そこは竹林だった。
夜。頭上までも覆い隠しているのは鬱蒼とした竹の数々で、星の光も月明かりさえも全く入り込んでこない。一寸先もほぼ見えぬ程の暗闇の中、風に靡かれた竹の葉がさわさわと音を立てている。足元は殆んど獣道のような状態で、まともに整備もされていない。というか、普通の人間が足を踏み込んでいるのかさえも怪しい所だった。
どこまで行っても変化のない風景。平衡感覚を狂わせるやや傾斜がかった地面。そんな迷路のような竹林に、彼女はいた。
いつからそこにいたのか、何をしにここまで来たのか。その根本的な原因は、ぼんやりとしていて思い出せない。そもそも今はそんな事を考えている余裕なんてない。彼女の本能が告げている。今はとにかく逃げろ、逃げなければならない、と。
――何よ……! 何なのよ、一体……!!
雑草が足に絡んで進みづらい。地面が傾斜がかっている所為で足取りも覚束無い。それでも彼女は走らなければならない。一瞬でも足を止めれば、一巻の終わりだ。
背後から不気味な笑い声が流れ込んでくる。しかしそれは明らかに人間が発した声などではない。猛獣か、或いは人ならざるもの――正真正銘の化物か。しかし、その正体がなんであろうと今は関係ない。本能が「逃げろ!」と言っているのだ。それなら彼女は、ただ直向きに逃げるだけだ。
――あっ……!
躓いた。絡みついた雑草が彼女の足を引っ張って、大きくバランスを崩してしまう。転んだ拍子にその雑草は千切れたが、彼女はそのまま傾斜がかった地面を転がってしまった。
土と草と笹の匂いが鼻を突っつく。強い衝撃が全身を打ち、呼吸をするのさえも困難になる。竹に支えられる事でようやく彼女は止まったが、脳を激しく揺さぶられた影響ですぐに立ち上がる事はできなかった。
――いっつぅ……。
ぼんやりとした頭。嘔吐感にも似た感覚を覚える中、彼女はその手に何かを掴んでいる事に気がついた。
転がった時に、反射的に何かを掴んでいたのだろうか。視線を向けると、彼女が手に持っていたのは天然の筍。彼女が強く引っ張た事により、それは根本から折れてしまっているようだった。
――筍、なんて……。
気にしている場合ではない。確かに天然の筍なんて滅多にお目にかかれない代物だが、今は身の安全の方が先決だ。目の前に迫る
彼女は何とか立ち上がるが、
――3DCG、とかじゃないわよね……。
こんな訳の分からない所で訳の分からない化物に襲われるなんて、何かの冗談ではないだろうか。
こうしてまじまじ見てみると、追いかけてきた
少女は足が竦んで動けなくなっていた。常識的な思考では理解出来ぬような化物の姿を目の当たりにして、頭の中が真っ白になってしまった。まさかこんな化物に遭遇する日が来るなんて。
大鼠は前のめりにも近い態勢となる。今まさにその少女の喉笛に噛み付こうとでもしているのだろう。人間のような顔をしているが、少なくとも話が通じるような様子はない。この大鼠は知性ではなく、本能だけで動いている。
――……ッ!
大鼠は地を踏み締める。再び不気味な笑い声を上げ、少女の首元へと狙いを定める。
まさに絶体絶命。どうする事も出来ない、万事休すの状態。彼女はこのまま、あの大鼠に喰われるしかないのだろうか。
――いやっ……!
せめてもの抵抗だ。少女は身を縮こませて、両腕で顔を覆う。
が、その直後の事だった。
――えっ……?
ごうっと、そんな音と共に大鼠の真横から真っ赤な光が飛び出してきた。――いや、あれは光なんかじゃない。焼けるような熱さと、焦げるような匂い。あれは炎だ。大鼠を呑み込む程の巨大な炎が、竹藪から飛び出してきたのだ。
――こ、今度はなに……?
大鼠は燃え盛る炎の中で悶え苦しんでいるが、まだ絶命には至らない。呻き声を上げながらも、大鼠はその視線を彼女から竹藪の方へと向ける。
炎を纏った一人の少女が、そこにはいた。
――なっ……。
何だ、あの子は。紅い炎を纏うその女の子は、ジッと大鼠を睥睨している。大鼠も獲物の対象を完全にそちらへシフトしたようで、その女の子へ向けて不気味な笑い声を上げている。
次の瞬間、大鼠が女の子に飛びかかった。鋭い爪を振り上げて、彼女を切り裂かんばかりに。
しかし。どうやら彼女は、
再び少女から炎が放たれる。その炎はあっという間に大鼠を呑み込んだ。振り上げた爪は到底少女の喉元などには届かず、逆に返り討ちになってしまっている。
――す、凄い……。
凄い、のだけれども。
――よ、良くわからないけど、逃げるのなら今のうちよね……。
千載一遇のこのチャンス、逃す訳にはいかない。
竦んだ足に鞭を打って、彼女は再び走り出す。幸いにもあの大鼠は炎の少女と対峙したままで、それ以上追いかけてくる事はなかった。あの少女が何者だったのかは結局分からず終いだったが、触らぬ神に祟りなしである。これ以上、訳の分からない化物に追い回されるのは御免だ。
――こ、ここまで来れば……。
一応、安全だろうか。
彼女は安堵の息を漏らす。しかし、これからどうすればいいのだろうか。見知らぬ竹林の中、現在絶賛遭難中。どこに出口があるのかなんて、皆目見当もつかない。しかも下手に動き回れば、もれなく大鼠の化物と遭遇する可能性までもついてくる。
――……。
あれ? ひょっとして詰んでる?
――ん?
少女が軽く絶望感を覚え始めた辺りで。目の前の竹藪に、人影が見えた。
――今のって……。
見間違いなどではない。目を凝らして良く見ると、確かにそこには人がいた。
小柄な女の子である。薄桃色のワンピースに、やや短めの黒い髪。そして頭の上から生えている、兎のような白い耳。
――……耳。
最早驚くまい。人面の大鼠とか、炎を纏った女の子とか、そんな異形の存在を既に目の当たりにしているのだ。流石にそろそろ慣れてくる。兎の耳を持つ少女など、それらと比べたら寧ろインパクトが薄いくらいだろう。
――何だか自分の適応力が怖くなってきたような。
――でも。
あの少女なら、この竹林の出口だって知っているのではないだろうか。兎の耳が生えているが、それ以外の姿形は普通の女の子である。人間の言葉だって通じるかも知れない。少なくとも、あの大鼠よりはマシである、はず。
とにもかくにも、今は四の五の言ってられない。早い所この竹林から脱出しなければならないのだ。選り好みなんてしている場合ではないだろう。
よしっと、意を決した彼女が兎耳の少女へと声をかけようとしたのだが、
――あっ……。
兎耳少女は、踵を返して立ち去ってしまったのだ。
いけない。折角の手掛かりだ。ここで逃す訳にはいかない。
――待って!
彼女は少女を追いかける。竹藪へと足を踏み踏み入れて、声を張り上げながらも手を伸ばす。
――急に意識が混濁したのは、その直後の事だった。
***
「…………ッ!?」
未だに日も昇り切らぬような早い時刻の朝。自室の見慣れたベッドの上で、メリーは目を覚ました。
飛び起きた、という表現の方が正しいだろうか。その瞬間では上手く状況を理解出来なくて、彼女は思わず周囲を見渡す。見慣れた壁紙、見慣れた家具。間違いなく、自分の部屋。
「……っ」
呼吸が荒い。汗で身体中ぐっちょりで、心臓の鼓動が五月蝿いくらいに高鳴っているのが分かる。
一体、何が起きた? 何だか、今の今まで見知らぬ竹林を走り回っていたような気がする。大鼠の化物から辛くも逃げ切って、今度は彼女が兎耳少女を追いかけようとして。その後は――。
頭の整理が追い付かない。混乱も一向に収まる気配がない。しかし見慣れたシーツとベッドを認識した所で、ようやくメリーは状況を把握した。
「夢……」
そう、夢。こうしてベッドに横たわっていていた事が何よりの証拠である。あの竹林も、大鼠も、炎を纏った女の子も、そして兎の耳を持つ少女も。全部、夢の中の出来事で――。
「本当に、夢……なの?」
この感覚、以前にも覚えた事がある。夢なのだけど、夢のようには思えない。今の今まで実際に体験していたかのような感覚に陥ってしまう、この奇妙な感じ。そんな感覚を不安に思い、あの時は進一達に話を聞いてもらったのだが――。
(夢美さんは、過去の経験を夢の中で追体験してるじゃないかって言ってたけれど……)
今のあれは、過去の経験なんかじゃない。あんな竹林に迷い込んだ記憶なんて、頭の中のどこを探しても見つからないはずだ。それは断言出来る。
やっぱり何かがおかしい。しかも、今回は。
(夢の内容を、こうもはっきりと覚えているなんて……)
何が何だか、訳が分からない。一体何が起きている? 夢なんて今まで何度も見た事があったが、あそこまでリアルなものは生まれて初めてだ。まるで、本当に夢の中で異世界にでも迷い込んでしまったかのような。
(……なーんて、まさかそんな事……)
有り得ないだろう。幾らリアリティが凄かったとは言え、所詮は夢。現実世界に直接何か影響を及ぼす訳でもない。
夢は現実の同義語。それはあくまで相対性精神学等の分野での事だ。物理学的に言えば、それら二つを完全に同一視するべきではない。別物として考えるべきだ。
(よし……)
そんな事を自分に言い聞かせている内に、徐々に落ち着きを取り戻してきた。一度深呼吸をした後、メリーは時計へと視線を向ける。まだかなり早い時間だが、完全に目が冴えてしまった。二度寝する気も起きないし、ここは思い切ってベッドから出てしまおう。
そう思い立ち、取り敢えずメリーは乱れたベッドのシーツを整えようとする。ごとりと音を立てて、ベッドから何かが転げ落ちた。
「えっ……?」
反射的に目を向ける。ベッドの上から転げ落ちたそれを認識した途端、メリーは驚倒する事となった。
「なっ……!」
それは、本来この部屋にはあるはずのないもの。少なくとも、メリーにこんな物を集める趣味はない。そもそもこれは、この現代社会では滅多に見る事さえも出来ぬような物。そんな物があろうことか自分のベッドから出てくるなんて、絶対に有り得ない。
「ど、どうして……!」
見覚えのある形。脳裏に焼きついている記憶。けれども現実の物ではない。あれは夢の中の出来事じゃないか。そのはずだったのに。
「夢じゃ、ない……?」
そこに転がっていたのは、天然の筍。正真正銘、彼女が夢で見た物と瓜二つだった。
***
父親が海外の職場に帰ってから数日が経過したある日。欠伸を噛み殺した進一は、大学のキャンパス内に足を踏み入れていた。
1月下旬。今日の講義は1限目から。しかも期末テストである。別に進一は勉強が苦手という訳でもないが、だからと言ってテストが好きという訳でもない。彼は頭が切れる方ではあるが、それでもしっかりとした対策を練らなければ点数を落とす事もある。しかも対策を練ればそれでいいのかと言われるとそういう訳でもなく、幾ら対策を練ったとしてもテスト中は常に意外なクセ者がついて回る事となるのだ。そう、所謂ケアレスミスというヤツである。
(ケアレスミス……)
何だか嫌な思い出が脳裏を過ぎったので、進一は頭の中を一度リセットする。大丈夫、過去に経験したあの苦い経験から既にしっかりと学習している。きっちりと見直しを行えば、もうそんなミスなどせずに済む――はず。
自分にそんな事を言い聞かせながらも、進一は講義室へと向かおうとする。その途中、見覚えのある後ろ姿を彼の視覚が捉えた。
「……ん?」
俯きつつも一人トボトボと歩いていたのは、菖蒲色のワンピースを着こなした一人の少女。マエリベリー・ハーンだった。所属する学科が違うので講義が一緒になる事は殆んどないが、どうやら彼女も今日は1限目からだったらしい。しかし下を向いて歩く彼女はどうにも上の空のような様子だ。何か考え事をしていて、周囲が殆んど見えていないような。
(……あいつも1限目から期末テストなのか?)
テストの事で頭が一杯で、あんな足取りになってしまっているのだろうか。
ともあれ、折角会ったのなら声をかけてみるべきだろう。上の空になっている理由は、直接聞いてしまうのが手っ取り早い。
「メリー」
歩み寄りつつもメリーに声をかける。どうやら周囲の音もあまり耳に入っていなかったようで、彼女の反応はワンテンポ程遅れた。
「……あっ、進一君。おはよう」
「お、おう、おはよう。どうしたんだ? ボーッとしてたみたいだが」
「……ええ。ちょっと、ね」
疲れでも溜まっているのだろうか。どちらかと言うと大人しめの性格のメリーだが、今日はいつにも増して元気がない。一夜漬けでテスト勉強でもしたのだろうか。いや、メリーに限って、そこまで追い詰められるほど学業に問題があるとは思えないのだが。
「ね、ねぇ、進一君。今日って、夢美さん時間空いてるかしら?」
「ん? どうだろうな。最近の姉さん、何だかよく分からん調べ物に熱中してるみたいだし……。それに、今はテスト期間中だ。纏まった空き時間は取りにくいかも」
「……そう」
弱々しく俯くメリー。このやり取り、似たような事がつい最近にもあったような気がする。
「……ひょっとして、また変な夢でも見たのか?」
「…………っ」
驚いたような表情を浮かべ、メリーは顔を上げる。成る程、どうやら進一の予想は的中したらしい。
「その反応、図星みたいだな」
「……進一君って、鈍感なのに鋭いわよね」
「いや何だよその矛盾」
メリーの意外な反応を前にして、進一は思わずたじろぐ。どうして周囲の女の子は、彼をここまで鈍感に持っていこうとするのだろう。新手のイジメか何かだろうか。
いや、今はこの際そんな事はどうでもいい。こほんと咳払いを一つして、進一は気を取り直す。
「まるで実際に体験していたかのような錯覚に陥る夢、だったか? 今回もそんな感じなのか?」
「え、ええ。でもっ、今回は前とは違うの。もっと、明らかに変な感じで……」
憔悴した表情。震える声で、メリーはそう語る。秘封倶楽部として蓮子と共に結界を暴き続けてきた彼女がここまで怯えるという事は、相当奇妙な事が起きているのだろうか。おそらく、たかが夢だと切り捨てられるような状況ではない。もっと何か、複雑な現象が絡んでいるのかも知れない。
「……俺でよければ、相談に乗るぞ」
「えっ……?」
「言っただろ? 相談にならいつでも乗るって。まぁ、俺は相対性精神学とかそっち方面の分野には詳しくないから、最先端の考えの下で答えを出す事は出来ないかも知れんが」
確かに夢と現実を同一視する考え方は進一としても賛同できる部分があるが、それらに対する彼の考え方はどちらかと言うと前時代的だ。夢は夢、現実は現実。無理に同一視するのではなくて、そう割り切ってしまうべきではないかと、そう思っている。そんな彼が、相対性精神学を専攻しているメリーも納得出来るような答えを見つける事が出来るのかは、正直微妙な所なのだけれども。
「でも、一度誰かに話しちまった方が案外落ち着けるかも知れないしな」
進一は困っている友人を見ても知らんぷりするような薄情者ではないし、そもそもそんな事が出来るような度胸もない。中途半端に事情を知ってしまっている手前、放り出すなんて出来る訳もなかった。
そんな中、当のメリーは一瞬だけ口をつぐませて、
「だ、だけど、進一君だってテストとかあるんじゃないの? 私の相談事に乗っている時間なんて……」
「大丈夫だって。その程度の時間が潰れたくらいでどうこうなる程、俺は追い詰められてないからな。勉強ってのは、毎日コツコツするものだろ? そうだな……、今日の夕方辺りに構内のカフェ集合って事でどうだ?」
「で、でも……」
「ああ、そうだ。ついでに蓮子も呼ぼう。この手の類に関しては、俺なんかよりも蓮子の方が詳しいんじゃないか? それに、あいつ普通に頭良いしテストも問題ないだろ。多分」
割と適当な信頼感を蓮子に抱く進一を見て、初めてメリーの表情が綻ぶ。
良かった、と進一は心の中で安堵する。随分と追い詰められているように見えたメリーだったが、この様子だと少しは落ち着いてきたようだ。蓮子辺りにカウンセリングして貰えば、程なくしていつもの調子に戻るだろう。
「……ありがとう。それじゃあ、進一君のお言葉に甘えようかしら」
「決まりだな」
取り敢えず今からテストである。メリーの話を聞く前に、それを何とか乗り越えなければなるまい。
ふと時計を見ると、だいぶ時間が押してきていた事に気づく。進一とメリーは、慌ててそれぞれの講義室へと向かうのだった。
***
今日のテストは意外と上手くいけたように思える。
今朝に見たあの奇妙な夢の事が気になって、まともに問題も解けないのではないかと危惧していたメリーだったが、偶然会った進一と話をした事で多少心が軽くなっていた。お陰で今日のテストに関しても特に心配する必要はなさそうだ。
そんなこんなで連続する期末テストを潜り抜けて、一日の講義が終わった後。メリーは進一との約束通り、大学構内のカフェへと足を運んでいた。言うまでもないが、今朝見たあの夢について話を聞いてもらう為である。
正直言って、誰かにカウンセリングでもして貰わないと本当に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。どれが夢の中の自分で、どれが現実の自分なのか。それさえも曖昧になってきて、メリーの混乱はピークに達しようとしていた。だから進一がこのような提案を持ちかけてくれて、本当に助かったというのが素直な感想である。
メリーがカフェへと足を踏み入れえると、そこには既に進一がいた。と同時に、進一の隣には妖夢の姿も確認できる。曰く、彼女も前にメリーの話を聞いていた為、きっと力になれるだろうとの事で進一が呼んでくれていたようだ。妖夢も妖夢で「メリーさんのお役に立てるのなら、是非」と態々足を運んでくれたらしい。
「ごめんね、妖夢ちゃんにまで迷惑をかけちゃって……」
「いえいえ。私もメリーさんに助けられっぱなしで、申し訳ないと思っていた所ですし……」
そんな妖夢達の気遣いに感謝しながらも、メリーは未だに現れない最後の一人を待つ。しかし、彼女――宇佐見蓮子は、思っていたよりかなり早いタイミングでメリー達の前に現れた。
「お待たせー! もう皆揃ってるわね?」
「……3分か。随分と早い登場だな蓮子」
「そうですね。てっきり30分くらい遅れてくるかと思ってましたが……」
「ちょ、いきなり何なの!?」
お約束である。最早多くは語るまい。
ともあれ、これで秘封倶楽部が全員集結した事になる。未だに頭の整理が追いついていない部分はあるが、取り敢えず話せる範囲だけでも話しておこう。
「さて。それじゃあ、メリー。貴方が見たっていう夢の事、話してもらえる?」
「……ええ。実は……」
蓮子に促されて、メリーはポツリポツリと語り出す。今朝見たあの奇妙な夢。その具体的な内容を、蓮子達に説明した。
気がついたら見覚えのない竹林に迷い込んでた事。そこで人の顔を持つ大鼠の化物に追い回された事。そしてその大鼠を撃退した炎を纏った女の子の事と、兎の耳を持つ少女を追いかけている内に夢から目覚めた事。こうして話してみると、本当に現実味が薄い出来事であるように思える。けれどそれは客観的に捉えた場合のみだ。実際に体験したメリーからしてみれば、溜まったもんじゃない。
「夢だったという実感はあるの。でもどうしても変な疑問が残るのよ。あれは本当に夢だったのか、本当は実際に起きた出来事だったんじゃないかって……」
「へぇ……。そんなにリアルな夢だったの?」
蓮子の確認。メリーはこくりと頷いて、それに答える。
あれは本当にリアルな夢だった。まさに現実と遜色ない程だ。思い切り転んだ時だって、本当に痛覚を感じて――。
「夢なのに痛覚を感じたのか? それは流石に……」
「ほ、本当なのよ! 本当に、痛くて……」
あの痛覚が、更にリアリティを推し進めている。ひょっとしたら自分は、気づかぬ内に全くの異世界に迷い込んでいたのではないかと。そんな疑惑を抱いてしまう。
いや、疑惑などで片付ける訳にはいかない。痛覚を感じるなどとは比べ物にならぬ程、もっと不可解で奇妙な事が起きているじゃないか。
「それで、転んだ拍子に筍を引っこ抜いちゃったみたいなんだけど……」
やはりあれは普通の夢なんかじゃない。その裏付けとなる確固たる証拠が、メリーの手の中にはある。
「多分、これがその時引っこ抜いちゃった筍よ」
メリーは鞄の中からその筍を取り出して、おもむろにテーブルの上に置く。一抹の静寂が、周囲を支配した。
進一も、妖夢も、そして蓮子も。声を発する事さえもできず、揃って瞠目してしまっている。当然の反応だろう。今の今まで夢の話をしていたのに、その夢の中の物が現実に出てきたのだから。
天然の筍である。いや、そもそも筍なんて合成の物しか見た事なかったし、これが本当に天然の筍だという確証は――。まぁ、今はそんな事どうでもいいだろう。
正直、メリー本人も何が何だか訳が分からない。目が覚めたらベッドの中にこれが転がり込んでいたのである。しかもメリーが夢の中で手にした、そのままの姿で。常識的に考えて、こんな現象は有り得ないだろう。夢と現実を同一視する考え方が存在するとは言え、幾ら何でも夢の中の物体が現実に現れるなど。
沈黙。誰も声を発する事が出来ぬまま、刻一刻と時間だけが過ぎてゆく。そんな静寂を最初に打ち破ったのは、宇佐見蓮子だった。
「メリー……」
震える声。まさか彼女がここまで動揺するなんて、思ってもみなかった。これはそれほど異常な現象なのだろう。当たり前だ。何もない所からいきなり筍が現れるなんて、完全に質量保存の法則を無視している。幾らオカルト好きとは言え、超統一物理学を専攻している蓮子にとってそれはどうしても解せない現象なのだろう。
ぷるぷると蓮子の身体が震える。何かを溜め込むかのように、強く口をつぐむ。しかし程なくして自制も効かなくなったようで、まるでタガが外れたかのように彼女は立ち上がった。バンッと机をぶっ叩いて、一息。
「これは筍とは呼べないわ! ここまで成長しちゃったら、もう硬くて食べられないじゃない!!」
「突っ込む所そこかよっ!?」
下手な漫才みたいにずっこけそうになった。
透かさず進一が突っ込みを入れるが、まさにその通りである。今の話を聞いて、なぜ真っ先にそこに反応してしまうのか。もっと突っ込むべき所は沢山あるだろうに。
まぁ、蓮子らしいと言えば確かにそうなのだけれども。
「あ、あの、蓮子さん。明らかにこちらの世界の常識では有り得ないような事が起きているんですが、その点については……?」
「……え? あぁ……、夢の中の物が現実に出てきちゃってるって事? まぁ確かに、色々と解せない部分はあるわね。エントロピーはどうなるのか、とか」
「……その割に落ち着いているように見えるのだけど」
「いやいや、非現実的な現象なんて、もう散々体験してきてるじゃない。年末に進一君が行方不明になった件だってそうだし……。そもそも半分幽霊の女の子が私達の目の前にいるしね」
妖夢を一瞥しつつも、軽い口調でそう語る蓮子。相も変わらず楽観的である。そんな彼女を目の当たりにしても、いつもなら呆れて嘆息する程度に終わるのだが、今日のメリーは少し違う。どうにもモヤモヤした気持ちが胸中に現れ始めていた。
蓮子の言いたい事は分かる。確かに非現実的な現象なんて散々体験してしまっているし、メリーも既にだいぶ慣れ始めてしまっている。今回の件だって、腑に落ちない部分はあるがまるっきり信じられないという訳でもないのだ。
しかし問題はそこじゃない。メリーが不安に思ってしまう最も大きな原因は、夢の中で起きたあまりにもリアル過ぎる現象だ。
転んだ時の痛覚も、肌で感じた熱風も。全部が全部、あまりにも現実味が帯びすぎている。故にメリーの不安感は加速度的に増加する。もしも、あの夢の中で大鼠の化物に食い殺されていたら。一体、どうなっていたのだろうか。
「でもまさかこんな間近でこんなにも不可解な事が起きるなんてね。この世界もまだまだ捨てたもんじゃないわ」
実際に体験した訳じゃない。上手く実感する事ができない。だから蓮子は、こうも楽観的にいられる。
――いや。他人事みたい、と言った方が正しいだろうか。
「……メリーさん。メリーさんは夢の中で竹林に迷い込んでしまったと言ってましたよね? その竹林で、炎を纏った人とか、兎の耳を持つ女の子を見かけた、と」
「……ええ。そうよ」
不意に投げかけられた妖夢の確認。メリーはそれに呼応する。
大鼠以外で特に印象に残っているのはその点だ。炎を纏った少女も、兎の耳を持つ女の子も。現実世界じゃまずお目にかかれない、特に非常識的な存在。そんな存在が蔓延る、あの奇妙な竹林は。
「……幻想郷にも、似たような場所があるんです」
「えっ……!?」
「『迷いの竹林』。その名の通り、非常に迷いやすい構造をした竹林です。傾斜がかった地面が平衡感覚を狂わせ、成長の早い竹の数々が方向感覚を惑わせます。妖怪等も普通に生息していますし、その中でも特に多いのは兎の妖怪です」
言葉が出なくなった。
『迷いの竹林』。妖夢の説明が正しいとすれば、その特徴はメリーが夢で見たものとほぼ合致する事となる。確かにあの竹林の中では、平衡感覚も方向感覚も殆んど役に立たないものとなっていた。幾ら走っても周囲の風景は殆んど変わらず、地面が変に傾斜がかっている所為で登っているのか降りているのかも分からない。
まさか――。
「それじゃあ……、メリーは夢の中で幻想郷に迷い込んでいた、という事なの?」
「い、いえ、まだそうだと決まった訳ではありませんが、可能性はあるかと……」
幻想郷。こちらの世界で存在を否定された者達が辿り就く終着点。確かにそんな世界なら、あのような化物が生息していてもおかしくはないかも知れないが。
「仮にそうだったとして、なぜメリーは夢の中で幻想郷に行ける? メリーは存在を否定された訳じゃないぞ」
「そ、それは……。そもそも博麗大結界は、意識がある者に作用する結界です。それならば、意識を失った状態……例えば昏睡状態などに陥れば、ひょっとしたら越える事は可能なのかも……」
「そうだとしてもおかしいだろ。メリーは自室で眠っていたんだろ? そんな所に幻想郷の入口があるとは思えないんだが」
分からない事が多すぎる。なぜあんな夢を見てしまうのか。もしも本当に幻想郷に迷い込んでいるのだとすれば、その原因は何なのか。
それ以上に。今回は目を覚ます事が出来たものの、もしもあのまま取り残されてしまったら。一体、自分はどうなっていたのだろうか。それがどうしようもなく不安で仕方なかった。
(私は、一体……)
何に巻き込まれている? メリーの周囲で、何が起きているのだと言うのだろうか。
夢の中の竹林。現実のものとしか思えない痛覚。そして、この筍。あまりにも突拍子もなさすぎだ。
「まぁ……ともあれ、その竹林から無事に帰ってこられて何よりじゃないか? 兎を夢中で追いかけていたら気がつくと別の世界にいた、か。確か、そんな話の童話か何かあったよな? えっと……、不思議の国のアリス?」
「確かに似てるかも知れないけど、今回のメリーは状況が逆よ。アリスの場合、兎を追いかけて不思議の国に迷いこんじゃったんだから」
「あぁ……そうだっけ?」
ひょっとして、あの兎耳少女のお陰で夢から覚める事ができたのだろうか。だとすると本当に幸運だった。あの兎には感謝せねばなるまい。
しかし逆に考えると、あの兎に出会わなかったらメリーは未だに夢の世界から抜け出せていなかったのではないだろうか。あんな危険な竹林に長期間一人で取り残されるなど、幾らメリーでもどうかしてしまいそうだ。想像もしたくない。
(本当に、何が何だか……)
いや。ひょっとしたら、メリーは未だに目覚めていなくて、今見ているこの世界も実は夢なのかも知れない。となると、一体どれが本当の自分なのだろうか。あの竹林にいた自分か、今ここにいる自分か、それとも他の何かか。考えれば考える程、疑心暗鬼になってくる。
「もう、訳が分からないわ……」
自問自答の無限ループに陥りそうになって、メリーは思わず頭を抱える。蓮子が声をかけてきたのは、その直後の事だった。
「メリーは深く考えすぎよ。そもそも、そんなに思い悩む事なの?」
「……蓮子?」
顔を上げると、頬杖をついた蓮子の姿が目に入る。彼女は実に羨ましそうな視線をメリーに向けていた。
「いいなぁ……。メリーばっかりそんな体験が出来て。羨ましいわ」
「えっ……?」
「だってそうでしょ? そもそもメリーは結界の境界が見えるからより非常識に近づく事が出来るし、その上今回は夢という形で異世界に迷い込む事が出来たのよ? 私なんて精々、星や月を見て時間や場所がちょっと分かるくらいだわ」
マグカップに入った紅茶をティースプーンでくるくるかき混ぜながらも、蓮子は続ける。
「迷路のような不思議な竹林。人の顔をもつ大鼠。そして炎を纏った女の子と、幸運を齎す兎。まさに不思議に満ち溢れてるじゃない。しかもそこが幻想郷である可能性までも浮上してきた。こんなに色々な要素が揃っているのに、見逃すなんて勿体無いわ……!」
目をキラキラさせながらも、蓮子はそう語る。誰よりも不思議を欲する彼女にとって、それは至極平常な反応。
けれども、違う。メリーが分かってほしいのはそこじゃない。確かに妖夢の為を思うと、幻想郷の手がかりと成り得るこの現象は見逃せないだろう。それは理解出来る。出来るのだけれども――。そうじゃない。
「メリーだけずるいわ」
蓮子は物理学者気質の人間である。故にまず客観的な観点で真実を見極めようとする。いかにも前時代的な考え方だが、物理学者は皆そういう者だ。
だから仕方がないとは思う。なぜならそれが物理学者の性なのだから。彼女に悪気はないんだって、そんな事は分かっている。
「そんな夢が見られるなんて」
蓮子は意外と周りを見ている。しかしあくまで客観的だ。だから時には的を外す事だってある。
分かっている。理解はしている。だけど――。
「いい加減にしてっ!!」
――もっと、メリーの気持ちを考えてくれてもいいじゃないか。
「め、メリー……?」
急に怒鳴り声を上げたメリーを見て、流石の蓮子もたじろぎを露わにする。しかし一度吹き上がってしまったメリーの不満感は、そう簡単に収まる事はなかった。
「私が羨ましい……? 私だけずるいって……!? どうしてそんなに他人事なのよ!!」
思わずメリーは立ち上がる。その拍子に勢い良く椅子が倒れてしまったが、そんな事を気にする余裕は今の彼女にはない。
「貴方はいっつもそうじゃない! 人の話は聞かないし、自分の事ばかり考えて……!! どうしてちゃんと向き合ってくれないの!?」
彼女がここまで熱くなるのも珍しい。いや、ひょっとしたら初めてだったのかもしれない。急に大声を出した所為で、喉に違和感を覚え始める。声が擦れ始めてきたが、そんな事はお構いなしだった。
思えば以前も蓮子はメリーの話をきちんと聞こうとしてくれなかった。メリーの話なんかよりも、期間限定スイーツを選んだ。彼女にとって、メリーとはその程度の存在だったのだろうか。メリーの悩み事なんて、本当にどうでもいいのだろうか。
膨れ上がる不満。溢れ出る憤り。嫉妬にも似たその激情を、ぶつけずにはいられなかった。
「蓮子は何も分かってない……。いいえ、分かろうともしていない……! どうして、貴方は……!!」
「お、おいメリー! 落ち着け!」
進一に諭されて、ようやくメリーは我に帰る。途端に喉の痛みを実感して、彼女は息を切らし始めた。
動悸が激しい。酸素が足りない。胸の奥が締め付けられているかのような感覚を覚えながらも、メリーは今一度自分が立たされている状況を確認する。
酷く驚いた様子の妖夢。慌てて間に割って入って来た進一。そして心苦しそうな表情を浮かべる蓮子の姿が目に入る。
「……っ」
息が詰まる。思わずメリーは口をつぐんで、そのまま俯いてしまう。
「め、メリー……、私……」
蓮子のか細い声が耳に届く。けれども今更彼女がそんな態度を取った所で、もう何もかも遅すぎる。
蓮子がどんな言葉をかけようとも、今のメリーには逆効果だ。蓮子の余計な言葉や態度は、却って溝を深くする。その些細なすれ違いにより、二人の関係に確かな亀裂が生じていた。
「……蓮子なんかに頼った私が馬鹿だったわ」
蓮子と目を合わせようともせず、吐き捨てるようにメリーはそう口にする。返事の有無すらも待つ事なく、そのまま彼女は踵を返して勢いのまま立ち去ってしまった。