桜花妖々録   作:秋風とも

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第131話「夢時空#1」

 

 ちゆりがこいしとの再会を果たした、その翌日。

 いつも通りの時間に起床したちゆりは、お燐が用意してくれた朝食を食べ終えた後に、大学に行く準備を整えていた。

 一応、大学には先日も久しぶりに足を運んでいる。けれども本分であるはずの研究にはまるで手をつけておらず、ただひたすらに腐っていたと言える状況であった。罪の意識に押し潰されて、投げやり気味に時間を浪費して。──ああ。本当に、無駄な時間だった。

 

 けれども。今回は、違う。

 覚悟はとうに決まっている。想いは既に固まっている。だからもう、迷わない。

 それに。今のちゆりは、一人じゃない。

 

「ほらほら、絵理子。準備は出来た? 忘れ物はない?」

「大丈夫だって。そんなに急かすなよな」

 

 玄関近くまで手を引かれる。先導する彼女は、昨日本当の意味で再会したばかりの少女──古明地こいしである。どうやら待ちきれないらしく、ちゆりが宥めてもその行動を改める事はなかった。

 

「絵理子がのんびりし過ぎなんだって。まさか怖気ついた訳じゃないよね?」

「ほう? 言ったな、こいつ。舐めて貰っちゃあ困るぜ。今日の私は絶好調だ。怖気つくとは対極に立っていると言える」

 

 煽ってきたこいしに対し、そう言い返す。実際、怖気つくなんて今のちゆりには有り得ない。勘違いなんてしないで貰いたい。

 

「それじゃあ、お燐。行ってくる。今日も留守番頼むぜ」

「……、あー……。うん。行ってらっしゃい……」

 

 玄関まで見送りに来てくれたお燐に声をかけるが、どうにも微妙な反応が返ってきた。元気がないというか、何というか。

 

「どうしたお燐? 具合でも悪いのか?」

「いや、そういう訳じゃないけど……」

 

 具合でも悪いのか、と聞いたのはちゆりの方だったけれど。確かに良く見ると、具合が悪いというよりも、どこか困惑でもしているかのような雰囲気が伝わってくる。いまいち状況を飲み込めていないというか、何というか。

 

「いやね。昨日、ちゆりがこいし様と帰ってきて……。しかも、出掛ける前と違って、二人とも吹っ切れた雰囲気になっていて。それはそれで、あたいとしてもすっごく嬉しいんだけど……」

「けど?」

「二人とも、いつの間にそんな仲良くなったの……?」

 

 若干呆れているような、そんな口調だった。

 

「いつの間にって、うーん……。十三年くらい前?」

「じゅ、じゅうさん……?」

 

 やたらと具体的な数字を口にするこいしを前にして、お燐はますます困惑顔だった。まぁ、無理もない反応である。

 

「もー、お燐ったら何をそんなに気にしてるの? こいし様が元気になったんだよ? それならそれで良いじゃん!」

「いや気になるでしょ! え? き、気になるよね……? なにこれ、あたいだけ……!?」

 

 お燐と違って早々に状況を受け入れたのは、彼女と一緒にちゆりとこいしを見送ってくれている地獄鴉の少女。──霊烏路空は単純だった。

 昨日は流石に驚いた。こいしと共にアパートに戻ったら、お燐だけでなくお空までもそこにいたのだから。既に遅い時間だったので彼女にも泊まって貰う事にしたのだが、流石に四人は狭かった。

 

 まぁ、それはそれとして。

 

「と言うか、そもそも絵理子って何の事? ちゆりじゃないの……?」

「あー……。それは、ほら、あれだ。ひよこだって、成長したらニワトリって呼び方に変わるだろ? つまりは、それと同じようなもんだ。分かるだろ?」

「いや全然分かんないんだけど……」

「……はぁ。いちいち細かい猫だなお前は。良いだろ別に。そんなのは些末な問題だぜ、お燐」

「こ、細かいの!? 細かい事なのかなぁ!? あれ? 前にも似たようなリアクションをどこかで取った事があるような……?」

「お燐、何言ってるの……?」

 

 一人だけ慌てふためくお燐に、そんな彼女を可哀想な人を見るような目で見つめるこいし。この構図、流石にお燐が不憫に思えてきた。

 ──この場で全てを説明するのは、難しいけれど。それでも、ある程度の筋は通すべきだろう。ちゆりは、お燐にとても大きな借りがあるのだから。今日に至るまで、自分の事を気にかけ続けてくれた、彼女に。

 

「……お燐。ありがとな」

「……え?」

「腐っていた私の事を、今まで気にかけてくれて」

「…………」

 

 突然ちゆりに礼を言われて、困惑顔のお燐。そんな彼女の返事を待たずに、ちゆりは言葉を続けた。

 

「私はずっと、後悔していた。やる事なす事、全部が全部裏目に出て。本当に大切な人達も、守る事が出来なくて。自分なんて、いなくなった方が皆の為だって。本気でそう思ってた」

「ちゆり……」

「だけどな。ようやく、気づけたんだ。結局のところ、私は悲劇のヒロインぶっていただけだったんだって。──自分一人が、不幸のどん底にいる。()()()()()()()()()()()だったんだって」

 

 朝ヶ丘絵理子は孤独だった。この十年以上、ずっと。それは名前を捨て、北白河ちゆりとなってからも変わらなかった。だからこの罪は、自分だけの力で償わなければならないのだと。そう思っていた。

 けれども。そう思い込んでいたのは、ちゆりだけだった。

 ちゆりの抱える想い。呪いとも言える思い出。しかしその思い出には、欠落が生じていた。決定的なピースが、抜け落ちていた。

 

 一人じゃない。ちゆりだけの思い出では、なかったのだ。

 

「本当、今でも滑稽に思うぜ。何を一人で盛り上がってたんだって感じだよな」

 

 だけど、それも終わりだ。

 一人で抱える必要はない。この思い出に、共に向き合ってくれる人がいる。一緒に戦ってくれる人がいる。

 だからちゆりは、もう迷わない。

 

「私はもう大丈夫だ。これ以上、腑抜けた姿なんて見せない」

 

 固めた決意は、強靭だった。

 

「こいしと一緒に、私は前に進むよ」

「…………」

 

 そんな話を聞いて。果たしてお燐は、何を思ったのだろうか。

 彼女は、すぐには言葉を発しない。まるで、ちゆりの言葉を受け止めて、強く噛み締めるように。ただ、毅然とした面持ちで、ちゆり達の事を見つめていて。

 

「あ、あの、お燐……。私も……」

 

 そんな彼女の姿を見てちょっぴり不安に思ったのか、こいしが何かを告げようとする。けれどもお燐は、その後すぐに口を開いた。

 

「いえ。ごめんなさい、こいし様。別に、怒ってるとかじゃないんです。ただ……。うん」

 

 上手く纏める事が出来なかったのか、そこでお燐は一度言葉を飲み込む。そして改めて、ちゆりへと向き直って。

 

「安心した」

 

 ただ、ストレートに。彼女は告げた。

 

「ちゆりが、ちゃんと前を向けるようになってくれて」

「お燐……」

「あと、お礼を言うのはあたいの方だよ」

 

 そして彼女は、微笑みを零して。

 

「ありがとう。こいし様を助けてくれて」

 

 多くの言葉は、語らなかった。

 

「それだけ! ……それだけで、あたいは充分すぎるくらいに満足だから」

 

 それだけ、と彼女は言うが。きっと本当は、もっと沢山言いたい事、聞きたい事があったのだろう。ちゆりの事。こいしの事。青娥の事。幻想郷の事。──ちゆり達の固めた決意が、何なのか。

 それでも彼女は、多くを聞かない事を選択した。何も聞かずに、ちゆりとこいしを送り出す事を選択してくれた。

 

 信じているから。

 ちゆり達の事を、信頼してくれているから。

 

「行ってらっしゃい、二人とも」

 

 それ故にこそ、()()だった。

 

「思う存分、やってきなよ」

「……っ」

 

 一瞬、言葉が詰まる。すぐに声を発する事が出来なくなる。

 言葉は少なくとも。お燐の想いが、しっかりと伝わってきて。どう答えを提示するべきか、一瞬だけ迷う。

 けれども。そんなちゆりの隣でこいしが口にしたのは、実にシンプルな答えだった。

 

「うん。行ってきます、お燐」

 

 行ってきます。

 ああ、そうだ。それだけで充分じゃないか。お燐が快く送り出してくれるのなら、ちゆり達はただそれに答えれば良い。余計な言葉なんて、いらない。

 

「──ああ。改めて、行ってくるぜ」

 

 そしてちゆり達は踵を返す。

 お燐とは対照的に、「いってらっしゃい! 気をつけてねー!」と元気に投げかけられるお空の言葉を受け止めながらも。

 運命を切り開く為、前に進むのだった。

 

 

 *

 

 

「ねぇ、お燐。本当に良かったの?」

 

 ちゆり達を、見送った後。ふと、隣にいるお空に声をかけられた。

 

「良かったのって、何が?」

「いや……。何か、色々と言いたい事がありそうだったし」

「……っ、あー……」

 

 この少女、気づいていたのか。

 

「私は、あのちゆりって人の事をよく知らないし……。頭もあんまり良くないから、あの人が何をしていたのかも分からないけど……。でも、お燐があの人に何か特別な感情を抱いてたって事は分かるよ」

「……。うん……」

「あの人は、こいし様を助けてくれた。私達じゃどうにも出来なかった、こいし様の事を……。だから私も、あの人には感謝してる。……でも、お燐はそれだけじゃないんだよね?」

「…………」

 

 まったく。基本的には鳥頭の癖に、どうして()()()()()ばかり鋭くて気が回るのだろう、彼女は。

 このタイミングで尋ねてきたのだって、きっと彼女なりに気を遣ってくれた結果だろう。気づいていたのなら、それこそちゆり達が出掛ける前に確認だって出来たはずだ。

 

 お空には、お見通しか。

 いや。お燐は元々嘘や誤魔化しが得意ではないし、ちゆりやこいしにだって気づかれていたのかも知れないが。

 

「良いんだよ、これで」

 

 それでも、お燐の気持ちは変わらない。

 

「言ったでしょ? 充分だって」

 

 そうだ。これで、良い。

 確かに、言いたい事は沢山あった。聞きたい事も山ほどあった。だけど、それよりも、何よりも。

 北白河ちゆりが帰ってきてくれた。古明地こいし戻ってきてくれた。──それだけで、お燐は充分すぎるくらいに満たされたのだから。

 

 今は、これで良い。

 

「……そっか」

 

 そしてやっぱり、お空はお燐の想いを尊重してくれて。

 深くは訊かずに、お燐の隣にいてくれる。

 

「上手くいくといいね。全部」

「……うん」

 

 お空の言葉に、お燐は頷いて答える。

 この想いは。希望は。あまりにも儚くて、縹渺としていて。ふとした拍子に消えてしまうくらい、頼りないものかも知れないけれども。

 それでもお燐は、信じている。

 信じていれば。諦めなければ。希望は、いつの日か現実になるのだと。

 

 いつかの未来。その日に訪れる明日の事を、お燐は夢見ていた。

 

 

 *

 

 

 大学へと向かう前に、ちゆり達はとある場所に寄る事にしていた。

 ちゆりの暮らすアパートから、徒歩でも迎えるくらいの距離。閑静な住宅街に、その家はあった。以前は何度も訪れる事があった場所だが、今回はそれこそ一ヶ月ぶりくらいである。意図的に、避け続けていた場所。

 

 岡崎夢美と、弟である進一。彼女達が生活していた家である。

 

 ちゆりは決意した。もう、逃げないのだと。理想の未来を掴み取る為に、前に進むのだと。──これは、その為に必要な第一歩。

 岡崎夢美。彼女と、もう一度会う。会って、ちゃんと話をする。今までの事。ありとあらゆるを、包み隠さず曝け出す。そして、謝るのだ。十三年前の事。そしてこれまでの事も、全部。

 

 進一が死んだあの日から、夢美とは一度も会っていない。彼が死んだ事により、最も大きなダメージを受けたのは、間違いなく夢美だ。今も尚、立ち直れずに引き篭っているかも知れない。

 そんな惨状を引き起こした原因とも言えるちゆりが、こうして出向いた所で果たして彼女の為になるのか。徒に追い詰める事になるのではないか。それは分からない。

 

 だけど。()()()()は、結局の所は言い訳だ。逃げる為の口実作りに過ぎない。

 向き合わなければならない。向き合わなければ、決して前には進めない。ちゆりも、そして夢美も。

 

 だからちゆりは、この選択をした。

 前に進む為に。ケジメをつける為に。ただ、夢美に知って欲しかった。本当の自分を。ちゆりの決意を。たった一つの、確かな願いを。

 

 ──だけれども。

 

「あー……。ごめんな、夢美はちょうど留守にしててさ」

「……マジすか」

 

 出鼻をくじかれていた。

 夢美の自宅。意を決してインターフォンを鳴らしたちゆりを出迎えたのは、他でもない岡崎夢美その人──ではなく、彼女の父親だった。

 ちゆりも実はあまり真面に話した事がなかったりする。基本的に海外で仕事をしており、家に帰ってくるのも年に数回程度だと以前に夢美から聞いた事がある。

 

 そんな彼が、こうして家に帰ってきている。その理由をストレートに訊く事は出来ないけれど、察する事くらいなら簡単だった。

 夢美だ。憔悴し、心を閉ざして引き篭ってしまった娘の為に、彼は帰ってきている。

 そう考えると、流石のちゆりも緊張した。

 

「え、えっと……。行き先は……?」

「大学に行くって言ってたな。……あれ? ちゆりちゃんって、あいつの助手じゃなかったか? 何も聞いてない?」

「いや、何も……」

 

 びくつくちゆりとは対照的に、彼──岡崎悠次はいつも通りだった。

 前に少し話した時と、同じ。あの時と同じ調子で、ちゆりに話しかけてくれている。呆気ない程に、違和感なく。

 

「そうだったのか。まったく、あいつは……。連絡くらいしなきゃダメだろ」

「あ、いや、お構いなく……。本来ならば、私の方から事前に聞くべきだったし……」

「ごめんな。後で俺の方から叱っておくから。悪いけど、夢美に用なら大学まで行ってくれないか? 出かけてからそう時間も経ってないし、今から行けば合流出来ると思うぞ」

「…………」

 

 嘘をついている──訳でもなさそうだ。どうやら夢美は、本当に大学に行っているらしい。

 予想が外れた。てっきり、彼女はまだ自宅に引きこもっているのだとばかり思っていたのに。少なくとも、先日ちゆりが大学を訪れた際には夢美は現れなかったのだが。

 心境の変化が訪れた? だとすればそれは、一体どのような傾向の変化なのだろう。悪い傾向か、それとも──。

 

「……分かった。大学に行ってみようと思う」

 

 考えるのは後回しで良い。夢美に会って、直接話をすれば分かる事だ。そもそも、元より夢美とは大学の研究室で話をするつもりだった。却って手間が省けて良い。

 そう告げて、ちゆりは悠次と別れる事にした。

 

「あ、ちゆりちゃん。一つだけ良いか?」

 

 踵を返そうとした直後、ちゆりは悠次に呼び止められる。何事だろうと、振り返って彼の言葉を待っていると。

 

「夢美の事、よろしく頼むな」

 

 それだけだった。ただ、それ以上の言葉は交わさずに、ちゆり達は悠次と別れる事なった。

 ──何も。彼は、聞いてこなかった。一か月前の()()()、何があったのか。()()()にちゆりがいた事は、彼も認識しているはずなのに。それでも、全く話題に触れなかった。まるで、娘の知り合いがただ訪ねてきたように。至極日常的なやり取りを、彼は交わしていた。

 

 気を遣ってくれた、という事なのだろう。

 ちゆりが何を思い、そして何の為にあの家を訪れたのか。恐らく彼は、ある程度察していたんだと思う。無論、その全貌を全て理解出来ている訳ではないのだろうけれど。それでも。

 

「絵理子、さっきの人の前で随分と緊張してたねー」

 

 大学に向かう途中、冗談交じりな口調で、こいしにそんな事を言われる。方を窄めつつも、ちゆりは答えた。

 

「私だって、緊張くらいするさ。……相手が夢美様や進一の父親だったのなら尚更な」

 

 そう。だからこそ、ちょっぴり拍子抜けだった。もっと色々な事を聞かれると思ったから。

 だけれども、違った。彼はちゆりを受け入れて、そして娘の下に送り出してくれた。それほど深く言葉を交わした事のないはずの、ちゆりを。

 

 夢美の事を、よろしく頼む。

 そんな言葉を、口にしてくれたのだ。

 

(だったら、益々やり切らないとな)

 

 元より逃げ出すつもりなど更々なかったが、より決意が強固になったと言える。──ちゆり達は、進むしかない。例えその先が、茨の道であろうとも。それこそ、()()だ。その程度、立ち止まる理由にもならない。

 お燐やお空、そして悠次。背中を押してくれる人達がいる限り。

 ちゆり達は、止まりはしない。

 

 ──程なくして、到着する。夢美が向かったとされる先。ちゆりも毎日のように通っていた、あの大学へと。

 

「夢美がいるのは、ここ?」

「ああ……」

 

 こいしの言葉に対し、ちゆりは頷いて答える。そして未だに桜が満開に咲き誇る大学の構内へと、ちゆり達は足を踏み入れた。

 意識せずとも、身体が動く。ただ真っ直ぐに、()()()()へと。

 キャンパスの一角にある研究棟。その五階に存在する部屋。

 岡崎夢美の研究室だった。

 

「ここは……」

「研究室だ。夢美様のな」

 

 後ろにぴったりとくっついてきたこいしに向けて、ちゆりは声をかけた。

 

「そう言えば、お前は初めて来たのか」

「う、うん……」

 

 ついさっきまで緊張している等とちゆりの事をからかっていたこいしだったが、今度は彼女の方が緊張しているようだ。

 悠次と違い、こいしは十三年前に夢美とも接点を持っていたはずだ。それこそ進一に感じていた罪悪感と同じ感情を、夢美に対しても抱いているのかも知れない。

 だが、それはちゆりも同じ事だ。もしも一人なら尻込みをしていたのかも知れないが、今は違う。

 

 ちゆりは、そっとこいしの手を取った。

 

「えっ……?」

「一人じゃない、だろ?」

 

 一瞬だけ惚けた表情を浮かべたこいしに対して、ちゆりはそう口にする。我ながらだいぶキザな台詞を吐いてしまったなと思ったが、今のこいしにはこれくらいの言葉が丁度良い。

 現にこいしは、少しだけ落ち着いたような雰囲気を漂わせていた。強張っていた肩の力が抜け、表情も柔らかくなる。それを確認した後に、ちゆりは改めて研究室の扉へと手を伸ばした。

 

 ほんの少しだけの緊張。けれど、そんなものはすぐに払拭する。意を決して、ちゆりは研究室の扉を開け放った。

 見慣れた研究室。馴染みの深い空気。つい先日も訪れたはずなのに、なぜだか懐かしさを覚えてしまう。おそらく、これまでと心境が異なる為だろう。先日までのように、投げやり気味に足を運んでいた時とは、違う。

 

「…………」

 

 無言で足を踏み入れる。──そこに、()()はいた。

 出入口から見ると、背を向けて椅子に腰掛けている。デスクの上にはパソコン。彼女はそれを操作して、何やら調べ物をしているようだ。

 ちゆりが部屋に入っても、彼女は大きな反応は見せない。熱中しすぎて気づいていないのか、それとも。

 

「夢美様……」

 

 彼女──夢美の名前を呟きつつも、ちゆりは一歩前に踏み出す。

 今更逃げるつもりはない。その思いは、本物だ。けれどもやっぱり、怖い。この感情だけは、どうしてもなくなってくれない。気を抜けば、足元が竦んでしまうような心持ちだ。

 

 だけど、それでも。ちゆりは、足を止めない。

 決めたのだ。もう一度、夢美に会うのだと。会ってちゃんと話をするのだと。

 だから。だからこそ、ちゆりは。

 

「夢美様っ!」

 

 声をかける。掛け替えのない、彼女へと。

 

 パソコンを操作する手が止まる。だが、すぐには振り返らない。何か考え事でもしているのだろうか。

 一瞬にも満たない時間が、永遠のように長く感じる。ああ、自分はそんなにも緊張していたのかと、ちゆりは思った。緊張し過ぎて時間が引き伸ばされるような錯覚なんて、生まれて初めて感じたかも知れない。

 

 それから、どのくらい経った頃だろう。おそらく、一分も経っていない。六十秒にも満たない静寂。永遠にも感じられたその時間を経た後に、()()は──。

 

 

「──遅いっ!!」

 

 

 岡崎夢美は、不意に立ち上がった。

 

「えっ……?」

「遅い! 遅いわよ、ちゆり! もうっ、待ちくたびれちゃったわ……! あれ? ひょっとして今日来ないの……? って不安に思っちゃったじゃない! 寂しかった!」

「は……? あっ、え、えっと……。え?」

「いつもは私と同じくらいか、何なら私よりも早く来ている場合が多いのに……。まったく、もうっ。たるんでるわよ? ここは私がビシッと喝を入れなきゃダメかしら?」

「…………」

 

 まったく、本当に。何が()()()()だ。それは、こちら台詞である。

 ちゆりは思わず面食らう。あの出来事から一ヶ月。こうして夢美と再会して、果たして何を言われるのか。一体どんな反応をされるのか。色々と想像をして、覚悟を決めて。そして今日、こうして足を運んだというのに。

 

 まさか、()()()()とは。全くもって、予想外である。

 

「え、絵理子……?」

「……」

 

 困ったような声を上げるこいし。彼女の気持ちは、分かる。大いに分かる。それが普通の反応だ。この状況で、あんな風に出迎えられたのだから。

 だけど。それでも、ちゆりは。

 

「……ふっ」

 

 そんな夢美の言葉を聞いて。

 

「ふっ……。ふふっ、ははははっ……!」

 

 判る。伝わってくる。彼女の想いが。彼女の真意が。

 それ故にこそ、一頻り笑い声を上げた後に。

 

「遅い? たるんでる、だって? そんなの……」

 

 顔を上げる。そして、振り向いていた夢美と視線をぶつけて。

 

「あんただって、人の事を言えないじゃないか……」

 

 ちゆりは口にする。

 

「この一ヶ月間、ずっと……。家に引き篭って、大学にも来てなかった癖に」

 

 売り言葉。まるで、夢美を非難するような口振りだけれども。

 

「ふふん。私はちゆりとは違うわ。この一ヶ月間は、言わば充電期間。無意味に時間を浪費してたと思っていたら、それは大間違いよ」

「何だよそれ。だったら私も、この一ヶ月は充電期間だったぜ。でも夢美様と違って、何回かは大学に顔を出していたからな。あんたほど不健康な生活は送っちゃいない」

「む? 言うわね。お料理も真面に出来ず、食事の殆どをインスタント食品で済ませるあなたが、私に健康的な生活を説くつもり?」

「料理は関係ないだろっ。言っとくけどな、最近はちゃんとした食事をきっちり取っていたんだぜ。インスタント食品じゃない。何せお燐が毎日作ってくれたんだからな」

「人任せじゃない! え? まさかのヒモ生活……?」

「人聞きの悪い事を言うな! と言うか、どっちかと言うと恋人のいる男に対して使う言葉だろ、それ……!」

 

 買い言葉。夢美もまた、ちゆりに反撃するような言葉を並べてくるのだけれども。

 だけれども、()()()()

 一ヶ月以上も、真面に口もきいていなかったはずなのに。そんな空白期間が嘘であるかのような、言葉の応酬である。

 

 不思議と、悪い気はしない──。

 

「ちょ、ちょっと二人ともっ。そんな言い合いなんてしてる場合じゃ……」

 

 堪らずといった様子で口を挟んできたこいしだったが、言葉を言い切る前に気がついた。

 ちゆりと、夢美。二人が浮かべる表情を、認識して。

 

「あら、こいしちゃん。あなたも一緒だったのね。随分と久しぶりじゃないかしら?」

「う、うん……。そうかも……」

「ふふっ。何だか、()()()()わね、この感じ」

「…………」

 

 ()()()()

 夢美はそう口のした。ちゆりと、こいし。二人がこうして一緒にいる様子を見て、確かに。

 

「何だよ……」

 

 思わず、声が震える。

 

「やっぱり、()()()()()()のかよ……」

 

 気丈に振る舞って、いつも通りの平静を装おうとしたのだけれども。

 ()()()()()()()

 哀しみなのか、喜びなのか。苦しみなのか、癒しなのか。不満足なのか、それとも満ち足りているのか。混沌とした感情が渦を巻く。激情が胸中を支配して。

 

 でも。()()()()は。少なくとも、これまで感じ続けていた痛みばかりではなくて。

 どこか、温かくて。そして優しい──。

 

「ゆ、夢美……! え、えっと……」

 

 何かを言いかけるこいし。けれども言葉が出てくる前に、彼女は言い淀んでしまった。

 感情を、上手く言葉として発信させる事が出来ない。どう接すべきなのかが分からない。こいしから伝わってくるのは、そんな思い。

 

 こいしからしてみれば、夢美とこうして真面に対面するのは約十三年ぶりとなるだろう。一ヵ月前のあの日にも会っていたのかも知れないが、彼女の事だ。進一への態度と同じように、夢美にだって正体を明かしていなかったに違いない。

 だからこそ、驚いたのだろう。岡崎夢美が、十三年前の出来事を思い出していたという事実に。そしてその事実を、どういった感情で受け止めるべきなのかが判らない。

 

 だけど、ちゆりには何となく分かる。夢美の思い。彼女の望み。ちゆり達に、()()()()()()()のか。()()()()()()()()()()のか。その期待に応える為に、ちゆりは気丈に振る舞おうとした。

 でも、無理なものは無理だ。

 この感情を。思いを、押し止めるなんて。

 

(ああ──。くそっ、上手くいかないな……)

 

 何も言えないちゆり。言葉に迷い続けるこいし。一時の静寂が、三人の空間を支配する。

 何かを言わなければ。気の利いた一言でも、口にしなければ。そう思って思考を巡らせるのだけれども、一向に言葉が出てこない。俯き、ただ唇を噛み締めるだけで。

 

 けれど。そんなちゆりと、こいしの様子を前にして。

 動いたのは、夢美だった。

 

「えっ──?」

 

 不意に、包まれる。ふわりとした感覚。ほんのりとした温もり。鼻腔をつつく、馴染みのある匂い。

 すぐに気づいた。──自分が、夢美によって抱きしめられているという事に。自分だけでなく、こいしも一緒に。岡崎夢美は、ちゆりとこいしを、二人纏めて抱きしめていて。

 

「夢美様……?」

「──ごめんね、()()()

「…………っ!」

 

 そして彼女は、口にする。

 

「ごめんね、()()()

「……っ。ゆめ、み……」

 

 彼女の中で眠り続けていた、思いを。

 

「あなた達の事を、ずっと放ったらかしにして……」

 

 夢美は、ちゆり達に吐露した。

 

「ごめんなさい……」

「……」

 

 夢美の言葉が、強く響く。ただでさえ言葉を見失っていたのに、ますます何も言えなくなってしまった。

 だって。だって、こんな風に接せられてしまったら。

 

「ズルいだろ、ここで、謝るのは……」

 

 絞り出すように、ちゆりはそう口にする。

 ああ。本当に、彼女はズルい。その言葉は、ちゆりの方が真っ先に口にするべきだったのに。完全に、先を越されてしまって。

 

「絵理子の、言う通りだよ……。どうして、夢美が……」

「──いいえ、謝らせて。だって、私があなた達の事を忘れていたのは、紛れもない事実なんだから」

 

 そんなの。そんな言い方、良くないじゃないか。

 夢美は何も悪くない。寧ろ彼女は被害者だ。それなのに、さも自分が悪いような物言いなど。

 そう思うと、自然とちゆりの口から言葉がついて出た。

 

「……だったら、私だって夢美様に謝りたい」

 

 心の中に溜め込んでいた思いを、形にして。

 

「ごめん、夢美様……。ずっと、ずっと……。本当の事を、言えなくて……」

「わ、私も……!」

 

 そんなちゆりに、こいしも続く。

 

「進一の事を、助けてあげられなくて……。ごめんね……」

「…………」

 

 三人が抱く思いはそれぞれだ。だけど、罪の意識は共通している。悪いのは、自分だ。他の皆は悪くないのだと、そう思っている。

 同じだ。夢美も、こいしも、そしてちゆりも。思いの根底に存在するものは、皆──。

 

「何よ……。お互いに謝ってばかりじゃ、キリがないじゃない……」

「……先に始めたのは、夢美様の方だろ」

「……ええ。そうね、そうだったわね……」

「ああ……」

 

 震えた声の夢美に対し、同じように震えた声でちゆりは言い返す。

 こいしと共に、夢美に抱きしめられたままで。ただ、夢美に対して言葉を発する事しか出来なくて。

 

「……でも」

 

 そんな中。次に口を開いたのは、こいしだった。

 

「良かった。夢美とも、ちゃんと会えて……」

 

 それは、彼女が抱き続けていた切実な思い。

 

「私、ずっと……。進一の事が、後ろめたくて……。本当は、これ以上、関わらない方がいいんじゃないかって思ってて……」

 

 罪の意識をたった一人で抱えていた少女は、ずっと孤独と戦い続けていたのだけれども。

 

「だけど……。絵理子と、また会えて。二人で一緒に勇気を出せて……」

 

 朝ヶ丘絵理子だったちゆりと、再会して。

 そして岡崎夢美とも、こうして再び出逢う事が出来て。

 

「良かった……」

 

 そう。

 それは、ちゆりも同じ気持ちだった。

 

 きっとちゆり一人じゃ、ここまで辿り着けなかった。罪の意識に押しつぶされて、あのまま腐り続けて。一歩間違えれば、今も尚立ち止まり続けていたかも知れない。──苦しんで、苦しんで。だけど、ただ苦しみ続けるだけで。一人で勝手に、腐っていく。そんなみっともない醜態を、晒し続ける事になっていたかもしれない。

 

 だが、ちゆりは立ち上がれた。そして、こうして夢美と向き合う勇気を得る事が出来た。

 こいしと一緒に、もう一度。

 

「……そうね、こいし。私も同じ気持ちよ」

 

 そして夢美もまた、こいしの言葉を受け入れる。

 

「ありがとう、二人とも。もう一度、私に会いに来てくれて──」

 

 これは、始まりだ。ちゆり達にとっての、本当の意味での始まり。

 これまでは、運命に翻弄されるばかりだった。定められたレールの上を、ただ走って。身を任せ、流されてばかりだった。けれど、それももう終わりだ。

 

 これ以上、運命なんかに好き勝手されて堪るものか。

 

 運命を覆す。

 その意思を抱いて、ちゆり達はここにいる。

 

 

 *

 

 

 一頻り思いを吐露して、三人ともようやく落ち着いて。随分と時間がかかってしまったが、改めて腰を据えた上で状況を共有する事になった。

 と言っても、ちゆりが元々持っていたのは大した情報じゃない。

 ちゆりは、この時代における幻想郷の事情を殆ど知らない。『死霊』と呼ばれる存在が現れて、蹂躙されて。最早、猶予も何も殆どないくらいに追い詰められているのだと。精々、そんな抽象的な認識だった。

 

 それ故に、情報源は自然とこいしに集中する事となる。幻想郷の住民として、彼女が直接その目で見てきた幻想郷の惨状は。

 

「……そう。博麗大結界。そして、それを管理するはずの巫女。まさか、そんな事が……」

 

 想像よりも、ずっと深刻な状況だった。

 神妙な面持ちで、言葉を漏らす夢美。流石の彼女も、状況を呑み込むのに時間がかかっている様子だった。

 

「うん……。私も、人から聞いた話だから、そこまで詳しい訳じゃないんだけど……。でも、事実だよ」

 

 そして改めて、こいしがその事実を口にする。

 

「博麗大結界と博麗の巫女。その力によって『死霊』を冥界に閉じ込める事には成功したけど、結界はもう限界なんだ。いつ『死霊』に突破されてもおかしくない」

「そして突破されたら最後、『死霊』の持つ絶対的な“死”が、幻想郷に一気に()()()()事となる……という事ね」

 

 夢美の言葉に対して、こいしは頷いてそれを肯定した。

 絶対的な“死”がいかに理不尽で強力な力なのか、間近でそれを感じたちゆりも何となく理解しているつもりだ。一ヵ月前のあの日に対峙した『死霊』は僅か一体だったが、それでもちゆりじゃどうしようもないくらいに強大で、悪辣無比な存在だった。あんなのが何体も居たらと思うと、本気で打つ手がないんじゃないかと思えてくる。

 

「そうなったら、今度こそ幻想郷はお終いだな……」

「……いいえ、事は幻想郷だけの問題という訳でもなさそうよ」

「え……?」

 

 不穏な事を口にする夢美。彼女はほんの少しだけ、考える素振りを見せた後に。

 

「幻想郷は、こちらの世界と地続きに繋がっているのよね? 博麗大結界によって隔離されているだけで。『死霊』がそんな結界を突破して幻想郷への再侵攻に成功したのなら、同じ結界を突破してこちらの世界に溢れ出ててもおかしくない」

「それは……」

「そもそも、博麗大結界の役割は、単純に世界と世界を隔離するという事だけに留まらないんじゃないかしら? こちらの世界における非常識が、幻想郷には常識として存在している。現実と幻想が逆転した世界と言っても良いわ。本来ならば、そんな世界が地続きで繋がっているなんて有り得ない状態だけど……」

「……それを実現しているのが、博麗大結界。成る程、確かにそんな結界の効力が弱くなっているのだとすれば」

「ええ。『死霊』の出現、イコール博麗大結界の完全消失──なんて単純な話ではないかも知れないけど、少なくとも何らかの影響が生じるのは確実でしょうね。常識と非常識の隔離という役割が果たせなくなれば、それこそ冥界に隔離された絶対的な“死”が、幻想郷に噴き出るのと同じように」

「幻想郷に隔離されていた非常識が、こっちの世界に噴き出る事となる……。均衡の崩壊、か。『死霊』の脅威も加味すると、こっちの世界も甚大な被害が出るという事だな……」

「そういう事。しかも、どんな被害が出るのかも全くの未知数。最悪、世界の構造そのものが変わってしまうかもね」

 

 確かに、その通りだ。

 『死霊』という存在も充分過ぎるくらいに脅威だが。そもそもこちらの世界において、()()()()()()も強大な異物である。

 妖精、妖怪、そして神などといった、こちらの世界で存在を否定された者達が住まう理想郷。そんな世界の有り様は、ちゆり達の住むこちらの世界とは最早大幅に変貌してしまっている。博麗大結界によって管理されているから良いものの、そんな結界が機能しなくなってしまったら、果たして何が起こるのか。

 

 現実と幻想の混入。万に一つの確率で上手く混ざり合ったとして、その後に生じるのは間違いなく世界の変貌だ。

 あまり考えたくはないが──。世界そのものが、消滅してしまう事も考えられる。

 それだけは、何としても避けなくてはならない。

 

「……凄いね、二人とも。こっちの世界の住民なのに、もうそこまで状況を分析出来るなんて」

 

 ちゆりと夢美のやり取りを見ていたこいしが、感心したようにそう口を開く。

 

「最早、私なんかよりも幻想郷の構造に詳しくなっちゃってるんじゃないかな……」

「いやー、そいつはどうかな。所詮は聞いた話から推測したに過ぎないし……」

「ふふん。まぁ、私の研究テーマは元々魔力だったし? そんじょそこらの学者連中なんかよりも、余程幻想に馴染んでると言うか? 私を追放した学会の連中じゃあ、こうはいかないわよねー」

「ここぞとばかりに、すげードヤ顔でマウント取ろうとするじゃん……」

 

 夢美に対して、思わずシラケた視線を向けてしまうちゆり。

 半年前の学会の事を、まだ根に持っていたのか。ぶっちゃけ、あれは夢美の発表内容も悪かったと思うのだが──。

 

「ともあれ、今の幻想郷は一刻を争う状況という事よね? 悠長に作戦を練る暇もない、と」

「う、うん……。それは、間違いないと思う」

 

 夢美の再確認に対し、こいしは頷いてそれに答えた。

 状況は芳しくない。『死霊』相手に有効な対策手段がない以上、このまま行けば待っているのは間違いなく滅びだ。その上、タイムリミットまで猶予は殆ど残されていないときた。

 考えれば考える程、絶望的な状況だ。思わず目を逸らしたくなってしまう程に。

 

 そんな中、岡崎夢美は。

 

「──それで? 態々そんな話を私に聞かせて、あなた達は一体どうするつもり?」

 

 どこか挑発的な表情。ちゆりと、こいし。二人にそれぞれ視線を向けた後に。

 

「もうすぐ世界の終わりだから、座して死を待ちましょう……なんて、そんな提案でもしようと言うのかしら?」

「まさか」

 

 ちゆりはすぐに否定する。確かに、絶望的な状況だが、だからと言って諦める気など微塵もないのだから。

 

「決めたんだ。私はこの、理不尽なバッドエンドを覆すってな。絶望的な状況だか何だか知らないが、ここで諦めて全てを放棄するなんて有り得ない」

「……覆す、ね」

「だから、夢美様。あんたも力を貸してくれないか? もう一度、私は信じてみたいんだ」

 

 力強く、ちゆりは宣言した。

 

「未来を変える、可能性を」

 

 ちゆりはもう、逃げてばかりのあの頃とは違う。贖罪と称して孤独を強要していたあの頃とは、違う。

 この意思は。思いは。この程度の絶望では、揺らがない。

 

「……ふふっ」

 

 そんなちゆりの思いを聞いて、夢美は破顔する。

 満足したような表情だった。

 

「それでこそ、私の助手よ」

 

 まるで、ちゆりを試していたかのような口ぶり。ちゆりが口にしていた言葉は、夢美にとっての正解だったという事だろう。──いや。ちゆりならこう口にするだろうと、期待していた答えと言った方が正しいか。

 

「よく言うぜ。私の気持ちなんて、本当は最初から分かってたんだろ?」

「ちゃんとあなたの口から聞きたかったのよ。他でもない、あなた自身の言葉でね」

 

 肩を窄めて呆れた様子で口にすると、夢美がそれに答えてくれた。

 

「頼まれるまでもなく、協力するわ。寧ろこっちから協力をお願いしたいくらい。──私だって、同じ気持ち。こんな運命を捻じ曲げる手段があるのなら、私はそれに賭けてみたい」

「夢美様……」

「大切な弟の生命を奪われて、それを黙って受け入れろなんて無理な話よ。納得のいく答えが得られるまで、私は藻掻き続けるわ」

「……っ」

「覚悟してよねー。これまで以上に、こき使って上げるんだから」

「……。ああ……」

 

 軽い口調で言っているが、きっと夢美の中にも並々ならぬ覚悟があるのだろう。たった一人の弟を、理不尽にも奪われて。それでも尚、彼女は自力で立ち上がって前へと進もうとしている。

 一人では前を向く事すら出来なかったちゆりとは、違う。やっぱり彼女は強い。どう足掻いても敵わないなと、そう悟られずにはいられない程に。

 

「あ、そうそう。ちょっとあなたに聞いておきたい事があったんだけど」

「……うん?」

 

 そんな夢美が、不意に何かを思い出したかのように声を上げる。

 何事かと、ちゆりが耳を傾けると。

 

「ちゆりと、絵理子。あなたの事って、結局どっちで呼べば良いの?」

「……、は……?」

 

 思わず間の抜けた声を上げてしまった。

 

「いや、あなた的には、本当はどっちで呼んで欲しいのかなーって。ずっと気になってて」

「いや……。それ、今聞く内容か……?」

「何よ、重要な事じゃない! はっきりさせておかないと、これから呼ぶ時に困るでしょ? 迷っちゃうじゃない!」

「それは、そうかもだが……」

 

 今の話の流れで聞かれるとは思わなかった。一体どのタイミングで思い出したのだろう。相変わらず、若干ズレているというか何というか。

 けれども。確かに、夢美の言う通りである。

 はっきりさせておかねばなるまい。北白河ちゆりの──朝ヶ丘絵理子の、真意を。

 

「──私は、ケジメをつけたつもりだったんだ。朝ヶ丘絵理子だった私が、選択を誤って。その結果、夢美様達の事を傷つける事になって。──だから、朝ヶ丘絵理子はあんた達の傍にいちゃ行けない。朝ヶ丘絵理子である自分は、選択を誤ったあの日に死んだんだって。そう、思う事にした」

 

 それは、先日こいしにも語った彼女の真実。朝ヶ丘絵理子である事を辞め、北白河ちゆりとして生きていく事を決意した、彼女の思い。

 ──だけど。

 

「でも、結局はそれも逃げだったんだ。私は、あの思い出から目を背けたかっただけだったんだと思う。北白河ちゆりという、朝ヶ丘絵理子とは()()として生きていく事で、あの失敗をなかった事にしたかったのかも知れない」

 

 気づいたのだ。自分は、逃げているだけだったのだと。

 

「こいしと再会して、やっと気づけたんだ。私はずっと、過去からも、そして今からも、逃げ続けていたんだって」

 

 逃げて、逃げて、逃げて続けて。だけど結局、その考えには限界がある。幾ら目を背け続けても、結局はその場凌ぎの結果にしかならない。

 過去を乗り越える事なんて、出来る訳がない。

 

「だから、決めたんだ。今の私も、過去の私も。私はこれ以上、否定しない。朝ヶ丘絵理子も、そして北白河ちゆりも。紛れもなく、どちらも私自身なんだって。──私は、私を受け入れて生きていく」

 

 自分は、自分だ。他の誰でもない。そんな自分を受け入れられるのは、自分自身しかいないじゃないか。

 そうして受け入れる事で、彼女は前に進む事が出来る。過去も、今も。そして、未来も。乗り越える事が出来る──。

 

「だから、その、つまり……。あれだ」

 

 随分と、遠回りしてしまったけれど。

 つまるところ。

 

「私の事は、好きに呼んでくれて構わない。朝ヶ丘絵理子でも、そして北白河ちゆりでも」

 

 夢美とこいしに向けて、ちゆりはそう告げた。

 どちらが良いのかと聞かれて、結局どちらでも良いという回答になってしまった訳だが。紛れもなく、これは自分の真意だ。

 自分は朝ヶ丘絵理子でもあり、そして北白河ちゆりでもある。どちらの自分も否定せず、どちらの自分も受け入れるのだと。そう決めたのだ。

 

 だから、どちらで呼ばれても良い。

 絵理子でも、そしてちゆりでも。

 

「……そう」

 

 傍から見たら、優柔不断な回答。けれど夢美は、嫌な顔一つもしなかった。

 寧ろ、どこかホッとしたような表情で。

 

「安心した」

 

 岡崎夢美は、そう答える。

 

「朝ヶ丘絵理子も、そして北白河ちゆりも。どちらのあなたも、あなた自信が嫌いになってなくて」

 

 ただ、優しげに。

 

「良かった」

「夢美様……」

 

 まさか、これを再確認する為に、態々あんな事を聞いてきたのか。勿論、どちらの名前で呼んで欲しいのかと、言葉通りの内容を確認する意図もあったのだろうけど。

 やはり、夢美には敵わない。

 彼女の前で嘘を貫き通す事など、初めから無理な話だったのかも知れない。

 

「そうね……。それじゃ、あなたの事はこれまで通りちゆりと呼ばせて貰おうかしら? 私や進一の為に考えてくれた名前なんでしょ?」

「まぁ……。そうとも、言えるかも知れない」

「だったら決まりね。折角だし、あなたの気持ちもちゃんと受け取っておくわ」

「…………」

 

 改めてそんな言い方をされると、何だか小恥ずかしい。いや、決して間違ってはないのだけれども。

 

「あ、私は絵理子って呼ぶね。なんて言うか、そっちの印象があまりにも強くて」

「……ああ。それで良い」

 

 夢美に続いて宣言してきたこいしに対し、ちゆりは頷いてそれに答えた。

 そう。これで良い。ちゆりである自分も、絵理子である自分も。どちらの自分も、大切にしたいから。

 こうして名前を呼んでくれる人達がいるだけで、幸せだった。

 

「そう言えば、由来とかあるの?」

「……由来?」

「北白河ちゆりって名前の由来。まっ更な状態から自分で考えたの?」

「それは……」

 

 純粋な疑問をこいしにぶつけられて、ちゆりは思わず苦笑する。

 由来。確かにそれは、存在する。そこまで話してしまうべきか、否か。ちょっぴり迷う。

 でも。

 

(……そうだな)

 

 ちゆりである自分も、絵理子である自分も、二人は受け入れてくれた。だったら変に隠し事をするのもフェアじゃない。

 それなら。全て、さらけ出してしまおうと。そう思った。

 

「……遠い親戚の名前だ」

 

 ちゆりは思い出す。この名前を名乗り始めた頃の記憶を。

 

「まぁ、会った事は一度もないし、私が生まれる前に亡くなってるみたいなんだけどな。──子供の頃に見た家系図に載ってて、それが妙に記憶に残ってて」

 

 夢美達とも出会う前。子供の頃の朝ヶ丘絵理子は、その孤独を誤魔化す為に自宅のあらゆる書物を読み漁っていた時期があった。その時たまたま見かけた家系図に、その名前が載っていたのを記憶している。

 そう。本当に、ただの偶然だった。たまたま記憶の片隅に残っていた名前を使わせて貰ったに過ぎない。それ以上の理由なんて存在しないのだけれども。

 けれども、ひょっとしたら。

 

「私は、心のどこかでは飢えていたのかも知れない。人との繋がりってヤツに。私はずっと孤独なんだって、そう思い込んでいたから──」

 

 故に、無意識下に求めていた。家族との温もりを。会った事もない親戚に、しがみついてしまう程に。そんな未練がましい思いが、北白河ちゆりという名前を生み出した。

 結局。どんなに強がった所で、ちゆりは孤高にはなり切れなかったという事か。今になって思い返して、そんな結論に至ってしまうと、何だかちょっぴり恥ずかしい。過去の過ちを再認識させられたような心地になる。

 照れ隠しに、ちゆりは話を切り上げてしまう事にした。

 

「まぁ、それだけの話だ。別に大した事でもなかっただろ?」

「そ、そんな事……」

 

 反応に困るような表情を浮かべるこいし。まぁ、無理もないかも知れないが。

 とは言え、別にちゆりはそんな過去だって否定するつもりはない。この弱さだって、ちゆりの一部だ。無意味な一面なんかじゃない。

 

「それなら、尚更大切にしなきゃね」

 

 そんな中。気を遣ってくれたのか、夢美がそう口を開く。

 

「あなたにとって、必要な思い出だったんでしょう?」

「……ああ。そうだ、その通りだぜ」

 

 そう。この弱さだって、ちゆりにとって必要なのだ。

 過去を乗り越えて、未来を掴み取る為に──。

 

「さてと! 色々と、モヤモヤも解消された所だし」

 

 気を取り直して、とでも言いたげな勢いで。そう口にしつつ、夢美は椅子から立ち上がって。

 

「そろそろ出発するわよ、二人とも!」

「……は? 出発って、何の事だ?」

 

 あまりにも唐突だった。脈絡が無さすぎる。夢美に振り回されるのは正直いつもの事ではあるが、今回ばかりは意図を察する為の材料が少な過ぎだった。

 こいしと揃って首を傾げていると、流石の夢美も言葉足らずである事に気づいたらしい。こほんと、咳払いを一つ挟んだ後に。

 

「一つ確認。こいし、あなたの『能力』を行使すれば、今の博麗大結界を越えられる。それは間違ってないわよね?」

「……うん。それは、充分に可能だよ。もう何度も実践してるし」

「……私とちゆりの、二人が一緒でも?」

「えっ……?」

「それって、まさか夢美様……」

「ええ。そのまさかよ」

 

 そこまで言われれば、察する事が出来る。

 未来を変える可能性を信じたいという、ちゆり達の思いを受け入れて。それどころか、寧ろこちらから協力をお願いしたいと言ってくれた夢美。そんな彼女が、博麗大結界を超える為の手段を確認しているのだ。

 考えられる目的は一つ。

 

「幻想郷に乗り込むわ」

 

 その意図を、岡崎夢美は宣言する。

 彼女なりのやり方で、未来を掴み取る為に。

 

「直接会って話を聞くのよ。あなた達に未来を変える可能性を提示した、()()()にね」


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