桜花妖々録   作:秋風とも

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第35話「想いを告げる夜」

 

 その少女は、一体いつから彼の事を好きになっていたのだろうか。

 

 一目惚れではなかったと思う。確かに最初は優しくて親切な人だなという認識だったが、そこから恋愛感情に発展するような事はなかったはずだ。

 幾らこれまで恋を知らぬ人生を送ってきたと言えど、流石にそう簡単に心が揺れ動いてしまうほど御しやすい性格ではないと思う。確かに直接的な褒め言葉や意味深な言動には弱いし、羞恥しやすい性格であるとは自覚している。

 

 それでも、自分の気持ちに関しては慎重に噛み砕いて理解しているつもりだ。誤魔化せぬ程に恥ずかしがり屋で、ちょっぴり思い込みが激しいような一面はあるけれど。それでも、この想いだけは早々に答えを出してはいけない事だと思うから。

 だから彼女は考えた。ずっと彼と共に行動してきて、ずっと彼に助けられてきて。優しくて親切な青年という印象が、明確な好意に変化したのは――。

 

(やっぱり、あの日かな……)

 

 クリスマスの夜。強い無力感に打ちひしがれていた妖夢を、彼は支えようとしてくれた。「躓きそうになったとしても、俺が後ろから支えてやる。だからお前は前だけ見てろ」、と。彼はそう言ってくれた。

 多分、あの日。あの夜から、彼女はこの想いを抱き始めたのだと思う。

 

(でも……)

 

 だからと言って、この想いを彼に伝えるべきなのだろうか。

 蓮子は言っていた。きっと上手くいくと思う、と。けれどもそうは言われても、簡単に実行に移す事などできやしない。そう簡単に、この想いを言葉にして伝えるなんてできやしない。

 

 だって。

 どうしようもなく、怖いのだ。

 

 空回りしたらどうしよう。

 否定されたらどうしよう。

 無理矢理踏み込もうとして、この関係が崩れてしまって。

 彼に――。進一に、嫌われてしまったらどうしよう。

 

『進一君ってね、結構臆病な人なのよ』

 

 蓮子の言葉が頭の中で反響する。

 彼女から見た岡崎進一という青年の人物像。蓮子は何か確信を持って、彼の事をそう理解しているようだったのだけれど。

 

(臆病なのは、私の方だよ……)

 

 ぴゅうっと、ひんやりとした風が吹く。サラサラと前髪を揺らし、冷たい空気が肌を撫でて。三月上旬とは言え、思わず身震いしてしまうような気候なのだけれども。

 魂魄妖夢は、ただそこに佇んでいた。

 

「こんな所で何やってるんだ?」

 

 聞き馴染んだ声が流れ込んできて、妖夢は反射的に顔を上げる。振り返ると、そこにいたのは一人の青年。

 

「何だか前にも似たような事があったよな」

「進一さん……」

 

 夜。日もすっかり西の地平線へと沈み、街中には壮観な夜景が現れ始める時間帯である。

 あれから根気強く都市伝説を追い続け、幻想郷への手掛かりの為に結界の解れを探し続けて。けれども結局進展は得られず、調査はまた明日に持ち越しになっていた。

 

 ドッペルゲンガーだとか、テケテケだとか、紫の鏡だとか。多種多様な都市伝説を色々と追ってみたものの、結局は他愛もない噂話や、明白な眉唾物という結論に収束してしまった。当然ながら幻想郷への手掛かりは疎か、結界の解れすらも見つけられていない。中々上手くいかないものである。

 

 調査はまた明日、という事で後は夕食を食べてから蓮子の実家に戻る予定だったのだが――。その帰り道、妖夢は少し無理を言って一人だけで寄り道をさせてもらっていた。

 昨日、東京観光をしている際にたまたま見つけた公園である。高台から街並みを一望できる公園で、この時間帯なら東京独特の壮観な夜景を眺める事も出来る。それでも意外と人通りは少なく、思いの他静かで落ち着いた印象を受ける公園だった。実は穴場なのだろうか。

 

 考えたい事があるから、少しだけ一人にして欲しい。

 蓮子達にそう伝えて帰り道にここまで足を運んだ妖夢だったが、どうやら進一が心配して追いかけてきてくれたらしい。夜景へと視線を戻しつつも、妖夢はあえて尋ねてみる。

 

「……何か、用ですか?」

「いや。お前の帰りが遅かったから、気になってちょっと様子を見に来ただけだ。蓮子達も心配しているぞ」

「……そうですか。すいません」

 

 この公園へと足を運んでから、既に小一時間ほど経過しただろうか。幾ら一声かけてきたとは言え、流石にあまりにも長時間帰ってこないと心配をかけてしまう。

 少し、悩み過ぎただろうか。

 

「というか、よく私がここにいるって分かりましたね」

「ああ。お前、東京に関しては土地勘ないだろうからな。そう考えると、昨日の観光で足を運んだ場所のどこかにいると思ったんだよ」

 

 そう口にしつつも、進一は歩み寄って来る。

 

「それに妖夢って、何か考え事があると一人で夜風に当たりに行く癖があるよな。だからここしかないって思った」

「……凄いですね。私の行動はお見通しという事ですか」

 

 流石は進一だ。伊達に四ヶ月間、妖夢と共に行動していない。

 歩み寄ってきた進一が、妖夢と共に夜景を眺める。スカイタワーの展望デッキ程ではないが、この高台から眺める景観も思わず息を飲む美しさだ。それこそ、いつまでも見ていても飽きがこないくらいに。

 

「進一さんって、東京に来たのはこれが始めてじゃないんですか? 随分と慣れているみたいでしたけど」

「……まぁ、一応な。子供の頃は、父さんの仕事の都合で引越しを繰り返してた時期があったんだよ。それで、東京で生活していた事もあった。本当に短い期間だったけど」

「そうだったんですか」

「ああ。今は京都で落ち着いてるけどな」

 

 他愛もないやり取りを交わす。けれどもあまり長続きせず、会話はすぐに途切れてしまった。

 何とも言えぬ気まずい雰囲気の沈黙が、二人の間を支配する。すぐに居た堪れなくなってきて妖夢は何とか言葉を探すが、結局は俯くだけに終わってしまう。

 

「…………」

 

 やっぱり気まずい。何とか言葉を紡がなければと思うのだけれど、しかしまるで声に出来ない。ついさっきまで彼の事ばかり考えていて、この気持ちにどう踏ん切りをつけるべきなのか迷い続けていて。結論が出ないまま、こうして再び彼と対面する事になっているのである。

 

(おかしいな……)

 

 つい昨日まで普通に話せていたはずなのに、今はまともに彼の顔を見る事すら出来ない。気がついたら深読みばかりしてしまって、一つ行動をするだけでも多くの時間を要してしまう。

 まったく。本当に臆病で、あまりにも優柔不断じゃないか。

 

 にも関わらず。こんな気持ちを、抱いてしまうなんて。

 

「何か、悩み事でもあるのか?」

 

 先に沈黙を破ったのは進一だった。

 相変わらず夜景へと視線を向けたまま、進一がそう訪ねてくる。そんな彼を恐る恐る一瞥した後、妖夢は息を飲み込んで。

 

「別に、私は……」

「……前にも言っただろ? 俺の事は存分に利用してくれて構わない。話して楽になる事なら、話してしまえばいい」

「…………っ」

「それとも、俺には話せない事なのか?」

「そ、それは……」

 

 そう簡単に話せるのなら、妖夢はここまで苦悩していない。寧ろ彼に伝えられないから、妖夢は悩んでいるのである。

 

 ずっと胸の内に秘めてきた想い。自分自信に嘘をつき、誤魔化して、抑え込もうとしていたのだけれど。やっぱり、これ以上は無理だ。

 結局嘘なんてつけやしない。結局自分すらも騙せない。膨れ上がるこの想いはやがて抑えられなくなり、目を逸らす事も出来なくなる。否応なしに、突きつけられる。胸中を支配する。強く実感する。そして、納得せざるを得なくなる。

 

 でも。言葉として発する事が、できない。

 

「わた、しは……」

 

 本当は伝えたい。そして彼に受け止めてもらいたい。

 だけど、だけど。

 だけど――。

 

「そうだな。それじゃあ、話を変えよう」

「えっ……?」

 

 不意に進一がそんな事を口にした。

 あまりにも唐突な話題の転換。困惑顔を浮かべつつも妖夢は視線を向けるが、それでも構わず進一は続ける。

 

「始めて会った日の事、覚えているか?」

「え、ええ……」

「そうか。何だか懐かしいな。確か、丁度このくらいの時間だったよな。大学帰りにコンビニに寄って、その後にあの公園を突っ切って帰ろうとして……。そこで、お前と出会ったんだ」

「……そうでしたね」

 

 視線を戻しつつも、妖夢は相槌を打つ。

 言葉を見失い、俯いて言い淀んでしまった妖夢。そんな彼女を目の当たりにして、進一なりに気を遣ってくれたのだろう。こうして別の話題を提供する事で、妖夢の気を紛らわそうとしてくれている。気を遣わせてしまってちょっぴり負い目を感じる妖夢だったが、しかしそれでも流されるがままになる事しか出来ない。

 

 ここで無理矢理話題を戻そうものなら、進一の好意を無下にする事となる。

 そう心の中で言い訳をしつつも、妖夢は話を合わせる事にした。

 

「あの時は、本当にありがとうございました。見ず知らずの、それも刃物なんて持ち歩いている私なんかに……声を、かけて頂いて……」

「ああ。あの時は流石にビビったぞ。模擬刀かと思ったら、まさか真剣なんだもんなぁ」

「す、すいません……」

 

 今思い出すと死ぬほど恥ずかしい。あの頃はこちらの世界の常識を知らなかったとは言え、まさかそこまで奇怪な目で見られるような格好をしていたのだろうか。

 あの時に出会ったのが進一で良かったと、改めて実感する瞬間である。

 

「しかも人間じゃなくて、半分幽霊だったしな。まさに俺の常識が打ち破られた瞬間だったぞ」

「し、進一さんこそ、よくそう簡単に受け入れる事ができましたよね……? たまたま『能力』が作用してしまったとはいえ、その……。半分幽霊などという、奇妙な体質の私の事を」

「……そうだな。我ながら自分の適応能力に脱帽だ」

 

 苦笑しつつもそう語る進一。今日の彼は、何だかいつもと違う雰囲気だ。

 何と言うか。いつも以上に、調子づいた雰囲気と言うか。

 

「き、今日は何だか妙に軽口ですね。ひょっとして、私の事をからかっているんですか?」

「……いや」

 

 しかし。

 不意に、彼は妖夢と視線を合わせる。

 

「お前だから、受け入れられたんだと思うぞ」

「えっ……?」

 

 瞬間。彼が何の事を言っているのか、妖夢はよく理解出来なかった。

 

 お前だから、受け入れられた。

 一体彼は、何を意図してそんな事を口にしたのだろう。何を思って、そんな事を伝えたのだろう。

 

 いつも以上に真剣な面持ちで、いつも以上に真っ直ぐな瞳で。

 どうして彼は、目を合わせてくれるのだろう。

 

「お前、物凄く生真面目な奴だもんな。あの時だって、凄く真剣に説明してくれたじゃないか。だから俺もすんなり受け入れる事ができたんだ」

「べ、別に、私は……。進一さんの方こそ、頭が良くて理解も早くて……、聞き上手ですし……。だから」

「ははっ。お前は相変わらず謙虚というか、控え目だよな」

「そ、そういう性格なんですっ」

 

 談笑。緊張感が程良く解けてゆき、固まっていた身体が解れてゆく。心にずっしりとのしかかっていた重しがちょっぴり軽くなり、心の中のモヤモヤが幾分が晴れてきた。

 自然と、気づかぬ内に。進一が、妖夢の気持ちを楽にしてくれる。

 

「それからも色々とあったよな。蓮子達を紹介して、蓮台野の調査に行って。お前、蓮子に泣かされたんだよな」

「あ、あれは、蓮子さんが悪いですっ! あの暗闇の中、急に背後に立たれたら誰だって驚きますよ……」

「確かに、違いない」

 

 進一との思い出が。彼と過ごした日々の記憶が。

 ポツリポツリと、蘇ってくる。

 

「そうそう。妖夢の日用品を買いに行ったのはその次の日だったか。あの時は蓮子達も付き合ってくれて助かったぞ」

「そうですね。進一さんじゃ、多分女の子の日用品なんて揃えられませんでしたからね」

「そ、そうだな……」

 

 今となっては懐かしい。でも決して色褪せない、大切な日々。

 

「こっちの世界の博麗神社にも行ったよな。まぁ、あれが本当に博麗神社だったのかは微妙な所だけど」

「そう言えば、あの時に持ち帰った御札はどうなったんでしょう? 夢美さん、何か分かったのでしょうか?」

「……どうなんだろうな。帰ったらそろそろ聞いてみるか」

 

 彼はいつだって妖夢の傍にいてくれて。彼はいつだって妖夢の力になろうとしてくれた。

 蓮子やメリー。秘封倶楽部のメンバーと一緒に、真摯になって話を聞いてくれて。まるで自分の事みたいに、真剣に幻想郷を探そうとしてくれて。結局、未だにこれといった手掛かりは掴めていないのだけれど。

 それでも、そんな好意が妖夢は嬉しかった。自分の為にここまで必死になってくれる人の存在が、妖夢には温かかった。

 

 だからあの時。

 

「クリスマスイブの時は、本当に心配しましたよ。メリーさんから様子が変だったと聞いて、それで……」

「……そうだな。すまん、心配かけて」

 

 助けなければと、本気で思った。

 だから妖夢は剣を振るって、でも結局負けてしまって。それでも平静を保とうとして、傷心を隠し通そうとして。無理矢理にでも、意固地になっていたのだけれど。

 それでも、進一は。

 

「あの時。一人で抱え込もうとしていた私を、進一さんは優しく励ましてくれたんですよね」

「……ああ」

「進一さんのお陰で、私は立ち上がる事が出来ました。それからも進一さんは、私を支えようとしてくれて……」

 

 何だか、思い返してみると。

 

「私、進一さんに助けられてばかりだなぁ……」

 

 そうだ。進一は、いつだって妖夢を助けようとしてくれている。相手はあくまで赤の他人で、そもそもこちらの世界の住民ではなくて。しかも半人半霊などいう、半端な存在であるのにも関わらず。

 彼はそんな事など気にも留めずに、妖夢を支えようとしてくれていた。

 

 一方的に助けられてばかりで、その恩だって殆んど返す事が出来ていない。進一からは沢山のものを貰ったのに、自分は受け取ってばかりじゃないか。クリスマスイブの時だって、結局は失敗してしまって。今回だって、彼に余計な心配をかけてしまって。

 本当に、進一には迷惑をかけてばかりだ。

 それなのに。あまつさえ、想いを受け止めて欲しいなど。

 

 そんな、自分勝手な事――。

 

「俺だって、妖夢に助けられてばかりだ」

「……、えっ?」

 

 そんな中。不意に進一から投げかけられたのは、思いもよらなかった言葉。

 きまりが悪そうに微笑して、でも和ましげに妖夢を見つめて。彼は続ける。

 

「妖夢。お前だっていつも、誰かの為に必死になってくれていたじゃないか。クリスマスイブの時だって、お前は俺を助けようとしてくれた。メリーが倒れた時だって、お前は必死になって助ける方法を模索してくれた」

「そ、それは……。当然の事を、したまでで……」

「あぁ……。あと細かい所だけど、お前は家事炊事も積極的に担当してくれたよな。お前の作る料理、旨いからつい食べ過ぎちまうんだよな」

「え、えっと……。私……」

 

 進一が話してくれるのは、どれもこれも他愛もない事ばかりだ。本当に、人として当然の事をしたに過ぎない。そんな大層な事を成し遂げたつもりはないし、だからと言って誇張するつもりだって微塵もない。

 つまるところ、彼女は。

 

「……釣り合いませんよ」

 

 幾ら行為を並べた所で。

 

「進一さんがしてくれた事に比べたら、私なんて全然……」

 

 隣に立つ資格なんて、ない。

 結局の所、自分は中途半端なのだ。何をやっても半端に終わり、何を始めても半人前で。幾ら必死にもがいても、恩を半分しか返せない。

 半人半霊の半人前。優柔不断な半端者。

 

 それなのに。

 

「そんな事はないさ」

 

 岡崎進一は、妖夢から目を離さない。

 

「俺は、お前に救われたんだ」

 

 再び風が吹いた。

 身体をジワジワと冷やしてゆくような、そんな冷たい風。妖夢と進一の髪を揃ってさわさわと揺らし、風は肌を撫でる。公園の木々の葉を擦れあわせてカサカサと音を立て、風は眼下の街並みへと流れるように降りてゆく。

 壮観な街並みが作り出す眩い夜景が、二人を照らしていた。

 

「なぁ、妖夢。お前はさっき聞いてきたよな。どうして助けようとしてくれるのか、って」

 

 街並みから照らされる眩い光と、空から優しく降り注ぐ星と月の光。

 二つの光に包まれて、二人の視線はぶつかり続ける。

 

「どうして助けようと思ったのか。どうしてここまで力を貸したいと思えるのか。自分の心と向き合って、自分の想いを見返して。やっと分かったんだ」

 

 一瞬だけ俯きかけるが、けれども彼はすぐに顔を上げる。

 一点の曇りもない、真っ直ぐな瞳を向けて。しっかりと妖夢を見据えてくれる。

 

「どうして、お前を助けようとするのか」

 

 岡崎進一は。

 

「それは――」

 

 凛と。

 

「妖夢。お前に惚れているからだ」

 

 瞬間。音が消え、時が止まったかのような感覚に襲われた。

 

 心臓が大きく跳ね上がり、妖夢の瞳が揺れる。

 彼が。目の前の青年が、口にした言葉。その意味を理解するのに多くの時間を要してしまって、その間何も喋れなくなって。ただ、胸中から湧き上がる激情だけは、しっかりと認識する事が出来ていて。

 妖夢はぎゅっと口をつぐむ。力強く拳を握って、息を詰まらせて俯いて。

 

 それでも何とか口を開き、彼女は声を引っ張り出す。

 

「どう、して……?」

「きっかけは些細な事だった」

 

 間髪入れずに、進一は返答してくれる。

 

「長い間妖夢と一緒にいて、ずっとお前の故郷への手掛かりを探していて。そんな中、いつだって妖夢は俺に寄り添ってくれていたよな」

「……っ」

「自分の事でいっぱいいっぱいであるはずなのに、それでもお前は俺の事を想っていてくれていた。……いや、別に俺に限った話じゃないか。蓮子にも、メリーにも、姉さん達にだってそうだ。お前はいつだって、誰かの力になる為に努力していたんだろ?」

「……。私は……」

「そんなお前の姿に、俺は惚れたんだ」

 

 進一は言葉を紡ぎ続けてくれる。

 優しげに、けれども揺るぎ無く。しっかりと、その想いを口にする。

 

「そしてクリスマスイブ。蓮子達から俺の『能力』について聞いたお前は、形振り構わず俺を助けようとしてくれた。……俺なんかの為に、必死になってくれた」

 

 進一から向けられる想いが、妖夢の心の中へと響く。

 

「『能力』に関してだってそうだ。お前はあの時、俺を支えると言ってくれた」

 

 彼女が胸に抱く想いが、膨れ上がってゆく。

 

「お前の真っ直ぐな優しさに、俺は救われたんだ」

 

 想いが、満ちてゆく。

 

「だから」

 

 想いが、零れ落ちてゆく。

 

「お前の事が好きになった」

 

 頭の中はぐちゃぐちゃだった。でも、胸の中は温かかった。

 膨れ上がった激情が妖夢を支配する。様々な想いが彼女の中を駆け巡る。そんな高鳴りを誤魔化す為に、妖夢は無理矢理言葉を繋ぐ。

 

「私なんかで、良いんですか……?」

「ああ。お前じゃなきゃ駄目なんだ」

「妹のような存在、じゃなかったんですか……?」

「……そうだな。多分、俺は逃げてたんだ」

 

 進一の“想い”を聞いている内に、妖夢の“想い”も固まってきて。

 

「誰かを好きになるという好意そのものが、怖かったんだと思う。でも、俺はもう迷わない」

 

 少女の心の奥底に、はっきりと存在する一つの想いは。

 

「だからお前の気持ちも聞かせてくれ」

 

 妖夢は。

 

「お前は……。俺の事を、どう思っている?」

 

 岡崎進一という青年の事を、どう思っているのか。

 その答えは、とうの昔に決まっている。とっくの昔に気づいている。それでも彼女は逃げ続け、想いを胸にしまいこもうとしていたのだけれど。一人で勝手に抱え込んで、それでも無理矢理目を逸らそうとしていたのだけれど。

 

 彼女だって――。妖夢だって。

 もう、迷ったりなんかしない。

 

 だから、彼女は。

 

「…………っ」

 

 ふわりと、彼の胸に飛び込んだ。

 

「よ、妖夢……?」

「…………」

 

 小柄な1人の少女の身体は、すっぽりと彼に収まっていた。

 彼の体温を肌で感じる。彼の鼓動が伝わってくる。とくん、とくん、と。ちょっぴり早いその鼓動が、何だか少し心地いい。彼の温もりを感じると、何だか少し安心する。彼という存在を、しっかりと認識出来ているような気がして。進一という青年を、独り占めに出来ているような気がして。

 優越感、とでも言うべきだろうか。

 

 何だか。

 凄く、嬉しい。

 

「私、始めて男の人に抱きついたんですけど……」

 

 顔を上げつつも、妖夢は伝える。

 

「進一さんって、意外と華奢だったんですね」

「ほ、放っておいてくれ……」

 

 当然、女である妖夢と比べると骨格や体付きには違いがある。しかし進一はそこまで積極的に体を動かすような体育会系ではないし、普段から剣術鍛錬をしている妖夢からしてみれば、幾分か華奢に思えてしまうのである。まぁ、妖夢も妖夢で剣を振るっている割に細身の体格をしているのだけれども。

 

 悪戯っぽく妖夢に体格を指摘され、進一はバツが悪そうに視線を逸らす。そんな彼の様子を見て妖夢はくすりと笑うと、一歩身を引いた。

 見上げるような形で、妖夢は進一を見つめる。毅然とした面持ちで、彼の名前を口にする。

 

「進一さん」

 

 進一の視線が、再び妖夢へと向けられる。

 

「私も……」

 

 彼女もまた、しっかりと進一の目を見据えて。

 しっかりと、自分の気持ちを噛み締めて。

 

「私もっ」

 

 強く。強く、響かせるように。

 彼女は、想いを告げた。

 

「進一さんの事が、好きです」

 

 屈託のない笑顔を浮かべる。鈴を転がすような声で、抱いた気持ちを素直に伝える。瑠璃のように煌びやかな瞳が、彼を捉えて離さない。

 一人の少女が抱いた想いは、淡くて脆いものだったのだけれど。心の奥底に仕舞いこんで、そのまま消え入ってしまうような。そんな儚いものだったのだけれど。

 

 それでも、彼女の気持ちはもう揺るがない。泡沫のような彼女の恋心は、確かに本物だ。

 魂魄妖夢は。

 岡崎進一の事が。

 

「大好きです」

 

 そっと、妖夢の身体が引き寄せられる。今度は進一の方から抱き寄せてくれたのだと、理解するのにあまり時間は要さなかった。

 妖夢の身体が再び温もりに包まれる。さっきは意外と華奢だなんて言ってしまったけれど、こうして抱き寄せられると、意外とがっちりとした体格からやっぱり男の人なんだなぁと実感できる。

 

 妖夢もまた、ぎゅっと彼の上着を握る。

 

「私……。ずっと前から、進一さんの事が好きだったんです」

「ああ……」

「でも……。やっぱり、私じゃ駄目なんじゃないかって……。私なんかじゃ、隣に立つ資格すらないんじゃないかって……。そう思うと、怖くて……」

「……っ。ああ……」

 

 背中に回された進一の腕に、優しく力が込められる。

 心地よく、抱きしめられる。

 

「……すまない」

「えっ……?」

「気づいて、やれなくて……すまない」

「進一さん……」

 

 少しだけ、彼の声は震えていた。

 罪悪感のようなものが、ひしひしと彼から感じられる。ずっと見ていたはずなのに。一番傍にいたはずなのに。それなのに妖夢の気持ちに気づかなくて、必要以上に踏み込もうとしなくて。自分が抱く想いからさえも、無意識の内に目を逸らしてしまっていて。

 だからこその、謝罪なのだろう。

 

「これじゃあ……鈍感なんて言われても、仕方ないよな」

 

 進一は薄く自嘲する。

 あまりにも臆病で、あまりにも鈍くて。自らが抱いていた気持ちにさえも、曲がった解釈をしてしまって。妖夢の抱く気持ちにも、気づいてやる事ができなくて。

 それ故に、彼は責めているのだ。他でもない、自分自身を。

 

「……謝らないで下さい」

 

 だからこそ。妖夢は優しげに声をかける。

 

「私だって……」

 

 進一は悪くない。そう言葉にするのは簡単である。

 

 だけれども、それでは駄目だ。

 丸め込むように罪悪感を払拭して、一方的に責任を移して。進一は悪くない、悪いのは自分の方だと。そんな綺麗事を並べた所で、きっと彼は納得しない。それどころか彼はますます苦悩してしまうだろう。自分を責めて、困窮して。やがて、彼の心は磨り減ってしまうだろう。

 それならば。

 

「私だって、同罪です」

 

 罪悪感を払拭させるのではなく。

 

「私だって……。進一さんの本当の気持ちに、気づく事が出来ていませんでした。それどこか……自分の気持ちに嘘をついて、そのまま目を逸らそうとしていました」

 

 自分の罪を認めた上で。

 

「だから」

 

 彼の罪とも向き合って。

 

「お互い様です」

 

 共に分かち合おう。

 それが、“隣に立つ”という事だと思うから。

 

 二人は少しだけ身体を離す。見上げると、進一は意表を突かれたようにきょとんとした表情を浮かべていた。余程妖夢の言葉が予想外だったのか、暫しの沈黙が進一に訪れる事となる。糸を張ったような、けれども居心地が良い静寂が、二人の間を支配する。

 

 やがて。その糸を緩めるように、彼は破顔した。

 

「まったく……」

 

 とても穏やかな表情だった。

 

「お前には敵わないな」

「それはこちらの台詞です」

 

 二人で向き合って互いに笑顔を浮かべる。

 進一の笑顔を見ると、胸の奥がポカポカとする。進一の姿を認識すると、心が満たされてゆく。進一に意識を向けられると、何だか凄く嬉しくなる。

 ああ。自分は、本当に。この人の事が好きなんだなと、強く実感させられた。

 

「……好きだ。妖夢」

 

 進一の声が耳に届く。彼の想いが、再び妖夢の心に響く。

 彼女の想いが膨れ上がる。言葉では言い表せない程に、強く、強く。

 

 それでも伝えなければならない。これ以上、嘘をついて抱え込む必要なんてない。捻くれる必要なんてない。目を逸らす必要なんてない。逃げ出す必要なんてない。

 身を縮こませて震えていた、あの頃の臆病者とはもうおさらばだ。

 だから彼女は口を開く。想いを言葉に、そして言葉を声にして。

 

 短く、けれども確実に。

 彼女は、伝える。

 

「……はい。私もです」

 

 それだけで十分だった。それ以上の言葉は、必要なかった。

 彼女の想いと彼の想いは、お互いに成就して。混ざりあって、溶け合って。やがて一つになった。

 

 兄妹という勘違いから、恋人という真実へ。

 

 まるで確かめ合うかのように。

 二人は、唇を重ねた。

 

 抱きついた時とはまた違う、温かい心地。唇から伝わってくる柔らかい感覚。胸の中に満たされてゆく充実感。それに比例するかのように頬が熱くなり、心臓の鼓動がますます早くなってゆくのだけれど。ひょっとして、彼にも伝わってしまっているのだろうか。

 確かにここまで密着していれば、それも致し方ないだろう。けれどもだからと言って、それで不快感を覚える事など絶対に有り得ない。

 寧ろ。この胸の高鳴りも、頬に帯びる熱も、そしてこの気持ちも。

 全部。全部、彼に伝わっているのだとすれば。

 とても嬉しいと、そう思う。

 

(……。進一さん……)

 

 これが幸せというヤツなのだろうか。この充実感が、満足感が、充足感が。幸福、というヤツなのだろうか。

 だとすれば。やっぱり、今はとても幸せだ。

 

 願わくば、この幸せがいつまでも続けばいいのに、と。

 そう、強く思った。


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