桜花妖々録   作:秋風とも

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第33話「戸惑いの理由」

 

 宇佐見蓮子の実家は一軒家である。

 都内の住宅地に建てられた二階建ての戸建で、敷地面積は進一の家と同等かそれより少し大きいくらいだろうか。秘封倶楽部の四人を泊める事が出来る程の部屋の数とスペースが存在する為、どちらかと言えば大きい部類に入るのかも知れない。

 東京の住宅地は京都の住宅地以上に閑散としており、騒音も殆んど聞こえてこない。静かで落ち着いているのはそれはそれで良い事なのだろうが、都内のアパート暮らしにすっかり慣れてしまったメリーにとっては、逆に落ち着かない環境だった。

 

 まったく。どうやら自分は、すっかり都会に毒されてしまったようだ。最早今のメリーにとって閑静は非日常で、喧騒こそが日常なのである。無論、下宿先のアパート周囲が四六時中騒がしい訳でもないが、四六時中静かというのも何となく不自然に思えてしまう。ちょっとでも人の動きを感じられる環境の方が、自分には肌に合っているのかも知れない。

 

「……って、随分と贅沢な悩みよねぇ」

 

 眩い日差しが東の窓から注ぎ込まれる気持ちの良い朝。リビングで頬杖をついたメリーが呟くのは、他愛もない戯言だった。

 秘封倶楽部が東京へと足を運んでから、既に一夜明けている。当初の予定通り、東京にいる間は蓮子の実家で寝泊まりさせて貰う事になっていた。

 非常にありがたい話である。メリー達はあくまで大学一回生。東京旅行を計画するにしても、そこまで高い予算設定は行えない。そんな状況で寝床を提供してくれるというのだから、蓮子の両親には感謝してもしきれないだろう。静か過ぎて逆に落ち着かないとか、そんな悩みを抱くなど失礼に当たるというものだ。

 

「んー? メリー何か言った?」

「……ううん。何でもないわ」

 

 キッチンから戻ってきた蓮子がそう確認してくるが、メリーは首を横に振ってそれに答える。

 あくまで戯言である。態々言い直す必要もないだろう。

 

 そんなメリーの様子を見て蓮子は首を傾げていたが、彼女もそれ以上追求してくる事はなかった。持っていたお盆をテーブルの上に置き、朝食のメニューを並べてゆく。

 

「ねぇ、やっぱり何もしなくていいのかしら?」

「いいのいいの。これ作ったの私じゃなくてお母さんだし」

「いやそうじゃなくて……。私も何かお手伝いした方が良いんじゃないのかと……」

「大丈夫。メリーさんはお客さんなんだし、遠慮せずに寛いでも良いのよ?」

 

 そこまで言われると無理に手伝おうとするのも恩着せがましいような気がしてくるが、だからと言って何もしないのも何となく心苦しい。難しい所である。

 

「それに、ほら。進一君と妖夢ちゃんなんてまだ寝てるっぽいじゃない? もうあれくらいのんびりしちゃっても良いと思うのよねー」

「そう言えば……。進一君も妖夢ちゃんも、まだ降りてきてないのよね」

 

 メリーはちらりとリビングの出入り口へと視線を向ける。未だに起きてこない二人の事を思い浮かべると、やはりどうにも不安感が大きくなってしまった。

 

 時刻はもう直ぐ朝の8時を回るところだ。進一はともかく、妖夢が未だに起きてこないのは本当に珍しい事例なのではないだろうか。

 メリーは普段から妖夢と寝泊まりしている訳ではないので詳細までは分からないが、普段の彼女の一日は早朝の剣術鍛錬から始めるという。つまりかなりの早起きが彼女にとって基本であり、こうして朝食の時間まで起きてこないのは非常に珍しい事なのである。

 あの生真面目で規則正しい生活リズムを徹底している魂魄妖夢が、まさかこの時間まで寝過ごしてしまうなんて。

 

「やっぱり、昨日の事が原因なのかしら……?」

「……そうね。東京観光の疲れとかもあるんだろうけど、それでも大きな原因は精神的な問題だと思う」

「妖夢ちゃんもそうだったけど……。進一君、想像以上に動揺してたみたいなのよ。やっぱり、藪蛇だったのかしら……?」

「うーん、どうだろ? ……お、噂をすれば何とやらね」

「えっ?」

 

 メリーが蓮子とそんな話を続けていた矢先。不意にリビングのドアが開かれ、外から誰かが足を踏み入れてくる。弾かれるように視線を向けると、入って来たのは見慣れた一人の青年だった。

 蓮子の言う通り、噂をすれば影がさす。寝起きの所為かぼんやりと浮かない表情を浮かべた彼は、丁度話題に上がっていた当の本人である。

 

 メリーの追求が原因であんな事になってしまった手前、どうにも声をかけづらい。現にメリーは、あれから彼とまともに口を聞けてないように思える。

 しかし。メリーがそんな状態であろうと、彼女の隣りに立つ少女――宇佐見蓮子にとって、取り分け騒ぎ立てる問題ではなかったらしい。いつもと変わらぬ楽天的な様子のまま、彼女は会釈を交わした。

 

「おはよう進一君! 昨日はよく眠れた?」

「……ん? あぁ……。いや、どうだったかな……」

 

 返ってきたのは微妙な反応。その表情から察するに、彼はあまり快眠する事ができなかった様子。

 無理もない。おそらく、昨日メリーに言われた事をあれこれと考えてしまって、それが気になってあまり眠れなかったのだろう。その所為で普段通りの睡眠時間を得る事ができず、結果として朝寝坊してしまったのだと推測できる。

 

「眠れなかったの? こんな時間まで降りてこなかったから、私はてっきり……」

「……そうだな、すまん。何て言うか……。色々と気になって中々寝付けなくて、結局眠りにつけたのがだいぶ遅い時間になっちまって……」

「それでちょっぴり朝寝坊しちゃった、と」

「……ああ」

 

 概ねメリーの推測通りである。それにしても、まさかここまで目に見えるほど生活規則に影響が現れてしまうとは。それ程までに、彼の心は大きく揺れ動いているという事となる。

 

「それじゃあさ、寝坊ついでに一つお願い出来る?」

「……お願い?」

 

 そんな中。蓮子が進一に一つの依頼を提示する。

 

「妖夢ちゃんを起こしてきて欲しいのよ。もう直ぐ朝ご飯なのに、まだ起きてないみたいだからさ」

「妖夢を?」

 

 そう口にしつつも、進一はぐるりとリビングの様子を見渡す。そこでようやく不自然な点に気がついたらしい。

 

「珍しいな。あいつがまだ寝てるなんて」

 

 そう。起床する順番の最後が彼女になってしまうなど、それ程までに不自然な要素なのである。その異常性は共に生活している進一が最も強く感じている事だろう。

 その後も暫しの間だけ何かを思案する様子を見せていた進一だったが、程なくしてその視線を蓮子の方へと戻すと。

 

「分かった。俺が起こしてくるとしよう」

「うん。お願いね」

 

 それから彼は踵を返し、リビングから立ち去ってしまった。

 ぱたんと扉が閉められる。結局彼に一言も声をかける事ができなかったメリーだったが、当然ながら胸中に抱くのは大きな不安感である。

 今の彼が妖夢と対面する事で、一体何を感じるのか。昨日のように、また体調を崩しかけてしまいのではないだろうか。その可能性を考えると、嫌でも心配になってくる。

 

「ねぇ、蓮子。良いの?」

「良いのって……何が?」

「進一君と妖夢ちゃんの事よ。特に進一君は、明らかに自分の気持ちを整理出来てないでしょ? それなのに無理矢理対面させるような真似なんて……」

「ふぅ……。まったく、メリーは心配性ねぇ……」

「心配性って……」

 

 メリーは思わず立ち上がって抗議しそうになるが、既のところで思い止まる。

 確かに、その通りなのかも知れない。昨日はあのままでは駄目だと思って少し大胆な行動を取ったメリーだったのだけれど、やはりあんな様子を見せられると後悔の念が出てきてしまう。

 本当に自分の取った行動は正しかったのか。本当に二人の為になる行為だったのか。そう考えると不安感がますます強くなってきて、平常心を保てなくなってくる。

 

「まぁ確かに、ちょっと荒療治だったかもね」

「そうでしょ? それなら尚更……」

「でも時には荒療治だって必要なのよ」

 

 間髪入れずに、蓮子は続ける。

 

「いつまでも曖昧な関係のままじゃいけないでしょ? あのままじゃ進一君、本当にずっと勘違いしたままだったわよ?」

「それは、そうだけど……」

「進一君だって子供じゃないわ。自分の気持ちくらい、きっと自分で踏ん切りをつけられるわよ」

 

 いつまでも曖昧な関係のままではいけない。それはメリーだって同意見である。

 進一は鈍感だ。自分自信が抱く想いに関しては、特に的外れな解釈をしてしまう。確かな想いをその胸に抱いているのにも関わらず、その真意に気づかないが故に、辿り着くべき場所へと辿り着けていない。

 

「……そうね」

 

 それなら、確かに。彼の人となりから考えて、この程度の荒療治は寧ろ必要不可欠だったのかも知れない。

 

「ところでメリー。メリーにも一つだけ確認しておきたい事があるんだけど」

「……何かしら?」

 

 視線を向けると、蓮子は穏やかな表情を浮かべていて。

 

「メリーは進一君の事、どう思ってるの? 恋愛対象とは成り得るのかしら?」

「……っ。それは……」

 

 何となく予想できた質問。

 相も変わらず突発的で、飾り気もないド直球な質問だったのだけれども。メリーの答えは、決まっている。

 

「成り得ない……といえば嘘になるかも」

 

 人の気持ちにあれこれ意見を出せる立場ではないような、酷く曖昧な答えなのだけれど。

 

「もしも進一君が、私に対してそういった感情を抱いてくれるような事があるのなら……。私はきっと、それを受け入れると思う」

 

 それでもメリーは顔を上げる。

 

「でも」

 

 毅然とした面持ちで、彼女は続けた。

 

「私は進一君の気持ちを尊重したい。進一君が他の誰かに恋をしているのなら、喜んで背中を押すわ」

 

 彼を全く意識していなかった訳ではない。だって彼は秘封倶楽部唯一の男の子で、一見クールのようにも思えるけれど、でも実際はとても優しくて。メリーだって、彼に助けられた事もある。

 そんな青年が倶楽部メンバーとして傍にいるのである。まるで意識するなという方が無理な話だ。

 

 けれども。完全に恋愛対象として見てしまうのも、何か違う気がする。勿論、彼の方からそういった感情を向けられる事があるのなら、メリーは素直に嬉しく思う事になると思う。

 だけど。

 

「私、今の関係が凄く気に入ってるの。だからお友達として、二人の恋路に協力したい」

 

 秘封倶楽部のメンバーとして。それ以上に、一人の友人として。

 彼女は全力で、二人を応援したいと。

 

「私はそう思ってるわ」

 

 屈託のない笑顔。そんな彼女の表情を見て、蓮子も釣られて破顔した様子だった。

 くすりと蓮子は微笑する。それがメリーの意見に対する同意の微笑みだったのか、それとも清々しい程に潔い彼女の答えに対する呆れの苦笑だったのか。それは分からないのだけれども、だからと言って詮索するつもりはない。

 メリーの気持ちは変わらない。あくまで進一の意見を尊重したいと、そう思っている。

 

「上手く行くといいね」

「……ええ」

 

 何はともあれ、根本的な考えは蓮子もメリーも共通している。

 もしもこの旅行がきっかけとなって、二人の仲が進展するような事になるのなら。

 

 蓮子もメリーも、きっと二人を祝福する事になるだろう。

 

 

 ***

 

 

 蓮子の実家の寝室は、主に二階に集中している。構造に関しては進一の家と似ているが、おそらく敷地面積に関してはこちらの方が上だろう。蓮子とメリーが共に寝泊まりした部屋と、進一が一人で使わせてもらった部屋。そして妖夢が未だに眠っている部屋と、秘封倶楽部の為に実に三部屋も提供してくれたのだ。それでいてまだスペースに余裕があるのだから、実はそこそこの豪邸に入るのかも知れない。

 

 そんな戸建の一室。閉じられた扉の前に佇む進一は、昨日から続く微妙な心境に未だに踏ん切りをつけられずにいた。

 妖夢を傷つけたのは自分の責任だ。それは分かる。けれども分からないのは、自分が一体彼女をどう思っているかについてである。

 妖夢は大切な存在だ。友達とは違う、それ以上の家族同然の存在だと思っている。それ故に『妹』のようなものだと思い込んでいたのだけれど、昨日メリーに指摘されてからその考えに疑問を持つようになっていた。

 

(妹じゃないのだとすれば……)

 

 何となく推測する事は出来る。けれども確証がない。このような曖昧な感覚のまま、早々に結論を下す事なんて出来る訳がないだろう。

 全く。本当に、優柔不断だ。

 

(くそっ……。何だっていうんだよ)

 

 とにもかくにも、今は妖夢を起こさねばなるまい。取り敢えず、この思考の渦を一旦切り上げる事にして――。

 

(……、妖夢……)

 

 ノックしようと伸ばした右手が既の所で止まる。いくら思考を切り上げようと思い込んだ所で、そう簡単に気持ちを切り替える事なんて出来る訳がなかった。

 

 だって。妖夢を泣かせたのは、紛れもなく自分自信であるはずなのに。

 一体、どんな顔をして妖夢に会いに行けば良いのだろう。

 

(……って、何ビビってるんだ俺は)

 

 進一は頭を振るって心の蟠りを払拭する。

 いけない。こんな所で怖気づいている場合じゃない。幾ら妖夢が進一の所為で元気を無くしているのだとはいえ、進一まで普段通りの調子を失ってどうする。

 彼女が落ち込んでいるからこそ、せめて進一だけは普段通りでなければならない。いつまでもウジウジ迷い続けるなんて、そんな事はらしくない。

 

「おい、妖夢。起きてるか?」

 

 意を決した進一は、扉をノックしつつもそう声をかけてみる。けれども何らかの反応が返って来る事はなく、廊下に漂うのは静寂だけだった。

 進一は首を傾げる。ひょっとして、ノックの音や進一の声が聞こえていないのだろうか。よもや彼女がそこまで深い眠りに落ちてしまっているなど。

 

「おーい、妖夢ー? もう朝だぞー」

 

 再び声をかけてみるが、やはり結果は同じ。いよいよ不審に思った進一がドアノブへと手を伸ばしてみると、返ってきたのはガチャりという軽い手応え。どうやら鍵はかかってないらしい。

 

「……ちょっと無用心じゃないか?」

 

 いや、まぁ、別に誰かに襲われるような事はないのだろうけれど。

 ともあれ、ここまで声をかけても無反応なら致し方あるまい。ここは部屋に足を踏み入れて、直接起こしてやるしかないだろう。

 

「入るぞ妖夢」

 

 進一はおもむろに扉を開ける。部屋に入って真っ先に目に入ったのは、ベッドの上で丸まっている少女の姿だった。

 この位置からではしっかりと確認する事はできないが、おそらく進一の予感通り未だに夢の中なのだろう。その証拠に、規則的な寝息の音が微かに耳まで届いている。

 

「……マジでぐっすりなのか?」

 

 意外である。まさかあの妖夢が、こんな時間まで熟睡するような事があるとは。この四ヶ月間共に生活してきた進一でも、あんな妖夢の姿を見るのは始めての事である。そんなに疲れが溜まっていたのだろうか。

 

 そこまで熟睡しているのなら起こしてしまうのも心苦しいが、生憎この後も予定がある。流石にそろそろ起きてもらわねばなるまい。

 

「まったく……」

 

 ベッドへと歩み寄りつつも、進一は声をかけてやる事にする。

 

「おい、妖……」

 

 と、次の瞬間。

 

「……、む……?」

 

 進一は思わず言葉を失ってしまった。

 

「…………っ」

 

 別に、取り分け妙な光景が広がっていた訳ではない。態々騒ぎ立てるような状況を前にした訳でもない。

 そう。ただ、中途半端に掛け布団を掛けて横向きに丸まり、スヤスヤと寝息を立てる一人の少女がいただけ。あどけない寝顔を浮かべ、猫のように丸まって。多少衣服がよれてはだけている部分も確認出来るとは言え、ただ純粋に眠っている少女の姿があっただけだ。

 だから何も動揺する必要はない。そのはずだったのに。

 

「……、なっ……」

 

 一体何だ? この心境は。妖夢の寝顔を見た途端、急に胸の奥が熱くなってきたような気がする。強いて例えるのなら昨晩の心臓の高鳴り方に似ているような気がしなくもないが、しかし明らかにベクトルの違う心境である。

 高揚感、とでも言うのだろうか。これじゃあまるで、自分は妖夢の寝顔を見て――。

 

(待て待て待てっ……! 落ち着け、クールになれ、俺……)

 

 進一は慌てて頭を振るう。それから慎重に深呼吸して、胸の高鳴りを無理矢理抑え込もうとした。

 有り得ない。今日の自分は、明らかにどこかがおかしい。昨日、メリーにあんな指摘をされた所為だろうか。どうにも妖夢の事を意識してしまって仕方がない。

 

 これは煩悩だ。何とかして、この奇妙な心境を改善しなければ。

 

(いや、そもそも俺はどうして妖夢の寝顔を見て動揺なんてしてるんだ……?)

 

 考えられる原因と言えば。

 

(そうか……! ひょっとして俺は動揺している訳じゃなくて、物珍しく思っているだけなんじゃないか……?)

 

 この四ヶ月間妖夢と共に行動していた進一だったが、考えてみると今の今まで妖夢の寝顔なんて見た事なかったような気がする。妖夢は基本的に進一よりも遅い時間に就寝し、進一よりも早い時間に起床している。故に寝顔なんて見る機会もなかったし、そうでなくとも態々見に行こうなどと思い立った事もなかった。

 

 つまりこれは、この物珍しい光景を前にした事による好奇心の膨張。「妖夢ってこんな顔して寝るのかぁ」という、ごく健全的で微笑ましげな感情で――。

 

(いや、ちょっと待て)

 

 ふと、ある事を思い出したのだが。

 

(寝顔って訳じゃないが、俺は似たような状態の妖夢を見た事があるじゃないか? 確か、あれはクリスマスイブの……)

 

 行方不明になった進一を、妖夢が助けに来てくれたあの件である。

 三度笠の女性剣士に敗北した妖夢は、身体に受けたダメージが原因で意識を失っていた。考えようによっては、あれも寝顔だと言えるのではないだろうか。

 

(……流石に違うか)

 

 あの時の表情は今の妖夢と違って、明らかに苦痛の方が強かったように思える。

 そう。あの時は妖夢をお姫様抱っこしていたし、その表情もよく見えていて、

 

(……お姫様抱っこ)

 

 あれ? 物凄く今更ながら何だか恥ずかしくなってきたような。

 

(や、やめよう。きっと原因はそれじゃない。何か別にあるはずだ。うん)

 

 再び高揚しそうになった感情を払拭する。これ以上思い出そうとすると、何だか色んな意味で後戻りできなくなるような気がする。

 

 ここは別の観点から考えるのが吉だろう。今の妖夢は、一体どんな状態だ?

 そう考えつつも、妖夢の顔から視線を逸らすと、

 

(まさか……! そういう事だったのか……?)

 

 そこでもう一つ、原因の候補が上がる。

 

(そもそも俺は、根本的に勘違いしてたんじゃないか? おそらく、俺は妖夢の寝顔を見て動揺している訳じゃない)

 

 問題は寝顔ではなく、眠っている姿そのものである。

 中途半端に掛け布団がかけられ、上着がよれて肩から胸元にかけて微妙にはだけてしまっているこの状態。ひょっとして、これはかなり色っぽい姿なのではないだろうか。

 

(妖夢だって女だからな……。一般的な男からしてみれば、今のこいつは動揺すべき姿なんじゃないか……?)

 

 そうだ。そうに違いない。それなら、この心境にも説明が――。

 

(いや待て! よく思い出してみろ……!)

 

 思い出した。確かあれは、まだ妖夢と出会って一週間程しか経っていなかった頃。

 

(不可抗力とは言え、あの時俺は妖夢の裸を見てるじゃないか! だから今更この程度で動揺などする訳が……!)

 

 そう。確かにあの時、進一は。

 進一は。

 妖夢の、

 

「……って」

 

 そこで。進一の中の()()が決壊した。

 

「うぉぉぉぉおお!? 何を考えているんだ俺はああああああ!?」

 

 動揺が最高潮に達した進一の心境を一言で言い表すならば、混乱。最早クールでも冷静でもなくなった彼が取る行動は、まさに素っ頓狂である。四つん這いになった進一はガンガンと床を殴り付けながらも、頭に浮かんだ言葉を吐き出すように口にする。

 

「くそう、くそうっ……! 何が不可抗力だ……! なぁにが今更だ! 恥を知れ下郎!!」

 

 床が抜けんばかりの勢いで殴り続ける進一だったが、それでも一向に混乱が収まる気配もない。寧ろ動揺が膨れ上がってきたようにも思える。

 何だ。一体何なんだ、これは。今日の自分は、本当にどうしたのだろう。あまりにも調子が狂うというか、らしくなさすぎるというか。こんな素っ頓狂なリアクションを取ってしまうなんて、ひょっとしたら生まれて始めての体験だったかも知れない。

 

(何だよ一体……。昨日のメリーに続いて、俺までキャラが崩壊しちまったのか……?)

 

 いや、そんな自覚がある分だけまだ理性は保てているのだろうけれど。

 

「……、ぅん……?」

 

 と、その時。ガサガサと布が擦れる音と共に、そんな声が進一の耳に流れ込んできた。

 透き通るような少女の声。考えるまでもなく妖夢の声なのだろうが、ひょっとして起こしてしまったのだろうか。そう思いつつも反射的に顔を上げると、ベッドの上で眠っていた妖夢が丁度身体を起こしている所だった。どうやら進一が喚いている間に目を覚ましてしまったらしく、寝ぼけ眼を擦りつつもぼんやりと部屋を見渡している。

 一人で眠っていたはずなのに、急に部屋の中が騒がしくなったのだ。幾らぐっすりと熟睡していたと言えど、流石に目を覚ましてしまうのも無理はないだろう。

 

「あ、れ……?」

 

 目を覚ました途端、突然視界に入ってくるのは、本来そこにいるはずのない青年の姿である。そんな状況を前にして、この純で控え目な少女が取りそうなリアクションと言えば――。

 

「……進一、さん……?」

「よ、よう。起きたか妖夢。おはよう。今日は良い朝だな」

「あ、はい……。おはよう、ございます……。確かに今日は、良い朝で……、えっ?」

 

 しどろもどろな様子で進一が会釈をすると、律儀にも妖夢はそれに答えようとしてくれる。けれども台詞を言い終わる直前になって、彼女は自らが立たされている状況を唐突に理解したらしい。きっと眠気が一瞬にして吹っ飛んで、急激に血の気が引いているに違いない。

 

 朝。未だに浅くまどろんでいる寝起きの状態であるはずなのに、なぜだか目の前に進一がいる。おかしい。進一は別の部屋で眠っていたはずなのに、どうして妖夢が目覚めた瞬間彼の顔が目の前に現れるのだろう。いや、理由はどうあれ、この瞬間に彼が会釈をしてきたという事は――。

 そこまで頭で理解すれば、後は早かった。

 

「ひゃああああああ!? し、しししし進一さんっ!? な、何で!? どうしてこの部屋にいるんですか!?」

 

 あぁ、やっぱりこうなった。

 あまりにも予想通りすぎる妖夢のリアクション。そんな彼女を前にして、普段の進一ならば微笑を漏らすところだけれど。生憎、今日の進一は普段とは違う。

 微笑などする余裕もなく、彼はやや食い気味に妖夢を宥める。

 

「お、落ち着けっ……! お、俺はただ、お前を起こしに来ただけだ。珍しく朝寝坊してるみたいだったからな」

「えっ……? ね、寝坊って……」

 

 そこで妖夢はチラリと時計を見る。現時刻、朝の8時20分。別に特段遅い時間という訳でもないが、普段の妖夢から考えればとんでもない。

 彼女からしてみれば、大寝坊である。

 

「う、嘘!? も、もうこんな時間ですか!? あ、あわわわわ……!」

「ああ……。お前でも寝過ごす事とかあるんだな」

「す、すいません! すぐに……! 今すぐに起きますから……!」

「あっ……、おい。そんなに慌てたら……」

 

 嫌な予感が脳裏を過ぎり、慌てふためく妖夢を再び宥めようとしたその瞬間。進一の予感は的中した。

 掛け布団を投げ出して、彼女はベッドの上から勢い良く飛び降りようとして。しかし雑に投げ出された掛け布団は、丁度妖夢の着地地点に転がっていて。

 

「ひゃわっ!?」

 

 シーツ生地の掛け布団と、ワックスが剥がれかけたフローリングとの間に働く摩擦力は、あまり大きくない。そんな状態でシーツの上から斜め方向に力を加えれば、然程体重を乗せずともシーツは大きく移動してしまう。シーツが大きく動いてしまえば足に込めた力があらぬ方向に逃げてしまい、大きくバランスを崩してしまうだろう。

 まぁ、つまるところ。妖夢はシーツを踏みつけて転倒してしまいそうになったのである。

 

「なっ、危ない……!」

 

 そんな妖夢の様子を認識した途端、進一は反射的に動いていた。

 ずるりと滑って後方へと転びそうになる妖夢。そんな彼女を支えるべく身を乗り出す進一だったが、どうやら少しタイミングが遅かったようだ。ギリギリの所で手を掴む事はできたものの、そのまま彼女を引き上げる事は叶わず。

 

「うおっ……!?」

 

 寧ろ妖夢に引っ張られるような形になり、揃いも揃って転倒してしまった。

 ドスンという鈍い音と共に、細かな埃が舞い上がる。フローリングに強打した両膝と肘に鋭い痛みが走り、進一は思わず表情を歪ませた。

 

「いっ、つ……」

 

 歯を食いしばって痛みに耐えるが、直様進一は我に返る。

 結局妖夢を助ける事ができず、あろう事か彼女に覆いかぶさるような形で進一までも転んでしまったのだ。感触的に彼女を押しつぶしてしまった事はないだろうが、それでも頭部を強打して脳震盪でも起こしているかも知れない。

 

「お、おい妖夢。だいじょう……」

 

 慌てて彼女の安否を確認しようとするが、けれども言葉を言い終わる前に進一は口を閉じてしまった。

 

 大丈夫か?

 

 確かにそう口にするつもりだったのだが、瞬間的に息が詰まってそのまま言い淀んでしまう。

 結論から言えば、妖夢は無事だった。派手に転倒したように見えたが意識ははっきりしているようで、どこか怪我をしている様子もない。進一の行動は結局無駄に終わってしまったが、彼女の安否という点では特に問題視する点はなかった。

 まぁ。()()()()は存在するのだが。

 

「……っ」

 

 仰向けに転倒した妖夢と、その上に覆いかぶさるような形で転倒した進一。傍から見れば、さも進一が妖夢を押し倒したかのような体勢である。四つん這いになった彼のすぐ目の前には妖夢の顔があり、何が起きたか分からないといった様子できょとんとした表情を浮かべている。

 

「あっ……」

 

 しかし、どうやら妖夢は自らの置かれた状況を理解したらしい。彼女の頬が見る見る内に赤くなり、ぷるぷると身体が震え始める。頻りに何かを口にしようと必死になっているようだが、あまりにも強い羞恥心を前にして結局何も言えない様子だった。

 

(うっ……こ、これは……)

 

 この体勢はマズイ。それは一目瞭然である、けれども進一は直様身体を持ち上げる事ができなかった。

 あまりにも突然の出来事過ぎて、それに身体がついて来れていないのだろうか。ただでさえ混乱していた頭の中は更にぐちゃぐちゃになり、冷静に状況を判断する事が出来ない。

 ここは今すぐにでも起き上がって、そして彼女に謝罪するのが妥当な行動であるはずなのに。

 

「よ、妖、夢……」

 

 今の進一は冷静な判断力など持ち合わせていない。

 痛いくらいに心臓が高鳴る。苦しいくらいに息が詰まる。そんな彼はか細い声で目の前の少女の名を呟いて。

 

 そして、そのまま――。

 

 

「どうしたの進一君!? 何だか凄い音……が……?」

 

 直後。蹴破らんとする程の勢いで、部屋の扉が叩き開けられる。

 おそらく大きな物音を聞いて駆けつけてきてくれたのだろう。慌てて扉を開いたのは、鬼気迫る表情を浮かべた宇佐見蓮子である。けれどもベッドの真横で倒れ込んでいる進一達の姿を確認した途端。

 

「…………」

 

 そっと、無言で部屋の扉を閉じた。

 

「ちょ、待て! 待つんだ蓮子! お前は何か勘違いをしている!!」

 

 筆舌に尽くしがたい危機感を覚えた進一が、これまでない程の俊敏さで慌てて立ち上がる。間髪入れずに扉へと向かい、廊下へと飛び出して立ち去ろうとする蓮子を引き止めたのだが。

 

「な、なぁ、蓮子。あ、あれは……そう! ちょっとした事故でだな……」

「……いいのよ、分かってるわ。進一君だって男の子だもん。たまには色々と発散したくなる時もあるよね……」

「全然分かってない!?」

 

 妙に優しげな蓮子の表情が辛い。最早今の彼女の中では、あれはそういった行為であると自己完結されてしまっているようだ。

 この認識は非常にまずい。何とか誤解を解かなければ。

 

「だから誤解なんだ……! 俺は別に変な事をしようとした訳じゃない……!」

「うんうん、そうよね。それは自然な言い訳だわ。でもやっぱりほら、もうちょっとTPOを弁えるべきだったんじゃない? ここ、私の家だし……」

「畜生! どうして人の話を聞いてくれないんだお前は!?」

 

 気まずそうに目を逸らす蓮子を見て、流石の進一も思わずいきり立つ。

 このままでは進一の社会的地位が色々とヤバイ事になりそうだが、そうは言っても目の前にいるこの少女は彼の言葉などまるで聞く耳持たない。彼女が浮かべているのは妙に和やかな表情で、まるで全てを見通す境地に達してしまったかのようにも思える。ポンポンと進一の肩を叩いた後、一息。

 

「そんなに慌てなくても大丈夫よ。例え今まで隠し通してきたえっちな一面が露呈しちゃったのだとしても、進一君は進一君のままだから……」

「……うん。全然フォローになってないな」

 

 詰んだ。これは完全に詰んだ。

 そんな諦めに似た感情を抱いた途端、進一の心境は和やかになった。心にずっしりとのしかかっていた重りが取れ、身体が羽のように軽くなったかのような。そんな心地である。あぁ、一度抵抗を諦めれば、こんなにも胸中がすっきりと晴れ渡るとは。

 

 何か、もうどうでもいいや。

 完全に説得を投げ出した進一が悟りを開きかけていると、バタバタと忙しない騒音が背後から響き始める。扉が開けっ放しの部屋から少し遅れて飛び出してきたのは、ある意味で事の発端とも言える一人の少女である。

 

「あ、あの……! ちょっと待って下さい! 本当に、誤解なんです!!」

 

 彼女――魂魄妖夢は、大きく息を切らしつつも声を張り上げていた。

 大慌てで飛び出してきた彼女の姿を目の当たりにして、流石の蓮子もようやく話を聞く気になってくれたらしい。進一の肩から手を離し、その視線を妖夢へと移す。

 

「えっ? 妖夢ちゃんまでも誤解って……。あぁ、ひょっとして、お互いに同意した上での行為だったとか?」

「ち、違いますっ! あ、あれはたまたま、私の不注意で足を滑らせてしまって……。転びそうになった所を、進一さんが助けようとしてくれたんです! で、でも結局バランスを崩してしまって……。そ、その……あの体勢に……」

「ふぅん……」

 

 徐々に威勢がなくなって最後の方はかなりの小声だったが、それでも蓮子の耳にはしっかりと届いていた様子。鼻を鳴らしつつも妖夢と進一の顔を見比べて、彼女は腕を組む。暫しの思案の末、短い嘆息と共に蓮子が下した結論は。

 

「まぁ、確かに。よく考えてみれば、進一君がいきなり妖夢ちゃんを押し倒す事なんてする訳がないのよね……」

「そ、そうですよ! 進一さんは、そんな事をする人じゃありません!」

「うっ……。ご、ごめん。ちょっと早とちりしちゃったかも……。は、ははは……」

 

 蓮子はバツが悪そうな表情を浮かべる。乾いた笑い声を上げるこの状況から察するに、どうやら自らの誤解にようやく気づいてくれたようだ。進一が幾ら押しても駄目だったのに、よもや妖夢の説明なら納得してくれるとは。

 何だかちょっぴり悲しくなる進一だったが、ともあれ誤解が解けてくれたのなら一段落である。

 

「ったく……。お前は少し、落ち着きがなさすぎるんじゃないか……?」

「だ、だから、謝ってるじゃない。と言うか、今回は進一君にもちょっと非があるんじゃないの?」

「……は?」

「だって……ガンガンガンガン何かを強打する音が聞こえたのかと思ったら、急にドシーン! だもん。どんな起こし方してたのよ……」

「……、あぁ……」

 

 ガンガンガンガンというのは、おそらく進一がヤケになって床を打っ叩いていた音だろう。あくまで進一は妖夢を起こしに行ったはずなのに、それとはあまりに場違いな騒音が階上から聞こえてきたのである。それでは蓮子達の不安感を煽ってしまっても、仕方がないと言える。

 

「それで心配になって来てみれば、あんな状態だったし……」

「す、すまん……」

 

 今回の騒動の根本的な原因は進一だったという事か。申し訳なさそうに頭を下げつつも、進一は素直に謝罪した。

 

 それにしても。思い返してみれば、本当に突拍子もない事を考えていたなぁとしみじみ思う。つい昨日まで特に何も問題なかったはずなのに、どうして今になってあそこまで動揺してしまったのだろう。やはり昨日のメリーとのやり取りが原因なのだろうか。

 あの時。彼女にあんな事を言われた所為で、進一の心境に大きな変化が訪れてしまったのか。

 

(……いや。違うな)

 

 心境が大きく変化してしまった訳じゃない。ただ、気づいてしまっただけだ。

 自分は何か盛大な勘違いをしている。自分なりに自分の思いを理解しているのだと、ずっとそう思い込んでいたのだけれども。その実、自分が抱くこの気持ちの真意は、別にあるのではないだろうか。自分が下したこの結論は、間違っていたのではないのだろうか。

 

 妹を思う兄心なんかじゃない。別の意味で、自分は妖夢の事を意識しているんじゃないか?

 

 そんな疑問を胸中に抱いた瞬間、動揺が一際大きくなったような気がする。

 

「さて! この件はもうおしまい! もう朝ご飯できてるわよ? 冷めちゃう前に、早い所食べちゃおうよ」

「……ああ。そうだな」

 

 ポンと手を叩いて話を切り上げると、蓮子は踵を返す。そんな彼女に続いて妖夢と共にリビングへと向かいながらも、進一は思考を続けていた。

 

(兄心じゃない、か……)

 

 チラリと妖夢を一瞥する。先程の事を気にしているのか、彼女は未だに真っ赤だった。ぷしゅーと音を立てつつも頭の上から煙を発している辺り、どうやら文字通りショート寸前のようである。

 妖夢は初で大人しく、ついでにどちらかと恥ずかしがり屋な少女だ。あんな事があった手前、ここまで顔を赤くするのも当然の反応だとは思うのだけれど。

 

(そもそもこいつは……)

 

 魂魄妖夢という、この少女は。

 

(俺の事を、どう思っているのだ?)

 

 自分の気持ちさえも整理出来ていない癖に、他人の気持ちなど分かるはずもない。例えここで客観的に推測した所で、今の進一では真実に辿り着く事など夢のまた夢であろう。

 でも。

 

(それでも、俺は)

 

 例え彼女が進一の事をどんな目で見ていようと。

 少なくとも進一は、悪意的な感情を抱く事はないと思う。


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