桜花妖々録   作:秋風とも

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第24話「親友」

 

 剣術鍛錬というものは、心に雑念が混じっていると上手く捗らないものだ。いや、別に剣術鍛錬だけには限らない。ある一つの事柄に集中すべきなのに、他のものばかりが気になってしまうなど。注意力が散乱して当然と言えば当然である。注意力や集中力が散乱していれば、当然ながら好調の時のような捗りは見られない。

 剣術鍛錬は毎朝の日課だ。だからこの時間帯は、しっかりと集中して取り組むべきなのだ。それは分かっているはずなのに。

 

「……っ」

 

 ぶんっと、勢い良く竹刀をひと振り。しかしそこで妖夢の動きは止まってしまった。

 まるで集中する事が出来ない。幾ら素振りをしてみても、いくら型を確認してみても。全く身になっている気がしない。まるでためになっている気がしない。

 原因は明白だ。昨日、突如として突きつけられたあの出来事。そればかりが気になって、他の事にまで注意を向ける事が出来ずにいる。こうして稽古をしてみても、頭の中に浮かんでくるのはメリーや蓮子の事ばかり。こんな様子では幾ら稽古を続けても時間の無駄というものだ。

 

「これじゃあ……」

 

 駄目だ。嘆息しつつも、妖夢は肩の力を抜く。

 

「だ、大丈夫? 何だか調子が悪いみたいだけど……」

 

 そう声をかけてきたのは、妖夢の様子を見守っていた一人の少女。お燐こと火焔猫燐だった。

 すっかり妖夢のマネージャー的ポジションを確固たるものにした彼女は、どうにも不安気な表情を浮かべつつも首を傾げている。毎朝こうして妖夢の稽古に付き合ってくれている彼女だからこそ、分かるのだろう。

 妖夢の剣筋には迷いが生じている。いつものような鋭さや、その中にあるはずの繊細さが幾分か欠落してしまっているのである。

 

「……やっぱり、分かりますか?」

「うん、まぁ……。妖夢って結構分かりやすいからねぇ……」

「そ、そうですか……」

 

 あまり感情や心境が表面に出てきてしまうのは、剣士として如何なものなのだろうか。全く、この様子では、半人前からの脱却にもまだまだ時間がかかりそうだ。

 しかし、そんな自虐的な心地になってしまうのも無理がないと言える。お燐に指摘されるまでもなく、本当に調子が悪いのだから。

 

「ひょっとして、何かあったの……?」

「いえ、それは……」

 

 メリーの事に関しては、まだ何も話していない。お燐にも話すべきなのか迷いに迷った結果、結局何も話せずにこうして稽古をする事になっている。

 お燐だって、メリーとは少なからず接点を持っている。だから話すべきなのではないかと、確かにそう思うのだけれど。言葉にしようとすると、どうにもあの“予感”が脳裏に過ぎってしまう。

 マエリベリー・ハーンと、八雲紫。似通った能力を持つ二人の間に、何か関係があるのではないかと。

 

「あの、お燐さん。一つ聞いてもいいですか?」

「ん? なに?」

「メリーさんの事、どう思いますか?」

「えっ?」

 

 首を傾げるお燐。まぁ、当然の反応だろう。藪から棒に一体なんだと、そんな心境となっているに違いない。

 

「どうって……?」

「あっ、いえ。別に、何でもいいんです。ただ、お燐さんの目にはメリーさんがどう映っているのかなぁと……」

「うーん……。真面目なお姉さんって感じかな。嘘とかつくの苦手そう」

 

 妖夢の意図がイマイチ掴めてない様子のお燐だったが、それでも律儀に答えてくれた。

 真面目で尚且つ素直な少女。妖夢が抱く印象と全く同じである。つまり、この印象は間違っていないと言えるだろう。誰の目にもそう映っているはずだ。

 そう。マエリベリー・ハーンには二面性などない。確かに蓮子と比べると感情をあまり表に出さないような印象を受けるかも知れないが、それはただ単に彼女が大人しめな性格であるだけだ。別に、胸中に何かを隠している訳じゃない。

 

「……やっぱりそうですよね」

 

 妖夢は雑念を振り払う。

 現時点では、どれも勝手な憶測ばかりだ。必ずしもそうだと言い切れる訳ではない。だからあまり妙な事を考えるべきではないのである。

 

(そうだよ……。こんな……)

 

 そもそも疑いを持つ時点で筋違いだ。あんな事になっているのに、当の彼女に胡乱な印象を抱いてしまうなんて。

 

「すいません変な事聞いて。稽古に戻りますね」

「う、うん……」

 

 妖夢は再び竹刀を振るう。

 自分に言い聞かせるかのように。無理矢理納得させるかのように。

 

 

 ***

 

 

 自分の能力の本質なんて、もう散々考えてきた。気がついたらこんな『眼』を持っていて、気がついたら当たり前の事になっていて。自分の事であるはずなのに、ひどく客観的に捉えていた。

 『星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力』。何が原因でこんな『能力』を持っているのか、それは皆目見当もつかない。周囲の人とは違うんだって、その自覚も確かにある。けれども彼女は、ごく自然にその『能力』を受け入れた。受け入れた上で、彼女は客観的に考えた。

 

 しかし今になって思い返してみれば。自分はやっぱり、変な女の子だったんじゃないかなと感じてくる。得体の知れない『能力』が、自分の中に存在しているのだ。にも関わらず、まるで他人事みたいな心境で。

 

(本当……。『能力』って、一体全体何なのかしらね)

 

 今更ながらの疑問。しかしそんなものを一人で抱いた所で、満足のいく答えなど得られる訳がない。

 それは分かりきっているのだけれど、それでも。自分の『能力』に振り回されて、眠りから目覚めぬ一人の少女――マエリベリー・ハーンを前にすれば、その答えを探求せずにはいられなかった。

 

(メリー……)

 

 メリーを助ける方法。一晩その思案を一人で続けたのだが、結局答えには辿りつけていない。日をまたいでから夢美達に相談を持ちかけてみても、結局大して進展する事ができなかった。

 それから何の方法も掴めぬまま蓮子は一人病院に向かい、結局何も出来ぬままこうしてメリーの横に座っている。唯一出来る事は、強いて言えば見守る事くらいだろうか。

 境界を操った痕跡を辿り、その先にあるメリーの意識を引っ張り出す。そんな強行手段だって既に何度も考えたが、やはりどうにもその具体的な方法が思いつかない。

 宇佐見蓮子の持つ『眼』には、結界の境界など映らない。それなのに、どうやって痕跡を見つければいいのだろうか。

 

「……肝心な時に何の役にも立たないわね」

 

 自分の『能力』なんて、精々時間と場所が分かるだけ。しかも月や星が見える日限定だ。考えてみれば、あまりにも役に立たない『能力』。こんな『眼』を持っていた所で、何の意味もないじゃないか。

 

(何なのよ、本当に)

 

 自虐的な感情。下唇を噛み締めながらも、彼女は一人困窮する。何も出来ない自分への苛立ちと、まるで進展しない事態への焦燥。二つの感情が渦を巻き、彼女の精神を追い込んでゆく。普段は強気な蓮子でも、これには流石に堪えてしまう。

 

「あっ……」

 

 胸を締め付けられるような思いに駆られていると、不意に蓮子の視界が()()()

 目眩。急に身体が重力に逆らえなくなり、バランスを崩して倒れそうになってしまう。慌てて身体を起こして事無きを得るが、追い討ちをかけるかのように頭痛が彼女に襲いかかった。

 

(やばっ……)

 

 あれだけの事があったのに、昨日は殆んど眠れていない。不眠不休とまではいかないが、安息を得られた気はまるでしない。

 つまりは寝不足。その上、疲労困憊である。メリーを助ける前に、今度は彼女が倒れてしまうのではないだろうか。

 

(頭痛い……。気持ち、悪い……)

 

 胃の中にコールタールをぶち込まれたような感覚とは、この事だろうか。コールタールなんて飲んだ事ないけれど。

 とにもかくにも、こんな所で吐く訳にはいかない。丁度ここは病院だし、『先生』に許可を貰って空いているベッドに横になって――。

 

(横に、なる……?)

 

 横になる。つまりは寝不足を解消する為に――眠る。上手く眠る事が出来れば、夢を見る。

 そう、夢。

 

(……もしかして)

 

 必死になって頭痛と吐き気を耐え忍びながらも、蓮子は自分の鞄を探る。その中にある一際大きな()()を掴むと、半ば強引に引っ張り出した。

 彼女が手に取ったそれは、天然の筍だ。メリーが夢の中から持ってきたという代物。

 

(これが、夢の世界への手掛かりなのだとすれば……)

 

 寒気を感じる。いよいよ具合が悪くなってきたが、けれども今はそんな事を気にしてはいられない。寝不足の所為で目眩さえも覚えるこの状態、おそらく抜群のシチュエーションである。

 その筍をギュッと力強く掴みつつも、蓮子はもう片方の手で眠っているメリーの手を取る。彼女の温かい体温が、掌から伝わってきた。

 

「ねぇ、メリー。私……ずるいなんて軽率に言っちゃったこと、凄く後悔してたんだけど……」

 

 身体の気怠さを振り払いつつも、蓮子はそう声をかける。それがメリーに届いているかは微妙な所だが、それでも構わない。

 

「やっぱり、ずるいよ」

 

 ギュッと、今度は彼女の手を握る。

 

「幻想郷に行っちゃったんでしょ? それとも今度は冥界かしら? まぁ、この際どっちでもいいや……。とにもかくにも、一人でそんな所に行っても楽しさ半減よ。出掛けるのなら、誰かと一緒じゃないと……」

 

 頭の中がぐらぐらする。寝不足と疲労による体調不良が原因なのだろう。

 いや。確かにそれもあるのだろうが、或いは――。

 

「だから私も連れてってよ」

 

 蓮子は歯を食いしばる。

 

「一人で行っちゃうなんて水臭いじゃない」

 

 身体の力が抜けていく。

 

「お願い、メリー……!」

 

 それでも彼女は声を荒げる。

 

「私を置いて行かないで!!」

 

 病室に、宇佐見蓮子の声が響く。

 その直後。

 

 辺りは静寂に包まれた。

 

 

 ***

 

 

「姉さん。色々と確認したい事があるんだが」

 

 岡崎夢美の研究室。春休みに入ったのにも関わらず大学に足を運んだ進一は、真っ先に姉のもとへと向かっていた。

 その理由は言うまでもないが、昨日の件についてである。あの後、夢美はちゆりと共に蓮子の下宿先であるアパートに残り、その目で現場を確かめていたらしい。あの場で何が起きたのか、何が原因でメリーは意識を失う事になってしまったのか。それら諸々の確認も含めて、彼女には思う所があったようだ。彼女達は彼女達なりに、事件を追っていたようなのだが――。

 

「言ったでしょ? 大した成果は得られなかったって」

「いや、まぁ、それはそうなんだけど……」

 

 研究室に押しかけた進一に対し、夢美が口にしてきたのは素っ気ない返事だった。

 曰く、蓮子の部屋を調べる前に警察によって摘み出されてしまったらしい。確かに夢美達だってメリーの知り合いだけれども、警察からしてみれば民間人の部外者である。自分達の調査が終わるまで、あまり現場を荒らされたくなかったのだろう。まぁ、彼らの判断も分からなくないが。

 

「やっぱり警察を呼んだのは失敗だったか……?」

「いや、進一の判断は妥当だったと思うぜ。というか、あんな状況を目の当たりにしたら、誰だって警察を呼ぼうって発想になるだろ普通」

 

 ちゆりがフォローを入れてくれた。

 何が原因であんな事になってしまったのか分からなかった以上、やはり警察は呼ぶべきだったというのが彼女の意見らしい。そもそも非常識的な何かが絡んでいると完全に言い切れる訳ではないのだ。現実的な事件である可能性が残っている以上、警察の力も頼るべきである。

 

「それはそれとして、俺が聞きたいのは現時点での姉さん達の意見なんだ。メリーの事、どう思っている?」

 

 取り敢えず証拠の有無などは置いておくとして。進一が確認したいのは夢美とちゆりの見解だ。

 未だに常識においても非常識においても中途半端な位置に立っている進一では、そういった類に関する発想力に限界がある。それに比べて、夢美達はどうだろう。彼女達は進一などよりもよっぽど非常識――オカルトに精通している。そんな彼女達だからこそ、辿りつける答えだってあるはずだ。

 

 椅子に座って足を組んだ夢美は、片手で頬杖をついて難しそうな表情を浮かべている。それからちゆりと一瞬だけアイコンタクトを取った後、

 

「大まかな意見は蓮子と同じよ。多分、原因はメリー本人にあると思うわ」

「ああ。あいつの持っている『能力』か何かが起因してるんだろうな」

 

 やはりそうかと、進一は思わず肩を落とした。

 昨晩、蓮子達との話し合いの末に辿り着いた答えと同じだ。これまでのメリーの様子や彼女が倒れた状況から推測して、そう考えるのが妥当だと。それが蓮子の見解だった。

 夢美達も同じ答えに辿り着いていたのだとすれば、その推測の確実性はより確固たるものになると言えるだろう。けれど、それだけでは駄目だ。いくら原因が解明された所で、その解決策が見つかなければ意味がない。

 

「がっかりした?」

「えっ……? あ、いや……。すまん、そう言う訳じゃ……」

「いいのよ、別に。あまり役に立ててないのは事実だし。多分、私じゃメリーを助ける事は出来ないと思う」

 

 随分と潔い物言いである。夢美らしくない。

 

「……どうしたんだよ。自虐的な態度なんて、珍しいじゃないか」

「あら? そう見える?」

 

 返ってきたのは意外な反応。戯る夢美を前にして、進一は思わず言葉を失う。

 この態度。何か考えでもあるのだろうか。

 

「メリーを助ける方法。実は皆目見当もつかないって訳でもない」

「なっ……」

 

 夢美に代わって答えたのは、助手であるちゆりだった。彼女はそう口にしつつも、ひょいっと身体を持ち上げてデスクの上へと腰掛ける。女性としての淑やかさも何も完全にお留守だが、今に始まった事でもないのでいちいち突っ込むのは止めにしておく。

 そんな事より気になるのは、彼女が口にした内容だ。

 

「助ける方法って……。どうしてそれをもっと早く言わなかったんだよ。何かに気づいてるんだったら……」

「まぁ落ち着けって進一。あんまり期待しない方がいいぞ。あくまで“皆目見当もつかないって訳でもない”だけであって、具体的な方法が見つかった訳じゃないんだからな」

 

 やや食い気味に迫る進一に対し、ちゆりが落ち着いた様子でそれを諭す。そこで進一は何とか身を引いた訳だが、だからと言って納得をした訳ではない。

 未だ眠りから目覚めぬ気配も見せないマエリベリー・ハーン。彼女を助ける為の見当とは、一体何の事なのだろうか。

 

「そうだな……。それじゃあ、質問だ進一。メリーが持ってる能力って、何だったっけ?」

「メリーが持ってる能力?」

 

 どんな答えが飛び出すのか。一抹の不安感と期待を抱きつつも彼女達の回答を待っていた進一だったが、まず返ってきたのはちゆりからの質問だ。

 訝しげに思いつつも、取り敢えず素直に答えておく。

 

「……『結界の境界が見える程度の能力』、だろ? あぁ、いや、その本質は別にあるかもって蓮子は言っていたが……」

「そう。私達も蓮子から聞いたぜ。メリーの能力が、境界を“見る”能力から“操る”能力に変異してるかも知れないってな」

 

 『境界を操る程度の能力』。思えば妖夢が発したこの呟きは、本当に的を射ていたように思える。やはり幻想郷や冥界で生活していた身である為、そういった発想力は豊かなのだろうか。

 ともあれ、確かなのはメリーの能力に不明瞭な部分が多く隠されていたという事だ。彼女がああして目を覚まさぬのも、この能力が原因であると考えて間違いないと思うのだが――。

 

「まぁ、メリーが目を覚まさない原因だとか、それについては一旦考えなくても良い。ここで重要なのは一つだけ。“今のメリーは境界を操る事が出来るのかも知れない”って可能性が存在する事だ」

「可能性……?」

 

 進一は腕を組み、そして首を傾げる。

 確かにちゆりの言う通りだ。もしも能力の変異が真実なのだとすれば、今のメリーは境界を操る事が出来るのかも知れない。実際、彼女は無意識の内に境界を操って、夢の中で幻想郷に迷い込んでしまったのだから。そして今も尚、彼女は夢の中から帰還する事が出来ずにいる。

 

「そう、可能性だ。確かに私達はメリー本人の中に原因があると睨んでいる訳だが……。でも実際、本当にあいつの持つ能力の本質が、『境界を操る程度の能力』であると言い切れる訳じゃないだろ?」

「……ああ。あの状況から考えられる推測の一つみたいなものだからな。実際にこの目でメリーが境界を操る瞬間を見たって訳じゃない」

 

 だから“可能性がある”という不明瞭な表現なのだろう。

 

「とにもかくにも、今のメリーは境界を操る事が出来るのだとする。けれども上手く扱い切れていないんだろう。だとすれば、能力を使った“痕跡”がどこかに残されてるんじゃないか?」

「はあ……痕跡、か……。確かにそれが見つかれば、メリーを助ける手掛かりに……」

 

 そこで一瞬、進一の言葉が詰まる。吐き出しかけた声を反射的に呑み込んで、彼はその瞬間だけ自分の思考に集中した。

 その理由は単純。()()()に感づいてしまったから。

 

「ふふっ……流石は進一ね。直感的に気づいちゃったのかしら?」

 

 夢美が感嘆の声を上げる。どうやら彼女は進一の事を少々買いかぶりしているようだが、別に“流石”などと言われるほど自分は勘が優れているとは思えない。

 どうにも背筋にムズムズとしたものを感じた進一は、誤魔化しを入れつつも最低限の確認を行う。

 

「いや、気づいたと言うか何と言うか……。とにかく結論だけ言っちまうと、メリーを助ける方法ってのは、その“痕跡”を辿ってあいつを夢の中から引っ張り出す――って事か?」

「ええ。そう言う事よ」

「……もう一つ確認。その方法を使えば、誰でもメリーを助ける事が出来るのか?」

使()()()()、ね。少なくも、私とちゆりじゃあ無理でしょうね。さっきも言ったでしょ? 私じゃメリーを助ける事は出来ないと思うって」

 

 そう。恐らく、夢美とちゆりじゃこの方法を使う事はできない。彼女達には適正がないのだ。

 では、誰がこの方法を使う事が出来るのだろうか。当然、普通の人間ではない事が最低限の前提条件だろう。

 例えば、そう。

 不思議な『眼』を持っている、とか。

 

「まぁ、さっきも言ったと思うけど、まだ肝心な事は何も分かっていない。痕跡を辿る具体的な方法とかな。それに、メリーが『境界を操る程度の能力』を持ってるって前提での推測だ。その部分が間違ってたら、そもそも今の話は全部戯言だぜ」

「……いや、十分だ。戯言だろうと世迷言だろうと」

 

 多少なりとも手掛かりは掴めた。それならば、とにもかくにも行動を起こすべきだろう。

 正直、当たって砕けろなんて明らかに性に合わないが、やれるだけの事はやってみようと思う。

 

「……行くの?」

 

 踵を返した進一を見て、夢美がそう確認してくる。彼はチラリと一瞥した後、

 

「ああ。メリーを助ける為なら何だってやってやるさ。勿論、俺の出来る範囲でな」

「……ねぇ、進一。一つだけ聞いて」

 

 妙に真剣で芯のある声色。思いも寄らぬ夢美の声が耳に流れ込んできて、進一は思わず身体ごと振り返る。いつの間にか立ち上がっていた今の夢美には、いつものような能天気さは微塵も感じられない。

 進一が呆気にとられていると、彼女は絞り出すかのように口を開いた。

 

「無理に『能力』を使うのは止めなさい」

 

 やっぱりその話か、と。進一は胸中で呟いた。

 

「……藪から棒だな。あまりにも唐突過ぎて、何か裏があるんじゃないかと疑っちまう」

「私は至って真剣よ進一。表も裏もないし、況してや冗談を言っている訳でもないわ。あなたの事を思って言ってるの」

「……何だよ。ひょっとして心配してくれているのか?」

「当たり前でしょ」

 

 即答である。進一はたじろぐ。

 

「そ、そこまではっきり言われると調子が狂うんだが……」

「……あなたの事が心配なのよ。本当に心の底からね。確かに私だって、あなたを()()()()に引き込んでいる訳だけど、やっぱりそれでも……」

 

 夢美が身を縮こませた。弱々しく、簡単に打ちのめされてしまいそうな程に。

 いつものような覇気がない。物怖じしないような度胸が感じられない。その原因は既に明白。全て進一の責任だ。

 

「大丈夫だって。別に無理なんかしちゃいない。俺がやろうと思うからやる。それだけだ」

「でもっ、進一……」

「聞いて欲しいのは一つじゃなかったのか?」

「……っ」

 

 だからこそ。彼は前に進まなければならない。

 

「本当に心配性だな。こういう事に関しては」

「仕方ないでしょ……。だって……」

「心配なんていらない。気負いする必要もない。ただ、俺を信じてくれ」

 

 それ以上の言葉を発する事はなかった。今度こそ進一は踵を返して、研究室のドアを開け放つ。夢美達の視線が気になったが、それでも構わず研究室を後にした。後ろ髪を引かれる思い、とはこの事だろうか。いや、微妙にニュアンスが違うような気もするが。

 

 それはともかく、とにもかくにも。

 

(……俺はもう逃げ出したりなんかしない)

 

 彼は足早に歩を進める。

 

 

 ***

 

 

 西の地平線に沈み切った夕日。周囲に落ちる夜の帳。所謂薄明と言う時間帯だが、辺りにはぼんやりと霧がかかっている様子だった。

 上を見上げると空が見える。ここは森のど真ん中だが、どうやらかなり開けた場所らしい。目の前には大きな湖があるし、頭上には木の枝や葉っぱなどといった遮蔽物はない。お陰で星と月がよく見える。湖面にその夜空が反射されて、中々に幻想的な光景が目の前に広がっていた。ぼんやりとした霧もベストマッチである。

 

 改めて周囲の様子を確認する。この湖を取り囲むようにして鬱蒼とした木々が生い茂っているようだが、視認できる範囲では唯一背後の一箇所のみ明らかに整備された道のような物が確認できる。おそらく獣道などではないだろう。その証拠に、ぼんやりとだが先の方に建物のような物も確認出来る。この宵闇の中でも尚映えるような、真っ赤な異彩の建物が。

 

『ふぅん……霧がかった森の中に佇む洋館ね。中々オツじゃない』

 

 ところで。

 

『って、何だか冷静に分析しちゃってるけど……』

 

 少女が体験しているのは、あまりにも突拍子もない出来事。

 

『ここって、メリーの夢の中……よね?』

 

 別に具体的な根拠がある訳でもないが、彼女の勘がそう告げている。今、彼女は――宇佐見蓮子は、マエリベリー・ハーンの夢の中へと足を踏み入れる事に成功したのである。

 どうにも奇妙な感覚だ。身体中がふわふわと軽いと言うか、どうにも感覚が鈍いと言うか。ここは明らかに野外だが、暑さも寒さも感じられない。深呼吸をしてみても空気が肺に入り込んでくるような感覚もなく、頬をつねってみても思った程痛さは感じられない。

 

 言うなれば。自分の存在が酷く曖昧なようにも思える。

 

『ま、まさか本当に入れるなんて……。現実の世界とは、ちょっと勝手が違うようね』

 

 呟きつつも、蓮子は星が瞬く夜空を見上げる。

 

『時間と場所は……ダメね。まるで分からないわ』

 

 星と月を見てみても、蓮子の能力が発揮されない。いつもなら、ちょっと『眼』に入っただけでも直ぐに認識出来てしまうはずなのに。蓮子が『能力』によって認識する時間はJSTにしか対応してないので、場所によっては正確な時間が分からない時もあったが――。それとは明らかに違う。

 

 周囲はまるで見知らぬ場所。『能力』を使っても、時間も場所も分からない。その事実が、何よりの証拠になっている。

 

『やっぱりここは異世界……。幻想郷、なの……?』

 

 改めて自分の状況を認識すると、胸の高鳴りが激しくなるように感じられた。

 正直、どんな原理でメリーの夢へと入り込めたのかはまるで分からない。殆んど勘と勢いのみでメリーの夢を認識し、殆んど意識もしない内にこうしてその夢へと接触している。

 

『まぁ……。原理やら何やらを考えるのは後でいいか』

 

 そこで蓮子は思考を打ち切る。

 それにしても、何だか自分でも驚く程に頭の中は冷静だ。やはり夢の中だからなのだろうか。それに、さっきまでの頭痛も吐き気もまるで感じられないし。

 

『……現実の私。まさかメリーの上で吐いちゃってたりしてないでしょうね……?』

 

 それを確認する為にも、早い所メリーを連れてここから脱出した方がいい。とにもかくにも、今はメリーを見つける事に専念すべきだ。

 

『……あの洋館にいるのかしら?』

 

 取り敢えず唯一の建物があの真っ赤な洋館だ。手掛かりを見つける為にも、まずはあの建物に向かってみる事にする。

 

 道が整備されている為か、例えば去年の11月に探索したあの雑木林などよりも移動しやすい。それとも夢の中である為か、そういった物理現象は完全に無視なのだろうか。だとすれば、夢と現実を同一視すべきなどとんだ世迷言である。

 そんな事を考えつつも、小走りで数分。

 

『さて、と』

 

 特に妙な妨害もなく、蓮子は真っ赤な建物の前まで辿り着いた。

 こうして間近でまじまじと観察してみると分かるが、やはりどうにも悪趣味な館だ。時計塔も確認出来る西洋風のその館は、それこそ地の上から塔のてっぺんまで紅で統一されている。広大な敷地に鎮座しているそれは、まるで魔の巣窟のように禍々しく、おどろおどろしく懐疑的だ。こんな館を所有している人物の気がしれない。

 

『窓も殆んど見当たらないし、屋敷の中は日当たり悪そうね』

 

 他人の館に対する酷評は取り敢えず胸の中にしまっておく事にして。

 まずはこの館の住民に話を聞いてみるべきだろう。もしもメリーがこの館に来ているのなら願ったり叶ったりなのだが。

 

『えっと……。取り敢えずあの子よね……』

 

 実を言うと、既に蓮子の目の前には第一住民が確認出来ている。あの真っ赤な館の門に当たる場所。そこに佇む一人の少女である。

 歳は、蓮子と同年代くらいだろうか。腰まで届く真っ赤な髪に、側頭部にはリボンで纏められた三つ編み。身長はかなり高い部類で、その身に纏うのは緑色を基調としたチャイナドレスにも似た服装。門の前にいるという事は、この館の門番か何かだろうか。

 

 西洋風の真っ赤な館に、中国っぽい服装の門番。何だか色々な要素がぐちゃぐちゃになってきたような。

 

『ここ……やっぱり幻想郷なのかしら? イマイチよく分からない世界観しているわね……。それにしても』

 

 門の前に佇んでいるような表現をしたが、それでは少し――いや、かなり語弊がある。正確に言えば、彼女がいるのは門の前などではなく門の横の塀。ついでに言えば彼女は佇んでいるのではなく、その塀に寄りかかって肩を上下に揺らしているのだ。だらしなく涎を垂らし、幸せそうな表情を浮かべてスヤスヤと寝息を立てている。

 

 そう。これは所謂、居眠りというヤツである。

 

『立ったまま寝てるし。と言うか、夢の中にまで眠っている女の子が出てくるってどういう事よ……』

 

 もしも彼女が本当に門番なのだとしたら、職務怠慢もいい所だ。あとで主にでも見つかってたっぷりと絞られるんだろうなぁ、と。蓮子はちょっぴり同情した。

 

『まぁ、この子の顛末は置いておく事にして……』

 

 どっちみち、蓮子は目の前にいるこの少女を起こさねばなるまい。

 この館にメリーがいるのか、そもそもここはどこなのか。幻想郷か、それとも別の異世界か。様々な疑問が休まず溢れてくるが、彼女に確認してしまえば幾分か解消されるだろう。折角のこの手掛かり、逃す訳にはいかない。

 

『ねぇ、そこの貴方。ちょっといい?』

 

 歩み寄りつつも声をかける。しかし少女は一向に目を覚ます気配も見せない。

 どれだけぐっすり眠っているのだろう。しかも立ったままである。この少女、実は中々の大物なのではないだろうか。

 

『ちょっと、起きてってば』

 

 もう一歩近づいて声をかけてみるが、やはり反応はなし。蓮子の声が聞こえていないのではないかと、思わずそう疑ってしまう有様だ。それとも、蓮子の声は聞こえているが無視して狸寝入りでも決め込んでいるのだろうか。だとすればタチが悪い。理由は分からないけれど。

 

『いい加減起きなさいって!』

 

 痺れを切らした蓮子が、少女の肩を叩こうとする。けれども彼女が伸ばしたその手は、少女の肩には届かなかった。

 

『えっ……?』

 

 否、届かなかった訳ではない。手を伸ばせば十分に届くくらいの距離に立っていたはずだ。にも関わらず、蓮子の右手は空を掴んだ。手応えなんて、まるで感じられない。

 それもそのはず。宇佐見蓮子が伸ばしたその手は、少女の身体を()()()()()のだから。

 

『…………』

 

 呆気にとられた表情で、蓮子は自分の右手を見つめる。何も言わずに彼女は今の行動をそのまま辿ってみるが、結果は同じ。

 目の前にいるはずのこの少女に、触れる事が出来ない。まるで自分が幽霊にでもなってしまったかのようだ。実は目の前には誰もいないのではないかと疑ってしまう程に、幾ら手を伸ばしても少女に届く事はない。

 

『……成る程ね。ここはメリーの夢の中。だから部外者である私は干渉する事が出来ない、って事かしら?』

 

 本当に幽霊になってしまった――という可能性は薄いだろう。妖夢から聞いた話が正しければ、気質の具現である幽霊は顕界では個として実体を持つ事はほぼ不可能。況してや、こうして意識を持って行動する事が出来るなど有り得ないはずだ。

 だからと言って、亡霊の類になってしまった訳でもないだろう。どうやら亡霊には存在がかなり濃密らしく、それならこの少女に触れられない事への説明がつかない。

 

『消去法みたいなものだけど……』

 

 そう考えるのが妥当という事だ。

 

『それじゃあ、聞き込みをするって選択肢は捨てた方が良さそうね』

 

 こちらの声が届かないのだ。聞き込みなどしようがない。

 だとすれば、蓮子に残された道は一つ。自分一人の力でこの世界を捜索し、そしてメリーを見つけて彼女と共に帰還する。それ以外の選択肢など、既に消えてなくなっていた。

 

 取り敢えず、この館を探索してみよう。文字通り鬼が出るか蛇が出るか、それは気になる所であるが。

 

『お邪魔しますよー』

 

 居眠り少女の側を通り抜けて、蓮子は館に足を踏み入れる。真正面から堂々と不法侵入する事になる訳だが、人並み以上の図太さを持つ蓮子は然して気にしていない様子だった。

 

 

 ***

 

 

 何だ、この館は。それが数十分前から抱き続けている蓮子の感想だった。

 上から下まで真っ赤な異彩の外観であったが、その内装も目が痛くなりそうな紅で統一されていた。流石にランプは淡い黄金色であるが、床に引かれた絨毯の色は紅。壁紙の色も紅。当然花瓶の色も紅で、いけられているのも真っ赤な花を持つ植物だった。

 どうやら、この館の所有者は紅という色が随分とお好きのようだ。確か夢美も同系統の色を好んでいたと思うが、おそらくここの主はそれ以上である。流石にここまで真っ赤っかだと、どうにも落ち着けそうにない。

 

『色合いもそうだけど……』

 

 それよりなにより奇妙なのは、この館の内部構造だ。外観から得たイメージと比べ、明らかに広すぎるような気がする。既に一時間以上は探索していると思うが、一向に全ての部屋を回り終えられる気がしない。この感覚を例えるならば――そう、まるで空間が広げられているかのようだ。そんな『能力』が存在するのか疑問に思うのだけれども、ある意味場所という空間を認識出来る『眼』を持つ蓮子にとって、中々興味深い事柄であった。

 

『ここに住んでいる人か、使用人だか分からないけど……。やっぱり普通の人間は殆んど見当たらないみたいね』

 

 最も多くすれ違うのは、メイド服を身に纏って背中に羽を生やした小柄な少女達だ。メイド服を着ていたので使用人かと思ったが、しかしどうにも違うように思えてくる。その幼い容姿通り、掃除等の雑務ではなく遊んでばかりだったような気がするし、それではあの門番とは違ったベクトルで職務怠慢である。ここの主は、幼い少女にメイド服を着せるような趣味でもあるのだろうか。

 

『本当、何なのよこの館……』

 

 そう言えば地下に巨大な図書館もあったか。あそこは紅で統一はされていなかったが――。

 

『あの図書館にいた紫色の服を着た女の子は、見た目だけは人間っぽかったけど……』

 

 何分こちらの声はまったく届かないし、あちらの声だってまるで伝わってこないのだ。誰が本当は人間で、誰が本当に人外なのか。その真意は未だに謎のままである。

 

『メリー……。本当に大丈夫かな……?』

 

 仮に全員人外なのだとすれば、今頃メリーはどうなっているのだろうか。今まですれ違ったどの人物も人間を頭からむしゃむしゃ食べるとはとても思えないけれど、それでもやはり心配だ。穏便に招き入れられていれば良いのだが――。

 

『……ん?』

 

 長い廊下をトボトボと歩いていると、不意に奇妙な違和感を覚えた。

 夢の中である所為かさっきから肉体的な感覚は殆んど機能していないけれども。それでも直感だとか、そういった本能的な感覚はしっかりと働いている。当然脳も働いているし、視覚だってちゃんと生きている。

 故にこういった違和感も、ある程度は敏感に察知する事が出来る。

 

『またこの現象……?』

 

 しかもこの感覚を覚えたのはこれが始めてではない。規則性は感じられないが、同じ感覚をさっきから何度か経験している。

 チラリと視線を横に向けると、さっきから何度もすれ違っている羽の生えたメイド少女が目に入る。けれども明らかに様子がおかしい。今の今までフラフラと周囲を飛び回っていたであろう様子は見て取れるのだが、なぜだか不自然なタイミングで空宙に静止してしまっているのだ。

 

 その様子を強引に言い表すのならば――そう、一時停止である。

 

『あの子……と言うか、周囲の時間が止まっちゃってるような……』

 

 先に断っておくが、別に蓮子が何かをした訳ではない。蓮子の意思とは無関係に、先程から周囲の時間がぶつ切りのようになる事がある。

 例えるならば、ストリーミング再生中の動画が速度制限により途中で静止してしまった時に似ている。しばらくすれば再生されるのだが、またしばらくすれば唐突に止まる。

 

『誰かの『能力』? それともメリーの夢に強引に接触している事への弊害かしら……?』

 

 前者も後者も十分に有り得るのだから、尚更タチが悪い。どちらにせよ、あまり時間は残されていない事になる。

 

『屋敷全体の時間を止めるなんて、生半可な『能力』じゃないし……。そんな奴にメリーが襲われでもしたら……』

 

 別に敵対していると決まった訳じゃないが、だからと言って友好的であるとも言い切れる訳じゃない。メリーの身に危険が迫っている可能性が残されているのなら、あまりのんびりしてはいられない。

 

『でも……。私の時間は止まってない訳だし、その可能性は低いのかな……』

 

 だとすれば、残された可能性は一つ。

 

『メリーの夢に強引に接触している事への弊害だったとしたら……』

 

 それはつまり、少しいい加減な言い方をしてしまえば、蓮子という異物が混入した事により何らかの“不具合”が発生しているという事だ。このままでは、メリーの意識を連れ戻す前にまた離れ離れになってしまう可能性もある。最悪、メリーの意識そのものを壊してしまう危険性も――。

 

『どっちだったとしても……』

 

 急いだ方が良さそうだ。

 

 蓮子は一度足を止め、手近な扉へと視線を向ける。さっきから似たような扉ばかりだったが、確かあの部屋はまだ探索していなかった気がする。メリーの居場所が皆目見当もつかない以上、虱つぶしに部屋を調べていくしかない。

 蓮子は扉の前に立つ。相も変わらず触れる事は出来ないが、それは即ちすり抜ける事が出来るのだという事だ。鍵かかかっていようがなかろうが、今の蓮子には関係ない。

 

『よっと……』

 

 思い切って扉を抜ける。分かっていても、開いていない扉へと突っ込むのはやはり少々抵抗がある。鼻先をぶつけてしまいそうだし。

 

『ん……』

 

 扉を抜けた途端、空に浮かぶ真っ赤な月が蓮子の視界に飛び込んできた。

 暗闇。頭上に広がるは一面の星空である。科学技術が発達した大都会のど真ん中では、まずお目にかかれないような夜空。思わず見惚れてしまうくらいに壮観な光景だ。

 どうやら、野外に出てきてしまったらしい。

 

『ここって……』

 

 庭、か何かだろうか。

 眼前に広がるのは紅。正確に言えば紅い花が植えられた花壇である。更にその花壇の奥には、薔薇の庭園も確認出来る。やはりと言うべきか、当然薔薇の色も紅。

 ここまで徹底していると、いよいよ清々しく思えてくる。よもやここまで紅で統一しているとは。

 

『教授もびっくりするくらいの紅っぷりね』

 

 冗談はさておき。

 

『月の高さから考えて、時間は思ったより経っていなかったのかな……?』

 

 月が赤く見えるのは、夕日や朝日が赤く見えるのと同じ原因だ。月の出や月入りなど、月の位置が地平線に近い時にその光は赤く見える。

 つまり、まだ月が昇ってからそう時間は経ってない。月入り時だという可能性もあるにはあるが、まさかそこまで時間が経過してしまった訳でもあるまい。あまり夜が更けてしまう前に、何とかメリーを見つけてしまいたい所だが――。

 

『……ん?』

 

 何気なく薔薇の庭園へと視線を向けると、そこに四阿が建てられている事に気がついた。天気のいい日は、あそこで薔薇に囲まれて優雅にティータイムと洒落込むのだろうか。庶民にはあまり体験できない贅沢である。

 

 ――って、ちょっと待って。

 

『あそこ……。誰かが、いる……?』

 

 遠目からなので少々認識に遅れたが、確かにあの四阿には何人かの人影が確認出来る。

 その一人。四阿に設けられた椅子に座り、ぼんやりと周囲を見渡しているのは見覚えのある少女である。この距離からでもはっきりと分かるような菖蒲色のワンピース。セミロングのブロンドヘア。そして頭に被るのは、ナイトキャップにも似た白い帽子。そんな彼女の存在を認識した途端、蓮子は思わず身を乗り出した。

 

『ま、まさか……!』

 

 そう、見違える訳がない。あの四阿で興味深く周囲を見渡しているあの少女こそ、正真正銘、宇佐見蓮子の探し人。蓮子がこの世界へと足を踏み入れるきっかけとなった人物。他でもない、代わりなんていない、唯一無二の親友。

 

 マエリベリー・ハーン。彼女に間違いなかった。

 

『見つけた……!』

 

 当然、蓮子の感情は高ぶる。心臓の高鳴りが激しくなったような気がしたが、この夢の世界ではそこまではっきりと感じる事が出来ない。

 いや、今は自分の事なんて二の次だ。

 メリーの姿を確認できた。ならば後は彼女を現実世界に引き戻すだけだ。

 

『メリー!』

 

 声を張り上げつつも、蓮子はあの四阿に向けて走り出す。干渉できないのをいい事に、彼女は花壇を迂回せずに跨いで、薔薇の庭園へと一直線だ。そのまま一気にあの四阿へと辿り着いてしまおうと――。

 

『…………ッ!?』

 

 辿り着いてしまおうと、薔薇の庭園へと足を踏み入れたその瞬間。蓮子は唐突な目眩に襲われた。

 全身の力が抜ける。ガクリと膝が折れる。ついさっきまで肉体的な感覚などまるで感じなかったのに、今は確かに鈍い痛みが蓮子の中に響いている。

 頭痛だ。この世界に来る直前、寝不足と疲労が原因で発生していた体調不良。それが今になってぶりっ返してきたのだろうか。

 

『いやっ……、ぶりっ返してきたって言うか……。これは……』

 

 蹲って頭を抑えつつも、蓮子は必死になって考える。

 この感覚は明らかに現実(リアル)だ。夢の中の出来事なんかじゃない。つまり蓮子の感覚が、現実の自分と再び繋がり始めているという事になる。

 それが意味する事は、即ち。

 

『この世界から……、弾かれそうになってるって事……!?』

 

 宇佐見蓮子という“異物”を、本格的に排除しようとしてきたのか、或いは現実の自分が夢から目覚めようとしているのか。どちらにせよ、おそらくこのままでは強制送還だ。折角目の前に、あれだけ捜し回った彼女がいるのだと言うのに。

 

『ダメ、まだ……。う、くぅ……』

 

 蓮子の意思とは無関係に、どんどん意識が混濁してゆく。激しい頭痛と吐き気に襲われて、徐々に思考も止まり始めた。どさりと倒れ込んだ蓮子は、最早焦点も合わぬ目で四阿へと視線を向ける。

 

『メ、リー……』

 

 レース生地のクロスが引かれたテーブルの上に、ティーカップとティーポット。そして洋風の菓子などという完全なティーセットである。そんなテーブルの向かい側には、見覚えのない二人の少女。その服装から考えて、片方の少女はメイドで、椅子に座ったもう片方の少女はこの館の主か何かだろうか。

 

『こんな時間から、ティータイム……?』

 

 胡乱に思う蓮子だが、その場の雰囲気はどちらかと言えば友好的だ。少なくとも、険悪なムードなどではない。

 どうやらメリーは、穏便に招き入れられていたようだ。

 

『で、も……』

 

 こうして蓮子が倒れているのに、あの少女達は見向きもしない。メリーも含めて、宇佐見蓮子の存在に全く気づいていない様子だった。

 ここはメリーの夢の中。だから部外者である自分は干渉する事が出来ない。そんな蓮子の推測は、間違ってはいないと思うのだけれど。

 

『メリーまで……気づかない、なんて……』

 

 これじゃあ、メリーを連れ戻す事なんて出来やしない。彼女を助ける為に、必死になってここまで辿り着いたというのに。

 まるで全然、無駄足になってしまうなんて。

 

『そんな、事……!』

 

 そんな事。

 

『認められる訳、ないじゃない……!!』

 

 混濁する意識。襲いかかる頭痛と吐き気。肉体的にも精神的にも加速度的に追い込まれてゆくが、それでも彼女は諦めない。

 少しでも気を抜けばあっという間に意識を持って行かれそうだが、それなら気を抜かなければいいだけの事。激しい頭痛が原因で身体も殆んど動かないが、それなら痛みに意識を傾けなければいいだけの事。自分で自分に言い聞かせ、自分で自分を奮い立たせて。

 宇佐見蓮子は、立ち上がる。

 

『メリー、私……。貴方に、ちゃんと謝りたいの……』

 

 生まれたての小鹿みたいに、フラフラと覚束無い足取り。風が吹けば倒れてしまいそうな程に危なっかしいが、それでも彼女は歩を進める。

 

『自分の事ばかり考えてて、勝手な事を口走って。それでメリーを、傷つけちゃって……』

 

 苦しい。激しい嘔吐感の所為で、呼吸もままならなくなってくる。それでも、彼女は言葉を紡ぐ。

 

『許してくれなんて、そんな勝手な事は言わないわ……。だけど、それでも……私の思いを、聞いて欲しいの……。ちゃんと、面と向かって、貴方と話がしたいのよ……!』

 

 メリーは大切な親友だ。彼女がいたからこそ、秘封倶楽部を結成する事ができた。彼女がいてくれたから、今の蓮子がいると言っても過言ではない。

 それ故に、だからこそ。こんな形で終わりだなんて、認める訳にはいかないのだ。

 

『お願い……。お願いだから、届いてよ……!』

 

 宇佐見蓮子は、前に進む。

 

『メリー……!』

 

 宇佐見蓮子は、手を伸ばす。

 

『手を取って……! マエリベリー!!』

 

 

 ***

 

 

「…………っ?」

 

 誰かに名前を呼ばれた気がした。必死になって、死に物狂いで、誰かが会いに来てくれた気がした。

 メリーは振り返る。そこにあるのは真っ赤な薔薇と、真っ赤な花壇と、そして真っ赤な屋敷。誰かがそこにいる訳ではない。それならば当然、誰かが彼女の名を呼ぶなど有り得ない。

 そう、有り得ないのだけれども。でも――。

 

(でも……)

 

 マエリベリー・ハーンは知っている。そこには確かに誰かがいた。そして確かに、メリーの名を呼んだ。

 記憶の中に染み付いた声。聞き飽きる程に聞いた声。けれどもどこか、心地いい。そんな温かい声。

 

「どうやら迎えが来たようね」

 

 四阿に設けられたテーブル。その向かい側に座っている少女が、ティーカップを片手にそう口にする。

 不思議な少女だった。小柄で華奢な体格に、まだ幼さを多く残す顔立ち。薄桃色の衣服を纏う彼女は、容姿だけは年端もいかない幼気な少女である。けれどもそんな容姿とは不相応な程に、その少女からは確かな品格が見て取れる。

 そして何より目を引くのは、彼女の背中。そこから生える、一対の羽。普通の人間には有り得ない異常性。

 

 この少女は人間などではない。

 彼女曰く。吸血鬼、という種族らしい。

 

「迎え、かどうかは分かりませんけど……」

「そうかしら? それにしては随分と嬉しそうな顔をしているけど」

 

 鈴を振るうような声。緩ませる口元には鋭い八重歯も確認出来る。

 その小さな吸血鬼の少女は、実に満足気な表情を浮かべていた。

 

「いい暇つぶしになったわ。常日頃から退屈しているのよ、私は」

「そ、そうなんですか……」

「ええ。私は人生に刺激を求めるタイプなの」

 

 見た目だけは幼い子供が人生云々と口にしても可愛さが先行してしまうだろうが、この少女は違う。その幼気な笑みの裏に存在するのは、底知れぬ凄み。おそらく彼女は、決して敵に回してはいけないタイプなのだろう。

 人を見かけで判断してはいけないとは、よく言ったものだ。人じゃなくて吸血鬼らしいけれど。

 

「まぁ、折角退屈しのぎに付き合ってくれた訳だし、何かお礼をしなくちゃね」

「へ? い、いえ、お礼なんて……」

「あら? 何かを貰ったらそれ相応のお返しをするものでしょ? それが淑女(レディ)の嗜みよ」

「は、はあ……」

 

 さっきから気圧されっぱなしで、思わず生返事になってしまう。どうにも腹の底の知れぬ少女であるが、まぁ、悪い子ではないような気がする。強大な力を有している事は確実だろうが。

 

 メリーが困惑を隠せない中、吸血鬼の少女は傍らにいたメイド少女に何やらサインを送る。その最低限のやり取りで、彼女は主が言わんとしている事を理解したらしい。

 

「かしこまりました」

 

 そう呼応した直後、メイド少女はその姿を()()()

 ――いや、姿を消した訳ではない。瞬間移動、或いはテレポーテーションの類か。原理はよく分からないが、どうやらあのメイド少女はあらゆる行動を瞬時に行う事の出来る『能力』を持っているらしい。ついさっきまで吸血鬼少女の傍らにいたはずの彼女は、今はいつの間にかメリーの傍に佇んでいる。

 

 客観的に観察しただけの推測だが、彼女の持つ『能力』はおそらく時間への干渉。自分以外の時間を静止させる事で、瞬間的に行動しているように見せかけているのだろう。本人に聞いた訳でもないので、確実にそうだと言い切れる訳ではないが。

 

「どうぞ」

「あっ、はい……。ど、どうも」

 

 そんな彼女は小さな包みをシルバートレイの上に乗せ、メリーに差し出してきた。言われるがまま、メリーはその包みを受け取る。この手触り、クッキーか何かだろうか。

 

「私のメイド特製のクッキーよ。急だったから、そんな物しか用意出来なかったけど」

「あ、ありがとうございます……」

 

 それにしても。この吸血鬼の少女は、なぜここまで親切にしてくれるのだろう。自分はそこまで気に入られたのだろうか。

 或いは、何か裏が――。

 

(いや……)

 

 やめよう、と。メリーはそんな懐疑心を飲み込んでしまう事にした。

 この世界、そしてこの世界に住まう者。それにあまり深く関わるべきではないと、そんな直感が胸中に生まれる。だってここは、本来メリーがいてはいけない世界なのだ。それなのに、一方的に干渉してしまうなんて。

 

「待ってる人、いるんでしょ? なら、早く行ってあげた方がいいんじゃないかしら?」

「……そう、ですね」

 

 彼女が帰るべき場所は、たった一つだけ。それは分かり切っている事だった。

 

「……色々と、お世話になりました」

 

 そう口にしつつも、メリーは立ち上がって頭を下げる。すると小さな吸血鬼の少女も、軽い会釈をしてそれに答えてくれた。

 

「ええ。私の方も、有意義な話が聞けて楽しかったわ。色々と、ね」

 

 そんな簡単なやり取りを最後に、メリーは踵を返す。

 信じてくれている人。待ってくれている人。そして、こんな所まで追いかけてきてくれた人。彼女達の所へと帰還する為、マエリベリー・ハーンは歩き出す。

 

「……蓮子」

 

 ぼそりと、消え入るような小さな声で、その名前を口にする。

 

――迎えに来てくれて、ありがとう。

 

 マエリベリー・ハーンは、手を伸ばす――。


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