやく大きな手掛かりと成り得るものを見つける事ができたのだ。今はそれを喜ぶべき時だろう。
***
「お……? お、おぉ……! 凄い凄い! ちゃんと起動するじゃない!」
例のノートパソコンを倉庫から持ち出して数分。ある程度の充電時間を経たそれの電源ボタンを押してみると、モーターの回転音と共に問題なくOSが立ち上がった。
蓮子が歓喜の声を上げている。数十年間も倉庫の中に放置されていたパソコンらしいが、まさかちょっと充電するだけで問題なく起動できてしまうとは。物持ちがいいのか、或いは保存されていた環境が最適だったのか。いずれにせよ、これで今すぐにでも中のデータを確認する事が出来る。
「あの、これで何か分かるんですか?」
「そうね。中のデータを調べれば、何か重要な情報を掴む事だって出来るかも知れないわ。倉庫にあった結界もそうだし、あの変なボールの事だって……」
はっきり言って妖夢はパソコンなど殆んどイジった事がないし、ここは蓮子達に任せっきりにするしかない。しかし、あれが結界を暴く為の重要な手掛かりに成り得る物なのだと、それだけは辛うじて理解する事ができた。
「それにしても起動おっそいわねぇ……。しかもこれ、だいぶ前にサポートが終了したOSじゃない」
「ま、かなり古い機種だからな。起動時間に関しちゃこんなもんじゃないのか?」
「ネットへの接続はしない方が良いでしょうね。ウイルスに感染してデータが消えたりなんかしたら目も当てられないわ」
進一達が何やら話しているようだが、妖夢からしてみればさっぱり理解できない内容である。外の世界には、まだまだ妖夢の知らない事が沢山眠っているという事か。
それはさておき。取り敢えず問題なく起動したノートパソコンだったが、いざディスプレイを覗き込んでみると、表示されていたのは意外と小ぢんまりとしたデスクトップである。デフォルトのものと思われる飾り気のない壁紙に、左上にポツンと浮かぶただ一つだけのアイコン。
このアイコンが何を示しているのかは妖夢には分からないが、進一達の様子から察するにどうやらかなり有用な情報が隠されているらしい。
「……デスクトップにはフォルダーが一つあるだけみたいね」
「ふふーん、ロックもしてないなんて随分と無用心ね。これはもう、寧ろ見てくださいって言ってるようなもんだわ!」
「……楽しそうだな、お前」
意気揚々とした面持ちで、蓮子はいそいそとフォルダを開ける。その中に入っていたものは――。
「これは……テキストファイルか? ファイル名は、えっと……Hihu……ヒフウレポート?」
目を凝らして開いたフォルダを確認してみる。確かに進一の言う通り、中身は何らかのファイルであるようだった。
ファイルの数は全部で13。形式はいずれもテキストファイル。ファイル名はどれも似たようなものばかりであり、
「ヒフウって……秘封倶楽部の“秘封”ですか?」
「まぁ、ヒフウと言えばそれくらいしか……。いや、ちょっと待て。秘封倶楽部って、そもそも蓮子が考えた造語じゃなかったのか?」
「えっ……そうなんですか?」
進一は頷いてそれに答える。確かに、聞いた事のない日本語だとは思っていたが。
「確かにそうよね……。どうなの蓮子? どうしてこんな名前のファイルが……」
メリーがそう尋ねてみるが、しかしその返事がすぐに返って来る事はなかった。
当の蓮子は、いつになく緊迫した面持ちでジッとディスプレイを凝視している。何が起きているのか分からない。愕然としたその様子から伝わってくるのは、そんな動揺だけである。
「ちょ、ちょっと待って……。ヒフウって……」
らしくないほどの混乱。それを隠す事さえも忘れて、蓮子は呟く。
「…………っ」
蓮子の頬に、一筋の汗が流れ落ちる。
愕然とした様子の蓮子だったが、しかし直様その汗を拭うと、
「……とにかく、ファイルの中身を確認するわよ」
「れ、蓮子? 大丈夫? 何だか顔色が悪いみたいだけど……」
「大丈夫よ。ほら、開けるわよ」
明白な誤魔化しだ。それは妖夢にだって分かる。
彼女のこの反応。ひょっとして、このファイルの作成主の心当たりでもあるのだろうか。それとも何か別の理由が?
しかし、その原因を確認するような暇もなく。蓮子はキーボードのタッチパネルを操作して、テキストファイルの一つを開ける。その中身は、ただ淡々と綴られた文章だった。
―――――
ヒフウレポート1
私が観測したものは、私達が住むこちら側とは違う世界――所謂異世界の風景である可能性が浮上した。まだ確証がある訳ではないが、その可能性は高いと思われる。
今後、秘封倶楽部の当面の目標はこの異世界の秘密を暴く事とする。また、活動経過の記録は初代会長であるこの私(まぁ、メンバーは一人しかいないのだが)、宇佐見菫子が行う。
―――――
「宇佐見……これは、
「そ、それに、はっきりと秘封倶楽部って……。ちょっと蓮子、どういう事なの……?」
困惑した進一とメリーが揃って蓮子に質問するが、当の蓮子は相も変わらずディスプレイを凝視したままである。彼女の視線が向けられるのは、文章の最後に記されているとある人物の名前。
「菫子、さん……? 誰なの……?」
「……え?」
消え入るような呟き。けれども静寂が強い部屋の中では、そんな小声もはっきりと耳に届く。
思わず片手で頭を抱える蓮子。ひしひしと伝わってくる膨れ上がる混乱が、妖夢達の不安感をこれでもかと煽っていた。
「あの……。蓮子さんのご親戚じゃ、ないんですか……?」
「あ、いや……。あの倉庫の中にあったんだし、親戚だとは思うんだけど……」
何とも釈然としない面持ちで、蓮子は続ける。
「菫子って名前なんて、私の記憶にないのよ。でもヒフウって言葉だけは、昔にもどこかで見た事があるような、ないような……」
「そ、それは……。どういう意味です?」
「うーん……」
何だ、この感じは。まるで宇佐見菫子という人物の存在だけが、すっぽりと忘れ去られてしまっているようではないか。けれども“ヒフウ”という言葉だけはどこかに残っていて、蓮子は過去にそれを見た事がある、という事なのだろうか。
「な、何だかきな臭くなってきたような気がするのだけど……」
「でもここで引き下がる訳にはいかないだろ。ほら、ここを見てみろよ」
そう言うと進一は、ディスプレイに表示された文字を指差すと、
「異世界を観測した、みたいな事が書いてあるじゃないか。もしもこれが本当で、その異世界とやらが幻想郷の事を示しているんだとすれば」
「……ファイルを読み進めれば、幻想郷への手掛かりを掴めるかも知れないわね」
そうだ。秘封倶楽部や宇佐見菫子という文字ばかりに注意が偏っていたが、かなり重要な情報もこの文章には含まれていた。
異世界の観測。それを暴く活動記録。このままファイルを読み進みれば、或いは――。
「……取り敢えず、次のファイルを開いてみるわよ」
「ああ。頼む」
蓮子はマウスポインタを動かし、ファイル名へと重ね合わせる。今度は続けて三つのファイルを展開してみた。
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ヒフウレポート2
どうやらあの異世界には、妖精や妖怪などと言った非常識的な存在が蔓延っているらしい。あまりにも突拍子もない話だが、事実である事は間違いない。細かく調査を行いたい所だが、現時点ではあの異世界にはごく短い時間しか滞在する事が出来ないようだ。結界のようなもので守られているのだろうか?
とにもかくにも、この方法では満足に調査などできやしない。また別の侵入方法を考える必要がある。
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ヒフウレポート3
あの異世界への侵入プランが確立した。あの結界が邪魔ならば、いっそのこと破壊してしまえばいい。具体的にはこちらの世界のパワーストーンを加工した物――便宜上、これをオカルトボールと呼ぶ――を使う。霊的なパワーをオカルトボールに吸収させ、十分に蓄積した所でこれを解放。結界に穴を開けるという寸法だ。上手く行けばあちらの世界の住民をこちらに引っ張り出す――もとい釣り上げる事も出来るかも知れない。決行は明日を予定している。今から楽しみで仕方がない。
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ヒフウレポート4
予定通り、あの異世界にオカルトボールを幾つか放った。私が流した噂話の効果もあり、早速住民達の間でオカルトボール争奪戦が始まっているようである。ここまでは計画通り。
しかし、一つ気になる事がある。私が異世界に侵入した際にいきなり襲いかかってきたあの黒い人影。あれはなんだったのだろうか? 幽霊や妖怪の類だとは思うのだが、その正体は全くの不明である。今回は辛くも逃げ切る事が出来たものの、依然として細心の注意を払う必要がある。
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これは、何と言うか。
「これ……。異世界って、やっぱり幻想郷の事よね……?」
「多分な……。というか、結界が邪魔だからいっそのこと破壊するって……。何を言ってるんだこの人は」
結界が邪魔だから破壊するとは、随分と短絡的な結論である。この清々しさは、どこか蓮子を彷彿とさせる。やはり宇佐見菫子なる人物は、蓮子と血の繋がりのある親戚なのだろうか。
だけれども、今はそれについて考察しても答えは出てきそうにない。取り敢えず菫子という人物については置いておく事にして。
展開した三つのファイル。その中で頻繁に登場している、この言葉は――。
「オカルトボール……? ひょっとして、一緒に入っていたあのガラス玉の事かな?」
蓮子は倉庫から持ちだしたガラス玉を掲げる。黒く濁ったそれは透明度も高いとは言えず、はっきり言ってあまり綺麗ではない。寧ろ禍々しさも覚えるそれは、見ているだけで不安感を掻き立てられるかのような。そんな気もする。
これが、そのオカルトボールなのだとすれば。
「パワーストーンを加工? 石だったのか、それ」
「霊的なパワーを吸収し、それを解放させる事で結界に穴を開ける……と書いていますね。まさかそのボールに、そんな力が……」
にわかには信じ難い事である。外の世界にそんな物があったのも驚きだが、何よりもこの宇佐見菫子という人物。
外の世界の住民でありながら、あの岡崎夢美以上に非常識に精通しているように思える。外の世界に、まさかこんな人物が居たとは。
「一時的とは言え幻想郷に入れる、みたいなニュアンスで書かれているよな。黒い人影に襲われたって書いてあるが……。これは何だ?」
「え、えっと……。多分、妖怪か何かでしょう。幻想郷には、人間を食べてしまうような妖怪もいますから……」
黒い人影、という情報だけではどんな妖怪かは分からないが、おそらくその推測は間違っていないはず。十中八九、人食い妖怪か何かにでも襲われたのだと思うのだが――。
(……何か、おかしいような気が)
何だろう、この漠然とした違和感は。何か、得体の知れぬ嫌な感じが胸中から膨れ上がってくるような。
「蓮子さん。次のファイルもお願いします」
「う、うん……」
取り敢えずもう少し情報が欲しい。まだファイルは10個近くもあるのだ。詳しい考察は、全てのファイルを見た後でも遅くはない。
蓮子は5つ目のファイルをクリックする。今まで通りに展開され、中の文字が画面上に表示される。
その次の瞬間。とある名前を目にした妖夢は、驚愕のあまり言葉を失う事となる。
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ヒフウレポート5
昨日の今日という事もあり、特に計画の進展は予想していなかった私だったが、その想定に反して早くもあちらの世界の住民を釣り上げる事に成功した。私と同い年くらいの女の子である。妖怪かとも思ったが、彼女は一貫して自らを人間だと称している。あちらの世界の住民は、みんな空を飛ぶ事が出来るのだろうか?
霧雨魔理沙と名乗った彼女は、私に計画の中断を要求してきた。このままでは取り返しのつかない事になりかねないらしい。まぁ、予想はできた要求である。しかしその程度の警告で屈する私ではない。まだまだ計画は初期段階。私の知的好奇心は、まだ満たされていない。
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「なっ……!?」
思わず妖夢は刮目する。何度も何度も目を擦って、もう一度その名前を確認してみる。けれども、見間違いなんかじゃない。妖夢の思い違いなどでは決してない。
だって。霧雨魔理沙なんて名前の人物、幻想郷には一人しかいないじゃないか。そんな少女の名前が、どうして――。
「妖夢? どうかしたのか?」
「あ、あの……」
上手く言葉が出てこない。膨れ上がる動揺が、自然と声を詰まらせる。
それでも伝えなければならない。何とか言葉を絞り出して、妖夢は半ば無理矢理に口を開く。
「私……。知ってるんです」
「知っている? 何をだ?」
「霧雨魔理沙という名前の、女の子の事を……」
「なに?」
不安感と緊張感で、動悸が激しくなっているのが分かる。息苦しさを紛らわせるために一度短く深呼吸をした後、妖夢は続ける。
「魔理沙は、魔法使いを目指している人間の女の子です。魔法の森と呼ばれる場所で一人暮らしをしていて、幻想郷では……まぁ、良くも悪くも有名人なんですよ」
「そいつとは互いに知り合い同士のなのか?」
「そうですね。結構顔を合わせる頻度も高いですし……」
少なくとも、互いの名前を呼び捨てで言い合える程の関係である。それなりに親しい仲とも言えるかも知れない。まぁ、魔理沙は基本的に誰に対してもフレンドリー――というか図太い態度なのだが。
「ちょ、ちょっと待って。それ、おかしくない……?」
そんな中。震える声でそう指摘してきたのは、メリーだった。
目を見開き、息を詰まらせ、そして冷や汗を流す。分かりやすい程に困惑を呈した彼女が示すのは、おそらく妖夢が抱いた違和感と同様のもの。
明らかにおかしい。明らかに食い違っている。だって、
「このレポート……。もう何十年も前に書かれたものなんでしょう……?」
ファイルの最終更新日は、いまから約80年前を示している。
「どうして、そのレポートに、妖夢ちゃんも知っている人間の女の子の名前が出てくるの……?」
「…………っ」
そう。それである。
霧雨魔理沙は人間だ。常人よりも魔法に精通している部分はあれど、妖夢の記憶の中にいる彼女は明らかに人間なのだ。そんな彼女の名前が、どうして80年も前に書かれたレポートの中に出てくるのだろう。
「ちょ、ちょっと待て。おい妖夢。この魔理沙ってヤツは、本当にただの人間なのか? 若返りの魔法とか、歳を取らなくなる魔法をかけている事は……?」
「……それはないです。そもそも魔理沙の目標の一つは、捨虫の魔法……つまり歳を取らなくなる魔法を完成させる事だと、以前にも聞いた事がありますから。そもそも何十年もあの幼さを保っているのだとすれば、その時点で既に人間という定義からは大きく逸脱していますよ」
80年前と言えば、妖夢すらも生まれてないじゃないか。そんな年代から彼女が生き続けている事など、絶対に有り得ない。
「……同姓同名である可能性は?」
「確かに、その可能性もありますけど……。でも」
そんな偶然、有り得るのだろうか。80年前の幻想郷にも霧雨魔理沙という名の少女がいて、その少女が菫子の手によって外の世界に引っ張り出された?
あまりにも低すぎる可能性。故に、そう考えるのは妥当ではない。
それならば、寧ろ――。
「……取り敢えず、考えるのは後しましょ。次のファイルを開くわよ」
蓮子の声によって思考が打ち切られる。
反射的にディスプレイへと視線を向けると、今度は二つのファイルが展開されていた。
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ヒフウレポート6
いつの間にか魔理沙さんの姿は消えていた。私があちらの世界に長時間滞在できないのと同じように、彼女もこちらの世界には短い時間しか滞在できなかったのだと思われる。代わりにまた別の住民を釣り上げる事に成功した。今日は大漁である。
またまた女の子だ。今回は魔理沙さんと違って正真正銘の人外らしい。しかし、彼女も口を開けばやはり計画中止の要求である。しかもこのままでは最悪生命に関わるなどと脅された。死という明確な脅威を提示すれば私が思い止まると踏んでいるのだろうが、そうはいかない。ここまで来て引き下がるなんてできる訳ないだろう。
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ヒフウレポート7
嬉しい誤算が起きた。一度あちらの世界に送り込んだオカルトボールを回収して調べた所、あちらの世界特有の霊気を浴びた事によりその効力が変化しているようなのだ。これを上手く使えばあちらの世界との自由な往来も可能になるかも知れない。試してみる価値はある。
また、オカルトボールを回収した際にあの黒い人影を再び見かけた。今回は襲われなかった(見つからなかった?)が、あれは本当に何なのだろうか。
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「……魔理沙ってヤツは、すぐに元の世界に帰る事ができたのか。でも今度は別の住民を釣り上げる事に成功した、と」
「脅されているみたいね。生命に関わる……。これが菫子さんを思い止まらせる為の出任せなのか、それとも……」
六番目のレポートまででは、まだ漠然とした情報しか書かれていない。だけれども、気になるのは七番目のレポートに書かれているこの部分。
「あちらの世界との自由な往来が可能……? それってつまり、オカルトボールがあれば幻想郷へと行く事が出来るって事なの……!?」
あくまで可能性が浮上した段階だが、この話が真実ならばこの上ない手掛かりである。やはりこのレポートを読み進めれば、故郷へと帰る方法を見つける事が出来るかも知れない。
でも。
(この感覚が、正しければ……)
仮に、幻想郷へと侵入する方法を見つけたとしても――。
「と、とにかく次よ。まだファイルは残ってるんだから」
やや興奮気味な面持ちで、蓮子はパソコンを操作する。明確な手掛かりが見え隠れした事により、彼女の好奇心が強く刺激されたのだろう。一刻も早く真実に辿り着きたいといった面持ちである。
次は八番目のファイル。即ち、ヒフウレポート8。タッチパネルに指を走らせ、そのファイルを展開する。
しかし。
「……えっ?」
展開された八番目のテキストファイル。それに書かれていたものは。
「なっ……何だよ、これ……」
たった3行。
だけれども、それはあまりにも衝撃的過ぎる内容だった。
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ヒフウレポート8
死んだ。
目の前で、人が死んだ。
アレはやばい。アレは危険。アレに捕まったら殺される。
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「人が、死んだ……?」
明らかに今までとは違う、物々しい雰囲気。キーボードで打ち込まれた文字からでも伝わってくる、明確な恐怖心。歯車か何かが大きく狂ってしまったかのような、そんな異常性。
人が死んだ。
宇佐見菫子の目の前で、人が死んだ。
アレの手によって、殺された。
「アレって、何だ……? さっきからちょくちょく出てくる、黒い人影の事か……?」
進一は冷静さを装っているようだが、震える声だけは隠しきれていなかった。流石の彼も、これには動揺を隠しきる事が出来ていない様子。
人の死。殺人。妖怪の手によるものだと考えれば、幻想郷では然して珍しくもない事件であるが――。
「あっ……!」
思考を開始した直後。プツンっという音と共に、突然デスプレイが暗転する。五月蝿いくらいに響いていたモーター音も完全に聞こえなくなり、幾らキーボードを叩いても全く反応が返ってこなくなる。
突然パソコンの電源が落ちた。落ちる直前の様子から考えて、回路がショートでもしたのだろうか。
「えっ、ちょ、嘘っ!? まだファイルは残っているのに!」
慌てた蓮子が電源ボタンを何度も強く押し込むが、やはりパソコンが再起動する様子はない。古い機種である。幾ら保存状態が良かったと言えど、流石にガタが来ていたという事なのだろうか。
「あぁ、もうっ。こんな事なら、予めデータを移しておけば良かった……! 私とした事が、一生の不覚よ……!!」
「いや、まだデータが消えたって訳じゃないだろ。ちょっと修理すれば、もしかして……」
「そうよ、諦めるのは早いわ。進一君の言う通り……」
「……あのっ」
尚も諦めずに足掻こうとする進一達だったが、間に妖夢が口を挟んで三人を制する。
進一達の好意は嬉しい。折角掴んだチャンスを逃すまいと、必死になって抵抗してくれている。妖夢が故郷へと帰る方法。必死になって、それを模索してくれている。
でも。
「もう、十分です……」
「……なに?」
「皆さんのお気持ちは、もう十分受け取りました。だから、これ以上は……」
俯きつつも、妖夢はそう口にする。当然ながら、抗議の声はすぐに返ってきた。
「何を言ってるんだよ妖夢」
真っ先に歩み寄って来てくれたのは、進一だった。
「あのファイルは、この上ない手掛かりじゃないか。オカルトボールの力を使えば、幻想郷との自由な往来が可能になるのかも知れないんだぞ。だから、あのファイルをもっと読み進めれば……」
進一は優しげに声をかけてきてくれる。妖夢を安心させようと、希望を届けようとしてくれている。
だけれども。
「無理ですよ」
魂魄妖夢は、知っている。
「オカルトボールを使ったとしても、私は故郷には帰れません」
「……っ。そ、そんな事は……」
「皆さんも薄々感づいているはずです」
なぜならば。
「80年も前のファイルに書かれている魔理沙の名前。そして幻想郷の住民達によるオカルトボール争奪戦。そんなものが各地で発生していたのだとすれば、それはもう大規模な異変ですよ。でも、私はそんな異変なんて聞いた事がない。経験した事が、ないんです」
矛盾。違和感。何もかもが食い違っているかのような、この奇妙な感覚。
この辻褄を無理矢理合わせようとするのなら。
「私は、ただ単にこちらの世界に放り出された訳ではなかったんです」
こう考えるしかない。
「おそらく、私は……」
これは単純な結界の超越などではない。もっと大きな、概念的な“何か”。その超越。
つまり、彼女は。
「時間を、飛び越えてしまったんです」
あまりにも突拍子もない話だけれども。
「私は……! 過去の幻想郷から、この時代に放り出されてしまったんです……!!」
そう考えると辻褄が合う。そう考えると矛盾がなくなる。
魂魄妖夢の時間超越。その真実が、全ての事件の根底に存在していたのである。