朝型と夜型という言葉がある。文字通り、活動時間が主に朝や昼なのか、それとも夜なのかを分類する際に用いられる通称だ。
基本的に人間の社会は朝から昼の活動をメインに構成されているが、近年では夜型の生活リズムとなってしまっている人も多くなってきていると聞く。仕事の関係か、或いはただ遊んでいるだけか。とにもかくにも、この現代社会においては、特に都心などは昼だろうが夜だろうが街の活気も変わらなくなってきている。
昼は昼で都心は数多くの学生や社会人でごった返しているし、夜は夜でまた違った賑わいを見せている。眠らない街とはよく言ったものだ。都心が静まり返る事なんてまず殆んどない事で、どんな時間でも誰かしらの喧騒で良くも悪くも賑わっているのである。まぁ、当然例外も存在するが。
朝型か、夜型か。その少女――火焔猫燐は、どちらかと言うと前者だ。妖怪は夜行性などという印象が一部の人間の間では広まっているらしいが、別にそんな事はないとお燐は思っている。例えば彼女の友人である地獄鴉の少女も別に夜行性という訳ではないし、主である覚妖怪も生活リズムは普通の人間とそう変わらない。あまり先入観だけで妙なレッテルを貼らないで欲しいものだ。
話を戻そう。ともあれお燐は朝型で、起床する時間も普段から早い。外の世界に来てからはそれがより顕著になり、ここ最近は日が昇り出す前に目を覚ましてしまう事もあるくらいだ。いや、それについては真っ当な理由があるのだけれど。
最早ある種の生活リズムが形成されつつある。目覚まし時計をセットせずとも身体が時間を覚えてくれているようで、いつも程良い頃合に目を覚ます事になる。
どうやら、それは今日とて例外ではなかったらしい。
「ぅん……」
くぐもった声を上げながらも、お燐は目を覚ました。
欠伸を噛み殺しながらも時計を確認すると、アラームをセットした時間の5分前である事が分かる。また微妙な時間に目を覚ましてしまった。今更5分間二度寝した所で、目覚めが余計に悪くなるだけだろう。起きてしまうしかない。
「ふぅ……」
ベッド代わりのソファから飛び降り、お燐は短く深呼吸する。
未だに日も昇り切らぬような早朝である。空気はひんやりと冷たい。2月もそろそろ半ばを過ぎるが、季節は冬である。この様子では、京都の寒波はまだまだ続きそうだ。
「さて、と」
取り敢えずお燐はリビングを抜け、廊下に出てから手前の扉を開ける。
6畳程の寝室。意外にもきっちりと片付けられているその部屋の隅に置かれたベッドの上。そこでスヤスヤと寝息を立てている一人の女性がいる。
白を基調とした寝巻き。金色の髮。小柄な体格。
比較物理学を専攻する大学教授、岡崎夢美の助手を勤める人物。北白河ちゆりその人だった。
「流石にまだ寝てるか……」
お燐は思わずそう呟く。まぁ、日も昇らぬようなこの時間帯じゃ、起きている人の方が少ないのだろうけれども。
なぜお燐がちゆりの部屋で寝泊まりしているのかの説明は、今は取り敢えず置いておく。そっと寝室の扉を閉めると、お燐は何も言わずに踵を返した。時刻はまだ早朝。態々こんな時間帯に起こす必要もないだろう。
「よしっ……」
それでは何故、お燐はここまで早い時間に起床しているのか。その理由は一つである。
「早速行こうかな」
***
いつも通りの黒いゴスロリ服を着込んだお燐が向かったのは、徒歩で数十分の所に位置しているとある公園だった。
何でもこの辺りでは最も大きな敷地面積を持つ公園らしく、周囲をぐるっと一周するだけでも数十分は余裕でかかる。人工的に植えられた芝や木などの緑が多い公園で、都会とは思えぬ程に爽やかな印象を受ける場所だ。
当然昼ごろになれば遊びに来た子供達などで賑やかになるのだろうが、生憎この時間帯では静けさの方が強い。人が全くいない訳でもないが、それでもやはり真昼の喧騒と比べると寂しく思えてしまう。ここは確かに京都だが、外れであって都心ではないのだ。同じ都内であっても、意外と騒がしさにも差があったりする。
「多分いつもの所に……。おっ、いたいた」
公園の丁度中心部分。大きな広場となっているそこに、一人の少女の姿が確認できた。
動きやすそうなジャージ姿の、小柄な少女である。短めに切り揃えられた白銀の髮に、頭の上には黒いリボン。ベンチに竹刀を立てかけて、手首や腕のストレッチを念入りに行っているようだ。
どうやら、丁度いいタイミングで来る事ができたらしい。小走りで駆け寄りながらも、お燐は彼女の名を呼んだ。
「おーい! 妖夢ー!」
名前を呼ばれた少女――魂魄妖夢は、ストレッチを一旦止めてこちらへと視線を向ける。それから和やかな表情を浮かべて、お燐に返答してくれた。
「あ、お燐さん。おはようございます」
これこそ、火焔猫燐が早朝に起床した理由である。一月上旬のあの日から、彼女は毎日妖夢の朝稽古に同行している。
別に、何か妙な目的がある訳ではない。確かにこいし達の力にはなりたいし、お燐なりに『異変』についても手掛かりを探りたいとは思っている。けれども、この朝稽古に関してはそんな事は関係ない。ただ純粋に、妖夢の事が心配なのだ。
「おはよ。今日もいつも通りの朝稽古?」
「ええ。すいません、毎朝こうして付き合わせてしまっているみたいで……」
「いやいや、気にしないで。と言うか、あたいが勝手に足を運んじゃってる訳だし」
別に妖夢に頼まれて朝稽古に付き合っている訳ではない。言ってしまえば、半ば勝手にこの公園まで足を運んでしまっているようなものだ。
何か、妖夢の力になってあげたい。お燐の気持ちはその一つである。どうして子供の妖夢がこの時代に迷い込んでいるのか、どうして半霊を失っているのか。それは今のお燐には分からないし、直接手を貸すことはできないのだけれども。
(でも……。やっぱり、何かしないと)
お燐が協力する事で、少しでも妖夢の稽古が捗るのならば。力を貸す事に躊躇いはない。
「ねぇ妖夢。その竹刀って、二本くらい持ってたりする?」
「え? あ、はい。二本セットの物を買ったので」
「ふぅん……。それじゃ、ちょっと一本借りてもいいかな?」
「……? それは別に構いませんが……」
首を傾げつつも、妖夢は竹刀袋から使っていないもう一本の竹刀を取り出す。それを彼女から受け取って、お燐はそれとなく構えてみた。
思っていたよりも軽い。どうやら中身は空洞になっているようで、見た目ほど重量はなかったようだ。まぁ、実際に競技で使われる際はこれで殴り合うのだから、あまり殺傷能力があるのも問題なのだろうけれど。
「……成る程ね」
ともあれ、これなら何とかなりそうである。
「よーし! 剣の打ち合い、あたいが相手になるよ!」
「へっ……!? お燐さんが、ですか……?」
驚きを露わにする妖夢。そんなに意外な提案だったのだろうか。
「うん。だって、ほら。やっぱり一人じゃ限界があるでしょ? 型の確認とか素振りくらいしか出来ないだろうし」
「そ、それは、そうですけど……。でも、大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」
「防具とかありませんし……。そ、それに、あのっ……。お燐さんって、剣とか扱えるのかなぁと」
つまり彼女はお燐の経験を危惧しているという事か。
心外である。確かに剣など殆んど扱った事はないが、お燐はこれでも火車。地底で長い年月を過ごした妖怪だ。地底とは、地上から追いやられた訳あり妖怪が住まう地。血気盛んな鬼達がその大半を牛耳っており、一歩旧都に足を踏み入れれば喧騒や騒動が絶えない無法地帯っぷりが見て取れる。
そんな世界で生き抜く為には、それなりの
回りくどい言い方をしてしまったが、要するにお燐はこう見えて結構強いのである。剣の扱いだって、すぐに慣れて多少は妖夢の相手になれるはず。
「ふふん。妖夢はちょっとあたいを舐めすぎなんじゃないかな?」
「す、すいません……。その……、お燐さんは運動が苦手だとお聞きしていたので……」
「えっ……? だ、誰から聞いたのそれ……?」
「進一さんから……」
おのれあのお兄さん余計な事を。
「ご、誤解だよー。全く、あのお兄さんはあたいのどこを見てそう感じたんだか」
「クリスマスイブの日……。最初に私を運ぼうとしてくれたのはお燐さんなんですよね? でもすぐにばてちゃって、それで進一さんと交代したと……」
「ぐっ……!?」
ぐうの音も出ない。
「と、とにかく大丈夫だって! ほら、遠慮なくかかってきなよ!」
「は、はあ……」
この話題は止めだ。お燐の運動云々なんて、今に分かる事だろう
確かにあの時はすぐにバテてしまった。けれどそれはこの姿にまだ慣れていなかったからだ。二ヶ月近く完全な人間の姿に化け続けた結果、今は猫の姿に戻らずとも安眠できる程に順応している。この状態なら、それなりの力を発揮する事だって可能なはずだ。
「さあ! あたいはいつでもいいよ!」
「そ、それじゃ……。いきますね?」
ある程度距離を取り、お互いに竹刀を構える。
流石は妖夢。一度剣を構えれば、完全に一人の剣士として没入してしまっている。先程までのおどおどとした態度はどこへやら。剣先をお燐へと向けて鋭く威圧する今の彼女は、まるで別人のようだ。まさかここまでスイッチのオンオフがしっかりとしているとは。
(あ、あれ? 何か、空気が……)
妙にピリピリしているというか、張り詰めているというか。さっきから、背筋の妙な汗が止まらないのだが。
(……え? よ、妖夢、本気……?)
確かに遠慮はいらないと言ったが、この雰囲気は流石に――。
嫌な予感を覚えたお燐は、咄嗟に妖夢へと声をかけようとする。
「剣伎……」
「あ、あの、妖」
「『桜花閃々』!」
「ぎゃふっ!?」
しかし、その試みも虚しく――。
直後、世界が回転した。いや、回転したのはお燐だったが。
どさりと鈍い音が響いたかと思うと、気がついたら目の前に空が広がっていた。その後ワンテンポ程遅れて、ジワジワと背中に広がってゆく衝撃。どうやら、回転した後に背中から倒れたらしい。
「はっ、ふ……」
何だろう、この気持ち。あまりにも出来事が一瞬過ぎて、全く記憶に残っていない。何だかとんでもない一撃をまともに貰った気がするが、まるで痛みを感じないような。
あっ、いや、ちょっと待って。やっぱり痛い。めちゃくちゃ痛い。
「あっ……。ご、ごごごめんなさい!! だ、大丈夫ですかお燐さん!?」
「よ、よーむ……?」
鬼気迫る表情で、慌てて妖夢が駆け寄ってくる。ぷるぷると震える声で、何とかそれに答えた。
「い、いまのは……?」
「え、えっと、その……。わ、私、何だかあんまり手加減できなかったみたいで、つい……」
「へ、へぇ……」
あれか、ひょっとして集中すると回りが見えなくなるタイプなのか彼女は。しかし、それはある意味致命的なのではないだろうか。
それにしても、今の一撃ではっきりと分かった。少しでも妖夢の相手が務まるかもなどと思ったが、とんでもない。
「……妖夢」
「は、はい?」
「あたい、もう駄目かも」
「へっ……? ちょ、お燐さん!? ま、ままま待って下さい! き、気をしっかり持って下さい!?」
妖夢が色々と声をかけてくれていたような気がするが、そんな事はあまり耳に入ってこない。そんな事よりもお燐の脳裏に浮かんでくる事は一つ。
ああ。今日は何だか空が綺麗です。
***
半人前って何だっけ? 帰り道、お燐はそんな哲学的な思考に陥っていた。
あれから何とか立ち直って妖夢の稽古に付き合ってみたものの、まるで相手にならないどころか、却って稽古の邪魔をしてしまった。竹刀振るっても当たらない、逆にあちらの攻撃はまるで避ける事が出来ない。とにもかくにも、散々な結果だった。
確かにこの姿では100%の力を発揮できないのは事実だが、それは妖夢も同じはずである。それなのに、どうしてここまで実力に差があるのだろうか。
「よく考えたらあたい、剣を使って戦った事なんてないじゃん……」
最も大きな要因はそれだろう。剣士として毎日のように剣を振るっている妖夢と、死体を求めて猫者を押し回っているお燐。常識的に考えて、後者の方が剣に優れているなど到底思えない。世迷言もいい所である。
「それにしても、あれで本当に半人前なのかな……?」
ぶっちゃけ並みの剣士の実力など遥かに凌駕していると思うのだが、妖夢は頑なに自分の実力を認めようとしない。妖夢自身がそう思うのなら仕方ないと言ってしまえばそこまでだが、幾ら何でも自分を卑下し過ぎなような気もする。もっと自信を持ってもバチは当たらないと思うのだが。
まぁ、確かに。そういった心の強さも加味すれば、妖夢はまだ半人前であると言えるのかも知れないけれども。
(うーん……。でもこればっかりはあたいがあれこれ言っても限度があるよねぇ……)
妖夢自身の問題である。彼女が自分でそれに気づかない限り、心境などはそう簡単に変えられるものじゃない。
「難しいなぁ、色々と」
そんな考え事を続けている内に、お燐は居候先であるアパートの一室まで辿り着いていた。鍵を外して扉を開け、玄関からその中へと足を踏み入れる。そのまま真っ直ぐにリビングへと向かうと、何やら机に突っ伏している女性の姿が目に入った。
「えっと……、ちゆり?」
「んあー?」
まぁ、元々この部屋が彼女が一人で暮らしていたのだから、この薄暗い中でも識別は容易だったのだけれども。
「おー、お燐か。おかえりー」
「うん、ただいま……」
気怠げに顔を上げ、ふるふると手を振りつつもお燐を迎え入れてくれる女性――北白河ちゆり。この部屋の元々の主である彼女は、どうやらついさっき起床したばかりだったらしい。ごしごしと目を擦りつつも、未だに少し寝ぼけているかのような表情で欠伸を一つ零している。
「ふぁ……。ねむっ、眠いな。今日は一段と眠い」
「何だか今日は起きるの早いね? 何かあったっけ?」
「ん? あぁ……。今日は朝一で大学に行かなきゃならんからな。夢美様に呼び出されちまってなぁ……」
「そうなんだ」
夢美に呼び出されたと言う事は、彼女が専攻する研究絡みか。或いは、幻想郷についてだろうか。どちらにせよ、彼女も彼女で色々と大変そうである。
「待ってて。すぐに朝食の準備しちゃうから」
「ああ。いつも悪いな」
「別にいいよー。と言うか、あたいが作んないと、すぐにあの身体に悪そうな物ばかり食べようとするし」
「む? そいつはちょっと聞き捨てならないな。インスタント食品やジャンクフードをあんまり舐めない方がいいぜ?」
なぜだか得意顔を浮かべるちゆり。先に断っておくが、別にお燐はそれらの食品を舐めている訳では決してない。お湯を入れて3分待つだけで出来上がるラーメンなどは本当に面白いと思うし、幻想郷ではお目にかかれないような便利な食料である。
ただ、何と言うか、身体に悪そうな味がするのだ。確かに美味しいのだけれども、幾ら何でもあれを毎日食べるとなると、流石に健康面で不安になってくる。特に女の子は体重面などが気になる所だ。その為にも、もっとバランスの良い食生活を心がけるべきだと思う。
「そのジャンクフードってヤツも、たまに食べる分には問題ないとは思うけどね」
「分かってるって。幾ら私でも毎日食べてる訳じゃないぞ?」
ちゆりはそう言っているが、一人暮らしをしているのにも関わらず全く料理が出来ない彼女が、果たして本当にバランスの良い食生活を送れているのだろうか。いや、まぁ、夢美達もその辺は気にかけているようだし、一応大丈夫だとは思うのだけれど。
「まぁ、いいや。とにかく、今から朝ご飯を作るから」
「おう。あ、いや、ちょっと待てお燐。その前にシャワーを浴びてきたらどうだ?」
「……えっ?」
「何かいつもより汚れてないか? 砂埃とかで」
「あー……」
妖夢の稽古に付き合おうとして、一方的にボコボコにされた所為だろう。あれだけ地面に叩きつけられていれば、ここまで汚れてしまっても無理はないと言える。
「じゃあ、まずは軽くシャワーかな。ご飯はその後になっちゃうけど……」
「問題ないぞ。まだ時間に余裕はあるからな。ゆっくり入って来い」
「うん」
そんなこんなでシャワーを浴びて砂埃を落としてから数分。少し遅くなってしまったが、ようやく朝ご飯にする事ができた。
取り敢えずあるもので作った寄せ集めのようなできだが、これでも栄養バランスは考えているつもりだ。別にお燐はそこまで料理が得意という訳ではないが、少なくともちゆりよりはマシだという事は確実である。寝床を提供して貰っている身の上、彼女はこうして食事くらいは作らせて貰っている。せめてもの恩返しのつもりだった。
「うん、やっぱり普通に旨いじゃないか。これと比べりゃ私の料理なんて生ゴミみたいな物だぜ」
「ま、まぁ、ちゆりと比べたらそりゃあね……。でも、口に合ってくれたみたいでよかった」
北白河ちゆりは、自然とお燐を受け入れてくれている。特に疑問を持つような事もなく、特に不審に思うような事もなく。彼女はまるで当然の事であるかのように、こうして寝床を提供してくれている。
いや。“かくまってくれている”、と言うべきだろうか。
「ねぇ、ちゆり。実はあたい、ずっと気になっている事があるんだけど……」
「んー?」
ご飯を頬張りながらも、ちゆりはお燐へと視線を向ける。その姿は実に純粋で、裏も表も無いように思える。
それ故に、だからこそ、そんな疑問を抱かずにはいられない。
「どうして、何も聞かないの……?」
「うん? 何がだ?」
「な、何がって……。本当は気づいているんでしょ? あたいの正体……」
か細い声で、お燐は核心へと迫ってゆく。ちゆりの心境はどうなっているのか、彼女は何を考えているのか。それがイマイチ掴めなくて、ずっと胸中がモヤモヤしている。
だって、彼女はお燐の正体を知っているはずなのだ。
なぜならば、あの時。ちゆりは
「正体、正体ねぇ……。そうだな。多分、お前は人間じゃない。状況的証拠から考えて、おそらく化け猫の類だろうな。もっと絞れば火車だろ? クリスマスパーティの時、やけに墓荒らしの犯人を火車からすり替えようとしていたからな。だけど火車である自分は犯人じゃないから、妙な誤解が広がるのは避けたかった、と」
「そ、そこまで分かっているのなら、どうして……!」
「だーかーら。これは全部私の推測に過ぎないんだって。確かに私の脳内には状況的証拠が存在するが、物的証拠は何もないんだからな。それじゃあ、証言する事はできない」
肩を窄めつつもちゆりはそう口にする。確かに彼女の言う通り、物的証拠は何もない。お燐が火車でいう妖怪であると、そう口にするのは簡単だ。しかし、例えばお燐本人が第三者の目の前で猫の姿に変身でもしない限り、その事実を証明する事は難しいだろう。
その通りだ。その理屈は納得できる。だけれども、だからと言って。
「だ、だったら、皆の前で変身しろって、そう恐喝でも何でもすればいいじゃん……。ちゆりには、もう見られちゃってる訳だし……」
「あー……そうだな。確かにあの時は流石の私もビビったぜ。何せいきなり人間が猫に変身しちまうんだからなぁ……。見たのが私一人だけで良かったな。夢見様に見られてたら何をされていたか」
「ふ、ふざけないでよ……。あたいは真剣なんだよ?」
「ふざけてなんかないさ」
痺れを切らしてお燐が身を乗り出そうとしたその時、箸を止めたちゆりがチラリと一瞥してきた。
お燐は反射的に乗り出しかけた身を引く。別に、彼女に睥睨された訳ではない。だからと言って、口にしたその言葉に威圧感が篭っていた訳でもない。ただ、彼女の様子があまりにも自然で、さも当然の事であるかのような振る舞いだったから。
呆気に取られた、と言うのだろうか。
「これはあくまで私が抱く印象だけど、多分、お前は悪い奴じゃない。そんなお前が何か隠し事をしているって事は、何かそれなりの理由があるんだろ?」
「そ、それは……」
「だったら私は何も聞かない。勿論、お前がどこから来たのかとか、一体何が目的なのかとかもな。無理に踏み込もうとしたりもしないし、お前の正体をバラそうともしない」
なぜなのだろう。どうして、彼女はそこまで無干渉に徹しているのだろうか。
「で、でも……。ちゆり達は、幻想郷を探してるんだよね? だけど状況は芳しくないって……」
「まぁ、そうだな。全く手掛かりも何も掴めん」
「そ、それなら尚更だよ……! も、もしかしたら、あたいなら何か知ってるかもよ? 幻想郷の事とか……、そこに行く方法とか……。それでも、何も聞かなくていいの?」
「そんな事は関係ないな」
きっぱりと、ちゆりは答える。
「例えそうだとしても、私達には何も問題はない。元よりそんな情報源なんて期待してなかったからな。お前の力を借りなくても、私達は私達の力だけで幻想郷を見つけてみせるさ」
「で、でも……」
「なぁんだよ、随分と気にするんだなぁ……。それとも、私が聞いたらお前は何か教えてくれたのか?」
「そ、それは……」
おそらく、仮に聞かれたとしても彼女達に幻想郷についての情報を提供する事はなかっただろう。
「ほらな。それなら別に良いじゃないか。お前はちょっと宿に困った十代の観光客。そう言う事にしておこうぜ?」
「…………」
その肩書きは少々無理があるような気もするが。
「それにさ。そもそも恐喝とか、下手すれば犯罪だぜ。警察沙汰とか流石にマズイだろ」
「ま、まぁ……。それは確かに」
「だろ? そう言う訳でも、お前から無理矢理情報を聞き出すのはあまりにもリスクが大きい。私はこう見えて慎重派なんだ。リスクアセスメントの結果、お前からは何も聞かない方が得策だって判断したんだよ」
それから彼女は再び食事を口に運び始める。そんな様子を眺めながらも、お燐は思案していた。
彼女はあれこれ言っているが、そのどれもが結局は建前であるように思える。リスクが大きすぎるとか、態々お燐の力を借りる必要なんてないとか。正直、あまりにも無理がありすぎる言い訳だ。
ちょっと天秤にかければ誰でも分かるはず。この場合、多少のリスクを考えてもお燐から情報を聞き出す事こそが得策だろう。にも関わらず、ちゆりは頑なにそれを行おうとはしなかった。
「……ひょっとしたら、あたいは本当は悪い妖怪なのかもよ? 何か良からぬ事を企てているかも知れない。それでも……」
「いや、それはないだろ。どこからどう見てもお前はそんな事を企てるような奴には思えないし。嘘つくの苦手そうだしなぁ、お前」
「うっ……」
「それに、そんな事を言いだしたら、私だって何かお前に隠し事をしているかも知れないぜ? なーんてな」
完全にちゆりのペースである。お燐があれこれ言った所で、彼女はその考えを改めるつもりはなさそうだ。
「私は別に良いと思うぞ」
「えっ?」
「誰かの為に、ちょっと嘘をつくくらい、悪くないと思う。だから私はお前を否定したりなんかしない」
「ちゆり……」
彼女は彼女なりに、理解しようとしてくれているのだろうか。殆んど私的な理由で、人間だと嘘をついてまで妖夢達に近づいている、火焔猫燐という少女の事を。
誰かの為に嘘をつくくらい悪くない。そう口にするちゆりの表情には、どこか趣があるように感じられた。
「さて、この話は終わりだ! 時間もあんまりないからな。さっさと食って、さっさと大学に……」
「ちゆり」
「……ん?」
全く、何と言うか。
「ありがと」
「……おう」
不器用だなと、お燐は感じていた。
***
日が昇り始めると、都心は数多くの人でごった返す事となる。例えば、通勤や通学が集中する時間帯。都心を通る電車などはまさにすし詰め状態だし、街中の交差点も多くの人々が行き交っている。
幻想郷と比べると、外の世界の人口密度は圧倒的に高い。数多くの人々が波のように蠢くその様は、幻想郷ではまずお目にかかれない光景だ。そこに一歩でも足を踏み入れれば、あっという間に迷子になってしまいそうである。そう言う意味では、人間もある意味恐ろしい存在かも知れないと、時偶お燐も感じている。
そんな人々の集団も、ある程度時間が経過すれば少しマシになってくる。通勤や通学のラッシュが過ぎれば、人波に揉まれて迷子になるという事態に陥る可能性は、多少低くなるだろう。
まぁ、ピークの時間と比べれば、だけれども。
「ひぃ……ふぅ……。ちょ、ちょっと……!」
現時刻、お昼前と言った所か。都心へと繰り出したお燐こと火焔猫燐は、人波に揉みに揉まれて軽く遭難しかけていた。
完全に侮っていたと認めざるを得ない。外の世界の賑わいっぷりがまさかここまでだったとは。これまでまともに都心まで足を運んだ事はなかったので、ある程度このくらいかなと予想はしていた。しかし、流石にここまでとは予想もできまい。地底とはまた違ったベクトルの喧騒な光景に、お燐は完全に呑み込まれてしまっていた。
「おい、大丈夫か? 随分と顔色が悪いみたいだが」
「へ? あっ……だ、大丈夫……。ぜ、全然問題ないよ……!」
顔を覗き込んできたのは、お燐に付き合ってくれている岡崎進一である。しかしお燐の翻弄されっぷりに呆れてしまっているようで、微妙な表情を浮かべつつも人差し指で頬を掻いている。
「人波に慣れてないのか? お前ってどこ出身だっけ?」
「へっ……? え、えっと……。ひ、人が少ない所だよ!」
「田舎って事か?」
「そ、そう! それそれ!」
人が少ない、と言うか地底には人間などいない。いるのは鬼を中心とした妖怪ばかりである。勿論、幻想郷には人間もちゃんと住んでいるが、それでも妖怪の方が圧倒的に数が多い。そう言う意味では、お燐が口にした表現は強ち間違っていないのかも知れない。
「仕方ない。ちょっと休憩するか?」
「い、いや……。あたいは、まだ全然……」
「強がるなよ。えっと、そうだな……。ちょうどこの近くに秘封倶楽部がよく集まる喫茶店がある。取り敢えずそこまで行くぞ」
お燐の強がりも虚しく、少しだけ休憩する事となった。
あの恐るべき人波から数分歩いた所にある喫茶店。進一に連れてこられたのは、お燐も見覚えのある場所だった。
確か、そう。始めてメリーと出会った喫茶店である。あの時はこいしを捜し回っていて、その手掛かりを少しでも掴む為に色々と情報収集していたものだ。その時、たまたまあのテラス席に座っていたメリーにも声をかけていた。
今思えば、随分と迂闊な事をしていたんだなぁとしみじみ思う。耳も尻尾も隠さずにかなり堂々と行動していた訳だし、それでも正体がバレなかったのは奇跡と言っても過言ではないのかも知れない。
まぁ、完全な人間の姿に化ける事にした後。うっかり猫の姿に変身する瞬間をちゆりに見られてしまって、色々と面倒な事になってしまっているのだけれど。
「おい、お燐。ボーッとしてどうした?」
「い、いや、別に何も」
そんな事はさておき。喫茶店に足を踏み入れると、一番奥の端っこにある席に座る事となった。
丁度二方向が壁に囲まれている為、周囲の音があまり耳に入らない静かな席である。消耗した体力を回復するのに持って来いだ。
席に座った途端、急にドサりと疲労感がのしかかってきた。
「あー……。疲れた……」
「おいおい、まだ来たばかりじゃないか。お前の言う用事ってヤツもまだ片付けられてないぞ」
「うっ……。そ、それはそうだけど……」
そうは言っても、幾らお燐でも慣れない事を急にすればいつも以上に疲れが溜まるものだ。確かに地底は地底で多くの妖怪が住んではいるが、幾ら何でもさっきのような人波はまるで経験はない。まさか一度呑み込まれてしまうとあそこまで身動きが取れなくなってしまうとは。
「それで? 俺を一方的に連れ出しておいて真っ先にバテてしまった火焔猫燐さんの用事ってのは、一体何なんだよ?」
「むぅ……。お兄さん、随分とイジワルな言い方をするんだね……」
別に進一も本気でそんな事を言っている訳ではないだろうが、それでもお燐は思わず不満を漏らす。しかしそうは言っても、進一の言っている事は全くの的外れという訳でもないので、あまり大きな顔はできまい。
「あたいの用事は買い物。でもあんまりこっちまで来た事はなかったから、土地勘のありそうなお兄さんに付き合ってもらおうと思って」
「へぇ、買い物か。何を買うんだよ?」
「ほら、あれだよ。妖夢が朝稽古の時によく着ている服」
「ジャージの事か?」
「そう、それそれ」
あの動きやすそうな服の事である。あれだけを買う分なら別に一人でも大丈夫じゃないかとも思ったが、やはり進一について来て貰って正解だった。あのままでは冗談抜きで迷子になっていたかも知れないし。
「でも何でジャージなんか買うんだ?」
「うん。あたいって、いつも妖夢の稽古を眺めているだけだったんだけど……。やっぱり、もっと役に立ちたいなと思って。それで、一緒に何か出来たらなぁと」
「あぁ……。成る程な」
正直運動するならばこのゴスロリ服ではあまりにも不自然だし、運動用の服も一着くらい欲しいと思っていた所だ。別にこの服でも普通に動き回る事は出来るのだが、
そういう訳でも、ジャージは購入しておきたいのである。
「まぁ、そういう事なら俺も協力するよ。どうせ暇だったしな」
「ありがと。頼りにしてるよ? おにーさん」
何だかんだ言ってこうして付き合ってくれるのだから、進一も中々のお人良しである。
「そう言えば、一つ気になっていた事があるんだが」
「ん?」
と、その時。思い出したかのように、進一が声をかけてきた。
丁度、注文していた紅茶が届けられたタイミングだ。砂糖とミルクをティーカップに注ぎながらも、お燐は耳を傾ける。それからティースプーンで軽くかき混ぜて、その紅茶を口に運ぶと、
「どうしてお前は、俺の事をお兄さんと呼ぶんだ?」
「んぐっ!?」
藪から棒な質問に、思わずお燐はむせてしまった。口に運んだ紅茶が上手く食道を通らず、身体が拒否反応を起こす。ゴホゴホと咳き込みつつももう一口紅茶を飲み下すと、ようやく落ち着いてきた。ふぅと息を整えて、改めて進一に向き直る。
「何をそんなに慌てている?」
「い、いや……。どうしてそんな事を聞くのかな……?」
「どうしてって……。例えば、妖夢とかには普通に名前で呼んでるよな? でも俺だけ苗字でも名前でもなくお兄さんじゃないか。 だから何となく気になったんだよ」
「あ、あぁ……。うん、そうだよね……」
「俺が歳上だからか? あ、いや、でもちゆりさんとかも普通に名前で呼んでいたような……」
実年齢は圧倒的にお燐の方が上だろうが、そこは触れないでおく。
「え、えっと……。お兄さん、じゃダメなの?」
「別に駄目って訳じゃないが……。何だ? 苗字とか、名前で呼びたくない理由でもあるのか?」
「だ、だって、だってさ……」
確かに進一の言うとおり、今のお燐は妖夢やちゆりの事を普通に下の名前で呼んでいるし、進一だけが『お兄さん』呼びである。一人だけそんな呼び方なのだから、彼が違和感を覚えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
だけれども。
「苗字だと、夢美と被るし……。でも、名前で呼ぶのって……」
勿論、ちゃんとした理由だってある。
「な、何か……。恥ずかしいじゃん……?」
「……は? 恥ずかしい?」
「だから! お、男の人を下の名前で呼ぶのって、何か恥ずかしくない……?」
「…………」
「何言ってんだコイツ?」みたいな目で見られた。
「な、何!? 何なのその目は!?」
「いや、何て言うか……。恥ずかしいか?」
「は、恥ずかしいよ! 恥ずかしいに決まってるよ!! 何か、こう、友達以上の凄く親しい仲になっちゃった、みたいな!?」
「随分と飛躍的な解釈だなおい……」
「とにかく! 別にいいでしょお兄さんでも! そっちの方があたいも恥ずかしくないし!」
「寧ろお兄さん呼びの方が恥ずかしいような気がするんだが」
思わずムキになるお燐だったが、当の進一は驚く程に冷静である。殆んど動揺するような事もなく、お燐の言葉がひらりひらりと躱されているかのような印象さえも受ける。
思えば、お酒が回った時以外の彼が本気で狼狽している場面を見た事がないような気がする。ここまで来れば、寧ろそこまで追い込んでやりたいというある種の復讐心のようなものに駆られてきた。翻弄されっぱなしでは、流石のお燐だってプライドが許さない。
「それじゃあさ、そう言うお兄さんはどうなの?」
「どうって……。何が?」
「お兄さん、女の子が相手でも普通に下の名前で呼んでるじゃん? 何とも思わないのー?」
「え? そうだな……」
意地の悪い口調でお燐がそう尋ねると、腕を組みつつも進一が思案を始める。束の間の思案の末、彼が絞り出した答えは。
「……特に何とも思わないかな」
「えー……?」
「癖みたいなものなんだよ。寧ろ苗字呼びの方が違和感あるような気がする」
「お、お兄さんって意外と距離感とか気にしない人なの……?」
朴念仁と言うか何と言うか。彼が鈍感である事は以前に蓮子から聞いた事があったが、まさかこう言う事なのだろうか。
「と言うか、そもそも俺の周りには名前で呼んでくる奴が多いからな。蓮子やメリーだってそうだし、妖夢も普通に名前で呼んでくるぞ」
「そ、そう言われてみれば確かに……。妖夢って意外と大胆……?」
「……何をボソボソと言ってるんだ?」
まさかお燐の方が気にしすぎなのだろうか。思い返してみれば、お燐が住まう地霊殿にいるのは女の子ばかりだし、あまり男の人と親密に関わってこなかった事も事実だ。お燐の性格上、誰が相手でもこうして気兼ねなく会話する事が出来るものの、確かに男の人にはあまり慣れていないとも言えるかも知れない。
いや、と言うかこれは寧ろ――。
(あ、あれ……? 実はあたいの方が奥手だったりするのかな……?)
何となく自己嫌悪に陥りそうになったので、お燐は思わずカップの紅茶を一気飲みする。それからカップを勢い良くソーサーに置いて、ふぅっと息を整えた。
このままこの話題を続けると、どんどん深みにはまってゆくような気がする。これ以上、自分の首を自分で締める行為なんて御免である。
とにかく話題を変えようと、お燐は一人必死になってきっかけを探しまわる。
進一の手首の
「……あれ? お兄さんがつけてるそれって……」
「ん?」
頬杖をついて袖がまくれた事により顕になったのは、見覚えのあるブレスレットだった。
見た感じ、市販の物ではない。複数の紐を編み込んで作られたそのブレスレットは、おそらく誰かの手作りなのだろう。しかしどうやら相当繊細な作りをしているらしく、作成者の器用さが伺える非常に高いクオリティである。
このブレスレット、やはり見覚えがある。確か――そう。似たような物を彼と同様身に付けていた人物を、お燐は知っている。
「確か、妖夢も似たようなブレスレットをつけていたような……」
「ああ。妖夢の手作りだな、これ」
「えっ、そうなの!?」
お燐は思わず身を乗り出して、大きな声を上げてしまった。
彼女はこんな物まで作れたのか。元々器用な少女だとは思っていたが、まさかこれ程までとは。
それに。彼女が作ったブレスレットを、進一も身に付けているという事は――。
「へぇ……。つまりペアルックってやつだねぇ……」
「……何を考えてニヤニヤしているのかは知らんが、多分お前は勘違いをしているぞ」
「えっ?」
「これは妖夢が秘封倶楽部の為に作ってくれたんだ。秘封倶楽部の繋がりが切れないようにって、そんなおまじないがこめられているらしい」
「あ、あぁ……。成る程ね」
進一と二人だけのペアルックではなかったらしい。
秘封倶楽部のという事は、少なくとも同じブレスレットを四つ作ったという事なのだろうか。彼女は普段から忙しなく動き回っているイメージがあったのだが、いつの間にそんな時間を取っていたのだろう。
それにしても、何と言うか。話を聞く限り、妖夢も随分と積極的になってきたなぁとひしひしと感じる。どちらかと言えば流されやすい性格だった彼女も、こちらの世界での出来事を経験する事で少しずつ変わってきたという事か。
このまま行くと、ひょっとしたら。
「うーん、どうかなぁ……」
「……何をジロジロと見ている?」
問題は、このお兄さんが妖夢の事をどう思っているかである。
***
それから時が過ぎる事数時間後。
「ふぅ。何とか無事に買えたな」
「うん。ありがとう、助かったよー。流石にあのタイミングで迷子になった時はどうしたものかと」
「ああ。お燐はなぜだかスマホとか持ってないからな。連絡とか取りにくいんだよなぁ……」
「は、ははは……そうだね」
目的の服やその他色々な小物類を買い終えたお燐は、進一と共に自宅からの最寄駅まで帰ってきていた。
色々とトラブルはあったが、何とか無事に目的を果たす事ができて今はホっとしている。手に持っているビニール製の袋の中に入っているのは、妖夢も朝稽古の時に着ているジャージの色違い版だ。これで堂々と身体を動かす事もできるだろう。まぁ、妖夢の稽古に付き合って、力になれるかどうかは別問題なのだけれども。
「それじゃ、あたいはこっちだから」
「そうか。また何かあったら気軽に声をかけてくれ。できる限り協力するからさ」
「うん。じゃ、またねー」
そんなやり取りを最後に、進一とは駅で別れる事となった。
彼とは別の方向に進みながらも、お燐はもう一度手に持つ袋を一瞥する。まさかこれを買うだけであそこまで手古摺るとは思わなかった。都心、おそるべしである。進一がいなかったら、今頃どうなっていたか。
(それにしても、妖夢とあのお兄さんかぁ……)
客観的に考えて、妖夢は明らかに進一に好意を寄せているのだろうが、あの様子だと中々進展しなさそうである。まさに難攻不落。妖夢は妖夢で奥手だし、進一は進一で酷く鈍感だ。これは一番面倒くさいパターンなのではないだろうか。お燐は恋愛とかした事ないけど。
(でも、あの妖夢は……)
子供の姿の妖夢。本来、この時代には存在するはずのない人物。そんな彼女が、あの青年に恋心を抱いた所で――。
(……ううん。やめよう)
ここでお燐があれこれ気にかけた所で、それはどうにもならない事実だ。妖夢の事は、あくまで妖夢自身が何とかすべきなのだ。この時代のお燐がそんなに深くまで踏み込んでしまうのは、それはそれで問題である。
「さてと」
取り敢えず帰ろうと、お燐は思った。この時間ではまだちゆりは帰ってきてないのだろうが、早い所夕食のメニューでも考えておくべきだろう。
今日はどうしようか。ちゆりは普段からインスタント食品やジャンクフードばかり食べているし、やはりここはバランスの良い食事を、
「おーりーんっ!」
「ふあっ!?」
そんな考え事を始めた直後。突然何者かに背後から飛びつかれて、お燐は思わず声を上げてしまった。
聞き覚えのある少女の声。丁度お腹辺りに手を回されていると言う事は、かなり小柄な体格である事が分かる。そしてここまで親密なスキンシップを突然仕掛けてくる知り合いなど、お燐の記憶の中には一人しかいない。
「こ、こいし様、ですか……?」
「えへへ……当たりー!」
視線を向けると案の定、そこにいたのは見知った少女。古明地こいしだった。
してやったりと言わんばかりの至福の表情を浮かべるこいし。まさかお燐を驚かす為に、タイミングでも見計らっていたのだろうか。彼女の『能力』の特性上、本当に接触されるまでまるで気づかないのだから、尚の事心臓に悪い。
「ど、どうしたんですかこいし様? 急に抱きついてきたりして……」
「ちょっとお燐に用事があってねー。でも折角だから驚かそうと思って、タイミングを計っていたの」
予感通りだった。
「ところでさ、お燐。デートは楽しかった?」
「えっ……で、デート? 何の事ですか……?」
「あれ? あのお兄ちゃんとデートしてたんでしょ?」
「し、してませんよ!?」
この少女、一体どこから見ていたのだろう。誤解しているのか、それとも単にからかっているだけなのか。古明地こいしは、その辺が非常に分かりにくい少女なのである。
「えー、違うの? 私はてっきり、お燐が妖夢からあのお兄ちゃんを寝取るつもりなのかと」
「あ、あの、こいし様? どこでそんな言葉を覚えてきたんですか……?」
「修羅場にはならないの?」
「こ、こいし様ー!?」
いつの間に彼女はそんな知識を身に付けてしまったのだろう。これが外の世界に来てしまったが故の弊害というヤツなのだろうか。
お燐がそんな衝撃を間に受けていると、当のこいしは意地の悪そうな笑みを浮かべていて、
「冗談だよじょーだん!」
「へっ……。あ、そ、そうですよねー……。ははは……」
何と言うか、まさかこいしにこんなネタでからかわれるような日が来るとは。このままでは、色々な意味でマズイのではないだろうか。
「って、ちょっと待って下さいよこいし様。まさかあたいをからかう為だけに声をかけた訳じゃないですよね……?」
「んー? あ、そうそう。大丈夫だよお燐。ちゃーんと用事はあるからさ」
内心、本当にからかう為だけに声をかけてきたんじゃないかと。そう不安に思っていたのは秘密である。
「あの……。それで、用事というのは……?」
「うん。それはねー」
「情報共有ですよ」
そんな中、割り込むように流れ込んできたのは、また別の女性の声。こちらもまた馴染みのある声だ。考えてみれば、外の世界に来てから彼女はずっとこいしと共に行動していたじゃないか。だから今回だって、こいしと一緒だったとしても何ら不思議ではないだろう。
「あっ……。え、えっと……妖夢?」
「ええ。二ヶ月ぶりですね、お燐さん」
こいしがお燐にじゃれつく様子を何も言わずに眺めていたのは、三度笠を被った一人の女性。彼女は三度笠の鍔を軽く掴みながらも、
「尤も、お燐さんは
するりと、彼女は被っていた三度笠を外す。
雪のような白い肌。後頭部に纏めた白銀の髮。そして青い瞳。体格だとか、顔つきだとかに変化はあるものの、確かに面影は残っている。
彼女――魂魄妖夢は、大人びた様相でお燐の姿を見据えていた。
「え、えっと……大丈夫なの? それ取っちゃっても……」
「大丈夫だよー。ここは私の『能力』の範囲内。お燐も妖夢も私も、今は道端に落ちている石ころみたいなものだから」
そう説明してくれたのはこいしだった。成る程、確かにそれならこちらの世界の人間にお燐達の姿を認識される事も、話を聞かれる事もないだろう。下手にこそこそ隠れるよりも、余程効果的であると言える。
「そう言う訳です。ですから何も心配する必要はありませんよ。私達の会話が外部に漏れる事など有り得ません」
「う、うん……。そうだね……」
「……? どうかしましたか? ジロジロ見て……」
「あ、いや、その……。何て言うか……」
何とも奇妙な感覚なのである。早朝に
「うーん……。妖夢も結構成長したんだなぁと思って」
「成長、ですか……?」
「うん。こう、妖夢って全体的にコンパクトな感じだったと思うんだけど、なんて言うか、今は意外と……。って、そんな事はどうでもいいか……」
彼女達だって、こんな世間話をする為に接触してきた訳ではないだろう。
「情報共有、だっけ? それで? そっちは何か分かったの?」
外の世界に足を運んでから、既に3ヶ月以上。彼女達は、これまでずっととある人物の足取りを追っていた。お燐は元々こいしを連れ戻す為にこちらの世界に来たのであって、少なくとも彼女達とは目的が違う。こうして協力関係になったのは、殆んど成り行きである。
『異変』を解決する為の手がかりを掴む。正直、かなり無謀な試みであるが、だからと言って何もしない訳にはいかない。ここまで来てしまった以上、お燐だって出来る事を真っ当するつもりだ。
「……そうですね」
しかし。妖夢から返ってきたのは、何とも微妙な反応だった。
「正直、状況はあまり芳しくはありません」
「……そう」
「そうなんだよねー。もうちょっとで何か掴めそうなんだけど……」
お燐から離れたこいしが、肩を窄めつつもそう口にする。それから何かを思い出したかのようにポンッと手を叩くと、
「あ、そうだ。ねぇお燐。最近、何か変わった事はない?」
「変わった事……ですか?」
「そうそう。例えば、誰かに尾行されているとか」
「び、尾行ですか……?」
なぜそんな事を聞くのだろう。疑問を覚えつつも記憶を探ってみるが、やはり特に変わった事はなかったように思える。尾行など、そんな事は以ての外だ。
――いや、ちょっと待って。
「うーん、そう言えばあのお姉さん……メリーが倒れたって話は聞いたかな。でもすぐに目を覚ましたみたいですけど……」
「ふーん……。それだけ? 尾行は?」
「やけにそれを気にしますね……。何か分かったんですか?」
「うーん……。分かったような分からないような……」
何とも歯切れの悪い反応だ。この様子だと、決定打となるような手掛かりは掴めていないものの、何らかの痕跡だとか、違和感だとかを見つけたのだろうか。
「……少し、気になる事があるんです」
「気になる事?」
「ええ。辻褄が合わない、と言いますか……」
思案顔を浮かべつつも、妖夢は続ける。
「過去の幻想郷からこの時代の外の世界にあの姿の私を連れて来た犯人。それがいるのは間違いないでしょう。しかし、おかしいと思いませんか?」
「おかしい……?」
「過去から誰か連れてくるなど、容易な事ではありません。その上多大なリスクが伴う行為です。だとすれば、それなりの理由があってそんな暴挙を行ったはず」
「うん……。そうだね」
「でも実際はどうでしょう。過去から私を連れてきておいて、今は全くの丸投げじゃないですか。何か仕掛けてくる事は疎か、再び接触してくる気配もない。一見すると、完全に野放し状態です」
確かに、そう言われてみれば妙な状況だ。妖夢を連れてくるだけで、それ以降は特に何もしてこない。何か目的があるのなら、少なくとも彼女の動向くらいは把握しておきたいはずなのだが――。
「動向……。あっ、ひょっとして……」
「気づきましたか」
そう。確かに今は、完全に野放し状態のように見えるのだけれども。
「おそらく、何らかの手段で動向を把握しているはずなんです。術か何かか……、或いは式神の類か……」
「成る程ね。それで尾行……」
あくまで予想の範疇を出ないが、おそらくこの件の犯人は何らかの重大な目的があって妖夢を過去から連れてきた。そして妖夢の半霊を奪ってこの世界に放置し、今は泳がせている。勿論、何らかの手段を使ってその動向を把握しながら。
「うーん、考えてみれば確かに訳が分からないよね。一体、どんな目的があって妖夢を連れてきたんだろ……?」
「十中八九、『異変』に関する事なのでしょうが……。流石にこれ以上は本人にでも聞かない限り分かりませんね」
「だよねー」
幻想郷で起きている『異変』と、妖夢の周りで発生している不可解な事件。この二つは、きっとどこかで繋がっている。そしてその架け橋となっているのが、おそらくこいし達の捜し人――。
「まぁ、お燐でも気づいてないんなら仕方ないか」
「す、すいません……」
とにもかくにも、お燐もこいし達も特に進展はないという事だ。
しかし。もしも仮に犯人が尾行か何かで妖夢の動向を把握しているのだとすれば、当然お燐やこいし、そしてこの時代の妖夢の存在にも気づいているはずだろう。にも関わらず、一向に接触してこないと言う事は。
(……もしかして、あたい達も泳がされてたりするのかな?)
ひょっとしたら、今も尚掌の上で踊らされているのかも知れない。そう考えるとちょっぴり怖くなって、お燐は思わず身震いしてしまった。
「それじゃ、今日はここまでかな。私達は引き続き調査を続けるよ」
「そう、ですか。あの、こいし様。くれぐれも無理だけは……」
「大丈夫だよ。お燐の方こそ、頑張ってよ?」
「えっ……?」
「そうですね。引き続き監視の方もよろしくお願いします」
「監視って……」
それはまた、随分と人聞きの悪い表現である。
「あたいはただ、妖夢を見守っているだけだから……」
「……そうでしたね」
そうだ。別に、何かやましい感情がある訳ではない。何か良からぬ事を企んでいる訳でもない。ただ、妖夢の事が心配で。けれども、今は自分が幻想郷出身の火車であると知られる訳にはいかなくて。それ故に、こちらの世界の人間として彼女を傍から見守っている。
物は言いようだと、そう言ってしまえばそれだけかもしれない。確かにこれは、監視と何ら変わらない行為なのかも知れない。だけれども、それでも。
『誰かの為に、ちょっと嘘をつくくらい、悪くないと思う』
ちゆりの言葉が脳裏を過ぎる。
建前だとか、言い訳だとか、そんな事はどうでもいい。ここまで踏み込んでしまったら、最早後戻りは出来ないのだから。
それなら。もう、これでいいじゃないか。
「分かりました。では、私達はこれで」
「じゃーねーお燐! また何かあったら連絡するからねー!」
「はい。あたいの方も、何かあったらこいし様達に伝えますから」
こいし達と別れた後、お燐は一人空を仰ぐ。太陽は既に西に傾き始めていて、空は徐々に茜色染まりつつあった。
ふぅと、白い息を吐きだしす。二月中旬の夕暮れ時。まだまだ気温は身体の芯まで響くくらいに低い。
「嘘、か……」
お燐は一人、歩き出す。
「やっぱり、頑張らなくっちゃね……」
ぼそりと独りごちた後、彼女は居候先であるちゆりのアパートに帰ってゆくのだった。