「これで良しっと!」
満足気な表情を浮かべて、蓮子はクリスマスツリーの飾り付けを仕上げる。ツリー自体の大きさは家庭用の標準的なもので、然して変わった部分がある訳ではない。しかし、蓮子が装飾したオーナメントの数々で目を見張るほどに彩られており、クリスマスに相応しい程に豪勢な仕上がりである。
中々上手く飾り付けられたなーっと自分でも思う。これならクリスマスパーティも、より一層華やかになるだろう。
「メリーの方はどう?」
「う、うん……。こっちも、そろそろ仕上げの段階だわ」
メリーは主に部屋の飾り付け担当である。色紙を輪にして幾つも繋げ、それらを部屋中に飾り付けてゆく。彼女の言う通り、残すは仕上げのみのようだ。
元々凝ったインテリアデザインはしていなかった岡崎宅のリビングは、今や蓮子達の手によって見違える程に華やかになっている。元がシンプルであるが故にどう化けてもおかしくはなかったのだが、この様子だと蓮子達の取り組みは成功していると言えるだろう。
あとはメリーの担当箇所を仕上げ、飾り付けは終了である。
「私も手伝うわ。ちゃちゃっと仕上げちゃいましょ」
「……そうね」
取り敢えずツリーの方は完成したので、蓮子も部屋の飾り付けを開始する。大部分はメリーの手によって既に装飾し終わっている為、蓮子は主にその微調整だ。大きくズレてしまっている所を修正したり、時には付け加えたり。
しかし作業を続ける二人の間に会話は殆んどなく、リビングに響くのは飾り付けをする物音のみ。閑散とした一室の空気は徐々に重くなり、華やかな装飾とは対照的に漂う雰囲気はどこまでも暗い。
「ふぅ……それにしても、流石メリーね。作業が早いわ。もう私が手を加える部分なんて殆んど残っていないみたい」
「……そうかしら」
「そうよ。この様子じゃ、思ったよりも早く終わりそう」
「……そう」
最低限の受け答え。目に見えて分かる程に、メリーは憔悴してしまっている。
無理もないかな、と蓮子は思う。メリーの性格は良く理解しているつもりだ。蓮子と比べて大人しくて、ちょっぴり臆病な所もあって。だけれど誰よりも心優しく、思いやりがある。誰かが大きな成果を上げたらまるで自分の事のように喜び、誰かが傷つき苦しんでいたらまるで自分の事のように悲しめる。マエリベリー・ハーンは、そんな少女である。
だからこそ。こんな状況に立たされて、彼女がどんな心境を抱くのか。それは火を見るより明らかだった。
「ねぇ、蓮子」
不意に。か細い声で、メリーが蓮子の名前を呼ぶ。飾り付けの作業の手を止めておもむろに振り向くが、しかし声をかけてきた当の本人は未だに背を向けたままだった。
蓮子は首を傾げながらも、
「……どうしたの?」
「……やっぱり、心配なのよ」
「進一君や教授達の事?」
コクりと頷き、メリーは肯定する。そんな彼女の背中は、小刻みに震えていた。
何となく予感できた反応である。進一がいなくなって、夢美とちゆりが飛び出して行ってしまって。更には妖夢までもどこかに行ってしまった。二人っきりで取り残されてしまったこの状況、不安に思うなと言う方が無理な話である。
根本的な気持ちは蓮子だって同じだ。進一達の事が酷く心配で、出来る事ならば自分も彼を捜しに行きたい。そして一刻も早く、進一を連れ戻したいと。そう思っている。
だけれども。
「……だからと言って、私達までここを離れる訳にはいかないわ。私達は私達がするべき事を果たさなくっちゃ」
「……私達がするべき事って、何よ」
そう口にするメリーの拳は、ギュッと力強く握られている。次第に強くなるもどかしさが徐々にストレスを生じてゆき、苛立ちを募らせる。ギリっと、メリーは歯軋りをしていた。
「大変な事になっているのに、私達だけここに残って呑気にクリスマスパーティの準備……? こんな事がするべき事だって言いたいの……!?」
「ええ。そうよ」
きっぱりと、蓮子は答える。立たされた状況からの不安感だとか、募る苛立ちによる険悪なムードだとか。そういった物なんて丸々無視した、さも当然の事であるかのような蓮子の反応。
どうやらここまであっさりと開き直られるとは流石のメリーも思っていなかたらしく、振り向いた彼女は思わず目をパチクリさせて言葉を失っている。
そこで蓮子は腕を組み、メリーの前で仁王立ちして、
「いい? やると決めたらやる! それが私のモットーよ。だから今回のクリスマスパーティだって、ちょっとやそっとじゃ中止したりなんかしないわ!」
「ちょっとやそっとって……。現に進一君がいなくなっちゃったのよ!? それなのに、貴方はさも然したる問題じゃないみたいに……!」
「帰ってくるわよ」
「……えっ?」
毅然とした面持ちで、蓮子はメリーの肩に手を乗せる。彼女に何と言われようと、蓮子の気持ちは揺るがなかった。
「帰ってくるわよ。進一君も、教授も、ちゆりさんも。勿論、妖夢ちゃんもね。皆揃って帰ってきて、また笑顔で集まれるって。私はそう信じてる」
「蓮子……貴方、震えて……」
「だからさ!」
そこで蓮子は踵を返す。そのままぐるりと部屋を見渡して、最後に再びメリーへと視線を戻して。
「皆が帰ってくる場所を守らなくっちゃ。それは多分、今の私達にしか出来ない事だと思うから」
身体の震えは自覚していた。蓮子が胸中に抱くのは最早焦燥感や不安感などではなく、恐怖心。もしも、このまま進一達が帰ってこなかったら。一体どうなってしまうのだろうと、そんな事ばかりが気になっている。
だけれども。だからこそ、蓮子はある種の祈りのように強く信じ込む。
「絶対に、大丈夫……。私達が守るんだから……」
不安感も、焦燥感も、そして恐怖心も。全部、杞憂だったのだと。
何事もなかったかのように進一達は帰ってきて、そして当初の予定通りクリスマスパーティを始められる。今日ばかりは思い切りハメを外して、皆でワイワイ騒ぐんだ。
その為には。彼等が帰ってくる場所を、蓮子達が守らなければならない。大丈夫、会場の設営は完璧だ。メリーと協力した甲斐もあって、このリビングは見違えるように華やかになった。後は皆が揃うのを待つだけ。
そうだ。後は揃うのを待つだけ。もう、いつでもパーティを始める事は出来るから。
だから。
(早く帰ってきてよ、進一君……!)
***
それはさながら銀の舞い。曇天の夜空に突如として現れた二つの光が、届かぬ星の瞬きに代わって明滅しているようにも見える。どんよりとした曇り空の下、交錯する二つの銀が互いに主張を繰り返す。
斬撃。剣と剣が衝突する度に金切り音が鳴り響き、瞬間的に鋭く空気を振動させる。片方の剣撃が容赦なく襲いかかれば、もう片方がそれを受け止め、往なす。
妖夢と三度笠を被った女性の剣の打ち合いは、一見拮抗しているかのように見えた。妖夢が初激を加えてから数分。剣の衝突は休む事なく繰り返され、その度に鋭い金属音が響き続ける。息つく暇も与えない妖夢の連続攻撃は、しかし三度笠の女性によって次々と往なされてゆく。
実力が拮抗している訳じゃない。あくまで、そう見えるだけ。現に妖夢の剣撃は、一度たりとも彼女のもとまで届いていない。
(……っ、この人……!)
強い。決して侮っていた訳ではないのだが、それにしてもまさかこれ程までとは。正直、実力を見誤っていたと認めざるを得ない。生半可な剣術じゃ、彼女には決して届かないだろう。
(このままじゃ……)
様子見だとか、そんな悠長な事をしている場合ではない。攻めなければ、こっちがやられる。
それに、未だに彼女は本格的な攻めの姿勢を見せていない。妖夢の鋭い剣撃を手に持つ剣で弾き、そして往なし続ける。しかし防戦一方なのかと言われるとそうでもなく、徐々にだが反撃の回数が増えてきている。
おそらく、彼女は未だにその実力の半分も妖夢に見せてはいないだろう。妖夢を侮っているのか、それともその実力を測ろうとしているのか。それは定かではないが、防御態勢を続けている事は明白だ。もしも、そんな彼女が完全な攻撃態勢に移行してしまったら。
(そうなる前に……!)
一気に、片を付けるしかない。
妖夢は一度攻撃の手を休め、そこで一気に後退する。今まで以上に剣を引き、前のめりにも近い形で腰を低く落として。
「霊力が使えなくたって……!」
形だけなら、何とかなる。
「剣伎――」
タンっと。比較的軽いステップで妖夢は地面を蹴る。身体の力を大きく抜き、瞬間的な加速力を爆発的に高める。
目で追うのさえも困難な程の超高速。目の前の彼女のもとへと急接近した妖夢が振るうその剣撃は、しかし決して軽くはない。
「『桜花閃々』!」
すれ違いざまに渾身の斬撃を彼女に浴びせる。
庭の桜を剪定している際に思いついた剣術である。本来ならばここから更に弾幕を展開させるはずなのだが、生憎今は霊力を具現化する事なんて出来ない。剣伎『桜花閃々』なんて形だけ。極端に言ってしまえば、これはただの突進斬り。
しかし、それでも妖夢渾身の剣術の一つである事は確かだ。あの爆発的な加速力は、誰でも真似できるような芸当じゃない。並の剣士であるのなら、妖夢の姿を捉える事も出来ずに一撃で下されていた事だろう。
しかし。
(この感覚……)
浅い。この手応えは、つい先ほどまでの打ち合いと同じ感覚だ。つまり三度笠のあの女性は、今の剣術さえも剣で往なした事になる。
弾かれるように振り返ると、案の定彼女は何事もなかったかのように佇んでいる。特に動揺する事もなく、至極冷静かつ涼しげに。妖夢の剣術は、完全に躱されている。
妖夢の頬を一筋の汗が撫でた。
「まさか、こんな……」
にわかには信じ難い状況だ。攻撃を往なされたにしても、些か軽々し過ぎるではないか。
これでは、まるで――。
(いや、まだ……)
まだ決めつけるのは早い。たまたまタイミングが合っただけ、と言う可能性も否定できない。
けれども、そんな考察を続けるのは後回しだ。躱されてしまったのならば、尚の事攻撃を続行しなければ。これ以上、彼女に隙を与えてはいけない。
「それなら、これで……!」
楼観剣を右手のみで持ち直し、空いた左手で残ったもう片方の剣――白楼剣の柄を手に取る。
魂魄妖夢の剣術は、一刀流だけが全てではない。楼観剣と白楼剣。二本の剣を用いた二刀流こそ、彼女の剣術の真骨頂。
「断霊剣――」
引き抜いた白楼剣と楼観剣を手に持ったままで、妖夢は腕を交差させる。
剣伎『桜花閃々』のようにスピードに特化した剣術ではない。より攻撃的、かつ豪快。弾幕を放つ事ができずとも、十分な破壊力を有する剣技。
「『成仏得脱斬』!」
三度笠の女性へと急接近し、妖夢は手に持つ二本の剣を勢い良く振り下ろした。
素早さに重点を置いた剣術では、この女性はいとも簡単に往なしてしまう。それならば、多少俊敏性を割いてでも重さに重点を置いた剣術ならば――。
「ッ……!?」
一際大きな金属音が、周囲に響き渡る。あまりにも強い衝撃が妖夢の腕を走り抜けて、須臾の間だけ感覚を麻痺させる。握る拳に痺れが走り、擦れ合う三本の剣がカチカチと音を立てている。
今の今まで攻撃を往なし続けていた三度笠の女性は、断霊剣『成仏得脱斬』に対して別の対応を見せていた。往なす訳でも、はたまた回避する訳でもない。剣を、水平になるように構えて。
(う、受け止め……)
状況を妖夢が理解するよりも先に、女性が新たな動きを見せる。水平に構えた剣を振るい、そのまま妖夢を押し返したのだ。
力技で攻めに入った妖夢の剣術を受け止め、そのまま弾き返す。力技を力技で返された心地だ。妖夢の小柄な身体は、それで簡単に吹っ飛ばされる。
「くっ……!?」
有り得ない。そんな馬鹿な。妖夢の脳裏にそんな言葉が過る。だって今の攻撃は、パワー任せの力技じゃないか。にも関わらず、あの女性は。まるで赤子の手を捻るみたいに、こんなにも簡単に弾き返してしまうなど。
「っ……、桜花剣!」
逃げるように、妖夢は次なる攻撃に移る。
ここまで来たら割り切るしかない。効かないなら効かない。だったらまた別の攻撃を試してみるまでだ。間髪入れずに、妖夢は次なる剣術を放つ。
「『閃々散華』!!」
上手く着地して態勢を立て直すと同時に、妖夢は再び女性のもとへと接近する。しかし『成仏得脱斬』とは異なり、今回は力技ではない。『桜花閃々』の時のような、瞬発力を生かした剣術。
と、その次の瞬間。勢い良く駆け出した妖夢の姿が、突然
「――?」
否。あたかも消えたように見えるだけ。実際にその姿を消失してしまった訳ではない。常人ではその目に捉える事も出来ない程の、超高速で動き回っている。
三度笠の女性は、そこで初めて若干の動揺をする――ように見えた。如何せん、深く被った三度笠の所為で表情がまるで読み取れない人物である。本当に動揺しているのか、それとも妖夢の思い過ごしか。それは定かではない。
(でも……!)
迷ってなんかいられない。この剣術で、ケリを付ける。
妖夢は周囲を跳び回って、女性の死角へと走り込む。これこそが桜花剣『閃々散華』。確かに妖夢の移動速度は目まぐるしい程の高速だが、それでも見えない程ではない。厳密に言えば、今の妖夢は“見えない”のではなく“目で追えない”状態だ。対象の死角に回り込み続ける事で、まるで姿を消したかのように思い込ませる。
おそらく第三者からの視線では、妖夢の姿はそれなりにはっきりと捉えられている事だろう。けれどもこの女性の視線からでは、妖夢の姿をその目に捉える事はできない。
(届け……!)
死角からの攻撃。その直後に響くのは、鋭い金属音。三度笠の女性剣士が、手に持つ剣で妖夢の斬撃を弾いた音。
妖夢は息を呑む。やはりそう簡単に攻撃は通らない。例え死角に回り込んだとしても、微妙な空気の流れや妖夢の息遣い等で大まかな位置は把握されてしまう。そんな芸当が出来る程に、この女性の実力は卓越している。
(まだまだ……!)
しかし、『閃々散華』はこれで終わりじゃない。間髪入れずに回り込み、再び斬撃を浴びせ続ける。
死角からの連続攻撃。三度笠の女性は視覚以外の感覚だけで、この攻撃に対処し続けるしかない。いくら卓越した技量を持つ剣士だろうと、これではやがて限界が来る。
(っ! そこっ!)
隙が生まれる。千載一遇のこのチャンスを、妖夢が見逃す訳がなかった。
肉薄。楼観剣と白楼剣。その二つの斬撃が、三度笠の女性へと襲いかかる。この至近距離からでは、いくら彼女でも防御は間に合わないだろう。妖夢の剣が、遂に届く。
「もらったぁ!」
勝利を確信した妖夢が、思わず声を張り上げた。構えた二本の剣が振り下ろされて、鋭く一閃。
(――えっ)
するはずだった。
「かっ、は……!?」
何が起きたのか。一瞬で理解するのはあまりに酷だった。
勝利を確信し、剣を振り下ろそうとした、まさにその時。突然妖夢の脇腹に強い衝撃が走り、彼女は成す術なくも吹っ飛ばされてしまう。何が何だか分からぬままに地面を転がった妖夢は、遅れて響いた鈍痛から激しくむせ返った。
身体が軋む。激しく息を切らす。響き渡る鈍痛が妖夢の身体の自由を奪う。あまりにも唐突過ぎる状況の変化を前に、妖夢は混乱していた。
「なん、で……?」
未だに理解が追いつかない。あの状態からでは、攻撃を防ぐ事はおろか反撃なんて到底出来る訳がないのに。こいしからの援護射撃――というのも違うだろう。現に彼女はさっきから、頑なに傍観を決め込んでいる。
それなら、一体どうして? しかも今の衝撃は、剣撃とは違う。何か、質量のある物体が突進してきたような。
「……ッ!?」
脇腹を抑えながらもヨロヨロと立ち上がった妖夢。しかし、次の瞬間。目の前の
振り向いた三度笠の女性。そんな彼女の傍らに、ふわふわと漂う白い物体。
「そ、それは……!」
妖夢は思わず刮目する。しかし見間違いなどではない。
「半、霊……?」
それは、半人半霊という種族が持つ最も大きな特徴。気質の具現でありながら明確な質量を持ち、幽霊でありながら温かい体温を持つ存在。
半霊。半人半霊の半身である霊魂に間違いなかった。
「貴、方は……!」
妖夢はますます混乱する。
半霊を傍らに連れているという事は、この女性は妖夢と同じ半人半霊。少なくとも、外の世界で生まれ育った人間などでは決してない。
そこまではいい。彼女達は普通の人間ではないと、それは端から予想していたはずだ。云わばここまでは想定通り。動揺するような所じゃない。
問題は、別にある。
(やっぱり、あの人の動き……)
これまでの剣の打ち合いから薄々感づいてはいたが、今の反撃で確信した。妖夢の剣撃を次々と往なし、時には軽々と受け止め、そして死角からの攻撃さえも容易く対処する。ここから推測出来る事実は一つだ。
妖夢の動きが、完全に読まれている。どのタイミングで剣を振るってくるのかも、立たされた状況によってどのような動きをするのかも、そして微妙な癖さえも。あの女性はほぼ完璧に把握してしまっている。そうでなければ妖夢の剣術をここまで易々と攻略できないはずだ。『閃々散華』の最後の一撃の時だって、あのタイミングで反撃してくるなど。
(でも……)
あまりにも奇妙だ。あの女性は、この短時間で妖夢の微妙な癖までも完全に把握したのだろうか。いや、思い返してみれば、彼女は初めから妖夢の剣筋を
(まさか、私は……)
以前も、この人と剣を打ち合ったことがある?
まさか、そんな馬鹿な。いや、しかし。確かに、この感覚は身に覚えがあるような気がする。既知感、と言うかどこか懐かしいような――。
妖夢は記憶を探る。
剣を打ち合った際の妙に懐かしいような感覚。妖夢の動きを完全に把握しているかのような振る舞い。そして、半人半霊という種族。これらの要素を満たす剣士は、妖夢の記憶には一人しかいない。
それは、白玉楼に仕えていた先代の庭師兼剣術指南役。そして妖夢に剣術を教えてくれた人物。
「お爺、ちゃん――?」
そこで妖夢は、慌てて首を横に振る。
いや、そんな訳がない。だってそもそも、この人は女性じゃないか。根本的な部分から違う。
でも。
(確かに、この感じは……)
似ている。剣を打ち合ったこの感覚も、そこから伝わる厳格な雰囲気も。祖父のそれと、酷似している。
妖夢は頭を抱える。何が何だか、本当に訳が分からなくて、抑えきれぬ程に酷く動揺してしまって。慄く妖夢が抱いていたのは、恐れにも似た感情だった。
妖夢の祖父――
しかし、これも教えなのだろうと妖夢は思っていた。未だ半人前の妖夢を残して祖父が姿を消したのも、きっとそれなりの真意が隠されているのだろうと。妖夢はそう信じ込んで、日々の剣術鍛錬に勤しんでいたのだ。
魂魄妖忌は云わば妖夢の憧れであり、大きな目標の一つなのである。今はまだまだ半人前でも、いつしか祖父を越える剣士になりたい。そんな思いを胸に抱いて、妖夢は今日まで剣を振るい続けてきた。
(そうだ……お爺ちゃんは……)
半人前の妖夢を残し、祖父は姿を眩ませた。きっと妖夢が半人前である限り、祖父が帰ってくる事はない。だからこんなタイミングで、祖父が目の前に現れる訳がないんだ。
そもそも目の前の彼女は女性。祖父であるはずでは決してない。それなのに、どうして。
「どうして、貴方は――!」
こんなにも、お爺ちゃんに似ているの?
しかし、妖夢がそれを口にする事は叶わない。こんな質問を投げかけて、彼女がどんな返答してくるのか。それは確かに気になるのだけれども、それと同時に別の感情が妖夢の中に渦巻いている。
祖父と酷似した剣筋を持ち、妖夢の全てを見透かしているかのような振る舞いを見せる三度笠の女性剣士。そんな彼女の正体を暴いてしまう事が、どうしようもなく怖かった。
それは本能的な恐怖。彼女の正体を知ると言う事は、それは即ち後戻りが出来ぬ境域まで踏み込んでしまう事と同義であると。そんな気がする。
(なに、これ……)
身体の震えが止まらなくて、動悸が一向に鎮まらなくて。妖夢の戦意が、消失してゆく。
「――私が一体何者なのか」
そこで初めて、三度笠の女性剣士が妖夢へと言葉を発する。
「それを貴方が知る必要はありません」
凛とした、透き通るような女性の声だった。
女性は剣を鞘に収める。けれども戦闘を放棄した訳ではない。表情は読み取れないけれども、突き刺さるような戦意だけは嫌というほど伝わってくる。刃のように鋭い眼光で相手を睥睨し、否応なしに押さえ込まんとする凄みを含む気迫。今の今まで妖夢が彼女へと向けていたそれを、今度は逆に向けられている。そんな威圧感を肌で感じ、妖夢は直感した。
彼女の防御態勢が、終わる。
「ッ……!」
今の今まで隠していた半霊を解き放ち、剣を一度鞘に収めて帯刀。その一連の動作を目の当たりにすれば、いくら半人前の妖夢でも察する事くらいはできる。
おそらく、ここからが彼女の本領発揮。そしてこれから始まるのは、彼女の剣術の真髄。
攻撃態勢だ。
「行きます」
静かな宣言。揺らりと身体が揺れた後、地を蹴り上げる音が響いた。
妖夢に匹敵、いや、それ以上の瞬発力。剣を鞘に収めたまま、柄にだけ手を添えて閃光の如く走り抜ける。
抜刀術。鞘から剣を抜くと同時に相手を斬りつける剣術。鞘から抜き放つ勢いを上乗せする事で、その太刀筋は更に洗練され、鋭くなる。
(速い……!)
回避は不可能。それならば剣で受け止めるか往なすしかない。
戦意の喪失により重くなった身体を無理矢理動かして、妖夢は攻撃に備える。殆んど反射的だった。このままではやられると、妖夢の自己防衛本能が無意識の内に身体を動かす。
このまま、彼女の剣撃を何とか凌ぎ切れれば――。
「――『現世斬』」
――えっ?
剣を引き抜くと同時に女性剣士が口にした言葉。それが妖夢の耳に届くや否や、彼女の身体は再び硬直する事となる。
今、彼女は何と言った? 妖夢の聞き間違えでないのなら。彼女が宣言したその剣術は、紛れもなく。
「うぐぅっ!?」
防ぎ切れない。直撃を避ける事はできたものの、そのまま妖夢は大きく吹っ飛ばされてしまった。態勢を立て直すことさえも到底叶わず、妖夢は背中から地面に激突する事となる。
衝撃。一瞬だけ息ができなくなり、意識が飛びかける。瞬間的にボヤけた視界がクリアになったその瞬間、身体に走る激痛を妖夢はようやく認識できた。
「あ、ぐ……」
呻き声を上げつつも、妖夢は立ち上がろうとする。しかし、身体が上手く言う事を聞いてくれない。それは受けたダメージに起因するものとも言えるが、それより何より蓄積された疲労感が妖夢を蝕んでいた。
半霊がいなくなり、限りなく人間に近くなってしまった身体。そんな状態での三度の剣術は、妖夢の想像以上に身体に負担をかけていた。特に桜花剣『閃々散華』は、霊力が使えないこの身体では少々無理がある剣術である。
それに。度重なる不測の事態も、妖夢を精神的に追い込んでゆく。日々の鍛錬により洗練されていたはずの剣術が、まるで届かなかったと言う事実。これが弾幕ごっこであるのなら、既に三枚ものスペルカードを攻略されてしまった事になる。この時点で、妖夢の勝利には程遠い状況。
それだけではない。追い討ちをかけるかのように、徐々に明らかになってきた女性剣士の剣術。祖父に限りなく酷似したそれを目の当たりにして、妖夢の混乱は最高潮に達していた。
「現、世斬……?」
それは妖夢にとっても、非常に馴染み深い剣術。祖父に鍛えられた妖夢が体得した剣技の一つ。
『現世斬』。けれども名前だけのハッタリなどではなく、今の彼女の太刀筋はまさにそれそのもので。
「うぅ……」
最早あれこれ考えるのも億劫になってきた。色々と訳が分からなすぎて、妖夢の頭はパンク寸前だ。
剣の鞘を杖にしてヨロヨロと立ち上がった妖夢は、未だ固まったままの身体に鞭を打って何とか顔を上げる。身も心もズタズタの状態で、それでも尚立ち上がる事が出来るのは。未だ妖夢の胸中に、剣士としての矜持が残っているからなのか。
しかし。
「なっ……」
三度笠の女性剣士は。そんな妖夢の小さな意地さえも、へし折ろうと言うのだろうか。
「悲観する必要はありませんよ」
振りかざした女性の剣に、次々と光が収束してゆく。それが彼女の霊力なのだと、理解するのにあまり時間は要さなかった。
渦巻く霊力の本流が烈風を作り上げ、周囲の埃を巻き込みながらも光と共に収束する。そんな霊力が形作るのは、さながら光の剣と言ったところか。
「この敗北は必然ですから」
荒れ狂う霊力に全身を打たれて、妖夢は完全に言葉を失っていた。
実力が、あまりにも違いすぎる。まさに月とすっぽん。幾ら半霊がなくなって弱体化してる身であるとは言え。剣術に関しても、霊力に関しても。何一つ、彼女には届きそうにない。
「――さようなら」
また、見覚えのある構え。おかしいな、どこで見たんだっけ。
ああ、そうだ、思い出した。あの剣術は。
「断迷剣――『迷津慈航斬』」
振り下ろされる。避けなければならないと、頭では理解しているはずなのに。身体が、動かない。
断迷剣『迷津慈航斬』。『現世斬』と同じように、妖夢が扱う剣術の一つ。
(どうして、私の剣術を……)
この人が使えるのだろう。
けれどもそれを推測する暇もなく。妖夢の視界は、眩い閃光に包まれた。
***
幾ら京都が日本の首都であり、多くの人々で賑わっているイメージが強いと言っても。場所によっては人通りが殆んどないような地区も確かに存在する。都心から離れる程に人の数も徐々に少なくなってゆき、喧騒なんて似合わぬ程に閑静なスポットも増えてゆく。騒がしい都会の空気なんて実はほんの一部。京都は意外と粛然な部分も多い都市なのである。
そんな静かな街の一角に存在する小さな公園。そこにある錆び付いた小さなブランコに、一人の少女が腰掛けている。
三つ編みにした赤髪と、呪術的な色合いのゴシックロリータファッションが印象的な少女。けれどもそんな服装よりも、彼女の身体に確認出来るあまりにも奇妙なものの方に嫌でも視線を引かれてしまう。それは彼女の頭に
その少女――
「はぁ……」
彼女は空を仰ぎつつも、明け透けに溜息をつく。その様子からは、数多くの人々を脅かし続け、その畏れを糧としていたと言われている妖怪の威厳などまるで感じられない。
それもそのはず。そもそも彼女は生きた人間にいきなり襲いかかるようなタイプではない。確かに火車という妖怪の例に溺れず、人間の死体を集める事に関して至福を覚える事は事実ではあるが、逆に言えば死んだ人間にしか興味がないのである。態々生きた人間に襲いかかろうとは思わない。
火車にもそれぞれ好みが存在するのである。火焔猫燐の場合、出来ればこちらの世界における常識の範疇で死亡した死体が望ましい。例えば妖怪に殺されたとか、そんな死体はつまらないものだと認識している。
因みに最近のマイブームは疫病で死亡した人間の死体だ。あれは堪らない。腐敗が始まりかけた状態だと尚良い。
それはさておき。
長ったるくて仰々しい自分の名前を嫌い、『お燐』などと略してしまうような少女だが、彼女はれっきとした妖怪である。俗に言うオカルトの類がほぼ完全に否定され、排斥されたこの世界で。本来ならば存在なんてするはずがないもの。
そんな彼女がなぜこちらの世界にこうもはっきりと存在しているのか。その理由は至極単純。彼女はこちらの世界の住民ではないからである。
「うまくいかないなぁ……」
ブランコをゆらゆらと揺らしながらも、お燐は独りごちる。
彼女が態々こちらの世界に足を運んだのには当然理由がある。端的に言ってしまえば、その目的は人捜し――もとい
容姿だけは年端もいかない幼気な少女であるのだが、その身に有する力は人間のそれを遥かに凌駕している。特に彼女が持つ能力、『無意識を操る程度の能力』が非常に厄介で、それが彼女の捜索を難航させている最も大きな要因だった。
意識という意識を無意識の領域に引き摺り込み、幻惑させる事も出来る能力。せめて彼女の能力による意識の歪みを少しでも感知する事ができたら、まだ希望があったのかも知れないが――。まぁ、そんな“もしも”の話を幾ら並べても仕方ない。
「うーん……。でもやっぱり無謀だよねぇ……」
意識する事が出来ない一人の少女を捜索するなど、砂漠で針を探すよりも難しい。現にお燐は最早殆んどお手上げ状態だ。あまりにも無理難題すぎる。
「はぁ……」
溜息しか出ない。酷い話である。
「……ん?」
お燐が一人空虚な思いを抱いていると。何やらバタバタと騒がしい足音が耳に流れ込んできた。
顔を向けて見てみると、緊迫した面持ちで公園に面した小道を走り抜ける二人の女性の姿が確認出来る。片方はお燐のように真っ赤な髪、もう片方は金髪のツインテールの女性である。
「……なんだろ?」
あんなに慌てて、何かあったのだろうか。まさかお燐の捜し人が何らかの問題を起こして、それに彼女達が巻き込まれてしまったとか?
「いや、それはないかぁ……」
彼女がこちらの世界の人間に牙を剥くとは思えない。そもそもそんな事をする理由がないじゃないか。
止めよう。あまりにも状況が芳しくなさすぎて、身も蓋もない事を考えてしまう。走り去ってゆく女性二人を視界の外に追いやって、お燐は何となく視界を横に向けてみる。公園に隣接した廃ビル。それが彼女の目に入った。
「……あれ?」
そこで彼女は妙な感覚を覚える事となる。
立ち入り禁止のビニールテープが無理矢理破られたような形跡。それも確かに奇妙な点であるのだが、問題はそこじゃない。
何と言うか、言葉では上手く説明できないのだけれども。強いて言うなら、意識を無理矢理繋ぎ止められたかのような。
「……そもそも」
あんな所に、廃ビルなんかあったっけ?
「……、あ」
そこでお燐は直感する。
彼女がたった今覚えたこの感覚。それを引き起こす要因と成り得るものは、お燐の知る限り一つしかない。
「そ、そうだよ……間違いないっ!」
お燐は慌てて立ち上がる。錆び付いたブランコが軋む嫌な音が響いたが、そんな事はお構いなしだ。
居ても立ってもいられない。
「ようやく見つけましたよ! こいし様!」
胸の奥から湧き上がる愉悦感を覚えつつも、お燐は走り出すのだった。