桜花妖々録   作:秋風とも

141 / 148
第124話「パラダイス・ロスト#9」

 

 レミリア・スカーレットという少女から語られたメリーの真実を目の当たりにして、宇佐見蓮子は内心激しく動揺していた。

 

 何かの冗談ではないかと、初めは真っ先にそう思った。けれども話を聞いていくうちに、それは出鱈目でも何でもなく、事実として存在している事象であるという実感が色濃くなっていった。

 今になって思い返して見れば、確かに不可解な点はあったように思える。真っ先に思い当たるのは、二ヶ月ほど前にメリーが眠りから覚めなくなってしまった件だった。

 

 あの頃、メリーはよく奇妙な夢を見ると言っていた。それはあまりにもリアリティで、あまりにも鮮明すぎる夢。そんな話をメリーはしていたと思う。それだけではなく、遂にはメリーは夢の中から物品を持ち出す事さえも実現してしまっていた。

 メリーの『能力』が変異しているのかも知れない。

 あの時、蓮子はそう推測していたのだが、まさか──。

 

(まさか、本当に……?)

 

 次々とピースがハマっていくような気がする。考えれば考える程、得心が色濃くなっていってしまって。

 否定する材料を見失っていく。レミリア・スカーレットの語る言葉が、自然と説得力を増してゆく。

 

「──と、まぁ、色々と語ってしまったが」

 

 キリの良い所まで喋り終えたレミリアが、軽く息を吐き出しつつも結論を述べる。

 

「外の世界を探っていた私は、既に先の長くない八雲紫との接触に成功した。その際に初めてお前の存在も認識したのだ、マエリベリー・ハーン」

「…………っ」

「さほど八雲紫との交流が深くなかった私でも、一目見ただけで気づいたよ。お前が彼女の娘であるとな」

 

 レミリアの説明が続いていた最中、メリーはすっかり言葉を見失ってしまっている様子だった。

 どう反応すれば良いのか判らない、とでも言おうか。無理もない。幻想郷まで来て、いきなり母親の正体が語られたのだ。そして、自らが知らず知らずのうちに抱えていた秘密も──。

 

(メリー……)

 

 八雲紫。幻想郷の管理者にして、スキマ妖怪とも称される大妖怪。──そんな彼女が、外の世界に放り出されてから身籠った子供がメリーなのだという。父親については正真正銘こちらの世界の人間なのだろうが、それでもメリーは少なくとも半分は妖怪の血を引いているという事になり。

 けれどもレミリア曰く、今のメリーには妖怪としての特性など微塵も存在していないのだという。間違いなく人間のそれだと、彼女は語っていた。

 

 『境界を操る程度の能力』。八雲紫は自らが有するその『能力』を行使し、メリーの中から妖怪の側面を消失させたのだと。説明されてもいまいち理解が追いつかないが、それでも納得するしかない。

 メリーは人間。八雲紫と同じ血が流れているものの、あくまで外の世界の人間に過ぎないのだ。

 そんな、あまりにも特異すぎる存在。単純に人間じゃないと言われるよりも、余程質の悪い。

 

 メリーは、この事実をどう受け止めているのだろうか。

 自分という存在の常識が、根本的に覆されるような。そんな突拍子もない真実を突き付けられて。

 

「……それじゃあ、私が」

 

 暫くの沈黙の後、メリーは何とか口を開き、そして言葉を紡ぎ出す。

 

「私が、鍵だというのは……。私が、その、八雲紫の娘だから……。という、事なんですか……?」

 

 酷く混乱した様子。けれどもそれでも、どうやらメリーはレミリアの言葉を一先ず強引に納得する事にしたらしい。その上で、まずは全貌を聞き出してしまおうと。そう判断したようだ。

 上手く受け入れられないから、なのだろう。受け入れられないから、メリーは話の続きを促して思考から逃避しようとしている。意識してそうしているのではなく、恐らくそれは無意識の逃避。メリーが浮かべる怯えたような表情からも、それはひしひしと伝わってきて。

 

「ククッ……。その通りだ、人間。八雲紫の娘であるお前の『能力』……。それが西行寺幽々子に対抗する鍵となるのだ」

「私の、『能力』……」

「ああ。確かに今のお前は人間だが、『能力』に関して言えば八雲紫のそれを引き継いでいるようだからな」

 

 メリーの『能力』。それは、『結界の境界が見える程度の能力』。──いや。本質はそれではない可能性がある、と蓮子本人も推測していたのだったか。

 そしてそんな推測は、どうやら間違ってはいなかったらしい。八雲紫の『能力』を引き継いでいるという事は、やはりメリーの『能力』の本質は境界を“見る”のではなく“操る”もの。夢の世界から物品を取り出したあの件だって、メリーが夢と現実の境界を無意識のうちに操った結果なのだとしたら。

 

(理解は……。出来なくも、ないけど……)

 

 だが、理解は出来ても、流石の蓮子もそう易々と納得できるものではない。表面上は平静を保てているのかも知れないが、胸中のざわつきについてはやはりどうしても抑え込めそうにない。

 しかし。

 

「……それで? どうするつもりなの?」

 

 それでも蓮子は、虚勢を張る。

 そうして平静を取り繕わなければ、あっと言う間に混乱の渦に飲み込まれてしまうような。そんな気がしたから。

 

「まさか、メリーに『死霊』と……。西行寺幽々子さんと、戦えとでも言うつもり……?」

「フッ……。慌てるな、人間。何も私はそんな事など求めていない。戦闘能力を持たない人間を西行寺幽々子にぶつけた所で、簡単に殺される以外の結末など有り得ないのだからな」

 

 蓮子の疑問はレミリアによって即否定される。別に西行寺幽々子を斃せなどという無茶を頼み込むつもりなんてないのだと。

 そして。

 

「そもそも、この時代の西行寺幽々子に関しては、既に斃す事も救う事も出来ないだろうからな」

「えっ……?」

 

 レミリアが言い放った一言は、これまでの前提を覆すような内容だった。

 ますます混乱が駆け抜ける。この少女は、一体何を言っている? 斃す事も、救う事も出来ないだと? 何だそれは。そんな事を言われてしまったら。

 

「ど、どういう事……? 斃せない、救えないって、そんなの……」

「別に、言葉通りの意味だ。変に捻りを入れたつもりはない」

 

 そしてレミリアは、淡々と。

 

「数十年間冥界に隔離され続けた西行寺幽々子は、既に絶対的な“死”を極限までその身に内包している。判るか? あの女は最早、“死”という概念そのものだ。こちらとの対話に応じる所か、私達が束になって攻めたとしても接触すら出来ない状態だろう」

「なっ……」

「絶対的な“死”は文字通りの“呪い”だ。生者である私達には、正攻法で対抗出来る手段など存在しない」

 

 認めた。やたらと自信家で、そして尊大な態度を続けていたあのレミリアが。西行寺幽々子には、どう足掻いても敵わないのだと。

 けれども、だとするとますます判らない。どう足掻いても勝てない存在を相手に、果たしてどう抵抗するつもりなのか──。

 

 だけれども。

 

「フン……。慌てるなと言ったはずだぞ、人間。私の話を最後までよく聞け」

「最後……?」

「ああ。確かに、()()()()の西行寺幽々子が相手では、既にどうにもならないのかも知れないが」

 

 レミリア・スカーレットの狙いは、そこではない。

 

「──()()の西行寺幽々子が相手なら、話は別だ」

 

 彼女が掲げる計画の全貌は。

 

「過去を変え、未来を変える。それがこのふざけたバッドエンドを回避する唯一の手段だ」

「……っ」

 

 世界の構造そのものに、真っ向から対抗するような。そんな大胆な内容だった。

 

「過去を、変える……?」

 

 それは、文字通りの意味なのだろうか。

 既に過ぎ去った出来事であるはずの過去の事象を改変し、結末を変える。──つまるところ、時間への干渉。一方通行であるはずの()()を、逆行するような。

 

「まさか、タイムトラベルでもするつもり?」

「ああ。そのまさかだよ、人間」

 

 冗談口調で言い放った蓮子の言葉は、けれども大真面目に肯定される事となり。

 

「何を腑抜けた表情を浮かべている? 既にお前達は、魂魄妖夢のタイムトラベルを目の当たりにしているだろう? 今更驚く事でもあるまい」

「…………っ」

 

 さも共通の常識を語るかのように、そう口にした。

 ──いや、確かに。確かに、その通りであるのだが。いきなりそんな事を言われても、上手く反応出来ないというか。

 

「タイムトラベルって……。それで、過去を変えるなんて……」

「ふむ? ならば順を追って説明してやろう」

 

 未だ困惑を続ける蓮子達に向けて、レミリアは説明を開始する。

 

「まずは、そうだな。可能性世界論、という言葉を聞いた事はあるか?」

「……可能性世界論?」

 

 レミリアの問い掛けに対し、蓮子は自らの記憶を探って答えた。

 

「哲学とか、論理学で使われる理論の事?」

「……まぁ、あながち間違ってないな。だが、私が示しているのは物理学における理論の事だ」

「物理学……?」

 

 物理学における可能性世界論。そこから連想して記憶を辿ると、一つだけ思い当たった。

 以前、どこかの論文誌で見かけたような気がする。記憶がだいぶあやふやだが、どの論文誌で見かけたのだったか。

 可能性世界論、とは別にメインとなるテーマがあったように思う。可能性世界論は、あくまでそのメインテーマを説明する為の材料の一つで。

 

 確か、メインテーマは──。

 

「……タイムトラベル」

 

 自然と、その単語が蓮子の口から溢れ落ちる。レミリアがニヤリと笑ったのが見えた。

 

「ほう? 知っていたか」

「……別に、ちょっと聞いた事があるだけ。内容も殆ど覚えていないし……」

「いや、充分だ。聞いた事があるのなら、イメージもしやすいものだろう?」

「それは……」

 

 ちらりとメリーを一瞥すると、彼女はいまいちピンと来ていないような表情を浮かべている。メリーはその論文の事を知らないというのだろうか。

 まぁ、無理もない。メリーは元々物理学を専攻していないのだ。蓮子だって殆ど覚えていないような研究テーマであるし、専門外の人間にとっては知らない方が普通だろう。

 

 そんなメリーの心境を知ってか知らずか、レミリアは淡々と説明を続けた。

 

「『可能性世界』、という概念は外の世界では理論上の仮説に過ぎないのだったな。今現在、我々が存在するこの世界を基準世界と定義した場合、過去のとある時点を起点とし、その瞬間に発生しうる()()()の数だけ世界は分岐する。その分岐した世界こそが、この基準世界から観測した場合の可能性世界である、と」

 

 可能性──もしもの数だけ世界が存在する。それは古くからSF等のフィクションでも利用されてきた理論である。

 

「例えば、昨日以前のお前達が、その日の夕飯をパスタにするか、ステーキにするかとで迷った瞬間が存在したとする。悩んだ末にパスタを選択した世界と、ステーキを選択した世界。それぞれの可能性で世界が分岐し、その数だけ可能性世界が存在する事になるのだ」

 

 並行世界だとか、パラレルワールドだとか。俗称は幾つか存在するが、意味合いはどれも同じようなものである。

 レミリアが提示した例え話に倣うと、もしもその日にパスタを選択した場合と、ステーキを選択した場合。その可能性の数だけ、複数の()()が並行して存在する事になる。

 

「だが、可能性世界は基準世界とぴったり並行に存在している。故に、世界は互いに交わる事はないし、干渉する事も出来ない。──基本的にな」

 

 観測、などという表現も言葉の綾だろう。基準世界から可能性世界に干渉する事は出来ない。当然、その逆もまた然り。それこそがこの世界の原則であり、常識なのだから。

 そう。()()()()()

 

「──その可能性世界への干渉を実現出来る手段というのが、タイムトラベルという事ね。基本や常識から逸脱した、数少ない例外……」

 

 何となく、蓮子にはレミリアの考えが判ってきたような気もするが──。それでも今は口を挟まず、レミリアの説明を最後まで聞いてみる事にする。

 

「そう。もしも、ステーキを選択した未来の自分が、過去の自分に間接的にでも接触出来る手段を持っていたとする。そして過去の自分が、ステーキではなくパスタを選択するのを強制するようにコントロールした場合──」

 

 その日にステーキを選択したという事実が基準世界から消え、パスタを選択したという可能性世界によって()()()される、と。

 それこそが、外の世界でも唱えられている理論。タイムパラドックスの一瞬なのだと、レミリアは説明したが。

 

「しかし、不十分なのだ。それでは」

 

 それでもまだ足りないのだと、レミリア・スカーレットは語る。

 

「例えその日にステーキを選択しようとパスタを選択しようとも、変わるのは精々、夕食のメニューくらいなものだ。そんなもの、この世界にとっては些細な変化でしかない」

 

 関係がないのだと、そう言いたいつもりらしい。

 その日に食べた夕食が、ステーキだろうとパスタだろうと。

 

「大した因果も持っていないのだよ。どちらを選択しようとも、今日この瞬間に存在している大きな事象は揺るがない」

 

 可能性世界による上書きは、行われない。

 

「例えば、そう。お前達と私が今、こうして会話をしているという事実。その事象は、お前達が夕食にステーキを食べようともパスタを食べようとも、何ら変わらないだろうな」

 

 何故なら、それは。

 

「この二つの事象は、因果関係では結ばれていないのだから」

「因果、関係……」

 

 “結果”を変えるには“原因”を変えなければならない。その“結果”の根源たる“原因”が存在している以上、幾ら過程を弄った所で確定した結末に収束してしまうのだと。

 それこそが、因果関係。未来を変える──基準世界に可能性世界を上書きさせるには、まずはその因果の流れを捉える事が必須事項なのだと。レミリアはそう語る。

 

「その法則は今現在の幻想郷にも当てはまる。絶対的な“死”が蔓延し、最早その主たる西行寺幽々子への対抗手段を失った世界……。しかしこの状況もまた一つの“結果”であるのなら、必ずその“原因”が存在する」

 

 そう。

 この時代では、既に()()だ。西行寺幽々子に敗北し、絶対的な“死”に支配される事を待つしか出来ないバッドエンド。それはこの基準世界で確定された事象であり、正攻法では抗えない。

 だけど。これが“結果”である以上、“原因”は必ず存在する。“原因”が存在するのなら、その時点で分岐した可能性世界も存在すると考えられる。

 

「故に、変えるのだよ、“原因”を。そしてこの基準世界を可能性世界で上書きする」

 

 それこそが、レミリア・スカーレットが弾き出した打開策。

 

「西行寺幽々子による蹂躙を阻止し、大異変の解決に成功した可能性世界で、な」

「…………」

 

 そこまでレミリアの話を聞いて。

 正直、絵空事に過ぎないのではないかと、蓮子は思った。だってそれは、計画というにはあまりにも単純で。そして、えも言われぬ程に杜撰なものにしか見えなかったから。

 だってそもそも、前提からして納得出来ない。

 

「ちょっと待ってよ。さっき貴方は、この時代の幽々子さんは既にどうする事も出来ないと言ったわ。──その後に、過去の幽々子さんなら話は別とも言ったけど」

 

 レミリアは、さも当然の事であるように口にしていたが。

 

「何を根拠に、貴方はそう言い切っているの……?」

 

 その情報の裏づけとなる要素が、伝わってこない。

 

「それで、本当に未来が変えられるの……?」

 

 ああ。何なのだろう、この感覚は。自分はこんなにも、慎重な性格だっただろうか。もっと感情的で、もっと直感的で。そんな行動ばかりを、少し前まで取っていたような気がする。

 でも。だって、仕方がないじゃないか。

 一ヶ月前の()()()()()。あんなものを経験すれば、幾ら蓮子だって──。

 

「フッ……。成程、その点が引っかかるのか」

 

 そんな蓮子の様子を見たレミリアは。

 

「ならば教えてやろう人間。なぜ過去ならば大異変を解決出来るのだと判るのか。なぜそれで可能性世界の上書きが成されるのだと言い切れるのか」

 

 やっぱりこれまで通り、尊大な雰囲気を崩さずに。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女は、語った。

 

「因果の流れを観測し、可能性世界の紐付けを認識し。そうして私は予測出来る。──()()()を。どうすれば、()()を変える事が出来るのかを」

 

 まるで、自分こそが神に等しい力を持っているのだと。

 

「それこそが、私の『能力』」

 

 そう示しているかのように。

 

「『運命を操る程度の能力』だ」

 

 レミリア・スカーレットは自らの『能力』を誇示していた。

 

 ──可能性世界の観測。因果律の予測。それが可能であるが故に、自分は運命を自在に操る事が出来るのだと。つまるところ、レミリアはそう語っている。

 可能性世界への干渉は出来ない。そう言った傍から、その前提を覆すような情報の提示である。正直、その時点で既に信頼に足るものなのか疑問に思う所だ。

 

 宇佐見蓮子は思案する。

 要するにレミリアは、その『運命を操る程度の能力』とやらで可能性世界を観測し、そこに至る為の因果律を予測したという事なのだろうか。西行寺幽々子による大異変。その終幕という“結果”に至る為の“原因”を、既に予測出来ているとでも?

 一体、どこまで信じられるのだろう。相手は幻想郷の住民であるが故に、外の世界の常識など当てはまらない事は重々承知しているのだが。

 

「……レミリアさんの言っている事は、必ずしも的外れではないと思います」

 

 ──と。蓮子が思案を続ける中、そんな補足を口にしたのは意外にも妖夢だった。

 蓮子は一度思考を中断し、そして顔を上げる。

 

「確かに、この時代の幽々子様には、既に私達の声なんて届かないのかも知れない。だけど、あの時。()()()()の幽々子様なら、或いは……」

「おや? まさかお前がそんな助け船を出すとはな」

 

 どうやら妖夢の行動を意外に思ったのは、レミリアも同じだったらしく。

 

「お前は私の事を信用していないのではなかったのか?」

「……別に。私は貴方の計画に賛同できないだけで、貴方の『能力』については信頼に足るものだと思っています。貴方がそのような運命を視たのであれば、少なくともその可能性は残されているはず」

「ほう……?」

「それに、貴方の『能力』以外にも裏付けはあります」

 

 そう言うと妖夢は、改めて蓮子達へと向き直った。

 

「紫様は、幽々子様を救い出す為に単身で立ち向かいました。でも、結局その想いは成就される事はなく、幽々子様は今も尚『死霊』として存在しています」

「……ええ。そういう、話だったわね」

「だけど……」

 

 だけど。その話にはまだ続きがあるのだと、妖夢は言う。

 

「結果として、紫様は幽々子様に敗北しました。だけど、その声は。紫様の想いは、僅かでも幽々子様に届いていたと思うんです」

「想いが? どうして……」

「だって……。幽々子様は、あの瞬間」

 

 絶対的な“死”を振り撒き、生命そのものを根こそぎ刈り取る事を己が意志とする西行寺幽々子。そんな彼女を相手に、八雲紫は敗北した。

 だけど。自らの生命をも賭した、紫の想いは。

 

「──紫様を、殺さなかった。とどめを刺さなかったんです。殺すなんて、幽々子様にとっては簡単な事だったはずなのに」

 

 決して、無駄などではなかったのだと。

 

「幽々子様は、紫様を生かしたままで逃がしたんです。それはきっと、その瞬間、幽々子様の中に躊躇いが生まれたからだって……。私は……」

「妖夢、お前……」

 

 そんな妖夢の言葉を聞いた魔理沙が、何かを察したような様子でそう呟く。何と声をかけるべきかと、そう迷っているかのような表情だ。

 判っている。蓮子にだって、妖夢の気持ちは痛いくらいに伝わってくる。

 

 そう。妖夢は、信じたいのだ。

 例えそれが、自分にとって都合の良い解釈だったとしても。例えそれが、単なる妄言に過ぎないのだったとしても。それでも彼女は、希望を捨て去りたくない。諦めたくない。

 根拠なんてなくたっていい。藁にも縋る思いとは、まさにこの事なのかも知れない。

 

「フッ……。相変わらず、甘い考えを持っているようだな、魂魄妖夢」

「…………っ」

「だが、それは強ち勝手な妄想という訳でもない。八雲紫は最終的には命を落とす事になってしまうが、確かにその瞬間、西行寺幽々子に()()()()()事は確かなのだからな」

 

 彼女らはその瞬間を直接見た訳ではない。それはあくまでレミリアが観測した『可能性』と、状況証拠から推測される仮設に過ぎない。

 だが、もし。それが本当に真実なのだとしたら。本当にそんな可能性が存在するのだとしたら。

 諦めたくないのだと、そう思ってしまうのも無理はないかも知れない。

 

「それに、だ。あの瞬間、八雲紫はもう一つの()()()を遺してくれた」

「……ッ!」

 

 と。不意に語られたレミリアのそんな一言に、妖夢は少し過剰な反応を見せていた。

 息を呑んだような表情。伝わってくるのは、忌避感。その話をするのかと、そうとでも言いたげな雰囲気で。

 

(なに……?)

 

 何だ。

 レミリアは一体、何を伝えようとしている?

 

「マエリベリー・ハーン。お前は鍵だと、私達はそう何度も伝えてきたが、厳密に言えばそれだけでは不十分だ。()()()()()()()()()()

「え……?」

「お前はあくまで片割れだ。──鍵はもう一つ存在する。それらが揃ったその瞬間、私達は切り札を切る事が出来るのだ」

 

 唐突に語られた情報。蓮子もメリーも揃って困惑する中で、レミリアは矢継ぎ早に話を進める。

 

「八雲紫が西行寺幽々子に立ち向かった、あの日。確かに八雲紫の想いは、西行寺幽々子に届いていたのだろう。その証拠に、西行寺幽々子の『能力』に、一瞬だけ()()()が生じる瞬間があった」

()()()……?」

「そう、()()()だ。絶対的な“死”という呪いは、取り込んだ魂を軒並み『死霊』へと変貌させる。そしてその魂は、眷属として西行寺幽々子の支配下に置かれる事になる。──だが、その()()()の瞬間。西行寺幽々子の支配下から脱し、『死霊』から転生を果たした魂が存在した」

 

 曰く。絶対的な“死”に飲み込まれたら最後、その魂は『死霊』として永遠に西行寺幽々子に縛り付けられてしまうらしい。成仏する事も、転生する事も出来ず。輪廻転生の理から外れ、『死霊』という呪縛に囚われ続ける事になるのだと。

 けれども、八雲紫が西行寺幽々子に立ち向かったその瞬間。例外的に、その呪縛から抜け出す事に成功した魂が存在したのだという。

 

「夢想天生結界の影響で、その魂また長い間()()を彷徨っていたようだが……。大結界異変をきっかけに、無事顕界へと辿り着く事に成功したようだ」

 

 八雲紫による必死の説得により、西行寺幽々子の心は僅かでも()()()()()。その影響で自らの『能力』に()()()が生じ、眷属としていた『死霊』の一体を支配下から解放してしまった。

 一瞬の例外。後にも先にも存在しない、さながらそれはある種の奇跡。

 

「その魂は外の世界の人間として転生した。──生まれつき、絶対的な“死”の残滓をその身に残しながら、な」

「…………」

 

 蓮子とメリーは、揃って言葉を失っていた。

 本来ならば有り得なかった『死霊』からの転生。絶対的な“死”の残滓をその身に残す人間。それはある意味、マエリベリー・ハーンに匹敵する程の特異な性質の持ち主と言える。

 絶対的な“死”の残滓。言い換えればそれは、西行寺幽々子の残滓。八雲紫の忘れ形見であるメリーがそうであったように、その人物もまた特異な性質を持っていたに違いない。

 

 例えば、そう。メリーが結界の境界を認識する事が出来る『眼』を持っているのなら。

 人の“死”を、認識する事が出来るような『眼』を──。

 

(……『死』を、認識……?)

 

 そこまで考えた所で。

 蓮子の脳裏に、強烈な()()が駆け抜けた。

 

 何だろう。何か、心当たりがあるような。後一歩の所で、答えに辿り着ける──。辿り着く事が()()()()()()ような、そんな感覚。

 思い出せ。一体何だ? 何を自分は察している?

 一体、何が──。

 

「あ、あのっ、レミリアさん!」

 

 だが、そんな蓮子の思考は、不意に上げられたメリーの大声によって中断させられる事となる。

 反射的に視線を向ける。どこか狼狽を露わにしたメリーが、詰め寄るような勢いでレミリアへと言葉を投げかけている。

 

「転生、って言いましたよね……? まさか、『死霊』から転生したその人が、もう一つの鍵……?」

「ああ。その通りだ」

「どこに……? その人は、今どこにいるんですか……!?」

 

 必死な様子だった。メリーと同じ『鍵』とやらは、一体今どこにいるのだと。

 

 恐らくそれは、底の知れない不安感から起因する行動だ。

 八雲紫の忘れ形見。妖怪としての性質は存在しないものの、それでもそんな人物の血を引いていると聞いて、メリーはきっと得も言えぬ恐怖心に支配されていた。

 自分という存在が、判らなくなってしまって。自分は一体何者なのか、そう疑うようになってしまって。

 

 人の抱く恐怖心の根源は未知だ。理論主義の人間は等しく、統一的に説明出来ない正体不明の何かに対して、強烈な違和感──恐怖心を覚える。今のメリーにとって、その対象こそが他でもない自分自身。

 だが、そんな自分とどこか類似する存在が、他にもまだ存在するという。八雲紫の残滓を持つと言える自分と同じように、西行寺幽々子の残滓を持っているらしい人物。そんな人物の事を知れば、恐怖心を和らげる事が出来るのではないかと。分かち合う事が出来るのではないかと、そう期待している。

 

 しかし。

 食い気味なメリーの問い掛けに対し、レミリアが提示した答えは。

 

「死んだよ」

 

 どうしようもない、結末。

 まるで、何事でもない出来事であるかのように、ただ淡々と。

 

「唯一『死霊』からの転生を果たした魂の持ち主は、既に生命を散らしてしまっている。とっくに死んでしまっているのだよ」

「死ん、だ……?」

 

 一体、何を言っているんだと。メリーの声からは、そんな感情がはっきりと伝わってくる程だった。

 その思いは蓮子も同じだ。レミリアがあまりにも自然に言うものだから、何かの冗談ではないのかと。

 

「な、何なのよ、それ……。もう、死んでるって……?」

「ああ。そう言っているだろう?」

「……っ」

 

 いや、待て。

 その『死霊』から転生を果たした魂の持ち主とやらが、メリーと対を成すもう一つの鍵ではなかったのか。けれどもその人物は、現時点で既に死んでしまっているという。それでは、その時点でレミリアの計画は既に破綻しているという事にならないだろうか。

 訳が分からない。全くもって、理解不能で──。

 

「案ずるな、人間。我々の計画に支障はない」

「え?」

 

 そして。

 そんな状態でレミリアから語られる話は、もっと信じ難い内容で。

 

()()()()だ。『死霊』から転生した魂の持ち主……。その人物は、死を迎える事で初めてもう一つの鍵と成り得るのだから」

「……っ。は……?」

 

 ひやりと。冷たい何かが背筋に触れるような、そんな感覚を蓮子は覚えた。

 

「いや、寧ろ死んで貰わないと困るとでも言った方が正しいか。だが幸いな事に、この基準世界において、その者の死の運命はある程度決まっていた。後はこちらが余計な手を出さなければ、自然とその運命は収束してくれる。──計画は順調だったよ」

「ちょ、ちょっと……。ちょっと、待って……」

 

 思わず蓮子は言葉を挟む。

 価値観の根本的な違い。それを明確に見せつけられて、頭の中が混乱していた。

 

「それじゃあ、何……? その人が死ぬのが判ってて、だけど貴方達の計画には必要な要素で……。だから、見殺しにしたって……? そう言っているの……?」

「……まぁ、結果的にはそうなるな」

「なっ……」

 

 何だ。何なんだ、この少女は。

 目的の為なら手段を選ばないと、つまりはそういう事なのだろうか。例えそれで、誰かが死ぬ事になろうとも。それでも構わないのだと、そう思っているのだろうか。

 

「おいレミリア。それはあまりにもぶっちゃけ過ぎじゃないか?」

「ククッ……。誤魔化した所で何もならないだろう?」

「それは、そうかもしれないけどさ……」

 

 魔理沙が何やらレミリアを宥めている様子だったが、そんな会話の内容なんて蓮子の耳には届かない。彼女の頭の中に存在するのは、酷い困惑。

 

 判らない。判らなくなってきた。

 レミリア・スカーレットというこの少女が、実際のところ何を考えているのか──。

 

「あ、あの……!」

 

 そんな中。気丈にも声を上げたのは、メリーだった。

 

「その人……。もう死んじゃったというその人は、一体どんな人だったんですか……?」

 

 きっと彼女だって、その心境は蓮子と似たような状況であるはず。

 だけど、それでも彼女は答えを求める。

 

「私と同じ、鍵なんですよね……?」

 

 いや。求めているのは、救いだったのだろう。

 どうしようもないこの状況。底の知れない不安感。──自分という未知に対する、恐怖。それから逃れる為の希望が、少しでも残されているのなら。掴み取りたいと、メリーはそう思っていたのかも知れない。

 けれど。

 そんな行動は、いつだって最善の結果を手繰り寄せられるとは限らない。藪をつついて蛇を出す結果だって、往々に──。

 

「どんな人、だったか。そうだな、少なくとも悪人ではなかったと思うぞ」

 

 そして。

 レミリア・スカーレットは、語る。

 

「その人物は、病気や事故で生命を落とした訳ではない。言うなれば、人助け。──護る為に、死んだ。自らの生命を犠牲にしてでも、護り抜きたかったという事なのだろうな」

「自らの、生命を……?」

 

 その人物は、自己犠牲の末に生命を落とす事になったのだと。

 

「その人物が死んだのは、今から一ヵ月ほど前の事だ。人間換算では、丁度お前達と同じくらいの年齢──。まだまだ若いな」

「私達と、同じくらい……」

 

 レミリアは語る。

 その人物が死んだのは、今から一ヵ月ほど前。当時の彼は、まだ大学生程度の年齢だったのだと。

 

「だが、中々に根性のある人間だったぞ。あんな脅威を目の当たりにすれば、普通は逃避を選択する。放っておけば多少は長生き出来たものを、それでも彼はあの女を見捨てなかったのだからな」

 

 レミリアは語る。

 その人物は、一人の女性を庇って生命を落とす事になったのだと。

 

「まぁ、幾ら『死霊』からの転生体とは言え、それでも生命ある人間である事に変わりはない。──『死霊』に襲われれば、簡単に死ぬ」

「……」

 

 ──『死霊』によって、殺されたのだと。

 

(えっ……?)

 

 一瞬、蓮子の息が詰まった。

 一ヵ月前。『死霊』。女性を庇う。死。──何だ。何なんだ、この符号は。おかしい。有り得ない。だけど、こんなの。

 

 動悸が徐々に乱れてゆく。蓮子の中に、再び先ほどと同じ感覚が蘇る。心当たりがあるような。後一歩の所で、答えに辿り着けるような──。

 だが、この感覚は先ほどよりも強烈だ。心当たり、等という生半可な感覚ではない。

 確信。それが否が応でも膨れ上がってゆく。

 

 でも。

 

(そ、そんな……。い、いや、でも……。そんなのって……!)

 

 有り得ない。有り得る訳がない。有り得るなんて、あってはならない。

 

 否定。否定、否定、否定。拒絶だ。こんなのはきっと偶然。たまたま符号が一致したに過ぎない。そう、何度も。何度も何度も、蓮子は自分に言い聞かせるのだけれども。

 ()()()

 偶然? 馬鹿な。一体何を考えている?

 自明の理ではないか。こんなにも、寸分違わず一致するなんて。偶然で片づけるには、些か──。

 

「な、何、を……」

 

 震える声が聞こえる。

 メリー。酷い表情だ。知りたくもない真実に辿り着いてしまったような、そんな雰囲気。

 ああ。でも、蓮子だって人の事は言えないだろう。きっと自分だって、同じくらい、酷い表情を浮かべているはずだから。

 

「何を、言って……」

「……ふむ? 何と言われても、もう一人の鍵の事を知りたいのだろう? お前がそう言ったのではないか」

 

 レミリアの声が聞こえる。だけどどこか、現実味のないような。壊れたスピーカー越しに音だけを拾っているかのような、そんな感覚を覚えてしまって。

 

「ククク……。やはり、私から態々語る必要などなかったな」

 

 だけど。

 

「お前達は既に、直接その目で見てきたのだろう?」

 

 だけどなぜか、その真実だけは。

 

「その人間の生き様。──そして、死に様を」

 

 嫌なくらいに、蓮子の頭の中に直接伝わって来て。

 

「お前達も良く知っているはずだ」

 

 逃げられない。逃げる事など、許さないのだと。

 そう、()に。直接訴えかけられているかのような、そんな気がした。

 

 

「──岡崎進一」

 

 

 響く。

 

「その人物こそが、片割れの鍵」

 

 響く、響く、響く。

 心の奥のそのまた奥まで、どこまでも。

 

「『死霊』から転生した魂の持ち主だ」

 

 これこそが、運命の収束なのだと。

 この基準世界が用意した結末の一つだと、そう言うつもりなのだろうか。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。