桜花妖々録   作:秋風とも

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第31話「霊都東京」

 

 岡崎夢美はいつになく難しそうな表情を浮かべていた。

 大学構内の研究室。相も変わらず不気味なオカルトグッズが散乱したその部屋で、深々と椅子に腰掛けた彼女は片手に持ったとある資料をまじまじと眺めている。夢美が読み耽るその資料は所謂事件簿というヤツで、ここ数週間の内に京都で発生した事件や事故が不規則に掲載されていた。

 

 なぜ彼女がこのような資料を持っているのかという事は、この際あまり重要ではない。そもそもこれは民間にも公開されている情報をやや乱雑に纏めただけの物であり、別に非合法的な事柄が絡んでいるような代物ではない。警察に目をつけられるような事だけは避けると言う彼女のスタンスは、未だに徹底しているのである。

 

「はぁ……」

 

 肩を落としつつも溜息を零し、夢美はガクリと項垂れる。どんよりとした様子である彼女の表情には、流石に疲れの色が出始めていた。

 

「酷い話よまったく」

「どうしたんだ夢美様? 今日はいつになくやさぐれているじゃないか」

 

 丁度デスクの向かい側に座っていた助手であるちゆりが、身を乗り出すようにして声をかけてくる。ぐったりとした身体を持ち上げる気も失せてきた夢美は、デスクに突っ伏すような形で倒れ込みながらも、

 

「これ。ここ数週間の内に京都内で起きた事件や事故の記録がまとめられているわ」

「ああ、知ってるぜ。何せ私が集めた情報だからな」

「でもね……。これがまたびっくりする程全くもって役に立たないのよねー。どれもこれもありきたりなものばかりだし、特に目新しい変わった情報が掲載されている訳でもない」

「……夢美様からしてみれば、確かにそうなのかもな」

「でしょー? もうね、ゴミよゴミ。酷いチリ紙だわまったく」

「……なぁ、夢美様? これでも一応、頑張って集めたんだぜそれ。それなのにその言い草はあんまりなんじゃ……」

「あーあ。テンション下がるわー。もうホント、やる気が削がれて……」

「…………」

「あっ、ちょ、ま、待ってちゆり! ごめんなさい、私が悪かったわ! だから無言でパイプ椅子を掲げるのは止めなさい! いや、止めて下さい!!」

 

 ガタリと立ち上がったちゆりが座っていたパイプ椅子を無言で掲げ出した辺りで、ガバッと夢美が身体を持ち上げる。慌てふためく彼女が必死になって頭を下げると、どうやら流石のちゆりも思い留まってくれたらしい。夢美を殴り付ける事もなく、おもむろにパイプ椅子を降ろしてくれた。

 ――相変わらず無言なのが気になる所だが。

 

「もうっ……。どうしてちゆりはそう直ぐに暴力を行使しようとするのかしらね……?」

「夢美様は口で言っても分からないだろうからな」

「酷いっ!?」

 

 まぁ、今回は全面的に夢美が悪いのだろうけれど。

 

「それで? これからどうするんだ? 夢美様が狙っているような“非常識的”な事件は全く確認されてないみたいだぞ」

「……そうね。何か手掛かりが掴めればと思ったんだけど、結局空振りみたいねぇ……」

 

 飛び乗るようにデスクの上に腰掛けつつも、ちゆりにそう指摘される。

 メリーが意識を取り戻してから約一ヶ月。あれからというものの、少なくとも夢美の周囲はまさに平穏だった。

 再びメリーが倒れるような事もなく、不可解な事件で誰かの身が危険に晒されるような事もない。何もないという事はそれはそれで良い事なのだろうが、夢美からしてみれば少々厄介な状況でもある。

 

「妖夢がこちらの世界に迷い込んでからの一連の事件には、何か関連性がある! って、睨んでたんだけどね……」

「ま、確かに非常識的な事件が立て続けに起きている感はあるよな。でも関連性ってのは……?」

「そうねぇ、例えば……」

 

 片腕で頬付を付きつつも、夢美は続ける。

 

「同一犯による犯行、とか」

「はあ……」

 

 しかしちゆりの反応は、思いの外ピンと来ないものだった。間の抜けた声を上げた彼女は、何とも腑に落ちないような表情を浮かべている。腕を組んだちゆりは、難しい表情を浮かべつつも首を傾げていた。

 

「でもメリーの件に関しては犯人なんていなかったんじゃないのか? アイツ本人の中にある『能力』が問題だったんだろ?」

「まぁ……あれはちょっと例外ね。でもほら、例えば妖夢がこっちの世界に迷い込んじゃった件もそうだし、墓荒らしに関しても……」

「犯人は同一人物だって? その根拠は?」

「……勘ね」

「おいおい……。物理学者らしからぬ非論理的な推測だな」

 

 呆れた様子で、ちゆりは明け透けに嘆息する。確かに彼女の言う通り、夢美の推測はあまりにも非論理的だし不明瞭だ。早計だと言ってしまっても過言ではない。

 しかし、今は本当に勘だとしか言えぬ程の段階なのである。物的証拠も未だに掴めていない以上、完全に断言する事なんて出来る訳がない。

 

「ま、どんよりと考え込んでても仕方ないんじゃないか? 気長に探っていこうぜ。物理学の研究だって、気力と根気の勝負じゃないか」

「うーん……。確かに、そうなんだけど……」

 

 だからと言っていつまでものんびりとしてはいられない。彼女――魂魄妖夢を故郷に帰してやる為にも、今は一刻も早く幻想郷への手掛かりを見つけ出すべきである。

 夢美は部屋の天井を仰ぎつつも、思わず嘆息する。

 

「そう言えば、進一達は今日から東京旅行だったか?」

「……ええ、そうね。もうあっちに着いてる頃じゃないかしら?」

 

 天井を仰いだ体勢のまま、夢美は答える。

 ちゆりの言う通り、進一達秘封倶楽部のメンバーは今日から東京旅行である。何でも、蓮子の彼岸参りに便乗する形での参加であるとの事だが、しかし彼らの目的はただ単に墓参りをする事ではない。勿論、観光等という目的もあるにはあるだろうが、本当の狙いは別にある。

 

「東京は京都に負けず劣らずの霊都だからな。何か有用な情報を掴んでくるかも知れないぜ?」

「どうかしらね……?」

 

 冥界、延いては幻想郷への手掛かり。一部のマニアの間では京都に匹敵する程の霊都だとも言われているあの東京ならば、ひょっとしたら何か掴めるのではないだろうか。

 そんな希望的観測を胸に彼らは東京へと向かった訳だが、しかし夢美には幾つか気がかりな事があった。

 

「どうにも心配なのよねぇ……」

「心配? 何がだ?」

「ほら、進一ってここ最近は凄く積極的になってきたじゃない? 前はオカルトなんて殆んど見向きもしなかったのに」

「確かに、そうだな。……ん? でもそれのどこに心配する要素があるんだよ? 積極的なのは良い事なんじゃないか?」

「積極的だからこそよ。あの子って、意外と形振り構わず首を突っ込もうとする癖があるみたいなのよね。だからまた危ない事に関わろうとしてるんじゃないかと思うと、もう心配で心配で……」

「……な、成る程」

 

 ドサりと机に突っ伏しつつも、夢美はそう語る。そんな彼女の様子を目の当たりにして、ちゆりは何やら引き気味である様子。もう大学生であるはずの弟に対する過保護っぷりに、若干面食らっているらしい。それでも彼女は体勢を立て直し、いつもの軽口で茶々を入れる。

 

「流石夢美様、ブラコンの鏡だな! これでポンコツな一面がなかったらある意味最強なんじゃないか?」

「し、失礼ねっ! あなたは何度も何度もポンコツって……! 私のどこがポンコツだって言うのよ!?」

「……ブラコンは否定しないのかよ」

 

 再びちゆりにドン引きされた。

 まったく、失礼な助手である。夢美をブラコンと称するのならまだしも、あまつさえポンコツ扱いするとは。クリスマスパーティの時のリアクションから察するに、彼女は常に夢美の事をポンコツだと認識しているようだが、それは盛大な勘違いであると釘を刺しておく。

 夢美はポンコツなどではない。ただ、ちょっとばかり思考回路が特殊であるだけだ。

 

「とにもかくにも、私は進一達の事が心配なのよ。でも胡乱に思う原因はそれだけじゃないわ」

 

 それから彼女は再び頬杖をつき、鹿爪らしい顔つきとなる。

 

「……やっぱり、どうにも嫌な予感が抜け切らないのよね。胸の奥が気持ち悪いくらいにモヤモヤして、不安感を掻き立てているというか」

「何だよそれ。まさかそんな曖昧な感覚に……」

「それで考えてみたんだけどね」

 

 岡崎夢美は天才である。天才とは、生まれつき常人と比べて優れた才能を備えた人物の事。何を以て天才と定義するのかは非常に微妙な所であるが、彼女がそう呼称されるのにはそれなりの所以がある。

 

「最近、あまりにも調子が悪すぎるのよ。幾ら何でも上手くいかな過ぎだわ」

 

 彼女は確かに、常人以上に優れた才能を備えている。

 

「そうね……。まるで、誰かの妨害を受けているみたい」

 

 鋭すぎる洞察力と、早すぎる頭の回転速度。

 岡崎夢美は、何かに()()()()()()

 

「……妨害、ねぇ」

 

 そんな彼女の言葉を聞いて、ちゆりは座っていたデスクの上から飛び降りる。こわばった筋肉を解すように軽く身体を伸ばした後、彼女は夢美を一瞥した。

 それからちゆりは呟くように口を開く。

 

「流石は夢美様だ」

「……何よ急に」

「いや。やっぱり私の教授は只者じゃないって、そう再認識しただけだ」

 

 急に何を言い出すのだろう。その意図がイマイチ掴めずに夢美は首を傾げるが、当の彼女は肩を窄めるだけでそれ以上は何も答えてくれなかった。

 彼女は何も言わない。何も言わずに、夢美のもとへと歩み寄って来る。まるで友人でも相手にしているかのように、彼女はニッと笑った。

 

「夢美様がその様子なら、本当に心配はいらないな」

「……えっ?」

「だって進一だぜ? 曲がり形にもあんたの弟じゃないか。頭は切れるし、度胸もある。ついでにかなりのお人良しだ」

「……そ、そうね。まぁ、私の自慢の弟だからね?」

「だったら信じてやってもいいんじゃないか?」

 

 がしっと、ちゆりは夢美の肩に腕を回す。突然のスキンシップに夢美は若干面食らった様子だったが、それでも構わずちゆりは続けた。

 

「進一は夢美様が心配に思う程弱くないぜ。あいつはもう、一人じゃないんだからな」

「…………っ」

 

 夢美の息が詰まる。ちゆりのその言葉が、じんわりと夢美の心に響いた。

 そう、その通りだ。彼女の言う通り、今の進一は一人ではない。蓮子と、メリーと、そして妖夢。進一の周囲には、彼を支えてくれる人達がいる。彼の事を、理解してくれる人達がいる。

 進一だってもう子供じゃない。彼はもう、“あの頃”のように弱くはないのである。

 

 だから。これ以上、夢美があれこれ心配する必要はないのかも知れない。

 

「……ちゆり」

「ん?」

「……あなたもあなたで、中々の大物よね」

「何だよ急に」

 

 肩を組んだままきょとんとした表情を浮かべるちゆりに対し、夢美は続ける。

 

「だってそうでしょ? 上司相手にここまで馴れ馴れしく接する助手なんて、そういないと思うわよ?」

「おいおい、そりゃ随分と今更な意見だな夢美様。あんた程の教授の助手なんて、寧ろ私くらい勢いのある奴じゃなきゃ勤まらないと思うぜ?」

「ふふっ……。また随分と自信過剰ね?」

「ああ。私は自信家なんだ」

 

 相変わらずのちゆりの反応。夢美はくすりと微笑した。

 そうだ。ちゆりだって、進一の事を信じているじゃないか。それなのに、実の姉である自分が信じてやらなくてどうする。

 

 彼なら、きっと。もう、大丈夫だ。

 

「さて、と。それじゃ、私達も調査の続きをやりましょ?」

「おう。やってやろうぜ」

 

 だからこそ、夢美もできる限りの事をする。彼を――否、彼等を信じているからこそ、彼女だって尽力するつもりである。

 魂魄妖夢。彼女が故郷に帰る方法を是が非でも探し当てる。今や妖夢だって、夢美にとって大切な人物の一人だ。彼女に協力する事にだって躊躇いはないし、進一と同じくらい力を貸す事も厭わないと思っている。自らの研究テーマに繋がりそうだとか、そんな物が目的などではない。ただ純粋に、彼女を助けてあげたいと。そんな思いを胸に、夢美は調査を続けている。

 

 そう。何も浅ましい事はない。何も疑問に思う事はない。

 そのはずなのに、だけれども。

 

(……あれ? 何だか、今の……)

 

 彼女の胸中に、一点の違和感が染みのように広がっていた。

 

 

 ***

 

 

 彼岸参りとは、日本独自の仏教行事である。

 彼岸とはすなわち、死後の世界。その語源はサンスクリット語の漢訳で、到彼岸の略語だと言われている。春先、それに加えて秋先の数日間が所謂お彼岸にあたり、ある者は亡き者を、そしてある者はご先祖様に対して祈りを捧げ、思いを馳せる。

 端的に言ってしまえば墓参りだ。取り分け変わった手順を踏む訳でもなく、いつも通り墓の掃除を行い、いつも通り花を供え、いつも通り線香を焚き、そしていつも通り両手を合わせる。こうして文章にしてみると、まるで決まった作業を黙々と熟す機械のような印象だが、その実こめられているのは強い思いである。

 

 確かに、この現代社会において死後の世界などという“幻想”は否定されている。そんな世界はあるはずがないと、それは誰もが心のどこかでは理解している真理である。

 けれども。だからと言って、人間はそう易々と死を受け入れられるほど器用な生き物などではない。いや、器用だからこそ受け入れられない、と言った方が正しいだろうか。大切な人との今生の別れというものは、心にずっしりと重荷を与える事となる。

 

 だからこその彼岸参り、延いては墓参りである。

 せめて、形だけでも傍にいたい。何らかの方法で、その存在を意識したい。死後の世界など存在していないと、それは理解しているのだけれども。でも、やっぱり受け入れられない。受け止めきれない。

 そんな矛盾にも似た激情の捌け口が、人間には必要なのだろう。

 

 あまりにも複雑で、あまりにも器用で、そしてあまりにも未練がましい。

 成る程。そう言う意味では、人間は愚かな生き物であるという意見も、強ち間違っていないのではないかとも思えてくる。

 

「――って、私はそんな結論に達したんだけど、妖夢ちゃんはどう思う?」

「えっ……、えっと……。どう、と言われましても……」

 

 ――そんな事を考えている時点で、宇佐見蓮子と言うこの少女は、少なくともそんな形式には当て嵌らないのかも知れない。

 

 ヒロシゲが卯東京駅に到着してから数時間。秘封倶楽部の一向が真っ先に訪れたのは、宇佐見家の墓があるとされる東京都内のとある霊園だった。

 今回の東京旅行、一応形式上は蓮子の彼岸参りという事になっている為、まずは先にそれを済ませてしまおうという魂胆である。彼女の実家に挨拶に行ってから、荷物を置いてこの墓へと向かう。そして一通り墓参りの作法を済ませた後、今に到ると言う事だ。

 

 相も変わらず得意気な表情を浮かべる蓮子を前にして、流石の妖夢も若干困惑気味である。彼女が常に自信満々なのは今に始まった事ではないが、そこまで堂々とされると逆に反応に困る。ふふんと鼻を鳴らしながらも説明をするその様は、ともすれば覚えたての言葉を使いたがる子供のようにも見えなくもない。

 

 成る程、確かに。メリーが彼女を子供っぽいと称する理由が分かったような気がする。

 

「と言うかそんな意見を口にしちゃう辺り、もう作法もマナーもへったくれもないわよね……」

「そう? 現代の若者らしいとは思わない?」

「お前の考える若者らしさがどんなものなのかは知らんが、まぁ、らしいと言えばらしいのかも知れないな」

 

 らしいと言っても、進一が言いたいのは()()らしいという意味なのだろう。あまりにも形式ばったガチガチの作法に囚われてしまうのではなく、純粋無垢で自由奔放、それでいて尚且つ柔軟な発想力を遺憾無く発揮する。その方が、宇佐見蓮子という少女らしいと言える。

 

 常識で固められたこの現代社会で、そんな枷に囚われず常に型破りな意見を引き摺り出す。

 蓮子は外の世界の住民でありながら、極めて幻想郷寄りの思考回路を持っているという印象を受ける。

 

「さーて、彼岸参りはこの辺でいいでしょ。早速東京での倶楽部活動を開始するわよ!」

 

 ポンッと手を叩いて向き直りつつも、蓮子がそう口にした。

 名目上とはいえ随分とあっさりとした彼岸参り――そもそも彼岸参りにしては時期が少し早い――だったが、とは言えここに多くの時間を費やしても仕方がない。彼岸参りはあくまでついで――とまでは言わないが、秘封倶楽部が東京を訪れた目的はまた別にある。

 

「結界の調査、ですよね」

「そうそう。東京は比較的小さな都道府県だけど、それでもかつての首都だからね。京都とはまた違ったオカルト話が沢山眠ってるのよ。人が集まる所に都市伝説あり! ってね」

「珍しくオカルトサークルっぽい活動内容だな」

「ええ。でも結界を暴くにしても、そもそもその結界を見つけないと意味がないでしょ? その為にはまず都市伝説を追ってみる必要があるわ。その先に結界があるのなら、私の『眼』に何か映るかもしれないし」

 

 基本的には京都での活動と大差はない。まずは結界を見つけ出し、そしてそれを暴く。その先に幻想郷への手掛かりがあれば万々歳である。

 まぁ、そう上手くいくかは微妙な所なのだけれども。

 

「東京旅行は三泊四日よ。私の実家を拠点としつつも、効率よく調査を進める必要があるわね」

「……それで? まずはどうするんだ?」

 

 調査できる期間は意外と短い。とてもじゃないが、土地勘のないこの東京を隅から隅まで調査する事は不可能だろう。

 高い効率性を維持しつつも、出来る限り深くまで調査を進める。その為に必要な事は。

 

「まずはある程度東京の地形を把握しておく必要があると思うのよ。勿論隅々までとは言わないけど、少なくともポピュラーなスポットくらいは知っておいて損はないわね」

「……つまり?」

「そうね……」

 

 それから蓮子はキリッと気取った表情を浮かべ、一息。

 

「観光よ!」

「……、はい?」

 

 妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまった。

 観光? いきなり何を言い出すのだろう、彼女は。それではまるで倶楽部活動ではなく、本当にただの旅行ではないか。結界を暴きに来たのではなかったのだろうか。

 唖然として何も言えなくなった妖夢だったが、当の蓮子は何故だかきょとんとした表情を浮かべていて。

 

「……え? 何、この空気」

「あ、あの……蓮子さん? 私達は倶楽部活動をする為に東京へと足を運んだはずなのですが……」

「チッチッチ……。甘いわね、妖夢ちゃん。よく考えてもみてよ」

「え?」

 

 途端に得意気な表情となった蓮子が、勿体振るように舌を鳴らす。意気揚々といった面持ちで、彼女は説明を再開した。

 

「東京観光だって重要な倶楽部活動なのよ妖夢ちゃん。地形を把握するという点でもそうだし、何より倶楽部メンバーとの親睦を深めるという点で非常に有用な効果を齎してくれるのよ! 結界を暴くにはチームプレイが大切だからね。まずは思い切り楽しんで親睦を深め、心に余裕を持たせるべきだわ!」

「な、成る程……!」

 

 確かに、それなら納得である。

 彼女の言う通り、結界を暴くにしてもメンバーそれぞれの連携プレイが重要になってくる。メリーが結界の存在を確認し、そして蓮子がその適切な対処法を判断した後に妖夢と進一が加わって結界を暴く。四人それぞれの息が合って始めて成し遂げられる行為である。失敗は許されない。

 その為に必要なのがメンバー同士の信頼関係、そして心に余裕を持たせる事だ。前者に関しては既に十分だと思うのだが、後者に関してはまだ少し自信がない。切羽詰ったこの心境では、何か致命的なミスを犯してしまう可能性すら存在する。

 このままでは危険だ。やはり心の有様を見直す必要があるように思える。

 

 そう考えると、蓮子のこの提案は非常に適切な処置であると言えるだろう。

 いい機会だ。まずは心機一転して、東京観光を楽しんでみるのも悪くない。

 

「やっぱり蓮子さんは曲がり形にもチームリーダーなんですね……! 頼もしいです!」

「ふふーん、そうでしょそうでしょ? 何だか余計な一言が混じってたような気がしなくもないけど、この際そんな事はどうでもいいわ!」

 

 感心した妖夢が蓮子を評価すると、彼女はますます調子づいた表情を浮かべる。堂々と胸を張るその様を見ていると、例え彼女が見当はずれな事を口にしていたとしても、それが真実であると思い込みそうになってくる。それ程までの勢いと清々しさが、今の彼女からはひしひしと感じられた。

 

「……何だか体良く丸め込まれちまったように感じるんだが」

「たまには良いじゃない。今回は蓮子に丸め込まれておきましょ」

 

 進一とメリーがボソリとそんな事を口にしていたが、当の蓮子はそんな事まるで気にしていない様子。能天気で楽観的、それでいて図太い神経と度胸までも持ち合わせているのだから、彼女はある意味最強である。しかも頭も切れるときた。ひょっとしたら、蓮子はかなりの逸材なのではないだろうか。

 

 そんな彼女に腕を引かれるような形で、妖夢達は霊園を後にするのだった。

 

 

 ***

 

 

 彼岸参りを終えてから数十分。所変わって東京都墨田区。秘封倶楽部の一向は、蓮子の意向通り東京“観光”へ繰り出していた。

 彼女達が向かったのは、商業施設や観光施設が密集する複合施設である。決して広くない一箇所に様々な建物が所狭しと立ち並ぶその様子は、京都とはまた違った赴きがあるように思える。複数の商店から構成される商業施設や、その中に忽然と現れる水族館など、京都ではまず見る事が出来ぬような娯楽施設の目白押しだ。

 

 蓮子曰く、この洗練されていない庶民的な娯楽がまだ残っているという点が、京都との大きな差異らしい。確かに、比較的厳格な印象を受ける京都の街並みと違って、ここ東京の街並みは見ているだけでも愉快適悦に思えてくる。思わず目移りしてしまいそうになるこの心境を例えるならば、始めてこちらの世界に迷い込んでしまった時の感覚と似ている。

 つまるところ、京都とはまるで別世界なのである。高々53分間の移動を経た程度で、ここまで世界が変わってしまうものなのだろうか。改めて幻想郷との文化の違いを思い知らされる妖夢なのだった。

 

「うわぁ……! これは、凄いですね……!」

 

 そんな中。数多くの施設が並ぶその街の中心に、一際目を引く巨大な搭が存在する。限界まで見上げてもまるで頂上が確認できない程に巨大な塔で、日本どころか世界規模で見ても最大級の電波塔らしい。

 流石、かつては日本の首都機能が集中していた都市だけある。建造物の規模だけ見れば、現在の首都である京都と比較しても遥かに凌駕するレベルである。そもそも京都には背の高い建物があまり多くない為、余計にそう感じるのかも知れない。

 

 展望台としても機能しているその電波塔は、当然ながら東京屈指の観光スポットの一つである。下層フロアのエレベータで上昇する事350メートル。展望デッキから眺められる東京の景色は、妖夢が思わず感嘆の声を漏らしてしまう程に壮観な光景だった。

 今の今まで歩いてた複合商業施設や、かつての賑わいを彷彿とさせる東京の街並みが、ミニチュアみたいに可愛らしい物のように見える。まだ日が高い時間帯なので想像する事しかできないが、夜になるとビルや街頭による夜景でさぞ幻想的な光景が広がる事だろう。

 

 幻想郷ではまず見る事の出来ない人工の絶景である。外の世界の技術力には、本当に何度も驚かされる。

 

「ここから更に100メートル昇った所に、もう一つ展望台があるらしいぞ。何十年も前に建てられた建造物とは思えない程の高さだよな」

 

 妖夢が舌を巻いていると、そんな事を口にしながらも進一が歩み寄って来る。展望デッキの端にある手摺りに手をかけると、彼はまじまじと東京の街並みを見下ろした。

 

「そうそう。進一君の言う通り、450メートル地点にも展望台があるのよねー。余計にお金がかかるから、今日はここまでだけど」

 

 肩を窄めつつも、蓮子がそう補足してくれた。

 この展望デッキまで昇るだけでも幾らかお金がかかったのだが、最高層まで昇るには追加料金が必要らしい。この展望デッキでこの景色なのだから、最高層ではどんな光景を見る事が出来るのだろうか。

 多少気になる妖夢だったが、更に料金が必要となると少し躊躇われる所である。高々学生に過ぎない進一達はそれ程多くの金額を持ち歩いている訳ではない為、観光するにしてもそれなりの節約が必要不可欠となるだろう。

 

 しかし。そんな経済的な問題よりも、真っ先に直面する不安要素が一つ。

 

「へっ……!? ま、まだ高くなるの!? も、もうこれで十分じゃない……!?」

 

 マエリベリー・ハーンの様子である。

 この電波塔兼展望台――通称『スカイタワー』に昇るぞと蓮子が宣言した辺りから、彼女の様子はどうにもおかしかった。急に動きが固くなったり、急にそわそわとし始めたりと、何とも言えぬ挙動不審っぷりである。ついでにさっきから声調がおかしな事になっている。

 何となく既視感を覚えていた妖夢だったが、この展望デッキに到着してようやくその感覚の正体を掴む事ができた。そわそわと挙動不審になりながらも、露骨に強がる様子を見せようとする彼女のこの状態。

 既視感、というよりも経験談と言った方が正しいか。妖夢も似たような心境になった事がある。

 

「あの、メリーさん」

「……へ? な、何かしら……?」

「ひょっとして、高い所が苦手なんですか?」

「なっ……!?」

 

 あまりにも分かりやす過ぎる反応であった。

 

「なっ……ななな何の事かしら? 私は、全然……。全ッッ然、平常心だけど? 別に動悸が激しくなんてなってないけど……!?」

「凄い慌てようだな……」

「いっ、嫌だわ。進一君まで何を言ってるのよ。きっと貴方達は何か勘違いしているわ。そうに違いない。ねぇ、そうでしょ?」

「いやそんな事を聞かれても困るんだが」

 

 普段から落ち着いていて大人っぽい少女であるはずのメリーが、らしくもない程に狼狽してしまっている。自分に言い聞かせるように頻りに口を開くその様は、蓮台野の調査に乗り出した時の妖夢の反応に似ている。

 お化けが大の苦手である妖夢と同じように、マエリベリー・ハーンは高所が大の苦手なのだろう。今の彼女の気持ちは、妖夢には痛い程分かる。ここまで足を踏み入れてしまっては、もう後には引けない。今更苦手だと打ち明けるのも気が引けるから、平常心を貫き通すしかないと。そう思っているに違いない。

 

 傍から見ても既に苦手だとバレバレなのだが、それでも自らの口からはっきりと告白する事なんて出来ない。そんな矜持がメリーにはあるのだろう。

 しかし。厄介な事に、ここには宇佐見蓮子がいる。あの時おどろおどろしい演出と共に妖夢に襲いかかった彼女が、この状況を前にして何の行動も起こさない訳がなかった。

 

「へぇ……。と言うことは、メリーは高い所が苦手ではないと」

「そ、そうよ。寧ろ大好きなんだから、高い所……」

「それじゃあこっちに来て一緒に景色を見てみない? ほらほら、凄く良い眺めよ?」

 

 挑発するような口調でメリーを煽る蓮子。ひょっとしなくてもメリーの気持ちに気づいているのだろうが、その上でこんな行動に出るあたり流石である。悪く言えばあの日からまるで反省していない。

 しかしメリーにも確固たる決意があるようだ。直ぐに泣き出してしまった妖夢と違い、彼女は意地を貫き通すつもりらしい。

 

「わ、分かったわ。待ってなさいよ……、直ぐにそっちに向かうんだから……!」

「はいはい。待ってるわよ?」

 

 メリーがジリジリと足を動かし始める。震える身体を無理矢理動かして前に進んでいるようだが、正直このペースでは時間が幾らあっても足りない。

 

 一歩一歩。本当に少しずつだけれども、彼女は確実に前に進む。けれどもびっくりするくらいのスローペースである。下手をすれば亀の移動速度並みに遅い。

 そんな彼女を目の当たりにして、待ちくたびれた蓮子が痺れを切らすのは時間の問題だった。

 

「もうっ……。メリー、遅い!」

「へ……!?」

 

 案の定、待ちきれなくなった蓮子が唐突にメリーの下へと歩み寄る。直後、半ば不意打ちに近い形で彼女の腕を引っ張った。

 全身に力を入れていたメリーは、つんのめるような形で前へと引っ張り出される事となる。反射的に彼女は身を引くが、蓮子がそれを許さなかった。

 

「ほーら、本当にいい景色よー」

「ひっ……」

 

 ぐいっと、背後に回り込んだ蓮子がメリーの背中を押す。抵抗も虚しく彼女は大きく踏み出すしかなくなり、結果として展望デッキの端まで到達する事となった。

 ガラス越しに東京の街並みがメリーの眼前に広がる。恐る恐るその視線を下へと落とした途端、

 

「ひゃ……!?」

 

 メリーは石化した。

 

「ん? どうしたのメリー? ……メリー?」

「…………」

「あれ……何かちょっとヤバイ……? えっ、ちょ、メリー!? 真っ白になっちゃってる!?」

 

 まさに脱色である。彼女の恐怖心が頂点に達した途端、メリーは文字通り真っ白になった。その様はまるで色を塗る前の塗り絵の如く。口をあんぐりと開けたまま完全に静止してしまった彼女の様子は、説明されなければマネキンか何かと勘違いされそうな有様だ。

 魂が抜けてしまったとはこの事か。この高所を前にしたメリーの恐怖心たるや、まさに悲惨極まりない。合掌。

 

「ちょ、待って? 待ってメリー!? ま、まさか死んじゃったの!?」

「縁起でもない事を言うなお前は」

「こんな時までクールなリアクション!? ちょっと! 進一君も声をかけてみてよ!」

「あー……その、何だ。おいメリー、大丈夫か?」

「…………、ぁ」

 

 反応した。

 

「進一、君……?」

「ああ、そうだ。進一だぞ」

「……ねぇ、進一君」

「なんだ?」

「人間って……空を飛ぶ事が出来るのね……」

「いや、普通は出来ないからな?」

 

 思った以上に重傷だった。

 わなわなと震えながらも頻りに口をパクパクとさせるメリー。その声調は最早悟りを開いたのではないかと思ってしまう程で、涙目になっているその表情とは裏腹に酷く穏やかな調子である。

 まさかある種の境地に達してしまったのだろうか。強すぎる恐怖心は、時に人格をも変貌させる。

 

「すごーい! なんだか、からだがふわふわとするよー? まるでぜんしんのたいじゅうがぬけおちちゃったみたーい!」

「……おい蓮子。メリーのキャラが完全に崩壊しちまったぞ。どうしてくれる」

「へっ!? え、えっと、そ、それは……。その……」

「そう言えばお前、蓮台野に行った時も妖夢をビビらせて泣かせてたよな? あの日からまるで成長してないとは流石だな」

「うわーん!? お願い帰ってきてメリー!?」

 

 何と言うか、もう滅茶苦茶である。と言うか、なぜ進一はあそこまで冷静なのだろう。寧ろ彼の方が先に悟りを開いてしまったのではないだろうか。

 

 そんな様子を目の当たりにして、妖夢は唖然とする事しか出来なかった。

 一体、どこから突っ込めば良いのだろう。あまりにも冷静すぎる進一か、或いはまるで成長していない蓮子か。それともこの際、変な意地を貫き通そうとしたメリーに突っ込みを入れるべきだろうか。

 

 妖夢がそんな阿呆くさい事を考えていると、完全に冷静さを失った蓮子が素っ頓狂な声調で、

 

「め、メリー、ごめんね? 謝るから、ね? だ、だから戻ってきてぇ!?」

「うふっ、うふふふふ……」

「あっ完全にやばいヤツだこれ。くっ……格なる上は……!」

 

 何やら決意を新たにしたような様子の蓮子は、奇妙な笑い声を上げるメリーの腕を引き始める。それから妙に気取った表情で、こちらにくるりと振り向いた。

 

「私、ちょっとメリーを蘇生してくる。進一君と妖夢ちゃんはここで待ってて」

「……えっ? 蘇生って一体何を」

「大丈夫、心配はいらないわ! だからここは私に任せて先に行って!!」

「ちょ、会話の内容が支離滅裂になってますよ蓮子さん!? 蓮子さーん!?」

 

 妖夢が必死に声を上げるが、そんな行いも虚しく終わる。彼女の言葉などまるで耳に入っていないのではないかと思う程の勢いで、メリーの手を引いたまま蓮子は走り去ってしまった。

 伸ばしたその手は空を掴む。嵐の如き蓮子の勢いにすっかり翻弄されて、妖夢も進一も完全に置いてけぼりにされてしまった。開いた口が塞がらない程度に唖然とした妖夢と、早々に色々と諦めて澄まし顔を浮かべる進一。

 

 そんな二人の間の沈黙にピリオドが打たれたのは、実に2分後の事だった。

 

「え、えっと……どうしましょう?」

「……あいつが待ってろって言うんなら、待ってればいいんじゃないか?」

「い、良いんですかね……?」

「大丈夫……だと思うぞ。多分」

「多分ですか……」

 

 それはまた、随分と曖昧な根拠である。

 

「ったく……。それにしても蓮子のヤツは何をやってんだか……」

「今日はいつにも増して物凄いテンションでしたよね……」

「まぁ、あいつはあいつなりに場を和ませようとしてくれたんだろ。折角の東京旅行だから、四人皆で楽しもうってな。ちょっとやり過ぎた感はあるけど」

「そ、そうですね……。蓮子さんらしいと言えばらしいですが……」

 

 再び手摺りに両手を乗せ、東京の街並みを見下ろす進一。確かに彼の言う通り、蓮子には蓮子なりの考えがあっての行動だったのだろう。折角の東京旅行、思い出作りをしなければ損である。そう考えれば、蓮子の暴挙も理にかなっていると言えなくもないのかも知れない。

 

「蓮子は姉さんに負けず劣らずの天然だからな。仕方ない」

「そ、それは……」

 

 最早、秘封倶楽部の間では周知の事実である。

 

「そう言えば、妖夢は大丈夫なんだな」

「……え? 何がです?」

「高い所だ。お化けとか苦手みたいだったから、俺はてっきり……」

「い、いや……。そもそも幻想郷や冥界ではしょっちゅう飛び回ってますからね。流石に高い所には慣れてますし、大丈夫ですよ」

「あぁ……。そう言えば飛べるんだっけ、お前」

「ええ。尤も、今は半霊を無くした所為で全く飛べなくなっちゃったんですけど……」

 

 お化けが苦手な時点で色々と問題なのに、高所も苦手となると白玉楼に仕える者として失格である。流石にそこまで重傷ではない。

 

「と言うか何でお化けが苦手なんだよ。冥界の住民は幽霊が殆んどなんだろ? そもそも妖夢自身が半分幽霊だし」

「あ、あのっ……。私は別に、お化けが苦手という訳ではなくて、怖いのが苦手というだけですからね? そこの所は勘違いして欲しくないと言いますか……」

「大して変わらんじゃないか……」

「大違いです!」

 

 そう。つまるところ、不意打ちなどのびっくり系が駄目なのである。来ると分かっていればどうって事はない――はず。幽霊などを見る度にいちいち飛び上がっているようでは、妖夢は既に心臓発作でも起こして死んでいる。

 

「ま、妖夢がそう言うんなら、そうなんだろうな。納得しておこう」

「むぅ……。何だか釈然としませんが、まぁ良しとしましょう」

 

 進一に習って、妖夢も東京の街並みを見下ろす。

 見渡す限りのビルの群れ。かつては多くの人々が行き交っていたのであろう巨大な交差点。所々に喧騒さの名残りが見て取れるが、神亀の遷都が行われた今、ここは日本の首都ではない。

 確かに街並みは美しい。美しいのだけれども。

 

「……何だか、ちょっぴり寂しい街ですね」

「そりゃあ、京都と比べるとなぁ」

 

 首都だった頃の東京は、一体どんな街だったのだろう。京都の喧騒さをそのまま持ってきた感じなのだろうか。それとも、この密集具合から考えて、今の京都以上に騒がしい街だったのではないだろうか。そこまで来ると、最早妖夢には想像もできないが。

 

 妖夢がそんな想像を膨らませていると、

 

「ふぅ……」

「……? どうしました?」

「いや……」

 

 意味深な溜息を零した後、進一は苦笑いを浮かべて、

 

「何だかこうして妖夢と東京も街並みを眺めるのも、変な感じだなぁと思ってな」

「変、ですか……?」

「ああ。何て言うか……。妖夢と始めて会った頃には、まさか一緒に東京まで来るとは思ってなかったからかな」

 

 進一は手摺りに背を向け、そのままそれに寄りかかる。

 確かに、それに関しては妖夢も予想外の出来事である。簡単には帰れないと覚悟はしていたつもりだったが、まさかここまで長期に渡って外の世界で生活をする事になるとは。

 それにしても、自分も随分と馴染んだなぁとしみじみ思う。キッチンを使って食事を作るだけでもわたわたしていたあの頃が懐かしい。今やカルチャーショックを受ける事も少なくなってきている。

 

「……そうですね。確かに、ちょっと変な感じです」

「ああ。図らずも二人っきりになっちまったし、その影響もあるのかも知れないけど」

「……えっ?」

 

 肩を窄めつつもそんな事を口にする進一。一瞬だけ彼が何の事を言っているのか分からなかった妖夢だったが、ぐるりと周囲を見渡す事でようやくその意味を理解する事になる。

 スカイタワーは、東京屈指の人気観光スポットの一つである。地上350メートルから街並みを一望できるその展望デッキは、まさに絶景スポット。田舎と言えど、そんな光景を目当てにして足を運ぶ人々も少なくはない。

 

 特に多いのは、そう。所謂、カップルというヤツである。

 

「……、あっ……」

 

 カップル。つまるところ、恋人同士の男女である。

 この辺りのデートスポットといえば水族館やプラネタリム等が上げられるが、当然ながらこの展望デッキも人気スポットの一つとなっている。もう数時間経過すれば日も沈み始めるだろうし、恋人と共に眺める壮観な夜景というものも、ベタながらロマンチックなのではないだろうか。

 そんな事もあり、スカイタワーにはカップルと思しき観光客も多い。そんな中で、妖夢と進一はこうして共に東京の街並みを眺めているのである。それ故に、ともすればひと組のカップルであるようにも見えなくもない。

 

「…………っ」

 

 そんな自分の状況に気がついた途端、あっという間に妖夢の頬に熱が帯び始める。慌てて進一から顔を背けるが、高揚した感情は心臓に早鐘を打たせていた。

 

(そ、そっか……。蓮子さんがメリーさんを連れてどこかに行っちゃったから……)

 

 それ故に図らずも、なのだろう。進一も進一で、多少なりともこの状況を意識していると言う事なのだろうか。

 

 それにしても、二人きり、か。こんなにも壮観な光景を前に、進一と二人きりになってしまうとは。

 

(うっ……。な、何だか心臓が……)

 

 物凄くドキドキする。彼の存在を意識すればするほど、妖夢の頬はますます熱くなっていった。

 先に断っておくが、別に恋人同士だと勘違いされる事に悪い気はしない。寧ろ気分は高揚してゆくばかりである。満更でもない、とでも言うべきだろうか。生まれてこの方恋人などいた試しもない妖夢であるが、もしも仮に進一がそのような間柄だったとすると――。

 

(……い、いやいやいや! そ、そんな事……!)

 

 止めど無く煩悩が溢れ出てくるような心地である。ちょっぴり意識を傾けた途端にこれとは。

 本当に、自分は一体どうなってしまったのだろう。思えば年末年始辺りから色々とおかしくなってきていたような気がする。進一と共にいると、急に動悸が激しくなったり。進一の事を考えると、急に身体が熱くなったり。

 進一と話していると、とても幸福な気持ちが溢れ出てきたり。

 

(な、何なの、この気持ち……?)

 

 いや。分からないはずがない。理解出来ないはずがない。

 今まで、こんな気持ちになった事なんてなかったから。こんな感情を抱く事なんて、始めての事だったから。それ故に、気持ちの整理に酷く時間がかかってしまった。素直な気持ちを抱くだけでも、四苦八苦してしまっていた。

 

 だけれども。今の妖夢なら、はっきりと分かる。

 彼女が進一に抱き続けていた、この気持ちの正体は。

 

(私は……)

 

 岡崎進一という、一人の青年の事が。

 

 

『……じゃあ逆に聞くが、お前はどうなんだ進一? 妖夢ちゃんとマエリベリーちゃんの事、どう思ってる?』

 

 その時。妖夢の脳裏に、()()()()()が投影される。

 

『あっ、それ私も聞きたーい! どうなのよ進一?』

 

 それは、遡ること約二ヶ月前。岡崎宅のリビングにて交わされた会話の内容。

 

『メリーはただの友達だし……』

 

 あの時、彼は。

 

『妖夢は……』

 

 率直に、かつ単刀直入に。

 岡崎進一はこう言った。

 

『……妹、みたいなものか?』

 

 

(あっ……)

 

 心臓を鷲掴みにされたかのような感覚に襲われた。

 どくんと、一際大きく胸の奥が震えたのを境にして。火照っていた妖夢の身体が途端にサッと冷え切って、頭の中が急激に冷却されてゆく。凍えるように身体の神経が機能しなくなってゆき、妖夢は立ち竦んだまま動けなくなってしまった。

 

 身体が鉛のように重い。頭の中は酷く冷静であるはずなのに、幾ら思考を働かせてもまるで言葉が出てこない。

 胸の奥が苦しい。呼吸をするのにも支障をきたすようになってきて、身体中が締め付けられるような痛みに襲われ始める。

 息が詰まる。膨れ上がるこの感情を受け止め切る事ができず、妖夢はただ俯く事しか出来なくなった。

 

(いもう、と……)

 

 頭の中で進一の言葉を復唱する。何度も何度も、五月蝿いくらいにその言葉が反響する。強引に、無理矢理に、乱暴に。自分自身に言い聞かせるように、妖夢は何度も噛み締める。

 それから、数十秒ほど経過しただろうか。

 

「……そうですよね」

 

 奇妙な程に垢抜けた声調で、妖夢は口を開いた。

 

「兄妹みたいなもの、ですからね」

「……妖夢?」

 

 当然、進一は不信感を抱く。あまりにも投げやり気味な妖夢の様子を目の当たりにして、彼も困惑を隠せないのだろう。至極自然な反応だ。

 しかし、それでも。構わず妖夢は喋り続ける。

 

「そりゃそうですよね。私って子供っぽいですし……未熟者、ですし……」

「……いきなりどうしたんだよ。なぜそんな事を言う?」

「いえ……。少し、再認識しただけです」

 

 そう。自分はまだまだ未熟者だ。

 剣の腕前だって半人前だし、だからと言って精神面でもそれ程秀でている訳もない。怖いものが苦手な臆病者で、お世辞でも頼り甲斐があるとは言えなくて。小柄で線の細い体格には、蓮子やメリー達のように女性としての魅力がある訳でもない。

 何もかもが不十分で、何もかもが中途半端だ。そんな自分を前にして、この青年はどう思う?

 『妹』。精々、その程度の認識止まりである。

 

「は、はは……。何考えてんだろ、私……」

 

 進一からしてみれば、妖夢はあくまで守るべき対象。それ以上でもそれ以下でもない。

 そもそも資格がなかったのだ。にも関わらず、対等の立場に立ちたいだなんて。

 自意識過剰も甚だしい。

 

「お、おい。本当にどうしたんだよ? 何だかちょっと変だぞお前」

「……いえ。別に、何でもありません」

「だが……」

「本当に大丈夫ですから。ご心配かけてすいません」

 

 別に、これまで通りの関係で良いじゃないか。それで何の不都合がある? 秘封倶楽部の一員として、倶楽部活動に貢献して。結界を暴きつつも、幻想郷への帰り道を探す。

 そうだ。そもそも妖夢の目的は、白玉楼へと帰る事だ。彼女には仕えるべき主がいる。もう四ヶ月以上も無断で留守にしてしまって、ひょっとしたら酷く心配をかけているかも知れない。それ故に、今は一刻も早く帰り道を見つけなければならないのである。

 

 だから。

 

「うつつを抜かしている場合じゃ、ありませんよね」

 

 そうボソリと呟くと、妖夢は顔を上げる。手摺りから手を離し、そして進一からも距離を取った後。

 

「私、メリーさん達の様子を見てきます。やっぱりちょっと心配ですし」

「え? あ、あぁ……。だが、蓮子はここで待ってろと言ってたんぞ。勝手に動くのはどうかと……」

「ですから、私一人で行きます。少ししたら戻って来ますので、もしも蓮子さん達と入れ違いになったらそう伝えておいて下さい」

「な、何だよそれ。お、おい妖夢……!」

 

 半ば一方的にそう言い放つと、妖夢は踵を返してしまった。そんな彼女を引き止めるように進一が声を上げていたが、それでも構わず歩き出す。

 いつも以上に大きな歩幅で、いつも以上に早い歩調で。背けるように、逃げ出すように。自分自身に言い聞かせ、無理矢理納得させるかのように。

 

 これはきっと、一時の気の迷い。外の世界に飛ばされて、長い間こちらの文化に触れ続け。少しばかり、酔っていたのだ。彼女が本来いるべき場所は、ここではないはずなのに。彼女が本来果たすべき役割は、他にあるというのに。こんな思いを抱くなんて、絶対に間違っている。

 

(そうだよ……、私は……)

 

 だから納得するしかない。

 だから思い込むしかない。

 それは頭の中では理解している。

 分かっているはずなのに。

 

(でもっ……!)

 

 だけど。

 

(やっぱり、無理だよ……!)

 

 幾ら自分に言い聞かせても。

 幾ら嘘をつき続けても。

 幾ら丸め込もうとしても。

 結局諦め切る事が出来ない。

 

 納得なんて、出来る訳がない。

 

 だって彼女は。

 魂魄妖夢は、紛れもなく。

 

 

 岡崎進一という青年の事を、好きになってしまったのだから。


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