桜花妖々録   作:秋風とも

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第20話「幻想の片鱗」

 

 そもそもマエリベリー・ハーンが進一達のもとへ足を運んだのは、彼らにとある相談事――と言うか少し話を聞いてほしかった為だ。

 今日は蓮子と一緒ではない。進一が呈した疑問通り、普段のメリーならばこのような相談事は真っ先に蓮子を頼っていた事だろう。無論、今回も最初はそのつもりでいた。そのつもりで蓮子へ声をかけようとしたのだが。

 

『ごめんメリー、今急いでるのよ! ほら、駅前のカフェで販売されてる期間限定スイーツ、今日で終わっちゃうらしいって! 今すぐ行かなきゃ勿体無いわ!!』

 

 返ってきたのはこんな返答だった。

 四六時中オカルト関係の事しか考えてないように見える蓮子だが、彼女だって女の子である。別にオカルトの事しか考えていないという訳ではないし、女の子らしく甘い物に目がない一面だってある。ここ最近は秘封倶楽部の活動や大学の課題などでそれ以外の事に殆んど時間をかける事ができなかった為、その期間限定スイーツなるものも今日まで食べられなかったらしい。

 相談ならカフェで聞くからメリーも一緒にどうだと誘われたのだが、今回は遠慮しておいた。呑気にカフェでスイーツなど、今は少しそんな気分になれそうにない。別に甘い物が嫌いという訳ではなし寧ろ好物なのだが、今日はどうにも気分が乗らなかったのである。そんな上の空の状態で蓮子について行ったとしても、折角スイーツを食べてウキウキになった彼女の気分を害してしまう可能性もある。それならば、無理に付き合わなくてやはり正解だったのかもしれない。

 

 では、なぜメリーが期間限定スイーツを前にしても気分が全く乗らなかったのか。その答えこそが、彼女がこうして進一達の所に来た目的と関係しているのだが――。

 

(まさか、進一君達のお父さんが帰ってきていたとはね……)

 

 どうやらタイミングが悪かったようだ。

 進一と夢美の父親。海外で仕事をしているという話くらいは聞いた事があったものの、こうして実際に対面するのは初めてだった。

 日々多忙な生活を行っている彼が、家族に会うために時間を作ってこうして帰国してきたのだ。ここでメリーが進一達に相談事を持ち込んでしまうなど、それはあまりにも場違いで空気が読めない行為である。こちらから急に押し掛けておいて悪いとは思うが、今日の所は諦めて帰った方がよさそうだ。いきなり押し掛けるのではなく、予め電話で連絡を入れておけば良かった。今更悔やんでも遅すぎるが。

 

「そう言えばメリー、俺達に何か相談事があるんじゃなかったのか?」

「……そうね。そうだったのだけど、やっぱり今日は止めておくわ」

 

 別に急ぎの用という訳ではない。相談といっても、ちょっと話を聞いてくれるだけで構わないのだ。また後日、それこそ蓮子の都合が会う日にでも機会があれば話せばいい。

 そう思っていたのだが。

 

「ん? あぁ、ひょっとして俺がいるから遠慮しているのか?」

「い、いえ……。別に、今すぐ解決すべき用という訳でもないので……」

「なに、気にする事はないぞ。折角来てくれたんだ。何もせずに帰るなんて勿体無いじゃないか」

 

 気さくな調子で、進一達の父親こと悠次がそう言ってくれた。そんな彼に続くように、夢美も口を開く。

 

「そうよメリー。話したいことがあるんなら、溜め込まずに話しちゃいなさい」

「……俺に聞かれたくない内容なら席を外そうか?」

「そうだな。また妙な事を口走って話をややこしくする前に、父さんは席を外した方がいいかもな」

「ひえっ、その身内に対するからかうような口ぶりの毒舌。ますます母さんに似てきてるな進一」

 

 メリーはますます萎縮する。彼女の勝手な我が儘の為にそこまでしてもらえるとなるとかなり気が引けてしまうが、だからと言ってこのまま遠慮し続けると却って彼の行為を無下にしてしまうような気がする。それはそれで逆に失礼なのではないだろうか。

 

「あの、それなら……」

 

 それなら。ここは変に遠慮をすべきではないのかもしれない。

 

「で、でも、別に態々席を外してもらう必要はないですよ?」

「ん? なんだ、俺に聞かれちゃいけないような話じゃなかったのか」

「……どんな話を期待してたんだよ」

 

 進一達を見て苦笑しながらも、メリーは一度気を取り直す。

 今は進一と妖夢に加えて夢美もいる。この手の話は彼女にも聞いて欲しいと思っていた所だ。都合が良いと言えば良い状況である。

 ただ、本当に漠然とした話なのだ。自分自身の事ながら、メリー本人でさえ上手く説明できる自信はない。

 

「……実は」

 

 この釈然としない感覚。正直、相対性精神学を専攻している自分でも一人で解決する事は出来そうにない。

 

「ここ最近……変な夢を見ている、ような気がするの」

「……夢?」

 

 首を傾げてオウム返しする進一。それに頷いて答えた後、メリーは続ける。

 

「上手く説明出来ないのだけど、何て言うか……。とにかく、凄く変な感じがするのよ。夢なんだけど、今の今まで実際に現実で体験していたような錯覚に陥る、みたいな……」

「えっと……どういう事だ?」

「ごめんなさい、上手く説明できなくて……」

 

 メリーは思わず弱々しく俯いてしまう。

 夢。睡眠中に現れる、ある種の幻覚のようなものである。前時代的な考え方では現実の対義語のような扱われ方をしている通り、それはあくまで見ている本人の想像に過ぎない。そう言う意味では妖怪等の定義と似ているとも言える。実際に起きた訳ではない、幻想の中での出来事。

 しかし、ここ最近における専門的分野の常識では夢と現実は対義語同士ではないとされている。寧ろ同義語にも近い扱われ方をされつつあり、そう簡単に割り切るべき定義ではない。夢だろうと現実だろうと、そこで起きた出来事は真実。それは相対性精神学でもよく出てくる考え方であり、その分野を専攻しているメリーにとっても馴染み深い常識である。

 だからこそ、だろうか。

 

「なんだか、ちょっぴり不安なのよ。夢なのか、現実なのか。分からなくなってきてしまいそうで……」

「どうにも曖昧だな……」

 

 そう、曖昧なのである。夢という存在はただでさえ曖昧なのに、メリーが覚えた中途半端なリアリティの所為でその曖昧さに拍車をかけている。しかも問題はそれだけではない。

 

「あの……夢と言っても、具体的にどんな内容なんですか?」

「そ、それは……」

 

 そこなのだ。

 

「内容までは、ちょっと覚えてなくて。確かに何らかの夢は見ていたような気がするのだけど……」

 

 夢を見ていたという自覚はある。けれども肝心の内容が思い出せない。目を覚ましたその瞬間、綺麗さっぱり忘れてしまうのである。リアリティという感覚が残されているのにも関わらず、具体的な記憶が残っていないのだからイマイチ現実味が持てない。だからどうしても曖昧な説明になってしまう。

 

「へぇ、中々興味深い話ね。夢を見る原因は諸説あるけど、確かに相対性精神学等の分野では度々現実と同一視される事があるわ。夢と現実の間には明確な線引きはできなくて、完全な隔壁が存在する訳ではない、という考え方ね」

 

 当然、夢と現は区別する。けれど全くの別物という訳ではない。夢の中の出来事と、実際に起きた出来事。その二つはそれぞれ対極を成すように見えて、実は多くの共通点も存在しているのである。

 例えば、本能的な意識。山道を歩いている際に熊などの猛獣と遭遇した場合、人は恐怖心を覚えると共に自己防衛本能が働くだろう。別に猛獣でなくとも、得体の知れない何かでもなんでもいい。とにかく、目の前の存在に強い危機感を覚えたとき、一刻も早くそれから逃げなければならないのである。その真実は夢でも現実でも変わらない。

 

 現実における普遍的な性質は夢の中でも共通している。故に夢と現実は全くの別物であるという訳ではなく、ある意味では同一の存在であると認識すべきなのだ。そんな意識がここ最近では幅広く浸透しつつあるのである。

 

「まぁそう言う意味では、あなたが見ているこの世界が夢なのか現実なのか……、今すぐそれを証明するのは難しいかも知れないわね」

「ゆ、夢なのか、現実なのか……? そ、それじゃあ……」

「……夢美。マエリベリーちゃんは相談をしに来たんじゃなかったのか? それなのに不安を煽ってどうする」

「……へ? あ、あぁ、ごめんなさいメリー。あくまで例え話みたいなものよ。そんなに深く考え込む必要はないからね?」

 

 悠次にそんな指摘をされて、夢美が慌てて付け加える。それから彼女はやんわりと笑みを浮かべて、

 

「大丈夫よ。確かに夢と現実が同一視される事もあるのは事実だけど、そこを深く追及しちゃうと哲学的な話になっちゃうわ。それに、睡眠中の記憶整理が夢として現れる事もあるのよ? 過去に経験した出来事を、夢の中であたかも追体験しているような感覚になるのね。だからそこまでリアルに思えるんじゃないかしら?」

「過去の経験を、追体験……?」

 

 夢の内容を覚えてないので断言は出来ないが、確かにその可能性はある。一度経験した出来事を、夢という形で追体験しているのなら。現実と遜色ない程にリアルに思えてしまっても不思議ではないだろう。そう考えると、胸中の不安感も多少和らいでくるような気がした。

 

「そう、かも知れませんね」

 

 メリーは短く深呼吸して、頭の中の整理をする。徐々に落ち着きも取り戻せてきた。

 

「……ありがとうございます、夢美さん。何だか、ちょっと安心しました」

「そう? それなら良かったわ」

 

 あまりにも過剰に思い悩み過ぎだったと思う。前時代的に言えば、夢と現実は全くの別物。夢そのものが現実に影響を及ぼす訳ではない。

 現代的な思考に囚われ過ぎるのも考えものだ。たまには別の観点から物事を捉えてみるのも悪くない。

 

「進一君と妖夢ちゃんも、話を聞いてくれてありがとう」

「ん……、あんまり力になれたとは思えんが……」

「言ったでしょ? 話を聞いてくれるだけで良かったって。本当に助かったわ」

「……メリーさんの力になれたのなら、良かったです」

 

 進一達に吐露したら、幾分か気が楽になった。彼らに自覚がなかったとしても、メリーにとっては大助かりだ。それは紛れもない事実である。

 

「まぁ、また何かあったら気軽に声をかけてくれ。相談ならいつでも乗るからさ」

「……ありがとう。でも、また迷惑をかけちゃうかも知れないけど……」

「気にすんな。困った時はお互い様だろ?」

「そうですよ。私もメリーさんにはとてもお世話になってますし、その恩返しができるのなら嬉しいです」

 

 メリーは破顔する。そんな気持ちを抱いてくれるというだけで、十分に心強かった。

 夢などという曖昧な要素にいつまでも振り回されている訳にもいかない。確かに不安感を完全に拭い去る事は出来ていないが、いざという時はまた彼らを頼ればいい。

 メリーは一人じゃない。自分の事を理解してくれる親友だっているじゃないか。自分では本当にどうしようもない時だって、彼女なら――。

 

(今日は……ちょっと、都合が悪かっただけよね)

 

 ふぅっと、メリーは肩の力を抜く。そして悠次へと視線を向けて、

 

「すいません、今日はお騒がせしました」

「いやいや、お前さんは進一の友達なんだろ? だったら変な気遣いなんて必要ないぞ」

 

 それから軽い会釈をした後、メリーは帰宅する事にした。

 少し遅い時間だったので途中まで送ろうかと進一が申し出てくれたが、流石にこれ以上世話をかけてしまうのは気が引ける。一人でも大丈夫だと彼に説明し、メリーは岡崎宅を後にした。

 

 夜道。月明かりが照らす閑静な住宅街を、メリーは一人歩く。白い息を吐き出して、彼女は空を仰いだ。

 

(夢、ね……)

 

 一抹の不安感が、再びメリーの胸中に過ぎるのだった。

 

 

 ***

 

 

 進一達の母親が死んだのは、もう10年以上も前の事だ。

 彼女が死んだあの日、進一はまだ6歳である。年端もいかない、幼気な少年。そんな彼にとって、母親の死というものはあまりにもショッキングな出来事だった。彼女の死の瞬間。それは今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

 けれど人間の記憶というものは時に残酷だ。時間経過に比例して、思い出は徐々に薄れていってしまう。死という衝撃的な出来事は脳裏に焼きついて離れない癖に、肝心の母との思い出はもうあまり覚えていない。いつどこで、どんな事をしたのか。何をして遊んだのか。叱られた事もあったのか。そしてどんな声だったのかさえも、少しずつ忘れてゆく。

 

 人の記憶なんて曖昧なものだ。だから仕方がないとは思う。けれども、だからと言ってそう簡単に割り切れる訳もない。

 こんなふざけた『眼』を持ってる所為で、死の瞬間ばかりが記憶の中に蘇ってきてしまうなんて。

 

「……2年ぶり、だな」

 

 父親が帰ってきてから数日後。一月某日。良くもなく、かと言って悪くもない天気の休日。今日は進一達の母親――岡崎(おかざき)(のぞみ)の命日だった。

 都内の一角にある公営墓地。そこに彼女の眠る墓がある。父親の呟き通り、こうして家族揃って墓参りに来られたのは実に2年ぶりである。

 

「……ごめんな、希。去年は仕事が立て込んでて、中々時間が取れなかったんだ」

 

 菊の花が供えられた墓前。線香独特の匂いが周囲に漂う中、両手を合わせた父親がそう声をかけていた。哀愁を帯びたその横顔がちらりと視界に入る。何ともバツが悪そうなその表情も併さって、妙に印象的だった。

 

「お仕事なんだから仕方ないじゃない。きっとお母さんも分かってくれるわよ」

「……だといいな。何せあいつは怒ると怖いからなぁ」

「その余計な一言が母さんを怒らせるんじゃないのか?」

 

 母親は怒らせると怖かったらしい。そんな話は何度も聞いた事があるが、進一にはあまり実感はない。

 母親は進一を身篭った直後に身体を壊し、出産だけは何とか乗り切る事が出来たもののそれからどんどん衰弱していった。故に進一の微かな記憶に残る母親の姿は、どちらかと言うと少し弱々しい印象が強い気がする。元気な頃の母親は、一体どんな女性だったのだろうか。

 

「ああ、そうだ希。去年帰って来れなかった代わりって訳でもないが、今日はゲストを連れてきたぞ。魂魄妖夢ちゃんって言ってな。進一が連れ込んだ女の子の一人で……」

「ちょ、悠次さん!? ご、誤解を招くような言い方はやめて下さい!!」

 

 ――こんな彼の手綱を握っていたと言う事は、相当な強者であったに違いない。

 家に居候させて貰っている身の上なので一度挨拶しておきたいと、そんな思いで墓参りに同行した妖夢だったが、今やすっかり悠次に振り回されてしまっている。と言うか、今のは寧ろ進一の方が先に慌てるべき発言だったような気が。妖夢も妖夢で初な反応が早すぎである。

 

「いつまでそのネタ引っ張る気だよ」

「ネタとはなんだ。ちゃんと母さんにも報告しなきゃダメだぞ進一」

「いや報告って……」

 

 急に真顔を向けられて、進一は思わず口篭ってしまう。まさか本気で言っていたのだろうか。――何だか父親の考えている事がますます分からなくなってきたような。

 

「まぁまぁ、進一には進一のペースがあるんだし、あんまり急かしちゃダメよ。でも進一って色恋沙汰にはあんまり興味がないみたいだから、お父さんの言ってた通り色々と難儀しそうだけど……」

「……そう言えば夢美。お前の方はどうなんだ? 研究熱心なのは良いが、そろそろ相手を見つけてだな」

「……の、ノーコメントで」

 

 夢美があからさまに視線を逸らす。どうやらあまり触れて欲しくない話題だったらしい。

 まぁ、初対面だった妖夢にいきなり襲いかかろうとしっちゃったりする女性である。確かに容姿は美人なのだが、性格に少々――いやかなり癖があると思う。黙っていれば結構モテるだろうに。

 

「ふ、ふんっ! 見てなさいよお父さん! その内いい人見つけて、ぎゃふんと言わせてやるんだから!」

「そうか。言ってみたいなぁ、ぎゃふんと」

 

 ビシッと指を立ててそんな宣言をする夢美。殆んどやけくそである。一体、何の宣戦布告なのだろう。正直、進一とはまた違ったベクトルで難儀しそうであるが。

 

(まったく……)

 

 墓参りにしては些か暢気過ぎるような気もするが、まぁ、たまにはこういうのも悪くないかも知れない。母親だって、常にどんよりしているよりも賑やかな方が嬉しいはずだ。

 そう。彼女は明るく、そして優しい人だった。

 

「……なぁ、妖夢」

 

 けれども、進一が母親と過ごした期間はあまり長くない。それも大半が病院のベッドの上。活発的な姿なんて、記憶の中には殆んど残っていない。

 

「冥界って、死んだヤツの魂が集まってるんだろ?」

 

 自分の母親の事なのに、殆んど何も知らないなんて。それはとても悲しい事だと思う。

 だから、叶う事ならば。

 

「母さんも、あっちにいるのかな」

 

 この現代に生きる青年とは思えない台詞。死後の世界などという不明瞭な存在など、現代人の殆んどは心のどこかでは信じていない。そんなものは所詮想像の産物。そう一方的に決め付けて、結局は排他的に考えてしまっている。

 しかし進一の目の前には、冥界から来たと言う半分幽霊の少女がいる。だから死後の世界についても排他的になんて考えられない。その存在を確信した上で、こうして妖夢の答えに期待している。

 

「……死んだ人間の魂は三途の川を渡り、死神によって彼岸へと運ばれます。そこで閻魔様の裁きを受け、冥界行きか天界行きか、はたまた地獄行きか。死者の意見を聞く事なく、閻魔様独自の判断で白黒はっきり付けられます」

 

 妖夢は律儀に答えてくれる。彼女はあくまで白玉楼の庭師だが、それでも冥界の住民である。そちらの世界の事情だって、少なくとも現世の住民以上に詳しく把握している。

 

「罪のない魂は冥界へと運ばれて、転生するか成仏するかを待つ事になるんです。ですので希さんも、ひょっとしたら冥界へと送られている可能性はあります」

 

 こういう話は、ここで大抵“しかし”がつく。それはやはり今回も例外ではなかった。

 

「でも……正常に彼岸へと運ばれる死者は、生前の記憶を失っている事が殆んどです。死して尚生前の記憶を残しているという事は、それは生に強い執着――つまりこの世に強すぎる未練を残しているのと同義なんです。そういう死者は大抵三途の川には辿り着けず、現世を彷徨う亡霊となってしまいます」

 

 魂は記憶の器ではない。あくまで人間の人格的な本質に過ぎず、必ずしも記憶に直結している訳ではないらしい。肉体という媒体が滅びてしまったら、記憶という情報は魂に反映されなくなる。

 魂と魄が揃って初めて記憶として成立する。魄から切り離されてしまえば、生物としての記憶は魂から消滅してしまうのである。

 

「生きていようが死んでいようが、同一の魂である事には違いありません。でも……」

 

 人間としての肉体も記憶も失い、魂だけとなってしまったその存在を。果たして生前の人間と同一人物だと言えるのだろうか。

 

「……そうか」

 

 可能性としては考えていた答え。こうしてはっきりと言ってもらえて、進一としても踏ん切りがついた。

 

「あの、でもっ何事にも例外はあります。稀に生前の記憶の一部を残したまま彼岸に辿り着く人だっていますし、逆に亡霊なのにも関わらず生前の記憶を失っている人も……」

「……いいんだ。いつまでも執着し続けてたら、それこそ母さんに怒られる」

 

 人の死を悼む気持ちはあっても、死者に執着すべきではない。死者が生に執着すると亡霊になってしまうのと同じように、生者が人の死を強く拒絶し続けてしまうと本当の意味で“生きている”と言えなくなってしまう。人の死を乗り越えて、前を向いて立ち上がる。それも死者に手向ける事が出来る弔辞の一つであると。進一はそう思っている。

 

「ありがとう、妖夢。ちゃんと真実を話してくれて」

「い、いえ……。すいません、私……嘘とか、誤魔化しとか苦手みたいで……」

「いや、助かったよ」

 

 進一の事を気遣って、変な誤魔化しを入れられるよりも数倍いい。

 進一は改めて墓へと視線を移す。日光を反射する墓石と、供えられた菊の花。そして漂う線香の匂い。墓参りはどうにもしんみりとした印象を受けてしまいがちだが、必ずしもマイナスなイメージとなっている訳ではない。故人を弔う事で生と死を実感し、明日へと繋げる糧とする。

 

(母さん。俺は前を向いて進むよ)

 

 墓前。進一は胸中で、そんな言葉を母親に残すのだった。

 

 

 ***

 

 

 午前中に墓参りが終わって、その帰り道。思い出したかのように父親が夢美に話しかけてきたのは、名残惜しげに墓地を後にした直後の事だった。

 

「そう言えば、ここの墓は被害に遭わなかったみたいだな」

「……被害?」

「ほら、確か先月か先々月。京都各地で墓荒らしが多発してたんだろう? 俺は話でしか聞いてないけど」

「あぁ、その事ね」

 

 彼が言っているのは、11月下旬から12月上旬にかけて都内で多発していた事件の事だろう。夢美もよく覚えている。犯人は火車なのではないかと睨んだ蓮子が、魔寄せの人形を借りに研究室まで訪ねて来た事もあった。その人形を以てしても、結局火車を見つける事は出来なかったようだが。

 

「私も犯人が火車である可能性は考えていたけど、結局の所どうだったのかしらね」

「火車って、あの妖怪の事か? 相変わらず夢美はそんな話が好きなんだなぁ」

「当然よ! オカルトの中には、まだ解明されていない世界の構造が隠されているかも知れないのよ? 考えるだけで血湧き肉躍るわ!」

 

 好みのオカルト絡みの話になって、夢美のテンションが上がる。夢美にとって、オカルトとはまさに生き甲斐の一つなのである。彼女だって物理学者の端くれ。まだ見ぬ構造や法則が存在しているのなら、それを解き明かしてみたいと日々思っている。

 

「火車、か……。でもまぁ、犯人だってまだ捕まってないみたいだし、その可能性もゼロだとは言い切れないんじゃないか?」

「んっ、なんだ? 進一までそっち方面の興味を抱き始めたのか?」

「いや、興味と言うか何と言うか……。色々と事情があるんだよ」

 

 妖夢と出会ってから、彼は非常識的な存在に対しても考えを巡らせるようになってきていた。それは偏に妖夢を元の世界へと送り届けてやりたいという思いが要因となっているが、良い傾向だと思う。

 彼の持つ『眼』はこちらの世界における常識では説明できない要素だ。こうして進一自身が自ら進んで非常識に触れ続けていれば。いつかはその『能力』の本質を解明する事が出来るかも知れない。

 なぜ彼がこんな『眼』を持っているのか。いや、彼だけではない。例えば蓮子やメリーだってそうだ。彼女達の持つあの『能力』は、一体どこから来ているのだろうか。ひょっとしたら、その疑問に対する答えだって見つかるかも知れない。

 

 まぁ、それはさておき。

 

「でも本当、この霊園に墓荒らしが現れなくて良かったわ。……被害に遭った人達は、気の毒だと思うけど」

「結局犯人は誰だったのでしょう? 意外と不明瞭な部分が多いような気がしますが……」

「未だに犯人が捕まらないってのもな。あれだけ何箇所も荒らしといて、それでも尻尾を掴めないとは」

 

 余程犯人の逃走能力が長けているのか、それとも警察が無能なのか。どっちにしろ、このままでは事件が迷宮入りするのも時間の問題である。

 

「夢美。お前なら、この事件についても色々と調べたんだろう?」

「え? まぁ……それなりには」

「土葬と火葬。被害に遭ったのはどっちの墓の方が多かったんだ?」

「……へ?」

 

 土葬と火葬。死体の埋葬方法はその二種類に分類されるが、近年の日本おける割合は火葬がほぼ100%を占めている。衛生面の問題や人口の急増――近年は右肩下がりに推移しつつあるが――による埋葬地の減少がその一般的な理由で、そもそも埋葬方法に拘りを持たない人々が多かった事もあり、火葬がごく普遍的なものとして広く浸透している。けれども土葬が全く用いられてないかと言われるとそういう訳でもなく、数は圧倒的に少ないが火葬を忌むような場合もあるらしい。現にここ京都にも、土葬用の埋葬地が幾つか存在している。

 

「……どうしてそんな事聞くのよ?」

「いや、そもそも犯人の目的は何だったのかと思ってな。死体を集めてどうするつもりなのかと」

「死体を集める目的? うーん……。一説によると、火車は罪人の亡骸を奪い去って地獄に引き摺り込もうと……」

「おいおい、ちょっと待てって。何も犯人が火車である体で話を進める必要はないだろう?」

 

 父親が口を挟んでくる。夢美は思わず口篭った。

 確かに。これといって証拠もないこの状況で、そう決めつけてしまうのはあまり良い傾向と言えない。行き詰っているからこそ、もっと柔軟に考えるべきだ。

 

「そうねぇ……、土葬か火葬か……。そう言えばその辺の割合についてはあまり深く考えていなかったわ。でも京都のあちこちで似たような事件が起きているから、別にどちらかに偏って狙っていた訳じゃないような気がするけど……」

「……ひょっとしたら、カモフラージュだったりして」

「カモフラージュ?」

「ああ。死体その物か、それとも人骨か。犯人が欲しがっていたのはそのどちらか片方だけだったけど、警察の捜査を攪乱する為にあえて無差別に狙っていた、とか」

「攪乱って……」

 

 それにしては些か回りくどいような気がするが、確かにその可能性だってゼロではない。

 のんびりとした様子の父親。けれども極稀に、確信を射抜くような鋭い突っ込みをする事もある。死体か人骨か、犯人が欲していた物はどちらだったのか。そもそもそんな物を集めて、一体何をしようとしていたのだろうか。

 

「な、何だか話がどんどんきな臭くなってきたような気がするんですが……」

「……そうだな。だが、土葬された人間を墓から持ち出したのだとすれば、相当な重労働だったんじゃないか? しかも数箇所の墓地で。それこそ火車のような人外でもない限り、犯人は複数人いたと考える方が自然のような……」

 

 妖夢と進一がそんなやり取りをしている。それを横目で見ながらも、夢美は思案を続けていた。

 なんだろう、何かが引っかかる。決定的な何かを、見落としているような。

 

(京都各地で多発していた墓荒らし、その目的の真意。そして犯人の人物像……)

 

 火車のような人外でもない限り、複数箇所の墓地から土葬された死体を持ち運ぶのは難しい。

 

(死体泥棒……。死体……、人外……?)

 

 もしも。犯人が態々()()()()()を運ぶ必要がなくなるような方法があるとすれば?

 

「……っ!」

 

 岡崎夢美の脳裏に、とある『呪術』が過ぎった。

 それはあまりにも突拍子もない話。この現代に生きる物理学者とは思えない推測。世界の物理的法則を極めてオカルティズムに近い観点から紐解いてゆく、ある意味()()な彼女だからこそ辿り着ける答え。現代に生きる常人では理解する事も、それ以前に理解しようとする事さえも出来ぬような存在。

 

「……姉さん?」

 

 突然立ち止まった夢美を見て、進一が訝しげに声をかけてくる。けれども胸を貫かれたかのような衝撃を受けた夢美は、瞠目したまま動けなくなっていた。

 冷静になって常識的に考えれば、そんな事はあり得ないと一蹴できるかも知れない。けれどもこの状況、常識的な思考で答えに辿り着ける程単純な問題じゃない。

 

 魂魄妖夢という半人半霊が、幻想を否定したこの世界に放り出される。事はそこから始まっていたのかも知れない。京都各地で多発していた墓荒らし。突如として現れた三度笠を被った女性と、古明地こいしと名乗る少女。そして進一の誘拐と、妖夢の敗北。それら全てが、ある同一の人物が持つ意思によるものだとすれば――。

 

「……ごめん。ちょっと、用事を思い出しちゃったわ」

「用事?」

「ええ」

 

 オウム返しする進一に頷いて呼応した後、夢美は一人歩き出す。

 

「どうした夢美? 用事って、どこに行くつもりだ?」

「大学。ちょっとした野暮用よ。お父さんは進一と妖夢を連れて、先に家に帰っててくれる?」

 

 そう、野暮用だ。今はそういう事にしておけばいい。

 嫌な感じがする。幾ら夢美でも予感などという不確定な要素を完全には真に受けるような事はしないが、それでも参考にはする。少なくとも事態が明確になるまで、進一や妖夢にも下手に話すべきじゃない。それに、自分で言うのもなんだが、こういう勘はよく当たるものである。

 

 父親に言い残した後、夢美は大学へと向かう。とにもかくにも、今は確信が持てるような証拠が欲しい。問題はそこからである。

 

 

 ***

 

 

 野暮用があるなどと言って、一人大学に行ってしまった夢美。結局夕食時になっても、彼女は帰って来なかった。

 一体何をしているのだろう。電話をしても反応がない事から、余程熱中しているようだが――。まぁ、彼女がここま夢中になるという事は、十中八九オカルト絡みか自分の研究テーマである魔力絡みの事だろう。いつもの事である。特に不思議に思う必要はない。

 

 ともあれ、いつ帰って来るかも分からない状態だ。夢美には悪いが、先に夕食にさせて貰う事にした。その最中の事である。

 

「えっ……明日にはもう出発しちゃうんですか?」

 

 ご飯を掴む箸を止めて、妖夢は思わず身を乗り出す。肩を窄めてそれに答えたのは、同じように箸を止めた悠次だった。

 

「ああ。今携わっているプロジェクトもそろそろ大詰めでな。いつまでも休んでいる訳にもいかないんだよ」

「そ、そうなんですか……」

 

 何だかよく分からないが、つまるところ仕事の問題なのだろう。そもそも普段の彼は海外で多忙な日々を送っている身。それでも妻の命日にこうして帰国してきた辺り、かなり無理をして強引に時間を作ったのだろう。彼がどんな仕事をしているのか、妖夢が聞いても上手く理解出来ないだろうが、とにもかくにもあまりのんびりとはしていられないようだ。

 

「次に帰ってこられるのは来年か、再来年か……。今の時点では何とも言えんなぁ」

「でも父さんが頑張ってくれているお陰で、俺もこうして大学に通えてるんだ。感謝してる」

「おー、そうかそうか! もっと感謝してくれても良いんだぞ進一?」

 

 ――どうやら、褒められたり感謝されたりすると調子に乗る夢美の癖は父親譲りらしい。今の悠次の反応は、まさに夢美のそれである。そんな彼を横目に、進一は苦笑しながらも残ったご飯を掻き込んでいた。

 

「ごちそうさま。……それにしても姉さんの奴、いつになったら帰ってくるつもりなんだ?」

「そ、そうですね……。夢美さんは一度熱中すると周囲が見えなくなるタイプですから……」

「ま、あいつも大人だ。変に心配する必要はないだろう」

 

 妖夢が不安に思い始める中、父親である悠次は意外な程冷静だった。連絡も寄越さない夢美を心配している訳でも、はたまた怒っている訳でもない。彼の抱く心境は、驚く程に軽いのだ。

 妖夢はやや困惑気に、

 

「な、なんだか随分と楽観的ですね……」

「何を言うんだ妖夢ちゃん。確かに家を留守にしている事の方が多いが、これでも一応父親なんだ。自分の娘の事くらい、よーく理解している」

 

 普段は飄々としていて、どうにも緊張感のない印象を受ける悠次。そんな彼でも、娘や息子を思う気持ちは本物だった。それは今の言葉からもひしひしと伝わってくる。娘の事をしっかりと考え、理解している。だからこそ、彼はこんなにも楽観的な様子でいられるのだ。決して適当だとか、大雑把だとか、そいういうのとは違う。

 口走った言葉が失言だと気づいて、妖夢は身を縮こませた。

 

「ご、ごめんなさい……」

「……うん? なんで妖夢ちゃんが謝るんだ?」

「だ、だって……私、何も考えずに失礼な事を……」

「なんだ、そんな事を気にしてたのか。お前さんはあれだな、随分と生真面目なんだなぁ」

 

 何ともマイペースな悠次の様子。相変わらずである。

 

「変に気にする事はないぞ。よく言われるんだよなぁ。お前は緊張感がない! とか」

「そ、そうですか……」

「そうだな。父さんは何て言うか、肝が座ってるんだよな。良くも悪くも」

「おーい、進一。最後の一言余計じゃないか?」

 

 談笑する進一と悠次。そんな二人の姿を見て、妖夢も思わず破顔する。

 悠次の仕事の都合上、全員が揃う事の方が珍しいのだけれども。温かい家族だなと、しみじみと感じる。ここまで仲の良い家族も中々珍しいと思う。進一の一見クールに見えるけれどお人良しなこの性格も、こんな家族に囲まれていたからこその結果なのかも知れない。

 そんな家族だからこそ、夢美が不在というこの状態がちょっぴり惜しく思えてしまう。

 

(夢美さん、何してるんだろ……?)

 

 もう明日には父親が海外に出発してしまうのに。彼女は一体、何にそこまで熱中してしまっているのだろうか。

 

 

 ***

 

 

 月明かりが照らす大学の研究棟。休日の夜なのにも関わらず、その一角には未だに灯りがともっている研究室がある。部屋に入るまではごくごく普通の研究室のようにも見えるが、一歩足を踏み入れると大学内とは思えぬような呪術的な空間が姿を現す異質な一室。岡崎夢美の研究室である。

 オカルトグッズで溢れたデスクの前。ローラー付きの椅子に座って数々の資料を凝視しているのは、この研究室の責任者。そんな夢美の向かい側には、ぐったりと机に突っ伏した彼女の助手――ちゆりの姿も確認出来る。休日なのにも関わらず、彼女には無理を言って色々と手伝わせてしまった。しかもこの短時間でかなりの重労働だった。

 

(……今度、一杯奢ってあげようかしら?)

 

 そんな事を考えながらも、夢美は資料から目を離さない。彼女が広げるその資料は、主にちゆりと共に掻き集めた件の墓荒らし関連の物。当然、大学の教授とその助手でしかない夢美とちゆりでは民間に公開されているような情報しか集められなかったが、致し方あるまい。幾ら民間用と言っても、その情報量は膨大だ。これでも手掛かりを掴めるチャンスは十分に存在している。

 

(一見、墓荒らしが現れた日に統一性は無いように思えるけど……)

 

 墓荒らしが現れたのは夜。それは一貫している。しかし、共通点はそこだけじゃない。

 

(土葬用の埋葬地が被害に遭った日の天気は、全て曇りか雨……)

 

 星の瞬きも、月の光も、分厚い雲に隠れてしまうような悪天候ばかり。

 

(まさか、本当に……)

 

 ビンゴかも知れない。けれども、それでも根本的な解決にはなっていない。

 方法は分かった。しかし結局の所、犯人は誰なのだろうか。こんな『呪術』を扱えるという事は、犯人は少なくとも普通の人間じゃない。例えば、幻想郷の住民――とか。

 

(幻想郷、ね……)

 

 何気なく、夢美はデスクの引き出しを開ける。真っ先に目に入るのは、二ヶ月程前に秘封倶楽部が見つけて来たあの真っ赤な御札。幻想郷への手掛かりと成り得るかも知れない、唯一の戦利品。

 

「……いや、ちょっと待って」

 

 御札。そう、これは御札だ。最初は魔除けの類か何かかと思っていたが、どうにも何かが違うような気がしていた。おそらくこれは魔除けなんかじゃない。もっと、何か別の目的の為に作られた御札。それが皆目検討もつかず、これまで全くと言っていい程進展はなかったのだが――。

 

「これ、ひょっとして……!」

 

 ――いや。そうなると、どうしても解せない点が一つ出てくる。

 

(でも、それじゃあ……どうして、社なんかに……?)

 

 そこだけがどうしても分からない。一体、誰が何の為にこんな事をしているのか。一連の出来事の裏で、どんな意思が動いているのだろうか。

 分からない。分からないのだけれども、一つだけはっきりと感じる事がある。

 

(……胸騒ぎ。凄く、嫌な予感がする)

 

 あと一歩の所で届かない、宙ぶらりんのような状態のまま。夢美は思案を続けるのだった。


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