時間というものは不思議なもので、その日その日の気分によって体感する経過速度は驚く程に変化する。楽しい気分であればある程経過速度は早く感じ、辛く厳しい気分であれば酷く遅く感じる事もある。人の感覚は心理状況に大きく左右されるが、その影響を強く受けるものの一つが時間だ。人間の体感なんてものは、意外と曖昧なのである。
さて、時間経過が早く感じる例として楽しい気分の時を上げたが、当然それだけが唯一の例という訳ではない。例えば、やるべき事をズルズルと先延ばしにしてしまった場合はどうだろう。一刻も早くやらなければならないと、そう分かっているはずなのに何らかの理由があってどうしても手を付ける事ができずにいる。そういった場合でも、時間経過は早く感じてしまうのではないだろうか。
「はぁ……」
メリーから夢の話を聞いてから、早いものでもう数週間。期末テストも終わって、時期は既に2月上旬。しかし蓮子は未だにメリーと口も聞けていなかった。
例えば大学のキャンパス内などで、時には彼女とすれ違う事もある。けれどもメリーは声をかけてくるどころか、視線を向ける事さえもしてくれない。すれ違う度に目を逸らし、足早に立ち去ってしまうのだ。これでは取り付く島もない。
しかし、蓮子も蓮子だ。何とか声をかけようと手を伸ばしかけるものの、毎回後一歩が踏み出せずにいる。そもそも何て声をかけるべきなのか、それすらも見つからない。
分かっている。悪いのは蓮子の方だ。メリーの気持ちを考えず、勝手な意見を口にしてしまった自分が悪い。だから謝らなければならないと、それは分かっているはずなのに。
(……おかしいな。どうして言葉が出てこないんだろ)
結局事態は好転せず、気がつけばもう2月。まさかここまで仲違いが長引いてしまうなんて、思ってもみなかった。
自室のベッドにうつ伏せで寝転がって、蓮子も思わず溜息を零してしまう。謝罪の言葉も口に出来ない自分に心底呆れているのだ。友達の気持ちにも気づいてやれず、あろう事か謝る事も出来ないのか。自分はここまで薄情な人間だったのか、と。
(メリー……)
宇佐見蓮子は思い出す。あの時のメリーの様子は、もう忘れられない。まさか彼女が、あそこまで感情的になるなんて。それ程までに追い込まれていた、という事なのだろう。
彼女は夢を見たと言っていた。それはあまりにもリアリティで、夢と現実がごちゃまぜになって。何が何だが、訳が分からないと。メリーは苦悩していた。だから蓮子に助けてほしかったのだろう。親友である蓮子なら、何か解決策を見つけてくれるのではないかと。藁にもすがる思いで、彼女は相談してきたのだ。それなのに。
(ずるい、だなんて……)
軽率に言ってはならぬ言葉だった。
蓮子はごろんと身体を翻し、額の上に腕を乗せる。胸の奥から遣る瀬無い気持ちが溢れてくる。いつもは比較的物事を前向きに捉える事の多い蓮子だが、今日ばかりは流石に明るい気持ちにはなれそうにない。
(流石に、参っちゃうなぁ……)
どんな顔をしてメリーに会えばいいのか、会えたとしてもどんな話をすれば良いのか。それすらも分からない。ちょっと前まで親しげに話していた相手だったはずなのに、今はあまりにも遠い存在のように思える。まるで自分とメリーの間に、底も見えぬような大きな溝が存在しているかのような。
しかし、そうだとしても。
(……やっぱり、このままじゃダメだ)
ベッドから身を起こし、蓮子は立ち上がる。ゆっくりと深呼吸をして、胸を締め付けるようなこの思いを強引に飲み込んだ。
こんな状況、いつまでもズルズルと引っ張り続ける訳にはいかない。先延ばしになんかしてはいけないのだ。例えメリーに嫌われていたとしても、例え二人の関係に修復不能な亀裂が走っていたとしても。だからと言って、何もせずに知らんぷりなんて出来る訳がない。
蓮子にはやるべき事がある。迷っている暇なんてない。
(……メリーに、謝らなきゃ)
でも。
「ああ、もう。どんな顔して会いに行けばいいのよぅ……」
そう、蓮子が頭を抱えた直後の事である。
「――ん?」
インターホンのチャイムが鳴り響く。時間的に考えて、宅配便か何かだろうか。それとも、丁度春休みに入ったばかりだし、大学の知り合いか誰かか。玄関へと向かうと、その推測は後者が当たりであった事に気づくのだが。
「よう。蓮子、今時間空いてるか?」
蓮子の部屋を訪ねて来たのは、思いも寄らぬ人物。
「進一君……?」
岡崎進一だった。
***
どうしてこんな事になってしまったのだろう。どこで間違えてしまったのだろう。自問自答を繰り返すが、未だに答えは出てこない。幾ら強く悔やんだとしても、この状況は覆らない。
メリーは苦悩していた。あの日、進一の提案から夢の事を蓮子に話して、メリーの方から一方的に過剰な期待を抱いてしまって。けれども蓮子の的外れな反応を前にして、つい感情的になってしまった。
分かっている。これは自分勝手な我儘だ。自分で勝手に期待して、それでも思い通りにならなかったから頭に来て怒鳴りつける。本当に、一体何をしているのだろう。蓮子に強く当たった所で、何の解決策にもならないだろうに。あろう事か、彼女を傷つけるような事をしてしまうなんて。
(……最低だ、私)
自虐的な心境を抱きつつも、自然と身体が動いていた。彼女が一人向かった先は、とある閑静な住宅地。目的地である彼の家の前まで辿り着き、インターホンに手を伸ばしかけた時。メリーの動きが止まった。
(……一体、何をやってるの)
何をどうすればいいのか、まるで分からなくて。だから殆んど無意識の内に、進一達を頼ろうとしている。
何も学習してないじゃないか。そもそも蓮子に頼ろうとしたばっかりに、こんな事になってしまったのに。また同じような事を繰り返すつもりなのか。結局、一人じゃ何もできないのだろか。
(頼ってばかりじゃ……)
ダメだ。だってこれは、自分と蓮子の二人の問題じゃないか。進一達を巻き込む訳にはいかない。自分達だけで、解決しなければ。
メリーは伸ばしかけた手を引き戻す。しかしそのまま立ち去ろうとしたその時、不意に背後から声をかけられた。
「……メリーさん?」
反射的に振り向くと、そこにいたのは一人の少女。
「妖夢ちゃん……」
「こんにちは。やっぱりメリーさんでしたね」
彼女――魂魄妖夢は、買い物袋を両手に持って丁度帰宅して来た所だったようだ。それにしてもこの少女、随分と様になっている。十中八九、夕食にでも使う食材の買い出しに行っていたのだろうが、買い物袋を持って歩くその姿はまるで主婦である。聞けば、家事の大半も彼女が進んで熟しているとの事。つい数ヶ月前まで、こちらの世界の事なんて浅知恵程度しか持ち合わせていなかった少女とはとても思えない。感受性が強いというか、順応性が高いというか。
まぁ、それはさておき。
「ごめんなさい、丁度今帰ってきた所だったかしら?」
「ええ、まぁ……。ひょっとして、進一さんか夢美さんに何かご用ですか? だとしたらすいません。今はお二人とも外出してまして……」
「そう、なの……」
それならそれで構わない。寧ろ都合が良いくらいである。
丁度自分の考えを改めていた所だ。彼らが留守だというのなら、却って踏ん切りがつく。
「なら良いわ。今日のところは帰らせて貰うわね」
メリーは妖夢の側を通り抜け、そのまま立ち去ろうとする。
「……蓮子さんの事、ですか?」
だけれども。不意に妖夢から投げかけられた真実を射る確認に、つい足を止めてしまった。メリーは息を呑み込んで、おもむろに振り返る。
「当たり、みたいですね」
「…………」
いやはや、図星を突かれると本当にここまで何も言えなくなるのか。
妖夢の推測はドンピシャである。蓮子と喧嘩してしまって、けれどもどうしても上手く仲直り出来なくて、苦し紛れに進一を頼ろうとしたのだけれども。結局思いとどまって、逃げるように立ち去ろうとしている。その矢先、ばったり妖夢と出会ってしまった。
それ故に、尚更メリーは言葉が出てこなくなる。まるで尋問でもされているかのような心地だ。
「……っ。本当、私の周りには鋭い人が多いわね」
結局絞り出せた言葉は、それだけだった。
「……あのっ」
やや謙った態度で、妖夢が声をかけてくる。顔を上げると、真っ直ぐな表情を浮かべる彼女と目が合った。
「少し、お話しませんか?」
「えっ……?」
妖夢の意外な提案に、メリーは思わず首を傾げるのだった。
***
買ってきた食材を家に置いてきた妖夢。彼女によって連れてこられたのは、近所のとある公園だった。
進一達の家から徒歩で5、6分の所にある、この住宅街の中では最も大きな公園である。子供が遊ぶような遊具はそれ程多い訳ではないが、その代わりに大きな池が設けられている。覗き込むと、水が濁りきっている所為で池の底はまるで見えない。水面に反射された自分の顔が見えるのみである。まぁ、公園の池と言えばこんな物だろう。
「ここ、こっちの世界に迷い込んでしまった私が目覚めた公園なんですよ」
妖夢がそう声をかけてくる。彼女は近くのベンチを指差し、続けた。
「えっと……、あのベンチですね。白玉楼の縁側でちょっと居眠りしちゃってたんですが、目が覚めると何故かあそこに……」
「……それで、たまたま通りかかった進一君に助けられたのよね?」
「そうなんですよ。あの時進一さんに会えなかったら、今頃どうなっていたか……」
思わず身震いする妖夢。確かに、見ず知らずの所に突然放り込まれて、しかも帰る方法も全く検討もつかない。たった一人でそんな状況じゃ、不安で不安で仕方なかっただろう。彼女の気持ちはよく分かる。だってメリーも、あの夢の中で似たような経験を――。
(あっ……)
そう、そうだ。今の妖夢だって、まさに似たような状況じゃないか。しかも彼女の場合、夢のような限定的な条件下などではない。もう三ヶ月だ。魂魄妖夢は、三ヶ月も帰り道を見つける事ができずにいる。
それなのに、どうだろう。彼女はこんなにも平静を保っている。帰る手掛かりがまるで掴めず、焦りだって感じているだろうに。それに比べて、自分はどうだ。高々数時間、夢の中でちょっと非現実的な体験をしただけなのに。妖夢と比べれば、本当に大した事もない出来事だったはずなのに。こんなにも、不安に思ってしまうなんて。
「……クリスマスの日。進一さんに言われたんです」
俯いたメリーに向けて、妖夢が声をかけてきた。
「人は一人じゃ強くなれない。何かあったら頼れ、と」
彼女が歩み寄って来る。
「今のメリーさんは、あの時の私に似てるんです。一人で抱え込んで、一人で解決しようとしている」
「そ、それは……」
「メリーさん。遠慮なんてしなくて良いんです。たまには私達の事も頼ってください」
柔らかな笑みを向けられる。メリーはますます口篭った。
違う。それじゃ、ダメなのだ。だって、蓮子を頼ったばかりに、こんな結果になってしまったのだから。これ以上、誰かに縋ってばかりじゃいけない。
そう思っていたのに。
「私達、秘封倶楽部ですよね? でもきっと、秘封倶楽部は全員が揃ってないとダメなんです。私と、進一さんと、メリーさんと、蓮子さん。今の秘封倶楽部は、四人揃って始めて『秘封倶楽部』と呼べるんだと思います」
妖夢は必死になってくれる。本当は、自分の事で手一杯であるはずなのに。この少女は、しっかりと自分達を見てくれている。
「あっ……。ご、ごめんなさい、生意気な事言っちゃって……。私なんて、まだ加入してから二、三ヶ月くらいしか経ってませんし、やっぱりこんな偉そうな事……」
「……ううん。そんな事ないわ。妖夢ちゃんの言う通りよ」
そう、妖夢の言う通りだ。いつまでもすれ違い続けるなんて、そんな事はらしくない。だってそもそも、秘封倶楽部は蓮子とメリーの二人が結成したサークルじゃないか。それなのに、創始者二人がこうしてギスギスしていたのでは、面目丸つぶれである。
「蓮子に謝りたいって、私だってそう思ってる。だけど……」
池の周囲に設けられた柵に手を置き、メリーは視線を落とす。
ただ認識するだけなら簡単だ。けれども実行しなければ意味がない。頭の中では理解しているはずなのに、それを実際に行う事ができないのだ。
我ながら子供っぽいなとは思う。けれども自分から一方的に怒鳴りつけてしまった手前、どんな風に蓮子と接すれば良いのか。それが分からなかった。
「大丈夫です」
しかし妖夢は迷う事なく、
「メリーさんはメリーさんの気持ちを真っ直ぐぶつければいいんです。それで蓮子さんは分かってくれますよ」
「……そうかしら」
「そうですよ。それは私なんかよりもメリーさんの方がよく知っているんじゃないですか?」
そう。確かに、その通りなのかも知れない。
蓮子は過去の失敗をいつまでもズルズルと引っ張り続けるような少女ではない。いや、耐えられないのだ。だからいずれは我慢できなくなって、悪化した状況を切り抜けようと行動を開始する。
きっと蓮子だって、メリーと同じ気持ちなのだろう。この状況を何とか好転させようと、そう思っているに違いない。だったら。
「お二人でちゃんと話し合ってみて下さい。そうしたら、きっと仲直りできるはずですから」
メリーは息を飲む。そして彼女は再び視線を落とした。
まったく、優柔不断というかなんというか。どうして自分は、こうも面倒くさい奴なのだろう。ここまではっきり言われないと、踏ん切りがつかないなんて。
「本当、私って……」
馬鹿だったなと、しみじみ思う。
一人で勝手に迷って、道を踏み間違えて。そして皆に迷惑ばかりかけてしまった。よく考えれば分かるはずだろう。誰だって、友人が一人で思い悩んでいる姿なんて見たくないはずだ。ちゃんと話して欲しいって、そう思っているはずだ。
妖夢も、進一も、そして蓮子だって友達だ。だからちゃんと話さなければならない。こんな所でいつまでもウジウジしているなんて、そんな事はあってはならない。
メリーは顔を上げる。そして短い深呼吸の後、妖夢に向けて言った。
「ありがとう、妖夢ちゃん」
「えっ?」
「お陰でちょっとすっきりしたわ。私、もう一度蓮子と話してみようと思う」
メリーが笑顔を向けると、妖夢もようやく肩の荷が下りたらしい。破顔して、屈託のない表情を浮かべてくれた。
「メリーさん……」
「そうと決まれば、また迷い始める前に行動しちゃうべきよね。今から蓮子に会ってみようと思う」
蓮子もいつぞやに「巧遅は拙速に如かず」などと言っていたし、早いに越した事はないだろう。いや、この場合は「善は急げ」と言った方が正しいか。
まぁ、とにもかくにも妖夢のお陰で踏ん切りはついたのである。あとは行動を起こすだけだ。
「そう言えば、さっき買い物袋を運んでたみたいだけど……。ひょっとして、これからお夕飯の準備だったかしら? だとしたらごめんね、急に時間取らせちゃって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私、その気になれば超短時間で数人前の晩御飯を作る事も可能ですから」
プロにも負けないレベルの腕前を持っている上に、まさか主婦顔負けの時短テクニックまで持っていると言うのだろうか。なぜ彼女はここまで料理が得意なのだろう。しかし以前にそれとなく尋ねてみた所、妖夢の瞳から光が消えた。と、同時に、まるで壊れた玩具みたいに同じ言葉を発し続けた。
狂気すらも覚える状態である。聞いてはいけない内容だったのだろう。確か、幽々子様の食欲がどうのこうのと言っていたような気がするが、正直それ以上の事はあまり覚えていない。取り敢えず「妖夢ちゃんも苦労してるんだなぁ……」程度の認識を抱くしかなかった。それ以上踏み込んではいけないのである。きっと。
それはさておき。
(さて、と……)
本当に気分が変な方向へと向いてしまわない内に、蓮子に会いに行くべきだろう。この時間なら家にいるのだろうか。とにかく行ってみるしかない。
そんな強い決意を胸に。メリーは一度妖夢と別れるのだった。
***
そんな訳で蓮子の下宿先であるアパートにやって来たのだが、早速問題が発生した。
「……留守、かしら?」
一家揃って生活するには到底足りないが、上京してきた大学生が4、5年生活する程度では十分事足りるようなありきたりなアパート。実は建てられてから既にそこそこの年月が経過しているらしいが、外観はまだそれなりに綺麗である。大学から徒歩でも通える位置に建てられているので、下宿先として利用する学生も多いようだ。まぁ、メリーの下宿先はこことはまた別のアパートなのだけれど。
そんなアパートの一室、つまりは蓮子の部屋のインターホンを鳴らしたのだが、けれども一向に反応はない。少し間を置いてもう2度程試してみたが、結局結果は同じだった。
「困ったわね……」
留守だとしたらタイミングが悪かったという事か。まぁ、蓮子も蓮子で色々と事情があるだろうし、メリーがとやかく文句を言っても仕方がないのだろうけれど。
「……あれ?」
何気なくドアノブを手に取ってみた所、鍵が開いていた。ひょっとして留守ではなかったのだろうか。
メリーはおもむろにドアを開けてみるが、しかしそれでも反応はない。
「蓮子? いないの?」
彼女の名を呼んでみるが、やはり返事は返ってこない。と言うか、そもそも人の気配も感じられないような。
「入るわよ」
一応、一言口にしてメリーは足を踏み入れる。
所謂1DKである。玄関から入るとまず奥へと続く廊下が伸びており、その右手には洗面所とトイレが一つずつ。廊下の先がダイニングとなっており、そこが基本的な生活スペースとなっている。更にその奥に設けられているのがキッチンだ。
蓮子は時間にはルーズだが、それ以外は割と律儀なので部屋自体は片付いている。端っこにあるベッドはシーツも掛け布団も整えられているし、部屋に荷物が散乱している様子もない。掃除もしっかりと行われているようで、女の子らしいその部屋は埃も舞っていなかった。
しかし、肝心の蓮子の姿がどこにも見当たらない。ダイニングは勿論の事、風呂にもトイレにも人の気配はない。それでも一応、ついさっきまで人がいたような形跡は残っているのだが。
「……やっぱり留守だったのね」
まさか鍵を開けっ放しのまま外出してしまうとは。中々に無用心である。
このアパートは大学生の下宿先としては広い方に入るのだが、如何せんセキュリティシステムがあまりにも前時代的だ。このご時勢、オートロックがついてないアパートなんて探す方が大変だというのに。まぁ、その分家賃は他と比べてかなり安く設定されているのだけれども。
(幾ら家賃が安いと言っても、これじゃあね……)
一応監視カメラが設置されているのでそれなりの抑止力になるのだろうが、それでもその気になれば簡単に侵入出来てしまう。そんなアパートに住んでいるのにも関わらず、鍵をかけずに外出するなど泥棒に入って下さいと言っているようなものだ。全く、宇佐見蓮子は相変わらずどこか惜しい少女である。
(……仕方ないわね)
留守であるのなら、今日の所は諦めるしかないだろう。また日を改めて出直すしかない。
ダイニングを一通り見渡したメリーは、踵を返して玄関へと向かう。しかし靴を履きかけた所で、メリーは思わず動きを止めた。
(ここで私が帰っちゃったら……)
鍵が開けっ放しのまま、蓮子の部屋には再び誰もいなくなってしまう。見た所まだ空巣に入られた形跡はないが、メリーが去った後も狙われないとは限らないだろう。だからと言ってメリーが鍵を閉める訳にもいかないし、蓮子がいつ帰ってくるかも分からない以上部屋から誰もいなくなるという状況を作るべきではない。
「……まったく」
相変わらず世話がかかる。メリーはもう一度靴を脱いで、ダイニングへと戻る事にする。どうせ蓮子に用があるのだ。空巣対策の為にも、彼女が帰って来るまで待たせてもらう事にしよう。
そんな訳で廊下を歩いてダイニングへと戻ろうとするメリー。
――視線を、感じた。
「えっ……?」
ゾクリと、瞬間的に悪寒が走る。背後から突然冷水でもかけられたような感覚に襲われ、彼女は足を止める。金縛りに遭ったみたいに身体が動かなくなり、頬から冷や汗が滴り落ちる。
何だ、これは。殺意――いや、違う。敵意――それも違う。もっと、根本的な何かが違うような気がする。感じた事もないような視線。それを、背後から――。
(……いや。それも、違う)
背後からじゃない。丁度、真横。
固まった身体を無理矢理動かして、メリーは自分から見て右側へと視線を向ける。その先にあるのは洗面所。正確に言えば大きな鏡だった。
何てことない、ただの鏡である。洗面所にあって当然の代物。特に変わった様子は見られない。
しかし。何だろう、この感じ。鏡に反射する自分の姿に、途轍もない違和感を覚えるような。そんな気がする。
(なに……?)
無意識の内に、身体が動いていた。
酷く重い足取りで、メリーは鏡へと歩み寄る。一歩、また一歩。近づく度に鏡像が徐々に大きくなってゆき、その姿が鮮明に映し出される事となる。
自分と同じ背丈。自分と同じ髪。そして自分と同じ顔。当然だ。だってこれは、鏡なのだから。前に立った自分の姿がそのまま反射されるなんて、そんなものは普遍的な常識に他ならない。
(でも……)
でも。何かが、違う。
メリーはおもむろに手を伸ばす。鏡に映った自分の姿も、それと全く同じ動きをする。
「貴方は……」
鏡へと手を乗せる。ひんやりとした感覚が、掌から伝わってくる。鏡に映った
メリーは顔を上げる。鏡の向こう側も、同じように顔を上げる。不安気な表情のメリー。しかし向こう側の『彼女』は、ニヤリと口元を歪ませる。
「貴方、は……」
金色の長髪。ナイトキャップにも似た白い帽子。紫色のドレス。そして、白い手袋。
貴方は、一体。
「誰なの……?」
殆んど一人言のような問い。そんな呟きの直後、メリーの視界が突然歪んだ。
(えっ――?)
一体、何が起きたのか。その一瞬で理解できる訳がない。まるで訳が分からないまま目眩にも似た感覚に襲われて、全身の力がガクッと抜ける。しかし苦しみを覚える訳でも、痛みを感じる訳でもない。これは苦痛などではなく、何というか――。
そう、眠気だ。眠気によく似ている。ただし生半可なものなどではなく、まるで誰かに引き摺り込まれるかのように。意識が、沈んでゆく。
崩れる身体。入らぬ力。働かない思考。
(あれ……? 私は……)
状況がまるで理解出来ぬまま。メリーの意識は途切れた。
***
「あーあ……」
トボトボと歩を進めながらも、蓮子は溜息混じりに肩を降ろす。もうこれで何度目だろう。流石に、この短時間でここまでの回数の溜息を漏らしたのは初めてだ。新記録達成中である。この分だとどこまで記録が伸びてしまうのだろうか。正直不名誉なのだけれども。
「……蓮子がそこまで気分を落とすとはな」
「そりゃあ、ね……」
確かにちょっとばかしイレギュラーな要素を持っているかも知れないが、蓮子だって人間だ。人間なら誰しも、友達を傷つけて罪悪感を覚えない訳がない。少しでもメリーとの関係を修復したいと、そう渇望している。
今の今まで、蓮子は進一に連れられてメリーの下宿先まで足を運んでいた。
お人良しでお節介な進一の事である。些細なすれ違いで喧嘩してしまった蓮子達を見て、彼なりに二人の仲を何とか取り繕うと考えていたのだろう。珍しく一人で蓮子の部屋まで訪ねてくるなり、半ば強引に連れ出されてしまった。今すぐメリーに謝りに行くぞ、と。
まぁ、蓮子としても都合が良いと言えば良い状況だった。多少強引にでも連れ出されない限り、いつまで経っても事態は好転しなかっただろうから。率直に言って、進一の気遣いは本当にありがたかった。
そう。彼の気遣いはありがたかったのだけれども。
「まさかメリーが外出してたなんて……」
「ああ……。悪いな、強引に連れ出しといて。俺の方で予めメリーの都合を確認しておけば良かったんだが……」
「ううん。いいのよ」
メリーの下宿先まで足を運ぶまでは良かったものの、肝心の彼女が留守だったのだ。折角意を決したのに、まるで出鼻をくじかれたような心地である。いや、別に横から妨害を受けた訳ではないけれど。
とにもかくにも、仲直りの機会は先延ばしになりそうだ。今は帰るしかないだろう。
「電話でもしてみるか?」
「え? う、うーん……。でも、やっぱりちゃんと会って話がしたいから……」
「そうか。あぁ、だけどあいつの都合くらいは聞いても良いんじゃないか? また留守だったりしたら困るだろ」
「そ、それもそうね……」
確かにそうなると困る。予め約束をしていれば、今度こそ確実に会えるだろう。まぁ、メリーにまだ会う気があればの話だが。
早速スマホを取り出して、メリーへと電話をかける。独特の呼び出し音が一回、二回、そして三回と鳴り響く。けれども十回目の呼び出し音が蓮子の耳に届いた後でも、電話が繋がる気配は一向になかった。
「で、出ない……」
「……そ、そうか」
「は、ははは……。そうよね。きっと、もう声も聞きたくないのよね……」
「ま、待て、諦めるのは早いぞ。ほら、きっと都合が悪かったんだ。丁度電車の中だった、とか」
何だかどんどんネガティブな気持ちになってきた。いつも無駄にポジティブだった分、その反動が今更返ってきたような。そんな蓮子を目の当たりにして進一も調子がずれているようで、随分とワタワタしていた。
そんな心境のまま自分の下宿先であるアパートまで辿り着いた蓮子。しかし玄関のドアノブを手に取った瞬間、とある違和感に気づいた。
「……あれ? 鍵が開いてる」
「閉め忘れたんじゃないか?」
「……あ。そう言えば閉めてなかったような……」
「おいおい……」
一応言い訳をしておくと、メリーの事で一杯一杯でそこまで頭が回らなかったのである。いや、自分の不注意が悪いのだと自覚はしているけれども。
「ここオートロックじゃないのか」
「うん。でも家賃は安いのよ?」
「だったら尚更戸締りには気をつけるべきじゃないのか?」
「そ、それは……。そう、よね……」
痛い所をついてくる進一の物言いに、蓮子は身を縮めるしかない。
因みになぜ彼がここまでついて来ているのかと言うと、折角だからお茶でも出すよと蓮子が提案した為である。ここまで気を遣ってくれて、何もしないというのも心苦しい。それに、進一なら部屋に上げても別に変な事はされないだろうし。
蓮子は鍵を閉め忘れていた玄関のドアを開ける。靴を脱ごうと視界を落とした次の瞬間、
「……あれ?」
「今度は何だよ」
「いや、何だか靴が多いような……」
目を擦って二度見してみるが、間違いない。一つだけ、見覚えのない靴が玄関に置かれている。
いや、ちょっと待って。この靴、やっぱり見覚えがあるような気がする。確か、これは――。
「……メリーの、靴?」
「……えっ?」
そう、それだ。あまりまじまじ見た事は無かったので自信はないが、おそらくその可能性は高い。見覚えがあるような気がするけれど、少なくともこれは蓮子の靴ではない。だとすれば、残された可能性は。
「メリー? いるの?」
あくまで推測だが、おそらく蓮子とメリーは行き違いになってしまったのだろう。蓮子がメリーの下へと向かっていた間、メリーもまた蓮子の部屋を訪れていたのだとすれば。一応、は納得出来る。鍵を閉めるのを忘れていた訳だし、ひょっとしたら機転を利かせて留守番をしてくれていたのかも知れない。彼女なら十分に有り得る話だ。
もしも、この推測が真実だとしたら。きっとまだ、仲直り出来るチャンスは残されている。
「メリー?」
もう一度名前を呼んでみる。しかし、いつまで経っても返事は返って来ない。
「なぁ、本当にメリーがここにいるのか?」
「……多分」
「いや多分ってお前……」
なぜ返事が返ってこないのだろう。蓮子の声が聞こえていないのだろうか。
「ねぇ、メリー。いるんでしょ?」
そう口にしつつも、蓮子は靴を脱いでダイニングへと向かう。
ダイニングへと伸びた廊下。ただただ真っ直ぐ、歩を進める。
トイレと、洗面所。その横を何気なく通り過ぎて。
「……、えっ……?」
通り過ぎようと、思った。けれどもそれは叶わなかった。
洗面所の横。そこで蓮子は足を止める。
その理由は至極単純。
「……っ」
動悸が荒い。息が詰まる。焦燥感を覚え始める。
恐る恐る、おもむろに。蓮子は視線を横に向ける。思考は殆んど働かないが、視界にしっかりと捉えれば嫌でも理解出来てしまう。
鏡がついた洗面台。
その前に、“マエリベリー・ハーンが倒れていた”のだから。
「……、えっ……?」
数秒前と全く同じ反応。状況は理解できたはずなのに、頭の中は真っ白のままだった。
蓮子は完全に硬直していた。いや、硬直せざるを得なかったと言うべきか。一体何が原因で、こんな事になっているのか。それがまるで理解出来なくて。
ただ、マエリベリー・ハーンという少女が倒れていると。その事実だけが、脳裏に焼きついてしまって。
「おい蓮子。どうしたん、だ……よ……?」
歩み寄って来た進一も、台詞を全て言い終わる前に言葉を失ってしまう。当然の反応だろう。蓮子だって、何が何だか訳が分からないのだから。
「メリー……?」
震える声で、名前を呼ぶ。しかしまるで反応がない。
「メリー!!」
声を張り上げて、名前を呼ぶ。蓮子は反射的に駆け寄っていた。
***
瞼越しに光を感じる。この温かい感じは、朝日か夕日だろうか。
息を吸い込むと、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。けれども都会の汚れ切った空気とは違い、優しく染み込んでくるような澄んだ空気だ。空気が美味しいなどという表現をよく耳にする事があるが、成る程、こういう事なのかと思わず感心してしまった。舌で感じるような味覚ではなくて、どちらかと言うと嗅覚だとか、何となくの雰囲気だとか。とにかく、曖昧なのだけれども、妙に新鮮なこの感じが俗に言う「空気が美味しい」というものなのだろう。こうして実際に体験してみて、初めて理解する事が出来た。
――……寒い。
ところで、今まで何をしてたんだっけ? 何かを待っていたような気がするのだが。
――あ、れ……?
瞼を開けると、そこに広がっていたのは緑。厳密に言えば生い茂る草木だった。
彼女は身体を持ち上げる。そしておもむろに立ち上がってキョロキョロと周囲を見わたす。生い茂る木々。霧がかかった大きな湖。まさに大自然のど真ん中である。当然、こんな光景は見覚えがない。
――なん、なの……?
この、何が何だか訳が分からないこの感覚。こんな体験をしたのはこれが初めてじゃないだろう。
まどろみの中にいるような、けれども同時に現実の中にいるような、この奇妙な感覚。間違いない。これは――。
――夢……?
夢であるはずなのに、あまりにもリアリティなこの感覚。あの時と、まったく同じ。
焦燥感を覚え始め、頭の中が混乱してくる。とにかく一旦状況を整理しようと、彼女は身体ごと後ろに振り返った。霧が晴れてきたその森の奥へと、何気なく視線を向ける。
その先にあったのは――血。否、血のように真っ赤な異彩。
「えっ……?」
それは、巨大な紅の館だった。