それは、忘れもしないあの日の記憶。
『こいし……! 良かった……無事だったのね……』
鬼気迫る表情で、誰かが駆け寄ってくる。そして本当に救われたかのような表情を浮かべて、ホっと胸を撫で下ろしている。
『大丈夫……? 怖かったわよね。でも、もう大丈夫だからね……』
誰かが頭を撫でてくれる。和やかな表情で、穏やかな声調で。
『……いい? こいし。お姉ちゃんの言う事をよく聞いて』
するとその誰かが、芯の通った声調で声をかけてくる。
『貴方は今すぐ逃げなさい』
この人の気持ちは、何となくわかる。きっと他の誰よりも、私を強く気にかけてくれている。
『貴方なら、きっと気づかれずに逃げ切る事ができる。とにかくここから出て、地上へと上がって……。どこか遠くへ逃げるのよ』
でも、だからこそ。分からない。
『お姉ちゃんなら大丈夫。お燐もいるし、お空もいる。皆揃って、絶対貴方を迎えに行くから』
私は目を背けたのに。殻を作って、閉じ篭る事を選んだのに。
『だから一つだけ、お姉ちゃんの我儘を聞いてくれる?』
お姉ちゃんからさえも、逃げ出してしまったのに。
『貴方は……貴方だけは、生きて……』
分からない。
『お願い……』
分からないよ。
『だって、貴方は……』
どうして、お姉ちゃんは。
『たった一人の――』
どうして――。
***
「あっ……」
ぼんやりとした心地。ふわりと宙に浮かぶような感覚の後、途端にのしかかるずっしりとした気怠さ。ゆっくりと、ジワジワと、吸い出されるかのように。
「ぅん……」
束の間のまどろみの後、古明地こいしはようやく完全に目を覚ました。
未だに少しボーッとする思考を回転させて、こいしは周囲を見わたす。薄暗く、古臭く、埃っぽい部屋。六畳ほどの広さを持つ部屋だが、家具等は殆んど置かれていない為がんらんどうとした印象を受ける。中途半端に開いているカーテンから漏れる日の光が、部屋に舞う埃を照らしていた。
「寝ちゃってたのかな……?」
ふるふると頭を振るいつつも、こいしは立ち上がる。
どうにも記憶が曖昧だ。この気怠げな感じから考えて眠っていた事は間違いないのだろうが、一体いつの間に眠りについたのだろう。記憶の中を探ってみても、どうにもぼんやりとしてしまっていて思い出せそうにない。
(でも……)
なぜだろう。いつ眠ってしまったのかはまるで思い出せない癖に、あの夢の内容だけは記憶の中に残ってしまっている。いや、あれは夢と言えるのだろうか。
フラッシュバック。夢の中に投影されたあの光景は、間違いなくこいしが体験したものだ。忘れたくても、忘れられる訳がない。心の奥に強く刻み込まれてしまった、あまりにも深すぎる
(トラウマ、ね……)
他人の心を読み、そのトラウマを抉る事を生業としている覚妖怪が、あろう事かトラウマに苦しめられるなど。
(……皮肉もいいところだよね)
尤も、今のこいしは“覚妖怪”に分類されるのかどうかすらも微妙な所なのだけれども。
「起きましたか、こいしさん」
溜息を一つ零しながらもこいしが身体を上げると、真っ先に流れ込んできたのは凛とした透き通るような声。視線を向けると、そこにいたのはこちらの世界ではあまり似つかわしくない和装の女性だった。
やや小柄な身長。女性らしく丸みを帯びた体格。白銀色の髮。そしてその傍らに連れた、人の大きさ程の霊魂。こいしと共にこちらの世界に足を運んだ人物。
「うん……。おはよう、妖夢」
「ええ。おはようございます」
その女性――魂魄妖夢は、表情を綻ばせながらもそう答えてくれる。普段から堅苦しく厳格そうな表情を浮かべている彼女は、時偶こうして柔らかい表情を浮かべる事もあった。
軽く伸びをして身体を解した後、こいしはおもむろに立ち上がって妖夢のもとへと歩み寄る。
「えっと……。私、どのくらい寝てた?」
「……4時間程度、でしょうか。だいぶお疲れのようでしたから」
「うっ……。結構寝ちゃってたね……」
こいしは今も尚『能力』を使い続けている為、彼女達の存在が周囲に意識される事はないだろう。けれど流石にぐっすりと眠ってしまうと、『能力』が解れてしまう可能性もある。もしもそんな悪いタイミングで誰かが付近を通りかかりでもしたら、最悪面倒な事になりかねない。
こいしはその危険性を危惧していたのだが――。
「大丈夫ですよ。ここは廃棄された建物の一室ですし、人が近づく事はまずありません」
「うーん、そうだけどやっぱり万が一って事もあるし……」
「私だって、周囲への警戒は怠っていません。仮に何かあったとしても、すぐにお知らせしますよ」
「う、うん……」
そう言えば、思い返してみれば妖夢が眠りにつく瞬間をこいしは見た事がない気がする。だからと言って起床する瞬間を見た記憶もなく、当然ながら眠っている最中の姿を見た事もない。
ひょっとして、彼女は普段から全くと言っていい程眠っていないのではないだろうか。そう考えるとどうにも気になってきてしまったので、少し彼女に確認してみる事にした。
「ねぇ。妖夢って、いつ眠ってるの?」
「私ですか? こいしさんが眠っている間に私も眠ってますよ」
「えっ? でも見張ってたって……」
「あ、いえ。眠っていると言っても、完全に眠りに落ちている訳ではありません。周囲への警戒は怠っていませんし、言わば半分だけ眠っているという感じでしょうか」
「は、半分……」
そんな所まで半分で大丈夫なのだろうか。いや、それとも少し無理をしているのか。
その辺りについても気になったこいしだったが、仮にここでこいしが気にかけたとしても、妖夢の性格から考えて誤魔化されてしまうのがオチだ。それなら、これ以上踏み込む事は寧ろ避けるべきだろう。
「……そっか」
取り敢えず話を切り上げて、こいしは踵を返す。窓のカーテンを開け放つと、眩い朝日が部屋の中に流れ込んできた。思わずこいしは腕で陰を作る。
「もうすっかり朝だね。今って何時くらいなんだろ……?」
何気なくこいしがそう口にしてみるが、妖夢からの返事はない。別に答えを求めて呟いた訳でもなかったけれど、どうにも妙な感覚である。
こちらの世界に足を運んでから三ヶ月。当然、その間は殆んど妖夢と行動を共にしていた。故に彼女の人となりはそれなりに把握しているし、何を考えているかも何となくだが察する事が出来る。
第三の眼を閉じていても、古明地こいしが覚妖怪である事に変わりはない。『能力』を使って他人の心を覗き込む事ができなくとも、それ以外の読心術にも少しばかり長けている。そうでなくとも妖夢は非常に分かりやすい性格をしていた。
だからこそ、分かってしまう。こうして口籠もると言う事は、妖夢の心境は一つに絞り込める。
「あの、こいしさん」
予感通り、妖夢が口を開く。
「何か悩みがあるのなら、遠慮せずに私に相談してみてください。一人で抱え込むよりも、誰かに話してしまった方が楽ですよ」
そして予感通り、妖夢は優しげにそう声をかけてくれた。
全く。本当に、何と言うか。
分かりやすい人だなと、こいしは思う。あまりも分かりやすくて、あまりにも優しすぎて。そして、あまりにもお人好しだ。こんな状況に追い込まれても尚、他人に気を遣う事を選ぶなんて。
「……悩み、ね」
妖夢がそんな気持ちを向けてくれる事は、正直嬉しい。ペットや家族以外でこんな気持ちを向けてくれる人なんて、彼女が始めてだったから。
「眠っている間、うなされていたようでしたから……。何か、嫌な夢でも見たんですよね?」
だけれども。結局の所、彼女は他人止まりである。
幾らこいしの事を気にかけてくれているのだとしても、彼女はこいしのペットではないし、況してや家族などでもない。今回の件だって、たまたま利害が一致した為の一時的な協力関係というだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
それ故に、だからこそ。
“弱さ”までを彼女に曝け出すつもりはない。
「……心配してくれてありがと。でも大丈夫だから」
「そう、ですか……?」
不安気な声調。妖夢らしいといえば妖夢らしい。
「ああ、そうだ。それじゃ、一つだけお願い出来るかな?」
けれども。今のこいしにとって、そんな気遣いはただのお節介でしかない。
「はい。なんでしょう?」
余計なお世話というヤツだった。
「……今日は、一人にさせてくれないかな?」
束の間の沈黙。それが妖夢の返答だった。
面を食らっているのか、それともこいしの心境を汲み取ってくれたのか。まぁ、おそらくその両方だろう。こいしの気持ちを理解した上で、彼女は面食らってしまっている。
こいしが妖夢へ視線を向けると、彼女は気まずそうに顔を逸らす。今の自分にはどうにもできないと、そう何となく悟っているのだろう。
その判断は正しい。余計な心配をしつこく向けられるくらいなら。
いっそ冷たく突き放される方が余程マシだった。
「……分かりました」
か細い声で、妖夢が口を開く。
「それでは、私はこれで」
「……うん」
そんなやり取りを最後に。妖夢は踵を返して、部屋から去って行った。
***
二月もそろそろ終わりが近づき、もう直ぐ三月に入る今日この頃。屋外に足を踏み出すと、相も変わらず冷たい空気が肌に突き刺さってきた。
ふと空を見上げると、今日は雲一つない晴天である事が見受けられる。青で塗りつぶされたこの空を見ていると、自然と心も澄んでくる。朝から沈み気味だったこの気持ちも、ほんの少しだけ晴れてくるような気がした。
白い息を吐き出しながらも、こいしは一人とぼとぼと歩く。幼い少女がたった一人で街中を歩いているこの様は、傍から見れば少々気になる光景である。両親とでもはぐれてしまったのかなと、そう気にかけられて声でもかけられそうな状況であるが――。しかしすれ違う人々はこいしに声をかけるどころか、見向きさえもしていない。
それもそのはず。今のこいしは『能力』により無意識の領域に入り込んでいる状態だ。周囲の人々にとって、今のこいしはそれこそ道端に転がっている“小石”と同じようなものであり、その存在に意識を向ける事ができないのである。
いや、意識を向ける必要がないというべきか。態々足元の“小石”を気にかけながらも生活している人間なんて、常識的に考えてまずいないだろう。そんなものにいちいち気を遣うくらいなら、今日の夕飯はどうしようかとか、そんな他愛もない事を考えていた方が余程有意義で実用的だ。
言うなれば、今のこいしは本当の意味でひとりぼっちなのだ。
誰にも相手をされることはなく、誰にも意識を向けられる事もなく、誰かに気遣われる事もない。第三の眼を閉じ、覚妖怪としてのアイデンティからも逃げ出した一人の少女の末路である。逃げ出して、目を逸らして、殻に篭って。その結果、彼女は“意識”からさえも背く事を選んだ。
『無意識を操る程度の能力』。随分と仰々しい名前の能力であるが、その本質は何て事のない、臆病な少女の気持ちを体現しただけのものだ。
誰かに嫌われるくらいなら、そもそも最初から気に入られなければいい。そもそも最初から、誰とも関わらなければいい。
心を読んで嫌な思いをするくらいなら、ひとりぼっちでいる方が余程マシだ。
心を閉じた一人の少女の、歪んだ結論。それがこの『能力』の本質だった。
「さてと……」
歩きながらも、こいしは呟く。
「……どうしようかな」
一人でこうして街中を歩いていたこいしだったが、特に何か宛がある訳ではない。こちらの世界に足を運んだ
目的達成の為の手掛かりが全くない訳でもないが、それでも“真実”に辿り就く事が出来ない。言うなれば、あと一歩が届かないような状況だった。
「はぁ……」
思わず溜息。まさかここまで上手くいかないとは思わなかった。
ひょっとしたら、自分達はとんでもない人物の足取りを追っているのではないだろうか。そんな予感が脳裏に過ぎるが、こいしは直ぐにそれを払拭する。
(関係ないよ、そんなこと)
相手が誰だろうと関係ない。ここまで来て何も掴めず帰るだなんて、そんな事は出来る訳がない。
まだ負けた訳じゃない。こんな所で諦めてたまるか。
「……ん?」
そんな事を考えながらも街中を歩いていると、とある人物がこいしの視界に入り込んできた。
駅の前。そこで項垂れている一人の青年の姿である。歳は、二十歳前後くらいだろうか。平均的な体格に、どちらかと言えば整った顔立ち。特に目立っていた訳でもないが、こうして視界に入って来た理由は彼が見覚えのある青年だったからだろう。
クリスマスイブのあの日。こいし達が
「あの人……」
何をやっているのだろう。項垂れているという事は、何かがっかりする事でもあったのだろうか。一度あんな様子が視界に入ってしまうと、やはりどうにも気になってしまう。こいしは元々、好奇心旺盛な少女なのである。
それに。
(……うん。そうだよね)
色々と気になる事もある。
束の間の思案の末、意を決したこいしは彼のもとへと駆け寄る。しかし『能力』を使い続けている為、この距離まで近づいても彼は全く気づかなかった。我ながら中々強力な『能力』だなと常々思う。
けれど、今回ばかりは気づいてもらわなければ都合が悪い。これは確かに強力な『能力』だが、ただ単に周囲の意識をちょっと弄っているだけで姿を消している訳ではない。誰かに気づいて貰う事くらい、実は簡単な事なのだ。
その方法とは。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。そこで何してるの?」
こちらから明確に意識を傾けて、ちょっと声をかけるだけ。それで解決である。
***
都内某所の駅前。そこで一人、岡崎進一は項垂れていた。
二月下旬。三月にも差し掛かりそうな時期の事である。そろそろ真冬も終わりを告げ、徐々に気温が高くなってきても良い頃だとは思うのだが、そんな希望的観測とは裏腹に今日の京都も肌寒い。テレビ放送の天気予報曰く、今年は例年よりも冬の期間が長いだとか、強い寒波が京都全土を覆っているだとか云々。とにもかくにも、寒い気候はまだまだ続くらしい。
先に断っておくが、別に進一は冬が嫌いという訳でもない。冬には冬の良さがあると思うし、一概に季節そのものを否定したりするつもりはない。
けれども、どうだろう。厚着でもしなければ凍えてしまいそうな寒波の中、こうして外に突っ立たされるような事になったら。幾ら進一でも流石に嫌になってしまうのである。
しかもそれだけではない。
「……マジかよ」
思わず呟く彼の視線の先にあるものは、スマートフォンのディスプレイだ。そこに表示されている短い文章を読み直す度に、落胆にも似た脱力感がずっしりとのしかかってくる。いや、これは落胆なんかじゃない。色々なものをすっ飛ばして最後に呆れだけが残るような、そんな疲労感である。
ディスプレイから視線を逸らして、進一は嘆息する。
「これはあれか。ドタキャンというヤツか」
なに、考えてみれば意外と大した事のない。彼がさっきまで眺めていたのはついさっき受信した一通のメールで、その内容は簡単に数行だけ。結論から言ってしまえば、急用ができたので来られないと、その旨を伝えるメールだった。
送り主は我らが秘封倶楽部のリーダー格である少女、宇佐見蓮子である。
『秘封倶楽部の活動を今後も円滑に進めていく為にも、やっぱり軍資金の確保は必要不可欠だと思うのよ。という訳で進一君! ちょっと手伝って!』
昨晩、突然そんな電話を寄越して一方的に進一をこんな所に招集した蓮子だったが、数分前にまた突然送りつけてきたのがこのメール。完全にドタキャンというヤツである。
訳が分からない。一体何がしたかったんだ、彼女は。しかもこのメールの内容、意図的に進一の神経を逆撫でしようとしているとしか思えない。ひょっとしてあれか、彼は遊ばれているのだろうか。
「そもそも何なんだこの顔文字は。テヘペロってか。やかましいわっ」
思わずスマホを投げつけそうになる進一だったが、こんな事でスマホ一台をおシャカにする訳にもいかないので何とか踏みとどまっておいた。
軍資金がどうのこうのと言っていたので、十中八九進一にバイトでも手伝わせるつもりだったのだろう。それならそれで別に構わないのだが、呼び出すにしても事前にもっと予定を確認しておいて欲しいと常々思う。まぁ、何も言わずにいつものように遅刻されるのと比べると、連絡を入れてくれる分だけ多少マシなのかも知れないけれど。
「ったく。本当にあいつは……」
あんな少女がリーダー格で本当に大丈夫なのだろうか。秘封倶楽部の今後がちょっぴり心配になってきた進一なのだった。
「……仕方ないな」
特に予定もないし、蓮子が来ないのならばいつまでもこんな所にいても仕方がない。無駄に身体が冷える前に帰る事にしよう。
出鼻をくじかれたような心境に陥りながらも、進一はスマートフォンをポケットに仕舞う。それから渋々と踵を返して、彼は帰路に就こうとする。
その直後。声をかけられた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。そこで何をしてるの?」
あどけなさを多く残す、幼い少女の声だった。
進一は反射的に足を止める。この声、聞き覚えがあるような、ないような。声だけを聞くと幼い少女のようだが、こうしてフレンドリーに声をかけてくる幼い少女の知り合いなど、進一にはいなかったはずだ。
けれども、何だろう、この感じ。脳裏にこびりついて離れないような、この妙なイメージは。
「…………っ」
進一はおもむろに振り返る。その直後。
絶句した。
「えへへっ! ちょっと久しぶり、かな?」
所々にフリルがあしらわれた上着。花の柄が描かれたスカート。鴉羽色の帽子。無邪気な笑みを進一に向ける、小学生くらいの体格と容貌の少女。
脳裏に映るイメージが鮮明になる。あの時の感覚が徐々に蘇ってくる。忘れる訳がない。目の前にいるこの少女は、紛れもなく――。
「古明地、こいし……」
「あっ、名前覚えててくれたんだ。えへへ……ちょっと嬉しいかも」
裏も表も感じられない、純粋無垢な笑み。それが却って不気味に思えて、進一は思わず身を引いてしまう。頭で理解するよりも早く、神経が反射的に危険性を判断する。
嫌でも警戒せざるを得ない。だってこの少女は、あまりにも
「……その反応はちょっと傷つくかも」
「…………ッ」
心臓を鷲掴みしされたような感覚とは、この事だろうか。まだ寒い季節だというのに背筋には嫌な汗が滴り、息が詰まって呼吸が上手く出来なくなる。それが恐怖心だと理解するのに、あまり時間は要さなかった。
こんな幼気な少女を相手に、ここまで強い恐怖心を抱く事になるなんて。
「……、今度は」
やっとの思いで、口を開く。
「今度は、何が目的だ……?」
「へぇ……随分と警戒してるんだね? まぁ、仕方ないか……」
彼女の声調はどこまでも幼い。幼気で、純粋で、あまりにも潔白だ。
進一は息を飲む。何なんだ、こいつは。一体何を考えている? 純粋無垢で幼気な少女である事は分かるのに、それ以上の事が何も見えてこない。
この、何もかもか噛み合わないような違和感。本当に、気味が悪い。
「そんなに警戒しなくても大丈夫! クリスマスイブの時みたいな事はしないからさ」
こいしが笑みを浮かべる。相も変わらず考えが読めず、その言葉だって嘘か真か判断しにくいのだけれども。
こうしていつまでも固まっていても仕方がない。相手は得体の知れない少女だが、進一にだって意地がある。いつまでも守りに回り続けるなんて御免だ。
進一は大きく深呼吸して、慎重に呼吸を整える。心臓の鼓動は未だに五月蝿いくらいだが、先程までと比べると幾分か落ち着いてきた。頬を滴る汗を拭った後、彼はこいしに向き直る。
「うんうん、その調子。ついでにその警戒心も解いてくれたら嬉しいんだけどな」
「……お前は何だ? 人間じゃないのか?」
「うわ、直球だね」
あどけない反応を見せるこいし。その仕草だけを見れば本当に幼い少女としか思えないのだが――。
「今更普通の人間だなんて言わないよな? あの『能力』の事だってそうだ。お前は何か、根本的な部分が明らかにおかしい。人間じゃないんなら、お前は一体何なんだ? 妖怪か? それとも……」
「ちょっと待って。人に何かを尋ねる前に、まずは私の質問に答えてよ」
「お前の質問、だと……?」
「ほら、最初に聞いたでしょ? こんな所で何をしてるのかーって」
「あ、ああ……。確かに、そうだったが……」
それは進一に声をかける為の口実か何かじゃなかったのか。
この少女、本当に何を考えている? そんな事を進一から聞き出して、一体何になるというのだろうか。
「……別に、何もしてない」
困惑を隠し切る事は出来なかったが、取り敢えず答えてみる事にする。
「知り合いと待ち合わせをしていて、でもドタキャンされた。だからさっさと帰ろうと、そう思っていただけだ」
「ふーん、そうだったんだ」
それからこいしは、少しだけ考え込むような素振りを見せた後、
「という事は、今は予定も何もなくて暇だって事だよね?」
「……そう言う事になるな」
相槌を打って答えると、こいしは何とも嬉しそうな表情を浮かべた。
まさに満面の笑み。満足のいく答えが返ってきて、ご満悦なのだろうか。何を以てそんなに嬉しそうな表情を浮かべているのかは知らないが、その感覚が余計に進一を困惑させる。
「ねぇ、お兄ちゃん」
そんな奇妙な感覚に振り回されていると、突然こいしが進一の手を引いてきた。
当然、進一の困惑は更に高まる事となる。
「……今度は何だ?」
「暇なんでしょ? だったら私と遊ぼうよ! 丁度私も暇だったし」
「なんだと?」
それは、一体どういう意味なのだろうか。
「……何を企んでいる?」
「企んでるって……、人聞きが悪いなぁ……。別に何も変な事は考えてないよ。本当にお兄ちゃんと遊びたいだけなのっ」
むくれ面を浮かべつつも、こいしがそう答える。
何が何だか、訳が分からない。子供のようにいじける今の彼女からは、裏も表もまるで感じられない。進一を陥れようだとか、そういった悪意を向けられている感覚もない。
まさか、この少女。
(本当に、何も企んでいないのか……?)
だとすれば。彼女の真意は、一体――。
「ねぇいいでしょ? 遊ぼうよー」
「手を引っ張るな……」
「むぅ……。あっ、ひょっとして、『子供の飯事になんか付き合えるか!』って言いたいの?」
「別に、そういう訳じゃ……」
この場合、一体どうすればいいのだろう。どれを選択するのが得策なのだろうか。
進一がそんな思考を巡らせていると、
「もう、しょうがないなー。じゃあ交換条件なんてどう? もしも一緒に遊んでくれたら、私がお兄ちゃんに何かしてあげる。よし、それで決まりだね」
「おい、勝手に話を……」
「それじゃあ何をして欲しい? えっちぃ事とか?」
「する訳ないだろっ」
思わず反射的に突っ込んでしまった。
一体何を口走っちゃってるのだろう、この少女は。まさか本当に何も深い意味はなく、ただ単に進一をからかいに来ただけなのだろうか。
「えー、つまんない! お兄ちゃんの甲斐性なし!」
「いや甲斐性なしとかそういう問題じゃないだろう……」
「じゃあどうすればいいの? えっちぃ事が駄目なら……」
「あぁ、もう分かった。分かったから」
流石にいたたまれなくなった進一が、口を挟んでこいしを制する。これ以上、彼女に妙な事を口走らせるのは色々とまずい気がする。見た目が幼い少女であるだけ特に。
深々と溜息をした後、進一は頭を振るってこの不安感を払拭する。
あれこれと詮索してしまったが、これ以上は時間の無駄だ。幾ら進一が探りを入れてもこいしの真意は分からないし、一方的に振り回されるだけ振り回されて終わりだ。まるで本当に幼い少女の相手をしているような、そんな心地である。
「今日一日だけだ。それで良いなら付き合ってやる」
「本当っ!?」
「ああ。これ以上腹を探っても無駄みたいだしな……」
彼女が何を考えているのかなんて未だに見当もつかないし、完全に警戒心を解いた訳でもない。
けれど、いつまでもこんな事で時間を取られるくらいなら。いっそのこと彼女の要求を飲んでしまえと、半ばやけくそでこいしの事を受け入れる事にした。
勿論、彼女が危険な存在であるという認識はある。認識はあるのだけれども。
「やったー! ありがとう! お兄ちゃんだーい好き!」
「うおっ、急にひっつくな」
ここまで無邪気な様子を見せつけられてしまうと、本当に毒気が抜かれてしまうような。そんな奇妙な心境の変化を、進一はひしひしと感じていた。
「よーし、それじゃさっそく行こ! 実はこの街、じっくりと見て回った事なかったんだよねー。案内してよお兄ちゃん!」
「ちょ、待て。だから引っ張るなって」
こいしがぐいぐいと手を引っ張ってくる。何だか早くもどっぷりと疲労感を感じてきたような気もするが、受け入れてしまった以上は彼女に付き合うしかないだろう。
けれども、その前に。この少女には、どうしても確認しておかねばならない事がある。
「おい、だからちょっと待てって」
「んー? なーに?」
「俺は質問に答えたんだ。だからお前も俺の質問に答えてくれよ」
彼女に付き合う以上、その素性は知っておかねばなるまい。
「お前の正体を教えてくれ。人間なのか、それとも別の何かなのか」
あんな『能力』を持っている以上、少なくとも普通の人間ではない事は確実である。蓮子やメリー、そして進一の持つどの『能力』とも根本から違う。明確に他人に関与し、その無意識さえも操る事が出来る異能。
そんな芸当をやってのけるのは、この幼い少女なのだ。容姿だけから推測すれば、精々小学生程度。こんな少女が自らの『能力』をあんな風に扱うなど、あまりにも奇妙で胡乱だ。
「私の正体、ね……」
そんな質問をした所で、この少女が素直に答えるはずがない。
駄目元で踏み込んだ進一だったが。
「そうだね。それじゃあ、改めて自己紹介」
進一の予感とは裏腹に。
今回の古明地こいしは、驚く程に素直だった。
「私の名前は古明地こいし」
進一から身体を話し、くるりと一回転してから彼女は再び向き直る。
「読心能力を捨てた覚妖怪だよ」
管のようなもので繋がれた群青色の眼は、まるで全てを拒むかのように固く閉じられたままだった。
***
時に、魂魄妖夢は実に家庭的な性格をしている。
それが如実に現れるのは金銭管理で、彼女は普段から必要最低限の金額しか持ち歩かない事にしている。初めから持っていなければ、無駄使いしてしまう事もないだろうと。そんな単純な観測からの行動だが、そこまで徹底しなければどうにも違和感が残ってしまうのである。
無駄遣いなど以ての外。限られた金額の中で、何とかやり繰りしなければならない。白玉楼では常日頃からそう心がけて行動し続けていた為、完全に癖として身に染み付いてしまっている。
何とも息苦しい金銭感覚だが、彼女がこうなってしまったのには大きな原因がある。庭師という名目でありながら家事炊事までも熟していた彼女にとって、ある意味トラウマにもなりかねない驚異的な要素。
結論だけを言ってしまえば、西行寺幽々子の食欲である。
「えっと、今日はこの時間からタイムセール……。でもあのお店でお野菜の安売りをしてるから、先にそっちに……」
メモを片手にぶつぶつと呟きながら歩く妖夢のその様は、宛ら一昔前の主婦である。予め広告等で得た情報から徹底的に予定を立て、最低限の金額で夕飯の買い出しを済ませるつもりだ。
あまり多大な金額をかける訳にはいかない。きっちと、予定通りに買い物を済ませなければならない。
「……うん。これならかなり抑えられそう」
メモから視線を上げて、妖夢は一人頷く。
「まさかエンゲル係数がここまで低い事があるなんて」
白玉楼にいた頃には考えれない事態だった。
西行寺幽々子の食欲を一言で言い表せば、暴食である。毎日毎日とにかく凄まじい量の食事を要求し、しかもぺろりと食べてしまうのだ。朝起きたら取り敢えずどんぶり十数杯分のご飯を平らげ、間食に大量のお饅頭を食べた後に昼食(朝食を軽く超える量)を平らげる。更には再び間食と称して今度はお煎餅を大量に食し、一日を締めくくるのはとんでもない量の夕食である。
食事の量も然ることながら、最も驚くべき点はそこまでの健啖家であるのにも関わらず抜群のプロポーションを保ち続けているという点だろう。まさに出るべきところだけは出ているというスタイル。代謝が良いどころの騒ぎではない。流石に華奢という訳ではないが、その程よい肉付き加減は寧ろ健康的であると言えるだろう。亡霊なのに。
いや、寧ろ亡霊だからこそあのプロポーションを保てているのではないだろうか。幾ら食べても太らないというあの体質が、亡霊の特有性なのだとすれば。幾ら何でもズル過ぎると、妖夢もちょっぴり思ってたりする。
話を戻そう。とにもかくにも、白玉楼の消費支出は幽々子の食費が大半を占めていると言って過言ではないのである。それ故に金銭管理は徹底して行わなければならないのだ。
ちなみに、主を説得して食事量を抑えてもらうという試みは、とっくの昔に諦めている。そんな事をした所で焼け石に水。彼女の圧倒的な食欲は、最早誰にも止められない。
酷い時はエンゲル係数が六割を超える事もある。そこまで来ると最早思考を停止して食材だけを買い続けているようなレベルだが。
「ふふっ。いい感じ、いい感じ」
それにしても、何だか楽しくなってきてしまった。まさかここまで食費を抑えられる事ができるなんて。白玉楼ではまず有り得ない状況である。今の内に堪能しておかなければ。
っと、妖夢がそんな奇妙な趣味に目覚めそうになった時だった。
「……あれ?」
見覚えのある人影を、妖夢の視覚が捉えた。
人が行き交う交差点。その先を凝視すると、やはり見覚えのある人物が誰かを連れて歩いている事が分かる。いや、
「……進一さん?」
紛う事なき、岡崎進一その人だった。
なぜ彼がこんな所にいるのだろう。確か、蓮子に呼び出されたなどと言って妖夢より先に外出していたはず。という事は、彼はまた蓮子に振り回されているのだろうか。
相変わらずの光景だなぁと、そんな暢気な心境で妖夢は彼らの後ろ姿を眺める。
しかし。進一の手を引いて歩くその少女を視界に捉えたその瞬間、妖夢は足を止めて身を乗り出す事となった。
「えっ……!?」
宇佐見蓮子――ではない。
鴉羽色の大きな帽子に、フリルがあしらわれた上着。そして花の柄が描かれたスカート。そんな服装に身を包むのは、蓮子の歳とはかけ離れた幼い少女だった。
「あの子……!」
見覚えのある少女。忘れる訳がない。
始めて会ったのは二ヶ月前。十二月中旬。確か、二日酔いの夢美の為に薬を買いに行った帰りだったか。
意味深な言葉を口にして、奇妙な感覚だけを残して去って行った、あの少女は。
「こいしちゃん……?」
古明地こいし。クリスマスイブのあの日、進一を誘拐した張本人だった。
妖夢は息を呑む。なぜだ。なぜ進一が再びあの少女と共にいる? まさかクリスマスイブの時と同じように――。
「い、いや、でも……」
あの進一が、同じヘマを二度も繰り返す事などするのだろうか。
いや、相手は得対も知れない少女だ。再び進一を利用して、何か妙な事でも企てているのではないだろうか。それに、あの時は命ばかりは奪わなかったのだけれども、それが今回も同じであると断言出来る保証はどこにもない。下手をすれば、今度こそ――。
(進一さん……!)
彼の身が危ない。
予定を立てた買い物の事など、すっかり頭から抜け落ちて。妖夢は進一達の足取りを追い始めるのだった。
新年、あけましておめでとうございます。年明け早々の更新です。
先月は諸々の理由から更新を一度しか行なえなくて申し訳ありません。ですが今年からは心機一転。なるべく安定した更新ペースを心がけたいと思っております。
本作はまだまだ終わりません。今年もよろしくお願いします。