桜花妖々録   作:秋風とも

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第32話「彼女が内に秘めたる想い」

 

 マエリベリー・ハーンは高所恐怖癖である。

 高所恐怖癖。その名の通り、高所に強い恐怖感を抱いてしまうような癖の事である。彼女の場合、例えばスカイタワーのような極端に高い建物に昇った場合や、手摺りが低い橋などを渡ろうとした場合にその症状が発症する。

 一般的に認知されている『高所恐怖症』とは、日常生活に支障をきたすレベルで恐怖心を感じてしまうほどの病的な心理の事を示すが、流石にそこまで酷くはない。少しの高所程度なら、恐怖心を感じる事はあれど足が竦んで動けなくなってしまうような事もないし、過度のパニック症状に陥るような事もない。精神科医のお世話になるほど酷い症状とは思えないし、それで私生活に多大な悪影響を及ぼした事もない。

 

 けれども。彼女が人並み以上に高所に苦手意識を持っている事は確実である。現にスカイタワーを目の当たりにした途端、彼女の胸中には一滴の忌避感が生まれた。そして蓮子が「これに昇るよ!」などと口にした瞬間、その忌避感は明確な拒絶感に変貌を遂げた。

 

 え? これに昇るの? 本当に?

 

 足を踏み出す事の躊躇いと共にそんな疑問が脳裏に過ぎるが、当の蓮子と進一達はずいずいと先に進んでしまう。それでも手を伸ばして声を荒げれば自分の症状を彼女らに告知する事も出来たのだろうが、けれども彼女は何も告げずについて行く事を選択した。

 怖いのならば、態々お金を払ってまでも昇る必要はない。客観的に見れば、真っ先にそんな意見が出てくる事だろう。別にスカイタワーに昇る事を強要された訳ではないし、昇らなかったからといって何か不利益な事が起こる訳でもない。にも関わらず、彼女は恐怖心を胸の奥にしまい込み、蓮子達と共に展望デッキへと向かう事を選んだ。

 

 なぜそんな行動を取ってしまったのか。

 その理由は至極単純。

 

 端的に言ってしまえば、ただの意地である。

 

「それにしても、メリーにあんな弱点があったとはね……。言ってくれれば良かったのに」

「だ、だって……。あそこまでついて行っちゃった手前、今更『高い所が苦手でしたー』なんて言えないでしょ……?」

 

 はっきり言って、悪手であったと認めざるを得ない。宇佐見蓮子の性格を考えれば、後々になってバレた方が余程面倒な事になると目に見えていただろう。

 何というか、彼女はちょっぴり悪戯好きな一面があるのだ。強がっている相手を前にすると、虐めてみたいという衝動に駆られるというか、ちょっとからかってその反応を楽しみたくなるというか。

 

「……蓮子って、中途半端にサディストな一面があるのよね。だから尚更タチが悪いわ」

「あは、あはははは……。いやー、面目ない!」

「本当に反省してるのかしら……?」

 

 そんなこんなんで何とか蓮子がメリーの蘇生に成功した後。スカイタワーを後にした秘封倶楽部の一向は、蓮子の案内のもと東京観光を再開していた。

 メリーにとっても、こうして東京を訪れるのは生まれて初めての経験だ。日本の元首都であるという話だけは聞いていたものの、実際に足を運んだ事はこれまで一度もなかった。

 

 京都と違って、田舎である東京には歴史を感じる建物も多いと聞く。閉塞感のあるビルの中で遊ぶ室内テーマパークや、超大型ショッピングモールなど。京都ではまずお目にかかれない懐かしい娯楽施設の目白押しだ。

 洗練されていないような、庶民的な娯楽。こうして文字に表すと精神的に未熟な印象を受けがちになってしまうが、それでもメリーはこういった要素も嫌いではないと感じている。寧ろ京都は少し厳格すぎるのではないだろうか。人間には、時にこのような娯楽要素も必要であると思う。

 

 そう考えると、自分はつくづく前時代的な思考の持ち主なのではないかと、ひしひしと感じてくる。それとも蓮子の言う通り、少しのんびりし過ぎなのだろうか。それこそ東北人くらいに。

 

「……って、そんな事を言うのはやっぱりちょっと失礼よね」

「えっ? 何の話?」

「蓮子はもっと落ち着く事を覚えた方が良いって話よ」

「……あれ? ひょっとして私、メリーに虐められてる……?」

 

 まぁ、そんな話は取り敢えず置いておく事にして。

 

 53分という短い時間で東京へと辿り着いた秘封倶楽部だったが、当然たかだか数時間で全てを見て回れる程、東京は単純な構造をしていない。幾ら比較的面積の小さな都道府県と言えど、曲がり形にも数十年まで日本の首都だった街である。

 乱立するビルの群れや密集する娯楽施設が形作っているのは、宛ら要塞と言った所か。粗末とも言える程に乱雑な街並みは、ちょっとした迷宮のように次々と行く手を阻んでくる。地図で見るとすぐそこであるように見える地点でも、実際にはかなり面倒な道筋を辿らなければ到達出来ない場合が多々あるのである。お陰でちょっと移動するだけでも一苦労だ。

 

 それ故に、意外なほど時間を要する事になる。一通りの東京観光を終える頃には、既にすっかり日も沈んだ時間帯になっていた。

 あとは蓮子の実家に戻り、明日に備えて早めに寝るだけか――などと思っていたメリーだったが、どうやらそれは早とちりだったらしい。蓮子曰く、今日という一日を締めくくるのに相応しいイベントがまだ残されているとの事だ。

 

 意味深な言葉を残す蓮子に引っ張られるような形で連れてこられたのは、彼女の実家から歩いて数分の所に位置しているとある施設。他の建物と比べても一際風情を感じるそれは、雑多な街並みの中でも少々浮いているように思える。今時珍しい手動の引き戸にかけられた独特な暖簾が、この建物の役割を悠々と物語っていた。

 

「ここって……」

「そう! 温泉よ!!」

「……でしょうね」

 

 温泉というか銭湯というか。目に付く程に大きく『湯』とプリントされたあの暖簾を目の当たりにすれば、誰でも一目瞭然だろう。東京都内に忽然と現れたその和風の建物は、ある意味で異彩を放っているように思える。

 日本独特の風情、とでも言うのだろうか。この珍妙な違和感も、ひょっとしたら東京ならではの感覚であると言えるのかも知れない。

 

「というか温泉なら京都にもあったような……」

「何言ってるのよメリー。旅行と言えば皆で温泉! でしょ?」

「……まぁ、分からなくもないわね」

 

 そんな訳で、今夜は皆で温泉に入る事となるのであった。

 

 意外と広いエントランスで進一と別れてから、メリーはおずおずと女湯の脱衣所へと足を踏み入れる。竹籠が入れられた木製のロッカーに、これまた竹材か何かを編み込んで作られただろう和風の床。木と竹の香りが漂う脱衣所を目にしたメリーが、第一に抱いた感想は。

 

「意外と普通なのね」

「普通って……どんなのを想像してたのよ?」

「へ? い、いや……」

 

 蓮子が案内するくらいなのだから、もっとこう、見た事もないような光景が広がっているのではないか――などと思っていたのは内緒である。それが意外とベーシックな脱衣所だったので、少し拍子抜けだった。

 まぁ、あまりにも奇妙な温泉を紹介されても、正直困るのだけれども。

 

「久しぶりに来たけど、街中とかもあんまり変わってないみたいで安心したわ。変化が少ないのも東京の良い所なのかも知れないわね」

「そうね。やっぱり京都は首都だから、変化も目まぐるしいのよねぇ……。そうなると、首都だった頃の東京ってどんな感じだったのかしら? やっぱり今の京都みたいに、目まぐるしく変化していたとか?」

「どうだろう? 時代もだいぶ違うからねー」

 

 温泉に入る為の準備を進めながらも、メリーは蓮子とそんな他愛もないやり取りを交わす。

 首都機能が東京に集中し、人口も爆発的に増加し続けていた時代。政治、経済、娯楽、外交。その大半が関東圏に集中していたあの頃の文化は、今や廃れつつある。化石化したその名残りは最早東京くらいでしか確認出来なくなり、日本全体が“過去”に対して排他的な印象を持つようになっていた。

 時代の変化のインフレについて行くには、過去を見てばかりではいられない。常に先を見据えなければ、あっという間に取り残されてしまう。

 そんな日本の傾向を見て、有意義だと思うか寂しいと思うか。それは本当に人それぞれなのだけれど、東京観光をした後では後者寄りの印象をどうしても抱いてしまう。どんな最先端の文化にも、その根底には必ず歴史が存在する。人類が積み上げてきたその睿智の結晶を、蔑ろにするのは如何なものだろうか。

 

 確かに東京は寂しい街だ。かつての賑わいは鳴りをひそめ、アスファルトで固められた地面にはそこらじゅうにひびが入っている。変化の乏しさを目の当たりにして、東京は未熟な都市であると感じてしまうのも無理はないのかも知れないけれど。

 こうして歴史を認識出来る都市の存在も、今の日本には必要不可欠な要素なのかも知れない。

 

「時にメリー。私は常々思ってたんだけど……」

「……ん?」

 

 メリーが一人物思いにふけっていると、脱いだ上着を畳んだ蓮子が声をかけてくる。脱衣の手を一旦止めてメリーが視線を向けてみると、彼女はどこか一点をじっと見つめているようだった。

 何とも言えぬ気味の悪さをメリーが覚え始める。そんな中、蓮子はおもむろに深々と溜息を零した。

 何だ。彼女は何を思って溜息をついている? 何やら不穏な空気が漂い始めてメリーは思わず固まってしまうが、当の蓮子はそんな様子など意に介していない様子。彼女は畳んだその服を籠の中へと詰め込むと、一息。

 

「メリーっておっぱい大きいわよね」

「ぶっ!?」

 

 直球だった。

 

「な、な、なななな……!?」

 

 少女らしからぬ勢いで吹き出しそうになった後、メリーはぷるぷると震え始める。あまりにも唐突な発言を前にして完全に言葉を失ってしまい、頭の中が真っ白になった。

 口をぱくぱくとさせる事しか出来なくなったメリーが、実に十数秒程の混乱を経た後。彼女は思わず胸元を隠しつつも、

 

「い、いきなり何を言ってるのよ!?」

「え? 思った事をそのまま口にしただけだけど……」

「そ、そのままって……」

「私も小さくはないと思うんだけど、やっぱりメリーと比べると見劣りするのよね……。ねぇどう思う?」

「ど、どうって言われても……」

 

 下着の上から自分の胸をぺたぺたと触りつつも、そんな事を口にする蓮子。正直、非常に返答に困る質問なのだが。

 

「れ、蓮子だって、別に気にする程小さくはないんじゃないの……?」

「うーん、どうだろ……? メリーのを見た後だと自信無くすなぁ……」

「そ、そんな事言われても……」

「だって本当に大きいし。ほら、ちょっとセクシーな水着でも着れば、幾ら鈍感で朴念仁なあの進一君でも、少しはドギマギするんじゃない?」

「……着ないわよ?」

 

 水着を着るには少々季節外れな時期である。いや、例え時期が合っていたとしても着る気はないのだけれど。そもそも自分は積極的に色気を醸し出すようなキャラじゃない。

 と言うか、進一は朴念仁とは少し違うような気がするのだが。

 

「胸だけじゃなくて、それ以外のスタイルも結構良いのよねぇ……。これがエロかわボディってヤツなのかな……?」

「ちょ、ちょっと……。その話題まだ続くの?」

「ねぇねぇ、妖夢ちゃんはどう思う? メリーって、中々に魅力的な体付きをしているとは思わない?」

 

 流石にそろそろ居た堪れなくなったメリーが慌てて口を挟むが、あろう事か蓮子は妖夢へと話題を振る。幾ら女の子同士だと言えど、この手の話題はちょっぴり苦手である。胸だって、別に好きで大きくなった訳でもないし、手放しで羨ましがられても正直困惑の方が先に来る。

 いやらしい視線を向けられるくらいなら、寧ろ胸なんて大きくなくても良いのではないかと思うのだが――。

 

「へ? メリーさん、ですか?」

「そうそう。何て言うか、こう、バーン! って感じよね」

 

 そんなメリーの気持ちなど露知らず。蓮子は大げさなジェスチャーと共に、妖夢へとそんな意見を口にしていた。いや、バーンって何だバーンって。

 

「そうですね……」

 

 チラリと妖夢へと視線を向けると、彼女は思いの他動揺していない様子だった。メリーを一瞥した後、ぼんやりとした面持ちのまま視線をロッカーへと戻すと、

 

「蓮子さんがそう言うのなら、そうなんじゃないですかね」

「……えっ?」

 

 妖夢の反応はそれだけだった。

 それから再び無言となり、彼女はブラウスのボタンを外し始める。素っ気ないこの反応から察するに、蓮子達のやり取りを見ていなかったのだろうか。

 上の空。その言葉がぴったりと当てはまるような妖夢の様子を前にして、流石の蓮子も困惑を隠しきれぬ様子だった。

 

「ね、ねぇメリー。何だかさっきから妖夢ちゃんの様子変じゃない?」

「……そうね。急にあまり喋らなくなっちゃったし……」

 

 おずおずといった様子で、蓮子がメリーに耳打ちする。メリーも概ね同意見だった。

 彼女――魂魄妖夢の様子が、明らかにおかしい。そんな違和感を覚えた始めたのは、丁度スカイタワーを後にした辺りからだった。

 あれから東京観光を再開した秘封倶楽部の一向だったが、しかし明らかに妖夢の口数が減っていたように思える。東京都内の街並みを見て回った時も、超大型ショッピングモールに買い物へと行った時も。楽しんでいるかのような“様子”だけは見せていたものの、その実、彼女は心の底からの笑顔は見せていなかった。

 

 あくまでメリー達の客観的な感覚だ。妖夢の真意を隅々まで把握している訳ではない。

 だけれども、それでも。気持ちの微妙な変化に気づかぬ程、薄い間柄であったつもりはない。彼女だって秘封倶楽部の一員で、それ以上に大切な友人だ。彼女が何を思い、そしてどんな心境でいるのか。何となくだが、察する事くらいは出来る。

 

「妖夢ちゃん、さっきからどうにも上の空みたいなのよね。何かに思い悩んでいるみたいな……」

「うーん……。スカイタワーに昇る前は、あんな様子じゃなかったよね? となると考えられる原因は……」

 

 おそらく、スカイタワーに昇ってから降りるまでの間。いや、もっと限定するならば。

 

「私がメリーを蘇生している間かな。進一君との間に何かあったんだと思う」

「……やっぱり、そうよね」

 

 そう。単純に考えて、原因があるとすればあの時。そもそも、メリーと蓮子が妖夢達と別行動を取ったのはあの瞬間だけだ。それも高々十数分だけ。それ以外、秘封倶楽部は常に四人揃って行動している。

 図らずも進一と二人っきりになった彼女は、何らかの要因がきっかけになって()()に気づいてしまったのだろう。それが重荷となって彼女の心にのしかかり、今もこうして一人思い悩む事となっている。

 

(あの時、一体何が……)

 

 二人の間に何があったのかは分からない。直接この目で見た訳ではない以上、憶測や想像だけを頼りにするしかないのだけれども。

 

「私達に、できる事はあるのかしら……?」

「そうね……」

 

 友人が思い悩んでいるのに気づいているのにも関わらず、知らんぷりを決め込むなんて。メリーも蓮子も、そんな薄情な事など出来る訳がなかった。

 

「よーし! ここは私が一肌脱ぐしかないみたいね!」

「……え?」

 

 グッと握り拳を作りながらも、蓮子がそんな意気込みを口にする。

 やる気満々なのは良いのだが、本当に大丈夫なのだろうか。蓮子がこういうテンションの時は、大抵見当違いな方向へと話が進む。

 

「ちょっと蓮子。何をするつもりなの?」

「当然、妖夢ちゃんを元気づけるのよ!」

「元気づけるって……」

「ま、ここは私に任せといてよ。メリーは一応、サポートをお願いね?」

「はあ……」

 

 本当に何をするつもりなのだろう、彼女は。何だか嫌な予感がするのだが。

 しかし、このまま手をこまねいていた所で事態は好転しない事も事実。どっちみち、何らかの行動を起こさねばなるまい。

 

(蓮子の行動が藪蛇にならなきゃいいけど……)

 

 まぁ、そうならない為のコントロールがメリーの役割なのだろう。

 そこはかとない不安感を覚えてはいるが、取り敢えず。メリーは意気揚々とした様子の蓮子に任せてみる事にした。

 

 

 ***

 

 

 脱衣所もそうだったが、その先にある大浴場も意外とベーシックな作りをしていた。

 大人数が利用しても余裕がありそうな広さの浴室。その床一面に、明るい色彩のタイルが敷き詰められている。出入り口から向かって左の壁にシャワーと蛇口が設置されいる事から、ここが所謂洗い場なのだろう。風呂桶やバスチェアだけは備え付けられているようだが、シャンプーなどの石鹸類は確認できない。それらは利用者が自己負担する必要がありそうだ。

 

 そんな洗い場の丁度反対側。大浴場の約三分の一を大胆に用いたあの大きな浴槽こそが、この銭湯の名物である。

 大理石の浴槽には並々と湯が注がれており、絶え間なく漂う湯気が温度の高さを物語っている。どうやら湯を循環させる事で水温をほぼ一定に保ち続けているらしく、どこから入っても均一の温度で身体を温める事ができそうだ。ここまで広い浴槽でそれを実現するとなると、かなりの設備が必要となるのではないだろうか。この銭湯、意外と侮れないのかも知れない。

 

「はぁ~……。生き返るわぁ……」

 

 年寄り臭い声を上げながらも湯槽に足を踏み入れたのは、今回の旅行の立案者である宇佐見蓮子である。湯の温度は高めに設定されているようだが、旅の疲れを癒すには寧ろこれくらいが丁度いい。身体の芯まで温められて、疲労感が抜け落ちてゆくような感覚さえも覚える。

 

 女性は風呂好きが多いという印象があるが、どうやら蓮子も例外ではないらしい。メリーもまたその例に溺れないのだが、しかし今回ばかりはあまり羽を伸ばす事が出来なさそうだ。正直に言って、色々と気が気じゃないのである。

 

 妖夢を元気づける。そんな意気込みを胸に浴場へと足を運んだ蓮子だったが、しかし今の所これといって妙な行動は起こしていなかった。

 浴場へと足を踏み入れ、持参した石鹸類で身体を洗ってから湯槽へと浸かる。この一連の動作に不審な点は含まれておらず、驚く程に一貫して自然なのである。髮や肌の手入れも徹底的に行っているようで、寧ろ自分の世界に入ってしまっているように思える。

 

 あそこまで意気揚々と宣言した手前、蓮子が何の行動も起こさないとは到底思えない。穏便に事を運べるとは端から思ってないメリーだったが、流石にここまで平穏だと逆に不安に思えてくる。

 まだ安心は出来ない。蓮子が次なる行動を起こすタイミングとして考えられるのは、三人揃って湯槽に浸かった直後だろう。

 話を切り出すのに絶好のタイミング。それを蓮子が見逃す訳がない。

 

「ねぇ妖夢ちゃん。実は妖夢ちゃんに一つ確認したい事があるんだけど……」

 

 きた。

 タイミングとしてはメリーの想像通りである。蓮子が先に湯槽へと足を踏み入れ、その両隣にメリーと妖夢が腰を下ろす。暫しの間この温泉を堪能した後、彼女は藪から棒に口を開いた。

 

「確認したい事、ですか?」

「うん」

 

 チラリと蓮子を一瞥した後、メリーは平穏を装うことにする。内心不安で一杯だが、今それを妖夢に悟られる訳にはいかないだろう。メリーの方から彼女に不安感を煽る必要はない。

 蓮子だって馬鹿じゃない。いきなり妙な事を口走る、なんて事はしない――はず。

 

 そんな思いを抱きつつも、胸中の不安感を何とか払拭しようとしていたメリーだったが。

 

「妖夢ちゃんって進一君の事が好きなんだよね?」

「!?」

 

 やっぱり直球だった。

 

「…………ッ」

「いたっ! 痛い!? ちょっとメリー何するのよ!?」

 

 無言で蓮子の太腿をぎゅっと抓ると、当然抗議の声が返って来る。そこそこの力を込めたのでそれなりに鋭い痛みが走っているのだろうが、そんな事はお構いなしである。

 彼女の暴走が始まる前に、ここで釘を刺しておかねばなるまい。

 

「貴方はどうしてこう、極端なのよ! 開口一番に聞くような事じゃないでしょ!?」

「え、えぇ……。そうかな?」

「そうでしょ!? ほら、妖夢ちゃんの様子を見てみなさいよ!」

 

 妖夢の方へと視線を向けると、当の彼女は顔を真っ赤にして静止してしまっているようだ。

 初で純粋な妖夢にとって、ここまでド直球な質問はあまりにも刺激が強すぎる。目を丸くして口をあんぐりと開けた彼女は、言葉の意味こそ理解しているものの、その真意が掴めずにいる様子だった。声とも言えぬ音を喉の奥から鳴らしながらも、彼女はぷるぷると身体を震わせている。

 元の肌が白いだけに、体温が上がると顕著に赤くなる少女である。その様はまさに茹で蛸だ。

 

 それから数秒程経過して、彼女は何とか言葉を絞り出したようだったが――。

 

「あ、あの……。好き、というのは……」

「もちろん、性的に」

 

 ぎゅぅぅう……!

 

「痛い!? ちょ、ちょっとメリー痛いって! 太腿を抓らないでお願い!!」

「人の話聞いてた!? 貴方にデリカシーというものはないの!?」

「ふ、ふふん! 何言ってるのよメリー! 女の子同士の恋バナにデリカシーもヘチマもないわ! 恋愛は勢いが大切なのよ……!!」

 

 本当に、この少女は、どうして毎回毎回ここまで大胆不敵なのだろう。怖いもの知らずにも程がある。

 何とかして蓮子を制しようと奮起するメリーだったが、流石にここまで堂々とされると投げ出したくなってくる。と言うか、なぜこんなにも自信たっぷりなのだろう。恋愛の成功談でもあるのだろうか。

 

「そ、そもそも……。蓮子って、恋人とかいた事あるの……?」

「いいえ! 生まれてこの方彼氏ゼロよ! 今年で恋人いない歴20年達成だわ!!」

「……な、成る程」

 

 それでここまで堂々としていられるのだから、流石は宇佐見蓮子である。いや、メリーも蓮子にあれこれ言える立場ではないのだけれども。

 

「え、えっと……! そ、その、私……」

 

 いつも以上に呂律が回らなくなった様子の妖夢が、必死になって何かを口にしようとする。けれども結局既のところで言葉が出てこないようで、何かを言いかけては飲み込んでを繰り返している様子。

 明白な狼狽。そんな彼女の様子を見れば、確かに蓮子の推測は一目瞭然なのだろうけれど。

 

(やっぱり、直球はちょっとね……)

 

 魂魄妖夢は岡崎進一に好意を寄せている。それは確定的に明らかである。

 秘封倶楽部として共に行動する事が多いからこそ余計にだが、そうでなくとも妖夢は非常に分かりやすい性格をしているように思える。気持ちの変化がすぐに表情に現れてしまうし、図星を突かれた時の反応もまるで隠滅出来ていない。誤魔化しや隠し事が苦手である典型的なタイプの少女で、ちょっと観察しただけでその真意を何となく察する事も出来てしまうのである。

 

「それじゃあ、妖夢ちゃん。今度は私が質問するわね。実際のところ、妖夢ちゃんは進一君の事をどう思っているの?」

「…………」

 

 既に隠し通せる余地はないと、それは明らかであるのにも関わらず、妖夢は未だに言い淀んでいる。この反応から推察するに、ひょっとして彼女は自分の気持ちを上手く整理する事が出来ていないのではないのだろうか。

 

「……進一さんは、私の恩人です。こちらの世界に放り出されて途方に暮れていた私を助けてくれました。それはとても感謝しています」

 

 進一に好意を寄せているのだと、そんな心境を抱いているのだけれども。彼女は自らの内に秘めるその想いの正体に、気づいていないのではないのだろうか。

 そう思っていたのだけれども。

 

「でも……」

 

 俯く彼女のその瞳は。

 

「進一さんが私を助けようとしてくれているのは、一種の兄心のようなものからなんだと思います。進一さんは私の事を、妹のような存在だと認識しているようですから」

 

 言葉を紡ぐ今の彼女は。

 自らの想いをしっかりと見据えているのにも関わらず。

 

「そんな私が、進一さんに異性として好意を寄せたとしても」

 

 半ば強引に自己完結して。

 

「きっとご迷惑をおかけするだけですよ」

 

 その想いを無理矢理抑え込もうとしてしまっている。

 

(妖夢ちゃん……)

 

 取り繕った彼女の笑顔。そんな仮面を見せられた所で、納得できる訳がない。

 きっと迷惑をかけてしまう? そんな推測一つだけで、自ら身を引こうとしてしまうなんて。そんな選択、正しいとは到底思えない。想いを告げる事さえせずに、簡単に諦めてしまうなんて。

 なぜだ。なぜ彼女は、こうも臆病な選択を――。

 

 

『……妹、みたいなものか?』

 

 

 ふと、メリーの脳裏にとある言葉が一瞬過ぎる。

 あれは確か、今から約二ヶ月程前の事だったか。得体の知れぬ奇妙な夢に悩まされて、その相談をする為に岡崎宅に訪れたあの時。

 彼が。岡崎進一が、言い放った言葉。

 

(……成る程ね)

 

 何となく、妖夢の気持ちが分かったような気がした。

 

 あの時進一が口にした言葉。それは妙な誤解が広がるのを防ぐ為の、ある種の言い訳のようなものだったのかも知れないのだけれども。あの言葉は、妖夢の心に大きなしこりを残してしまったのだろう。

 

 岡崎進一は魂魄妖夢を妹のような存在だと認識している。だから自分は恋人などという対等の立場に立てる訳がない。

 

 生真面目で融通が利かない妖夢の事だ。きっとそんな結論に早々に達してしまって、それが原因でわだかまりを覚えてしまっているに違いない。

 

(でも……)

 

 彼は。進一は、そんな妖夢を目の当たりにしても、何とも思わないのだろうか。彼女の想いを感じても尚、何の行動も起こさないつもりなのだろうか。

 

(いや……。違うわね)

 

 彼は何とも思っていない訳ではない。何の行動も起こさない訳ではない。

 何の行動も()()()()()のだ。

 妖夢と最も多くの行動を共にしているのは彼だ。妖夢の想いに触れ、妖夢の気持ちを肌で感じ、そして自らも妖夢に対し何らかの想いを秘めているのにも関わらず。

 進一は、何か盛大な勘違いをしている。

 

(まったく……)

 

 寧ろ気持ちの整理が出来ていないのは進一の方だったか。鈍感も、ここまで来ると時に凶器にも成り得るのかも知れない。

 

(……だったら)

 

 妖夢と進一の間に存在する問題。それを解決しない限り、妖夢が抱くその想いを成就させる事は出来ない。彼女が抱くその気持ちの真意を、進一に伝える事なんて出来ない。

 

 その問題を解決させる方法は、実はとても単純だ。けれども同時に、酷く難しい事案でもある。ここであれこれ手を回した所で、恙無く解決に進むとは限らない。

 でも。ここで行動を起こす事が出来るのは、おそらくメリーただ一人しかいない。

 

『友達って表現はなんか違う気がするんだよ。多分、こうして同じ家で生活している所為だと思うんだが……。それで考えてみたんだけど、この感覚は妹って表現が一番しっくりくる気がしたんだ』

 

 あの日。彼が抱く想いを聞いたメリーだからこそ――否、メリーにしか出来ない事。それでこのわだかまりを解消する事への足掛かりを掴む事が出来るのなら、行動を起こす事への躊躇いはない。

 それに。

 

(ちょっと、進一君に文句を言ってやりたくなってきたしね)

 

 それなら、迷いなんて必要ないだろう。

 

「あーあ。何だかのぼせてきちゃったわねぇ……」

 

 少し大袈裟気味に手うちわを煽ぎながらも、メリーは立ち上がる。脈絡のない話題の変化に妖夢は面食らっている様子だったが、そんな彼女の隣に座る蓮子は澄まし顔を浮かべていて。

 

「あら? もう上がるのメリー?」

「ええ。実は私、あんまり長風呂はしない主義なのよ。本来ならばとっくに上がっている時間帯だから、もう暑くなっちゃって」

 

 勿論嘘である。メリーはどちらかと言うと長風呂主義だし、もうちょっと湯槽に浸かっていたいというのが本音だったりする。

 

 そんな彼女を一瞥すると、蓮子は何やら含みのある笑みを浮かべる。それからやけに無邪気な様子で妖夢の肩へと手を乗せて、声高に口を開いた。

 

「それじゃ! 私は引き続き妖夢ちゃんと女子会トークに華を咲かせようかな? いいよね妖夢ちゃん?」

「へ? で、でも私……」

「よーし決まりね! じゃあ今日は特別に、私秘伝のバストアップ体操を教えてあげる! ね? 気になるでしょ?」

「あ、あの……」

 

 グイグイと一方的に話を進めてゆく蓮子。息つく暇も与えないとはこの事か。

 成る程。どうやら彼女は、メリーの意思を汲み取ってくれるらしい。まったく、こういう時ばかり察しが良いのだから、彼女も中々侮れない。まぁ、それでこそ宇佐見蓮子なのだけれども。

 

 蓮子の好意に感謝しつつも、メリーは浴槽から上がる。意気込むように短く深呼吸を一つすると、彼女はおもむろに歩き出した。

 これから起こす行動は、ひょっとしたら藪蛇なのかも知れない。妖夢や進一からしてみれば、余計なお世話なのかも知れない。メリーがここで首を突っ込んで、内側から引っ掻き回して。二人の間の関係に、劇的な変化が訪れてしまうのかも知れない。

 

 だけれども。

 

(やっぱり、このままじゃダメよね)

 

 多かれ少なかれ、進一は女の子に辛い思いをさせてしまったのだ。

 少なくとも、その自覚だけはしてもらわなければならない。

 

 

 ***

 

 

 風呂上りの珈琲牛乳は一際旨く感じるらしい。正直、今の今まで進一はこの話を眉唾物だと思い込んでいた。

 先に断っておくが、別に珈琲や牛乳が嫌いという訳ではない。寧ろ珈琲は進一にとって好物の部類に入る嗜好飲料で、毎朝欠かさず口にしている程である。

 だけれども、彼はどちらかと言うとブラック派だ。たまに砂糖を入れる事はあれど、ミルクまでも入れる事は殆んど無い。故に珈琲牛乳はあまり口にする事はなかったし、寧ろ態々混ぜて飲む必要はないのではないかと思っている。

 

 そもそも、風呂上りに水分を欲するのは人間にとって至極自然な心理である。風呂によって上昇した体温の調整と、汗という形で消費した水分の補給。それらを一挙に熟す為に冷たい飲み物を口にするのは効率的な行為だし、進一だってそれそのものを否定するつもりは毛頭ない。

 だけれども。別に、珈琲牛乳でなくとも良いのではないだろうか。別に冷たい飲み物ならば何でも美味しく感じるだろうし、珈琲牛乳だけが特別という訳ではないはずだろう。極端に言ってしまえば、ぶっちゃけただの水などでも変わらないのではないのだろうかと。

 

 そう、思っていたのだが。

 

「こ、これは……! 驚きだな……」

 

 風呂上り。エントランスで売られていた珈琲牛乳を何気なく購入した進一は、驚きのあまり思わず瞠目していた。

 ごくごく普通の、懐かしさも覚えるような瓶に入れられた珈琲牛乳である。瓶越しに珈琲牛乳の冷気を肌で感じながらも、プラスチック製のキャップを外して飲み口を口に運んだ途端。進一の中に衝撃が走った。

 頭の上から雷にでも打たれたかのような衝撃である。今まで感じたこともないような感覚に彼は思わず戦慄き、口元を抑えてぷるぷると震え始める。けれどもこれは恐怖心による身体の震えなどではない。強いて言えば、そう。武者震いに似ている。

 

「想像以上だ……。まさか、これ程とは……」

 

 風呂上りの珈琲牛乳は一際旨く感じるらしい? まさか、そんな馬鹿な事がある訳ないじゃないか。そう思い込んでいた一分前までの自分をぶん殴ってやりたい。

 まさに新発見である。どうして今まで試そうと思わなかったのだろう。勝手な先入観と憶測で、食わず嫌いをしてしまうなんて。

 

 珈琲牛乳。意外と侮れないのかも知れない。

 

「あら、進一君。もう上がってたの?」

 

 奇妙な敗北感を覚えつつも珈琲牛乳を一気に呷っていると、不意に背後から声をかけられる。手の甲で口元を拭いつつも振り返ると、そこにいたのは金色の髪を持つ一人の少女だった。

 見慣れた菖蒲色のワンピースを着た彼女は、風呂上りである為か頬が火照っているように見受けられる。そんな妙に色っぽい少女を目の当たりにして、男ならば卑しい感情の一つや二つ抱いても不思議ではないのかも知れないが、生憎進一はそこまで飢えた青年ではない。普段と変わらぬ態度と声調で、彼女と会釈を交わす。

 

「メリーか。お前の方こそ早いんじゃないか? 女は結構長風呂になるイメージだったんだが」

「そうね。今日はあんまり長風呂をする気分じゃなかったのよ。何だかすぐにのぼせちゃったしね」

「……そうか」

 

 肩を窄めつつもそう語るメリーに対し、そう短く返した進一は残った珈琲牛乳を飲み干す。空き瓶を回収箱に放り込んだ辺りで、再びメリーが声をかけてきた。

 

「ねぇ、進一君。ちょっといいかしら?」

「……うん?」

 

 何やら含みのある様子でそう口にする彼女を見て、進一は思わず首を傾げる。当のメリーは妙に真剣な面持ちで、真っ直ぐな視線を進一へと向けているようだった。

 明らかに何かが違う。そんな違和感を進一が覚え始めた辺りで、メリーは藪から棒に、

 

「実は貴方と少し話したい事があるのよ」

「話? 俺に?」

「ええ。ここじゃ何だし、外に出ない? 丁度涼みたいと思ってた所だし」

 

 そう口にすると彼女はおもむろに歩き出し、銭湯の出入り口の方へと向かってゆく。そんな彼女を視線で追う進一が真っ先に抱いた感情は、困惑だった。

 彼女がここまで積極的かつ半ば強引に話を進めようとするのも珍しい。メリーはどちらかと言うと大人しい性格で、控え目な態度が目立つ落ち着いた少女だったはずなのに。銭湯の外へと歩いて行く今の彼女は、そんなイメージとは少し離れている。

 そんなメリーが進一と話したい内容とは、果たして何なのだろうか。

 

(よく分からないけど……)

 

 取り敢えず、今はメリーについて行ってみるしかない。

 彼女の足取りを追うように、進一も銭湯の外へと足を踏み出す。その途端、ひんやりとした空気が肌に突き刺さってきた。

 

「…………っ」

 

 寒波もだいぶ収まってきた時期とは言え、まだどちらかと言うと冬に近い季節である。この時間帯の外の空気は、風呂上りの身体には少々堪えるものがある。

 

「やっぱりちょっと寒いな。なぁ、メリー。湯冷めするのもいけないし、やっぱり中に……」

 

 戻った方がいいんじゃないか?

 そう言いかけた進一だったが、喉の奥まで出てきた言葉を反射的に飲み込んでしまう。息が詰まるような感覚に襲われた彼の目の前にいるのは、鹿爪らしい表情を浮かべたマエリベリー・ハーンだった。

 

 進一は思わず生唾を呑み下す。目の前にいる少女から緊迫した視線を向けられて、言葉を失ってしまったのだ。漂い始めるただならない雰囲気が、事の重大さを物語っているようにも思える。

 何なんだ。彼女は一体、何の話を切り出そうとしている?

 

「進一君。一つ聞いてもいいかしら?」

「……なんだよ」

 

 おずおずと、進一は開口する。彼に促されるような形で、メリーは続けた。

 

「貴方は……。妖夢ちゃんの事を、どう思ってるの?」

「……え?」

 

 想定外の質問を前にして、進一は再び首を傾げる事となる。彼が抱く困惑感はますます強くなってしまった。

 彼女が何を言っているのか、いまいち理解する事ができない。妖夢の事をどう思っているのか、とは。

 

「……一体どういう意味だ?」

「言葉通りの意味よ。貴方は妖夢ちゃんをどういう目で見てるのかって聞いてるの」

「どういう目って……」

 

 それはまた、難しい質問である。

 別に、自分は何かやましい気持ちを抱いて妖夢を見たような経験はない。かと言って全くの無関心という訳でもないし、意識して彼女の事をジロジロと見ていた訳でもない。

 要するに、自分でもよく分からないのである。そもそも妖夢とは一緒にいる事が多いのだし、目の前に彼女がいるという状況が当たり前になってきているような。そんな気がする。

 

「どう思っている、か……」

 

 そう言えば、何だか前にも似たような質問をされたような気がする。あれは、確か――そう、父親だ。妖夢とメリーを前にしたあの父親が、茶化すような口調で迫ってきたあの時の質問。

 

「前にも言ったと思うけど、あいつの事は……」

「妹みたいなもの。そう言いたいの?」

「……何だ。覚えてるんじゃないか」

 

 それなら話は単純だ。進一の気持ちは、あの時から然程変化はしていない。

 彼女は――。妖夢は、進一にとって家族同然の存在だ。彼女の為ならどんな協力だって惜しまないし、彼女の為なら多少無理でも身を投じる事だって厭わないと。あの時から、そう思い続けている。

 

 友達とは何かが違う、大切な存在。

 妖夢は妹のようなもの。自らの思いを噛み砕き、彼なりに結論づけた答えだったはずなのだが。

 

「……どうして」

 

 マエリベリー・ハーンという、この少女は。

 

「どうして、そう思うの……?」

 

 どこか納得できない様子で。

 

「どうして、貴方はそう結論づけたの?」

 

 まるで尋問でもするかのように、何度も質問を投げかけてきた。

 歩み寄って来るメリー。進一は反射的に一歩足を引いてしまう。息を飲む進一がその胸中に抱くのは、困惑とはまた違った奇妙な感覚だった。

 迷走。罪悪。焦燥。混乱。様々な感情が胸の奥で渦を巻き、進一を追い詰めてゆく。頬を滴る冷や汗にさえも意識を向けられなくなって、息をするのさえも忘れそうになってしまって。しかしそれでも尚、彼は何とか口を開く。

 

「何を、言ってるんだ……?」

「……私はそう難しい質問をしている訳ではないはずよ進一君。私が聞きたいのは、貴方の真意。どうして友達ではなくて、妹のような存在だと思ったのか。その理由をよく噛み砕いて、説明して欲しいの」

「理由……」

 

 理由。どうして彼は、妖夢の事を妹のような存在だと称したのか。どうして彼は、妖夢の事を家族同然の存在だと思っているのか。

 そんな結論に達した経緯。一体彼女に何を感じ、彼女に対してどんな思いを抱き、そして彼女をどんな目で見ているのか。どうしてここまで、彼女の力になってやりたいと思っているのか。

 

 その理由は。

 

「……気を悪くせずに、聞いてくれるか?」

「……ええ。言ってみて」

「俺は……蓮子の事も、メリーの事も、大切な友人だと思っている。始めて会った頃は毎日のように勧誘してきて、ちょっと鬱陶しいと思った事もあったけど。今はこうして一緒にいるのも悪くない……。一緒にいると楽しいって、そう思う」

「……うん」

「だからあの日……。沈んだ表情を浮かべて俺達を訪ねてきたメリーを見て、胸が痛くなった。多分俺は、酷く思い悩んだ様子のお前の表情を見るのが、嫌だったんだと思う。その後にお前の話を聞いて、奇妙な夢の所為で苦しめられていると知って。何とかしてやりたいって、そう思った」

 

 父親の帰りを妖夢と共に待っていたあの日。予想外の訪問者に若干面食らっていた進一だったが、それと同時に胸中に抱いたのは、恐れにも似た納得できぬ感情。メリーが何かを抱えていて、その所為で苦しめられていると。それは一目瞭然だったから。そんな彼女の表情なんて、これ以上見たくない。これ以上、彼女が苦しむ様子を見るのは嫌だ。だから何とかしてやりたいって、そう思った。

 

 でも。

 

「メリーと妖夢の事をどう思っているのか。あの時父さんにそう聞かれて、思ったんだ。メリーが苦しむ様子を見るのは嫌だ。メリーが何かに悩んでいるのなら、何とかしてやりたい。それは確かなものなんだって、そう思ったんだが……」

 

 だけど、それ以上に。

 

「あいつが……。妖夢が苦しんでいる姿を見る方が、もっと嫌だ」

 

 彼女の事を思い浮かべると。

 

「クリスマスの夜、あいつが浮かべていた……、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになっているような、そんな痛ましい表情。もう、あいつのあんな表情は二度と見たくない。だから俺は誓ったんだ。あいつの事を、支えてやるんだって。俺があいつの事を、守るんだって」

 

 友人に対して抱くような感情とは違う。保護欲――とも少し違う。

 苦しむ様子を見たくない。思い悩んで欲しくない。たった一人で抱え込んで、たった一人で痛みや辛さを耐え凌ごうとするなんて。そんな拷問じみた仕打ちを、彼女一人が背負う必要なんてない。

 

 嫌だった。彼女が苦しむ様を見るのが。

 嫌だった。苦痛に満ちた彼女の表情が。

 だから彼女の力になりたい。だから彼女を助けたい。だから彼女の、笑顔を守りたい。

 

 ただ純粋に、そう思った。

 

「正直、自分でもちょっと困惑したよ。こんな感情を抱いたのなんて、生まれて始めてだったからな。自分でも気持ちを上手く整理できなくて、結論づけるのに少し手間取っちまったが……」

 

 それでも彼は、彼なりに結論づけたつもりだった。

 

「多分、この感情は一種の兄心のようなものなんだと思う。まぁ、俺には弟や妹はいないから、はっきりと明言は出来ないんだが……。とにもかくにも、俺は妖夢の事を家族同然の存在だと思ってるんだ。だから……」

 

 そんな“家族”を心配するのは、“兄”として当然の心理なのではないだろうか。“家族”のような――“妹”のような存在である少女だからこそ、自分はここまで妖夢に肩入れする事が出来るのではないかと。

 それこそが、進一が下した最終的な結論だった。

 

「……成る程。貴方は、そう結論づけたのね……」

「ああ……」

 

 進一は頷いて答える。

 嘘偽りを口にしたつもりはない。進一は妖夢の事を“妹”のような存在だと思っていて、そんな“兄”だからこそ彼女の力になりたいと思っている。それは確かに彼の中にある真意であり、彼なりの考えで辿り着いた一つの答えである。思いの全ては今の説明に集約されており、包み隠さずメリーに提示したつもりである。

 これなら彼女も納得してくれるはずだと、彼はそう踏んでいた。

 

 ――そう。何も問題はないはずだと、そう思っていたのに。

 

「本当にそうなの?」

 

 彼女は。

 

「貴方の想いは、本当に兄心のようなものだったの?」

 

 指摘するかのように。

 

「貴方は本当に、自分の気持ちとしっかり向き合って考えたの?」

 

 揺さぶりをかけるかのように。

 

「ううん。それだけじゃないわ」

 

 逸れた道筋を正すかのように。

 

「貴方は……」

 

 メリーは、言葉を投げかけた。

 

「本当に、しっかりと……。妖夢ちゃんの事を、見ているの?」

「…………っ」

 

 心臓を、雑巾みたいに絞り上げられるかのような。強いて形容するならば、そんな感覚だったと思う。

 胸を締め付けられた事により瞬間的に呼吸が止まり、額には脂汗が滲み始める。かつてない程の動揺を覚えた彼が胸中に抱くのは、得体の知れぬ疑問と困惑。

 

 しっかりと妖夢の事を見ているのか。然して難しくもない、単純な質問。

 だけれども。進一は、首を縦に降る事ができなかった。

 

「な、何を……」

「……その様子だと、ちょっとは心当たりがあるみたいね」

 

 そこでメリーはようやく身を引いてくれる。それからくるりと進一に背を向けると、

 

「ちょっぴり安心したわ。流石にそこまで拗らせてはなかったみたいね」

「お、俺は……」

「もう一度よく考えてみて進一君。貴方が抱く気持ちの真意を」

 

 ちらりと進一を一瞥して、

 

「そして、あの子が……。妖夢ちゃんが内に秘める、想いを」

 

 岡崎進一は思い出す。

 あの時。スカイタワーで、妖夢が見せた表情を。

 

『兄妹みたいなもの、ですからね』

 

 あの時の彼女はどんな表情を見せていた? 冗談交じりの澄まし顔だったか?

 ――違う。

 確かに垢抜けた声調だった。子供っぽいと自らを卑下する様子も、謙遜とも取れる態度のように思えた。自らが立たされた状況に踏ん切りをつけ、自らの立場を妥協して。それで納得してしまったかのように見えた。

 

 だけれども。

 

「あの時、あいつは……」

 

 進一の記憶に残る、小さな少女が見せてた表情は。

 

「泣いていた、のか……?」

 

 次の瞬間。彼の胸に走る締め付けられるかのような鈍痛が、より一層強くなった。

 最早それは、鈍痛などではない。鋭利な刃物か何かで突き刺されたかのような、そんな激痛。進一は思わず自らの胸元を掴み上げ、吐き気にも似た感覚と共に呼吸が大きく乱れ始める。

 異常性。蹲りそうになる程に体調を崩し始めた進一を見て、メリーが慌てて駆け寄ってきた。

 

「し、進一君……? だ、大丈夫……!?」

「……、ああ……」

 

 駆け寄ってくるメリーを手を上げて制すると、進一はおもむろに身体を持ち上げる。吐き気と胸の鋭い痛みを無理矢理抑え込んだ後、彼は慎重に深呼吸して乱れた呼吸を整えた。

 ギリっと歯を食いしばりながらも、進一は思考を再開する。

 

「俺の所為、なのか……?」

 

 これ以上、妖夢に辛い思いをさせたくないって。そう思っていたのにも関わらず。

 

「俺が……」

 

 罪悪感。それを強く覚え始めると、今度は耳鳴りまでも聞こえてくる。慌てて頭を振るってそれを払拭しようとするが、それでも胸中に抱く思いが変わる事はない。

 

 あの時、妖夢は泣いていた。それは確かな事であるはずなのに。

 分からない。どうして妖夢は、それでも平静を保とうとしていたのか。自分自身に嘘をつき、無理矢理にでも丸め込み、強引にでも納得する。どうして彼女は、そこまでして自らの気持ちから目を背けようとしたのだろうか。

 

 ――いや。それ以上に、分からない。

 

「俺は……」

 

 彼女を。

 魂魄妖夢という少女の事を。

 

「どう、思っているんだ……?」

 

 『妹』とは違う。それでも家族同然の、友人以上に大切な存在。そんな彼女に対し、自分はどんな想いを抱いているのだろうか。

 

「……メリー」

「な、何……? どこか痛むの……?」

「いや……。ただ、少し一人にさせてくれないか?」

「えっ……?」

「頭を冷やして……。色々と、考えたい事があるんだ」

 

 いつまで経っても気持ちの整理が終わりそうにない。けれどもこれは、決して蔑ろにしてはいけない事なんだって。そんな根拠もない確信が、進一の中に存在している。

 そんな彼の心境を、何となく察してくれたのだろうか。目をつむって暫しの思案を経た後に、メリーは優しげな表情を浮かべて。

 

「……分かったわ。でも、大丈夫?」

「……ああ。こればかりは、お前に頼る訳にはいかない。俺なりに決着をつけなければならないんだって、そう思う」

「そう……。それなら、私はこれ以上何も言わないわ」

 

 目の前で蹲りそうになった手前、メリーにも余計な心配をかけてしまっただろう。彼女の性格から考えて、本当は進一の事を一人にさせたくはないのかも知れない。

 だけれども。それでも彼女は、進一の意思を汲み取ってくれた。進一の我儘に従って、それ以上は何も言わずに歩き出してくれた。

 

 一人で銭湯へと戻るメリーの背中を見送る。そんな彼女に心の中で感謝しつつも、進一は付近の塀にもたれかかった。

 ふと仰ぐと、すっかり日が沈み切った夜の空が目に入る。明滅する星々をぼんやりと眺めていると、少しずつだが気持ちも落ち着いてきた。

 

「くそっ……」

 

 優柔不断な自分自信に苛立ちを覚え始める。

 彼が妖夢に抱く想い。その真意を追求しようとすればするほど、胸の中の混乱がますます膨れ上がってくるようにも思える。

 分からない。一体何が間違いで、どれが正解なのだろうか。

 

「妖夢……」

 

 ただ。一つだけ、今の進一にも分かる事がある。

 

 妖夢を泣かせたのは自分の責任だ。

 

 その罪悪感だけは、確かに存在している。


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