桜花妖々録   作:秋風とも

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第16話「半分幽霊のお姉ちゃん」

 

 楼観剣は妖怪が鍛えたとされる名刀である。

 その形状は所謂日本刀そのもので、桜の花が描かれた黒い柄から、やや湾曲した銀色の刃が伸びている。くすみのない銀色の刀身からは金属のしなやかさが見て取れるが、ただ単に鉄を素材として鍛え上げた剣ではない。妖怪が鍛えたなどと謳われるだけあって普通の人間では決して真似できない工程を幾つも通過しており、素材以上の強度と斬れ味を実現しているらしい。その殺傷力は一振りで幽霊十匹分。斬れぬ物などあんまりないなどと言われているが、あまりにも表現が抽象的過ぎて実際には不明瞭である。

 また、楼観剣は普通の人間には扱う事の出来ない剣とも言われている。そう言われる最も大きな原因は、妖怪が鍛えた剣であるが故に剣その物に強い妖力が篭められている為であり、つまり普通の人間ではその妖力に呑み込まれてしまう危険性がある為である。ただ、“普通の人間には扱えない”と言う部分だけが一人歩きして、やれ刀身が長すぎるだとか、やれとんでもない重量を持っているのだとか、そんな誤解が広まってしまっているようだが。

 

 ところで、楼観剣の所有者である魂魄妖夢は半人半霊である。半分は確かに人外なのだが、その半分は紛れもなく人間だ。しかも彼女はまだ未熟。楼観剣の妖力に呑み込まれる事はなくとも、それを自在に扱うとなると話は別だ。剣の妖力に振り回され、まともに振るう事すらできない。そんな状況に陥る可能性も十分に有り得るはず。

 しかし、どうだろう。魂魄妖夢はまるで自分の手足のように楼観剣を自在に扱っている。妖力に呑み込まれる事は疎か、振り回されるような事もない。完全に、楼観剣との()()に成功している。

 

 半人半霊の半人前。そんな妖夢が、なぜ楼観剣をここまで自在に扱えているのか。それは彼女の持つ『能力』に起因する。

 『剣術を扱う程度の能力』。ありとあらゆる『剣』を自然とその身に受け入れ、数々の『剣術』を扱う事が出来る能力。理論上、例えどんな曰くや前後経緯がある剣であろうと無関係に扱う事が出来る能力であり、人間離れした剣術を操る事も出来る異能である。

 半霊を失い、大きく弱体化してしまった妖夢でも。形だけではあるが、『桜花閃々』や『閃々散華』と言った剣術を使う事が出来たのもこの能力があってこそ。妖夢は間違いなく剣術の才を有しており、類い稀ない太刀筋を持つ最強の剣士と成り得るポテンシャルを秘めている。

 

 しかし――。

 

 

 ***

 

 

 閃光。それと同時に地が抉れるような轟音が鳴り響き、足元がぐらぐらと揺れる。取り壊し予定の廃ビルである為、建付けがあまりよくないのだろうか。強い衝撃を受けてビル全体が小刻みに振動しているようで、足元のこの揺れもそれが原因である。

 

 三度笠の女性剣士が放った剣術――断迷剣『迷津慈航斬』。今の眩い閃光は、この剣術によるものだ。妖夢に対し圧倒的な実力差を見せつけておきながら、それでも尚容赦ない。

 

「ちょ……!?」

 

 彼女達の剣の打ち合いをただ傍観していたこいしでさえ、思わず目を逸らしてしまう程の鋭い光。どう見ても渾身の一撃である。彼女は加減と言うものを知らないのだろうか。

 程なくしてその光が収まると、そこに見えたのは力なく横たわる一人の少女の影。砂埃が舞い散る中、ぐったりと倒れ込んだ彼女は完全に意識を失っている。こいしの能力を潜り抜けてこの廃ビルまで辿り着き、果敢にも一人で立ち向かってきた魂魄妖夢が、三度笠の女性剣士に敗北する瞬間だった。

 

「随分と派手にやったね……」

「…………」

 

 戦いが終わって。こいしが三度笠の女性剣士へと歩みよりつつもそう零すが、当の彼女は何も言わずに剣を鞘へと戻している。カチャンッ、と音を立てて剣を仕舞った後、三度笠を深く被り直しながらも彼女は視線を足元へと向ける。彼女の瞳が捉えているのは、『迷津慈航斬』をまともに受けて意識を失った魂魄妖夢の姿である。

 

「えっと……大丈夫、なんだよね?」

「ええ。何ら問題ありません。峰打ちですので」

「み、峰打ちって……」

 

 あれは、峰打ちだったのだろうか。霊力の塊でぶった斬ったようにしか見えなかったのだが。

 

「加減は心得ています。この程度でどうこうなる程、ヤワな鍛え方はしていませんよ」

「ふぅん……」

「……それに」

 

 そこで彼女は、妖夢から視線を逸らす。

 

「この敗北が彼女を強くするはずです。どうしようもないような劣等感と、やり切れない屈辱感。彼女を成長させるのには、そんな感情を抱かせるのが手っ取り早い」

 

 淡々と、彼女はそう口にする。あまりにも淡白で、無機質な声色。まるで感情そのものを、押しつぶしているようにも見える。しかし幾ら取り繕っても、胸中に抱く思いその物を完全に隠し通す事なんて出来やしない。深く被った三度笠から覗かせる彼女の瞳は、無感情とは程遠い。

 

「へぇ……。良く分かってるんだねー」

 

 そんな女性の表情を覗き見ながらも、こいしはニヤリと笑う。

 

「その様子だと、手応えはあったって事なのかな?」

「……どうでしょうか」

 

 すると女性は歩を進める。コツコツと音を立てて、フェンスが備え付けられたビルの縁まで移動した後に眼下に広がる街並みへと視線を泳がした。

 一息、

 

「少なくとも、今のままではあまりにも力不足です。これでは何も変わらない」

 

 ガシャンと、彼女は片手でフェンスの網を掴む。吐き捨てるようにそう口にする彼女の後ろ姿を見ただけでも、抱く気持ちは十分に伝わってきた。

 

(厳しいねー……)

 

 彼女はどこまでも生真面目で、かつ厳格だ。妖夢の剣術を心のどこかで認めてはいるものの、未熟な部分を許せずにいる。

 剣にあまり詳しくないこいしからして見れば、妖夢の剣術は常人のそれを遥かに凌駕しているように思える。あのしなやかさと鋭さを同時に併せ持つ剣術は、誰でも真似出来るような芸当じゃないだろう。剣伎も、断霊剣も、桜花剣も。唯一無二の、彼女だけの剣術。

 けれども。だからこそ、三度笠を被ったこの女性にしか分からない事がある。これはあくまで彼女だけの問題で、剣をまともに扱った事すらないこいしが不用意に口を挟むべき事柄じゃない。それは分かっている。

 

「まぁ……貴方が何を考えていて、何をしようとしていたのか。それはなんとなく分かったよ」

 

 彼女が妖夢に何を見出し、何の為に剣を振るったのかも。こいしにだって、何となく理解できる。理解できるのだけれど。

 

「でも……。でもさ……」

 

 こいしにだって、色々と言いたい事がある。

 

「やるならその前に少しくらい相談してくれても良いじゃん! 誤魔化す私の身にもなってよ!」

「……えっ?」

 

 ぷるぷると身体を震わせていたこいしが、まるでタガが外れたかのようにいきり立つ。つんのめりそうな勢いで食い気味に迫るこいしの様子は、冗談でもおふざけでもなく完全にマジである。

 怒りの矛先を向けられた三度笠の女性は一瞬きょとんとしていたが、程なくして批難の原因を理解したらしく、

 

「い、いえ、それは……。も、申し訳なかったと思ってますよ……?」

「ホントにぃ?」

 

 サッと目を逸らす辺り、ますます怪しい所である。本当に分かっているのだろうか。

 常識の範疇から大きく逸脱したあんな剣の打ち合いを、こちらの世界の住民に認識されてしまうのは少々問題である。特に『迷津慈航斬』なんて、モロに霊力の塊じゃないか。あんなものが突然ビルの屋上に現れたとなると、街中はたちまちパニックに陥ってしまう。

 そんな混乱を事前に回避させるのはこいしの役割なのである。『無意識を操る程度の能力』を使い、部外者の意識が極力このビルへと向かないようにする必要があるのだが――。ただ単に人の無意識を操るだけなら造作もないのだけれども、あそこまで強大な霊力を誤魔化すとなると話は別だ。

 

「あのさぁ……。私が疲労を溜め込んでるって、そう指摘してくれたのは貴方だよね? それなのに何あれ? なんの躊躇もなく霊力なんてぶっぱなしちゃってさ!」

「で、ですから、謝ってるじゃないですか。そもそも、あの時は悠長に相談する暇なんてありませんでしたよ? 彼女に私達の事情を話す訳にもいきませんでしたし……」

「あー! やっぱり何も分かってない! 私が言いたのは、何でもかんでも自己解決しようとしないでって事だよ! やるならやるって、一言いってくれるだけでも良かったのに!」

「うっ……」

 

 ブンブンと両手を振りながらも不平を吐き出すこいし。三度笠の女性はぐうの音も出ない様子だった。

 何と言うか、彼女は少し独断で突っ走ろうとする傾向が強すぎる。たまには少し立ち止まって、一度周囲を見渡してくれれば良いのだが。まぁ、彼女の悪い癖の一つである。

 

「ふんっだ! もう知らない!」

「そ、そんな、機嫌を直して下さいよ」

 

 鼻を鳴らしながらもこいしがプイッと目を逸らすと、おずおずといった様子で女性が宥めようとしてくる。しかし今回ばかりはこいしも堪忍袋の緒が切れた。ちょっと宥められただけで、そう簡単に引き下がるつもりはない。意固地になる事を決め込んだこいしは、慰撫するような女性の声を耳に入れずに受け流してゆく。彼女は困ったように人差し指で頬を掻いていたが、そんな事はお構いなしだ。

 

「あ、あの……」

「…………」

「こ、こいしさーん……?」

「……ふんっ」

「意外と頑固ですね、貴方……」

 

 無視、である。相も変わらずヘソを曲げたままで、こいしは三度笠の女性を視界の外へと追いやった。

 それから暫く女性はこいしの機嫌を直そうとしていたが、当の彼女は一向に不貞腐れたままである。流石の女性もそろそろ成す術がなくなってきたようで、徐々に言葉の数も減ってきた。

 

 困窮する三度笠の女性と、意地を張り続ける古明地こいし。女性の言葉数が減ってきた事で必然的に静寂の時間が増えてゆき、ピリピリとした雰囲気が周囲に漂い始める。

 しかし。意地っ張りなこいしの静かな反抗は、意外な形で終わりを迎える事となる。

 

「こいし様ぁ!」

 

 バタバタと忙しない足音とともに流れ込んできたのは、どこか聞き覚えのある声。弾かれるように顔を向けると、階下から駆け上がってきたのはやはり見覚えのある少女。

 

「み、見つけた……。ようやく、見つけましたよ!」

 

 赤髪のおさげに、黒いゴスロリファッション。そして猫のような耳に、二又に分かれた黒い尻尾。こんな印象的な特徴を幾つも持つ少女など、こいしの記憶の中には彼女以外他にいない。

 

「えっ……、お、お燐!? どうして……!?」

 

 火焔猫燐。こいしの姉が飼っているペットの一人。彼女に間違いなかった。

 こいしは思わず驚倒する。幻想郷の外の世界の、しかもこんな廃ビルの屋上に彼女が現れるなど、どうして想像できよう。だって彼女は姉のペットで、火車という妖怪で。こっちの世界の住民などでは決してないはずなのに。

 ひょっとして、幻覚でも見ているのだろうか。能力の使い過ぎでだいぶ疲労も溜まってきているみたいだし、その可能性も有り得るかも知れない。

 

「どうしてって……こいし様を捜しに来たに決まってるじゃないですか!」

 

 でも。目の前で息を切らしているこの少女は、どう見ても幻覚などには思えなくて。何より三度笠の女性も、彼女をしっかり認識出来ているようだから。

 本当に、火焔猫燐という少女が、目の前に現れたのだと。こいしは受け入れざるを得なかった。

 

「よ、よく博麗大結界を越えられたね……」

「無理言って開けて貰ったんですよ! こいし様が外の世界に出て行ったって話を風の便りで聞いて……それで慌てて追いかけて来たんです!」

「へ、へぇ……」

 

 こいしとしてはこっそり出て行ったつもりだったのだが――。

 博麗大結界と言えば精神を持つものに作用する論理的な結界であるが、『無意識を操る程度の能力』を持つこいしにとってそんな効力は意味をなさない。能力を使って自らを無意識の状況下に立たせる事で、結界に穴を開ける事なく簡単に通過する事が出来るのだ。

 しかし、流石は幻想郷全土を守護する大結界である。結界の通過を許してしまっても、その痕跡はしっかりと捉えていたらしい。

 

 それにしても、こいしを追いかける為とは言え、よくお燐の通過を許したものだ。あの結界の管理者は、一体何を考えているのだろう。

 それに。

 

「でも、どうして私がここにいるって分かったの? 一応、能力使ってたはずなんだけど」

「ええ。お陰でかなり手間取りましたよ……。でも偶々……本ッ当に偶々、このビル周辺で意識の揺らぎを感知する事が出来たんです。それで慌てて駆けつけてみたら、ビンゴだったって訳です」

「……な、成る程」

 

 妖夢も似たような理由でこの廃ビルまで辿り着けた訳だが、今回は少し事情が違う。お燐が意識の揺らぎを感知できた原因、その心当たりがこいしにはある。

 おそらく、三度笠の女性が『迷津慈航斬』を放った時だろう。膨れ上がる霊力を見てこいしは慌てて周囲の意識を強く捻じ曲げたのだが、それはあくまで急拵えのその場凌ぎである。慌てて霊力を誤魔化そうと必死になった結果、廃ビル全体を覆っていたこいしの『能力』に綻びが生じた。その結果、偶々付近を通りかかったお燐にこいしの存在を察知されてしまった、と。

 

 つまるところ。だいたい三度笠を被ったあの女性が悪い。

 こいしはもう一度彼女を睨みつけておいた。

 

「あ、あれ? どうして貴方がこいし様と一緒に……?」

 

 そこで女性に気がついたお燐が、首を傾げながらもそんな質問を投げかける。当の彼女はこいしの視線に対して居心地が悪そうに顔を背けながらも、

 

「然して特別な理由がある訳ではありませんよ。ただ、こっちの世界に足を運ぶ為にこいしさんの能力が必要だったので……。それで少し力を貸して貰おうと」

「えっ……そ、それって貴方がこいし様を連れ出したって事!?」

「……そう言う事になりますかね」

「ひ、酷いよ! そんな勝手な事されちゃ……!」

「ちょっと待ってよお燐! 別にこの人に頼まれたからじゃない! 私は私の意思でこっちの世界に来んだから!」

 

 いきり立ちそうになるお燐を宥める為に、こいしは間に割って入る。確かにこちらの世界に来るキッカケとなったのはこの女性の提案だが、何も流されるままに足を運んだのではない。

 こいしにだって、ちゃんとした意思がある。いつまでも子供扱いされるのは御免だ。

 

「意思って……。こいし様、何をするつもりなんですか?」

「そんなの、決まってるじゃん」

 

 愚問である。この状況で成すべき事なんて一つしかない。

 

「この『異変』を解決するんだよ」

 

 

 ***

 

 

 火焔猫燐の目的は古明地こいしを連れ戻す事である。

 こいしは元々ふらふらと放浪する癖があったのだが、今回ばかりは流石に許容できない。地上の幻想郷ならまだしも、博麗大結界を超えて外の世界にまで足を運んでしまうなんて。

 確かに『無意識を操る程度の能力』を使えば容易い事である。周囲の人間に認識されなく行動する事だって可能だろうし、妙な混乱を避ける事だって朝飯前だろう。

 しかし、もしもの事だってあるはずだ。周囲の意識を意図的に大きく捻じ曲げたりと、ある程度は順応し始めてはいるようだが、それでもその能力を完全に使い熟せている訳ではない。彼女の放浪癖だって、この能力による弊害の一つである。能力に振り回されて、無意識の内にとんでもない事をしでかしてしまったら――。想像もしたくない。

 

 しかもそんなリスクを背負ってまで彼女が結界を越えた理由は。

 

「この『異変』を解決するんだよ」

 

 あまりにも無謀とも言える内容だった。

 

「い、異変の解決って……」

 

 お燐は息を呑む。流石に予想も出来なかった返答である。

 古明地こいしは覚妖怪でありながら、そのアイデンティティーとも言える『心を読む』という能力を放棄してしまった少女だ。それは偏に彼女の性格そのものが起因する。

 古明地こいしは誰よりも臆病だった。誰かに畏怖の念を抱かれ、忌避される事を誰よりも恐れた。拒絶されたくなかった。それ故に、周囲から忌み嫌われる『心を読む能力』を誰よりも嫌った。

 だから彼女は自らの能力を封じた。読心を司る第三の眼を閉じ、それと同時に心を閉ざした。

 自己防衛本能だったのかも知れない。だから彼女は心を閉ざし、不干渉を徹している。下手に干渉しなければ、これ以上嫌われる事もないから。他人に意識されなければ、そもそも拒絶される事もないから。そんな彼女の悟りが、『無意識を操る程度の能力』を生み出した。

 

 そのはずだったのに。

 

「それはこいし様の役割じゃないはずです! どうしてそんな事を……!」

「そんなの……! 役割だとかそうじゃないとか、そんな事は関係ない!」

 

 どうして。彼女はこうも強い意思を持って、行動を起こしているのだろう。

 

「私は……!」

 

 いや。それは分かりきっている事じゃないか。心を閉ざしたはずの彼女が、皮肉にも心を開かざるを得なくなった理由。

 ()()()。あの出来事が、全ての原因。

 

「お姉ちゃんを、助けたいの……!」

 

 古明地こいしの圧倒的な気迫に、お燐は気圧されてしまった。

 喉まで出かけた言葉が詰まる。声を発する事さえも困難になって、お燐は生唾を飲み下す事しか出来なくなる。今のこいしの声色は、心を閉ざした少女のそれなどではない。

 お燐はこいしと目を合わせてみる。翡翠色のその瞳は、強い芯が通っている程に真っ直で。

 

「助けるって……」

 

 こいしの気迫を振り払って。やっとの思いで、お燐は口を開く。

 

「一体、どうするつもりなんですか……?」

 

 そこでこいしは視線を逸らす。彼女の瞳が示す先は、三度笠を被った女性の足元。つられるように視線を向け、そこに倒れる一人の少女を認識した途端。お燐は驚倒する事となる。

 

「なっ……!?」

 

 短めに切り揃えられた白銀の髪。雪のように真っ白な肌。そしてその傍らに無造作に転がっている、二本の剣。

 見覚えのある少女。お燐の記憶の中にもしっかりと刻み込まれている姿。けれどもどこかがおかしい。それはあまりにも不合理で、そしてあまりにもイレギュラー。

 

「ど、どうして……!」

 

 だって、おかしいじゃないか。この少女は――。

 

「どうして……()()()()に、子供の姿の妖夢がいるの……!?」

 

 人間は自分の許容量を大きく上回るような信じ難い出来事を前にした時、頭の中が真っ白になる事がある。それは明確な知能を持った妖怪でも例外ではなく、今現在のお燐がまさにその状態だ。

 目の前で倒れている少女。彼女が魂魄妖夢であると、それは一目瞭然なのだがその程度でお燐は驚きはしない。問題は、彼女の姿形である。

 

 火焔猫燐は幻想郷の地底――かつては地獄として機能していたその場所で生活している。旧地獄であるだけあって大部分が風光明媚とは程遠い荒涼とした大地であり、大量の怨霊が蠢く危険な世界である。当然人間などは住んでおらず、いるのは地上から追いやられた訳あり妖怪ばかりだ。

 そんな荒れ果てた地底世界に存在する唯一の都市、『旧都』。鬼が築いたとされるそこのほぼ中央部分に、一際目を引く白い巨大な洋館がある。灼熱地獄跡の上に建てられたその洋館の名は、『地霊殿』。その館の当主こそ古明地こいしの姉――古明地さとりであり、彼女は同時に火焔猫燐の主人でもある。

 つまるところお燐はさとりのペットという事になるのだが、一般的な人間が考える“ペット”の定義とは少々異なる立場にある。ペットと言うよりも“部下”や“助手”とでも言うべきだろうか。能力を見込まれて、地底の怨霊の管理を閻魔より任された古明地さとり。彼女のサポート役を、お燐は担っているのである。まぁ、怨霊の管理に関してはお燐がほぼ全面的に熟してしまっているのだが。

 

 そんな旧地獄で怨霊の管理をしていたお燐だったが、とある異変をきっかけに地底と地上との不可侵条約が緩くなった事により、彼女も地上の人間や妖怪と交流する機会が多くなった。この少女――魂魄妖夢と出会ったのも、その後の事だ。

 妖夢は厳密に言えば幻想郷の住民ではなく、冥界と呼ばれる死後の世界でとある亡霊の少女に仕える従者である。その少女こそ冥界の管理者であり、『死を操る程度の能力』を持つ天衣無縫の亡霊。西行寺幽々子と言えば、お燐も名前くらいは聞いた事があった。

 

 閻魔より幽霊の管理を任されている亡霊少女。彼女の立ち位置は、お燐の主人のそれと似ている。“閻魔より霊の管理を任されている”という共通点が存在する為、ある意味同業者同士とも言えるかも知れない。

 そんな『管理者』に仕える者同士、お燐と妖夢が意気投合するのにあまり時間は掛からなかった。顔を合わせる機会こそ多くはないものの、気軽に冗談を言い合える間柄であると自負している。――とは言っても、生真面目な妖夢はそもそも冗談があまり得意ではないので、どちらかと言えばお燐が一方的にからかってしまっているようなものなのだが。

 

 何にせよ、お燐にとって妖夢とは地上での友人の一人である。当然、彼女の事はそれなりによく知っているつもりだ。

 妖夢と初めて出会ったのが、今から数十年前。半分人間である妖夢は完全な妖怪であるお燐と比べて肉体的な成長速度が早く、今や彼女の容姿は少女ではなく女性と呼ぶべき程までに成長している。いくら半分人外だとは言え、彼女だっていつまでも子供じゃない。

 そう、この時代の魂魄妖夢は既に子供などではない。それなのに、お燐の目の前に子供の姿の彼女が倒れているなど。絶対に、有り得ない事なのである。

 

「他人の空似……? はっ!? それともまさか隠し子とか……!?」

「……そんな訳ないでしょう。紛れもなく、本人ですよ」

 

 頭を抱えるお燐の呟きに答えたのは、三度笠を被った女性。突拍子もないお燐の発想に少々呆れ気味のようだが、正直お燐からしてみればなぜそこまで落ち着いていられるのか不思議なくらいだ。

 いや、そもそも。子供の姿の妖夢本人がこの時代にいるという状況だって、お燐の発想以上に突拍子もない事なのだけれども。

 

「本人って……。ど、どういう事? それに、半霊も見当たらないし……」

「その原因を探るのも私達の目的の一つです」

「と言う事は……貴方にも分からないの!?」

「ええ。ですが……」

 

 そこで彼女はひと呼吸置いて、

 

「おおよその目星はついています。おそらく偶発的に迷い込んでしまった訳じゃない」

「それって……誰かが妖夢をこの時代に連れてきたって事? でも、一体誰が……」

「アイツだよ」

 

 そこで口を挟んできたのはこいしである。

 倒れた妖夢に視線を向けたままの彼女は、歯軋りをしつつもその表情を曇らせる。怒りを抑え込むかのように身体を震わせるこいしの眼光は、まるで刃物のように鋭い。

 

「アイツって、まさか……!」

「そう。多分、こっちの世界にいる。何を企んでいるのかは分からないけど、少なくとも何の考えもなしに行動している訳じゃないと思う」

 

 武者震いにも似ている。握る拳にますます力が入り、募る怒りに比例して表情も険しくなってゆく。

 姿形は幼い少女。けれどもその身から滲ませる感情は、その容姿とはあまりにも不釣り合いだ。矛先を向けられている訳でもないのに、お燐の背筋に悪寒が走る。

 

「何を考えているかは分からない。でも何かを知っている事は確実だよ。この異変を、解決する方法だって……」

 

 お燐は息を呑む。

 彼女は。古明地こいしという少女は、無意識にあちこちをフラフラと放浪するだけだったあの頃とは違う。今の彼女は無意識なんかじゃない。明確な意識を持って、こうして行動を起こしている。

 

「この異変を解決して、それでお姉ちゃんを助ける事ができるのなら……私は何だってする」

 

 それは姉である古明地さとりも望んでいた事だったのかもしれない。心を閉ざしたこいしの事を、彼女は誰よりも心配していたから。

 

「アイツがその方法を知ってるのなら」

 

 でも。

 

「私は第三の眼(サードアイ)を使う事さえも厭わない」

 

 違う。何かが、決定的に違う。

 

「こいし、様……!」

 

 だからこそ、火焔猫燐はこいしの前に立ち塞がる。こいしのもとまで歩み寄り、毅然とした眼差しで彼女を見据える。

 確かに今の彼女は無意識ではない。確かに彼女は心を開いた。開いたのだけれども。

 こんなの、絶対にらしくない。こんな結末は望んでいなかった。お燐も、そしておそらくさとりも。

 

「お燐……?」

「……こいし様。そもそもあたいは、こいし様を連れ戻す為に博麗大結界を越えて来たんです」

「連れ戻すって……」

 

 こいしが反論しかけたが、それでも構わずお燐は続ける。

 

「お願いです、こいし様! あたいと一緒に帰りましょう! 危ない事に首を突っ込もうとしているのなら尚更です!」

 

 これ以上、こいしをこちらの世界に居させる訳にはいかない。いくらこいしでも、こちらの世界の住民に覚妖怪の存在が露呈してしまったらどんなトラブルに巻き込まれるか分からない。

 いや、それ以前に。もしもこいし自らが危険に身を投じようと言うのなら、お燐は是が非でも彼女を止めなければならない。こいしの姉のペットとして、お燐には彼女を守る義務がある。

 だからこそ、お燐は必死になってこいしに食らいつく。

 

 でも。

 

「こいし様の身にまで何かあったら、あたい……」

「お燐」

 

 手を取られる。俯いたお燐が顔を上げると、当然視線がこいしのそれとぶつかる。

 お燐の瞳が揺れる。彼女に向けられるこいしの目には、梃子でも動かぬような強い決意が込められていて。高々お燐の言葉では、彼女は決して揺れ動きはしない。

 

「私はまだ帰れない」

「――っ」

 

 それ以上、お燐は反論出来なくなる。

 言葉なんて必要ない。ただ彼女の目を見れば、その決意は嫌というほど伝わってくる。

 彼女は本気だ。決して軽い気持ちで行動を起こしている訳じゃない。その危険性をしっかり理解した上で、こうして外の世界まで足を運んでいる。

 

「お願い、お燐。私を信じて」

 

 覚悟の篭った瞳。そんなものを向けられてしまっては、これ以上反論なんてできない。

 

「大丈夫だよ。私の能力があれば、多少のトラブルなんてどうとでもなる。お燐が不安に思う程、私は弱くないんだから」

 

 そこでこいしは、ふと表情を綻ばせる。それは彼女の無邪気さ故の表情か、それともお燐への気遣いか。しかし憂虞するお燐の心には、その表情はあまりにも強く響く。

 

「それに、何の手掛かりもないって訳じゃないよ。一つはっきりしている事だってある」

「はっきりしている事……ですか?」

 

 こくんっ、とこいしは頷く。何か既に確信を持てているかのような、そんな様子。

 彼女は視線を落としながらも、

 

「この異変を解決する為の鍵」

 

 お燐もつられて視線を落とすと、真っ先に目に入るのは倒れた妖夢の姿。力なく横たわる半人半霊の少女は完全に気を失っているようで、未だに目を覚ます気配はない。

 

「それがこの人だって事」

 

 風が吹いた。突き刺さるような冷風がお燐のおさげを靡かせ、足元に積もった土埃を巻き上げる。顔を上げると、辺りは廃ビルにしても些か散らかり過ぎているような気がする。状況から察するに、派手に暴れまわりでもしたのだろうか。取り壊し予定の廃ビルは、風に吹かれて軋むような嫌な音を立てている。

 一部始終を見ていないお燐には確かな事は分からないが、それでも周囲のこの様子や意識を失っている子供の姿の妖夢を見ただけで、事情は何となく察する事が出来た。

 

「妖夢から、何かを見出せたんですか……?」

「うーん、どうだろ? 実際に戦ったのは私じゃないし……。でも」

 

 そこでこいしはひと呼吸置いて、

 

「――この人は、私の能力を潜り抜けてここまで辿り着いたんだよ。高々一回、ほんのちょっと体験しただけで、この能力の本質を何となく見破ったんだと思う」

「こ、こいし様の能力をですか!? そんな事……!」

「うん、私もびっくりしたよ。でもこれではっきりした」

 

 『無意識を操る程度の能力』を持つこいしの姿を認識し、この廃ビルまで辿り着いてしまうような才能。ある意味、これこそが魂魄妖夢の持つ最大の武器。

 

「あまりにも強すぎる『感受性』……。確かにこの人は、まだ(・・)それを持っているんだよ。だから賭けてみようと思う」

 

 お燐は言葉を失ってしまう。確かに彼女の言う通り、それは異変解決に繋がる重要な要素と成り得るかも知れない。しかし、他人の『感受性』などという不確定なものに頼るのはあまりにも無謀だ。

 まるで一世一代の大博打である。得られる結果は0か100。成功すれば得るものは大きいが、失敗すれば希望は潰える。しかもその成功確率は、気軽にゴーサインを出せる程高い数値じゃない。こんな要素に頼るなど、正気の沙汰とは思えない。

 

 だけれども。古明地こいしは、本気である。

 

「例え可能性が低くても……幾ら縹渺としていても。希望が少しでも残されているのなら、私はそれに賭けてみたい」

 

 藁にもすがる思い――とは少し違う。それにしては、彼女の瞳はあまりにも真っ直ぐだ。

 彼女が覚えた小さな希望は、まるで火種のようなものなのだろう。今は儚くて頼りなくても、いずれは大きく広がって周囲を包み込む剛火となる。測りかねないイレギュラーが思いも寄らぬ風穴を開けて、この『異変』を根本から変える。こいしはその可能性を、見据えている。

 お燐は顔を上げる。こいしの背後、何も言わずに佇んでいる三度笠の女性の姿が目に入った。こいしが妖夢にここまで期待を寄せられる理由は、おそらく彼女が関係している。

 

(成る程ね……)

 

 妖夢に何かを見出したのは、こいしではなく彼女だったのだろう。おそらく彼女は子供の姿の妖夢と戦い、そしてその中で何かを掴んだ。

 そうでなくとも、彼女は妖夢の事を誰よりもよく知っている。そんな彼女だからこそ、妖夢の『感受性』をこうして客観的に強く実感する事が出来る。

 

 なぜならば。他でもない、彼女自身が――。

 

「ねぇお燐。半分幽霊のお姉ちゃんの事はお燐も知ってるでしょ? 確かにちょっぴり頼りないかも知れないけど、でもこの人の実力は本物だよ」

「……そうですね」

「この人のポテンシャルは測り知れない。今はまだ弱くても、きっとこれから強くなってくれる。でもまだ不確定な要素が多すぎるから……。だから私達が動かなくちゃならないんだよ」

 

 確かにまだ分からない事が多すぎる。そもそも妖夢がなぜこの時代に連れてこられたのか。彼女を連れてきた人物は、一体何が目的なのか。

 その不明瞭な要素が数多く残っている限り、彼女に全てを賭ける事はできない。

 でも。

 

「だからこそ……私は私にしか出来ない事を全うしたいの!」

 

 こんなにも必死になっているこいしの姿を見て。

 

「……こいし様は、少し無茶をし過ぎです」

「お燐……!」

「子供の妖夢の介抱はあたいに任せて下さい」

「……えっ?」

 

 お燐は肩の力を抜く。短い深呼吸で胸のざわつきを押さえ込んで、彼女に言った。

 

「よく分かりませんけど、多分、妖夢が目覚めた瞬間にこいし様達が目の前にいたらマズイんですよね?」

 

 妖夢が何の理由もなしに剣を構えるとは思えない。十中八九、何らかの手段で彼女を挑発して本気で剣を打たせたのだろう。

 だとすれば、その怒りの矛先が目覚めた瞬間目の前にいたら。面倒な事になりかねないだろう。

 

「だからあたいが何とかします」

「そ、それじゃあ……!」

「……まだ納得した訳じゃありませんよ」

 

 お燐の本心は変わらない。これ以上こいしには危険に身を投じて欲しくないし、出来る事ならば連れて帰りたいと思っている。異変解決は彼女の役割ではないのだと、その考えも変わらない。

 だけれども。こんなにも強い意思を持って、ここまで必死になるこいしの姿を目の当たりにしても。いつまでも意固地になり続ける程、お燐は頑固じゃない。

 

「納得した訳じゃありませんけど……。でも、今起きているこの『異変』の方が、余程納得できませんから」

 

 こいしの気持ちは痛いほど分かる。お燐だって、この『異変』には納得していない。――納得なんて、出来る訳がない。そんな状況を打開する策があるのなら、多分、自分だって形振り構わず飛び出して行ってしまうだろう。

 つまるところ、人の事を言える立場じゃないのだ。

 

「それに……」

 

 少々バツが悪そうに、お燐は視線を逸らしながらも人差し指で頬を掻く。

 

「出来る事を全うしたいって、こいし様が心の底から思っているのなら。あたいにそれを止める権利はありませんよ」

「お、お燐……」

 

 ちらりと、こいしの表情を覗いてみる。ぷるぷると小刻みに震えていた彼女だったが、しかし満ち足りた笑みをお燐へと向けて、

 

「ありがとう!」

 

 太陽のような笑顔だった。そんな彼女の笑顔を見た瞬間、お燐は踏ん切りがつく事になる。

 ずるいな、とお燐は思う。こんな表情を向けられてしまっては、否応なしに信じてしまうじゃないか。確かに納得した訳じゃないし不安感は残っているが、それでも。

 

(折角のこいし様の意思を、無駄にする訳にもいかないよね)

 

 フラフラと放浪するだけだったあの幼い少女が、こうしてしっかりとした意思を持っているのだ。決して望んだ状況ではなかったとは言え、ここで彼女のその思いを無下にするのは心苦しい。根本的な気持ちは変わらないけれども、無理にこいしを連れ戻す事はかえって彼女の為にならないかな、と。お燐はそう判断したのである。

 

 こいしの笑顔につられて、お燐も思わず破顔する。

 異変を解決する為の鍵。それはあまりにも不明瞭過ぎて、一寸先も殆んど見据える事は出来ないけれども。

 光明のような希望が、その先にあるのだとしたら。

 信じてみるのも悪くない。

 

「あ、そうだ! ねぇお燐。ついでと言っちゃなんだけど、実はお燐にもう一つ頼みたい事があって……」

「……へっ?」

 

 そんなこんなでお燐の心が決まるや否や。不意にそんな要求をされて、お燐は思わず間の抜けた声を上げてしまう。

 当のこいしは、まるで何かを強請る子供のような表情を浮かべて、

 

「半分幽霊のお姉ちゃんと一緒に、あの人の介抱もお願いできるかな?」

「……あの人?」

 

 こいしが指し示す先へと視線を向けて、そこでお燐は初めて認識した。見知らぬ一人の青年が、壁に凭れたまま気を失っている。

 歳は、成人の域に達するか達しないかくらいだろうか。幻想郷では見かけない服を身に付けている事から、こちらの世界の人間だとは思うのだが――。

 

「えっ……だ、誰ですか? あのお兄さん、こっちの世界の人間ですよね……?」

「えっと……ちょっと訳あって、力を貸してもらったの。もう直ぐ目を覚ますと思うから」

「わ、訳って……」

 

 一体何をしたのだろう。何だか、嫌な予感がするのだが。

 

「ほら、いわゆる情報収集ってヤツだよ、情報集手」

「いやちょっと待って下さいよ。何で情報収集で意識を失うような事態に陥るんですか」

「んー、多分一番大きな要因は無意識を弄りすぎた事かな……」

「えっ、ちょ、な、何やっちゃってるんですか!? このお兄さん部外者ですよね!? それなのに……!」

「えー、大丈夫だよ。すぐに目を覚ますと思うし」

「いやそう言う問題じゃなくてですね!?」

「お燐さん、少し落ち着いて下さい」

 

 そこで割って入って来たのは三度笠を被ったあの女性である。宥めるように声を掛けてくる彼女は、お燐とは対照的に至極冷静だ。

 いや、落ち着き過ぎである。

 

「な、なんで貴方はそんなに落ち着いているのっ!?」

「……お燐さんの気持ちは分かります。でもやむを得なかったんです。彼の持つ『能力』は、私達の目的に対して非常に有効だったので……」

「の、能力……? えっ、このお兄さん能力持ってるの!?」

「ええ。それに……」

 

 そこで女性はその視線を再び妖夢へと向ける。

 

「……彼は大切な人です。今は確かに部外者なのかも知れませんが、それでもこの人の存在は彼女に大きな影響を与える」

「そ、それって……」

「今に分かります」

 

 良く分からない。今の話から推察するに、この青年はこちらの世界の住民でありながら何らかの『能力』を持っていて、こいし達はそれを利用させてもらった。しかもそれだけでなく、この青年は妖夢にとってとても大きな存在である、と。

 

(い、イマイチ納得できないけど……。でもだからと言ってこのお兄さんだけ放っておく訳にはいかないよね……)

 

 確かにお燐は死体愛好家だが、残忍な妖怪という訳ではない。寧ろ地底の妖怪の中では異質な程に友好的である。故に倒れたままの彼を放っておいてしまうと、目覚めが悪くなってしまう訳で。

 

「わ、分かったよ。このお兄さんもあたいが何とかするから」

「……っ、恩に切ります」

「わー! ありがとうお燐! お燐ならそう言ってくれると思ってた!」

 

 随分と調子が良いこいしを見て苦笑いを零しながらも、お燐は今一度倒れている妖夢と青年の姿を確認する。なんだか随分と厄介な事に巻き込まれてしまったようだが、拠所ないだろう。立場上、彼らを助けるにはお燐が一番都合がいい。

 仕方ない、とお燐は無理矢理踏ん切りを付ける事にした。

 

「あぁ、それともう一つ」

「えっ、なに、まだあるの?」

「いえ、頼み事ではありませんよ。一つ、忠告です」

「ちゅ、忠告……?」

 

 予想もし得ない単語を前に、お燐は思わず首を傾げてしまう。

 

「その耳と尻尾。隠した方が良いと思いますよ? 出来れば妖力で完全に」

「……へっ?」

「あー、それ私も思ってた。こっちにはそんな耳と尻尾が生えた人なんていないもんね」

 

 シラーっと、お燐の頬から冷や汗が流れ落ちる。痛い所を突かれてしまったと、そんな心境だった。

 

「い、いや、簡単に言いますけど……。それ、すっごく疲れるんですよ? しかも外の世界で耳も尻尾も隠した完全な人間の姿を維持するとなると……妖力の殆んどをそっちに回さなきゃならなくなるんですが……」

「でもこっちの世界の人にお燐が火車だってバレたら色々と面倒だよ。頑張って隠した方が良いって絶対」

「それは、そうですけど……」

 

 確かにそれは都合が悪い。今の今までバレはしなかったが、しかし思い返してみると確かに妙な視線を集めていたような気がする。この黒いゴシックロリータファッションだけならまだしも、猫のような耳と二又に分かれた尻尾は流石にこのまま晒し続けるのは危険である。

 お燐は渋々と言った様子で、

 

「わ、分かりましたよ……。頑張ります……」

「うん! 大丈夫、お燐なら余裕だって!」

「は、ははは……」

 

 グッとサムアップするこいしを見て何だか既に疲れてきたが、ここまで来たら仕方ない。乾いた笑いを零しながらも、お燐は今一度胸中を整理する。

 それに、こんな反応を見せているがこいしにとってもこれは他人事ではないだろう。こちらの世界に足を運んでいる以上、彼女もその『能力』を使ってこちらの世界の住民との接触を極力避けているはずだ。当然、幾ら彼女でも長時間能力を酷使し続ければ疲労も溜まってゆくだろう。

 

(こいし様も頑張ってるんだし……)

 

 お燐だって、その正体を少しでも隠せるよう努力すべきだ。何が起きるか分からないこの外の世界で、目の前に少しでも危険性があるのなら予め潰しておいた方がいい。

 

 お燐は短く深呼吸をし、その気持ちを改める。白い吐息を吐き出して、彼女はこいしへと視線を向けた。

 いつも通りの姿。いつも通りの調子。けれども彼女は今も尚、能力を使い続けている。それこそほぼ無意識の内に能力を発動できるとは言え、やはり身体への負担は気になる所。ある意味妖力をダダ漏れにしている状態だ。たまには休まなければ身体が持たない。

 

(こいし様……)

 

 そこでお燐はこいしの背後――三度笠の女性へと視線を向ける。

 

「……こいし様の事、任せたよ」

 

 彼女は三度笠の鍔を掴む。それを深く被り直して、半霊と共に身を翻して背を向けて。言った。

 

「――ええ。承りました」

 

 

 ***

 

 

 雪が降っている。

 所謂粉雪だ。質量も殆んどない氷の結晶が肌に落ちると、音も立てずに水へと変わり染み込んでゆく。イルミネーションの中に雪が儚く散るその様は、中々趣がある。街灯とLEDのイルミネーションによる光の壮大な芸術品は、雪という自然現象によって更に磨き上げられていた。

 

 そんな中で。三度笠を被った女性が、ふと振り向いて顔を上げる。物思いに耽るように見上げる彼女の視線の先は、ついさっきまで剣撃が繰り返されていたあの廃ビル。

 

「心配なの?」

 

 ひょこっとこいしが女性の表情を覗き込んでくる。当の彼女は誤魔化すように三度笠を深く被って、

 

「いえ。ただ、本当にこれで良かったのかと」

「……あ。ひょっとして、あのお兄ちゃんを利用しちゃった事をまだ気にしているの?」

「…………」

 

 図星である。

 

「……もう何度も言ってるけど、貴方が気にする事はないよ。提案したのも、実行したのも私なんだし」

「しかし、それでも……」

「お燐に任せておけば大丈夫だって。それに、思いがけない収穫もあったしね。あの行為は無駄になってない」

 

 こいしなりに気を遣っているのだろう。彼女は優しげな声で慰めようとしてくれている。

 確かに彼女の言う通り、思いがけない収穫はあった。半人半霊の少女――彼女が持つ剣術を、この身で確認する事が出来たのだから。

 ただ――。

 

「強くなる為のキッカケ作りが出来たのは、凄く大きな収穫だよ。貴方も言ってたよね? あの敗北が成長させる、って」

「……ええ。それは、おそらく」

「なら、私達もいつまでもウジウジしていられないよ。やる事をやらなくっちゃ」

 

 一人意気込むように鼻を鳴らしながらも、こいしは続ける。

 

「私の客観的な意見だけど、半分幽霊のお姉ちゃんが持つ剣術と感受性は本物だよ。絶対に、もっと強くなってくれるはず。私はそう信じている」

 

 手を腰の後ろで組んで、顔だけをこちらに向けながらも、

 

「だから……他でもない、貴方だからこそ持てる自信だってあるんじゃないかな?」

 

 そこでこいしは、不敵な笑みを浮かべる。

 

「ねぇ、そうでしょ――()()?」

 

 三度笠を持ち上げる。こいしから向けられる期待の篭った瞳が、今の彼女にはあまりにも眩し過ぎた。

 バツが悪そうに、彼女は思わず目を逸らす。

 

「私だからこそ――」

 

 逃げるように、

 

「持てない自信もあるんですよ」

 

 彼女はまだ、前に進めない。


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