桜花妖々録   作:秋風とも

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第36話「幻想の真実」

 

 三月上旬と言えば、そろそろ春の気配が見え隠れする時期である。勿論、冬のように気温が低い日が続く事もあるけれど、厚手のコートを着用せずとも十分に過ごせる気候の日も幾分か増えてくる。ここ最近の京都の気候はどちらかと言えば後者にあたり、街を行き交う人々の表情も心なしか明るくなってきているようにも思える。

 冬の寒気よりも春の陽気。人間誰しも極端よりも中庸を好むものだ。過ごしやすい気候というものは、自然と人の活動を活発化させる。

 

 だけれども、そんな中。古明地こいしの捜索を続ける彼女だけは、沈んだ表情を浮かべていた。

 

 あれから一日近く考えて、彼女は一つの選択を下した。いや、選択せざるを得なかったと言うべきか。

 結局の所、彼女に選り好みをする余裕なんて全くなかったである。先も後も見えぬ暗中で、目の前に手掛かりが提示されて。だから彼女は、それを選択する事しかできなかった。それ以外に選択肢なんて存在しなかった。

 そもそも、今更こんな事を躊躇っていてどうする。躊躇なんてしている場合ではないはずだ。

 

 自分の不注意が原因で、あの子は姿を消したのだ。だからその責任はとらなければならない。

 

「……ここか」

 

 相も変わらずフードを深く被った格好で、彼女はとある大学の一室まで足を運んでいた。

 手渡されたメモを手掛かりにして、この研究室まで辿り着いた――というのは、あくまで形だけの演技のようなものである。以前に提供されたお燐からの情報で、この研究室の存在自体は把握済みだった。

 

 岡崎夢美。比較物理学を専攻する大学教授。非統一魔法世界論を提唱し、日々研究を続けている物理学者。

 

「そして幻想郷の存在を探ってもいる」

 

 ボソリと小さく呟いて、今一度記憶している情報を確認する。

 これまでの彼女の動向から考えて、未だに幻想郷の観測に成功はしていないだろう。だけれども、彼女は進一や蓮子達、つまり秘封倶楽部とは何かが違う。あくまで推測の域を出ないが、おそらく彼女はその一歩先――何らかの真実にたどり着いている。そんな気がする。

 

「……とにもかくにも、まだ油断はできない」

 

 自らに釘を刺すように呟いて、彼女は扉をノックする。返事はすぐに返ってきた。

 

「鍵、空いてるわよ。入ってきなさい」

 

 ゴクリと生唾を飲み込んで、彼女は取っ手に手をかける。一瞬の迷いを振り切って、ガラリと扉を開け放った。

 

「一日ぶりね。そろそろ来る頃だと思ってたわ」

 

 まるで彼女の登場を予感していたかのように、その女性は澄まし顔を浮かべていた。

 真っ赤な髮。真っ赤な瞳。そして真っ赤な上着に、真っ赤なスカート。昨日と何ら変わらぬ服装である。それはそれでこちらとしては分かりやすくていいのだが、まさか大学内でも常にそんな格好をしているのだろうか。

 この女性、どうやら価値観が常人のそれとは少々ズレているようだ。

 

「協力、してくれるんですよね?」

 

 まぁ、彼女の価値観云々については今はどうでもいい。ストレートに話題を切り出すと、夢美は肩を窄めつつも、

 

「あら? いきなり本題?」

「ええ。事は一刻を争います。今は無駄な話をしている場合では……」

「まぁまぁ、取り敢えずそこに座りなさいな。あ、何か飲む? と言っても、今は珈琲しかないけど」

 

 嗜めるようにデスク前の椅子を示すと、彼女はいそいそと珈琲のドリップを始める。緊迫したこちらの様子とは裏腹に酷く能天気な夢美の様子を目の当たりにして、流石の彼女も苛立ちを覚え始めていた。

 

(この人っ……)

 

 人の話を聞いていたのだろうか。事は一刻を争うのだと、さっき言ったばかりではないか。それなのに、この女性は。

 

「あのっ、ちょっと……!」

「んー? 何? そんなに早く珈琲のドリップは終わらないわよ?」

「そうではなくて……! 貴方、私の話を聞いていたんですか……?」

「ええ。そりゃもう、ばっちり」

「でしたら……!」

 

 でしたら、こんな事をしている場合じゃないでしょう。

 

 苛立ちを隠さずにそう口にするつもりだった彼女だが、しかしそれは夢美が口にした言葉によって遮られる事となる。

 

「古明地こいしちゃん」

「えっ……?」

「あなたの捜し人、その子でしょ?」

「……ッ!?」

 

 思わず絶句してしまった。

 何だと? 今、彼女は何と言った? 古明地こいし? どうして、彼女がその名前を――。

 絶句しつつも、思考だけはフル回転させる。けれども夢美の真意だけはすぐに理解できなくて、状況を呑み込む事ができなくて。ただ、夢美の姿を見据える事しかできなくて。

 そんな彼女の驚愕を認識したのか、夢美はこちらを一瞥した後、

 

「図星、みたいね」

「そ、それは……!」

「ふふっ。あなた、()()()()()嘘や誤魔化しが苦手みたいね」

「っ! 相、変わらず……?」

 

 怪訝そうにオウム返しする。しかし彼女がその言葉の意味を理解するよりも先に、夢美は続けた。

 

「そのフード、いい加減取ったらどう?」

「……っ」

「今更隠そうとしても無駄よ?」

 

 この口振り。やはり、この女性は。

 

「ふぅ……。それなら、もう単刀直入に聞いちゃうけど」

 

 ドリップした珈琲が注がれたカップを差し出しながらも、遠回りせずに夢美は口を開く。

 

「……妖夢でしょ? あなた」

 

 最早正体を隠す事など無駄であると、妖夢はそう思った。

 真っ直ぐに向けられる夢美の瞳。からかって適当に言っている訳ではなく、何か確信を持って言っているのだと伝わってくる。

 やはり推測通り、夢美は妖夢の正体に気づいた上で、この研究室を紹介したのだろう。初対面を装って、さも何も知らぬような雰囲気を醸し出して。彼女は、妖夢に近づいてきた。

 

「……まったく」

 

 潔く観念した妖夢が、フードへと手を伸ばす。

 

「これ以上、隠し事はできそうにありませんか」

 

 ふわりとフードを脱ぎ去って、無理矢理纏めていた髪を解く。久方ぶりに人前に晒された彼女の表情は、幾分か疲れの色が滲み出ているように思えた。

 瑠璃色の妖夢の瞳が、しっかりと夢美の姿を捉えている。やはりというか、彼女の素顔を目の当たりにしても、夢美は動揺などおくびに出さずに、

 

「へぇ……」

 

 本気で関心でもしたかのように、彼女はうんうんと一人頷いていた。

 この反応。やはり彼女は、ある程度の確信を持って妖夢に近づいてきたのだろう。しかし、一体いつから? 彼女はどのタイミングで、この真実に辿り着いていたのだろうか。

 彼女が。“あちら”の妖夢が、時間を超越した上でこちらの世界に放り出されていたのだと。

 

「大きくなったわね、妖夢」

 

 しかし、妖夢のそんな疑問など露知らず。彼女は懐かしむかように、妖夢の姿を眺めている。

 別に、あちらの妖夢と別れた訳でもないだろうに。

 

「髮も伸ばしたの? 前は短めのボブカットだったと思うけど」

「……別に意図して伸ばした訳ではありません。ただ、髪を切る時間が惜しかっただけです」

 

 確かに、子供の頃はショート――長くてもセミロングに揃えていた事が多かったと記憶している。現に過去から連れてこられたあちらの妖夢は、所謂おかっぱ頭に近い髪型をしている。だけれども、あれから色々とあって。髪型にまで気を遣う余裕すらなくて。今となってはこの有様である。

 髪を解けば腰辺りまで届きそうになる程の長髪。けれども上手く纏めれば剣を扱うにしてもそれほど邪魔にはならないし、今更短く切り揃える必要もないと思っていたのだが。

 

「もうっ、駄目よそんなんじゃ。妖夢だって女の子なんだから、もっと身だしなみにも気を遣わなきゃ」

 

 姉か何かか、この人は。

 いや、実際彼女は、妖夢の事を妹のように思っている節があるように感じる。そうでなければあそこまで積極的に協力してくれないだろうし、幾ら彼女が進一と同様に人の良い性格をしているとは言え、ここまで世話を焼いてくれるなど――。

 

(あ、あれ……?)

 

 いや、何だ。一体何を考えているのだ、自分は。

 夢美があくまで気にかけているのは過去から連れてこられたあちらの妖夢であって、この時代の妖夢ではないはずだろう。そもそも自分には、夢美と共に過ごした記憶など存在しない。この時代の妖夢からしてみれば、そんな()()など有り得ないはずなのに。

 まるで、自分の事であるような、この感覚は。

 

「……あの、一つ聞いてもいいですか?」

 

 胡乱な違和感を払拭するかのように、妖夢は夢美に声をかける。

 

「私が、“この時代”の魂魄妖夢であると……。いつから、気づいていたんですか……?」

「いつから、ねぇ……」

 

 夢美は自分用の珈琲のドリップを終えると、ミルクも砂糖も入れぬままカップを口へと運ぶ。一口分ほど飲み込んで、ふぅっと一息ついた後、

 

()()()とは昨日が本当に初対面だから、当然、妖夢だって確信を持てたのもその時ね」

「含みのある言い方ですね。では、質問を変えましょう。“仮説”を組み立てたのは、いつですか?」

「仮説……。へぇ、そう聞いてくるのね」

 

 夢美はまだ珈琲が並々と残ったカップを机の上に置く。何かを考え込むかのように口を閉じた後、程なくして彼女は再び妖夢へと視線を戻す。

 

「あの子……、()()()()()()が博麗大結界……或いは冥界と顕界を隔てる結界だけでなく、時間を超越してこちらの世界に放り出されてしまった、と……。その可能性を考えたのは、あの子と始めて会ったその次の日、かしら?」

「次の日?」

「ええ。妖夢の素性だとか、状況だとか。色々と詳しく話を聞いたのよ。その時、私はある矛盾点に気がついたの」

 

 夢美は椅子に深々と腰掛ける。そして背凭れに身を委ねつつも、

 

「六十年周期の大結界異変。博麗大結界って、六十年に一度の周期で緩んでしまうんでしょう? あの子は、つい何年か前に二回目の緩みが生じたと言っていたわ」

 

 そう。博麗大結界は強大な結界であるが故、管理も非常に難しい。どんなに卓越した術者が徹底して管理を行おうとも、必ず緩みが生じてしまう。

 それこそが、六十年周期の大結界異変。

 

「でも、それっておかしくないかしら?」

 

 魂魄妖夢は、つい数年前に二回目の大結界異変を経験したのだという。

 

「二回目の異変……。という事は、博麗大結界が張られてからまだ120年ちょっとしか経っていないことになるわ」

 

 今から120年前と言えば、1900年代後期。

 

()()()()のよ。120年じゃ」

 

 博麗大結界のそもそもの約割は、“常識”と“非常識”の隔離である。

 人間の畏れを糧にしている妖怪にとって、認識というものは存在を維持するのに不可欠な要素である。人間が妖怪を常識として認識している状況こそが妖怪にとって都合の良い環境であり、逆に言えば一度人間が妖怪を非常識だと排斥してしまった場合大きな問題が発生する。人間に認識されなくなった妖怪は個として存在する事ができなくなり、最悪の場合は消滅してしまうのである。

 文明の発展と共に妖怪などの非科学的な事象が迷信――つまり非常識的な要素であるという認識が、人間達の間で広く浸透してしまった時。妖怪の時代は終焉を迎えてしまうだろう。行き場を失った妖怪達は力を失い、消滅を待つしかなくなってしまう。

 

 それは幻想郷に住む妖怪達も例外ではない。それ故に、必要なのである。

 外の世界の常識から隔離し、非常識を内包する為の結界。すなわち、博麗大結界が。

 

「本格的に妖怪の排斥が始まったのは明治時代。文明の急速な発展によって人々の思考がより科学寄りに変移してゆき、逆に非科学的な要素が迷信だと浸透してゆく事になるわ。ものの数年で完全に人間の天下よ」

 

 その時点で、最早妖怪の居場所なんて殆んどなくなっていたはずなのに。

 

「それから100年近く経って、ようやく博麗大結界が張られただなんて……。辻褄が合わないじゃない」

 

 1900時代後期にもなれば、既に妖怪の存在など明確に迷信であると人々に広く浸透してしまっているだろう。そのタイミングで慌てて張ったにしては、博麗大結界はあまりにも強固過ぎる。

 

「もしも妖夢が経験した大結界異変が三回目だったら、こんな違和感を抱く事もなかったのかも知れないけど」

 

 遅くとも、1800年代中期から後期辺りには既に張られていなければ納得出来ない。1900年代になれば文明はほぼ完全に科学寄りに偏ってしまい、妖怪の居場所など殆んどなくなってしまったはずだ。そんな非科学時代の終末に、あそこまで巨大な結界を張る事ができるなど。

 幾ら何でも、有り得ないのである。

 

「……成る程。それで、貴方は時間の超越を推測したんですね」

「まぁ、その時点ではあくまで可能性の一つとして、だけどね。でもクリスマスイブ……。妖夢からあなたの話を聞いた時、私の予感は確信に変わったわ」

 

 この時代には、別々の時間に存在するべきはずの魂魄妖夢という半人半霊が、同時に二人存在している。夢美がその可能性に確信を持ったのは、つまりその時点という訳か。しかも魂魄妖夢の時間跳躍については、それより更に早い段階で仮説を立てていた、と。

 

「恐れ入りました。貴方がまさかそこまで非常識に精通しているとは」

「まぁ、タイムトラベルに関しては、世間一般からしてみれば魔法や妖怪ほど非常識って訳じゃないけどね。未だに証明はされていないけど、一応研究は続けられているみたいだし」

「……この話、私達以外に知っている人はいるんですか?」

「今の所はちゆり……私の助手だけね。タイムパラドックスとかも少し気になるし、あっちの妖夢には何も話してないわ。多分、時間跳躍に関してはあの子もまだ気づいてないと思う」

「ちゆりさん……? その人は、今はどこに?」

「あぁ、ちょっと買い出しに行ってもらってて、今は留守よ。でも心配しなくても大丈夫。あの子は結構口硬いから、口外はしないと思うわ」

「……そうですか」

 

 その判断は正しかったと妖夢は思う。あまりにも不明瞭な要素が多いこの状況で、これ以上イレギュラーを態々増やす必要もない。

 

「でもまぁ、世界は思った以上に頑丈なのかもね。既に大人と子供の妖夢が対面しちゃってるのに、タイムパラドックスのような現象は起きてないみたいだし」

「……子供の私は、まだ私の事を未来の自分自身であると認識できていませんよ。確かに私達の間では、既に同一人物の対面が事実であると認識出来ていますが、あちらの私はそうではない」

「……あなた、何か知っているの?」

「……いえ」

 

 タイムトラベルとか、タイムパラドックスだとか。そんな分野は完全に専門外であるし、はっきり言ってイマイチ理解できていない部分も多い。精々、一般的にも認知されているような、その程度の浅知識しか持ち合わせていないのだけれども。

 それでも、予感くらいはできる。

 

「この程度の矛盾では世界は動かない……、という事でしょうか?」

「……成る程ね。もしも子供の妖夢が自らが立たされている状況を理解し、更には未来の自分自身の存在を認識してしまった場合」

「何かが起きる、かも知れません」

 

 大人の妖夢と子供の妖夢。二人の同一人物が互いの存在を同時に認識してしまった場合、何か大きな事――それこそタイムパラドックスが起きてしまう可能性はあるかも知れない。しかし一口にタイムパラドックスと言っても、具体的に何が起きるかまでは見当もつかないが。

 

「あなた、ひょっとしてとんでもない無茶をしてたんじゃない? もしも何かの拍子にあの子に感づかれて、それでタイムパラドックスが起きちゃったらどうするつもりだったの?」

「…………」

 

 確かに夢美の言う通り、あの時は相当危ない橋を渡っていたように思える。同じ時間に同じ人物が同時に存在するなんて本来ならば絶対に有り得ない事で、何が起きても不思議ではない状況だった。下手をすれば、世界そのものが壊れてしまっていたのかも知れない。まぁ、それはあくまで最悪の事態で、流石にその程度の矛盾で崩壊するほど世界は脆くないと思うのだけれど。

 でも。仮に、そうだったとしても。

 

「……どっちみち、時間の問題ですから」

「えっ? 何か言った?」

「……いえ、何でもありません」

 

 少し大袈裟に夢美から視線を逸した後、妖夢は話題を変える。

 

「この話はもう良いでしょう。そろそろ本題に入らせてもらえますか?」

「ん? あぁ、そうね。そもそもあなたは、こいしちゃんの手掛かりを見つける為に、ここまで来てくれたんだったのよね」

 

 そう、根本的な目的はそれだ。

 今最も優先すべき事は、古明地こいしの捜索である。タイムトラベルやタイムパラドックスなどの謎解きは、今は後回しで良い。

 

「……ごめんなさい。私の方でも予め色々と調べてみたんだけど……。でも、これと言った情報は何も……」

「……。そう、ですか」

 

 申し訳なさそうにそう語る夢美の姿を見て、しかし妖夢は思っていたほど落胆感を覚える事はなかった。

 元よりあまり期待していなかった事である。幾ら非常識に精通している岡崎夢美と言えど、これはそう簡単に解決できる問題ではないだろう。もしもこいしが本当に“彼女”の手によって拉致されたのだとすれば、外の世界の人間では対処できない事態である。

 そう簡単に足取りを追えてしまう程、“彼女”は小者ではないはずだ。

 

「ところで妖夢。こいしちゃんの捜索って、あなた一人でやってるの?」

「……いえ。私と」

 

 お燐さん、と言いかけて、妖夢は口をつぐむ。

 

「……あの、ひょっとして()()()についても既に気づいていたんですか?」

「……へ? 何の事?」

「ですから、その……。火車についてです」

「え? 何? 何でそこで火車が出てくるの?」

 

 本気で何も分からないといった面持ちで、夢美は首を傾げている。

 この反応。まさか、この人――。

 

(お、お燐さんの正体に気づいていない……?)

 

 妖夢が口にした言葉の真意を必死になって理解しようとする彼女が浮かべるのは、何とも間の抜けた表情である。どうやら妖夢の予感通り本当に何も気づいていなくて、お燐の事は未だにただの人間であると思い込んでいるらしい。

 妖夢の正体には一発で気づいたのに、どうしてそこは気づかないのだろう。何だかますますこの人が分からなくなってきたような。

 

「いえ。すいません、私の勘違いだったみたいです。気にしないで下さい」

「そ、そう?」

「ええ」

 

 思わず零しそうになる溜息を飲み込みながらも、妖夢は適当に誤魔化しておく事にする。未だに気づいていないのなら、何もこのタイミングでバラす必要もないだろう。話が余計にややこしくなりそうだし。

 

「うーん……。でも何にせよ、手掛かりが掴めていない事には変わりないのよね。どうしたものかねぇ……」

 

 嘆息しつつもそう口にする夢美を横目に、妖夢は思考を切り替える。果たして自分は、この後どうすれば最善なのだろうか。

 視線を落とすと、先程差し出された珈琲カップが目に入る。揺らめく褐色の水面に反射している自分の姿を眺めていると、ふと脳裏にある疑問が過ぎった。

 

「あの、夢美さん」

「ん? 何かしら?」

「貴方は、その……。怒って、ないんですか?」

「怒る? 私が? どうして?」

「そ、それは……。えっと……」

 

 途端にしどろもどろになる妖夢の様子を目の当たりにして、流石の夢美も困惑顔である。おそらく彼女は、妖夢が言わんとする事を理解していないのだろう。

 当たり前である。きちんと言葉にしなければ、伝えられるものも伝えられない。察して欲しいなどという感情は、ただの身勝手な我儘だ。

 

 だから彼女は声にする。迷いと躊躇を断ち切って、俯いていた顔を上げる。

 

「クリスマスイブの、事です」

 

 あの日、彼女は。

 

「私は、貴方の弟さんを……。誘拐、しました」

 

 声が震えているのが分かる。我ながら情けない。

 でも。

 

「私の勝手な都合で、進一さんを利用して……。半ば無理矢理、『能力』を使わせたりもしました」

 

 あの時彼女が犯した罪は、しっかりと告白しなければならない。

 

「だから、その……」

 

 許してくれとは、言わないけれど。

 

「ごめんなさい……」

 

 妖夢は深々と頭を下げた。これ以上、言い訳をするつもりもなかった。

 許されるとは思っていない。ちょっと頭を下げた程度で、贖罪になったとも思っていない。けれども、それでも。これだけは、自分の口から伝えなければならない事なのだと。

 そう、思った。

 

「……まったく。何を言い出すかと思えば」

 

 岡崎夢美は、嘆息する。

 

「まぁ確かに、許される事じゃないわよね」

 

 許される事じゃない。その言葉が頭の中で反響して、妖夢の身体がビクリとはねる。

 

「何の了承も得ずに連れ去って、有無も言わさぬ勢いで無理矢理従わせて。あの日、進一がいなくなったって聞いて……。私、本当に心配したのよ?」

 

 「でも……」と、夢美は続ける。

 

「何か理由があったんでしょ?」

「えっ……?」

「あんな事をせざるを得ないような理由。それがあったんでしょ?」

「そ、それは……」

 

 確かに、理由はある。何の目的もなしに無関係の人間に危害を加えるなど、阻止する事はあっても実行に移す事は絶対にない。しかしだからと言って、結果として進一に危害を加えてしまった事に変わりはない。

 それ故に、償わなければならないと。そう思っていたのに。

 

「私、妖夢の事は信用しているから」

 

 彼女は、優しげな笑みを浮かべていて。

 

「だから、もう怒ってないわよ」

 

 息が詰まった。息が詰まって、妖夢は何も言えなくなった。

 どうして。どうして彼女は、こうも簡単に割り切る事ができるのだろう。だって相手は最愛の弟を誘拐した張本人で、憎むべき対象であるはずなのに。

 どうして。

 

「なんで……。信用、できるんですか?」

「なんでって、そりゃあ……」

 

 さも当然である事のように、彼女は言う。

 

「だってあなた、素直でいい子じゃない」

 

 まるで、妖夢の困惑の方が間違っているかのように。

 

「そんなあなたが、悪意を持ってあんな事をするとは思えないのよね」

 

 彼女はどこまでも真っ直ぐだった。

 

「だから信用している。それだけよ」

 

 魂魄妖夢は呆気にとられていた。でもそれと同時に、胸中がじんわりと温かくなった。

 簡単に割り切って、簡単に受け入れて。信用するなどと、簡単に言ってくれる彼女の様子を見て。

 まったく。本当に、この人は。

 

 あまりにも、優しすぎる。

 

「夢美さんって……」

「ん?」

「どうしようもないくらいに、お人良しだったんですね」

「え? 何それ、褒めてないでしょ?」

 

 だからこそ。妖夢もまた、笑顔を浮かべて。

 

「褒めてますよ。心の底から」

 

 包容力というか何と言うか。もしも本当に姉という存在がいたら、こんな感じなのだろうか。

 幾ら自分で自分を責めても、膨れ上がった罪悪感に押しつぶされそうになっていたとしても。そんな自分を、信じてくれる人がいる。信用していると、そう言ってくれる人がいる。

 そんな存在を意識すると、何だかちょっぴり恥ずかしい。でもそれ以上に、温かい。

 

(お姉さん、か……)

 

 少しだけ、進一が羨ましい。こんなお姉さんが、いつでも傍にいてくれるなんて。

 何だか――。

 

 

(……。あ、れ……?)

 

 

 違和感。それを強く実感したのは、その直後の事だった。

 

(なに、今の……)

 

 身体が震える。頭の中が混乱する。

 何かがおかしい。何かが決定的に間違っている。

 夢美とのやり取り。その間には特に不審な要素は混じっていなかったはずだ。彼女が妖夢の事を信用しているのは事実だろうし、妖夢だって彼女の事を信用している。それは嘘偽りのない、妖夢が確かに抱く思いだ。そのはずなのに。

 

(今の、やり取り……。前にも……)

 

 どこかで、似たような状況を経験した事があったような。

 

「妖夢? どうかしたの? 顔色が悪いみたいだけど……」

 

 不安そうな面持ちで、夢美が表情を伺ってきた。

 反射的に顔を上げた妖夢は、慌てて表情を取り繕うと、

 

「いえ、何でもありません……」

「そ、そう?」

 

 嘘だ。何でもない訳がない。

 何なんだ、この奇妙な感覚。まるで、誰かと同じ行動を無意識の内に辿っているかのような。そんな気味の悪い感覚。いや、そもそも誰かとは誰だ? 自分は誰かの真似事をしているとでも言うのか?

 違う、そうじゃない。その認識は間違っている。

 この感覚に、もっとも良く当てはまる表現と言えば。

 

(デジャヴ……?)

 

 いや、違う。

 まさか、この感覚こそが――。

 

「それにしても、あなたも随分とキツい事するのねー」

「……へ?」

 

 唐突に思考が打ち切られ、現実に引き戻される。夢美は興味の対象をすっかり移し替えたようで、肩を窄めつつも話題を切り替える。

 

「クリスマスイブと言えば、あなた子供の妖夢と戦ったんでしょ? しかも容赦なく一方的に下しちゃったみたいじゃない。幾ら自分自身だとはいえ、あれはちょっと酷いんじゃない?」

「あ、あぁ……。その事ですか」

 

 ふるふると頭を振って違和感を払拭しつつも、妖夢は彼女の話題に乗る。

 この違和感の正体が、本当に妖夢の“推測”通りなのだとすれば。あまり深く詮索してしまうのは得策ではない。それこそ、取り返しのつかぬような事を引き起こすきっかけとなってしまう可能性もある。

 今はその時ではない。こいしを行方を掴み、“彼女”へと辿り着くまで。これ以上、イレギュラーな要素を増やす訳にはいかない。

 

「……加減はしました。多少の斬り傷はあれど、命に別状はなかったでしょう?」

「いや、それはそうだけど……」

「私の事は、私自身が一番よく分かっているつもりです。あれくらいで丁度良かったんです」

 

 「お堅いわねぇ……」などと夢美は呟いていたが、こればっかりは譲れない。

 彼女には今以上に強くなってもらわなければならない。今のままじゃ駄目なのだ。

 

「でも、その節は感謝しています。怪我をした私を、病院まで連れて行ってくれたんですよね?」

「ええ、まぁね。確かにそれほど酷い怪我って訳じゃなかったけど、やっぱり診て貰った方が……」

 

 瞬間。ピクリと、一瞬だけ夢美の眉が揺れた。

 言葉を全て言い終わる前に、彼女は唐突に口を閉じる。糸を張ったような緊張感が突然周囲に漂い始め、夢美の表情も鹿爪らしいものへと変貌を遂げる。

 

「夢美さん……?」

 

 何かが、変わった。

 そう認識するのにあまり時間は要さなかった。

 

「ねぇ、妖夢」

 

 聞いた事のないようなトーンの声。ごくりと生唾を飲み込んだ後、妖夢はそれに答える。

 

「……何ですか?」

「……今、あなたなんて言った?」

「へ? え、えっと……。夢美さんに、感謝していると……」

「違うわ。その後よ」

「後……?」

 

 後、と言えば。

 

「怪我をした私を、病院まで連れて行ったと……」

「そう、それよ」

 

 人差し指の背を自分の顎へと添える。思案顔を浮かべた夢美は、必死になって自らの記憶を探るように、

 

「あの時、どうして病院になんか……」

 

 何やらボソボソと呟いているようだが、生憎妖夢の耳にまでは届かない。ただ、何かを思い出した岡崎夢美が、急に変貌してしまったのだと。その事実だけが、脳裏に焼きついてしまって。

 

「ど、どうしたんですか夢美さん? 急に、おかしいですよ」

「おかしい? 確かに、そうかもしれないわね」

 

 夢美はますます難しそうな表情を浮かべる。その様子からは先程までの余裕さえも殆んど感じられず、寧ろ追い込まれているようにも見えた。

 息をするのも忘れそうになる勢いで、夢美は一人考え込む。頬にひと筋の冷や汗が流れ落ちたあたりで、彼女は再び口を開いた。

 

「やっぱり、何かが変よ……」

「変?」

「ええ。何か、決定的な矛盾があるような気がするの。でも、それを探ろうとすればするほど、どんどん深みに嵌っていくような……」

「……どういう意味です?」

 

 そう聞いてみるが、どうやら夢美自身もイマイチ理解していない様子だった。

 彼女の口振りから察するに、何らかの矛盾点の存在に気づいたものの、それを特定する事が出来ていないという事なのだろうか。あと一歩で真実へと辿り着く事が出来そうなのにも関わらず、なぜだかその一歩を踏み出す事が出来ない。

 探ろうとすればするほど、どんどん深みに嵌っていくような気がする。それはまるで、何者かの手によって“妨害”でも受けているかのような――。

 

「あ、いや……。ちょっと待って」

 

 しかし、それでも夢美は諦めなかった。頭の中の記憶を整理し、混乱を無理矢理抑え込んで。一寸先も見えぬような濃い霧の中、殆んど手探りだけで一つの真実を手繰り寄せる。思考をフル回転させて、“妨害”さえも振り払う。

 

「…………ッ」

 

 息を呑み込む音と共に、夢美は目を見開いた。

 狐につままれたような表情。愕然とした様子で固まってしまった岡崎夢美だったが、けれどもすぐに次なる行動を起こす。慌てた様子でデスクの引き出しを次々と開け、何かを探し始めたのである。

 目に見える程の恐慌。それを露わにする彼女の姿を目の当たりにして、只事ではないと妖夢もすぐに理解できた。

 

「夢美さん……? どうか、しましたか……?」

 

 恐る恐る夢美に声をかけてみる。当の彼女が引き出しの中から何かを引っ張り出したのは、丁度その次のタイミングだった。

 

「妖夢! これ、見覚えある……?」

「えっ……!?」

 

 瞬間。妖夢は絶句した。

 彼女が引っ張り出したのは、風化した一枚の真っ赤な和紙である。形状としてはギリギリ長方形を保っているようだが、あまりにもしわくちゃで虫食いが酷いそれは、少し力を加えれば簡単に千切れてしまいそうな程にボロボロだ。一見すると、ただのゴミか紙切れのようにも見える。

 だけれども、そんな事は関係ない。確かにしわくちゃでボロボロで、ゴミとも見間違えてしまいそうな紙切れなのだけれども。

 

 見覚えが、ある。

 

「あのっ……! どこで、これを……?」

「……見覚え、あるのね?」

「は、はい。札、と言うよりもこの文字……。似たようなものを以前も見た事があります……」

「そう……。これはね、進一達が見つけて来たのよ」

「進一さん達が……?」

「ええ」

 

 そう言うと彼女は御札を妖夢へと手渡し、今度はパソコンを操作し始める。

 

「とある雑木林で見つけてきてね。でもあの子達じゃどんな効力のある御札なのか分からなかったみたいで、それで私に頼ってきたって訳」

「雑木林、というと……」

「そう。あなたも知っているでしょ? 博麗大結界がある、あの雑木林よ」

 

 知ってるも何も、妖夢とこいしは博麗大結界を越え、あの雑木林からこちらの世界に足を踏み入れたのである。その際にあちらの妖夢や進一達の姿も一度見かけている。

 

「私はてっきり、それには魔除けか何かの効力があるんじゃないかと思ってたんだけどね。でも、そうじゃなかったのよ」

「……と、言いますと?」

「まだ確証がある訳じゃないんだけど、その御札の効力はおそらく『結界の修復』よ。御札の劣化具合から考えて、貼られたのはもう何十年も前ね。何者かが強引に結界を越えてこちらの世界に侵入し、その際にできてしまった結界の解れをそれで修復したんだと思う」

「……成る程。そういう事ですか」

 

 つまり、数十年前に結界を越えてこちらの世界に侵入した人物がいるという事だ。

 

「おそらく、“彼女”でしょう……」

 

 御札の形状――否、御札に書かれている()()()()から考えて、その人物とやらが妖夢の捜し人で間違いないだろう。やはり“彼女”は、確実にこちらの世界にいる。

 

「それじゃあ、次の質問よ」

 

 そう口にすると、彼女はパソコンの操作を切り上げる。そして何かが表示されているモニターを指差すと、言った。

 

「この顔に、見覚えはある……?」

「顔? ……ッ!?」

 

 思わず身を乗り出して、妖夢はモニターに飛びついてしまった。

 モニターの両端をガシッと掴み、()()をまじまじと凝視する。そこに表示されていたのは、一人の女性の顔写真だった。

 記憶の中の“彼女”とは、髪型が違う。けれども、その程度で誤魔化されてしまうほど妖夢の目は節穴ではない。群青色の髪。同じく群青色の瞳。そして非常に若々しく、整った顔立ち。

 

 見間違える訳がない。モニターに写っている、この写真の女性は――。

 

「この人です……」

 

 震える声を、妖夢は何とか引っ張り出す。

 

「この人が、私の捜し人です……!」

 

 思わず声を張り上げて、彼女は伝える。

 

「きっとこいしちゃんも、この人の所にいます!!」

 

 やっぱり、とでも言いたげな面持ちで、夢美も写真を一瞥する。写真に写った群青色の“彼女”は、相も変わらず何を考えているのか分からぬような表情を浮かべていて。

 何だか。ちょっぴり、不気味だった。

 

「あの、この人は一体どこに? ひょっとして、夢美さんは彼女と面識があるんですか……?」

「……ええ、そうよ。私も……彼女の、知り合いだわ」

 

 信じられないと言った面持ちで、夢美は言葉を紡ぎ出す。

 

「彼女は、医者よ。所謂町医者で、知名度に関しては知る人ぞ知るって程度かしらね。こうしてホームページも公開してて、ここから診察の予約を行う事も出来るわ」

 

 ポツリポツリと夢美はそう説明してくれるが、しかしその表情はどこか苦しげな様子で。

 

「でも……おかしいのよ」

「えっ……?」

「私と彼女は知り合い同士。でも、一体いつ、どこで知り合ったのか……。どういった出会い方をしたのか……。それが、まったく思い出せなくて……」

「思い出せない……?」

 

 片手で頭を抑えつつも、夢美はそう語る。

 この症状。ひょっとして、今の彼女は何らかの術か暗示をかけられているのではないのだろうか。あまりにも不審な人物が知り合いの中にいたのにも関わらず、今の今まで気にも留めていなかったなんて。それが何よりの証拠である。

 

「思い出そうとすると、頭の中で妙なモヤモヤが邪魔をするのよ……。お陰で、肝心な部分の記憶が、まだ曖昧で……」

「良いんです、夢美さん。今は無理に思い出そうとしない方が良い」

 

 仮に危険な術がかけられているのなら、無理に思い出そうとした途端に負担が強まる危険性もある。それならこれ以上、無理して記憶を探るのは危険だ。

 それに。もう、十分過ぎる程の情報を得る事ができた。

 

「夢美さん。この病院の住所を教えてくれませんか?」

「え、ええ……。で、でも。あなた、ひょっとして一人で行くつもりなの……?」

「そうですね。今は一刻も早く“彼女”と接触しなければなりません。急がないと、こいしちゃんが……」

 

 住所が書かれたメモを受け取ると、妖夢は直様踵を返す。そのまま立ち去ろうとする彼女だったが、けれども夢美に呼び止められてしまった。

 

「待ちなさい! 妖夢、私も一緒に行くわ」

「……駄目です」

「なっ……どうしてよ!」

 

 振り返り、妖夢は伝える。

 

「夢美さんを危険な目に遭わせたくないからです」

「そ、そんなの……。今更、でしょ……?」

「それでも、です」

 

 幾ら彼女が駄々をこねようとも、これ以上の危険な行為を認める訳にはいかない。幾ら彼女が魔法の研究などするような非常識的な物理学者なのだとしても、こちらの世界の人間である事に変わりはないのだ。下手に首を突っ込めば、生命さえも脅かされる。

 

「その変わり、夢美さんにお願いがあります」

「お、お願い……?」

 

 歩み寄りつつも、妖夢は出来る限りの穏やかな口調で、

 

「もしもお燐さんと会うような事があったら、この事を彼女にも伝えてくれませんか?」

「えっ? お燐って……。ちょ、ちょっと待って、あなたお燐と知り合いなの!?」

「……ええ。まぁ、そんな感じです」

 

 困惑する夢美を横目に、妖夢はまだ口をつけてなかった珈琲を一気に呷る。ふぅと一息吐き出すと、焙煎豆の香ばしい香りが口いっぱいに広がった。

 

「珈琲、ご馳走様でした。それでは、私はこれで」

「ちょ、ちょっと妖夢! まだ話は終わってないわよ! ねぇ、妖夢ってばー!!」

 

 再び髪を強引に纏め、フードを深く被り直す。夢美が何度も呼び止めてきたが、今度は足を止めなかった。

 新たなメモを片手に、妖夢は一人走り出す。目指すは知る人ぞ知るらしいとある町医者。そこに、全ての真実を知る者がいる。

 

(それにしても、あんなにも堂々と顔写真を公開していただなんて)

 

 これまで気づかなかったのが不思議である。完全に見落としていた、という事なのだろうか。

 けれども、今となってはそんな事はどうでもいい。ようやく尻尾を掴んだのだ。後は、それを手繰り寄せるだけ。

 息せき切りながらも、妖夢は走り続けていた。

 

 

 ***

 

 

 どうして今まで、何も不思議に思わなかったのだろう。どうして今まで、まるで意識を傾けなかったのだろう。ちょっと考えれば気づく程に、大きな矛盾点であったはずなのに。明らかに、おかしな要素が数多く含まれていたはずなのに。

 

(どうして、私は……)

 

 魂魄妖夢が立ち去った後の研究室。一人になった岡崎夢美は、頭を抱えつつも椅子に深く腰掛けていた。

 あれから彼女は考えた。これまで何度か覚え続けていた違和感。そして今回辿り着いてしまった一つの真実。しかしそれらを頭の中で詮索しようとすればする程、何とも言えぬ気味の悪さが彼女の胸中を支配する。これまでずっと感じていた違和感とは、何かが違う。もっと露骨で、直接的な――妨害。

 霧のような黒いモヤモヤが、頭の中から離れない。さっきからこの霧が、何度も何度も夢美の思考の邪魔をする。

 

(何なのよ、もうっ……!)

 

 気持ち悪い。本能的な嫌悪感が警鐘を打ち鳴らしているようだが、しかしそれでも彼女は思考を打ち切るつもりはない。

 

(考えて……。思い出すのよ、岡崎夢美……!)

 

 自らを鼓舞して嫌悪感を払拭する。モヤモヤを振り払って、必死になって記憶を探る。

 知る人ぞ知る都内の町医者。一般的な普通の病院とは異なる非合法的な病院であるが故に、妖夢のような訳ありでも問題なく診察して貰う事が出来る。大抵の場合ベッドに空きがある為、メリーの時のような急患も安心して任せる事が出来る。

 そんな、あまりにも都合が()()()()万能病院。自分は一体、いつからその存在を認知していたのだろうか。一体いつ、どこで、どのように。あの『先生』と知り合いになったのだろうか。一体、誰の手引きで――。

 

 

『なぁ、夢美様。実はさ、夢美様に紹介したい人がいるんだ』

 

 

(……。あっ……)

 

 ふと、彼女の脳裏に“とある場面”が投影される。

 あれは、どれくらい前の出来事だっただろうか。いや、時期なんてこの際どうでもいい。問題なのは、あの時――。彼女を、『先生』を、夢美に紹介してくれた人物は。

 間違いなく、紛れもなく、確実に。

 

「う、嘘よ……。そんな、ことって……!」

 

 夢美の脳裏に過ぎるのは、最悪の可能性。そんな事は有り得ないと、何度も自分に言い聞かせるのだけれど。でも、やっぱり駄目だ。

 だって。もしもこの推測が正しければ、辻褄が合ってしまうのだ。あまりにも進展しなかったこの状況も、さっきから彼女の邪魔をし続けるこのモヤモヤの原因も。そして、今まで何度も覚えてきた、この違和感の正体も。

 

 全部、全部、全部。

 

「……っ」

 

 頭を抱え、夢美は身を縮こませる。強くなる心臓の高鳴りが、五月蝿いくらいに耳に響く。大きく肩を上下に揺らし、激しい息切れさえも起こす。

 身体が震える。当然寒さによるものでも、武者震いでも、貧乏揺すりなどでもない。

 

 明確な恐怖心。

 それを強く実感した、夢美がボソリと呟くのは。

 

「ちゆ、り……」

 

 ずっと助手として尽くしてくれていた、彼女の名前だった。

 

 

 ***

 

 

 上司である岡崎夢美というあの大学教授は、基本的に人使いが荒いように思える。――いや、と言うよりも、少々天然であるだけか。

 彼女は間違いなく天才だ。常人ではまず思いつかぬような発想を絞り出し、非常識的な観点から独特な理論を組み立てる。そんな彼女だからこそ提唱できるのが非統一魔法世界論。世界の裏側に存在する真理の一つである。

 

 そう。良くも悪くも、夢美は独創的なのだ。それ故に、周囲の人間は振り回されてしまうのである。

 彼女――北白河ちゆりも、振り回される側の人間の一人だ。岡崎夢美の助手として、彼女はこれまで何度も何度も振り回されてきた。夢美が素っ頓狂な論文を構築しては彼女がフォローに回り、夢美が非人道的な実験に片足を突っ込んでは彼女がストッパーとして制してきた。

 岡崎夢美に悪意はない。それでも周囲に及ぼす影響力は絶大だ。そんな教授の助手として苦楽を共にするなど、途中で嫌になってしまってもおかしくはないはずなのに。

 

 でも。

 それはそれで楽しかったと、ちゆりは思う。

 

 確かに夢美は傍迷惑な女性だ。子供のように純粋無垢で、子供のように意地っ張りで。負けず嫌いで、でも肝心な所でポンコツで。馬鹿と天才は紙一重という言葉を、体現したかのような人なのだけれども。

 

 それでも。

 彼女の事は尊敬している。彼女の事を応援したいと、そう心から思っている。

 

 だから。

 

(……これは、私が自分で決めた道だ)

 

 岡崎夢美に頼まれた買い出し。その帰り道に、ちゆりは一人の少女の姿を見かけていた。

 見覚えのある姿。ちゆりもよく知っている少女である。三つ編みとして纏めた真紅の髮。猫のような瞳。呪術的な印象を受ける、黒いゴシックロリータファッション。狼狽を露わにし、激しく息を切らしながらも街中を駆け抜けるあの少女は。

 

「お? よう、お燐。どうしたんだよ、そんなに慌てて」

「へっ……? あっ、ち、ちゆり!?」

 

 火焔猫燐。ちゆりが住むアパートの一室に、居候させている少女である。彼女はちゆりの姿を確認するや否や、飛び上がりそうな勢いでビクリと身体を震わせた。

 まるで教師に不正でもばれたかのような反応である。そんな彼女の様子を目の当たりにして、ちゆりの悪戯心がちょっぴり刺激されてしまった。

 

「なんだなんだ? 私に見られちゃマズイ事でもしてたのか? んー?」

「ち、違うよ! 別に、そんなんじゃ……」

「へぇ……?」

 

 思った以上にお燐の反応は深刻そうだ。鬼気迫る様子と言っても過言ではない。

 

「そういやお前、ここ最近は何だかいつもそわそわしてるよな。何かあったのか?」

「べ……別に、何もないよ」

「そうか?」

 

 隠す気があるのかないのか。いや、隠す気自体はあるのだろうが、それが壊滅的に苦手であるだけなのだろう。傍から見ても、何か深刻な事態に陥っているという事がバレバレだ。

 隠し事の上手い下手という観点から見れば、正直妖夢と良い勝負である。

 

「ち、ちゆりの方こそ、どうしたの? 今日は夢美と一緒じゃないの?」

「いや、今日も変わらず夢美様と一緒だぜ。今は買い出しの帰りだ」

「そ、そうなんだ……」

 

 買い物袋を掲げると、お燐は納得してくれたらしい。それ以上詮索してくる事はなかった。

 さて、どうしたものか。このまま彼女をからかうのも悪くないが、流石にこれ以上は可愛そうである。この表情から察するに、今の彼女は冗談を言い合う余裕すらないように思える。それ程までに追い込まれているという事なのだろう。

 まぁ、それならばこれ以上彼女を引き止める事はないか。

 

「悪かったな呼び止めて。急いでるんだろ? もう行ってもいいぞ。私もさっさと研究室に戻らなきゃならないからな」

「え? う、うん……」

 

 ちゆりがそう告げると、軽く呼応した後にお燐は走り去っていった。相当慌てているのだろう。あまり体力も残されてない癖に、出せる限りの全力疾走である。あの様子では、大方すぐに息切れしてまた立ち止まってしまいそうだが。

 そんな彼女の後ろ姿を見送った後、ちゆりは踵を返す。お燐に告げた通り、彼女も早い所夢美のもとへと向かわなければならない。帰りが遅くなった所為で文句を言われるのも面倒だ。

 

「……そうだ。さっさとしないとな」

 

 歩を進めながらも、彼女は呟く。

 

「でも、そんなに心配しなくても大丈夫だぜ。お燐」

 

 慌てふためく少女の姿を思い出しながらも、彼女は呟く。

 

「もうちょっとで、終わるからな」

 

 呟きながらも。彼女は真っ直ぐ、研究室へと向かっていた。

 

 

 ***

 

 

 そのエントランスには薬品独特の鼻をつく匂いが漂っていた。

 人が三、四人入ればいっぱいになってしまいそうな広さ――いや、狭さの待合室兼エントランスである。とあるビルの一階部分をまるまる間借りしているものの、そもそもビルの敷地面積があまり広くない為に、待合室にそれ程広いスペースを割く事ができないのである。更には立地条件もあまり良いとは言えず、かかりつけの患者数もそれほど多くはなかったりする。それ以前に、周囲の住民すらもこの病院の存在を知らぬ者が多いのではないだろうか。

 それ程までに知名度が低く、そしてとても小さな町医者。けれどもこの病院を運営する『先生』の腕は確かであり、評判も良好である。

 

 そんな、知る人ぞ知る医療施設。それがここだ。

 

「……あら?」

 

 今時珍しいガラス製の手動ドアが開けられて、患者と思しき一人の女性が足を踏み入れてきた。

 見覚えのない姿。かかりつけの患者ではなさそうだ。真っ直ぐに歩み寄って来る女性の姿を確認して、受付席に座っていた彼女はいつも通りに対応する。

 

「こんにちは。ご予約は……されてませんよね?」

 

 今日はこれ以後の予約は入っていなかったはず。予約表を確認しながらも彼女はそう尋ねてみるが、その返事が返って来る事はなかった。

 チラリと女性を一瞥してみる。フードを深く被っているため表情を伺う事は出来ないが、なぜだかジッとこちらの様子を伺われてるような気配を感じる。視線を向けるだけではなくてせめて相槌の一つでも打って欲しい所だが、そんな事をいちいち指摘していてはキリがない。臆せず彼女は質問を変える。

 

「診察券はお持ちですか? お持ちでないのなら、新規で発行してもらう必要がありますが」

 

 女性は何も喋らない。

 相槌を打つ事もせず、ただジッとこちらに視線を向け続けている。

 

「それとも再発行をご希望ですか? でしたら、身分証の提出を……」

「……いつまでこんな事を続けるつもりですか?」

 

 女性はようやく口を開く。しかし彼女が口にするのは、どの質問の答えにもなっていない言葉だった。

 

「いつまで白を切るつもりですか?」

 

 フードを被っていても分かる。鋭い眼光を彼女へと向け、女性は睥睨している。

 

「かくれんぼは、もう終わりです」

 

 穏便な雰囲気ではない。この女性は、少なくとも診察を受けに来た患者などでは決してない。鋭く彼女を睨みつけ、言葉をぶつけ続けて。

 ただ、強く、ひたむきに。

 

「……白を切るだとか、かくれんぼだとか。面白い事を言いますね」

「煙に巻こうとしても無駄ですよ、『先生』」

 

 女性はおもむろにフードの掴む。そしてゆっくりと、そのフード脱ぎ去って。

 

「いや、それとも……」

 

 強引に纏められた髪を解き、しっかりとその目で“彼女”を見据えて。

 

 魂魄妖夢は、核心に迫る。

 

「『娘々』、とでもお呼びしましょうか?」

 

 沈黙。耳が痛くなるような静寂が、二人の間に訪れる。

 急に図星を突かれたなどという不測の事態に直面した時、頭の中が真っ白になる事がある。真っ白になる、というのはあくまで比喩で、要は瞬間的に何も考えられなくなるという事だ。何も考えられなくなれば、当然言葉を発する事も出来なくなる。云わばパニック状態の一種である。

 

 けれども、今回の沈黙はそのような状況とは違う。“彼女”はパニック状態に陥った訳でも、だからと言って気の利いた言い訳を考え始めた訳でもない。

 その証拠に、“彼女”は。

 

「……ふっ」

 

 実に愉快適悦な様子で、

 

「うふっ、うふふふ……」

 

 笑い声を上げた後。

 

「あらあら」

 

 まるで初めからこの状況を想定していたかのように。

 “彼女”は。

 

 (かく)青娥(せいが)という名の“彼女”は、言い放った。

 

「辿り着いてしまったのですね?」




たまには週に2回更新しても許されると思って。
因みに次回の更新は4/30の16:00頃を予定しております。

ところで、蓮子達のいる世界は2150年代であるという説もあるようですが、本作は2090年~2100年くらいを想定しています。21世紀末くらいの世界観なんだな、と思って頂ければ。


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