桜花妖々録   作:秋風とも

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第34話「ひび割れの大地と都市伝説」

 

『随分と酷い顔をしていますね』

 

 その出会いは、時雨れる夕暮れ時だっただろうか。

 幻想郷の一角に、人間の里と呼ばれる地区がある。文字通り人間が生活基盤を築いている里で、当然ながら住民の大半が人間である。けれども妖怪がまったくいないのかと言われるとそういう訳でもなく、中には妖怪も利用する店や、そもそも人間に紛れて共に生活する妖怪だっている。

 確かに妖怪は強大な存在だが、見境なく人間に襲いかかるという訳ではない。妖怪の存在に必要不可欠なのは人間の認識。つまり人間がいなければ妖怪も存在できなくなってしまう為、必然的に共存関係は必須になってくる。態々人間の数を極端に減らして、自らの首を絞めようとする妖怪などそういないのである。

 

 そんな人間の安息地とも言える里。足を踏み入れなければ気づかぬような路地の奥に、膝を抱えて縮こまっている一人の少女がいる。

 鴉羽色の帽子。フリルがあしらわれた上着。花の柄が描かれたスカート。一見すると幼い人間のようにも思えるが、しかし管が伸びる奇怪な瞳が彼女が人外であると物語っていた。

 雨に打たれる事も厭わずに俯くその少女は、まるで深淵に堕ちてしまったかのような表情を浮かべている。濁った瞳は全くと言って良いほど前を捉える事が出来ておらず、つぐんだ口元は言葉すらも忘れてしまっているかのようだ。

 

 絶望。その二文字がここまで似合う表情が、他にあるだろうか。

 

『貴方が古明地こいしさんですね?』

 

 名前を確認すると、ようやく彼女は顔を上げてくれた。チラリと視線を合わせてくれるが、けれどもすぐに目を逸らして、

 

『……だったら何なの?』

 

 素っ気ない返答。しかし否定はしないと言う事は、彼女が古明地こいしであると間違いなのだろう。

 こちらから腰を低く落とし、彼女と視線を合わせようとしてみる。だけれど彼女は顔を背けたままで、再び視線を合わせてくれる事はなかった。

 拒絶感。彼女は心に壁を作り、外部からの接触を一方的に拒んでいる。

 

『噂は本当だったのですね。まさか覚妖怪である貴方が、人間の里(こんなところ)にいるなんて』

『……私がどこで何をしようと、貴方には関係ないでしょ』

 

 吐き捨てるように、彼女は言う。

 お前の事なんか興味ない。さっさとあっちに言ってくれ、と。暗にそう示しているかのように、その少女は俯いていた。

 

『しかし、驚きました。覚妖怪でありながら読心を捨て、変わりに無意識への干渉という強大な能力を得た妖怪であると聞いていたのですが……。意外と簡単に見つける事ができましたね』

『…………』

『それも姿形は想像以上に幼い。まるで幼い子供のようじゃないですか。そんな貴方が、まさか……』

『ねぇ、本当に何なの?』

 

 多少の苛立ちが篭った声調だった。

 

『一体何が目的なの?』

 

 濁った瞳を、こちらに向けて。

 

『ただからかいに来たんだったら、あっちに行って。私の事は放っておいてよ。私はもう、誰とも関わりたくない……』

 

 成る程。これは思った以上に重症だなと、そう思った。

 彼女が何を見て、何を思い、そして今どう感じているのか。それはある程度予想していたつもりだったのだけれども、まさかこれ程とは。

 彼女は幼い。その容姿相応に、あまりにも。

 それ故に。心に受けている傷も、想像以上に深い。

 

『からかいに来た訳ではありませんよ』

 

 けれども、だからこそ。

 

『私は貴方の力を借りに来ました』

 

 手を差し伸ばさなければならないと、そう思った。

 

『お姉さんの事を、助けたいと思いませんか?』

 

 弾かれるように、少女は顔を上げる。驚愕と困惑、そして少なからず警戒を含んだ表情だった。

 いや、寧ろ警戒心が一番大きい。まぁ、当たり前だろう。初対面の相手にいきなりこんな事を言われた所で、そう簡単に信用できる訳がない。知ったような口を聞く見知らぬ女を前にして、怒りさえも覚えているのかも知れない。

 

 だけれども。嘘偽りのない真っ直ぐな瞳を、彼女の視線に合わせると。

 

『助け、られるの……?』

 

 ほんのちょっぴり、心を動かされたような表情を浮かべてくれて。

 

『……ええ。おそらくは』

 

 頷きつつも答えると、少女は視線を下へと向ける。未だに迷いを断ち切れぬ様子で、差し伸ばされたその手をジッと見つめているようだった。

 この人が言っている事は、真実なのだろうか。本当に信用しても良いのだろうか。彼女の中で渦巻いているのは、きっとそんな気持ちだろう。心を閉じて自ら殻に篭ることを選んだ彼女が、慣れない様子で他人の心を理解しようとしている。

 

 それから、実に5分ほど経過した頃だろうか。

 彼女は。古明地こいしは。

 

『……分かった』

 

 差し伸ばされたその手を、そっと握り返して。

 

『私は何をすればいいの?』

 

 少女が見据えるその瞳に。

 少しだけ、光が戻ったような気がした。

 

 

 ***

 

 

 早朝。“この時代”の魂魄妖夢が佇んでいるのは、京都内のとある静かな公園だった。

 

 ぼんやりと目の前にある池を眺めながらも、彼女は一人思考する。考えているのは、当然未だに行方がつかめぬあの幼い少女の事。

 正直、あまりにも迂闊だったと後悔している。勝手に共感した気になって、勝手に理解したつもりになって。その実、自分は何も分かっていなかったのかも知れない。ただこちらから一方的に押し付けるだけ押し付けて、結局の所彼女の内面など見ていない。理解などもしていない。

 これじゃあ、ただの自己満足じゃないか。

 

(私は、結局……)

 

 古明地こいしが行方を眩ませてから、もうかなりの時間が経過してしまっている。あれからお燐と手分けをして何度も街中を捜索してみたものの、これといった手がかりすらも掴めていない状況だった。

 流石の彼女も焦燥感が表面に出始めている。憤りにも似た遣る瀬無さを払拭する為に、彼女はギリっと歯軋りをしつつも拳を握りしめていた。

 

(こいしさん……。一体、どこに……)

 

 火焔猫燐はこう言っていた。寧ろ今のこいしに関しては、貴方の方が詳しいのではないか、と。確かにこちらの世界では殆んど彼女と行動を共にはしていたが、だからと言ってそこまで彼女の内面を詳しく知れたとは思えない。

 この時代の魂魄妖夢は、こいしに信用などされていない。その証拠に、あの子は未だに彼女に対して開いた心を向けてはいなかった。

 

「……ねぇ、そこのあなた。ちょっといいかしら?」

 

 まぁ、仕方がない事だとは思う。彼女はそもそも、根本的には能力を利用する事が目的でこいしに近づいたのである。

 お世辞でも最善とは言い難い対面。そんな出会いを経ている癖に、今更信用して欲しいなどあまりにも虫が良すぎる。

 

「おーい? ちょっと、聞いてる?」

 

 それならこれ以上、どうやって彼女の捜索を再開する? こいしについて何一つ知らない自分は、一体何を手掛かりにして彼女の足取りを追えば良いのだろうか。

 

「こらー? 無視しないでよ」

 

 分からない。古明地こいしという少女の事も、そして自分が何をすれば良いのかも。

 あまりにも無力で、あまりにも役立たず。

 結局の所、彼女は――。

 

「ねぇってば!」

「…………っ!」

 

 瞬間。不意に背後から肩を叩かれて、彼女の思考は打ち切られる。弾かれるように振り向くと、そこにいたのは一人の女性だった。

 腰まで届く赤い髮。ブラウスの上に羽織る赤い赤い上着。丈の長い赤いスカート。そして赤いブーツ。

 真っ赤である。上から下まで、紛う事なき真っ赤な女性である。思わず目を逸らしたくなる程に奇抜なファッションの女性で、チラリと一瞥した程度で忘れられなくなるくらいの印象を植え付けられそうだ。

 

 この人はどうしてこんな格好をしているのだろう。趣味か何かなのだろうか。

 

(……って、そんな事より)

 

 あまりにも特徴的なファッションセンスを前にして若干面食らってしまったが、いつまでも唖然としてはいられない。

 彼女はこちらの世界の住民である。あまり深く関わるのは得策ではない。適当に返事をして、軽くあしらう事にする。

 

「……何ですか?」

「いやね。何だか凄く特徴的な格好をしてるなーと思って、思わず声をかけちゃったのよ。どうしてそんな格好をしているの?」

 

 それを貴方が言うか。

 因みに、今日はいつもの和装ではない。古明地こいしが近くにいない以上、妖夢一人では周囲の意識を捻じ曲げる事ができず、三度笠を被ったあの服装では悪目立ちしてしまうのである。それ故に、こちらの世界の住民から見ても不自然ではない服装に着替えたつもりだったのだが――。

 顔の半分を覆い隠す程にフードを深く被ったこのパーカー姿に、然りげ無く腰に携えた剣。成る程、確かに少し不審な格好とも言えるかも知れない。

 

「貴方の方こそ、随分と奇抜な服装ですね。どうして上から下まで真っ赤なんですか?」

「む? 奇抜とは失礼ね! この私のパーフェクトコーディネートの良さが分からないなんて……。あなた、ひょっとしてファッションに疎いわね?」

「…………」

 

 何だこの人。何だかムカついてきた。ファッションに疎いのは図星なのだけれども。

 

「生憎ですが、私は忙しいんです。用がないのならもう関わらないでくれますか?」

「えー? 忙しいって、ボーッと池を眺めているだけに見えたんだけど」

「……いずれにしても、初対面の相手にいきなり茶々を入れられるのは非常に迷惑です。本当に、用がないのなら……」

「用ならあるわよ。私だって、ただからかう為だけにいきなり声をかけたりなんかしないわ」

 

 肩を窄めつつも、真っ赤な女性はそう語る。

 まったく。本当に何なんだ、この人は。さっきはこの服装を見て思わず声をかえてしまったかようなニュアンスの事を口にしていたじゃないか。それが今度は、何か用があるなどと。

 

(この人……)

 

 チラリと彼女を一瞥する。

 見れば見るほど目が痛くなるようなファッションの女性である。本当に、頭の上から足のつま先まで真っ赤っかで――。

 

(……いや、ちょっと待って)

 

 彼女の顔を見た途端、()()が脳裏に過ぎった。

 この感覚。既視感、とでも言うべきだろうか。この人の顔、どこかで見覚えがあるような気がする。――いや、面影がある、と言った方が正しいだろうか。

 

 赤い髮。赤い瞳。そしてこの顔立ち。

 一体、どこで――。

 

「ねぇ、あなた。何か悩み事でもあるの?」

「……え?」

「何となーく、思い悩んでいるような雰囲気が出てたから」

 

 真っ赤な女性が、突然そんな事を口にする。歩み寄りつつも声をかけてくる彼女の仕草を見た途端、再び奇妙な既視感に襲われた。

 何なんだ、この感覚は。ひょっとして自分は、以前にもこの人に会った事があるのだろうか。

 いや。やっぱりそんな事はないはずだ。そもそもこちらの世界の住民に、知り合いなんているはずもない。

 

 そのはずなのに。

 

「いえ、ちょっと」

「ちょっと?」

「……ちょっと、人を捜してるんです。もう一週間以上も、行方不明でして……」

「……ふぅん。人捜し、ね」

 

 しまった。これは失言だったか。反射的に口を抑えるが、もうあまりにも遅すぎる。

 なぜだ。なぜ自分は、そんな事を口走ってしまったのだろう。あまりにも余計で、あまりにも迂闊で、そしてあまりにも無用心。態々初対面の、かつこちらの世界の住民であるこの女性に、妙な情報を提示してしまうなど。

 

「一週間って……それ本当に大丈夫なの? 警察には言った?」

「いえ、それは……」

「言ってないの!? ……ひょっとして、何か事情があるとか?」

「そ、その……」

 

 真っ赤な女性の一方的な質問攻めを前にして、しどろもどろな返答になってしまう。真っ先に首を横に振ってしまえば良いものを、なぜだか否定する事を躊躇ってしまった。

 一体何だ、この感覚は。まるで自分の中に、自分も知らない意識や記憶が存在するかのような。そんな気味の悪い違和感。こんな感覚、今まで感じた事もなかったはずなのに。

 

「まったく、仕方ないわねぇ……。分かったわ」

「……? 何の事です……?」

 

 そんな困惑など露知らず。真っ赤な女性は嘆息混じりに口を開く。

 

「あなたの人捜し、私も手伝ってあげるわ」

「えっ?」

「その行方不明になってるって人の特徴を教えてくれるかしら? 背丈とか、格好とか……」

「あ、あのっ。ちょっと待って下さい」

 

 さも当然の事であるかのように話を進める真っ赤な女性を見て、半ば強引に割って入って話を区切る。

 困惑。一体この女性は、何を考えてこんな提案をしてきたのだろう。

 

「どうして、貴方は私を手伝おうなどと……」

「どうしてって……。そりゃあ、困ってるみたいだったから?」

「そ、そんな軽率に……」

「その人、行方不明なんでしょ? だったら軽率も何もないじゃない。一刻も早く見つけてあげないと」

「い、いや、ですから……」

「あぁ、それとも私の事を疑ってるとか? 大丈夫よ。警察とかに言ったりなんてしないから」

 

 つまりは単なる善意から? いや、それにしたってあまりにも無警戒すぎる。

 だって相手は、見ず知らずの赤の他人じゃないか。しかも少々不審な格好をしている。そんな人物を相手に、態々そんな提案を投げかけてくるなんて。

 

(何を考えている……?)

 

 口をつぐんで思案する。この女性は、一体何を考えているのか。何が目的で近づいてきたのか。その真意をまるで読む事が出来ない。

 だけれども、不思議と不気味には思わない。あまりにも理解不能な点が多すぎるはずなのに、なぜだか彼女を明確に危険分子として認識する事ができないのである。

 

 覚えた事もない感覚。彼女とは初対面であるはずなのに。

 この奇妙な“安心感”は、一体何なのだろうか。

 

「ふぅ……、そう。やっぱり初対面の相手は信用できないのかしら? まぁ、仕方ないわよね」

 

 やがて痺れを切らした女性が、肩を落としつつもそう口にする。何だか好意を無下にしてしまったようで少し心苦しかったが、だからと言ってここで軽率に情報を提供する訳にはいかない。

 自分は幻想郷の住民だ。それ故に本来、こちらの世界への接触は極力避けるべきなのである。

 

「うーん、でもやっぱり見て見ぬふりをするのは流石に……。そうね。それじゃあ、もしも気が変わって協力が欲しくなったら、また私に会いに来てくれる?」

「えっ……? 気が変わったらって……」

「話を聞いちゃった以上、放っておけないのよ。実は私、こう見えても大学教授でね。普段は研究室にいると思うから。えぇっと……。この大学の、この研究室ね」

 

 そう言うと彼女はメモ用紙にペンでさらさらと何かを書き、それをこちらに押し付けてくる。反射的に受け取ってその内容を確認してみると、都内某所の大学の具体的な住所とその研究室の名前が記されていた。

 彼女は研究室の名前を思わず音読する。

 

「岡、崎……?」

「そう。私の名前は岡崎夢美よ。よろしくね」

「……ッ! それって……!」

 

 岡崎夢美。その名前を認識した途端、彼女は絶句した。

 そうか。そうだったのか。さっきまで感じていた妙な感覚も、この既視感の正体も。全部、これなら納得できる。

 目の前にいるこの人が、岡崎夢美という女性であるのなら。

 

(この人、進一さんの……)

 

 岡崎進一。“あちら”の妖夢に手を貸して、共に幻想郷への手掛かりを捜している青年。彼には大学教授の姉がいると、以前にお燐から聞いた事がある。

 確か、その姉の名前も岡崎夢美だったはず。まさか、彼女がそうだと言うのだろうか。

 

「いやー、実は最近色々と立て込んでてね。家にいるより大学の研究室にいる時間の方が長くなっちゃってるのよ。多分今日も終電ギリギリまで研究室にいる事になるかしら?」

 

 苦笑しつつも、岡崎夢美と名乗った女性がそう語っている。

 成る程、確かに。彼女には進一の面影がある。真っ赤な色の髪の毛も、そしてこの顔立ちも。見れば見るほど、嫌でも彼を彷彿とさせる。

 

 間違いない。岡崎夢美というこの女性は、岡崎進一のお姉さんだ。

 

(ちょっと待て……。それじゃあ……!)

 

 まさか、夢美は気づいているのだろうか。

 目の前にいる不審な女性が、“この時代”の魂魄妖夢であると。そんな確信を持って、彼女は接触してきたのだろうか。

 だとすれば。

 

(このままじゃ、マズイのかも……)

 

 そう思っていたのだが。

 

「とにもかくにも、そういう事だから。何かあったら、その研究室まで来てみてね。それじゃ、私はこの辺で」

「あっ……」

 

 身の危険を覚え始めた妖夢であったが、それ以上の追求が行われる事はなかった。人の良さそうな笑みを浮かべて軽い会釈を交わした後、夢美は踵を返して立ち去ってしまったのだ。

 去ってゆく彼女の後ろ姿を視線で追いながらも、妖夢はあっけらかんとする。強い危機感を覚え始めたのも束の間、まさかここまで何事もなく会話を切り上げられてしまうとは。

 

 妖夢は一人思案する。果たしてあの女性は、こちらの正体に気づいていたのだろうか。それとも本当に何も気づいてなくて、ただの善意で協力しようとしてくれたのだろうか。

 分からない。全くもって、彼女の真意を掴む事ができないのだけれども。

 

(研究室、か……)

 

 古明地こいしの足取りを全く掴めていない今。

 多少の危険は承知でも、少し大胆な行動を取ってみた方が良いのだろうか。

 

 

 ***

 

 

「さーて! いよいよ本格的な倶楽部活動のスタートよ!!」

 

 朝食を食べ終えた後、朝の東京へと繰り出した秘封倶楽部の一向。声高にそう宣言したのは、リーダー格である宇佐見蓮子だった。

 朝っぱらから色々とトラブルはあったが、取り敢えず倶楽部活動の開始である。普段とは異なる東京という環境下だが、しかし基本的な活動内容は京都での時と大差ない。予め収集した都市伝説を手掛かりにして結界の緩みを見つけ出し、それを暴く。そして幻想郷への手掛かりを見つける事が出来れば大当たりという訳だ。

 

「それで? 今回俺達が追う都市伝説ってのは……『ドッペルゲンガー』、だったか?」

「そうそう。別名『自己像幻視』。今、ここ東京の若者の間では密かにホットな話題らしいのよ」

 

 今回の活動で標的にする都市伝説に関しては、事前に少しだけリサーチしてある。あとはこの真偽を確認し、そして結界の境界をメリーが見つけ出すだけだ。

 自己像幻視。一般的にドッペルゲンガーという名称で知られているその現象は、簡単に言えば幻覚のようなものである。自分自身とそっくりそのまま、瓜二つの分身が目の前に出現し、別の意識を持って動き出す事もあるという。死の兆行として捉えられる事もあり、自分のドッペルゲンガーと対面すると死ぬなどという尾ひれがついた噂話も広がっているらしい。

 

 そんな迷信じみた噂話が広がっている辺り、流石はかつての若者の街だ。やはりこの手の噂話は、情報伝達手段が豊富な十代から二十代の若者の方が敏感である。

 

「ホットな話題、か。東京にはオカルト好きが多いのか?」

「その辺は文化の違いかな。でもまぁ、本気で信じ込んでいる人は少ないかもね。便乗して騒いでいる人が殆んどよ」

「……そんなもんか」

 

 若者特有の心理、という事だろうか。特に強い意思がある訳ではなく、周囲の人々に流されて取り敢えず自分も便乗しておく。テンプレートで妥協する傾向が強いという点では、確かに若者らしいと言えるかも知れない。

 

「ところで妖夢ちゃん。ドッペルゲンガーって、幻想郷にはいるのかしら? 一応、怪異の一つだと思うのだけど……」

「ドッペルゲンガー、ですか? えっと……、すいません。私の知り合いには、その種の妖怪はいませんね……」

「そう……」

 

 自らの記憶を探りつつも、妖夢はメリーにそう答える。

 数多くの妖怪が存在する幻想郷と言えど、ドッペルゲンガーの存在だけは妖夢もあまり聞いた事がない。それそのものは存在しているのかも知れないけれど、少なくとも妖夢は遭遇した事がなかった。

 妖怪の賢者や、博麗の巫女ならば何か知っているのだろうか。確認する手段がない以上、今は何とも言えないが。

 

「取り敢えずは聞き込みね。まずは渋谷辺りに行きましょ。やっぱり東京で最も若者が集まっている街と言えば、あそこしかないわ」

「そうね。蓮子の言う通り、まずはもう少し情報収集するべきなのかも」

 

 蓮子の宣言に対し、メリーが頷いてそれに同意する。

 標的をドッペルゲンガーに絞ったのは良いが、今はそれほど多くの情報を持っている訳ではない。地元の住民に直接話を聞き、噂の出所を特定する必要がありそうだ。

 

 そんな蓮子達のやり取りを眺めつつも、妖夢は一人思案する。倶楽部活動の事もそうだが、妖夢にはそれ以外に気になる事が一つあった。

 その要素とは、言わずもがな。

 

「なぁ、妖夢。ちょっと良いか?」

「ひゃ!? は、はい! な、何ですか……?」

 

 あまりにも間が悪いタイミング。不意に声をかけられて、妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまう。バツが悪そうな表情を浮かべているのは、妖夢が今まさに思案していた一人の青年。

 岡崎進一である。

 

「えっと、何て言うか……。その、さっきは悪かったな」

「えっ……?」

「いや、ちゃんと謝れてなかったと思ってな。不可抗力とは言え、下手すればお前を潰しちまう所だった訳だし……」

「あ、あぁ……。その事ですか」

 

 視線を逸らしつつも、か細い声で妖夢は答える。

 

「別に、私は気にしていませんから……」

 

 厳密に言えば嘘である。いや、進一に悪意がなかった事は妖夢にだって分かっているし、今朝のあれは事故であった事も理解している。

 妖夢が気にしているのは、自分の胸中でとめどなく膨れ上がっている煩悩である。

 

(今朝……。蓮子さんが部屋に入ってこなかったら、どうなってたんだろう……)

 

 そこまで考えた所で、妖夢は慌てて頭を振るう。

 これ以上の想像はいけない。このままでは色々と手遅れになってしまうような気がする。

 

(はぁ……。何だか私、ますますおかしくなってきたかも……)

 

 頬を赤らめながらも、妖夢は嘆息する。これも昨晩、蓮子に銭湯で()()()()を言われたのが原因である。

 あれは、メリーが先に風呂から上がった直後の事だったか。

 

 

『妖夢ちゃんはさ。やっぱりちょっと生真面目すぎると思うのよ』

 

 バストアップ体操云々などと言っていたはずだが、彼女が真っ先に口にしたのは予想もしていなかった指摘。一体何の事を言っているのだと、妖夢が首を傾げていると、

 

『変に謙り過ぎてるって言うか何て言うか……。もっとこう、グイグイ攻めても良いと思うのよ』

『は、はあ……』

『そうねぇ……。いっその事陥落させるくらいの勢いで良いんじゃない? それくらいしないとあの鈍感君は気づかないかも……』

『か、陥落って……。一体何の話ですか……?』

 

 攻めるだとか、陥落だとか、一体何の事だろう。ゲームか何かの話だろうか。生憎、妖夢はこちらの世界におけるゲームという娯楽をあまりやった事がないのだが。

 妖夢が疑問符を浮かべていると、当の蓮子は何やらニヤリと不敵な笑みを浮かべている。何だ、その表情は。彼女は一体、何を考えている?

 

 妖夢がそんな奇妙な予感を胸に抱き始めていると、

 

『進一君ってさ。結構カッコイイよね』

『えっ……?』

『ちょっと目付きが悪くて、第一印象はクールな感じだけど……。でも実際に話してみると、意外とお茶目で人が良くて……。凄く優しい人なんだよね。進一君って』

『あ、あの、一体何を……?』

『私はさ。そんな進一君が好きなんだ』

『……えっ!?』

 

 今日一番の驚きだった。

 思わず大きな声を上げて、妖夢は飛び上がりそうになる。途端に動悸が激しくなって、言葉が全く出てこなくなって。これが動揺であると、理解するのにあまり時間は要さなかった。

 そんな妖夢を横目に、蓮子は続ける。

 

『うん。好き、大好き。一緒にいると楽しいし、話していると面白いし。一時的とは言え、秘封倶楽部に加入してくれて本当によかったわ』

『あ、あ、あああのあの……! す、すすす好きと、い、いい言うのはっ!?』

『えっ? そりゃあ、勿論……』

『勿論!?』

『……友達として』

『と、友達!? ……、へ?』

 

 瞬間。途端に妖夢の頭の中が真っ白になる。

 

『と、ともだち……?』

『うん。友達』

『友達……』

 

 してやったりと、そう言わんばかりの表情を蓮子は浮かべていた。

 

『ふふっ。妖夢ちゃん可愛いー』

『なっ……!?』

『大丈夫よ。私は進一君とはただの友達で、恋愛対象とは成りえないから。どう? 安心した?』

『あ、安心って……!』

 

 何だ。一体何だ、彼女は。妖夢をからかっているのだろうか。

 一気に羞恥心が膨れ上がり、妖夢は何も言えずに俯く事しか出来なくなる。頭の上から煙を吹き出しながらも縮こまる今の彼女の様子は、あまりにも初で分かりやす過ぎる反応である。確かにこの様子では、蓮子の悪戯心を刺激してしまっても不思議ではないのかも知れないが。

 

『進一君ってね、結構臆病な人なのよ』

『……? 臆、病……?』

『そう。鈍感と言うよりも臆病。無意識の内に逃げ腰になっているのかな。だから自分の気持ちにさえも、勘違いして解釈してしまう』

 

 宇佐見蓮子は、妖夢をからかうと言うよりも。

 まるで、道を示すかのように。

 

『私だって、進一君とは出会ってまだ精々一年弱くらいだけどね。それでも何となく分かるのよ。これでも意外と人を見る目はあるって自負してるんだから』

 

 優しげな表情を、妖夢に向けてくれて。

 

『そんな私のお墨付きだよ? だからもっと自信を持って』

 

 彼女は確かにこう言った。

 

『きっと上手く行くと思うわよ?』

 

 

(う、上手くいくって……)

 

 思い出しだだけでも熱が吹き出しそうになってくる。それはつまり、脈アリだとでも言いたかったのだろうか。

 自称『人を見る目がある少女』である宇佐見蓮子の助言だったが、それが昨日から気になって気になって仕方がない。その所為で昨晩は全然寝付けなかったし、お陰で今朝は寝坊までしてしまった。そして中々起きてこない彼女を、進一が態々起こそうとして、その後。

 

 ――って。

 

(ふわああああああ!? だから変なこと考えちゃダメだって私のバカああああああ!!)

 

 奇妙な想像――否、膨れ上がる()()を振り払うべく、妖夢は頭を抱える。もう少しで奇声を上げてしまう所だった。

 身を縮こませて高揚する気持ちを何とか落ち着かせようとしつつも、妖夢は考える。

 

(うぅ……。私は一体、どうすればいいの……?)

 

 蓮子は上手くいくなどと言っていたが、正直言って具体的に何をどうすれば良いのか皆目見当もつかない。

 そもそも自分は、一体どうしたいのだろう。何を望んでいるのだろうか。

 自分の事であるはずなのに、未だにはっきりとは分からない。

 

 彼の事は好きだ。勿論友人としてではなく、一人の異性として。

 けれども、だからと言ってこの想いを伝えるべきなのだろうか? 本当に、自分はそうしたいと願っているのだろうか?

 分からない。分からないのだけれども。

 

(でも……)

 

 どっちみち、自分の気持ちに嘘なんてつけやしない。

 彼女が抱くこの想いは本物だ。あとはどんな選択を経て、どう決着をつけるのか。じっくりと考えて決めればいい。

 

「おーい! 二人とも! 早く来なよー!」

 

 先に行ってしまった蓮子が声をかけてくる。どうやら彼女は早速倶楽部活動を開始したいようだ。

 軽く手を振りつつも、妖夢はそれに答える。この気持ちに決着をつける事も大切だが、今は秘封倶楽部としての活動が先決だ。この想いをどうすべきかの判断は、心の隅でじっくりと気持ちを整理してからでも遅くない。

 

「え、えっと……。それじゃ、行きましょうか進一さん」

「あ、ああ……」

 

 微妙に気まずい雰囲気のまま進一とそんな受け答えをした後、妖夢は蓮子達のもとへと駆け寄って行った。

 

 

 ***

 

 

「ど、ドッペルゲンガー?」

「そう! そうよ! 最近巷で噂になっていると聞いたんだけど、何か知らない!?」

「え、えっと……。確か、ネットの掲示板にそんな書き込みあったような、なかったような……」

「ネットの掲示板!? それってどこの掲示板!?」

「ど、どこって……。えっと……」

 

 何やらやけに興奮気味の凄みで気弱そうな少年に迫る蓮子を横目に、進一は無意識の内に嘆息してしまった。

 聞き込み調査を行うなどと言って渋谷まで足を運んだのは良かったが、早くも蓮子の暴走が始まりそうな流れである。地元である東京での調査と言う事で、普段以上に気合が入っているのだろうか。何だか見ているこっちが恥ずかしくなってくる。

 

「進一君。そっちはどう? 何か掴めた?」

「……ん? あぁ、メリーか」

 

 地元民と思しき少年に意気揚々と声をかける蓮子を眺めていると、妖夢と共に別行動中だったメリーが声をかけてきた。

 進一は目配せをして蓮子を示すと、

 

「見ての通り、蓮子はいつも以上にやる気満々だ。でも決定打と成り得る情報はまだ掴めてないな」

「うーん……。やっぱりそう上手くはいかなそうね。私達もそれなりに噂話を集める事はできたけど、めぼしいものはあまり……」

「……そうか」

 

 幾ら京都と環境が異なるとは言え、東京だってれっきとした現代日本である。基本的に非常識に対して排斥的である事に変わりはなく、怪異などの存在を本気で信じ込んでいる者は少ない。情報のソースだってネットという不確定な物ばかりであり、信憑性の判断すらも難しい。

 今回のドッペルゲンガーだって、元々はネット上で見つけた情報の一つである。その中でも特に信憑性の高そうな物を選んだつもりだったのだが。

 

「……情報源がインターネット上だけじゃ、やっぱりちょっと無理がありますよね」

「ああ。せめて目撃者と接触する事が出来ればいいんだが……」

 

 まぁ、ドッペルゲンガーと対面すると死ぬなどという噂話が本当なら、そもそも目撃者は既に死亡している可能性があるけれど。

 ともあれ、このままでは埒が明かないのも事実。ネット以外の方法で、何とかして有用な情報を掴みたい所である。

 

「……何だかちょっぴり心配ね」

「心配? そりゃあ、確かにあまり進展はしていないが……。でも倶楽部活動なんてこんなもんじゃないか? そう易々と解決できるなんて……」

「あ、いや、そうじゃなくて……。心配なのは蓮子の様子よ」

「……蓮子の様子?」

 

 進一はちらりと蓮子へと視線を戻す。彼女は変わらずあの少年から食い気味に情報を聞き出しているようだが、それでも特段変わった所は見受けられないような気がする。寧ろあの少年の方が心配である。容貌と服装から考えておそらく高校生なのだろうが、まさか彼も見知らぬ女子大生にあそこまで食い気味に詰め寄られる事になるとは夢にも思うまい。蓮子のしつこさを知っている進一だからこそ、あの少年に同情したくなってしまう。

 

「……そうだな。確かに、このままじゃあの男子高生が可愛そうだよな」

「え? い、いや、まぁ、それもあるんだけど……。蓮子、何だかちょっとヤケになっているような気がするのよ」

「……なに?」

 

 ヤケになっている、とは。彼女は一体何の事を言っているのだろう。

 

「蓮子が倶楽部活動に凄く積極的なのはいつもの事だけど……。それにしたって、最近何だかあまりにもテンションが高すぎない? 何かに焦っている、というか……」

「焦っている? あいつが?」

 

 進一は記憶を探ってみる。

 焦っているかどうかは分からないが、確かにテンションに関してはメリーの言う通りであるような気がする。例えば昨日のスカイタワーの件だって、あまりにもはしゃぎすぎだったような。

 でも。

 

「いや、考えすぎじゃないか? 皆でこうして東京まで旅行しに来てる訳だし、ちょっとぐらいはしゃぎたくなるだろ」

「そう、なのかしら……?」

 

 そうこうしている内に、少年から情報を聞き終えた蓮子がこちらに駆け寄ってきた。ぶんぶんと手を振りながらも無邪気な笑みを浮かべるその様子は、紛れもなく普段通りの宇佐見蓮子である。

 何も胡乱に思う事はない。全く、メリーは少し心配し過ぎだ。

 

「あれ? メリーと妖夢ちゃんも戻ってきてたのね。それでどう? 何か掴めた?」

「いえ……。すいません、私達は何も……」

「ふふーん、そうなの。でも安心して! 何とこの私、決定的な情報を掴む事に成功したわ!」

「えっ……そうなんですか!?」

 

 得意気な表情で胸を張る蓮子が宣言したのは、泥沼化しかけていたこの状況の好転だった。まるでファンファーレでも聞こえてきそうな彼女の勢いと態度を前にして、妖夢も驚きが隠せない様子。

 彼女がここまで自信たっぷりだという事は、本当に有用な情報だったのだろうか。そこはかとない期待感を抱きつつも、進一は確認してみる。

 

「……どんな情報だ?」

「ふっふっふ……。なんと! 実際にドッペルゲンガーが現れたっていう具体的な場所が分かっちゃったのよ! 多分、確かな情報だわ!」

「なっ……。それは本当かっ?」

 

 鼻を鳴らしながらも、蓮子はサムアップして答えてくれる。まさかあの少年からそこまで有益な情報を得られたと言うのだろうか。てっきり、ノリと勢いだけで適当に聞き込みをしているだけだと思っていたのだが――。どうやら蓮子への評価を改めなければならなそうだ。

 

「あの子から情報を得た、と言っちゃうと少し語弊があるかな。ネット上に散らばっている情報の幾つかを辿って行って、そこから一つの発信源を絞り込めたって感じ」

「いや、だとしても凄いなお前……」

 

 もう全部彼女一人で良いんじゃないだろうか。

 冗談はさておき、ドッペルゲンガーを目撃したという場所の特定に成功したのは素直に喜ぶべき進展である。そこまで行けば、結界の解れだって見つける事が出来るかも知れない。

 

「よーし、早速そこまで行ってみるわよ! メリー、境界が見えたら報告お願いね!」

「ええ。分かったわ」

 

 相変わらずのテンションに蓮子に連れられて、進一達は新たな目的地へと向かうのだった。

 

 

 ***

 

 

 そこらじゅうにひびが入った道路。十代から二十代の若者達が行き交う交差点。京都ではあまり見られぬようなアニメやゲームの専門店。独特な文化を形成する東京というかつての首都だが、都市伝説の浸透具合は京都とあまり大差ない。

 基本的な情報源は主にインターネットであり、スマートフォンやパソコンなどの媒体を介して広がった噂話が殆んどである。インターネットを漂流する内に噂話に尾ひれがつき、徐々に仰々しい“都市伝説”へと変貌を遂げてゆく。事の発端が掲示板への何気ない書き込みだったとしても、いつの間にか大きな騒動に発展してしまうような事もままある。

 

 インターネット上の情報を、あまり鵜呑みにしてはいけない。それは良く聞く忠告なのだけれども、ネットの拡散能力が非常に優れている事もまた事実である。冷静に考えれば荒唐無稽な噂話でも、不特定多数の利用者に過剰に持ち上げられて、いつの間にか一つの真実として周囲に認識されてしまう。

 ネット社会ならではの問題点と言えよう。結論から言ってしまえば、今回の騒動はその弊害の一つだった。

 

「ご、ごめんなさいっ!」

 

 都内某所のとある公園。その中央部にある大きな噴水広場にて、勢い良く頭を下げる一人の少女がいる。

 紺色のブレザーを身にまとっている辺り、おそらくこの辺りの高校か何かに通う地元民なのだろう。彼女が何を思って謝罪を口にしているのかは何となく察する事が出来るが、それでもここまでビクついた様子で頭を下げられてしまうと、こちらにしても対応に迷う。女子高生一人を相手に、複数の大学生(+半人半霊)が集っているのである。ともすればこちらが悪者であるように見えなくもない。

 

「え、えっと……、取り敢えず顔を上げて? 別に、私達は怒っている訳じゃないから」

 

 早くも居た堪れなくなったメリーが、真っ先に声をかける。そこで少女はようやく頭を上げてくれたが、そんな彼女が浮かべる表情は相も変わらず申し訳なさそうなもので。

 

「で、でも……。わたしの些細な書き込みの所為で、あなた達には多大な迷惑を被らせてしまったみたいですし……。まさか、ここまで話が大きくなっちゃうなんて……」

「それがネットの怖いところね。でも大丈夫。私達は迷惑を被られたとは思ってないわ」

 

 少女を宥めるように、慌てた様子でメリーは声をかけ続けていた。

 

 ドッペルゲンガー。ネット上に広がっていたその噂話の正体は、端的に言ってしまえば認識の齟齬だ。目の前にあるものを“ドッペルゲンガー”であると誤認してしまった上に、あろう事かその情報をネット上に掲載してしまったのである。少女の何気ない書き込みは知らぬ間にどんどん飛躍してゆき、いつの間にか都市伝説に変貌を遂げていた。

 最早情報源の特定すら困難な状況である。そんな中でもここまで辿りつけたのだから、蓮子の情報収集能力には相変わらず舌を巻く。

 

「ほ、本当に、ちょっとした勘違いだったんです……。この辺りって、夕方になると結構薄暗くなって……。でもまさか、噴水に反射した自分の姿を……ドッペルゲンガーだなんて……」

「し、仕方ないわよ。薄暗い中で急に人影が見えたら、誰だって勘違いしちゃうと思うし……ね?」

「いや、本当、間の抜けた話ですいません……」

 

 噂話の発端となってしまったこの少女だが、どうやら街中でドッペルゲンガーについて聞きまわっている蓮子達の話を聞いて、慌ててこの公園まで駆けつけてくれたのだという。随分と律儀かつ生真面目な少女だ。そんな少女にここまで必死に頭を下げられてしまったら、素直に肩を落とすのも躊躇われる。

 

「というか、良く私達の事が分かったわね」

「え、えっと……。さっきから、黒い帽子を被った見知らぬ女の人が、声高にドッペルゲンガーについて聞きまわってるって……、ちょっとした騒ぎになっていたので……」

「……、あぁ……」

 

 声高にドッペルゲンガーについて聞きまわっている、黒い帽子を被った見知らぬ女の人。間違いなく蓮子の事である。

 成る程。一見すると闇雲にテンションを上げていただけのように思えた彼女のあの行動が、意外にも功を奏したという事か。今回ばかりは蓮子の図太さに感謝せねばなるまい。

 

「まさか蓮子の奇行が役に立つ時が来るとはねぇ……」

「ちょっ、奇行って……! ね、ねぇメリー? 私、何かメリーの気に障ることした……? 何だかすごくナチュラルに蔑まれたような気がするんだけど……」

「……強いて言うなら、日頃の遅刻癖かしらね」

「なぁ!? くっ……何も言い返せないわ……!」

 

 自覚があるのならもっと注意すれば良いと思うのだが――。まぁ、蓮子に限ってそれは望み薄である。

 

「と、とにかく、ごめんなさい! 本当にお騒がせしました!!」

「う、ううん。だからそんなに謝らなくてもいいのよ?」

 

 少女はペコペコと平謝りする。メリーは何度も気にしていないと彼女に伝えたのだが、どうやらそれでも罪悪感が中々消えてくれないようだ。

 流石のメリーもそろそろ参ってきている様子。何とかして、少女の罪悪感を紛らわす事が出来ればいいのだが。

 

「ふぅ、仕方ないわねぇ……。メリー、ここは私に任せなさい」

「えっ?」

 

 そんな中。何やら自信たっぷりな様子で、蓮子が割って入ってくる。

 何かいい方法でもあるのだろうか。

 

「随分と自信たっぷりな様子ね……?」

「まぁね。メリーはそこで見ててよ」

 

 何だか似たようなやり取りをつい最近もしたような気が。大丈夫なのだろうか。

 そんなメリーの不安感など露知らず。蓮子は頭を下げる少女へと歩みより、ポンッと優しく肩へと手を乗せると、

 

「ねぇ、貴方」

「は、はい……?」

 

 無垢な笑みを浮かべて、彼女は言った。

 

「くねくねって知ってる?」

 

 

 ***

 

 

「――という訳で、くねくねはドッペルゲンガーから派生した都市伝説だと思うのよ。認識した途端に何らかの異常が生じるという点が共通しているし、噂が広まり始めたのも2000年代初頭だからね。ドッペルゲンガーに関しては、更にその数百年前から存在が確認されているわ」

「あー、分かります。でもわたしとしては、くねくねの正体は蜃気楼説を推しますね。双眼鏡で覗いた途端に精神に異常をきたしたという話もありますし。屈折や反射を繰り返した太陽光を双眼鏡を通して見てしまった事により脳が強く刺激され、結果として精神的な悪影響が現れた……と考えれば納得できませんか?」

「む? 確かにそうとも言えるかも……。いやー、流石ね! やっぱり私の目に狂いはなかったわ!」

「いえいえ、あなたの方こそ! ドッペルゲンガーについて調べ回っていると聞いたので、もしやと思っていたんですが……。まさかここまで話の通じる方だとは!」

「いやいや、それはこっちの台詞よ! ねぇメリー、貴方もそう思うでしょ?」

「へっ……? え、ええ。そう、なんじゃないかしら……?」

 

 態々真実を伝えに来てくれたあの少女だったが、どうやらいつの間にかあの蓮子と意気投合してしまったらしい。蓮子から振ったオカルトトークがいつの間にかヒートアップし、少女も蓮子もこの上なく生き生きした面持ちである。

 何せこの現代社会において、ドッペルゲンガーなどという勘違いをしてネットの掲示板に書き込んでしまうような少女だ。比較的大人しそうな印象を受けるとはいえ、彼女もまた相当なオカルト好きである事は火を見るより明らかだった。しかし、それにしてもまさか蓮子と話が通じるレベルだったとは夢にも思うまい。

 

 メリーを巻き込んでオカルトトークに華を咲かせる少女達を眺めながらも、進一は溜息混じりに噴水前のベンチへと腰掛ける。彼の胸中には、どうにもやり切れない気持ちが燻っていた。

 折角都市伝説や噂話を厳選して、その上で情報を収集していたのにも関わらず。非常に味気ない結末が唐突に現れたのである。結局はドッペルゲンガーなんてただの勘違いで、その先が幻想郷に繋がっている事もない。それどころか結界の解れを見つける事もできていない。

 無駄骨とまでは言わないが、不完全燃焼になってしまっても仕方がないと言えるだろう。

 

「まぁ、何となく薄々とそんな気はしていたが……」

「あはは……。仕方ないですよ。そう上手くいかないのが普通ですから……」

 

 噴水前のベンチに腰掛けながらも呟くと、苦笑混じりに妖夢がそう答えてくれる。

 ぶっちゃけ秘封倶楽部の活動なんて上手くいく方が希であり、都市伝説を根気よく追ってもこうしてあっけなく終わってしまう事が殆んどである。

 つまり、普段通りだ。ここまで来ると、流石にいちいち一喜一憂してもいられないのだけれども。

 

「妖夢は大丈夫なのか? ここまで全くと言って良いほど進展してないわけだが……」

「それは……」

 

 妖夢は一瞬俯きかけるが、しかしすぐに顔を上げて、

 

「進一さんも、蓮子さんも、メリーさんも。私の為に、皆さん頑張ってくれてるんです。それなのに、いちいち私が落ち込んでいたら失礼ですよ」

 

 取り繕ったような笑みを浮かべ、妖夢はそう口にする。

 本当に、彼女は生真面目だ。生真面目で、あまりにも自らを卑下し過ぎている。優先すべきは他人の気持ちで、自分の事など二の次で。それで幾ら貧乏くじを引かされようとも、自分は不幸などとは微塵も思わない。

 きっと彼女は。大切な人の為なら、自己犠牲だって厭わないのだろう。

 

「…………っ」

 

 そう考えると、何と言うか。

 

(また、この感覚だ……)

 

 胸の奥がキリキリと締め付けられるような感覚。能動的に苦痛を受け入れる彼女の様子を前にして、得心できない感情が膨れ上がってくる。

 どうして彼女は、ここまで自らを卑下する事が出来るのか。どうして彼女は、全くと言って良いほど我儘を言わないのか。

 どうして彼女ばかり、何かを背負わなければならないのだろうか。

 

「っ……。妖夢っ」

「へっ……?」

 

 進一は勢い良く立ち上がる。それから妖夢の両肩を掴んで、しっかりと彼女の目を見据えて。 

 彼は言った。

 

「俺は絶対にお前を見捨てない」

「し、進一さん……?」

「改めて約束する。お前が故郷に帰れるまで、俺は絶対に諦めたりなんかしないからな」

 

 それは心の底からの本心だった。

 彼女が自らの事を二の次にして、何もかも後手に回るのだというのなら。自分がどこまでも付き合おう。例え彼女がどうしようもないような局面に立たされる事があったとしても、自分が傍にいてやろう。

 何があっても、絶対に、自分は妖夢の味方でいたい。これ以上、彼女に自らの気持ちを抑え込んで欲しくないと。

 

 そう、思った。

 

「あの、進一さん……」

「なんだ?」

「その……。ちょっぴり、恥ずかしいです……」

「え? あ、あぁ……。すまん」

 

 頬を赤らめつつも視線を逸した妖夢を見て、進一は慌てて距離を取って再びベンチに座る。

 いきなり女の子の肩を掴むなど、よく考えれば随分と大胆な行動を取ったものだ。事故とはいえ、今朝にあんな事をしてしまったのにも関わらず。

 

「進一さんは……」

 

 進一が再び羞恥心を覚え始めていると。

 妖夢は意を決したような表情を浮かべていて。

 

「進一さんは、どうして私を助けようとしてくれるんですか……?」

 

 か細い声で彼女が口にしたのは、既に答えた覚えのある質問の再確認。

 然して難しい質問じゃない。一番最初に聞かれたのは、確か始めて妖夢と出会った次の日の朝だったか。一言一句全く同じではなかったと思うが、ニュアンス的には似ていた質問だったと記憶している。

 

 目の前に困っている奴がいて、しかもその事情を知ってしまったから。だから放ってはおけない。

 あの時は、確かそんな風に返したと思うのだけれど。

 

 今は、どうだろう。

 無論、目の前に困っている奴がいるから放ってはおけないという理由も、今の進一の中には確実に存在する。だけれども、それだけではないような気もしてくるのだ。

 今や妖夢は家族同然の存在で、つい昨日まで『妹』のように思っていたから。だから、放ってはおけないのだろうか。

 

 ――いや。違うだろう。

 そもそも、自分は根本的な所から勘違いしていたのではないだろうか。何か決定的な要素から、無意識の内に目を逸し続けていたのではないだろうか。

 家族同然だとか、『妹』のような存在だとか。

 

 そんな()()()をしてしまった、原因と言えば――。

 

「あっ……! す、すいません! 何か、変な事聞いちゃって……」

 

 口を閉ざした進一を見て、妖夢が慌てふためき始める。

 

「い、今のは、忘れて下さい。時に深い意味はありませんから……」

 

 必死になって誤魔化し通そうとして、固い動きで踵を返しながらも。

 

「そ、それより、まだ秘封倶楽部の活動は終わってませんよ? 早く蓮子さん達の所へ行きましょう」

 

 逃げるように走り去ってゆく妖夢の背中を目で追う。それからおもむろに立ち上がって、慎重に深呼吸して。胸のざわめきを抑え込み、再び彼は前を見据える。

 

 考えてみれば滑稽な話だ。散々ヒントを提示され続けていたのにも関わらず、毎回毎回的外れな結論に達していただなんて。こんなにも長い間、ずっと勘違いをし続けていただなんて。

 本当に、岡崎進一という青年は、滑稽な奴だ。自分でも嫌になるくらいに。

 

(でも……)

 

 だけど、今ならはっきりと結論を下す事が出来る。これ以上、勘違いなんて続けない。

 

(俺は……)

 

 彼は。

 

(あいつに……。妖夢に――)


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