桜花妖々録   作:秋風とも

18 / 148
第17話「帰路に就く」

 

 混濁してゆく意識が現実へと引き戻されたのは、頬に冷たい何かを感じた直後の事だった。

 じんわりと、染み込むように広がってゆく冷気。しかし質量のようなものは殆んど感じず、広がる冷気も瞬く間に消え去ってしまう。まるで肌に溶けてゆくようなこの感覚から察するに、雪でも降ってきたのだろうか。そう言えば今日はよく冷えていたと思うし、降雪が始まっても何ら不思議ではない。

 

「ぅ、ん……」

 

 ぼんやりと意識が覚醒してゆく。まどろみの中から徐々に這い上がってゆき、身体中の神経への刺激が脳に伝わってゆく。

 寒い。どうやら身体が随分と冷え込んでいるようだ。まぁ、こんな屋外で眠ってしまっては、ここまで冷え込んでしまっても仕方がない事なのだろうけれど。

 

(……いや、ちょっと待て)

 

 どうしてこんな屋外で眠る事になったんだっけ? 確か、蓮子達と買い出しに行って、その途中ではぐれてしまって。それから――。

 

(俺は……)

 

 未だ頭の整理が追いつかぬ中。岡崎進一は完全に目を覚ました。

 霧がかかったみたいにぼんやりとしていた頭の中がクリアになってゆき、視界が開けてゆく。首が痛い。変な格好で眠っていたのだろうか。顔を上げると、目の前に広がっていたのは見知らぬ空間。

 

「……えっ?」

 

 ここはどこだろう。屋外である事には間違いないのだと思うのだが、それにしたってなぜこんな所で眠っていたのか。妙に埃っぽい場所で、よく見ると所々地面が砕けていたり、瓦礫の破片のような物が散らかっていたりする。まるで、何かがここで暴れまわっていたかのような。

 

「あ、目が覚めた?」

 

 進一が状況の整理を終えるよりも先に。不意に声をかけられた。

 聞き覚えのない、少女の声。顔を向けると、そこにいたのはやはり見覚えのない少女。紅髪のおさげに、黒いゴシックロリータファッション。随分と特徴的な服装である。あれは、コスプレか何かなのだろうか。外見から察するに、歳は十代後半くらいに思える。

 

「良かった。中々目を覚まさないから少し心配したよ」

 

 ゴスロリ少女が安堵の息を漏らす。そんな彼女の姿を認識した進一は、ますます混乱していた。

 どのくらいの時間眠っていたかは分からないが、周囲に夜の帳が落ちてだいぶ時間が経過している事だろう。粉雪が散る静かな夜、こんな人気のない場所に一人のゴスロリ少女が傘もささずに佇んでいるのだ。中々異常な光景である。

 

「えっと……」

 

 そこでようやく、進一が口を開く。

 

「……誰だ?」

「……えっ? あ、あたい?」

 

 自らを指差してそう確認する少女。他に誰がいるのだろう。

 進一が頷いてそれに答えると、なぜだか当の彼女は思案顔を浮かべている。程なくして何かに納得したかのように短く頷くと、彼女は再び進一へと視線を向けて、

 

「あたいは火焔猫燐。通りすがりの人間だよ!」

「か、かえんびょう……?」

 

 それは、名前なのだろうか。何と言うか、随分と仰々しい変わった名前である。

 いや、名前もそうだが。

 

「人間って……。そりゃ見れば分かるだろ」

「えっ……!? あっ、そ、そうだよね!? は、ははは……」

 

 確かに特徴的な服装をしているが、どこからどう見ても人間である。やけに“人間”の部分にアクセントを置いていた気がするのだが、冗談か何かのつもりだったのだろうか。

 進一が首を傾げると、そのゴスロリ少女は誤魔化すように乾いた笑い声を上げている。特徴的な服装といい、何だか変わった子だなぁと思いつつも、進一は彼女に確認した。

 

「……ひょっとして、お前が俺を助けてくれたのか?」

「へ? あ、いや、助けたって言うか……。たまたま通りかかっただけで……」

 

 随分と謙虚な反応だ。所々ちぐはぐとした変わった印象を受ける女の子だが、どうやら意外と常識人で話が通じる少女らしい。寧ろオカルト絡みになって暴走した蓮子よりも話が通じるような。

 

「でも介抱してくれてたんだろ? なら、礼を言うよ。ありがとう」

「そ、そんな、あたいは何も……」

 

 しどろもどろな受け答えをする少女。なぜここまで遠慮しているのかは分からないが、とにもかくにも進一が目を覚ますまで彼女が介抱してくれていた事は確かである。

 取り敢えず彼女に礼を言った後、進一は今一度自分が立たされた状況を確認する。

 気づかなかったが、どうやらここはビルか何かの屋上のようだ。網状のフェンスの先から京都の街並みとイルミネーションが一望出来る事から、そこそこ高いビルにいるらしい。当然ながら、こんなビルへと足を運んだ記憶はない。

 

 進一は自らの記憶を探る。蓮子達と買い出しに出かけて、想像以上の人並みに埋もれて彼女達とはぐれてしまって。その後、確か。

 

(ッ! そうだ……!)

 

 思い出した。あの後、三度笠を被った奇妙な女性を追いかけて、人気のない路地裏へと足を踏み入れたのだ。そこで古明地こいしと名乗る少女に声をかけられて、彼女と話している内に――。

 

「なぁ、えっと……かえん、びょうりん……?」

「……お燐」

「……えっ?」

「お燐で良いよ。言いにくいでしょ? それにあたい自身、長い本名で呼ばれるの好きじゃないし」

「そ、そうか。それじゃあ、お燐。お前に聞きたい事があるんだが」

 

 ジワジワと蘇ってゆく記憶を前にして動揺を覚えながらも、進一はゴスロリ少女――お燐に幾つか確認をする。彼女ならば、進一が眠っている間の事も何か知っているかも知れない。

 

「お前はたまたま倒れている俺を見つけたんだよな? その時、他に誰か見かけなかったか? 具体的に言えば三度笠を被った奴とか、小さな女の子とか……」

「ほ、他に誰か……?」

 

 そこでお燐は困ったような表情を浮かべる。人差し指の背を顎に沿えて、束の間の思案の末、

 

「……い、いや、そんな人達は見てないかなぁ……。あたいが見つけたのはお兄さんと、そこに倒れている子だけで……」

「倒れている……?」

 

 頷いたお燐が進一の傍らを指差す。つられるように視線を向け、彼女の示す先を確認すると、

 

「なっ……!」

 

 見覚えのある少女が倒れていた。

 短めに揃えられた白銀の髪。黒いリボン。そして二本の剣。以前進一達と買いに行った服の上に防寒用のコートを羽織った、その少女は。

 

「よ、妖夢……?」

 

 見間違える訳がない。ぐったりとうずくまり、苦しげな表情を浮かべて昏睡する少女――魂魄妖夢である。

 進一はますます混乱した。どうして、妖夢までもがこんな所で眠っているのだろう。それもただ眠っているだけではなく、明らかに“眠らされた”ような痕跡も確認できる。身に付けた服は砂埃等ですっかり汚れてしまっているし、身体の所々には細かな傷も確認できる。まるで、何者かに襲われでもしたかのような。

 

「妖夢ッ!」

 

 頭の中で状況を整理するよりも先に。ほぼ反射的に、進一は彼女のもとへと駆け寄る。慌てて彼女の肩に手を沿え、声をかけつつも揺さぶってみる。それでも目を覚ます事はなかったが、「うぅん……」という呻き声だけは進一の耳にもしっかり流れ込んできた。

 どうやら、息はあるらしい。

 

「大丈夫、ちょっと気を失っているだけみたいだから。すぐに目を覚ますと思うよ」

「……そ、そうか。よかった……」

「お兄さん、この子の知り合い?」

「ああ。まぁ、な……」

 

 お燐の問いに受け答えしつつも、進一はホっと胸を撫で下ろした。

 取り敢えず妖夢が無事だった事に一安心だが、だからと言ってこの状況に納得した訳じゃない。どうして進一のみならず、妖夢までもこんな所で倒れているのだろうか。

 進一は思案する。徐々に思い出してきてはいるが、こいしと対面した直後辺りからどうにも記憶が曖昧だ。あの時、突然視界が歪んで、その後――。

 

(術か何かにでもかけられていたのか……?)

 

 そんな推測をしてしまう辺り、自分も随分と非常識に毒されてきたなと思う。いや、否応なしに向き合わざるを得なくなったというべきか。

 非常識なんて、これまでも常に進一の周囲に付きまとっていたじゃないか。ただ、今の今まで向き合おうとしなかっただけ。妖夢と出会って、彼女の持つ明確な非常識を目の当たりにしてしまって。無意識の内に目を逸らし続けてきた非常識という存在を、無視する事が出来なくなった。

 

 そんな中での、この出来事である。

 

『貴方は自分の能力を自覚しながら、それをひた隠しにしようとしている。でも意識してそうしている訳じゃない。言うなれば自己防衛本能。つまり無意識……』

 

 こいしの言葉が頭の中で反響する。あの言葉の直後、自らの無意識の領域を明確に自覚してしまって。進一の意識は混濁したのだ。

 だけれども。意識が無意識に侵食されてゆくあの中でも、ぼんやりとだが覚えている。自分が一体、何をしていたのか。

 

(能力を使ってた、よな……)

 

 言うなれば、あれは軽い洗脳状態だ。無意識の内に進一はこいし達と行動を共にし、そして無意識の内に能力を使って、自らの『眼』に『生命』を映し続けた。しかしなぜあんな事をしていたのか、そこまでは覚えていないのだけれども。

 

(くそっ……何がどうなってんだ……?)

 

 まるで喉の奥に何かがつっかえているかような感覚だ。思い出せそうで、思い出せない。あと一歩の所まで来ているとは思うのだが――。

 

「えっと……大丈夫?」

「……え?」

 

 難しい表情を浮かべて思案を続けていた進一だったが、お燐に声をかけられて現実に引き戻される。顔を上げると、彼女から向けられるのは不安気な視線。

 進一は胸のざわめきを強引に抑え込みながらも、

 

「ああ、何でもない。大丈夫だ」

 

 とにもかくにも、こんな所でいつまでも思案を続けても答えは出ない。妖夢がこんな所で倒れている理由は、目覚めた彼女に直接尋ねるのが手っ取り早いだろう。その他の様々な疑問の答えについても、彼女なら何か知っているかも知れない。

 その為にも。

 

「……とにかく、さっさとここから出ないとな。妖夢をいつまでもここで寝かせておく訳にはいかないし」

 

 こんな所でいつまでも手を拱いている必要はないだろう。蓮子達も心配しているだろうし、早い所帰った方が良いかもしれない。

 それに。目立った外傷はあまり確認出来ないが、それでも妖夢を一度病院に連れて行くべきだ。半分幽霊の彼女をこちらの世界の病院に連れて行っても良いものなのかは多少迷う所であるが、致し方あるまい。

 

「あぁ、それなら任せてよ。この子はあたいが運ぶからさ」

「……お前が?」

 

 瞬間的な立ち眩みを覚えつつも進一が立ち上がると、不意にそんな提案をお燐が持ちかけてくる。進一は腕を組んだ。

 

「大丈夫か? 人間の身体って、意外と重いと思うんだが」

 

 確かに妖夢は小柄な少女で、体重も軽い部類に入るだろう。しかしそれでも、女の子一人だけの力でその身体を持ち上げて、長距離を運ぶとなると馬鹿にはできない。

 正直、お燐にはそこまで腕力があるようには見えない。その容姿から考えてまだ十代の少女だろうし、体型も細身である。そんな彼女が、完全に気を失っている妖夢を果たして運ぶ事が出来るのだろうか。

 

 進一がそんな不安感を覚えていると、胸を張ったお燐が得意顔で鼻を鳴らした。

 

「ふふーん、全然大丈夫! だってあたい、人を運ぶのは得意中の得意だからね!」

「は、はあ……」

 

 思わず生返事をしてしまう。人を運ぶのが得意とは、一体どういう状況なのだろう。実は力持ちという意味なのだろうか。

 困惑する進一を余所に、納得させるような口調でお燐は続ける。

 

「とにかく、あたいに任せて。お兄さんはあんまり無理しない方が良いと思うよ。目を覚ましたばかりで、体調だって万全じゃないんでしょ?」

「いや、まぁ、確かにそうかも知れないが……」

 

 お燐の言う通り、正直身体は少し怠い。こいしにどんな術をかけられたのかは分からないが、その弊害か未だに頭の中はぼんやりしている。例えるならば、この感覚は寝起きの直後に似ている。油断すれば、また眠りに落ちてしまいそうな。

 

「ほら、やっぱりそうでしょ? だから気にしないで任せてくれればいいよ」

「あ、ああ……」

 

 なんだか強引に丸め込まれてしまったような気がするが、こうなってしまったら仕方ない。ここで進一が反論しても、彼女は引き下がらないだろう。

 

「あ、そう言えばまだお兄さんの名前聞いてなかったよね。良かったら教えてくれるかな?」

「……進一だ。岡崎進一」

「進一、だね。それじゃ、行こっか」

 

 軽く自己紹介を済ませながらも、お燐は眠ったままの妖夢をおぶる。やはりどうにも頼りない足取りである。しかしそれでもお燐は自信たっぷりな様子で、浮かべるのは任せておけと言わんばかりの表情だ。進一は思わず苦笑いを浮かべる。

 多少不安は残っているが、取り敢えず。ここは自信満々なお燐に任せてみる事にした。

 

 

 ***

 

 

 京都のイルミネーションは思わず息を呑む程に壮観だ。あまり人通りが多くないような通りでも手は抜かない。流石は日本の首都、という事か。年に一度の聖夜祭の為に、よくここまで力を入れられるなぁと思う。こんな状況でなければ、立ち止まってまじまじと鑑賞していた事だろう。何せ期間限定の芸術品である。堪能しなければ勿体無いというものだ。

 

「クリスマスイブか……。色々な事が起き過ぎて、なんだか実感沸かないな」

 

 そんなイルミネーションを横目に、進一がそう独りごちる。まぁ、そう思ってしまうのも仕方ないだろう。突然目の前にあんな非常識が降りかかってきて、混乱するなという方が無理な話だ。寧ろ進一はそれでも落ち着いている方である。

 

「雪も強くなってきたな……。急いだ方が良さそうだ」

 

 所謂ホワイトクリスマスというヤツだ。それはそれで幻想的で魅力的なのだが、傘を持っていないこの状況では溜まったもんではない。身体が冷え切ってしまう前に、早いところ帰ってしまうべきだろう。モタモタしてはいられない。

 

「……なぁ、お燐」

 

 分かってる。それは分かっているのだけれど。

 

「無理しなくても良いんだぞ?」

「だっ、だ、大丈夫……。こ、これくらいへっちゃらだよ……!」

 

 妖夢をおぶって進一に続く今のお燐の足取りは、生まれたての小鹿みたいに覚束無いものだった。身体が軋む、足元がふらつく。腕に力も殆んど入らなくなってゆき、今にも倒れてしまいそうだ。

 完全に誤算である。自信満々に胸を張り、妖夢をおぶってあの廃ビルを脱出した所まではよかった。だけれども、あの時のお燐は完全に失念していたのだ。耳と尻尾を完全に隠し、ほぼ完全な人間の姿となった自分の身体の状態を。

 

 妖怪は精神に強く依存している存在であり、自意識が重要素の一つである。自分が妖怪であるという事実がその力の源となっており、逆に言えばそれを否定してしまったら妖怪は妖怪たりえなくなってしまう。完全な人間の姿に化けてしまうのは実は無理がある行為で、それは即ち妖怪としての自分を自ら否定しているのと同義なのだ。

 まぁ、要するに。完全な人間の姿では本来の力を発揮できないのである。人を化かす事を生業としている妖狐や化け狸などといった例外も存在するが、生憎お燐はそういった類の妖怪ではないし、そのうえ彼女は人間の姿に化ける行為があまり得意ではない。猫耳と尻尾を出した状態なら問題はないのだが、それも完全に隠すとなると話は別だ。かなり余分に妖力を費やす必要がある。

 

 その結果。

 

(や、やばっ……こ、これは……想像以上に……)

 

 先に断っておくが、別に妖夢が極端に重いわけじゃない。寧ろ彼女はかなり軽量な方だ。にも関わらずこの体たらく。こいし達の助言を受けて耳も尻尾も隠した完全な人間の姿に化けたのまでは良かったのだが、まさかここまで貧弱になってしまうとは。正直、思ってもなかった。

 

「せ、せめて……せめて猫車があれば……!」

「いやそこは担架とかじゃないのか……?」

 

 至極真っ当な進一のつっこみの直後、お燐は限界に達した。不意に足の力が抜けて、お燐は崩れ落ちそうになる。そのまま転んでしまうような事はなかったが、片膝をついた彼女は完全に動けなくなってしまった。力を入れようにも、まるで身体が言う事を聞いてくれない。

 

「くっ、くうぅぅ……! ち、力が……!」

「言わんこっちゃないな」

 

 結局、妖夢は進一が運ぶ事となった。

 今さっき目覚めたばかりの彼にそんな重労働を任せるのは少々気が引けたが、このままでは埒があかないのも事実である。今のお燐の腕力では、この態勢から妖夢を持ち上げるのは不可能だろう。

 自分の不甲斐なさを情けなく思いながらも、お燐は妖夢を進一に預ける。彼はお燐と同じように妖夢をおんぶして立ち上がる――のではなく、妖夢の肩に片腕を回し、残ったもう片方の腕を太腿から膝の裏辺りに回す。そのままひょいっと抱き上げて、彼は立ち上がった。それは横抱き――所謂お姫様だっこというヤツである。

 そんな様子をお燐はまじまじと眺めながらも、

 

「へぇ……。そういう運び方するんだ?」

「……ん? 何か変な所でもあるか? 安定するし、良いじゃないか」

「……え? あ、あぁ、うん……そうだね」

 

 妙な期待がお燐の脳裏を横切るが、進一の反応を見るにどうやらあまり深い意味は無さそうだ。ちょっぴり残念に思ったのは秘密である。

 

 そんなこんなで妖夢を進一に任せてから早数分。彼の後ろにくっつくお燐は、何も言わずに一人思案を続けていた。

 三度笠を被った女性――彼女が言い残した言葉が、どうにも気になって仕方がない。

 

『彼の持つ『能力』は、私達の目的に対して非常に有効だったので……』

(……能力、ねぇ)

 

 今の所、彼にそんな力があるようには思えない。外見はどこからどう見ても普通の人間その物だし、例えば博麗の巫女のように強大な霊力等をその身に宿しているような気配もない。本当に、そんな『能力』など持っているのだろうか。

 それに。

 

『……彼は大切な人です。今は確かに部外者なのかも知れませんが、それでもこの人の存在は彼女に大きな影響を与える』

 

 これにはどんな意味が篭められていたのだろう。確かに進一は妖夢と知り合いのようだが、しかしそれだけではどんな影響を与えるかまでは皆目見当もつかない。ひょっとして、進一が持っているらしい何らかの『能力』が関係しているのだろうか。

 

 色々と気になる所はあるが、だからと言って馬鹿正直に正面から尋ねる訳にもいかないだろう。今の彼はお燐をただの人間の少女だと思い込んでいるはず。そこでいきなり『能力』だとか、こちらの世界における非常識的な話題を持ち出してしまったら。妙な不信感を植え付けてしまうのがオチだ。

 

(とにかく今は見守るしかないかな……)

 

 見守る、などと言えば聞こえは言いが、要するに監視である。あまり気分は乗らないがやるしかない。あの姿の妖夢がなぜこの時代に迷い込んでしまったのか、彼女を連れてきたと推測される()()()は、一体何が目的なのか。お燐はお燐のやり方で、それをはっきりさせる必要がある。

 

(うーん……。元々はこいし様を連れて帰る事だけが目的だったんだけどなぁ……)

 

 なぜこんな事になってしまったのだろうか。

 でも、まぁ。お燐だって、このモヤモヤとした感覚のまま幻想郷に帰るのも気持ちが悪い。妖夢が今どんな状況に立たされているのか、少なともそれだけははっきりさせておきたい。

 

「……お燐? どうしたんだよ、そんな難しい顔して」

「へっ? あ、い、いや? 別にー?」

「……? そうか?」

 

 無論、うっかりボロを出さない為にも、注意深く慎重に。

 

「……ぅ」

 

 訝しげに進一が振り向いてきた辺りで。そんな小さな呻き声が、お燐の耳に届く。

 その声の主は妖夢である。視線を向けると、進一に抱きかかえられた彼女は苦しげな表情を浮かべつつもモゾモゾと動きを見せている。どうやら意識を取り戻したようだ。

 

「うぅん……」

 

 寝言にも似た声を一つ上げた後、彼女はゆっくりと瞼を開ける。ぼんやりとした視界が真っ先に捉えるのは、当然彼女を横抱きしている進一の顔だろう。

 

「……ん? 起きたか」

「…………」

 

 しかしまだ完全に覚醒した訳ではないようで、彼女はとろんとした目つきのまま瞼をパチクリさせている。顔をしかめつつも瞼を擦り、妖夢はぼけーっとした瞳で進一を見つめ直す。

 

「……進一、さん……?」

「ああ」

「……なん、で……?」

 

 寝ぼけているのだろうか。どうやら状況の整理に時間がかかっているようで、彼女は考え込むようにぎゅっと唇をつぐむ。程なくして納得したかのように肩の力を抜くと、

 

「……夢?」

「そんな訳ないだろう」

 

 混乱しているらしい。まぁ、無理もないだろう。お燐も直接見た訳ではないが、おそらく妖夢は三度傘を被った女性との激しい攻防戦の末、敗北して意識を失った。目立った外傷は確認できなのであの女性も手を抜いたつもりなのだろうが、それでも激しい衝撃を身体全体で受けてしまったら、脳震盪のような症状が現れても不思議ではない。

 

「夢……じゃ、ないんですか……?」

「少なくとも俺は現実だと認識しているけど」

 

 妖夢はふるふると頭を振るう。まどろみのような状態のまま、彼女は彼女なりに自らの状況を推測する。

 

「あの、私は……」

「意識を失っていた。まぁ、俺もついさっきまで似たような状態だったんだけどな」

「意識、を……?」

「怠いんなら、まだ寝てていいぞ。俺が運んでやるからさ」

「……運ぶ?」

 

 それから暫しの沈黙が訪れる。妖夢は進一が口にした言葉がどうにも引っかかっているようで、声を発するのさえも忘れて考え込んでいる。

 今の今まで意識を失っていたという事実。目を覚ました途端真っ先に視界に入る進一の顔。そして『運ぶ』という彼の提案。それらの要素を組み合わせて、そこから推測できる事実は一つ。辿り着くまで十秒近くの時間を要した。

 

「……、あ」

 

 完全に目を覚ましたらしい。目を覚ますと同時に、今の自分の状態をはっきりと理解したようだ。

 片方の腕を肩、そして残ったもう片方の腕を太腿から膝の裏辺りに回し、そのまま抱き上げる状態。横抱き――所謂お姫様だっこをされている。しかもこんな野外で、そのうえ異性の手によって。自分がそんな状態だと知るや否や、妖夢がどんな感情を抱くのか。お燐でも想像するのは容易かった。

 

 開いた口が塞がらなくなる。みるみる内に顔が赤くなる。陸に打ち上げられた魚みたいに口をパクパクとさせる彼女は、今にもぼふっと音を立てて頭から煙を吹き出しそうだ。

 やっとの思いで、妖夢が言葉を絞り出す。

 

「おっ、お、おおおお降ろして下さいっ!」

「……は? なんだよ急に」

「い、良いから早く! 一刻も早く!! わ、わわ私はもう歩けますからぁ!?」

「うおっ、ちょ、待て暴れるな! 降ろす、降ろすから!」

 

 何と言うか。あまりにも予想通りな妖夢の反応を目の当たりにして、お燐は思わず吹き出しそうになってしまった。お姫様だっこから解放された妖夢は、顔を真っ赤にしたまま身を縮こませている。あまりにも初な反応である。

 やっぱり妖夢は妖夢だなぁと、なんだかお燐は安心した。

 

 しかしそんな妖夢の様子を目の当たりにして、当の進一は困ったように首を傾げている。

 

「……なんでそんなに慌ててるんだ?」

「あ、あああ慌てますよ!? だ、だって、お、おおお姫様だっこですよ!? 恥ずかしいじゃないですか!!」

「いや意味が分からない。どこに恥ずかしがる要素があるんだよ」

 

 おいマジかよこのお兄さん。

 今度はお燐の口が開いたまま塞がらなくなる番である。まさか妖夢のこんな反応を前にしても尚、その原因が理解できないなどと宣うとは。ひょっとして彼はあれか、天然というヤツなのだろうか。それにしても、まさかここまで拗らせているような人間が現実にいるなんて。

 

「お、お兄さんって鈍感なんだねぇ……」

「なっ」

 

 進一は酷く不服そうな表情を浮かべる。

 

「まさかさっき会ったばかりのお前にまでそんな事を言われるとは……」

 

 割としょっちゅう似たような事を言われているらしい。どうやら意外と大きなショックを受けているようで、進一はがっくりと肩を落としていた。これにはお燐も苦笑いを浮かべざるを得ない。取り敢えず笑って誤魔化しておいた。

 

「あ、あれ……?」

 

 そこで妖夢がお燐の存在に気づく。顔を真っ赤にしてわたわたと慌てていた彼女だったが、突然口を挟んできたお燐を前に動揺を隠せない様子。確かにさっきまでいなかった人物がいきなり会話に割り込んできたとなると、こんな反応をしてしまうのも無理ないかも知れないが。

 

「えっと、あなたは……?」

「……えっ? あたい?」

 

 こくんっと、妖夢は頷く。この反応、まるでお燐とは初対面であるかのような。

 

「あぁ……。コイツはお燐。俺達を助けてくれたんだよ」

「えっ、あ……そうなんですか!? す、すいません……お見苦しい所をお見せしてしまって……」

「い、いや……別に気にしなくてもいいよー」

 

 ちぐはぐな妖夢の反応を目の当たりにして、お燐は直感する。

 

(あたいを知らない……? と言うことは、少なくともお空が調子に乗る前の時代から連れて来られたのかな……?)

 

 まだお燐と出会っていなのならば、彼女は地上と地底との不可侵条約がまだ厳しかった頃の妖夢であると推測できる。なんだか友人に自分の事を忘れられてしまったみたいでちょっぴりショックだったが、しかしこれは好都合である。却って妖夢にもお燐を人間の少女だと思い込ませていた方が、色々と都合が良さそうだ。

 気を取り直して。

 

「あたいは火焔猫燐。気軽にお燐って呼んでくれていいよ」

「は、はい……。魂魄妖夢です。よろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げる妖夢。他人行儀で堅苦しい。

 本当に、彼女はお燐の事を知らない。

 

(この様子だと、自分が過去から連れてこられてた事にも気づいていないのかな?)

 

 だとすれば、それはそれで勘違いさせたままの方が良いかも知れない。何せ子供の姿の妖夢がこの時代にいる時点でとんでもないイレギュラーなのだ。少なくとも、お燐の口から妙な情報を提示するべきではない。

 とにもかくにも、あくまでお燐は妖夢と初対面で、火車でも何でもないこちらの世界の女の子。その体で話を進める事にする。

 

「……そうだ、妖夢。俺が意識を失っている間、何があったのか教えてくれないか? なぜ倒れてたんだ?」

 

 お燐が一人心を決めている横で、思い出したかのように進一が尋ねる。

 

「進一さんが意識を失っている間……ですか」

「ああ。いや、なんとなく何かしらを覚えているような気がしなくもないんだが……どうにも曖昧でな」

 

 そこで妖夢の表情に影が落ちる。痛い所をつかれた、聞かれたくない事を聞かれてしまった。口をつぐむ彼女から伝わってくるのは、そんな気持ち。

 進一が眠っている間、妖夢に何があったのか。一部始終は見ていないが、お燐には何となく分かる。

 

(剣を打ち合って……。多分、手も足もでなかったんだろうなぁ……)

 

 どんな煽りを受けて彼女が剣を振るう事になったのかは分からないが、あの様子では完膚なきまでに叩き潰されたのだろう。

 妖夢はどちらかと言えば大人しくて控えめな性格だが、それでも一人の剣士としての確固たる矜持がある。彼女にとって剣術とは生き甲斐とも言える要素であり、それは自意識を確立する上で大きな影響を与えている。謙虚な彼女は自らの未熟さを認めているようだが、“半人前”というステータスにコンプレックスを抱いている事は確実である。故に日々の剣術鍛錬を欠かす事はないし、一刻も早く一人前の剣士にまで登り詰めたいと、そう思っているはずだ。

 その為に、彼女は努力を続けていたのに。

 

「……妖夢?」

 

 何も言わなくなった妖夢を見て、不安気な声で進一が声をかける。

 三度笠の女性剣士に大敗した彼女は。

 

「……ちょっと、負けちゃって」

 

 顔を上げた妖夢が進一に向けた表情は、取り繕った笑顔だった。

 

「負けた?」

「ええ。三度笠を被った人と戦って、それで……力が、及ばなくて……」

 

 彼女はうわべを飾ろうとしている。進一に妙な気を遣わせたくない、心配をかけたくないと。そう思っているに違いない。

 生真面目でお人好しな彼女らしいと言えばそうなのだが、寧ろ逆効果なんじゃないかなとお燐は思う。とにかく妖夢は嘘や誤魔化しが下手な少女なのだ。幾ら気丈に振舞おうとしても、無理を隠し切れていない。

 

「妖夢、お前……」

「でも進一さんが無事で良かったです。本当に心配したんですよ? メリーさんからいなくなったって話を聞いて、それから……」

 

 進一の言葉に割って入るように、妖夢は続ける。

 どうやら相当参っているようだ。彼女はこうして気丈に振る舞いつつも、あの大敗を完全に受けれられずにいる。いや、そもそも未だに状況の整理が追いついていないのだろうか。

 妖夢の身体が震えている。でもそれはきっと、雪や冷風によって身体が冷え切ってしまった所為ではない。恐怖心。それにも似た感情を、彼女は抱いている。

 

(ちょっと……やり過ぎなんじゃ……)

 

 幾らなんでも、ここまで完膚なきまでに叩き潰す必要があったのだろうか。今の妖夢は、自分の剣術への自信を完全に失ってしまっている。こんな状態で鍛錬を続けた所で、これ以上強くなるとは到底思えない。

 これじゃあ、本末転倒も甚だしいじゃないか。一体、なんの為に彼女に剣を振るわせたのか――。

 

「……ねぇ、妖夢」

 

 このまま何もせずに放っておくなんて出来る訳がない。お燐にだって、気の利いた言葉の一つや二つくらい掛けられるはずだ。

 そう思い、彼女は口を開こうとする。

 

「えっと、その、あたい……」

 

 しかし。お燐のそんな試みは、突然の闖入者によって遮らえる事となる。

 

「し、進一……?」

 

 耳に流れ込んでくるのは女性の声。反射的に顔を向けると、そこにいたのは一人の女性。

 全身真っ赤な女性である。腰に届く長い髪も赤、瞳の色も赤、そしてブラウスの上に羽織るブレザーと丈の長いスカートも赤。随分と特徴的な服装をした女性だ。一度見たら嫌でも記憶に刻み込まれる事だろう。

 と、そこまで考えた所で。お燐の脳裏に微かな記憶が蘇る。

 

(……あれ? あのお姉さん、どこかで見た事があるような……)

 

 どこで見たんだっけ。本当につい最近、ちらっと見かけたことがあるような、ないような。

 お燐が自分の記憶を探り始めた、丁度その時だった。

 

「進一っ!!」

「……えっ? なっ、うおっ!?」

 

 その女性が突然、進一に()()()()()()。いや、と言うよりも抱きついた。あまりにも唐突な女性の行動に進一も反応する事が出来ず、そのまま押し倒されるような形で倒れ込んでしまう。ドサりと、鈍い音が響く。硬いアスファルトの地面が進一の腰に直撃である。

 

「……へっ?」

 

 当然、お燐は茫然とする事になる。

 

(えっ、ちょっ、何この大胆なお姉さん!? いきなり進一に抱きつくなんて……!?)

 

 お燐からしてみれば不審極まりない人物である。何者なんだ、この人物は。一体進一の何なのだろうか。

 

「ほ、本当に……? 本当に進一なの……!? ねぇ、私の事が分かる!? 進一ッ!」

「ぐはっ……待て、死ぬ……! ね、姉さんだろ……!? 取り敢えず退いてくれ……!」

 

 姉弟だった。

 顔を真っ青にした進一がタップアウトよろしく女性の背中を叩いているが、当の彼女は離れる素振りすら見せない。仲が良いのか何なのかは分からないが、進一からしてみれば溜まったもんじゃないだろう。腰を強打した上に抱きしめ(締め付け)られてしまっては、いくら彼でもノックアウトである。

 

「私がッ……! 私がどれだけ心配したか分かってるの!? ねぇちょっと! 何とか言いなさいよ進一!!」

「ぐぇ……」

 

 意識が飛びかけている進一に対し、今度は両肩を掴んで激しくシェイクだ。傍から見ればとどめを刺そうとしているようにしか思えない。なんと鬼畜な。

 

「ちょっ、お、落ち着いて下さい夢美さん! 進一さん本当に死んじゃいますよ!? 」

「……へ? あれ? なんで妖夢がここに……?」

「そ、そんな事より! 進一さんをよく見てくださいってば!」

「えっ? あっ……。し、進一……? 進一ぃ!?」

 

 ピクピクと痙攣する進一を見て再び大慌て。夢美と呼ばれたそんな女性を目の当たりにして、お燐は完全に言葉を失っていた。

 良くも悪くも雰囲気をぶち壊された気分である。突如として現れた台風が場の何もかもをかっさらって行ってしまった。お燐も妖夢へ言葉を投げかけるタイミングを完全に失ってしまう。茫然自失と立ち竦む彼女は、ただ表情を引きつらせる事しか出来ない。

 

「ったく。夢美様は相変わらずはっちゃけ過ぎだぜ」

「!?」

 

 突然横からそんな声が聞こえて、お燐は思わず飛び上がってしまう。どうやら茫然自失としていた所為で、彼女が歩み寄って来るのに全く気づかなかったらしい。呆れ顔を浮かべるのは、金色の髪をツインテールとしてまとめた小柄な女性。

 

「こうなると本当に加減が効かなくなるんだよなぁ。いつまで経っても子供っぽいというか何というか……。なぁ、お前もそう思うだろ?」

「へっ? そ、そうかな……?」

 

 いきなり話題を振られた。しどろもどろになりながらも、お燐は一応それに答える。

 と言うか、彼女は一体何者なのだろう。この様子から察するに、進一や夢美とも知り合いのようだが――。

 そんな彼女はお燐の姿を見るや否や、きょとんとした表情を浮かべる。訝しげに首を傾げつつも腕を組み、何やら考え事を始めた様子。やがて観念するかのように肩の力を抜くと、

 

「……あれ? お前誰だ?」

 

 いや、それはこっちの台詞だって。

 

 

 ***

 

 

「マジで死ぬかと思った」

 

 主に腹部を擦りながらも、進一がそう呟く。未だに顔色は悪いままで、肩で息をしながらもぜぇぜぇと不安定な呼吸を繰り返している。

 大人の女性による突進攻撃からの腹部締め付けである。いくら進一でも、その連続コンボに耐えられる程の耐久力は持ち合わせていなかったようだ。意識が飛びはしなかったものの、理不尽なダメージを無駄に負った事は確実だろう。

 

「あの、大丈夫ですか……?」

 

 そう口にしながらも、妖夢は進一の背中をさする。当の進一は溜息をついて、ちらりと夢美を一瞥。

 

「……大丈夫じゃない」

「へっ!? だ、大丈夫じゃないの!?」

 

 途端に夢美が狼狽する。今の進一の口調はあからさまに夢美をからかっているような調子だったのだが、彼女の反応は深刻である。今の夢美に冗談は通用しない。

 

「う、嘘っ……やっぱり、私の所為で……!? ど、どどどどうしようちゆり!?」

「ま、まぁ落ち着けって夢美様……。こ、こういうのって、……よ、よくある、事、だろ……? くくっ」

「ちょ、何笑ってんのよあんたは!?」

 

 完全に夢美の反応を面白がっているちゆりは、そろそろ笑いを堪えるのに限界が到来しそうだ。口元を押さえて頻りに失笑を我慢するちゆりと、わたわたと狼狽しつつもムキになる夢美。つくづく教授と助手の関係には見えない。

 

「と、取り敢えず、そんな事は置いといて……」

「そんな事!? 今そんな事って言った!? ねぇ!」

「えっと……お燐、だっけ? お前が進一達を助けてくれたんだって?」

「ちょっと!? 無視なのちゆり!?」

 

 ギャーギャーと喚く夢美を悠々とスルーしながらも。ちゆりは未だに唖然としているお燐へと声をかける。夢美達の勢いに少々押され気味のお燐だったが、そう声をかけられた途端、彼女は謙虚な反応を見せた。

 

「い、いや……。助けたと言っても、本当にちょっと通りかかっただけで……」

「でもお前が通りかからなかったら、私達は未だに街中を走り回っていたかも知れない。お前のお陰で、こうして進一達と再会する事ができたんだ」

「で、でも、あたいは……」

「そんなに縮こまるなって。私達はお前に感謝してるんだぜ。ありがとな、お燐」

 

 ニッと、ちゆりは人の良い笑顔を浮かべるが、お燐が見せるのはどうにも申し訳なさそうな表情だ。本当に、随分と謙虚な反応である。何をそんなに遠慮しているのだろう。

 まぁ、夢美達のインパクトに気圧されているだけなのかも知れないが――。

 

「あの……ところで、蓮子さん達は大丈夫なんでしょうか……? 私もつい飛び出してきちゃったんですけど……」

 

 取り敢えずこのままじゃ話が進まないので、妖夢の方からそう切り出してみる事にする。

 蓮子達を危険に晒したくないと、そう思って一人で飛び出して来た妖夢だったが、思えばあれからだいぶ時間が経過してしまっている。妖夢はスマートフォンのような連絡手段を持っていないし、彼女達に酷い心配をかけてしまっているのではないかと。

 そう思ったのだが。

 

「ああ。それならちょっと前に私が連絡しておいたぜ。進一だけじゃなくて、妖夢とも合流できたってな」

「そ、それじゃあ……」

「でも早いところ帰って顔を見せてやった方が良いかもな。随分と心配をかけちゃったみたいだし……」

 

 そう口にするちゆりが浮かべるのは、流石にバツが悪そうな表情である。一人で突っ走ろうとする夢美をサポートする為だったとは言え、あんな風に蓮子達を置いて来てしまって、ちゆりも罪悪感を覚えているらしい。

 

「……ごめん。俺の所為、だよな……」

「いや、進一の所為じゃないだろ。色々と聞きたい事情はあるが……。でもまぁ、とにもかくにも、今は家に帰る事を優先すべきだな」

 

 「雪も降ってきたし……」とちゆりは付け加える。確かに彼女の言う通り、ここであれこれ立ち話をする前に今は一度帰るべきだろう。このまま蓮子達にいらぬ心配をかけ続けるのは心苦しいし、早い所帰路に就いた方が良いかも知れない。

 

「それに、進一はともかく妖夢を病院に連れて行った方が良さそうだしな」

「……へ? 私をですか?」

「ああ。何があったのか知らないけど、怪我してるみたいじゃないか。まぁ、パッと見た感じ擦り傷みたいなものが多いみたいだが」

 

 妖夢は自分の身体を確認する。身に纏う服は土埃などですっかり汚れてしまっているが、怪我は本当に大した事がない。精々軽い打撲の跡と、そして細かな切傷くらいか。多少血が滲む箇所も確認できるが、それ程酷い怪我じゃない。

 

(あの人と……剣を打ちあったのに……)

 

 自分の身体の調子から察するに、三度笠を被ったあの女性は端から妖夢を痛めつけるつもりはなかったようだ。特に最後の一撃だって、見た目のインパクトこそ凄まじかったものの明らかに手を抜いていた。そうでなければ妖夢は今頃八つ裂きになっている。

 妖夢は息を呑み込みながらも、拳を握る。

 

(手加減されてたのに……)

 

 大敗に喫した。妖夢の信じる剣術が、まるで彼女には届かなかった。

 半人前から脱却したくて。西行寺幽々子に仕える身として、一刻も早く主を守れるような剣士になりたくて。毎日毎日必死になって鍛錬を続けていたのに。あの女性は、まるでそんな努力を踏み躙るかのように、一方的に妖夢を下した。

 

(これじゃあ、私は……)

 

 一体、何の為に剣の稽古を続けていたのだろう。今回は良かったものの、もしも彼女達が本当に凶悪な存在だったのなら。妖夢も進一も今頃殺されていたかも知れない。

 確かに運良く助かった。助かったのだけれども。

 

(守れなかった……)

 

 進一を、助け出す事はできなかった。彼を助け出す事すらできぬ程に、妖夢はちっぽけだった。

 妖夢は口をつぐむ。大敗を経験した彼女がその胸中に真っ先に抱くのは、闘志や屈辱などではない。

 どうしようもない劣等感。自信喪失。虚脱状態にすら陥りそうになってしまう。自らの無力さを否応なしに突きつけられた、今の妖夢は――。

 

「お、おい妖夢、大丈夫か? やっぱりどこか痛むのか?」

 

 ちゆりに声をかけられて、妖夢は我に帰る。俯いた妖夢が顔を上げると、不安気な表情のちゆりが妖夢の様子を伺っている。

 いけない。これ以上、ちゆり達に迷惑をかける訳にはいかない。これは妖夢の問題だ。彼女達の手を煩わせる必要はない。

 

「いえ……大丈夫ですっ!」

 

 そうだ。これも全部、あまりにも未熟過ぎた妖夢が悪い。進一も、夢美達も関係ない。

 

「私の事ならお構い無く。それより、ちゆりさんの言う通り早く帰った方が良さそうですよ。いつまでも傘も差さずに、こんな雪の中にいては風邪を引いてしまいますからね」

 

 妖夢は無理矢理笑顔を浮かべる。

 

「そうですよね? ちゆりさん」

「えっ……? お、おう。そうだな」

 

 ちゆりは戸惑いを見せるが、それ以上妖夢を追及する事はなかった。それよりもいじける夢美を何とかすべきだと考えたようで、踵を返した彼女は意識の対象を妖夢から移す。

 

「ほら、夢美様。いつまでもいじけてないで行くぞ」

「べ、別にいじけてなんかないわよ……」

 

 これでいい。劣等感など噯気にも出さず、つつがなく事が進む。

 だからこれからも、いつも通りに。妖夢は冥界への帰り道を探すだけだ。

 

「妖夢……」

 

 そんな彼女達の影で。進一が怪訝そうな瞳を向けていた事を、妖夢は知らない。

 

 

 ***

 

 

 雪が降る。まるで周囲を彩るかのように。街の光を反射して、音も立てずにふわりと舞う。ほのかに光る粉雪が、宙で融解を続けながらも優しく降り注ぐ。

 そんな雪景色によって変貌しつつある街並みを、蓮子は見つめている。玄関から外に出て、身体が冷え込む事も厭わずに。メリーと共に、ただ待ち続ける。

 

「あっ……」

 

 雪の中、人影が見えた。粉雪に覆われる視界。しかしそれでもはっきりと分かる、複数人の影。

 彼を。彼らの姿を認識した途端、宇佐見蓮子の表情は綻ぶ。

 

「メリー!」

 

 屈託のない笑顔を浮かべた蓮子がメリーに飛びつく。無邪気な蓮子と対照的にメリーはやや困惑気味だったが、やがて彼女も状況をジワジワと理解してきたらしい。瞳をうるわせた彼女もまた、抱く思いが溢れるかのようにその表情を綻ばせる。

 

「ほら、私の言った通りでしょ? 絶対に、帰ってくるって」

 

 息を詰まらせたメリーは、それでも力強く頷いて。

 

「……うんっ!」

 

 メリーの手を引いて、蓮子は駆け出す。

 ふわりと舞い散る粉雪が、優しく祝福してくれているような気がした。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。