それはあまりにも突然だった。
特に何の前触れもなく、何かが起きる気配もなく、虫の知らせのような予感もなく、唐突に、突然。それは彼女の目の前に突きつけられた。状況を整理する暇さえも、与えられなかった。
とにかく動かなければならないと、彼女はそう思った。たった一人で待ち続けるなんて、そんな事は出来る訳がない。一人だけ蚊帳の外なんて、そんな事は耐えられるはずがない。なぜなら、彼女だって秘封倶楽部の一員なのだから。
「ここ、だよね……」
息を切らしつつも妖夢が足を運んだのは、都内某所のとある病院。位置的には、丁度進一達の住む住宅地と大学との中間辺りだろうか。あの住宅地のように閑静という訳ではなく、かと言って都心のように騒がしい訳でもない。道が取り分け複雑という訳でもなく、かと言って単純という訳でもない。何もかもが平均的な――言ってしまえば中途半端なその場所に、それは存在した。
とあるビルの一角、その一階部分に設けられた病院である。ビルそのものは随分と年季が入った建物で、一見すると病院があるようには思えない。それもそのはず。この病院、看板が建てられていないのだ。こんな様子で患者が辿り着けるのか疑問に思う所だが、まぁ、妖夢がとやかく言っても仕方がない。別に首を突っ込む必要もないだろう。
とにもかくにも、目的地はこの病院だ。妖夢はガラス製の手動ドア――今時のビルでは珍しいらしい――を開けて、その中へと足を踏み入れる。そこは人が三、四人でいっぱいになってしまいそうな広さのエントランス兼待合室で、受付には女性の姿が一人。妖夢は迷わず彼女へと声をかけた。
「あのぅ……すいません」
「……あら? 貴方はいつぞやの」
この反応。どうやら彼女、妖夢の事を覚えているらしい。
実は妖夢も以前にこの病院には世話になった事がある。何を隠そう、クリスマスイブのあの日。三度笠の女性剣士との剣撃の末に負傷した妖夢が、夢美達によって連れてこられた病院である。別に大した怪我ではないと思ったのだが、念のため診てもらった方が良いと半ば強制的に連れてこられてしまった。
所謂町医者というヤツだが、外科だろうが内科だろうが何でもござれの万能病院――らしい。しかし一般常識における
何とも怪しげな病院だが、その腕は確かなので文句は言えまい。そもそも冥界出身などという特異な立場の妖夢を普通の病院に連れて行く訳にはいかないようで、ここのようにある意味
ところでなぜ夢美がこんな病院を知っているのかというと、どうやら彼女はここの『先生』と顔見知りらしい。どうして彼女にそんな繋がりがあるのかは謎だが、まぁ、あまり深く詮索しない方が良いだろう。触らぬ神に祟りなしである。
それはさておき。別に妖夢は、診察を受ける為にこの病院まで足を運んだのではない。妖夢本人に何かがあった訳ではなく、その目的は別にある。
妖夢は一度息を呑んで、受付にいるその女性に要件を伝えた。
「……マエリベリー・ハーンさんと、面会をしたいのですが」
***
薬品独特の匂いが漂う病室に足を踏み入れると、彼女の姿は真っ先に目に飛び込んできた。
美しい金色の髪。しかし普段から身に付けている白い帽子は被っておらず、服装も薄い青色を基調とした綿生地のもの。所謂、病衣というヤツだった。
そんな彼女は病室のベッドに横たわり、静かに眠っている。その寝顔は思っていたほど苦し気ではなく、寧ろ心地よさそうにも見える。まるで、本当にただ眠っているだけのような。
「来たか、妖夢」
そんな中、声をかけてきたのはベッドの横に置かれた椅子に座る進一。彼の横には蓮子の姿も確認出来る。普段はどちらかと言うと能天気な印象を受ける彼女だが、しかし今回ばかりはいつもと様子が違う。彼女が浮かべるのは、まさに鬼気迫る表情。未だにこの状況が信じられないと言わんばかりの面持ちで、眠り続けるメリーの姿をジッと見つめていた。
「これは……」
そして妖夢も、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「これは一体、何がどうなってるんですか……!?」
「……俺達にも、何が何だか」
進一が肩を落としつつもそう口にする。
メリーが病院に運ばれたと、そう連絡をしてくれたのは彼だ。妖夢が一人で夕飯の準備をしていた所、彼はスマホから家の電話に連絡を入れてきた。
まさか妖夢も、そんな知らせを進一の口から聞かされる事になるなど夢にも思うまい。それから慌てて家を飛び出して、こうして駆けつけた訳だ。
未だ収まらぬ混乱。止めど無く溢れてくる焦燥感。妖夢が胸のざわつきをもう一度強く実感し始めた所で、蓮子がようやくこちらに顔を向けてくれた。
「あっ……妖夢ちゃん」
弱々しい表情。普段から、苦労も疲労も噯気にも出さない彼女からは考えられない程の憔悴。
再び言葉が出なくなった。まさか、彼女がここまで追い込まれてしまうような事があるなんて。それ程までに、蓮子にとってメリーとは特別な存在だったのだろう。それがまさか、こんな事になってしまうなど――。
「……来てたのね。ごめんなさい、ちょっと気づくの遅れちゃったみたい」
「あっ……。い、いえ、そんな。お気になさらず……」
「……見ての通りよ。メリーったら、ちっとも目を覚まさなくて……」
妖夢は今一度メリーへと視線を向ける。一見すると、彼女は穏やかに眠っている様にも思える。けれどもその様子はどこか奇妙で異常だ。確かに眠っているのだけど、一向に目を覚ます気配すらないというか。まるで、永遠の眠りにでもついてしまったかのような。
「何が、あったんです……?」
「……俺は蓮子を連れ出して、メリーの家へと向かったんだ。二人を仲直りさせる為にな。だけど、メリーは留守だった。だからやむを得ず、一度蓮子の家に帰ったんだが……」
「そうしたら……私の部屋で、メリーが倒れていたのよ。正確に言えば、洗面所で……」
「なっ……」
絶句しつつも、妖夢は思案する。
そうだ。確かにあの時、メリーは蓮子に会いに行くと言って妖夢と別れていた。だから彼女が蓮子の部屋を訪れるのは至極自然な行動だ。それは分かっている。
だとすると、この違和感の正体は。
「あのっ……それって、蓮子さんとメリーさんは入れ違いになってしまったという事ですよね? それじゃあ、どうしてメリーさんは部屋の中に……?」
「それは多分、私が部屋の鍵を閉め忘れたからだと思う。閉めた覚えはなかったし……。それに気づいたメリーが、きっと自主的に留守番をしようとしてくれて……」
成る程。それなら納得できる。
「一応、警察にも通報した。だけど部屋が荒らされた形跡はなし。メリー以外の誰かが部屋に侵入した痕跡も見つからない。当然、監視カメラにも何も写ってない。だからきっと、事件性は薄いって見解に落ち着くだろうな」
「そう、ですか……」
完全な密室という訳ではないが、だからと言って他の誰かが侵入したという訳でもない。そうなると、例えば強盗だとか、殺人未遂などの事件だとは考えにくいだろう。まぁ、あくまで
「……夢美さん達には伝えたんですか?」
「ああ。今は多分、蓮子の部屋にいる。自分の目で現場を見て、色々と確かめたいんだとさ」
「……夢美さんは事件性を視野に入れている、という事でしょうか?」
「どうだろうな……。まぁどっちにしろ、姉さんだってこの件については尽力してくれるはずだぞ。この病院を提案したのも姉さんだからな」
救急隊を呼んだのは良いものの、空き部屋が無い為に病院をたらい回しにされる――なんて事は意外とよくある事らしい。それならば、最初からほぼ確実に部屋が空いているだろう病院に行ってしまうのが手っ取り早いと。夢美はそう提案してきたとの事だ。
――この病院、本当に何なのだろう。この調子で続けられるのだろうか。
まぁ、それはともかくとして。
「それで、メリーさんの容態は……?」
「……分からない、みたいなのよ。ずっと眠り続けていて、一向に起きる気配もないし……。だけどその原因は全くの不明。目立った外傷も見当たらないみたいだし……。あぁ、でも、倒れた拍子に出来たような打撲の痕はあるみたいだけど……」
「……でも命に別状はない」
蓮子の説明に割り込むかのように、進一が口を挟んでくる。彼は険しい表情でメリーをジッと見つめていて、
「……ああ、そうだ。こいつの『生命』は、まだ消えていない」
「進一さん……」
彼の『眼』は、しっかりとメリーの『生命』を捉えている。だからこそ、彼はそう断言する事が出来る。でも、だけど。
「いいんですか? 『能力』なんて使っちゃって……」
「メリーがこんな事になってるんだ。我儘なんて言っていられない。利用できるものは、今は何でも利用するべきだ」
「それに……」と、彼は続ける。
「いざとなったら、お前が支えてくれるんだろ?」
「……っ。それは、当然です……!」
「なら、背中は任せるよ」
その場凌ぎの適当な誤魔化し――とは違う。彼は本気で心の底から、妖夢を頼ってくれている。だからこそ、彼はこうして『能力』を使う事が出来るのだろう。
これは進一の覚悟の現れだ。彼が自らの意思で能力を使わなければならない程に、事態は深刻だという事である。深刻で、その上しかも不明瞭。例えばクリスマスの日のあの出来事のように、非常識的な何かが関与している可能性もある。それならば、妖夢も妖夢で出来る事を全うせねばなるまい。
「あの、一度状況を整理しませんか? 私もまだ全貌を掴み切れてなくて……」
「……そうね。確かに今は、一度頭の中を整理した方がいいかもね」
意外にも真っ先に賛同してきたのは蓮子だった。てっきり憔悴し切っているのではないかと思っていたのだけれど、どうやら少しずつであるがいつもの調子が戻ってきているらしい。しかし当然、本調子とは程遠い。その表情には未だに疲れの色が濃く現れているし、向けられる瞳もまだ少し淀んでいる。だからこれ以上、あまり気負いさせるべきではないだろう。その点を解消する為にも、やはり状況の整理は必要である。
「えっと……今の話をまとめると、メリーさんが訪れたタイミングでは蓮子さんは部屋を留守にしていた。鍵がかかっていない事に気がついたメリーさんは、蓮子さんが帰って来るのを待つ為に一度部屋に足を踏み入れる。その後、何らかの要因により洗面所で意識を失う事になった――、という事で良いんでしょうか?」
「ええ、多分ね。まぁ、メリーの行動に関しては殆んど勘みたいなものなんだけど」
「……あぁ、そう言えば妖夢。俺が留守にしている間、お前はメリーと会ってたんだろ? その時はどんな様子だったんだ? 何か変わった事はなかったか?」
進一の確認。確かに先程の電話でもその話題については軽く触れていた。しかしあの時は酷く動揺していて、あまり深掘りはできなかったのだけれども。
妖夢は自らの記憶を探る。
「そう、ですね……。メリーさん、蓮子さんを怒鳴ってしまった事を凄く後悔しているみたいでした。それで蓮子さんに謝りたい、と……」
「……っ。メリー……」
ギュッと、蓮子は自らのスカートを握る。息が詰まった彼女はそのまま俯いて、口をつぐんでしまった。
彼女は自分を責めている。もしもあの時、余計な事を言わなければ。もしもあの時、もっとメリーの気持ちを考える事が出来たのなら。こんな事にはならかなったのかも知れないと、そう思っているに違いない。
(あの時……)
そう、あの時。
「……そもそもメリーさんは、ここ最近奇妙な夢を見ると言ってましたよね? ひょっとして、それと何か関係してたりするんでしょうか?」
「あぁ……。あまりにもリアルな夢、だろ? 確かに関連性があるようには思えるが……。だけど、どうにも何かが引っかかるんだよ」
難しそうな表情を浮かべて、進一は腕を組む。
「仮にだぞ? 本当にメリーが夢の中で幻想郷に迷い込んでいたとする。けれど『夢』という性質上、必ず『眠り』というワンステップを踏む必要があるじゃないか。そもそも夢っていうのは、見ようと思って見るもんじゃない。眠りについた後、たまたま偶然記憶に残ることがある、言わば副産物みたいなものだ。それなのに、今回はまるで……」
「まるで、
か細い声で、呟くように口を挟んできたのは蓮子だった。
妖夢は蓮子へと視線を向ける。彼女は俯くようにジッとメリーを見つめているが、しかしそんな蓮子が向けるのは先程までのような淀んだ瞳などではない。
探究心が刺激され、直感も交えて彼女は一つの推測をする。いくら憔悴していたとしても、やはり彼女は宇佐見蓮子である。秘封倶楽部の一人として、伊達に非常識に関わっていない。
「強くなってる……? いや、それとも本質が現れ始めてるのかな……?」
「れ、蓮子さん? 何か分かったんですか……?」
おずおずと、妖夢は蓮子にそう尋ねる。当の蓮子は顎に人差し指の背を添えて、思案を続けていた。程なくして、彼女は一つの仮説を口にする。
「能力よ。メリーは自分の能力の事を『結界の境界が見える程度の能力』って称してるけど、でも実際、その本質はそれとは別の何かだった可能性があるかも知れないわ」
「ほ、本質が、別……?」
「或いは能力が変異しているのかも……。結界の境界が見えるだけじゃなくて、もっと多様な……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ蓮子。流石に頭の中がこんがらがってきたんだが……」
どうやら進一もいまいちよく分かってないらしい。思わず片手で頭を掻きむしりながらも、彼は難しそうな表情を浮かべている。きっと妖夢も似たような表情になっているに違いない。
一人でどんどん思案していた蓮子だったが、そこで一度切り上げて説明に専念してくれた。
「あの日。えっと……私が、メリーを怒らせちゃった日……。メリーは天然の筍を持ってきてくれたわよね? 夢の中で拾ったって言って……」
「……ああ。確かに、そうだったな」
「夢の中で手に入れた物が、そのまま現実に出てきてしまう。確かに夢と現実を同一視する考え方はあるけど、幾ら何でもそんな事は物理的にありえないわ。無を有に変換しているようなものじゃない」
「……そうだな」
「つまり何もない所から急に筍が現れた訳じゃない。メリーは確かに別の世界に迷い込んでいたのよ。まぁ、それを夢として認識しているみたいだけど……」
「……えっと、つまり」
進一は腕を組む。釈然としない微妙な表情を浮かべているものの、彼は蓮子が言わんとしている事を何とか理解している様子だった。
「メリーは自分の能力で、あの筍を夢の中から引っ張り出してきたって事か? あぁ、夢じゃなくて、夢として認識している別の世界か……」
「そういう事になるわね」
つまりメリーが見ていた奇妙な夢というものは、外的要因によるものではない。あくまでメリーの内面――彼女の持つ能力によるものである、という事が蓮子の見解らしい。
と言う事は、“メリーは夢の中で幻想郷に迷い込んでいた”という推測が、ある意味現実味を帯びてくる事になる。厳密に言えば夢の中で迷い込んでいたのではなく、“幻想郷への侵入を夢と思い込んでいた”という事だが。
「……外的要因によるものじゃないって、その証拠はあるのか?」
「ないわね」
きっぱりと、蓮子は答える。
「でもそう考えるのが一番妥当だと思うのよ。あくまで聞いた話だけど、メリーは元々夢の内容を覚えていなかったんでしょ? でも日増しにリアリティという実感が強くなってきて、遂にはっきりと記憶に残るようになった。これって、何らかの『能力』が徐々に強くなってきているって事にならないかしら?」
「能力に順応してきたって事か? でもそれって、何者かがメリーに術か何かを徐々にかけていったって考え方もできないか? 少しずつ実感させるようにしたとか、証拠が残らないように慎重に行動していたとか」
「そうかしら? 確かに外的要因によるものじゃないって証拠はないけど、でもだからと言って外的要因によるものだって言い切れる訳でもないでしょ?」
「だけどなぁ……」
「納得できてないって感じね。ひょっとして、進一君はメリーの『眼』の事を少し軽視し過ぎなんじゃないかしら?」
「……へ?」
思わず間の抜けた声を上げる進一。当然の反応だろう。横で聞いていた妖夢だって、いまいちピンと来ていない。
「メリーの『眼』にはあらゆる結界の境界を映し出す事が出来る。それも無意識の内に、ね。『結界』というものは、何も博麗大結界のような防護するものだけじゃないのよ? 呪術だろうが妖術だろうが魔術だろうが、その根底には結界が存在しているわ。術を使う上での重要要素は力の循環だからね。力を循環させる為には、“輪”が必要となる」
ただ力を放出されるだけでは術をかける事なんてできない。その力を循環させ、変換させる事で始めて効果を発揮するのだ。その循環に必要となるものが“輪”。つまり『結界』である。
「あらゆる結界を見透かす『眼』を持つメリーに対し、証拠も何も残さずに外側から術をかけるなんて事、出来ると思う?」
そう。メリーに対し、証拠を残さず術をかけるなんて事は不可能なのである。メリーの意思に関係なく、無意識に、そして理不尽に。彼女は『結界』という存在を、否応なしに感知していまう。それがメリーの持つ『眼』であり、『能力』なのだ。
そんな蓮子の説明を聞いて、進一もようやく納得する事が出来たらしい。苦い表情を浮かべたままだが、それ以上の反論を口にする事はなかった。
(メリーさんの能力が変異している、か……)
進一と同じように納得した妖夢が、一人思案を再開する。これまで表面に現れていたメリーの『能力』は分かったが、それが変異しているとなると一体どうなってしまうのだろうか。
いや、蓮子は本質が現れ始めている、とも言っていたか。
「とにもかくにも、今回は第三者が関与している訳じゃないと思う。多分、メリー自身の能力が事件の中心に存在しているのよ」
「能力、ね。蓮子、お前は変異しているのかもって推測してたよな? だとすれば、一体どんな能力に変異してるんだ? 夢の中から筍を引っ張り出してきた訳だから、夢をどうこうする能力なのか?」
「うーん、そこなのよね。でも、ただ単に夢に関与する能力とは違う気がする。あくまでメリーは夢という認識だけど、間違いなく異世界に迷い込んでいた訳だし……。それに関する能力なのかも」
メリーの能力。それは元々、『結界の境界を見る程度の能力』。
結界の境界。つまりあらゆる存在や概念の間にある、ある種の壁のようなもの。当然何もしなければ違いに干渉する事はないし、それらが交わる事もない。その壁を飛び越えて向こう側に足を踏み入れるなんて事もできない。
そんな芸当が出来るとすれば、それはもう非常識の塊。ルール無視の反則キャラ。
でも。もしもそんな事が、酷く限定的でも出来るのだとするならば。その『能力』は、まるで――。
「『境界を操る程度の能力』……」
妖夢は思わずその『能力』を口にしてしまった。
本当に小さな、それこそ消え入るような呟きだったのだけれど。どうやら、蓮子と進一の耳にはしっかりと届いていたらしい。二人は揃って妖夢へと視線を向け、瞠目する。
「妖夢ちゃん、それって……」
「あっ――」
失言だったかも知れない。妖夢は慌てて誤魔化しを入れる。
「い、いえ……! あ、あの、そんな能力もあるのかなぁと思いまして……」
「いや、でも意外と核心を射ているんじゃないか? 夢と現実の境界、或いは別の世界との境界を弄る事が出来るのだとすれば……」
「メリーが筍を持って来れたのにも説明がつくわ……! だとすると、やっぱりメリーは見える能力から操る能力に……」
妖夢の一言で、話がどんどん進んでゆく。事実により近づけるという意味では喜ばしい事かも知れないが、しかし妖夢は戦々恐々としていた。
妖夢は息を飲む。心の片隅で燻っていた懐疑心が再び顔を見せ始め、強い違和感が彼女の胸中を支配する。
『境界を操る程度の能力』。そんな能力を持つ人物を、妖夢はよく知っている。それは主である西行寺幽々子の友人にあたる一人の少女。幻想郷の創始者にして、強大な力を有する妖怪の賢者。そう、彼女の名は――八雲紫。
(同じ能力……?)
いや、そんな馬鹿な。だってあれは、その気になれば万物の法則さえも揺るがしかねない程の常識外れの能力じゃないか。世界の真理にさえも歯向かう程の、強大で異端な能力。あの八雲紫でさえも、その代償に長時間の休息――俗に言う冬眠が必要となるくらいである。当然、普通の人間には手に余る――いや、それどころか身を滅ぼしかねない程の危険な能力であるはずなのに。
「それじゃあ、メリーが目を覚まさない原因もその能力が関係しているのか……?」
「その可能性は大いにあるわ。多分、メリー本人も能力の本質には気づいてないのよ。覚醒した能力を上手く扱う事ができなくて、暴発しちゃったんだと思う」
「となると……。今のメリーは意識だけが別の世界に迷い込んでいるって事か」
「そう。恐らく、幻想郷に……」
蓮子と進一の話は進む。けれども妖夢はその内容を耳に入れる事が出来ない。
心臓の高鳴りを感じる。息をするのさえも忘れそうになる。ぎゅっと拳を握り締めて、俯いた妖夢は今も尚休まず思案を続けている。
(そ、それじゃあ……メリーさんは……!)
去年の11月上旬。メリーと始めて会った日の事を思い出す。
妖夢が彼女を一目見て、その胸中に抱いた第一印象は――。
「違う……!」
「……えっ?」
思わず口に出してしまった。当然、蓮子達の注目は再び妖夢に集中する事となる。
張り詰める空気。不安気に、蓮子は首を傾げている。
「ち、違ったかな……? だいぶいい線いってたと思うんだけど……」
「あっ……。い、いえ、その……」
慌てて首を横に振りつつも、妖夢は蓮子から視線を逸らす。
妖夢が導き出したこの推測。それは重要な手掛かりなのかも知れないけれど、それを口に出す事は妖夢には躊躇われた。
――いや、彼女は躊躇ったのではない。恐怖したのだ。口に出したその瞬間、自ら認めてしまうような気がして。憶測が真実に塗り替えられてしまうような気がして。それが、堪らなく怖い。嫌だ。逃げ出したい。顔を背けたい。認めたくない。逆らってしまいたい。
(紫様は、関係ない……)
でも。ただの他人の空似で、片付けられるのだろうか。
それにしては、あまりにも――。
「……メリー。本当に、今の貴方は幻想郷にいるの?」
そんな妖夢の思考の渦も、そこで一旦打ち切られる事となる。その原因は蓮子の横顔だった。
消え入るように声をかけながらも、蓮子は視線をメリーへと向ける。遠い目をした彼女。眠ったまま一向に目覚めぬ親友を前にして、幾ら蓮子でもこれ以上気丈に振舞う事は出来そうになかった。
土壇場での頭のキレ具合だとか、オカルト好きであるが故の独特な観点だとか。そう言った彼女の特徴は損なわれていないのだけれども。しかし、やはり。今の彼女は蓮子らしくない。彼女が浮かべる表情は、未だに曇ったままだった。
(蓮子、さん……)
やはり蓮子には、いや今の秘封倶楽部には。マエリベリー・ハーンという少女が必要なのだ。蓮子も、メリーも、そして進一も妖夢も。誰一人欠けてもいけないのである。少なくともこんな形でリタイヤなんて絶対に間違っている。そんな理不尽、認められる訳がない。
(だから、こんな推測を鵜呑みにするなんて……)
マエリベリー・ハーンは人間だ。か弱くて脆い、ただの人間だ。そう、人間なのだ。
どうしてこんな能力を持っているのか。どうして夢の中で幻想郷に迷い込む事が出来るのか。それは分からないのだけれども。
彼女が、あのスキマ妖怪と何か関係があるなんて。そんな事。
(ある訳がない、よね……?)
自分に言い聞かせるように。妖夢は無理矢理納得する事しかできなかった。
***
岡崎夢美は不満に思っていた。いや、納得ができないとでも言うべきか。
マエリベリー・ハーンが倒れている。そんな連絡を進一達から貰い、夢美は助手であるちゆりも連れて真っ先にその現場へと足を運んでいた。そこで救急隊員達にメリーをあの病院へと運ばせて、自分は現場を調べようと思い立った矢先、奴らは現れた。そう、警察である。
そこから先は、想像に難くないだろう。現場検証だがなんだか知らないが、夢美達は完全に邪魔者扱いである。ここから先は警察の仕事だとか部外者は立ち入り禁止だとか、そんな尤もらしい理由を並べて摘み出されてしまった。そしてすっかり日も沈んでしまった現在も尚、彼女達は足踏みを余儀なくされている。
「なーにが部外者は立ち入り禁止よ。私達だって関係者だっての」
「仕方ないだろ。私達は第一発見者って訳でもないんだからな」
アパートの外。そこにある塀に背中を委ね、夢美は腕を組んでいる。貧乏揺すりをしながらも不平を垂れる夢美を前にして、ちゆりは肩を窄めていた。
まぁ確かに、夢美達は事件に直接関わっている訳ではない。メリーとだって知り合い以上の関係だけれども、それとこれとは話が別だ。警察からしてみれば、無闇に現場を荒らされたくはないのだろう。それは分かってる。
「それにしたっていつまで続くのかしらね……!?」
「お、おい夢美様。あんまり妙な事するなよ? 警察の世話になるのだけは御免だからな」
「分かってるわよ」
もどかしい気持ちは募る一方だが、夢美だってそこまで馬鹿じゃない。ここで強行突破などしようものなら、事態は確実に拗れてしまう。それに、ちゆりの言う通り警察の世話になるのだけは避けたい所だ。大学教授という立場上、法に触れるような事は大々的には行えないだろう。
だけれども、やはり気になるものは気になる。それなのに、こんな所で立ち往生なんて。
「何がそんなに気になってるんだよ? 聞いた話じゃ、メリー以外の誰かが侵入したような形跡は見つからかなかったそうじゃないか。それじゃあ、別に殺傷事件だとか、そういった類じゃ……」
「……そうね。あなたの言いたい事は分かるわ。でも私が気になっているのはそこじゃないのよ」
ふぅっと息を吐き出して、夢美は警察への憤りを抑え込む。未だにバタバタと騒がしいアパートをチラリと一瞥した後、
「メリーは洗面台――鏡の前で倒れていた。問題はそこよ」
夢美は思案顔を浮かべる。蓮子の部屋に入る事が出来ない以上、ここで推測するしかない。
「鏡という物は、昔から様々な伝説や伝承が残されているわ。勿論、日本においても神道や仏教に深く関わってきているのよね」
「ああ。鏡を御神体として祀る神社もあるくらいだしな」
「三種の神器の一つにも『八咫鏡』って鏡があるわね。あぁ、それと、閻魔大王も『浄玻璃の鏡』という鏡を持っているとも言われているし……。まぁ、とにもかくにも、それだけ鏡は神秘的な存在なのよ」
「オカルト絡みだな。それなら夢美様の専門じゃないか?」
この事件、恐らく非常識的な何かが少なからず絡んでいる。こちらの世界の常識だけで真実に辿りつける程、事は単純じゃない。
鏡。その起源は古く、最古の物は水鏡であったとされている。人間だけに留まらず、自己鏡映像認知能力を持つ動物は、皆その鏡を使って自分自身を客観的に観察する事が出来る。けれどもそれ以前に、太古において鏡とはもっと幻想的で神秘的な役割を担う物として認識されていた。
「おそらく、メリーは鏡を通じて“何か”を見てしまったんじゃないかしら? それが何だったのかは、最早メリーにしか分からないんだろうけど」
「“何か”、ねぇ……。具体的には?」
「真実の自分」
ちゆりが怪訝そうにジト目を向けてくる。彼女は嘆息しつつも肩を窄めて、
「何て言うか、あまりにも短絡的かつ単純過ぎじゃないか? ありきたり過ぎるような……」
「ちゆりは深読みし過ぎね。確かに常識的な思考で挑めば事態は泥沼化するだろうけど、非常識的に考えれば意外と単純だったりするのよ?」
「はあ……。まぁ、分からなくもないが」
夢美から言わせれば、現代社会における人々の多くは柔軟な思考を苦手としているのではないかと思う。あまりにも“常識”という枠組みに囚われ過ぎだ。常に外れ過ぎるのもよくないのだろうけど、時には思い切って非常識的な観点に立つべきだと。そう思っている。
例えば、あの学会の連中とか。あぁ、思い出すだけでイライラしてきた。
「……なぁ、夢美様。何を思い出してイライラしているのかは察するけど、今は説明を続けてくれないか?」
「え、ええ……。そうね、ごめんなさい。とにもかくにも、メリーが倒れた原因は鏡が関係しているのよ」
「直接的にか?」
「いいえ。間接的ね」
成る程、と、ちゆりは納得した表情を浮かべる。
「って事は、原因は他でもないメリー自身か。あいつの中にある何らかの『真理』が、虚像として鏡に映し出されたって訳だ」
「問題はどうして鏡に映ったのかって事ね。まぁ十中八九、あの子達の『眼』が関係しているんだろうけど」
『結界の境界を見る程度の能力』と、『星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力』。進一が持つ『眼』と同様、あまりにも非常識的で、非現実的で、非科学的で、そして霊的な能力。
仮に『霊力』と言う物が存在するとして、彼女達の『眼』にそれが宿っているのだとすれば? 知らず知らずの内に、その『霊力』が周囲のモノに少なからず影響を与えているのだとすれば? 蓮子の部屋にあるあの鏡が、真実を映し出す
「あくまで全部推測よ。だから私は確かめたいの」
妄言。眉唾物。夢物語。何とでも言うがいい。
けれども夢美の考えは、一切合切変わらない。この事件の根底に存在しているのは、かつて人々が排斥した幻想的な存在であるのだと。そう信じて疑わない。疑う訳がない。
「まぁ、こんな事言っても警察は信じないだろうなぁ……。そりゃ摘み出される訳だ」
「本当、酷い話よね。どうして信じられないのかしら? やっぱりちゃんとした証拠がないと駄目なのかしらね」
「と言っても、ほら、夢美様はあれだ。所謂『霊感』ってヤツがない。だからこれといった証拠だって、見つかるとは限らないけどな」
「ふふん、その考え方は古いわねちゆり。あくまで私の考えだけど、霊感なんてものは認識の錯綜よ。たまたま気づかない人が多いだけで、皆誰しも一度は霊的な現象に遭遇しているものなの。この私も含めてね」
「随分と都合の良い考え方だなおい……」
呆れ顔で嘆息するちゆりをスルーしつつも、夢美は胸を張る。霊感云々などは関係なくて、実際はたまたま運が悪いだけなのだ。そうに違いない。
それはともかく、とにもかくにも。諸々の推測を確認する為にも、今は一刻も早く蓮子の部屋を調べてしまいたい。やはり警察が引き上げるのを根気強く待つしかないか。
(それにしても……)
ここ最近は
直接関係がなかったとしても、最終的にはある一つの事柄に収束するかのような。そんな根拠もない漠然とした予感を、夢美は心の片隅で覚えていた。
***
あれから、もうどれくらい経ったのだろうか。
自分の部屋の洗面所で倒れているメリーを見つけて、慌てて救急隊を呼んで。けれども夢美の提案でメリーはこの病院へと運ばれて、蓮子も進一と共にここまで足を運んだ。それから妖夢も呼んで、色々と話をして――。
正直、あまりにもバタバタとし過ぎて、時間感覚がおかしくなってきた。当然、蓮子は星を見れば正確な現時刻なんて簡単に分かるのだが、それでもである。はっきり言って、未だに混乱は完全に抑えられていない。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
「それじゃあ『先生』。メリーの事、お願いします」
「……ええ。お任せ下さい」
待合室兼エントランス。その受付にいる女性に一言声をかけて、蓮子達は一度病院を後にする事となった。
外はすっかり日が沈んでいて、辺りには夜の帳が落ちていた。空を仰ぐと、薄い雲の隙間から微かな星の光が確認出来る。現時刻、19時12分56秒。この病院を訪れた正確な時間は正直覚えていないので何とも言えないが、3、4時間程いた事になるのだろうか。しかし、もうそれ以上に長い時間が経過してしまったようにも思える。精神的な疲れが溜まっているのか、身体中がぐったりと怠い。足取りも重く、一歩踏み出すのさえも一苦労だった。
「あの、蓮子さん。大丈夫ですか……?」
不安気な声で、妖夢が心配してくれる。蓮子はチラリと振り向いて、
「うん、大丈夫。ちょっと疲れちゃっただけだから」
笑みを零しつつも、そう答える。
殆んど誤魔化しのような一言だったが、余計に心配をかけてしまっただろうか。妖夢は生真面目でお人良しな少女だ。無理に気丈に振舞おうとするのはかえって逆効果である。案の定、彼女の表情は未だに不安気なままだった。
ダメだな、と蓮子は思う。やっぱり自分はどこか抜けているのではないだろうか。今回の件だって、そもそも自分が的外れな事を口走ってしまった所為で――。
(そう、だけど……。でも……)
いつまでも引っ張り続ける訳にはいかない。こんな所でウジウジしていた所で、過去に犯した過ちは消える訳ではないのだから。
「……これから、どうするんだ?」
進一がそう声をかけてくる。
メリーが見ていた夢の真相や彼女が倒れてしまった理由は、蓮子達なりに解釈した。あくまで殆んど推測だが、強ち的外れでもない結論に至ったとは思う。
けれども、それだけじゃ駄目なのだ。幾ら真相や理由を解明した所で、解決策が見つかなければまるで意味がない。
「どうするって、そんな事は決まってるじゃない」
メリーがあんな事になっているのだ。それならば、蓮子達がすべき事は既に明白だろう。
「メリーを助けるのよ」
未だ目覚めぬマエリベリー・ハーンを、夢の世界から引っ張り出す。暴走した『能力』を何とかして抑え込むのだ。或いは、何らかの方法で『能力』を無効化するか。とにもかくにも、メリーを目覚めさせるには、その『能力』を何とかするしかない。
「……メリーを助けるとして、具体的な目星はついているのか?」
「そうね……」
今のメリーは、そもそも妙な夢を見る原因が自分の能力にあると気づいていない。未だに自分の能力が『結界の境界が見える程度の能力』だと思い込んでいるのにも関わらず、彼女は意識もしない内にその能力の本質を適用させている。
それならば、もしもメリーがその本質を理解し、認識する事が出来れば。彼女はあちらの世界から帰還する事が出来るかも知れない。
(まぁ、問題はどうやってメリーに気づかせるかだけど……)
或いはそんな小難しい事は考えず、何とかして彼女を無理矢理夢の中から引き摺り出すか。いや、それも現実的ではないのだけれども。
(でも……)
何だろう、この感じ。どうにも何かが引っかかる。
「……ごめん。一日だけ時間くれる?」
「……考える時間か?」
「ん……まぁ、そんな所」
この、胸の奥に何かが突っかかっているかのような感じ。届きそうで、届かない。抜け出せそうで、抜け出せない。釈然としないが、もう少し手を伸ばせば何かを掴む事ができる。そんな気がする。
けれども、まだ何かが足りない。きっと何かが欠けている。その欠けたピースを見つける事が出来れば、或いは――。
(メリー、待っててね)
蓮子は一度足を止めて、メリーが眠る病院へと振り返る。
(絶対、私が助けるから……!)
月明かりが照らす中。蓮子は心に強い決意を刻むのだった。