桜花妖々録   作:秋風とも

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第18話「想いが彼女を強くする」

 

「メリークリスマス!」

 

 12月25日。正真正銘、クリスマスである。その掛け声は年に一度の祝日を祝う挨拶のようなものであり、特に深い意味が篭められている訳ではない。精々「楽しいクリスマスを!」程度の意味である。しかし、やはりクリスマスと言えばこの挨拶。それは日本でも所謂様式美の一つとして確立しており、行く先々で人々が皆そう口にしている。「あぁ、クリスマスだなぁ」と、これ程強く実感出来る言葉はないだろう。

 クリスマスイブでの降雪により、外はすっかり雪景色。そんなホワイトクリスマスでの、夜の帳が落ちた頃。京都の外れの閑静な住宅地――その一角に建てられたごくごく普通の一軒家。進一及び夢美の自宅。そのリビングに、秘封倶楽部の面々+αが集結していた。

 無難な家具が置かれた部屋は数々の装飾によって鮮やかに彩られており、人の背丈程のクリスマスツリーがより一層それらしい雰囲気を作り出している。テーブルに並べられているのは豪華な食事の数々で、食欲を誘う良い匂いが鼻を突っつく。

 クリスマスパーティ。宇佐見蓮子主催のその祝賀会が、一日遅れで執り行われていた。

 

「イブに行う事は出来なかったけど、まぁこの際そんな事はどうでもいいわ! 今夜は皆で楽しもー!」

 

 ぶっちゃけ祝賀会なんて名前だけである。どちらかと言うと宴会に近い。

 本来ならばクリスマスイブに行うはずだった今回のパーティだが、訳あって一日遅れで開催する事になっていた。怪我をしていた妖夢を病院に連れて行ったり、失踪していた進一から事情を説明してもらったりと。とにかく色々な事が起き過ぎて、パーティを行う余裕などなかったのだ。

 正直、未だに昨日の状況は上手く整理できていない。幾ら普段から非常識に関わっている秘封倶楽部や夢美達とは言え、流石に昨日の出来事は例外中の例外である。紛れもない、この現実世界で。まさかあそこまで非常識的な事件が起きるなんて。

 

「そうね。蓮子の言う通り、今日は思いっきり羽目を外すべきかもね」

「ふふーん、流石メリー! 分かってるじゃない!」

 

 しかしそんな状況でも、蓮子の中にはパーティの中止という選択肢は存在しないらしい。いや、こんな状況だからこそと言うべきか。

 進一の失踪、非常識に関わる新たな勢力の出現、そしてその彼女達の真意の謎。正直、情報があまりにも錯綜し過ぎて整理しきれないのが現状である。このまま調査や推測を続けたとしても、事態は泥沼化するのが目に見えている。

 だとすれば。このタイミングで、一旦頭を空にするべきではないか。一度気分を転換すれば、新たな観点から着眼出来るのではないか。そんな考えから、蓮子は今回のパーティを決行したのだった。

 

「何て言うか、本当に蓮子は一度決めた事は絶対に曲げないよな。まさかパーティを強行するとは……」

「まぁ良いじゃないの。進一も無事だったんだし、今日はそのお祝いも兼ねてって事で」

 

 進一はやや困惑気な表情を浮かべているものの、満更でもない様子。夢美は夢美でノリノリである。

 

「えっと……いいのかな? あたいまで参加しちゃって……」

「おいおい、気にすんなってお燐。こういうのは人数が多い方が楽しいだろ?」

 

 遠慮しがちなお燐の肩に、ちゆりが腕を回す。昨晩出会ったばかりだったが、折角なので彼女も今回のパーティに招待しておいた。ちゆりの言う通り、人数が多い方が盛り上がる。乗ったもん勝ちである。

 

 まぁ、何はともあれ。普段よりちょっぴり――いや、かなり賑やかな岡崎宅のリビングで。予定より一日遅れのクリスマスパーティの開催であった。

 

 

 ***

 

 

 気がついたらクリスマスパーティに参加する事になっていた。

 トントン拍子で流れに流された火焔猫燐は、並々注がれたグラスの酒に視線を落とす。見た目十代後半のお燐に酒を出す辺り色々と突っ込みどころ満載なのだが、まぁ妖夢も似たようなものだし気にしたら負けなのかなと強引に納得しておく。そもそも幻想郷では、人間の少女達だって普通に飲酒してしまっているし。

 いきなりパーティに誘われて困惑気味のお燐だったが、遂には首を横に振る事は出来ず、こうして参加する事になってしまった。昨日今日出会ったばかりの自分がここまで介入してしまうのは如何なものかと思ったが、どうにも彼女は押しに弱いらしい。断るのも悪いかなと、そんな気持ちが勝ってしまって結局お燐はここにいる。

 

(でも、まぁ……)

 

 妖夢を見守るにあたって、彼女達と仲良くなっておくのは悪くない。別にお燐は利益か不利益かで友達を選ぶような少女ではないが、影でこそこそ、それこそ本当に監視するような真似は乗り気ではなかった事も事実だ。こうして仲良くなる事で、堂々と妖夢に近づける。こそこそ目を光らせるよりも、数倍マシである。

 

(はぁ……。どっちみちあまり良い気分じゃないなぁ)

 

 思わずつきそうになった溜息を飲み込みながらも、お燐は酒を呷る。こんな躊躇をしてしまう辺り、彼女は確実に監視には向いていない。それは自分でも分かっている。

 けれども、他に選択肢はないのだ。お燐にだって、四の五の言っていられない事情がある。ここは腹を括ってやるしかない。

 

 そんなこんなでお燐が陰鬱な心境を抱きそうになった辺りで。おもむろに歩み寄って来た少女が、訝しげに声をかけてきた。

 

「ねぇ、お燐ちゃん」

 

 このパーティの主催者、宇佐見蓮子である。お燐と同様に酒を片手に持った彼女は、声をかけるなりジロジロとこちらの様子を伺ってくる。まるで、品定めでもしているかのような。そんな撫でられるような視線を向けられて、お燐は思わず身を縮こませた。

 

「えっ……な、なに?」

 

 おずおずと、そう確認してみる。当の蓮子は「ふぅ……」と肩を落としながらも、

 

「……お燐ちゃんって、本当に人間なの? 火車とかじゃなくて?」

「へっ……!?」

 

 ドクンっと、一際大きく心臓が波打つ。瞬間的に呼吸が止まり、金縛りに遭ったみたいに身体が動かなくなってしまう。冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような感覚とは、まさにこの事ではないだろうか。

 お燐が本当に人間なのか。本当は火車――つまり妖怪なのではないか。蓮子がそんな確認をしてくると言う事は、それは即ち――。

 

「お前はまだそんな事を言ってるのか」

「だ、だって! 進一君は納得できるの!?」

 

 呆れ顔で進一が口を挟んでくる。しかし冷静な彼とは対照的に、蓮子は血気盛んである。バンッと机をぶっ叩き、やや食い気味に進一へと迫る。彼は困ったように視線を逸らしているが、そんな事はお構いなしだった。

 

「お燐ちゃんが火車じゃなかったら、一体誰が火車だって言うのよ!?」

「いや俺に聞かれても困るんだが……」

 

 事の発端は昨晩まで遡る。

 三度笠の女性剣士に大敗して、心身ともに酷く疲弊してしまった魂魄妖夢。彼女の事がどうしても気がかりで、お燐も帰路に就く夢美達一行に同行していた。

 妖夢と進一の事は彼女達に任せてこのまま大人しく引き下がると言う選択肢もあるにはあったのだが、流石にそれでは目覚めが悪い。今の妖夢からしてみれば、お燐はついさっき会ったばかりの赤の他人なのだろうが、お燐からしてみれば妖夢は大切な友人の一人である。そんな友人が苦しんでいるのに、何もせずに知らんぷりだなんて。彼女には出来る訳がなかった。

 

 そんな訳で夢美達にくっついて歩く事数十分。閑静な住宅地に佇む一軒家に辿り着いたお燐達を迎えてくれたのが、進一と同い年くらいの少女達。宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの二人だった。

 当然ながら、彼女達にとってお燐は闖入者同然である。当たり前だろう。今の今まで何の接点も持っていなかった一人の少女が、夢美達にくっついて急に現れたのだ。訝しげに思われてしまっても仕様がないと言える。

 そう。そんな事は想定内。故に二人の視線が真っ先に集中してしまう程度では、お燐は特に動揺を見せる事はなかった。

 

 しかし。問題はここからである。

 

『あ、あれ……? 貴方、確か……』

 

 そう口にして首を傾げたのは、メリーことマエリベリー・ハーンと名乗る少女だった。

 菖蒲色のワンピースを身に纏い、ブロンド髪の頭には白いナイトキャップにも似た帽子を被る少女。そんな特徴を認識した途端、お燐の脳裏に何かが引っかかる事となる。

 デジャヴ――とでも言うべきだろうか。何と言うか、前にも似たような状況があったような、なかったような。えっと、なんだっけ。確かあれは――。

 そんな釈然としない感覚の正体を探っていると、

 

『確か、前に喫茶店で声をかけてきた……』

『喫茶店……? あ……ひょっとして、あの時のお姉さん?』

 

 そうだ、思い出した。確かに、お燐は既に彼女と会った事がある。

 まだこいしの捜索をしている最中だった時である。少しでも情報を集めようと、こちらの世界の住民に話を聞こうと思い立ち――。一番最初に話しかけたのがこの少女、メリーだった。

 成る程成る程、この既視感の正体はこれかぁ、などと呑気な心境でいると、

 

『な、なんだってェェェェエ!?』

『ふにゃっ!?』

 

 突然響いた大声に驚いて、思わず間の抜けた声を上げてしまった。声の正体はメリーの傍らにいた黒い帽子を被っている少女。宇佐見蓮子である。

 彼女は大声を上げるなり、鬼気迫る様子でお燐へと駆け寄ってくる。やけに俊敏な動きでお燐の容姿を隅から隅まで確認した後、彼女はガシッと両肩を掴んできた。何が何だか分からぬままに困惑するお燐だったが、直後に投げかけられた質問を前に言葉を失う事となる。

 

『ねぇ貴方……ひょっとして火車なのっ!?』

『……ッ!?』

 

 ぞくりと。背筋に走る悪寒を、お燐は嫌でも感じてしまった。

 まるで、身体中の血液が凍りつくような。背筋に沿って蛇が這い上がってくるかのような、そんな悪寒。空気のない空間に放り込まれたみたいに息が詰まり、身の毛がよだつ思いに駆られてお燐は思わず身を引いてしまう。

 なんで、どうして。まさかバレたのだろうか。確かにメリーに声をかけた時は、耳も尻尾も隠していなかったのだが――。ひょっとして、あの時既に?

 

『おいちょっと待てよ蓮子。いきなり何を言い出すんだよ』

 

 酷く動揺して完全に言い開きも出来なくなったお燐。もしもここで進一が声を挟んでくれなかったら、どうなっていただろうか。結局その時はなあなあになって、お燐が火車だと完全にバレる事はなかった。よく誤魔化し通せたなぁと今でも思う。これも偏に完全な人間の姿に化けていたお陰である。もしもこいし達の助言を受けず、耳と尻尾を隠さずに彼女達と対面していたら――。想像もしたくない。

 

 だけれども。あの時は納得してくれたように見えた宇佐見蓮子だったが、どうやら未だに考えを改めてはいなかったらしい。お酒が回って頬を色付かせたその少女は、昨日以上にグイグイと踏み込んでくる。

 

「だってそうでしょ!? ねぇメリー! メリーが喫茶店で会った時は、確かに猫耳と尻尾が生えていたのよね!?」

「へっ……? い、いや……まぁ、確かに耳と尻尾はあったけど……」

 

 あぁ、やっぱりこのパーティに参加したのは間違いだったのかも知れない。後悔しても後の祭りだが、そう思わずにはいられない。

 なぜだ。なぜ彼女は、こうも疑ってくるのだろう。非常に気になる所だが、そんな推測に至った経緯を馬鹿正直に確認してしまうと、最悪お燐の方からボロを出してしまう危険性もある。それとなく探りを入れる事が出来れば良いのだが――。

 

「だから昨日も言ってただろ。こいつはコスプレイヤーだったんだって。そうだよなお燐?」

「えっ? あ、う、うん、そうだよ! あたいはその、『こすぷれいやー』って種族なんだよ!」

「こ、コスプレイヤーですって……?」

 

 再び蓮子が迫ってくる。正直怖い。

 

「じゃあ何? メリーが見た猫耳も尻尾も、ただの作り物だって言うの!?」

「う、うん……。そ、そんなの当たり前でしょ? 人間にそんなもの生えてる訳ないじゃん?」

「じゃあ何でコスプレなんてしてたのよ!? あんな京都のど真ん中で……!」

「そ、それは……」

「いい加減にしなさい蓮子」

 

 意外にも。間に割って入って来たのは岡崎夢美だった。

 グラスを机に置いた彼女は、落ち着いた声量で静かに蓮子を叱責する。その様子は、まさに容姿相応の大人の女性。興奮気味の蓮子でさえも、引き下がってしまうような凄みも感じられる。

 

「幾らなんでもしつこすぎよ。お燐だって困ってるじゃない」

「きょ、教授……」

「確かにあなたの気持ちも分かるわ。けれど少しは冷静になりなさい。焦ったって仕方ないって、あなたも言ってたでしょ?」

 

 なんだろう、夢美が凄い人に見える。いきなり進一をノックアウトさせた昨日の彼女とはまるで別人のような。

 

「ごめんなさいね、お燐。ちょっとお酒が回って酔っ払ってるだけで、蓮子に悪気がある訳じゃないのよ。それは分かってあげてくれる?」

「えっ……う、うん、大丈夫。ちょっと、びっくりしちゃっただけだから……」

 

 何だ。何だ、彼女は。聖母か何かなのだろうか。昨日のあれは一体なんだったんだ。

 ひょっとしたらお燐は、岡崎夢美という女性の事を少し誤解していたかも知れない。よく考えてみれば、そもそも彼女はお燐や妖夢といった例外を除きこの中で最年長の大人だ。昨日のあれは弟が行方不明になった所為で少し錯乱していただけであり、実際の彼女はこんな風に落ち着いた女性なのだろう。

 ああ、やっぱり第一印象で人を判断しちゃいけないな、とお燐がしみじみ思っていると、

 

「な、なん、だと……?」

 

 酷く動揺した様子で震えた声を発したのは進一だった。

 箸で掴んだフライドポテトがするりと抜け落ち、ポチャンっと音を立ててお酒の入ったグラスに落ちる。沈んでゆくポテトがぶくぶくと(あぶく)を立てているが、そんな事さえも気に留められない。彼は石みたいに身体を硬直させたまま、口をあんぐりと開けている。

 

「嘘だろ……? 姉さんが、このタイミングで蓮子を諭すなんて……!」

「お、おいおいおい! どうしたんだよ夢美様!」

 

 声を張り上げつつもガタリと立ち上がったのはちゆりである。彼女も進一と同じように、酷い動揺をありありと表情に浮かべている。

 当然そんな反応など夢美にとっても想定外だったようで、彼女は思わず茫然としてしまっている様子。え? 何? 私が何かしたの? そう言いたげな表情を浮かべる夢美に対し、動揺を抑えきれぬままちゆりが駆け寄ってきた。

 

「な、何か変な物でも食ったのか? それとも頭でもぶつけたか? いや、まさかあまりにも研究が芳しくないから、遂におかしくなったのか!?」

「ちょ、ちょっと。ちゆりも、進一も、どうしたのよ急に……」

「だっておかしいだろ!?」

 

 困惑する夢美に、ちゆりが食らいつく。

 

「蓮子を諭すなんて……まるで大人みたいじゃないか!」

「……ん? んん?」

 

 あれ? 何だか雲行きが怪しくなってきたような。

 

「ああ、そうだ、ちゆりさんの言う通りだぞ姉さん……!」

「……へっ?」

「いつも肝心な所でポンコツな姉さんが、なぜ急に……!?」

「ぽ、ポンコツ!?」

 

 聞き捨てならない単語を前に、流石の夢美もいきり立つ。けれどそんな彼女でも、動揺した進一とちゆりの思いも寄らぬ勢いには勝てなかったらしい。

 

「らしくない、らしくないぞ夢美様……! 帰って来い! 帰って来るんだいつもの夢美様ッ!!」

「し、失礼ね! ポンコツなのがいつもの私だって言うの!?」

「当たり前だ! ポンコツじゃない夢美様なんて……麺が入ってないカップラーメンと同じだぜ!!」

「いやもうそれラーメンですらないじゃない!? ただのしょっぱいスープじゃないの!」

 

 なんだ、これは。それがお燐の抱いた率直な感想だった。

 ちゆりと進一のこの反応。夢美は普段、こんな様子ではないのだろうか。何だか彼女の事がますます良く分からなくなってきたような。

 

「ね、ねぇ。あの真っ赤なお姉さんって、普段はどんな感じなの?」

「へ? そ、そうねぇ……夢美さんは……」

 

 思わずメリーに耳打ちするが、彼女もどうにも歯切れが悪い。首を傾げて思案を続け、絞り出した彼女の答えは。

 

「……ちょっぴり変わっている人、かしら?」

「変わっている……?」

「ええ。確かに抜けている所はあるかも知れないけれど、でもどこか掴み所が無いと言うか何と言うか……」

「うーん……よく分かんないなぁ……」

「でも悪い人じゃないわ。それは確実よ」

 

 お燐は視線を戻す。頭を抱える進一の傍らで、夢美とちゆりが喚いている。歳上の女性らしく蓮子を諭したと思ったら、ちゆりと揉みくちゃになる今の彼女の反応は非常に子供っぽい。成る程、確かに掴み所がない女性である。

 だけれども。メリーの言う通り悪い人ではない事は確かだ。昨日のあれだって弟の事を大切に思うが故の反応だろうし、今だってお燐をフォローしてくれた。――尤も、お燐が火車だという蓮子の推測はドンピシャなのだけれども。

 とにもかくにも、夢美は悪い人じゃない。それはお燐も納得である。

 

「……ね、ねぇ、お燐ちゃん」

 

 そんな喧騒を眺めていると、不意に謙った声調で蓮子が声をかけてきた。

 なんだ。まだお燐を追及するつもりなのだろうか。しかし流石にこれ以上はボロが出る危険性が――。思わずお燐は身を引いて、

 

「へっ……な、何? あたいは人間だよ?」

「わ、分かってるわよ。……ごめんね、変な事しつこく聞いて。夢美さんに叱られて頭が冷えたわ」

「えっ? そ、そう……?」

「うん。そうよね……。お燐ちゃんみたいな女の子が、火車な訳ないよね……」

「そ、そうだよ! や、やっと分かってくれたんだね!」

 

 どうやら納得してくれたらしい。お燐はホっと胸を撫で下ろした。

 正直、蓮子達を騙すようで心苦しい思いはある。けれども、だからと言ってここで本当に正体を打ち明ける訳にはいかないだろう。彼女達が幻想郷への手掛かりを探しているのなら尚更である。

 別に彼女達の活動を妨害するつもりはないし、無理矢理止めようとするつもりもない。しかしここでお燐が幻想郷の情報を漏らしてしまう訳にもいかない。

 だって。今の幻想郷は――。

 

「はぁ……だとすると墓荒らしの犯人は結局誰だったのかなぁ」

「……墓荒らし?」

 

 墓荒らし。蓮子が呟いたその単語を耳にして、お燐は血の気が引くような思いに駆られる。心臓が再び高鳴って、頬に冷や汗が流れ落ちて。サーっと、お燐の表情が真っ青になる。

 墓荒らし。心当たりがありすぎる。

 

 お燐がまるで尋問部屋にでもぶち込まれたかのような心境でいると、メリーが補足してくれた。

 

「実は先月末から今月の頭にかけて、京都各地で墓荒らしが多発してたのよ。今は落ち着いているみたいだけど……」

「た、多発……?」

「ええ。それでその犯人が火車って妖怪なんじゃないかって蓮子が……」

「そ、それは違うよ!!」

「……え?」

 

 お燐は思わず立ち上がって反論してしまった。直後、自分の失態に気づいて慌てて口を塞ぐ。

 

「違うって……?」

「え、い、いや……だ、だって火車なんている訳ないでしょ? そんな非常識的な事……」

「あー、うん。そうよねぇ……。私もそう思うのだけれど……」

「そんな結論に至るのはまだ早計よ二人共! 犯人は未だに捕まってないんだし、可能性はゼロじゃないわ!」

 

 立ち上がってそう主張する蓮子。そんな彼女と入れ替わるように、お燐は座って顔を伏せる。途端に心臓の鼓動が早くなって、ブワっと冷や汗が吹き出した。

 危なかった。気が動転して、思わず反論を――。

 

(え? え? どういう事……!? あたい一回しかやってないよぉ……!)

 

 確かに。こちらの世界に足を運んでから、お燐は一度だけ墓荒らしをした事があった。やはり死体を集める火車としての性か、どうしても外の世界の死体の様子が気になってしまい――。本当に、一瞬だけ。チラッと拝石を動かして、中身を確認した。

 けれども当然、その中身を持ち去ってはいない。幾ら火車でもこちらの世界の常識には従わなければならないだろうし、何らかの事件の発端になるなど言語道断である。だからお燐はグッと堪えて中身を確認するだけに留まり、その後も墓荒らしを行う事はなかったのだ。お陰で三日三晩禁断症状に悩まされたが。

 そんな苦労を乗り越えたのに。

 

(こ、こんなタイミングで墓荒らしを決行するなんて……。一体どこの誰なの……!?)

 

 あまりにもタイミングが悪すぎる。まったく、本当にいい迷惑である。

 ――まぁ、一度だけとは言え墓荒らしを実行している身の上、あまり大きな顔はできないのだが。とにもかくにも、お燐だってあらぬ濡れ衣を着せられるのは御免だ。

 

「ゼロじゃないと言ってもねぇ……。あくまで可能性の一つとして存在しているだけで、そう決めつけるのもそれこそ早計だと思うのだけど」

「まぁ、確かにね。でも今回の件もあるんだし、ひょっとしたら火車以外の非常識な存在が絡んでいる可能性もあるわ」

「今回の件、ね……」

「そう。こいしちゃんとか、三度笠を被った女の人とか……。ねぇ、妖夢ちゃんはどう思う? 実際にその人達と対峙したのよね?」

 

 蓮子が妖夢に話を振る。そう言えば、彼女はさっきから黙り込んだままで一向に話に入って来ていない。横で夢美達が騒ぎ始めても、妖夢は特に反応も見せず一人俯いたままである。食事も殆んど進んでおらず、お酒もあまり減っていない。

 蓮子に声をかけられて、ようやく顔を上げたのだが。

 

「へ? あ……いえ、別に……私は……」

 

 噛み合わない返答。どうにも上の空な反応。今の今まで、まるで周囲の音が耳に入っていなかったような。

 

「妖夢……?」

 

 やはり昨日から妖夢の様子がおかしい。このパーティだって、彼女は殆んど輪に入らずにいる。見るからに楽しめていない。

 三度笠の女性剣士との剣の打ち合い。その大敗は、確かに彼女の心を蝕んでいる。けれども妖夢はたった一人で抱え込んで、うわべを飾って気丈に振舞おうとしていて。無理して笑うその様は、見ているだけで痛々しい。

 

「……どうしたの妖夢ちゃん? 何だか顔色が悪いみたいだけど」

「えっ……。そうですか? 別に、私は全然元気ですけど」

「い、いやでも……」

 

 流石の蓮子も不安気な様子。しかしそれでも、妖夢は乾いた笑みを崩さない。

 

「……そうですね。お酒が回って、身体が火照っているみたいです」

「えっ、でも全然呑んでないような……」

「……結構呑んでますよ。すいません、私ちょっと涼んできますね」

「ちょ、ちょっと妖夢ちゃん……!」

 

 一方的である。困惑する蓮子の言葉を次々と受け流して、妖夢はおもむろに立ち上がる。反射的に呼び止めようとする蓮子へ向けて、

 

「すぐに戻って来ます。パーティは続けてて下さい」

 

 それだけを言い残し、妖夢はリビングから出て行ってしまった。伸ばした蓮子の手は結局妖夢を止める事は出来ず、ただ虚しく空を掴むだけで終わる。残されたのはどうにも気まずい雰囲気と、そして相も変わらず収まらない夢美達の喧騒のみ。今ばかりはその騒がしさが唯一の気晴らしである。

 蓮子は困ったような表情を浮かべる。

 

「妖夢ちゃん、どうしたのかな? 怪我の具合が悪いとか……?」

「いえ、怪我は大した事ないはずよ。でも……」

 

 怪我の具合は本当に大した事ないだろう。既に医者には診てもらっているし、適切な処置も施されている。その上でパーティに参加しているのだ。彼女の変貌に起因しているのはそれじゃない。

 

「何かがあったのは確実だと思うけど、でも何も話してくれないのよね……。いや、と言うよりも、話したくないって感じみたいだけれど……」

「本当にどうしたんだろ……?」

 

 妖夢は頑なに口を開かない。きっと彼女は、蓮子達に妙な心配をかけたくないと思っているのだろう。だからこうして誤魔化し続けている。

 

(何とかしてあげたいけど……)

 

 しかしお燐に何が出来る?

 妖夢はお燐の友達だ。しかし、()()妖夢はどうだろう。彼女は妖夢であるけれど、お燐の知っている妖夢とは少し違う。彼女にとってお燐は出会ったばかりの少女に過ぎず、精々ちょっとした知人くらいの認識。そんな状態でお燐が慰めの言葉を投げかけた所で、その気持ちが彼女の心にまで響くとは思えない。余計なお節介で終わるのが目に見えている。

 それならば、一体――。

 

(今のあたいじゃ……)

 

 本当に、精々見守る事くらいしかできない。余計なお節介は却って彼女の心を閉ざす。

 もどかしい。友達が目の前で悩んでいるのに、何もできないなんて。

 

「よし分かった! 分かったぞ夢美様! こういうのは強くぶっ叩けば直るってのが常套だ! だから今から私が……!」

「ちょ、何物騒な事言っちゃってんの!? 私は機械じゃないのよ!?」

 

 夢美とちゆりの喧騒の横でお燐は考える。本当に何もできないのか、今の自分でもできる事はあるのではないか。すっかり思考の渦に呑み込まれてしまったお燐は、俯いたまま黙り込む。けれど幾ら悩んだ所で、答えは出てきそうになくて。

 

「落ち着け夢美様! 大丈夫、大丈夫だ! 私が絶対に直してやるからな……!」

「落ち着くのはちゆりの方でしょ!? ま、待って、タイム! 幾ら何でも今回ばかりは理不尽過ぎで……、あっ」

 

 考え込む事ばかりに集中して、お燐は周囲に殆んど意識を傾ける事ができなかった。故に瞬時に反応して、退避する事が出来なかった。

 夢美達が暴れまわり、ちゆりが勢い良く机にぶつかって。その上に置かれていたグラスやらビンやらが倒れ、中のお酒が派手にぶちまけられてしまったと言うのに。

 

「……冷たい!?」

 

 そこそこの量がひっかかった。

 丁度スカートの上辺りだ。勢い良く倒れた所為で並々と注がれていた酒が宙を舞い、折り悪く座っていたお燐へと飛び散ってしまったらしい。服に色が染みるような酒でなかったのは不幸中の幸いだが、それでもこの時期に冷え切った液体を掛けられるのは溜まったもんじゃない。特に部屋が暖房により温められている所為か、服に染み込む酒の冷気がより一層強く感じられるような気がする。

 そんなお燐の様子を見て、流石のちゆりも夢美に食いついてはいられなくなったようで、

 

「あっ……わ、悪いお燐……! 大丈夫か……?」

「うっ……。ま、まぁ、一応……」

「ご、ごめんなさいお燐! もうっ、何やってんのよちゆり!」

「い、いやー……。何か妙にテンションが上がっちゃって、つい……」

 

 まぁ、正直。夢美に突っかかるちゆりのノリは、殆んど酒に呑まれた時のそれである。どうやらかなり酔っ払っていたらしい。この短時間で呑み過ぎじゃないだろうか。

 

「だ、大丈夫お燐ちゃん……!? 何か、結構派手にかかっちゃったように見えたのだけど……」

「あー、これは一度着替えた方がいいかもね。まったく、教授もちゆりさんも呑み過ぎですよー」

「わ、私はあんまり呑んでないんだけど……」

 

 随分と派手にひっかかってしまったので、蓮子の言う通り一度着替えた方が良さそうだ。

 それにしても、文字通り水を差された心地である。別に良い解決策が見つかっていた訳ではないが、集中力は完全に散漫してしまった。まぁ、ちゆり達に悪気はなかったようだが――。

 

「……風呂に入ってきたらどうだ? 沸いてるから」

「えっ、でも良いのかな?」

「ああ。風邪でもひいたら大変だろ」

 

 いつの間にか普段の調子に戻っていた進一に勧められ、お燐は少しだけ思案する。妖怪なので別にこの程度で風邪などはひかないだろうが、確かにいつまでもこんな状態でいるのは常識的にあまりよろしくない。これ以上周囲を汚してしまうのも悪いし、早い所着替えてしまうべきだろう。それで風呂まで貸してくれると言うのなら、願ってもない提案である。

 

「そ、それなら貸してもらおうかな……?」

「そうか。えっと、風呂の場所は……」

「私が案内するわ。ついて来て」

 

 そう声を掛けてくる夢美にくっついて、お燐はリビングを後にする。

 そこで改めて自分の服を見下ろすと、中々どうして派手に酒がひっかかってしまっていた事に気づく。黒い服の上に色の薄い酒が溢れただけなので汚れはあまり目立たないが、もしもこれが赤ワインのように強い色のついた酒だったら、今頃頑固な染み汚れがもれなくついてきていた事だろう。そこそこ気に入っている服だったので、その点については本当に幸いだった。

 

(はぁ……それにしても……)

 

 結局妖夢についての妙案は何も思いつかなかった。涼みに行くと言っていたが、今頃彼女はどこで何をしているのだろう。

 確かに妖夢の事は気になる。気になるのだけれども、しかしだからと言って答えの見つからぬ暗中模索をいつまでも続けていては埒が明かない。取り敢えず、ここは一度風呂に入ってさっぱりしよう。それで多少気持ちを落ち着かせる事が出来れば、何か良い案が思い浮かぶかも知れないし。

 

「……あ。そうだ、丁度良かったわ」

 

 風呂に向かう途中。突然夢美が立ち止まって、何かを思い出したかのようにそう口にする。何事だと思っていると、夢美が笑顔で振り向いてきて、

 

「ねぇお燐。折角だし、一緒にお風呂入らない?」

「……へっ?」

 

 そんな彼女が口にしたのは、思いも寄らぬ提案だった。

 

 

 ***

 

 

(あ、あれ? おっかしいなー……。なんでこんな事になったんだっけ……?)

 

 そんな思考に至ったのは、これで何度目だろうか。

 いや、だって、しょうがないじゃないか。この状況に至るまでの経路を思い出す度に、どこかで道を踏み間違えたとしか思えなくなってくる。本当に、どうしてこうなった。

 確か。確か自分は、クリスマスパーティに参加していたのではないのか。結局断るに断りきれず、流れるままに参加する事になってしまって。そこで蓮子の鋭い追及をギリギリで掻い潜りながらも、なんとか体裁を保っていたのではないのか。

 火車でもそれ以外の妖怪でもない。あくまで人間の女の子として、お燐はパーティに参加していたのだ。そのはずだったのに。

 

「ふぅ……やっぱりお風呂は良いわねぇ……。一日の疲れが癒されるわぁ……」

 

 どうして。昨日会ったばかりの女性と、一緒に風呂に入っているのだろう。

 

「ごめんないね、お燐。急に一緒に入ろうだなんて言い出しちゃって。でもあなたが乗りの良い子で良かったわ」

「は、ははは……」

 

 浴槽に凭れながらもそう口にする夢美に対し、お燐は乾いた笑い声上げる。シャンプーで髪を洗いながらもこれまでの経緯を今一度思い出すが、やはりどうしても納得できない。と言うか、なぜ自分はあの時夢美の提案を了承してしまったのだろう。完全に雰囲気に呑まれていたと言わざるを得ない。

 そもそも、どうして夢美はあんな提案を持ち出してきたのだろうか。取り分け広い訳でもないこの風呂に、態々一緒に入ろうだなんて。

 一人そんな思案を続けながらも、お燐はシャンプーを洗い流す為にシャワーを手に取る。本当に、こちらの世界の設備に慣れておいてよかったとつくづく思う。ここでわたわたしてしまったら、夢美に妙な不信感を抱かれてしまっただろうし。

 

「実はね、お燐。あなたと二人っきりで話をしてみたかったのよ」

 

 そんなこんなで洗髪が終わり、次は身体を洗おうとタオルにボディーソープを染み込ませた辺りで。不意に夢美がそう声をかけてきた。

 タオルを泡立てながらもお燐は耳を傾ける。

 

「……あたいと?」

「ええ。ほら、私って昨日はちょっと気が動転してて、凄く慌ただしくしちゃったじゃない? だからあなたにきちんとお礼を言えてなかったから」

「お礼って……」

「……進一達の事、助けてくれたんでしょ? ありがとう。あなたには本当に感謝しているわ」

「そ、そんな、あたいは別に……」

 

 何だか行く先々で礼を言われている気がする。けれども実際、お燐はこんな風にお礼を言われるような事はしていない。確かに進一達の介抱をしたのは事実だが、元はと言えばそれはこいしの為である。今日パーティに参加したのだって、言ってしまえば妖夢を監視する為。要するに、お燐の行動のほぼ全てには何かしら裏がある。

 お燐はタオルを泡立てる手を止め、俯く。

 

「ふふっ。そんなに謙らなくてもいいのよ? あなたは本当に謙虚ね」

「…………」

 

 違う。謙虚とか、そんなのじゃない。別にお燐は謙っている訳ではない。自分がしている事、そしてこれから自分がしようとしている事。それを理解しているからこそ、お燐はこんな反応を見せている。

 隠し事だらけのうわべだけの関係。詐欺紛いの行為。まるでスパイである。

 

(嘘や誤魔化しが下手だなんて、妖夢に言える立場じゃないなぁ……)

 

 下手というよりも苦手だ。あまりにも向いてない。

 しかし自らここまで首を突っ込んでしまった手前、中途半端な所で投げ出す訳にもいかない。お燐はお燐なりに、できる事を全うするまでだ。

 

「まぁ、あんまり謙虚すぎるのもどうかと思うけどね。たまには自分の功績を称えるのも良いかと思うわよ?」

「……うん」

 

 タオルで身体を洗い始めて、お燐は相槌を打つ。つきそうになった溜息を無理矢理呑み込んで、お燐は顔を上げた。

 いつまでも迷ってはいられない。腹を括るって、そう決めたじゃないか。それなら却ってざっくばらんに割り切ってしまった方が楽だ。

 夢美達の前では、お燐は人間の少女。重要なのはそれだけだ。

 

「そうかもね。ちょっと、変に遠慮し過ぎてたかも」

「そうよ。遠慮なんてする必要はないわ」

 

 夢美が優しげな笑みを向けてくる。それにつられて、お燐も破顔した。

 そうだ。あくまでお燐が人間ではないとバレなければ良い。簡単な事じゃないか。それさえできれば、何も夢美達にだって変に取り繕って接する必要はない。

 

(そうだよ、これで……)

 

 心は決まった。もう迷わない。

 お燐は一人、胸中で決意を固める。

 

「……それとも」

 

 ――しかし。その時だった。

 

「何か――謙虚な反応をせざるを得ないような理由でもあるのかしら?」

「……、えっ?」

 

 夢美の声色が、変わった。

 

 お燐は思わず間の抜けた声を上げて、今一度夢美へと視線を戻す。浴槽の縁に腕を凭れた彼女から向けられるのは、全てを見透かしたかのような妖艶な眼光。湯船に浸かって体温が上昇しているのか、頬を色付かせる彼女は妙に色っぽく見える。そんな様子も相俟って、まるで誘惑でもするかのように。夢美がお燐に迫る。

 

「ねぇ、お燐。私、すっごく気になっている事があるんだけど」

 

 タオルで身体を洗っていたお燐だったが、夢美のそんな豹変を前にして蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。背筋に悪寒が走り抜け、身体を洗う手が止まる。本能的な危機感を察知する事はできたものの、もう遅い。

 

(な、何……? 急に、一体何を……)

 

 そんなお燐の混乱など露知らず。夢美は続ける。

 

「確かあなたは、倒れていた妖夢と進一をたまたま見つけたって言ってたわよね? それで介抱してたって……」

「へ……? あ、あぁ、うん、そうだよ。本当に、たまたま通りかかって……」

「ふぅん……」

 

 夢美が浴槽の背凭れに身を委ねる。それからチラリと横目を向けて、

 

「あんな()()()()()()に、()()()()()、本当に()()()()()()通りかかったの?」

「……ッ!?」

 

 まるで刃物を喉元に突きつけられたかのような心地だった。

 思わずお燐は顔を背ける。何が何だか訳が分からくて、混乱は早くも最高潮に達しようとしていた。石鹸だらけの身体を洗い流す事さえも忘れて、お燐の思考がぐるぐると回る。

 

(え、な、何!? ど、どういう事!? なんでこのお姉さんは急にこんな事を……!)

 

 だって、おかしいじゃないか。今の今まで、彼女はお燐に優しく接していたのに。

 

「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」

「えっ……あ、う……」

「……やっぱり、何か隠し事してたんだ?」

「そ、そんな……!」

 

 これじゃあ、まるで。尋問みたいじゃないか。

 

(じ、尋問……? あっ)

 

 そこでお燐はとある事に気がつく。気がついてしまった。

 

(あたいは今、服を着ていない……)

 

 まさか服を着用したまま風呂に入る者はないだろう。無論、何か特別な理由がある場合は別だが。

 一糸纏わぬ姿。当然、そんな状態では満足に動き回る事など出来やしない。風呂場の中だけならともかく、外に飛び出すなど言語道断。お燐だって女の子である。

 つまり。言うなれば今のお燐は、この浴室に監禁されているようなものなのだ。いや、それは少し言い過ぎかも知れないが、それでも行動の自由を奪われている事は確実である。そんな状況での、この口頭。何も答えなければ疑いを持たれるし、さりとて誤魔化し通そうにもすぐにボロが出てしまう。どちらにせよ、お燐は真実を語るしかなくなってしまうだろう。八方塞がりだ。

 

 それ故に。

 

(まさか、これって……!)

 

 罠。優しく接してきたのも、こうして突然お風呂に誘ってきたのも。そう考えれば納得できる。お燐の警戒心を極限まで取り除いた所で優しく自然に誘導し、そして陥れる。おそらく、彼女は端からこうなる事を見越してお燐に近づいたのだろう。そしてその思惑通り、お燐は完全に追い詰められてしまっている。まさに掌の上で踊らされていたのだ。

 もしも、この推測が真実であるとするならば。

 

(このお姉さん……)

 

 できる。確かにどこか掴み所のない女性だとは思っていたが、まさかこれ程までとは。正直、油断しすぎていたと言わざるを得ない。

 

「考えてみればおかしな話よねぇ……。何をそんなに誤魔化そうとしているのかしら?」

「……っ」

「さっきあなたは言ってたわよね? 京都で多発していた墓荒らしの犯人が、火車なんじゃないかって聞いた時。食い気味に、それは違うって。ひょっとして、犯人が火車じゃないって事についても、そんな確信を持てるような理由が別にあるんじゃないかしら?」

 

 浴槽で足を組みながらも、夢美が追求を続ける。冗談でも何でもなく、本当に全てを見透かされているかのような心地だ。

 きっと彼女は最初からお燐を疑っており、常に目を光らせていたのだろう。さっきのメリー達との会話だって、彼女はちゆりとの喧騒を続けながらもしっかりと耳に入れていた。常に警戒心を緩める事もなく、いつしかボロを出す瞬間を虎視眈々と狙い続ける。

 やはり彼女は只者ではない。気づかぬ内に、そんな人物のテリトリーに足を踏み入れていたなんて。

 

「私は考えたの。どうしてお燐の反応はそんなにちぐはぐなのか、何か隠している事があるんじゃないかって。そこで私は一つの結論に至ったわ」

 

 腕を組んだ夢美が、更に確信へと迫ってゆく。そんな様子を目の当たりにして、お燐は息を呑んだ。最早抵抗などする余裕さえもなくなってしまう。

 あぁ、まさかこんなにも早く正体がバレてしまうなんて。

 

「お燐。あなた、ひょっとして」

 

 もうダメだ、観念しよう。

 お燐はまさに自首でもするかのような心境で、一人決心する。顔を上げて再び夢美へと視線を向け、覚悟を決める。しかしこれから行われる夢美の宣告を想像すると、どうしても身震いをしてしまう。けれども、仕方がない事だ。完全に油断していたお燐が悪い。ここでチェックメイトである。

 そう思っていた。

 

 ――だが。

 

「ひょっとして――相当なオカルトマニアなんじゃない!?」

「……、はい?」

 

 何だって?

 

 ひょっとして実は妖怪なんじゃないの? 数々の状況的証拠と共にそんな言葉を投げかけられると思っていたお燐だったが、当の夢美が口にしたのは思わず耳を疑うような言葉。オカルトマニア? 一体何の事だろう。

 

「だってそうでしょ!? あの廃ビルって、知る人ぞ知るオカルトスポットじゃない! 元々はとある企業のオフィスビルとして建てられたんだけど、建設から僅か二ヶ月で倒産……。表向きには社長による資金の横領が原因とされているけど、実はオフィス内で多発していた超常的な現象が直接的な原因じゃないかって密かに囁かれているのよ! 勿論、この現代社会でそんな事を信じる人なんて殆んどいないんだけど……」

「え? い、いや……」

「私も一度きちんと調べてみたいと思ってたんだけど、あのビルは倒壊の危険性があるって事で立ち入り禁止なのよねぇ……。大学教授って立場上、警察のお世話になるような行為は大々的に行えないし……」

「あの、だから……」

「お燐の気持ちも分かるわ。立ち入り禁止区域に足を踏み込んだのが知られたとなると、あんまり大きな顔できないわよね。幾らたまたま人助けをする事になったとは言え、それじゃあ控えめな反応にもなるわ」

「え、えっと、お姉さん……?」

「でも安心して。私達はそんな事であなたを咎めたりなんかしないわ!」

 

 一方的に喋り続け、一人でうんうんと納得してグッとサムアップする夢美。お燐はすっかり開いた口が塞がらなくなってしまった。

 完全に慮外である。きっと今のお燐は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になっている事だろう。あまりにも夢美の結論が予想外すぎで、お燐は状況を呑み込むのに酷く時間を要してしまった。訳が分からない。彼女はお燐を陥れようとしていたのではないのだろうか。

 

「あの廃ビルの噂話なんて、本当にひと握りのオカルト好きしか知らないような内容なのよ? それの調査に単身で乗り出すなんて……。あなた、相当なマニアね?」

「……、そ、そうかなぁ?」

「そうよ! いやー、まさかあなたみたいな子がこの現代社会に残っていたなんて!」

 

 目をキラキラとさせてそう語る夢美。ひょっとしなくても何か勘違いしているのだろうが、何だかそれを正すのも面倒くさくなってきた。

 何なんだ、彼女は。さっきまでの追及はなんだったのか。お燐に裏がある事に気づいておきながら、なぜそんな結論に至ってしまうのだろう。何と言うか、思考回路が予想の斜め上すぎる。

 

「墓荒らしの事だって、実はあなたなりの考えがあるんでしょ? ひょっとして、犯人の目星も既につけてたりして」

「……そ、それはどうかなぁ?」

「何よー! 勿体ぶっちゃってー!」

 

 最早乾いた笑い声を上げるしかない。夢美に散々翻弄されっぱなしである。

 いきなり装う雰囲気を変えて踏み込んで来たと思ったら、口にした結論は的はずれなものだった。一体どこまでが本気で、どこからが冗談なのだろう。

 ――いや。夢美の様子から察するに、おそらく彼女は最初から最後まで本気だ。お燐の妙な様子に気づいていたのも事実だろうし、そこからあんな結論に至ったのもふざけている訳ではない。

 

(こ、このお姉さん……本当に一体何者なの!?)

 

 何だか一気に肩の力が抜けてしまった。あの緊張感は本当になんだったんだ。

 表裏のあるような女性だと思っていたが――どうやら勘違いだったらしい。お燐を風呂に誘ったのだって、別に彼女を嵌めようとした訳ではないのだろう。多分、夢美はそこまで深く考えちゃいない。

 

『いつも肝心な所でポンコツな姉さんが、なぜ急に……!?』

 

 あの時、進一は酷く動揺してそんな事を口にしていたが。

 成る程、確かに。その気持ちがちょっぴり分かったような気がするお燐なのだった。

 

 

 ***

 

 

 身体の芯まで響き渡る、鋭い寒さの夜だった。

 昨晩の曇天とは対照的に、今夜は雲一つない快晴である。降雪するまで降り続いたクリスマスの粉雪も午前中にはすっかり上がり、白銀色の雪化粧だけを地表に残して天候は回復していった。

 それでもやはり、夜は冷える。優しげに降り注ぐ月明かりが地表の雪をキラキラと輝かせ、吐息が直様凝結して真っ白になる。降り積もった雪の所為で、気温はいつもより低い。肌に突き刺さるような寒さが、みるみる内に体温を奪ってゆく。

 

 そんな寒空の下。雪が積もった住宅街を一望できるベランダに、妖夢は一人佇んでいた。

 身体が冷える。手が凍える。感覚が失われてゆく。厚着をしなければ耐えられぬ程の寒さだが、しかし妖夢は屋内へと戻ろうとしない。もの悲しげな瞳を向ける彼女の視線の先は、月。まるで全てを包容するかのように優しげな光を放つ月だが、けれども今の妖夢にとってそれはあまりにも眩しい。

 

(……遠い)

 

 いや、遠いのではない。自分があまりにもちっぽけなだけだ。

 

(私は、一体……)

 

 自問自答を繰り返す。一体、今まで何をやっていたのだ。これまでの鍛錬は何だったのだ。まるで手も足も出ず、あんなにも一方的に下されてしまうなんて。

 これでは――。

 

(幽々子様を、お守りする事なんて……)

 

 下唇を噛み締める。握った拳に力が入る。悔恨の情は感じているものの、けれども火のついた闘志はいつまで経っても湧き上がってこない。

 劣等感。それはあまりにも強く妖夢の心にまとわりつき、そして徐々に蝕んでゆく。剣士としての矜持さえも最早崩壊寸前で、完全に折れてしまうのも時間の問題だった。

 

「ここにいたのか」

 

 そんな中。不意に、声をかけられた。

 おもむろに振り向いてみると、その声の主は進一だ。灯りもない暗闇の中、彼は開け放たれた戸越しに佇んでいる。周囲に他の人影は確認できない事から、どうやら一人で来たらしい。

 

「……進一さん、ですか」

 

 妖夢は視線を前に戻して、そして再び俯いてしまう。しかしその直後、スっと差し出されたマグカップが視界に入って。

 

「……え?」

「珈琲だ。温まるぞ。こんな所にいたら身体が冷えるだろ?」

 

 視線を向けると、目に入ったのは香ばしい褐色の嗜好飲料。白いマグカップに注がれたそれは、周囲との温度差の影響か絶え間なく白い湯気を立てている。焙煎豆の良い香りが鼻を突っつく中、揺らめく珈琲の水面に妖夢の姿が反射していた。

 

「……どうした? ひょっとして苦手だったか? 珈琲」

「あっ……い、いえっ。すいません、いただきます……」

 

 思わずぼんやりとしていた妖夢は、進一に差し出されたマグカップを慌てて受け取る。フーっと一息吹きかけた後、彼女はその珈琲を一口だけ含んだ。

 温かい。冷え切った身体が内側から温められていくような感覚だ。珈琲独特の苦味と香ばしい香りが駆け抜けて、胸の奥がホっと落ち着く。そんな気がする。

 

「考え事か?」

 

 進一がそう尋ねてくる。ちらりと視線を向けると、彼は戸の縁に寄りかかってマグカップを口に運んでいた。どうやら妖夢と同じように珈琲を飲んでいるようだ。

 妖夢は視線を戻して、

 

「……別に、大した事じゃないですよ」

「大した事じゃない、ね……」

「身体が火照っていたので、ちょっと涼みに来ただけです」

「涼むどころか凍えそうになっていたように見えたんだが」

「それは……」

 

 妖夢は黙り込む。マグカップを持つ手に力が入り、視線を落として俯いてしまう。何とか誤魔化し通そうと試みたものの、それが失敗に終わった事は一目瞭然だった。

 

「……昨日の事か?」

「…………」

「何があったのか、聞いても良いか?」

 

 妖夢は息を吐き出す。身体がポカポカと温まってきたお陰で、鈍くなっていた感覚がだいぶ戻ってきた。

 昨日、何があったのか。進一のそんな問いに対し、妖夢は。

 

「……力が、及ばなかったんです」

 

 観念するかのように。

 

「家を飛び出して、進一さんを捜し回って……。あの廃ビルに辿り着いた時、こいしちゃん達と対峙しました」

 

 無意識の解れ。明確な違和感。それを認識出来たのは、本当に偶然だった。一度こいしの能力をその身で体験していたからこそ、意識の歪みを手繰り寄せてあの廃ビルまで辿り着く事ができたのだ。

 そこまでは良かったのだが。

 

「やっぱり、こいしちゃんと三度笠の女性には明確な接点があったんです。そこで意識を失っている進一さんの姿を見つけて……」

 

 元々抱いていた古明地こいしへの不信感と疑惑。倒れている進一の姿を認識して、膨れ上がったそれらは妖夢の感情を逆撫でした。彼女達は一体何者で、何が目的なのか。進一を利用して、何をしようとしていたのか。それを追及しようとした矢先、三度笠を被ったあの女性が剣を向けてきた。

 

「進一さんを助けたくて……。必死になって剣を振るったのに……」

 

 結果はあの有様だ。傷一つ付ける事も出来ず、一方的に下されてしまった。

 日々の剣術鍛錬を続けて、着実に強くなっている実感はあった。けれども、それは思い上がりだったのかも知れない。結局自分は、いつまで経っても何も変わってないじゃないか。

 

 妖夢が初めて強い無力感を味わったのは、主である西行寺幽々子がとある異変を起こした時だった。

 春雪異変。白玉楼の一角に佇む桜――西行妖。それを開花させる為に幻想郷中の春を集めた結果、発生した異変である。春になっても一向に気温が上昇する事がなく、幻想郷は5月になっても吹雪が止む事はなかったのだという。

 そんな大規模な異変が発生し、あの博麗の巫女が黙っている訳がない。彼女は持ち前の勘で黒幕の所在を突き止め、冥界――白玉楼に乗り込んできた。

 妖夢は彼女と戦った。主を守る為、スペルカードルールに則って彼女は剣を振るった。

 

 結果は――惨敗。斬れぬものなどあんまりない楼観剣を以てしても、博麗の巫女を止める事は出来なかったのだ。

 結局幽々子もその巫女によって退治され、そして春雪異変にもピリオドが打たれる事となる。

 

「あの時から、私は……!」

 

 博麗の巫女に敗北して、自らの未熟さを否応なしに突きつけられて。悔しかった。だからもっと強くなりたかった。庭師という枠にとらわれず、一人の剣士として。真の意味で幽々子を守るのに値する存在になりたいと。そんな意思を原動力に、妖夢はこれまで鍛錬を続けてきた。

 しかし、どうだろう。実際の所、これまでの鍛錬は意味のあるものになっていたのだろうか。

 守る為の力。それを身に付ける為に、妖夢は剣を振るい続けてきたのに。

 

「結局、また……」

 

 守る事が出来なかった。進一を助ける事が、出来なかった。

 何が剣士だ。何が守りたい、だ。結局何も出来ないじゃないか。恩人を助ける事さえも出来ない癖に、それでも剣士を名乗ろうだなんて。

 そんな事――。

 

「……俺の能力の事。蓮子達から聞いたんだって?」

「えっ……?」

 

 気がつくと進一が妖夢の横に歩み寄って来ていた。珈琲の入ったマグカップを片手に持ったまま、彼はおもむろに空を仰いで。

 

「ごめんな。別に隠すつもりはなかったんだ」

「い、いえ、態々謝らなくても……」

「能力を使うのが好きじゃない。蓮子はそう言ってたんだろ? お前はそれを聞いて、俺を助けに来てくれた」

 

 進一が妖夢へと視線を向ける。そんな彼が浮かべるのは、優しげな笑顔。

 

「嬉しかったよ。俺のために、そこまで必死になってくれるなんてな」

「そ、そんな、私は……」

「助けに来てくれてありがとう。感謝してる」

 

 妖夢は視線を逸らす。きっと、進一の気持ちには嘘偽りなどない。心の底から思った事を、彼はそのまま口にしている。けれども今の妖夢にとって、彼のその気持ちはあまりにも眩しい。眩しすぎた。

 

「でもっ……! 私は進一さんを……助ける事が、できなくて……!」

 

 息が詰まる。思わずギリッと歯軋りをする。敗北というどうしようもない事実に、妖夢は押しつぶされそうになっていた。

 確かに妖夢は進一を助けに行った。助けに行ったのだけれども。

 

「こうして無事に帰れたのだって、たまたま運が良かっただけです……。場合によっては殺されていたかも知れない……! それなのに、私は……!!」

 

 助ける事が出来なかったのに、礼を言われるなんて烏滸がましい。寧ろ責められるべきだって、そう思っていたのに。

 

「妖夢」

 

 どうして、この青年は。

 

「自分を責める必要なんてない」

 

 こんなにも、優しく接してくれるのだろう。

 

「確かに負けたのかもしれない。本当にどうしようもないくらいに、力が及ばなかったのかもしれない。でもお前は、俺を助けようとしてくれたじゃないか」

 

 彼は真っ直ぐに、妖夢を見据える。

 

「出来るとか出来ないとか、助けられるとか助けられないとか。そんな事は関係ない。俺を助ける為にお前は駆けつけてくれた。それだけで、俺は嬉しかったんだ」

 

 妖夢は進一と目を合わせる。真っ直ぐな彼の瞳に、妖夢の姿が反射されていて。

 

「結果だけが全てだって、中にはそんな主張をする奴もいる。けれど俺はそうは思わない」

 

 揺らぐ事なく。

 

「大切なのは結果じゃなくて、何かを成そうとする気持ちだ。俺はそう思っている」

 

 曇りのない瞳。迷いのない真っ直ぐな眼。今の妖夢にないものを、彼は全部持っている。

 妖夢は息を呑む。本当に、彼はずるい。こんな風に接せられてしまったら、隠し事なんてできないじゃないか。彼になら、全部吐き出しても良いんじゃないか。溜め込む必要なんてないんじゃないかと。そんな気持ちにさせられてしまう。

 妖夢は息を吐く。途端に冷たい空気が流れ込んできて、

 

「……怖かったんです」

 

 それが引き金となるかのように。ポツリポツリと、語り出す。

 

「今までの剣術鍛錬が、無駄だったんじゃないかって……。結局幾ら努力したって、これ以上登れないんじゃないかって……。そう思えてきてしまって」

 

 妖夢の身体が震える。

 

「私は何も出来ないんだって、そう突きつけられたような気がして……。それで……」

 

 妖夢は怖がりな少女だった。故にこんな感情を抱いている。

 恐怖心。今の彼女を支配しているのはそれである。得体の知れぬ女性との対面。そんな彼女との剣の打ち合い。そして敗北。進一を助けられなかったという事実。突きつけられる無力感。それらの要因が複雑に絡み合って、ある種の恐怖心として妖夢の中に根付いていた。

 だから彼女は立ち止まる。だから彼女は進めない。それでも一人で抱え込もうとして、子供みたいに意固地になっていたのに。

 

「ダメだなぁ、私……」

 

 自嘲するかのように。妖夢は薄笑いを浮かべる。

 

「進一さん達に迷惑をかけたくなくて、だから自分で解決しようって、そう思っていたのに……。結局、一人じゃ何も出来ないなんて……」

 

 結局誰かに頼らなければ、自己を確立する事も出来ない。何か支えがなければ、立ち上がる事すら出来ない。

 ちっぽけだ。本当に、どうしようもなく――。

 

「――心外だな」

 

 そこで妖夢の自己嫌悪は、口を挟んできた進一によって強制的に中断させられる事になる。

 慰めるように、ただただ優しく接してくれた進一。けれども今の声色は、それとは趣旨が少し違う。視線を向けると、彼はむくれ面を浮かべていて。

 

「ひょっとして、俺に打ち明けた所で何も解決しないって、そう思っていたのか? まさかそこまで信用されてなかったとはな……」

「なっ……」

 

 妖夢は慌てて彼に飛びつく。

 

「ち、違います!! 別に、そう言う訳じゃ……!」

「だったら存分に頼ればいい」

「えっ……?」

 

 再び進一に笑顔が戻る。

 

「馬鹿だな。前にも言っただろ? 乗りかかった船だ。ここまで来たら、とことんまで付き合おうってな。だから今更変な気を遣う必要なんてないんだ」

「で、でも……」

「人は一人じゃ強くなれない。何かあったら頼れ。辛い事があったら吐き出せ。立ち止まって一人で抱え込もうだなんて、そんな馬鹿な真似はするな」

 

 妖夢は言葉が出なくなる。進一の言葉があまりにも優しくて、温かくて。妖夢の瞳がジワリと潤う。

 こんなにも自分の事を思ってくれている人がいるのに、一人で勝手に抱え込もうだなんて。それこそ烏滸がましい事なんじゃないかって、そう思った。

 

「まぁ俺は剣士じゃないから、お前に稽古をつけてやる事は出来ないけど」

 

 彼はバツが悪そうに人差し指で頬を掻いた後、

 

「でも相談くらいには乗ってやれる。いや、別に相談じゃなくても、愚痴や不満の捌け口でも何でも良い。とにもかくにも、俺の事は存分に利用してくれて構わない」

 

 そこで一息、

 

「躓きそうになったとしても、俺が後ろから支えてやる。だからお前は前だけ見てろ」

 

 じんわりと。胸の奥が暖かくなってゆくのを、はっきりと感じられた。マグカップを両手で持ったまま、妖夢はその手を胸の前まで引き寄せる。

 存分に利用してくれて構わない。後ろから支えてやる。まったく、どうして進一はこうも簡単にそんな事が言えるのだろう。何と言うか、本当に――彼はやっぱり鈍感だ。

 でも。

 

「進一さんって……」

「うん?」

「どうしようもないくらいに、お人良しですよね」

「……それ褒めてるのか?」

 

 だからこそ。

 

「心の底から褒めています」

 

 彼の想いは妖夢に届く。

 

 恐怖心は、いつの間にか消えていた。身体の震えも止まっていた。俯いていた顔を持ち上げて、妖夢はしっかりと前を見る。

 妖夢を想ってくれる人がいる。支えてくれる人がいる。だから立ち止まってはいられない。振り向いてばかりではいられない。だから彼女は前を向く。前を向く事ができる。

 

 抱え込む必要なんてない。一人で思い悩む必要なんて、ないんだ。

 

「……ああ、そうだ。一つ、お前にも話しておきたい事があったんだ」

 

 不意に、進一がそんな事を口にする。きょとんとした妖夢が耳を傾けると、

 

「俺が初めて自分の能力に気づいたのは、母さんが死んだ時だった」

「えっ――」

 

 月明かりを全身に浴びた彼は。ポツリ、ポツリと。

 

「俺を身篭って少しした後、母さんは身体を壊してしまったみたいなんだ。それでも出産には耐える事が出来たみたいだが、結局どんどん衰弱していって……」

 

 一瞬、息が詰まる。しかしそれでも、彼は続ける。

 

「俺が6歳の時に母さんは死んだ。本当に、びっくりするくらいあっさりとな」

 

 そこで進一は再びマグカップを口に運ぶ。すっかり生温るくなってしまった珈琲を飲み干して、

 

「その時、見たんだ」

 

 空になったマグカップに視線を落とす。

 

「『生命』が消える瞬間ってヤツをな」

 

 そう語る彼の横顔は、どこかもの悲しげだった。それは普段、噯気にも出さない彼の愁傷。生命を視覚するなどという、奇怪な『眼』を持つが故の苦悩。

 

「正直、怖かったよ。死の瞬間が、明確に視界に映りこんでくるんだからな。人が死ぬ瞬間ってのは、本当にあっけないんだ。それこそ、桜がその花弁を散らし尽くしてしまうくらいにな」

 

 彼はマグカップから視線を上げて、短く息を吐く。

 

「姉さんにも随分と心配をかけちまった。……いや、今でもかけてるか。昨日だって……」

 

 彼は自分の『眼』の事を、どう思っているのだろう。例えば彼と同じように変わった『眼』を持つ蓮子とメリーは、形こそ違えどその能力をしっかりと受け入れている。けれども、進一は――。

 

「あの……」

「……ん?」

「どうして、それを私に話してくれたんですか?」

「だって不公平だろ?」

 

 さも当然の事であるように、進一は言う。

 

「お前にばかり一方的に打ち明けさせて、俺は隠し事をしたままなんてな」

 

 そう口にして、彼は妖夢に笑顔を見せる。けれどもやはり、その笑顔にはどこか影がある。

 

「……お前と初めた会った時、本当にびっくりしたよ。だってお前の『生命』、生きてるけど、同時に死んでいるみたいな……。とにかく、凄く不思議な感じだったんだからな」

「……それで、私が普通の人間じゃないと。そう思ったんですね」

「……ああ」

 

 妖夢が人間ではないと判断した理由を、彼は超能力だと冗談口調で言っていた。けれども、それは強ち間違いではなかった。

 妖夢は半人半霊だ。半分生きていて、半分死んでいる半端な存在。故にその身に宿す『生命』という概念も、非常に不安定である。そんなものを目の当たりにしたからこそ、彼は妖夢を少なくとも普通の人間ではないと見抜く事ができた。

 

 しかし。おそらく彼は、好きで妖夢の『生命』を垣間見たのではない。

 

「進一さんは、その『眼』を受け入れる事ができたんですか?」

「……どう、だろうな」

 

 彼はバツが悪そうに、一瞬だけ視線を落とす。けれどもすぐに顔を上げて、

 

「あいつに……こいしに言われたんだ。『貴方は自分の能力を自覚しながら、それをひた隠しにしようとしている。でも意識してそうしている訳じゃない。言うなれば自己防衛本能。つまり無意識……』ってな。実際、そうだったのかも知れない」

 

 彼は自らの能力を自覚し、そして受け入れていると。ずっと、そう()()()()()()()

 

「心の奥ではまだ納得してなかったんだと思う。蓮子達に会って、あいつらも変わった『眼』を持っているんだと知って……。変わっているのは俺一人だけじゃないんだって、そう思った。でも、それでも俺は……無意識の内に恐れていたんだ」

 

 母親の死。幼い少年がその心にトラウマを植え付けてしまうのに、十分すぎる要因だ。それはそう簡単に消えるような傷ではない。

 幾ら自分に言い聞かせても、幾ら強く思い込んでも。そう簡単には克服できない。それがトラウマと言うヤツだ。

 だから。

 

「お前に能力の事を隠していたのがその証拠だ。一人で、抱え込もうとしていて……、ん?」

 

 そこで進一は腕を組み、そして首を傾げる。

 

「あれ? だとすると俺も妖夢にあれこれ言える立場じゃなくないか……? と言うか盛大なブーメラン……」

「……進一さん」

 

 遮るように、妖夢が口を挟む。進一のもとまで歩みよって、そして彼の顔を見上げて。

 

「大丈夫です。今は難しくても、あなたならきっといつか乗り越える事が出来きますよ。だって進一さんは、強い人ですから」

「……強い、か。だと良いんだけどな」

 

 彼は強い。妖夢などより、ずっと。だから妖夢は信じている。

 

「それに……」

 

 それに。

 

「例え挫けそうなったとしても心配はいりません。その時は、私が支えますから」

「……っ。妖夢、お前……」

「だって不公平でしょう?」

 

 そう、不公平だ。

 

「進一さんにだけ、一方的に支えさせるなんて」

 

 我ながら生意気な口を聞いているとは思う。正直、今の妖夢は誰かを支えられるようなタマじゃない。それは分かっている。

 でも。それでも何か、力になりたかったから。進一にだけ、一方的に任せきりにはしたくなかったから。それはそんな妖夢の、小さな意地による意趣返しだった。

 

 進一は一瞬だけ呆気にとられた様子だったが、やがてすぐに破顔する。これは一本取られたと、そう言いたげな表情で。

 

「……ああ。そうかもな」

 

 彼につられて妖夢も笑う。それから彼女もマグカップを持ち上げて、残っていた珈琲を一気に飲み干した。

 

 魂魄妖夢は、確かにまだ弱い。剣術の腕前だって、三度笠を被った女性剣士の足元にも及ばない。だけれども、これが彼女の限界ではないはずだ。なぜなら彼女は半人前。それは逆に言えば、まだまだ伸びしろがあると言う事だ。だからここで立ち止まるなんて、それはとても愚かな事。

 それに。剣術の鍛錬だけが、彼女の強さになる訳ではない。これまで積み重ねてきた強さだって、それだけが所以になっている訳ではないはずだろう。よく思い出して欲しい。どうして彼女は強くなりたかったのか。ただの自己満足だったのか。

 否。西行寺幽々子を守りたい。その想いが、彼女が剣を振るう理由の根底に存在している。

 剣術だけが意義じゃない。物理的な力だけが全てじゃない。

 

 想いが彼女を強くする。

 

 青白い月明かりが優しく地表を照らす、とある夜の出来事だった。


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