どうして。
どうして、こんなにも大切な事を忘れていたのだろう。
いや。厳密に言えば、忘れていたという表現は適切ではない。記憶違い、とでも言うべきか。本来ならば覚えているべきはずの思い出が、履き違えて記憶してしまっていた、と言ったところか。とにもかくにも、今日、この瞬間までちゆりが抱き続けていた思い出の中には、古明地こいしという少女の存在が綺麗さっぱり消失している状態だった。
確かに、九歳の頃にちゆりは進一との出逢いを果たしている。それは間違いない。だけど、それだけでは不十分だったのだ。
あの時ちゆりと出逢ったのは、進一だけじゃない。進一の他に、もう一人。
「ああ、そうだ……」
あの日。あの時。あの瞬間。
確かに、彼女はそこにいたじゃないか。
「お前、お前は……」
それなのに。
「
忘れていた。
「あの時、進一と一緒に出逢ったのは……」
大切な。ちゆりにとっては何よりも大切な、思い出だったはずなのに。
「お前だったんだな、こいし……」
「…………っ」
頭の中がクリアーになってゆく。自分でも気づかぬうちに深い霧に包まれていた思い出が、晴れて明確になってゆくような。文字通り、そんな感覚である。
十数年前のあの日。孤独感から逃れるように家を飛び出したちゆりは、近所のとある公園で進一と出逢った。それから一ヶ月ほどの間、毎日のようにあの公園で一緒に遊ぶ事になるのだが。
その輪の中に、
進一と、その少女。いつもその三人で、遊んでいたのだ。
これが本当の記憶。完全な思い出だ。
「私……」
ぽつりと、こいしが呟く。
「私も、忘れてた……」
震える声。けれどもしっかりとした思い出を、その胸に。
「貴方の事を……。でも、どうして……」
信じられない。ちゆりと同じく、こいしの心から湧き上がってくるのはそんな感情なのだろう。互いに進一との思い出は覚えていた癖に、それを共有した
判らない。なぜ、こんな状況に陥ってしまったのか。
──だけど。
「こいし……」
呟くその名が、心に響く。少し前までは、何の感情も抱かなかったはずなのに。
「こいし……。古明地、こいし……」
思い出が押し寄せてくる。これまで忘却していたはずの記憶が、溢れ出てくる。
感情が上手く制御できない。
気がつくと、ちゆりは崩れ落ちていた。身体の力が一気に抜けて、がくんと膝をついて。
「えっ……!?」
「私……、わたしは……」
「ちょ、ちょっと……、大丈夫……!?」
目の前で急にちゆりが崩れたのに驚いたのか、こいしは心配そうな声を上げる。けれどもちゆりは、そんなこいしに対して、気の利いた返事を一つする事さえも出来なかった。
ただ、俯いて。駆け抜ける感情に翻弄されるばかりで。
そんな濁流のような感覚に、身を任せていると。
「……っ、はっ……」
自然と、声が出た。
「はっ……。はは、ははははっ……!」
乾いた笑い声だ。別に面白いと思った訳でもないはずなのに、自然とそんな笑い声が勝手に零れてしまう。
──いや、今の表現は適切ではない。面白いとは思わないなんて、それはある意味で今のちゆりの感情とはズレていると言っても良い。
確かに面白い。──滑稽だ。
こんな大切な事を忘れていた、自分自身が。
「え、えっと……」
こいしが若干引いている。まぁ、急に目の前の人物が崩れて膝をついたと思ったら、今度はいきなり笑い始めたのだ。困惑してしまうのは無理はないと思うし、実際ちゆり本人だって未だに困惑している。
「いや、悪い……。大丈夫だ。ただ……」
困惑するこいしに対して、ちゆりは弁明を述べる。
「まさかお互いに、綺麗さっぱり忘れてたなんて……。中々どうして、ふざけた状況だとは思わないか?」
「…………っ」
こいしは言葉を失っている様子だった。どんな表情で何を言葉にすればよいのか、それが判らないのだと。そう言いたげな印象。
その気持ちは判る。大いに理解出来る。
だって、ちゆりだって同じ気持ちなのだから。どう接するのが正解なのか、判らない。
「……そ、その」
そしてそんな状況でも、おずおずと言った様子で口を開いたのがこいしだった。
「絵理子、なんだよね……?」
「…………」
絵理子。朝ヶ丘絵理子。
どう答えるべきか、散々迷ったちゆりだったが。
「……ああ」
真実を、告げる事にした。
「久しぶり、とでも言うべきか……?」
だって、こいしは。
あの思い出の中に確かに存在する、北白河ちゆりに──。
「私は、絵理子。朝ヶ丘絵理子
──朝ヶ丘絵理子にとって、大切な友達の一人なのだから。
「……覚えていないなんて、酷いじゃないか」
冗談めかした口調で、そんな事を口にする。酷いだなんて、そんな事は微塵も思っていない癖に。
そんな言葉を聞いたこいしが、今度は俯く。ぎゅっと下唇を噛みしめて、ブランコの鎖を再び強く握りしめて。それから、暫くの沈黙を挟んだ後に。
「貴方だって、忘れてたじゃん……」
震える声。だけど。
「何なの、ちゆりって……。絵里子じゃないの……?」
だけど仄かに、暖かな感情を滲ませていて。
「名前も変わってちゃ、気づけないよ……」
言葉とは裏腹に、こいしはどこかすっきりとした表情を浮かべていた。
涙が溜まっているのか、彼女の瞳はうるうると潤っている。ちゆりと同じように、感情の奔流に翻弄されているのだろうか。思い出が一気に流れ込んできて、それをどう処理すべきなのかが判らない。そんな感覚。
馴染の薄い感覚だ。久方ぶりに旧友と再会したような感覚──とも違う。似ているけれど、別物だ。
これも偏に、ちゆり達を取り巻く特異性が起因しているのだろう。十数年前のあの日。あの公園で邂逅した三人は、その誰もが特殊な事情を抱えていたのだから。
「……ねぇ、どうして、北白河ちゆりなんて名乗ってるの?」
そんな中。こいしは更に踏み込んだ事を尋ねてきた。
「苗字だけじゃなくて、名前まで変えてるなんて……」
「……っ。そうだな……」
気になって当然だろう。彼女は、朝ヶ丘絵理子だった頃のちゆりを記憶している数少ない人物。十数年たった今、苗字と名前までも変えて全くの別人として振る舞っているちゆりの事を見れば、そんな疑問を抱くのは当然と言える。
だが、ちゆりの心は既に決まっていた。
彼女には。こいしには、全て話すべきなのだと。ケジメをつけるべきなのだと、そう感じていたから。
「……お前も気づいているだろ? 進一は、あの頃の私達の事を覚えてなかった。いや、進一だけじゃなくて、それは夢美様も同じだったんだ」
「……うん」
「あの姉弟にとって、
「苦痛……」
そう。
判っている。ちゆりには、痛いくらいにその理由を理解している。そうなってしまった原因を、把握している。
「……多分、あの姉弟は私の事を恨んでいる」
「えっ……?」
だって。だって、あの日。
進一に余計な事を口走って。踏み込んではいけない所まで干渉して。──彼の心を壊してしまったのは、他でもない、ちゆりなのだから。
「だから、これはケジメなんだ」
贖罪にすら、なってはいないのかも知れないけれど。
「私は朝ヶ丘絵理子である事を辞めた。朝ヶ丘絵理子である自分は、もう、死んだんだ」
あの姉弟は、忘れたままで良い。朝ヶ丘絵理子の事なんて、思い出さなくて良い。
『……あなた、誰なの?』
その直後に霍青娥と出逢って、彼女と協力関係を結ぶ事になって。それから彼女は、朝ヶ丘絵理子だった頃の記録を消した。
北白河ちゆりとして、生きていく事にしたのだ。
『……初めまして。岡崎進一、です。姉がお世話になっています……』
そうだ。進一だって、覚えていなかったじゃないか。
だからこれが最善。良かったのだ、これで──。
「……っ。そんなの……」
だけど。
だけど、それでも。
「そんなの、駄目だよ……」
「こいし……?」
震える声で、こいしは否定する。
「そんな、責任……。絵理子が、負う必要なんて……ないんだよ……」
ちゆりが貫こうとしたケジメ。朝ヶ丘絵理子という自分を殺し、そしてあの姉弟に贖罪する事。彼らの背負う問題を解決し、本当の意味での平凡を与える事。
それこそが責任。進一を
「だって……。だってそもそも私が、進一にあんな事を……」
「あんな事……?」
引っ掛かる表現が飛び出した。
あんな事。それは一体、何を示しているのだろうか。あの日の思い出に欠落が生じていたと判明した今、未だに忘却の彼方に追いやられている記憶が存在するのかも知れない。
思い出せ。もう一度良く考えるんだ。
あの日の出来事を。
「さっきも、言ったでしょ……?」
答えを出せずに四苦八苦しているちゆりに向けて、こいしは語る。
「私が、進一の事を壊したんだって……」
「……っ。それって……」
そう、それは。あの思い出の裏に存在した、もう一つの真実。
*
こいしが進一やちゆり──絵理子と出会ってから一ヶ月ほど経ってからの事だ。あの結界を越える
充実な一ヶ月だったと思う。今の今まで心を閉ざし続けていた自分が、少しずつ素直な気持ちを伝える事が出来るようになるくらいに。進一や絵理子との交流は、こいしの心に確かな光を灯し始めていたのだ。
そう。あの日、あの瞬間までは。
『嫌、また……まただ……。また、見えて……』
そうだ。
確かに、絵理子の言っている事に間違いは無い。
『嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! 見たくない……見たくない、見たくない見たくない見たくない! ボクはこんなの、見たくないのにッ!!』
あの日、彼女は踏み込んだ。進一の抱える問題へと向かって、一歩。
『嫌だ……嫌だ、嫌だよ……』
その結果。彼の中に眠るトラウマを、呼び起こす結果になってしまった。彼の心の傷に、塩を塗る結果になってしまった。
『助けてよ、お姉ちゃん……!』
確かに彼女は、踏み込むべきではなかったのかも知れない。余計なお節介なんて焼くべきではなかったのかも知れない。
でも。だけれども。
この罪を背負うべきなのは、彼女だけでは無いはずだ。
それは、古明地こいしだって──。
「…………」
絵理子の問いかけにより進一が錯乱してしまってから、日を改めて。再度こいしがあの公園に赴くと、いつも通りに彼はそこにいた。
たった一人、ブランコに腰掛けて。
「えっと……。進一……?」
「あっ……」
おずおずと声をかけると、彼は顔を上げた。
沈んだ表情。まるで、初めて会ったあの日と同じか、それ以上。精神的に憔悴し切ってしまっているかのような、そんな印象だった。
「こいしちゃん……。来てくれたんだ……」
「う、うん……」
口籠りつつも、こいしは頷く。だが、それ以外の言葉がまるで出てこなかった。
判らない。どんな言葉をかけるべきなのか、それが判らない。こっちから声をかけた癖に、直ぐに何も言えなくなってしまうなんて。
けれども言葉を失ったこいしに対し、続けたのは進一だった。
「良かった。こいしちゃんとも、もう一度お話ししたいと思ってたから……」
「私と……?」
「うん。本当は、絵理子ちゃんも一緒だったら良かったんだけど……」
そう言いつつも、進一は周囲を見渡して。
「今日はまだ来ていないみたいなんだ、絵理子ちゃん……」
「そう、なんだ……」
彼の言う通りだ。いつもは真っ先にこの公園を訪れているはずの絵理子の姿が、今日に限ってはどこにも見当たらない。──いや、いつも遊んでいる時間帯よりまだ少し早いくらいか。彼女にも都合があるだろうし、絶対に来ない等と諦めるにはまだ早すぎる。
ああ、そうだ。まだ諦めない。
確かに昨日、絵理子は逃げ出してしまったのだけれども。このまますっぽかして終わりにするなんて、そんな事をするような少女じゃないと思うから。
「……ごめんね、こいしちゃん」
「えっ……?」
そんな中、不意に進一が謝罪の言葉をこいしに向けて口にしてくる。
一瞬、思考が止まる。何を思って彼がそんな事を言ってきたのか、それが判らなかったからだ。
「どうして、謝るの……?」
「だって昨日、ボク……。二人に迷惑をかけちゃったから……」
「迷惑って……」
あんなの迷惑に入らない。進一が何らかの問題を抱えている事については、初めて会ったあの日から何となく察していた事だ。そして、それが原因で一人になっていた事だって。
いや、そもそも、彼がこいしに謝罪する必要だってないじゃないか。
「……謝るのは、私の方だよ」
彼は悪くない。責任なんて感じる必要はないはずなのに。
「昨日、あんな姿の君を見て、私は結局何も出来なかった。何か大変な事が起きてるんだって、そんなのは明確だったはずなのに……。それでも私は、何の行動も起こす事が出来なかったんだ」
「こいしちゃん……」
ああ、そうだ。結局自分は、何も変われていない。命を賭した姉に救われたあの日から、何も。
誰かに助けられてばかりで、自分は誰も助けられない。誰かに何かを貰ってばかりで、自分からは何も与えられていない。空っぽなのだ、自分は。
「……ボクの事、お姉ちゃんから聞いたんだよね?」
「……ッ」
「ごめんね。隠すつもりはなかった……なんて言っちゃうと、嘘になっちゃうんだけど……」
お姉ちゃん、とは夢美の事だ。確かにこいしも絵理子も、彼女からおおよその事情は聞いている。
一年ほど前に、母親が亡くなっている事。そしてその日以降、進一は自ら人との関わりを持つ事を避けるようになってしまった事。ずっとずっと、暗い表情を浮かべ続けていた事。
そして。こいしや絵理子と出逢ってから、少しずつ笑顔を取り戻す事が出来ていた事も。
「怖かったんだ。あの日の事を思い出すのが。だから、ボクは……」
そして進一は言葉を紡ぐ。
「ボクには見えるんだ。誰かが死んじゃう
苦しげに、それでも尚、記憶を探って。
でも。
「だから……。だか、ら……」
「良いよ。無理に思い出す必要なんてない」
必死になって言葉を続けようとする進一に向けて、こいしは口を挟む。
「思い出したくない記憶なんて、誰にだってあるんだよ。そんな
「トラウマ……?」
そう。古明地こいしは理解している。
何故なら自分もそうなのだから。覚妖怪であるが故に、嫌われ者となっていた事。自分なんかを守る為に、姉が命を落としてしまった事。そんな記憶はトラウマとしてこいしの心に積み重なり、そして今も尚受け入れる事が出来ていない。故にこそ自分は心を閉ざした。
進一も同じだ。
心の傷。思い出したくもない思い出。そんなトラウマから逃れる為に、彼は独りになる事を選択した。関わりを持たぬ事こそが、自身を守る最善の選択なのだと。そう判断して。
「……ねぇ、進一」
故にこそ、こいしは思いついた。
「もしも……。もしもそんなトラウマを、無意識の領域に封じ込む事が出来ると言ったら……」
「君は、どうする……?」
「無意識……?」
古明地こいしが有する特異性。他の覚妖怪にはない『能力』。無意識の領域に干渉出来る自分なら、彼の取り巻く問題を解決出来るのではないかと。そう思った。
「私なら、君を救えるかも知れない」
ああ。今思えば、滑稽な話だ。
「その苦しみから、君を解放出来るかも知れないんだよ」
そんな事をした所で、結局はその場しのぎの逃避に過ぎないのだと。ちょっと考えれば判るはずなのに。
それでもこいしは、選択した。選択をしてしまったのだ。
余計なお世話。こんなのは結局、自己満足を満たす結果にしかならない。──だけど。
「ボク、は……」
ああ、そうだ。やっぱり、
こいしも。そして、進一も。
「それで、こいしちゃんや絵理子ちゃん……。そしてお姉ちゃんに、これ以上の迷惑をかけなくて済むのなら……」
目の前に希望が提示されれば、後の事なんて考えられなくなる。縋る事しか出来なくなってしまう。その選択が誤っているのだと、そんな可能性すら考慮出来ずに。
「……やって欲しい」
ただ、甘美な希望だけを、享受してしまって。
「ボクの、
彼は受け入れた。何の躊躇いもなく、こいしの提案を。しかも自らの為でなく、周囲に迷惑をかけたくないという理由で。
まだまだ幼い子供なのに、そんな考えに至る事が出来るなんて。──いや、逆に言えば、それほど辛い経験を経たという事なのだろう。それ故に、こんな結論に辿り着いてしまっている。
こうなってしまえば、後はもう流れに身を任せるしかない。
この場にいる、誰もが気づいていないのだ。一時の誘惑に身を委ねた所で、待ち受けているのは後悔だけなのだと。そんな簡単な事さえも。
「……分かった」
そして。
古明地こいしは、彼の願いを受け止める。
「封じ込めるよ。君のトラウマを、その感情ごと」
これこそが、『無意識を操る程度の能力』の正しい使い方なのだと。
「無意識に──」
そう、信じて。
*
古明地こいしから語られた真実を耳にして、ちゆりはそれをどんな感情で受け止めるべきか分からなくなってしまっていた。
あの日。朝ヶ丘絵理子だった自分が余計なお節介を焼き、進一の事を傷つけてしまった翌日。彼は言っていた。自分の事なんて忘れれば良い。関わらなくて良い。自分もこれ以上、絵理子とは関わらないから、と。
嫌われてしまったのだと、そう思った。余計な行動を起こした絵理子の事が、嫌になったのだと。もうウンザリなのだと。そんな感情を抱かせてしまったのだと思っていたのに。
どういう事だ? こいしの言葉を信じるのなら、彼があんな状態になったのはこいしの『能力』によるものだという事になる。無意識の領域に、トラウマごと心を封じ込まれて。だから、あんな──。
「お前、それ……。本気で、言ってるのか……?」
ちゆりは問う。こいしの真意を、確かめる為に。
「…………っ」
こいしが浮かべる表情は、実に悲痛なものだった。
息苦しさも感じられる。俯き、唇を噛み締め、そして拳を握り締めて。彼女は、小さく頷く。
「……うん」
ちゆりの言葉を、肯定する。
「そうだよ。私が、進一に『能力』を使ったんだ」
まるで、懺悔でもしているかのように。
「上手くいくと思ってた。丸く収まると思ってた。でも……」
彼女は告白する。
「だけど、失敗した」
彼女自身の、罪を。
「まさか、あんな事になるなんて……」
思いつきや適当な作り話をしているような雰囲気はない。彼女が語った話は紛れもなく真実で、あの瞬間に実際に起きた事なのだと。そんな確信めいた感覚がちゆりの中から湧き上がってくる。
絵理子だった頃のちゆりを突き放した進一。だけどその裏に、そんな真実が隠されていたなんて──。
「考えてみれば当然の結果だよ。こっちの世界の人間に、幻想郷にとっての常識──非常識を混入させれば、何が起きても不思議じゃない……」
「……っ」
「だから、あの日……。私の軽率な行動の所為で、進一は完全に心を……」
自分の所為なのだと、こいしは語る。進一が変わってしまったのは、自分が原因なのだと。
それ故にこそ、彼女は口にしていた。自分が、進一の事を壊したのだと──。
「あれから、三人とも皆バラバラになった。進一も、絵理子も、あの公園に集まる事はなくなって。そして、私も……」
いや。進一の事だけじゃない。
もしかしたら彼女は、更に深い罪を感じてしまっているのではないだろうか。
偶然が重なって出逢う事になった少年少女達。その関係を壊す事になった要因が、自分にあるのだと。そう思っているのではないだろうか。
「久しぶりにこっちの世界に来て、偶然にも進一を見かけた時は、びっくりした。勿論、私の事は覚えていないみたいだったけど……」
彼女は。
古明地こいしは、ずっと、そんな想いを──。
「あの時の罪滅ぼし、のつもりでもう一度『能力』を使って無意識に干渉してみたけど……。もう、私なんて必要ないみたいだったよ。あれから進一が何を経験したのかは、分からないけど……。だけどあの子は既に、前を向いて立ち上がる事が出来たみたいだったから──」
「こいし、お前……」
正直なところ、ちゆりの中に渦巻く感情は混乱が大きい。今まで信じ続けていた現実が、大きく覆されたような。否定されたかのような、そんな心地である。
でも。何だろう、
このままで良いのかと。ただ、彼女の言葉を聞き流せるだけ聞き流して。不安定な心持ちのまま、一方的な告白を受けるだけなんて。そんなの、本当に容認出来るのだろうか。
──いや。そんなの、考えるまでもなく明確だった。
「ふざけんな……」
許せない。
「ふざけんなよ、お前……!」
「えっ……?」
ブランコに腰掛けたままのこいし。そんな彼女の両肩を掴み、ちゆりは吐露する。
「十三年前のあの日から今日に至るまで……! 全部、全部ッ……! お前の……!!」
溢れ出る激情。だけど、それは。
「お前の、所為だなんて……」
怒りや憎しみ等という感情なんかじゃなくて。
「思える訳がない……」
身体から力が抜ける。どさりと、ちゆりは崩れ落ちるように膝をついて。
「ふざけてるのは、私の方だ……」
そう。
許せないのは、自分自身だ。
「お前の事も忘れちまって……。ただ、自分一人が、不幸のどん底みたいな思いになって……」
渦巻く感情を紐解いて、真っ先に顔を出すそれは。
悲哀。
「ごめん……。こいし……」
ちゆりは謝罪する。謝罪の言葉を、口にする事しか出来ない。
「お前が感じた痛みも、哀しみも……。何一つ、判ってやれなくて……」
こんな言葉じゃ、罪滅ぼしにもならないのだと。そんな事は百も承知なのだけれども。それでも、口にせずにはいられないのだ。
だって、彼女は。古明地こいしというこの少女は。
朝ヶ丘絵理子だった自分の、大切な友達だったのだから。
「ごめん……」
「絵理子……」
俯いて、真面に目も合わせられずに謝罪するちゆり。そんな彼女の頬に、こいしの手が優しく添えられる。
おもむろに顔を上げると、ようやくこいしと目が合った。
「私だって、貴方の事を忘れてた」
声が震えている。感情が不安定になっているのだと、声を聞いただけでも伝わってくる。
「同じなんだよ、私も……。私だって、貴方の事を、何も……」
何も、理解していなかった。朝ヶ丘絵理子という少女の記憶は忘却の彼方へと追いやられ、ただ岡崎進一という少年との思い出だけが残った。
ちゆりと同じだ。大切な記憶が不完全なものだったなんて、そんな事も気づかずに、ずっと──。
「だから、私も……」
ずっと、彼女も抱え続けていた。
「ごめん、絵理子……」
「…………」
言葉が詰まる。自分と同じように謝罪の言葉を口にするこいしを前にして、ちゆりは思わず口籠ってしまう。
色々と、言いたい事があるはずだった。十三年間も忘れていた癖に、いざ思い出すと様々な感情が勝手に胸中から溢れ出て来て。とめどなくて、抑えきれなくて。
それなのに。
この感情は。想いは。たった一つの言葉に、集約されてしまう。
「……結局」
ああ、そうだ。
結局、自分達は。
「結局、似た者同士……、なのかもな。私達……」
「似た者、同士……」
一瞬の思案顔。だけどこいしは、直ぐに納得した様子になって。
「……うん。そうかもね」
理解していた。ちゆりも、そしてこいしも。これ以上、互いに罪を告白し続けた所で、話が堂々巡りになるだけだという事を。
判っているのだ。言われなくても、痛いくらいに。
誰かの所為だとか、誰が悪いのだとか。誰の責任で、どうしてこんな結果に陥ってしまったのだとか。そんな小難しい話なんかじゃない。
あの日。あの瞬間。あの場にいた誰もが、
ただ、それだけの話だったのだ。
(ああ……。本当に、滑稽だ)
この十三年間。本当に、自分は何をしていたのだろう。子供の頃に犯した失敗を、ずっと引き摺り続けて。あの姉弟への贖罪こそが、自分の生きる意味なのだと。そう思い込み続けて。
その大切な記憶さえも、不完全だったというのに。そんな事にも気づかずに、ずっと、ずっと、思い違いをし続けて。
「……『幻惑させる程度の能力』」
「……え?」
ふと、脳裏に過って口をつく。
自分とこいし。二人の間に生じていた、記憶の欠落。その原因の推測を。
「私の『能力』だ。目を合わせた相手の意識を文字通り幻惑させる事が出来る。あの頃の私は自在に行使出来る訳じゃなかったが、それでも眠った状態で確かに存在していたはずなんだ」
「え、えっと……。何の話……?」
「お前と私が記憶違いをしていた原因の話だ。お前の『能力』の事は知ってる。無意識に干渉し、操る事が出来るんだろ?」
「それは、そうだけど……」
正直、今更こんな結論に至った所で遅い。起きてしまった事象。その結果の先にある
「『能力』の偶発的な同調だ。多分、私とお前の『能力』は、どこか波長が似通っていたんだろう。無意識と幻惑の交錯──その相乗効果によって、未熟だった私達は『能力』の軽い暴発状態になっていたんだと思う」
それでも。例え遅くとも、あの思い出の真実を事実として受け入れる為に、必要なプロセスなのだと。そう思うから。
「お前……。あの頃、どの程度の精度で『能力』を行使出来たんだ?」
「どの程度って……。殆ど自在に扱える状態──」
そこまで口にしかけて、こいしは首を横に振る。
「ううん。そう思い込んでただけだと思う。ただでさえ『能力』に振り回され気味だったのに、あの頃の精神状態じゃ正確に行使なんて出来る訳が無い。だから、進一の事だって……」
「……そうか」
「まぁ、今でも正直、完璧に制御出来てるとは言い難いけどね。こうして貴方に見つかっちゃったし……」
苦笑するこいし。自分は今も尚『能力』を持て余しているのだと、そう語っている。
やはり、ちゆりの推測は間違ってなさそうだ。先程この記憶を思い出した時だって、ちゆりとこいしの能力は互いに干渉し、そして暴走を引き起こした。
今回はそんな干渉による暴走で想起する事に成功したが、十三年前はその逆だった。
朝ヶ丘絵理子の記憶は無意識の領域に追いやられ、そして古明地こいしの記憶は幻惑された。二人の思い出の中からそれぞれの存在が零れ落ち、そして欠損が生じてしまっていたのだ。それも、互いにまるで気づかぬうちに。
それこそが、十三年前の思い出に隠された真実──。
「……はぁ。まったく」
そこまで考えた所で、ちゆりは思わず嘆息する。
「結局、この記憶違いも
「……そうだね」
誰かの所為なんかじゃない。皆が皆、良かれと思って行動して。悪意を持って状況を悪化させてやろうなんて、これっぽっちも思ってなくて。偶然に偶然が重なって、
一人で抱え込む必要なんて、本来ならばなかったはずなのに。意固地になって、殻に閉じ篭もって、自分が悪いのだと思い込んで。
(私は、また……。同じ事を繰り返そうとしてるのか……?)
進一はちゆりを庇って命を落とした。その事実は確かなのだけれども。
(一人で勝手に抱え込んで、勝手に腐っていくなんて……)
そんなの、あんまりじゃないか。
自分が悪いのだと。自分に責任があるのだと。そう思っているのなら。──そう思っているのだからこそ、ちゆりは行動を起こさなければならない。十三年前とは、別の方法で。
「なぁ、こいし。ひとつ聞かせてくれ」
立ち上がり、そして今度は毅然とした態度で。ちゆりはこいしに問いかける。
「青娥から聞いた。お前の目的は、幻想郷で継続している『異変』の解決──。延いては、『死霊』の犠牲になった姉を助ける事だって」
「……っ。それは……。あいつ、そんな事まで……」
この反応から察するに、青娥から提示されていた情報は間違ってなさそうだ。あの邪仙は隠し事こそすれど、嘘をつく事はしない。そういう意味では信用しても良い。
「お前は、まだ目指しているのか?」
「えっ……?」
「この理不尽なバッドエンド……。不条理でクソッタレな未来を変えたいって、そう思っているのか?」
「それは……」
一瞬、こいしは沈黙を挟んで。
「そう思ってた。でも……」
「……でも?」
「不安なんだ。『死霊』が現れてから八十年、事態は一向に好転しないどころか、悪化の一途を辿ってる。それなのに、本当に未来を変えるなんて……」
「…………」
伝わってくるのは、底知れぬ不安感。酷く怯え切った様子で、こいしはそう語る。
あくまで霍青娥から聞いた話で、こいしから直接その想いを聞いた訳ではない。けれど、『死霊』の犠牲になった姉を助けたいというその想いは、生半可な事で折れてしまう程ヤワではなかったはずだ。
けれども今のこいしは、胸中に諦観を抱き始めている。
八十年だ。『死霊』が現れ、最愛の姉が命を落としてから八十年。救いを求めて必死になって頑張ってきたのに、まるで期待する結果は得られなくて。それどころか、事態はどんどん悪化していって。
そんな状況、考えただけでも反吐が出る。人間と妖怪じゃ時間に対する意識は違うのだろうけれど、例えそれを差し引いても相当じゃないか。
彼女はずっと、苦しみ続けていた。苦しんで、苦しんで、藻掻き続けて。何度希望を抱いても、その度に敢え無く絶望に塗り潰され続けて。──折れるなという方が、無理な話だ。
「次もまた、どうせ無駄になるんだよ……。だったら、私はもう……」
──いや。
「……無駄になんてさせない」
「えっ……?」
だからこそだ。
だからこそ、ちゆりが取るべき行動は一つ。
「……私も、諦めてた。私なんかがこれ以上頑張った所で、何の価値もないんじゃないかって。これ以上泥臭くも藻掻き続けて、浅薄な希望なんかにしがみついた所で──。意味なんて得られないんじゃないかって、そう思っていた」
どうでも良いと、そう思った。
最早自分に価値はない。自分なんか疫病神だ。いっそいなくなってしまった方が、皆の為になるのではないかと。そんな事も思っていた。
「でも……」
だけど。
「私は勝手に思い込んでいたんだ。私は、孤独だって。自分で犯した過ちを償う為に、たった一人で藻掻き続けなきゃいけないんだって。──誰かに頼る事なんて、そんなのは許されないんだって」
ちゆりはどこかで、正義のヒロインぶっていたのかも知れない。
大した力もない癖に、一人で勝手に抱え込んで。出来もしない癖に、一人で全部解決しようと。そう、
「本当は、一人なんかじゃなかったのにな。私が勝手に忘れてただけで、あの“思い出”の中には、お前の姿だって存在していたはずなのに」
「絵理子……」
それは、あまりにも一方的な思い込み。あまりにも頑固で、融通が利かなくて。その癖、自分で自分を勝手に傷つける。そんな幼稚で稚拙な固定観念。
「今更こんな事を言うのも、おかしな話だって事は判ってる。十三年間も勝手に思い込んでいた癖に、本当に、今更どの面下げるつもりだって感じだよな。……だけど。だけど、やっぱり、私は──」
あまりにも未熟過ぎる不安定な心。
それを改めて認識出来たからこそ、ちゆりは。
「こんな所で立ち止まってちゃ、いけないと思う」
ちゆりは再び、立ち上がる。
「だからさ、こいし」
同じ過ちを繰り返さぬよう。
「私と一緒に行かないか」
今度こそ零れ落とさぬよう。
「バッドエンドなんかじゃない。理想の未来を掴み取るんだ」
手を伸ばす。
「今度は、一緒に」
「絵理、子っ……」
ちゆりを見上げるこいしの表情は、今にも泣き出しそうなものだった。一度は完全に心を閉ざし、自分の殻に逃げ込んでいた少女とは到底思えないほどに、強い感情に支配された表情。無意識なんかじゃない。彼女の想いは、余計な言葉を必要とせずとも痛いくらいに伝わってくる。
けれどもそれは、決してネガティブなものじゃない。
「……っ。うん……」
閉ざされていた心から、僅かに顔を出した想いは。
「私も、諦めたくない……」
ちゆりが抱くそれと同じ。
「お姉ちゃんも、進一も、『死霊』の犠牲になんてならない……」
覚悟と、決意。
「そんな未来を、掴みたい──!」
伸ばしたその手が、こいしと交わる。手を引くと、彼女もまたブランコから立ち上がった。
未来を変える。一度は青娥と共に目指し、そして失敗した道。世界そのもののルールに干渉し、時間という概念さえも覆す。これまで通りのやり方では、到底ゴールには辿り着けない。
だったら。だったら、ちゆりは。
『人間の意思というものは、運命を変革させるのに最も有効な武器と成り得るのだからな』
(……、はっ……)
ふと、思い出す。あの黒猫が、口にしていた言葉。
(だったら見せてやるよ。運命とやらを変革させる、その瞬間を)
あの時は、彼女の言葉を一蹴した。運命なんて馬鹿馬鹿しい。可能性なんてそんな眉唾、自分はもう信じないのだと。
けれども、今は。
(辿りついてみせるさ。夢でも幻でもない……。そこに確かに存在している、可能性世界へと)
運命だろうが可能性だろうが上等だ。
人間の持つ意思とやらで、覆してやるのだと。そんな決意をちゆりは新たにするのであった。