ピンポン、と。インターホンが押下された事を示す独特の効果音が響いた。
都内のとあるアパートの一室。その部屋本来の主である
お節介にも様子が気になって、居候を続けて世話を焼いて。毎日
「……うん?」
完全に油断し切っていたため、お燐は一瞬反応が遅れる。この時間帯──というかそもそも、この部屋に人が訪れる事が稀なのである。部屋の主は普通に鍵を開けて入ってくるだろうし、インターホンを押す来客なんてあまりにも珍しい。
これが例えば、一、二ヵ月くらい前だったら不思議ではなかったのかも知れないが。
「……誰だろ?」
居留守を使う事も一瞬だけ考えたが、この部屋の主──北白河ちゆりにとって、大切な客人だったら申し訳ない。お燐に話せるような事は殆どないだろうが、せめて要件を聞いて日を改めて貰うか、後でちゆりに共有して折り返し連絡を取ってもらう事にしよう。
そう決まるや否や、お燐は立ち上がって玄関へと急ぐ。うっかり耳と尻尾を出してしまわぬよう妖力の循環に注意しながらも、お燐は玄関の扉を開けた。
「はいはい、どちら様かな?」
妙な緊張感を出さぬよう、出来る限りフレンドリーな様子でお燐は来客を出迎える。ちゆりに会いに来るなんてどんな人なのだろうと、そんな事を考えながらも玄関の外へと視線を向けると。
「やっほー! お燐! ひっさしぶりー!」
「…………」
──何だろう、気の所為だろうか。何だかとても見覚えのある姿が見えたような気がしたのだが。
比較的長身な少女だった。身に纏うのは白いブラウスに、緑色のスカート。艶のある黒髪は長く、その整ったプロポーションも相まって一見すると落ち着いた大人の女性にも見えなくもない。だが、そんな印象とは不釣り合いな程に無邪気な表情と、この気の抜けるような声。そんな要素が容貌から漂う雰囲気の全てを帳消しにしてしまっている。
「あれ? お燐、どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「……」
やっぱり見た事のある人だなぁ、とそんな呑気な事を考えていたお燐だったが、目の前の彼女の背中にある
黒い。黒い、羽。鴉の翼。お燐の耳や尻尾のようにまるで隠す気もなく、それどころか自身のテンションに比例してバサバサと揺れ動いてしまっている始末。そんな様子を目の当たりにして、ようやく気付いた。
いや、待て。何故だ。どうしてだ。
油断し切っていた所為で気づくのが遅れた自分も自分だが、それにしても──。
「……えっ!? お、お空!? 何でここに……!?」
「うにゅっ!? い、いきなり大声出さないでよ! びっくりするでしょ……!」
思わず声を上げてしまうと、目の前にいるその少女──霊烏路空に抗議されてしまった。
霊烏路空。お空。間違いない、彼女はお空だ。ここは幻想郷の外の世界であるはずなのに、どうして彼女が現れる? ちゆりの為にこちらの世界に残ったお燐とは違って、彼女は一ヵ月前に幻想郷へと帰ったはずだ。
そういえばあの日も突然現れたのだったな、等とも思ったが、今は状況が違う。何よりも。
「い、いや、何で……。というかそれ! 翼! あと、制御棒もそうだけど……。そのままで来たの!? こっちの世界に!? 大騒ぎになっちゃうんじゃ……!?」
「うぅ……! だから声が大きいよ! 何でそんなにびっくりしてるの!?」
そりゃあ、びっくりもするだろう。自分もとやかく言える立場ではないが、妖力の繊細なコントロール等出来るはずもないあのお空が、あろうことか人外としての特徴を隠す素振りもなく、こんなにも堂々とこちらの世界に現れるなんて──。
「──お燐、落ち着いて。大丈夫だから」
──と。すっかり興奮していたお燐だったが、不意に流れ込んできたそんな声によって感情を宥められる事となる。
お空の事ばかりに意識を向けすぎて、気づかなかった。こうしてこの部屋を訪れたのは、お空だけじゃない。彼女の他に、もう一人。
小柄な少女。長身であるお空は勿論の事、お燐と比較しても小さい。人間の子供と言われても納得してしまうくらいに可憐な容貌だった。
当然、彼女の事も良く知っている。それと同時に、お空がこの場に現れた事についても納得のいく答えを見つける事が出来た。
「こいし、様……?」
「……うん。久しぶり、お燐」
古明地こいし。思えば数ヵ月前、お燐がこちらの世界へと足を運ぶきっかけとなった少女。
そんな彼女が今、再び目の前にいる。
「お空の事なら大丈夫。私の『能力』が効果を発揮している限り、こっちの世界の人達には認識されないから。──それに、私の為についてきてくれたんだし」
「こいし様の為……?」
どうやらお空は付き添いで、用があるのはこいしの方だったらしい。それでもイマイチ状況を飲み込めないお燐は間の抜けた表情のままだったが、対するこいしの表情は真剣そのもので。
「急に来ちゃってごめん。でも、どうしてもお燐にも報告……。というか、相談したい事があって──」
*
こいし達には取り敢えず部屋に上がってもらう事にした。
お燐はあくまで居候のような立ち位置であるし、ちゆりの部屋に勝手に上げてしまうのもどうなのかとは思ったが──。それでもあのまま立ち話を続ける訳にもいかず、やむを得なくといった形で彼女達を招き入れた。
こいしの『能力』だって、長時間
「あの……。それで、こいし様。あたいに相談というのは……?」
取り敢えず二人にお茶を出した後に、お燐は早速要件を尋ねる。
ちゆりの為にお燐がこちらの世界に残ってから一ヵ月。幻想郷に帰ったとばかり思っていたこいしとお空が、こうして再びお燐の前に現れたのだ。何か状況に大きな変化があったのだと、想像するのは難しくない。
「うん。まずは、情報共有」
おずおずと言った様子で、こいしが答えた。
「この数ヵ月間に起こった事……。その殆どが、紅魔館のレミリアさんにとって想定の範疇だったみたい。霍青娥とも繋がりを持っていたみたいで」
「…………」
紅魔館。レミリア。その名前はお燐も聞き覚えがある。
レミリア・スカーレット。種族は吸血鬼にあたる。『運命を操る程度の能力』を申告している少女で、幼い容貌とは裏腹に幻想郷でも屈指の能力を持つ実力者だったはずだ。
そんな彼女にとって、この数ヵ月間の出来事は想定内。──だが、そんな事実を耳にしても、お燐の中では思っていたほど驚きの感情は湧き上がってこなかった。寧ろこれは、深い納得。
「……やっぱり、そうでしたか」
レミリア・スカーレットが裏で糸を引いている可能性については、お燐がこっちの世界に残る寸前に妖夢からも示唆されている。彼女は幻想郷に戻ってすぐ、それをレミリアに問いただしに行くと言っていた。
あれから約一ヵ月。今になってお燐に続報が届けられたという事は、その間に一悶着も二悶着もあったのだろう。お燐には想像する事しか出来ないが、幾つかの可能性は考える事が出来る。
例えば、そう。妖夢がレミリアの考えに賛同できず、反発していた──とか。
「今から半年くらい前。人間の里で腐っていた私に、妖夢が声をかけてきたのも。そんな妖夢と一緒に、外の世界へと足を運んだのも。同じタイミングで、霍青娥が過去の世界から子供の妖夢を連れてきたのも。全部、想定していた運命の流れだったんだって。そういう事みたい……」
「……全部、ですか」
想定していた、というよりも、レミリアの方で
どれとどれが因果関係を持っていて、何をすればその結末に辿り着く事が出来るのか。レミリア・スカーレットというあの少女は、それをある程度観測する事が出来るという。故にこそ、彼女は自らの『能力』を『運命を操る程度の能力』だと称している。
だが。
(……まぁ、それでも万能な『能力』という訳ではないんだろうけど)
誇張されている事は確実であるように思える。本当にあらゆる運命を観測し、干渉する事が出来るのなら、そもそもこんな結末になる前に西行寺幽々子を止める事だって出来たはずだ。
西行寺幽々子の力は、レミリア・スカーレットのそれを遥かに凌駕しているという事なのだろうか。
──今更そんな事を考察しても、詮無き事なのだろうが。
「何となく、こいし様の伝えたい事は判りました。──レミリア・スカーレットの計画はまだ続いていて、それがそろそろ次の段階に入りそうなのだと。そういう事ですよね?」
「……うん」
先に頭の中を整理してお燐が確認すると、こいしからは肯定の返事が返ってくる。
「そう、次の段階……。秘封倶楽部のお姉ちゃん──メリーさんが、鍵になるみたい」
「……、え──?」
だが、その返事の詳しい内容は、流石のお燐もまるで予想し得ないものだった。
「レミリアさんは、メリーさんの力を使ってこの大異変を解決しようとしている……」
「……っ!?」
いや、待て。
何だ、それは。
「い、いや、ちょ、ちょっと待って下さい……! メリーを……? ど、どういう事ですか……!?」
「わ、私にも詳しくは判らないんだけど……。でも、メリーさんの持つ『能力』は、かなり特殊なものみたいで……」
身を乗り出して尋ねてみると、こいしから返ってきたのは曖昧な返答。どうやら彼女もそこまで詳細に把握している訳ではなさそうだが、同時に、この半年間で聞いた話を思い出すと、一つだけ思い当たる節があった。
あれは、年が明けてから少し経った頃だっただろうか。お燐は後から話を聞いただけなのだが、メリーが意識を失うといった騒動があったはずだ。あの時も確か、メリーの持つ『能力』が何らかの影響を及ぼしていたという話を聞いた気がする。
『結界の境界が見える程度の能力』。幻想郷ではない、外の世界の人間がそんな『能力』を持っている時点で珍しいとは思っていたが、まさかお燐が思っている以上に特異な性質という事だったのだろうか。
「……今は丁度、妖夢と魔理沙がメリーさんを連れてレミリアさんに会いに行ってるみたい。事情を説明するんだって」
「幻想郷に、って事ですよね……?」
「うん。……メリーさんを巻き込む事、妖夢はずっと反対していたみたいだったけど」
「それは、そうでしょうね……」
合点がいった。やはりお燐の予想通り、妖夢がレミリアの計画に賛同出来なかったらしい。何か別の方法はないものかと妖夢は模索していたのだろうが、結局レミリアの計画通りにメリーを導いたという事は。
「もう、それしか方法がないんですよね? この大異変を解決するには、それしか……」
そう。最早、自分達に選択の余地なんて存在しない。
博麗霊夢は限界だ。こちらの世界にも『死霊』が現れた時点で、その事実は明確と言える。最早、一刻の猶予も残されていないだろう。
それが判っているからこそ、妖夢も妥協するしかなかったのだ。
例え、受け入れ難い策だったとしても。
「そう。もう、それしか方法がないんだよ」
ぽつりと、お燐の言葉にこいしは続ける。
「だけど……。不安なんだ、私……」
いつになく、強い不安を滲ませた声調で。
「私は、この『異変』を解決する為にこっちの世界に来た。妖夢と一緒に、青娥の行方を追いかければ……。理想の未来を掴み取れるんだって、そう信じて……」
こいしは常に直向きだった。表面上は気丈に振舞っているように見えても、彼女はずっと想い続けていたのだ。理想の未来を掴み取りたい。そんな無垢なる願いを。
「だけど……。だけど、さ……」
でも。
「本当に、今度こそ上手くいくのかな……?」
「こいし様……?」
「この調子で……。こんな調子で、本当に……」
古明地こいしは、既にいっぱいいっぱいだった。
「本当に、
「…………ッ」
彼女の悲痛な言葉を耳にして、お燐は何も言えなくなる。胸の奥が激しく締め付けられるような、そんな感覚を覚えた。
お姉ちゃんが死なない未来。お燐はこれまで、意識的にも無意識的にも、その話題を避け続けていたように思える。特にこいしの前では、
そうだ。言えない。言える訳がない。
ペットである自分が、下手な慰めや気休めなんて──。
「こ、こいし、さま……」
どうやらその想いは、お空も同じだったらしい。こいしの名前を呟いただけで、次の言葉が発せなくなっている。
基本的に前向きで、底抜けに明るい彼女さえも、
だって。だって、あの日。あの瞬間。
古明地こいしの姉であり、お燐達の主である彼女は。お燐達の力が、及ばなかった所為で──。
「あっ……。ご、ごめん……! 別に、お空やお燐を責めている訳じゃなくて……」
「い、いえ、別に、あたい達は……」
「そ、そうですよ! こいし様が気を遣う必要なんてありません! だってあれは、私達が……!」
こいしの感じる責任感を払拭しようと、お空は食い気味に言葉を発するが。
「わた、し……。わたし、達が……」
尻すぼみに終わってしまう。言葉を、並べる事が出来ない。
地獄鴉であるお空は、所謂鳥頭だ。そう多くの情報を記憶しておける体質ではない。けれども、そんな彼女でも
それは恐らく、お燐と同じ。刻み付けられているのは記憶だけじゃない。底の知れない後悔と、強い罪悪感も共に──。
「お空達は、悪くない……。だってあの時、お姉ちゃんは私を逃がす為に『死霊』に立ち向かってくれたんだ。心を閉ざして、勝手な事ばかりを続けていた、私なんかの為に……」
今にも泣き出しそうな。そんな声調で、こいしは語る。
「私はそんな未来を変える為に、これまで頑張ってきた。でも……」
そして彼女は、震える身体を自らの両腕で抱きかかえて。
「前に進めば進むほど、かえって多くのものを失っているような……。そんな気がするんだよ……」
「多くの、もの……」
オウム返ししたお燐の呟きに答えるような形で、こいしは続けた。
「青娥のもとに辿り着いても、答えなんて得られなかった。子供の妖夢が元いた時代に帰還しても、この未来は何も変わらなかった。挙句の果てに、こっちの世界にも『死霊』が現れて……」
そう。それは、ある意味こいしの
そんな出来事。
「今度は……進一が、殺されちゃった……」
「……っ」
死。
それは、西行寺幽々子の覚醒から幻想郷を侵食し続けている、呪いの一種。
「何も得られていないのに、喪失ばっかり理不尽にやってきて……」
不条理な運命ばかりが、襲いかかってきて。
「もう、嫌だよ……」
古明地こいしは、限界だった。
「何も、上手く行く気がしない……」
絶望、とでも表現すべきだろうか。幾ら一筋の光が残っていると言われようとも、彼女はそれに縋る事が出来ない。希望を見出す事が出来ない。上手く行くはずがない。どうせまた失敗する。そして、更に多くのものを失う事になるのだ。
そんなネガティブな思考ばかりが、一方的に支配する。古明地こいしの想いは、願いは、そんな暗闇の中へと沈んでゆく──。
(こいし様……)
そしてそんな彼女に対して、気の利いた言葉の一つもかけられないお燐もまた、嫌になる。自分自身が、許せなくなる。
あれからもう八十年。ずるずる、ずるずると引き摺り続け、お燐もこいしも、お空でさえも前に進めない。彼女らの時間は止まったままだ。
『お燐……』
記憶が蘇る。
あの日。あの瞬間。彼女の最も近くにいたのは、他でもないお燐だったのだから。
『お願い、こいしを……』
ああ。やっぱり、駄目だ。
数十年の年月を経て、多少は克服出来たと思っていたのに。
やっぱりこれは、どうしようもない──。
「……ごめんね。相談なんて言っておいて、殆ど愚痴みたいになっちゃった」
暫くの沈黙の後、不意にそんな声がつく。
こいしだ。どこか変に取り繕っているような、無理に明るい声を出しているような。そんな調子で。
「こんな事を聞かされても、迷惑だよね。辛いのは、お燐達だって同じなのに」
「っ! そ、そんなこと……!」
「ううん。良いんだよ」
こいしは話を切り上げてしまう。お燐が言葉を並べるよりも、ずっと早く。
「……これからの事、もっと上手く相談したかったはずなのに」
自嘲気味に、こいしは呟く。
「駄目だなぁ、私」
ああ。何故だ? どうしてこんな事になる?
駄目だなんて、こいしがそんな感情を抱く必要はないはずだ。だってこいしは、何も悪くない。悪いと言うのなら、さとりを守れなかった自分達の方が余程悪いじゃないか。
それなのに。だからと言って、そんな事なんてこいしに対して直接言える訳がない。お燐達の方が悪いなんて、そんな言葉はこいしに取って気休めにもならない。寧ろ逆に、彼女の事を追い込む結果になってしまうに違いない。
それが判っているからこそ。
お燐もお空も、何も言えない──。
「ごめんね。……私ちょっと、もう一度考えを纏めてくる」
お燐が言葉に迷っていると、不意に立ち上がりつつもこいしがそんな事を言ってくる。
「すぐに戻るから。お燐とお空はここで待ってて」
「戻るって……?」
どういう事だ。──なんて、聞くまでもない。
このままの状態で続けても、ネガティブな思考ばかりが溢れてしまうから。だから一度、一人で考えを纏めたいと。そういう事なのだろう。
きっとお燐達と一緒にいると、さとりの事ばかりがチラついて考えが纏まらない。そんな思考をはっきりとこいしが自覚しているのかは判らないが、少なくとも無意識のうちにそんな思考が生じているはずだ。
判っている。
今のお燐では、こいしの足枷にしかなっていない事くらい。
「こいし様……」
「お空も、ごめんね……。一緒に、ついて来てくれたのに……」
「…………」
お空も同じだ。お燐と同じ想いを抱き続けている。
二人揃って、何の力にもなれやしない──。
「なるべく、早く……。ちゃんと、考えを纏めるから……」
それだけを言い残して、古明地こいしは踵を返す。お燐達に背を向けて、ほんの少しの躊躇いを滲ませつつも。彼女はゆっくりと、立ち去ってゆく。
そんな彼女の後ろ姿を、お燐とお空はただ見送る事しか出来ない。お空なら真っ先に追いかけて行ってしまいそうなものだが、そんな彼女さえも躊躇いを生じさせてしまっているのだから相当である。
今のこいしが醸し出す雰囲気は、それほどまでに緊迫している。今まで以上に、完全に心を閉ざしてしまったような──。
(こんなのって……)
酷い。これ以上にないくらい、状況は最悪だ。
一体、どうすればいい? どうすればよかった? ──なんて、そんな事を今更考えても無意味だ。八十年前のあの日、お燐達がさとりを護る事が出来ていたのなら、少なくともこんな事にはならなかったはずなのだから。
これは、お燐達の弱さが招いた結果だ。今更悔やんだ所で、もう遅い。
「お燐……」
こいしが出て行った部屋の中。不安気な声調で、お空が声をかけてくる。
「ごめん、私……。何も、言えなくて……」
「……ううん。良いんだよ、お空」
そんなお空に対して、お燐は首を横に振って答えた。
「今のあたい達じゃ、こいし様は……」
しかしそこまで口にした所で、お燐は言い淀んでしまう。この期に及んで、言葉にするのを躊躇ってしまった。
けれども実際、今のお燐達ではこいしの力にはなれないのは事実。足枷になってしまうのが精々だ。強いて出来る事を上げれば、待つ事くらいである。
そうだ。待つしかない。こいしが、もう一度立ち上がって、前を向いてくれるまで──。
(……ちゆり)
ふと、お燐の脳裏にこの部屋の主の名前が過ぎる。
(……ちゆりに対しても、あたいは)
火焔猫燐が、こちらの世界に残った理由。自分を助けてくれた彼女に報いる為に、少しでも出来る事はないかと考えていたけれど。結局この一ヶ月、何も出来ていない。
こいしにも、ちゆりにも。自分は何も出来ないのか。力になんてなれないのか。
(……でも)
──だけど。
(それでもあたいは、信じたい)
火焔猫燐は、諦められない。仕方がないと、割り切る事なんて出来る訳がない。
諦めたくない。確かに状況は、これ以上にないくらい最悪なのだけれども。
(希望を、見失わなければ)
望みを、持ち続けていれば。
(奇跡だって、また……)
理想の未来を掴み取れるのだと、そう信じて──。
*
随分と勝手な行動を取っているなと、古明地こいしは自分自身に嫌気が差していた。
本当に、勝手すぎる。考えもロクに纏まらず、自分の弱さを受け止められず。救いを求めて、お空も巻き込んで。実質的に、一方的な弱音を吐き出す為だけにお燐に会いに来てしまった。
どうしても相談したい事がある。──そんな事を口にしていた自分が滑稽に思えてくる。何が相談だ、馬鹿馬鹿しい。我が身可愛さに、それらしい建前を並べただけじゃないか。相談なんて出来る程に、心の整理も何も終わってない癖に。その上、結局は居た堪れなくなって、こうして一人逃げ出してしまうなんて。
「……何がしたいんだろ、私」
考えを纏める等と言って、お燐達と別れてから数分。『能力』を行使したまま当てもなくふらついて、近場の公園に辿り着いた所で彼女は足を止めた。誰も使っていなかったブランコの端に腰掛けて、こいしは改めて自らの行動を思い返してみる。
考えれば考える程に嫌になってくるくらいだ。お燐達に見限られてしまっても文句は言えない。それだけの行動を自分は取ってしまっている。
何がしたいんだろう、なんて。本当に、それ以外の言葉が見当たらない。
一方的にお空の事を巻き込んで、一方的にお燐のもとへと押しかけて。そしてあろうことか、そんな二人を一方的に放り出して自分は一人こんな所にいる。本当に、身勝手が過ぎる行動ばかりじゃないか。
「……馬鹿みたい」
と。客観的にそんな評価を下してみるが、全く以て笑えない。
馬鹿みたい、なんて。比喩でも何でもなく、自分は本当に大馬鹿者だ。一体いつまで、こんな調子を続けるつもりなのだろう。自分の事であるはずなのに、判らない。
公園は静かだった。この辺りは都心から比較的離れている所為か、京都の中でも閑静な印象が強い気がする。現にこの公園にだってこいし以外の人影は見えず、静寂が辺りを支配している。
静寂。故にこそ、思考は余計にぐるぐると回り続ける。だがそれは、必ずしも自らの考えを纏めるという結果になるとは限らない。現に彼女は泥沼へと嵌りそうになっていた。
考えれば考えるほど、判らなくなってくる。
どうすればいい? 自分は一体、どうしたいのだろうか、と。
「お姉ちゃん……」
無意識のうちに、こいしの口から言葉が零れ落ちる。
「ねぇ、お姉ちゃん……。わたし、私って……。どうすれば、良いのかな……?」
零れ落ちる。それは、弱音。
そこにいない姉の幻影に縋りついてしまうような、そんな──。
「分かんない……。分かんなくなっちゃったよ、私……」
そう。
それは。
「お姉、ちゃん……?」
「はっ……」
「何、考えてるの……。今更……」
今更。そう、今更だ。今更姉の助けを乞うのか? 今更姉を頼ろうというのか?
ふざけるな。
そんな権利、自分にあると思っているのか?
「ある訳が無い……」
愚かだ。
どこまでも愚かで、浅ましい。
「だってお姉ちゃんは、ずっと私の事を気にかけてくれていたのに」
それなのに、その手を取らなかったのは自分の方だ。
「……お姉ちゃんが
そんな自分を逃がす為に、彼女は『死霊』へと立ち向かった。
勝手な事ばかりを続けていた、自分なんかの為に。
「私が……」
だから。
「……お姉ちゃんを、殺したも同然なのに」
自分は罪を犯した。だから罰を受ける事はあっても、救済を求めるなんて言語道断だ。
助けなんて、求めてはいけない。最早、自分にそんな権利なんてない。自分は間違いを犯し続けたのだ。何度も、何度も、何度も何度も何度も。
姉の事だけではない。姉があんな事になった後も、尚。
「進一……」
俯いた彼女の口から、また別の人物の名前が漏れる。
進一。岡崎進一。こいしとは違う、外の世界の住民。本来ならば関わりなんて持つはずもなかった人間。──だけど。けれどもこいしにとって、彼は。
「しん、いち……」
──彼も。
「ごめ、ん……。ごめんね、進一……」
古明地こいしが犯してしまった、罪の──。
「私が、もっと……。上手く、やれていれば……」
──その時だった。
「……お前、何でこんな所にいる?」
「……っ?」
不意に、誰かに声をかけられた。
一瞬反応が遅れる。何だ? 『能力』の行使は続けていたはずだ。公園のブランコに座っているとは言え、今のこいしは誰にも認識されない状態だったはず。例え誰かが近くを横切ったとしても、その人物にとってこいしは、それこそ道端の
そこまで考えて、気づいた。思考を巡らせ、自己嫌悪の渦に飲み込まれ。そんな事をしているうちに、『能力』の効力が緩んでしまっていた事に。
「えっ……?」
顔を上げる。聞こえてきたのは女性の声だった。だいぶ反応が遅れてしまったが、それでも彼女は声の流れ込んできた方向へと視線を向けて。
「あ……」
そして、気づいた。思考に集中し過ぎたせいで、接近されている事にも今まで気づいていなかった。
女性。小柄な、女性。こちらの世界の住民。だけど、見覚えがある。忘れもしない、彼女は。
「幻想郷に帰ったんじゃなかったのか?」
北白河ちゆり。
かつてこいしを陥れた霍青娥の協力者が、目の前にいる。
*
研究室であの黒猫におかしな啖呵を切られた翌日の事だった。
ちゆりはその日も大学に出ていた。と言っても、真面に研究なんて出来る訳がない。自分はあくまで夢美の助手。その夢美が出勤していないのだから、彼女の掲げる研究を進める事が出来ない。夢美が受け持つ講義の準備くらいは出来るが、それだけ。
昨日と同じだ。ただ、一人になりたかった。建設的な理由なんて何もない。これは、単なる逃避。先延ばし。
昨日と違った点を挙げるとすれば、今日はあの黒猫が現れなかった事くらいか。ちゆりの事を諦めたのだろうか? ならばこちらとしても都合がよい。
最早ちゆりに出来る事なんて何もない。進一を助ける事が出来ず、夢美を救う事も出来ず。そんな自分に、価値なんて微塵も残っていないのだから。
だから、これで良い。自分は何もしなくていい。──自分は、何も望まなくていい。
それこそが、今の自分にとっての最善なのだから。
「…………」
そんな日の帰り道の事だった。自宅アパート近くの公園。そこを通りかかった時、
幼い少女だった。ブランコに一人腰掛けている、小さな女の子。いや、それだけだと特に何て事はない。確かにこの辺りは閑静な印象が強いが、それでもここは公園。子供が遊びに来ていても特に不思議に思う事はないのだろうけれど。
問題なのは、この
何となく覚えがある。この、意識が変に惑わされてしまうような感覚。無意識の領域に干渉されるような『能力』。だが、今は大きく解れてしまっているような。
「……あいつ」
目を凝らして見てみると、見覚えのある少女だった事に気がつく。
鴉羽色の帽子。襟と袖にフリルがあしらわれた上着に、花の柄が描かれたスカート。そして身体から延びる管に、それに接続された瞳のような──。
「古明地こいし……?」
半年前。霍青娥の計画を遂行させる為に、一度はちゆりが拉致した覚妖怪。そしてあの黒猫に指示されるまま、霊烏路空という地獄鴉を導いて解放した少女。
『まったく。何の為に、お前にあの覚妖怪──古明地こいしを助けさせたと思っている』
昨日、あの黒猫が口にしていた言葉を思い出す。
確かに彼女は古明地こいしの名前を出していた。という事は、まさかあの黒猫の差し金か? 自ら赴くのではなく、代役を立ててちゆりに接触する方針としたのだろうか。
腹が立つ。誰を差し向けようとも、ちゆりの思いは変わらない。彼女達に力を貸す気など更々ないというのに。
(……しつこい奴だな)
どうする? このまま無視して帰っても良いが、本当にあの黒猫の差し金だった場合、この後アパートの部屋まで押しかけてくる可能性もある。無視した所で、面倒事が先延ばしになるだけだ。
だったら面倒事の種は先に潰しておくべきだろう。こちらから一方的に宣言してしまった方が後々楽だ。協力するつもりなどない、と。
「……思い通りになると思うなよ」
意を決して、ちゆりは公園へと足を踏み入れる。そしてブランコへと一直線。一人腰掛けて俯いている彼女に、声をかけた。
「……お前、何でこんな所にいる?」
ぶっきら棒。かつ、一方的。
こいしの反応は悪かった。まるで、誰かから声をかけられるとは思っていなかったような、そんな印象。ちゆりが声をかけても俯いたまま顔を上げず、どこか状況を飲み込めぬような雰囲気を醸し出して。
「えっ……?」
数テンポほど遅れて顔を上げる。そしておもむろにちゆりの方へと視線を向けると。
「あ……」
呆けたような表情。何だ、その反応は。
まるで──なんて比喩などではなく、本当にちゆりの登場を予想していなかったような反応。まさか予想が外れたか? 別にあの黒猫の差し金という訳ではなかったのだろうか。
だとすれば余計な事をしたような気がする。声などかけず、無視して帰宅してしまった方が正解だっただろうか。
(はぁ……)
心の中で嘆息する。声をかけてしまった以上、何か会話を続けなければ不自然じゃないか。
一先ず当たり障りのない事を聞いてみる事にする。
「幻想郷に帰ったんじゃなかったのか?」
気になっていた事ではある。仮にあの黒猫の差し金でなかったのだとすれば、彼女が態々こちらの世界に足を運んだ理由が疑問だ。しかもこんな公園で、一人ブランコに腰掛けているなんて。
「貴方は……」
けれども。
ちゆりの姿を認めて、ボソリと呟いた彼女は。
「……別に、貴方には関係ない」
露骨な拒絶感を滲ませて、古明地こいしはプイっとちゆりから視線を逸らした。
何なのだろう、この反応。こちらを警戒しているのだろうか? まぁ、ちゆりがした事を考えれば、このような態度を取られても文句は言えないというか、不思議ではないというか。
(……というか、よく考えたら)
別に本人に聞かずとも、彼女がこちらの世界を訪れた理由は、考えれば心当たりが思い当たる。丁度、お節介にもちゆりの事を気にかけてこちらの世界に残り続けている少女。彼女は元々、こいしの家族に近しい存在だったじゃないか。
「お燐に用事でもあったのか?」
「…………」
「まぁ、その様子だともう会ってきた後って所か。喧嘩別れでもしたみたいな印象だ」
「……っ」
ピクリと、こいしが反応を見せる。判りやすい少女である。
喧嘩別れかどうなのかはほぼ完全に当てずっぽうだが、恐らくそれに近しい印象なのだろう。こいしの方から一方的に逃げたのか、ついでにその所為で気まずくなっているのか。
故に、一人。迷いの渦から抜け出せずに、こうして悶々と考え込んでしまっている。
「……私、貴方みたいに変に頭が切れる人、嫌い」
「へいへい。そりゃ悪かったな」
「……何なの」
拗ねたような口調になるこいし。どうやらちゆりは、彼女にかなり嫌われてしまっているようだ。
まぁ、どうでも良い事だが。別にちゆりは彼女と仲良くなるつもりなんてない。関わる理由がないのなら、態々こちらから絡みに行く必要なんてないはずだ。
あの黒猫が言っていた事は気になるが。
けれども目下、ちゆりにとってこいしの事などどうでも良い。これ以上話を膨らませるつもりもないし、適当に話を切り上げて立ち去ってしまおうか。
「……ねぇ」
だけれども。
そんなちゆりの考えとは裏腹に、意外にもあちらから声をかけてきた。
「貴方って、あいつ……。霍青娥と協力関係にあったんだよね?」
「……だったら、何だよ」
「いや、折角だから聞いてみたいんだけど」
霍青娥と協力関係だったのか。それを確認したこいしは、生気のない瞳でチラリとちゆりを一瞥すると。
「貴方達は、結局何がしたかったの?」
「は……?」
一瞬、どこか。
どこか鋭い感情がその言葉に含まれているような、そんな気がした。
「この『異変』を解決しようとしていたんだよね? 子供の妖夢を利用して。でも、失敗した」
「それは……」
「京都全土を結界で覆うとか、あれだけ大々的な事をしてさ。だいぶ前から練りに練った計画だったみたいだけど」
「…………」
「それでも、失敗した」
──何だ、こいつは。八つ当たりでもしているのだろうか。
どこか嫌味が含まれているような口調。ちゆりの事を一方的に責めている。膨れ上がる感情を、そのまま言葉として吐き出しているかのような。
だが。
「駄目じゃん。貴方も、青娥も。結局『死霊』が相手じゃ、何も……」
「随分勝手な事を言ってるみたいだけどな」
ここまで言われて、流石のちゆりもムッとした。
「『死霊』に対して何も出来なかったのは、お前だって同じだろ。そもそも、私からしてみれば、お前の方こそ結局何がしたかったんだって感じなんだが」
「何がって……」
「去年のクリスマスだって、進一を……」
「しん、いち……」
進一。その名前を出した途端に。
こいしの雰囲気が、変わった。
「進一……。そう、そうだよ……」
「……っ?」
ぎりっと、ブランコの鎖を握る拳に力が入る。
「貴方、見たんだよね……? 進一が、『死霊』に殺される、その瞬間を……」
「……ッ!?」
不意に。
これまで想起を避け続けていた
「ねぇ、どういう事? どうして進一は殺されたの? こっちの世界に『死霊』が紛れ込む事さえもイレギュラーなのに。どうして、よりによって進一が……」
俯いていたこいしが顔を上げ、そしてちゆりと視線がぶつかる。
おかしい。何かが、おかしい。睥睨するようにちゆりを見据えるこいしの瞳からは、どこか黒い感情が滲み出ているように思える。
怒りか。悲しみか。それとも、後悔か。
そしてそれは、ちゆりも──。
「どうして……? どうしてなの……? どうして、進一だったの……?」
「やめろ……」
「貴方、近くにいたんでしょ……? どうして助けなかったの……? 貴方には『能力』があるんでしょ? 進一にはない、もっと直接的な『能力』……。私を拉致した時にみたいに、その『能力』は使えなかったの?」
「やめろ……!」
「ねぇ、どうして……? 貴方は助かったのに、どうして進一だけが……」
「やめろっていってんだろッ!!」
遂に。ちゆりの感情が爆発し、そして怒号として吐き出された。
「どうしてだと!? そんなの、私が聞きたいくらいなんだよッ!!」
一度こうなってしまったら、もう止まらない。
これまで、ずっと。ずっと避け続けていた感情が。想いが。爆発する。
「どうしてだよ!? どうして進一なんだ!? どうして進一が死ななきゃならない!? どうして……!」
どうして。
だけど、そんなの。
そんなの、判り切っている事じゃないか。
「ああ、そうだ……。私の所為だ、全部……」
目を背ける事なんて出来ない。逃げ出す事なんて出来やしない。
「私の所為で、死んだんだ……」
「私が、進一を殺したんだ……!」
言葉にした。これまでずっと避け続けていたその言葉を今、はっきりと口にした。
進一が死んだのは自分の所為。自分が進一を殺したのだと。
なぜだ。熱くなってしまった。ストレートに、はっきりと詰め寄られて。どうして進一は殺されたのだと。なぜ彼が死ななければならなかったのだと。だから、自分自身に対する鬱憤が爆発した。
──本当に、それだけ?
何だろう、この感覚は。
古明地こいしというこの少女を前にすると、どうも──。
「……何なの」
そんなちゆりの怒号を受けた、当のこいしは。
「何なの、本当に、貴方……」
どこか、状況を飲み込めぬような、そんな表情を浮かべていた。
ちゆりが怒号を吐き出した理由が判らない。タイミング的には、そう考えるのが妥当だ。詰め寄ってきたのはあちらだが、先に怒鳴り声をあげたのはこちらである。どのタイミングでちゆりの地雷を踏んでしまったのだと。あちらがそれを理解できない状況は、百歩譲って納得できなくもない。
でも。
古明地こいしが抱いた疑問。それは──。
「貴方は……。進一にとっての、何なの……?」
「……っ。は……?」
ちゆりの鬱憤が爆発した原因ではなく。
「大学内でのただの知り合い……、という訳じゃないの……?」
「…………っ」
岡崎進一と北白河ちゆりとの間にある関係性。その一点だった。
何だ? どういう事だ? このタイミングで、なぜそんな事を気にする?
冷静になって思い返すと、違和感はあった。ちゆりはそもそも、こいしから進一の死の原因を詰め寄られた事が原因で、怒号を荒げる事になった訳だが。
なぜこいしはそんな事をした? なぜ進一の死に対して、ここまで終着しているような素振りを見せた?
古明地こいしは幻想郷の住民。人間ではなく、妖怪の一種。そんな彼女が、なぜ。本来ならば接点なんて皆無であるはずの、外の世界に住む青年の事を──。
「……それは、こっちの台詞だぜ」
考えれば考えるほど、気になり出してしまう。
自然と、ちゆりの口から言葉として吐き出された。
「お前の方こそ……。進一と、どういう関係なんだ……?」
判らない。何なんだ、この少女は。
霍青娥の指示で、一度はちゆりがこの手で誘拐した覚妖怪。そして次に、あの黒猫の指示に従って霊烏路空を導き、あの病院の地下室から解放した人物。そして今度は、そんな仲介もなくこうしてちゆりと対面している小さな少女。
何だろう。何かが、おかしい。
何か、違和感が。
「……私と、進一の関係」
困惑を続けるちゆりの前で、古明地こいしは口を開く。
「いいよ、教えてあげる」
あちらも、幾分か困惑した様子で。けれどもどこか、覚悟を決めた表情を浮かべていて。
そうしてこいしは語り出す。彼女だけが持つ、彼女がひた隠しにし続けていた、真実を。
「私は……。私が、ね」
それは記憶だった。
記憶の奥のそのまた奥。その根底に確かに存在する、とある少女の記憶。
「──私が、進一の事を壊したんだよ」